ひよりは、たったひとつ欠けただけで、すべてが変わってしまった廊下に立ちつくしていた。
周辺に漂う、腐泥の臭い。
足下には割れたガラス。
そら恐ろしいほどに、きらめいている。
それと同じ光景のことを、歴史の本で読んだような気がした。治安が乱れて一部住民が暴動を起こし商店や銀行を襲う。店の中や歩道に残骸やガラスが散乱する。奪われた金品を巡って醜く争う人々が消え去った後に残されるのは、破壊の爪痕。月に照らされるガラス。
だが、それは、不思議と静かにきらめき光っていて、まるで水晶のように美しかった、と。
今も同じ。破壊の光が散り敷かれている。取り返しの付かぬ後悔の涙のあとだ。
ひよりは、ゆっくりと振り向いた。
一磨と、獄文字乙女が、食い入るようにひよりを見つめている。
声もなく、責めている。
じわり、涙がこみあげてくるのを感じた。
「姫乃ちゃんが……いなくなったのは……」
かすれた声で、うめく。
ロッカーがすさまじい力で押しつぶされている。外れた窓が落ちている。階段の手すりが壊れている。壁一面に、ぞっとする爪痕めいた傷がいくつも走っている。
べたべたと無数に残る黒ずんだ足跡は、人のものにあらず。
これが、逃げようとして逃げ切れなかった、”現実”。
「ぼくの」
声がとぎれる。
「ひより、てめえ……！」
一磨が声を荒らげ、駆け寄ってこようとした。その肩を獄文字乙女が掴む。首を振る。
「御桜ひより」
一歩前へと進み出た獄文字乙女の隻眼は、ゆらめく炎を宿していた。手に光る刀を提げたまま、低く言葉を継ぐ。
「今一度問おう。お前は、今、何処へ行きたい」
「……何処へ……って」
ひよりは、呆然と繰り返した。
かすみがかったように鈍くよどみ、漠然とぐらついていた意識が、さらに風を受けて吹き消されそうなほどに揺らいだ。
乱れる呼吸の音だけが聞こえる。
後悔すればするほど頭が混乱する。
自分が、何をすればいいのか分からなくなる。
考えろ。
悲鳴のような声が聞こえた。
考えろ。
もっと。もっと。
自分が何をしたのか。
なぜ、こうなったのか。
考えて、感情も、脳みそも、身体中のすべてを振り絞るほど考えて、考え抜いて。
答えを出せ。
――自分自身で。
闇の向こうに炎が一つ見えているような気がした。消えゆく姫乃の声は、今にも途絶えそうなほどにかぼそい。それでも、まだ聞こえている。見えている。闇の彼方から伸びる幻影の糸、約束の赤い糸が。
今にもちぎれそうに伸びきっている。一歩でもためらって後ずされば、その瞬間に消え失せてしまいそうなほど、細く、つたなく。
「もし……僕が、逃げたら、姫乃ちゃんは」
誰も答えない。
しん、と闇に浸る静寂がその場を支配する。
一磨も、獄文字乙女も。無言でひよりを見つめていた。だがきっとそれこそが言わずもがなの答えなのだ。百の贅言を尽くすよりも残酷な、雄弁なる沈黙。
自分が逃げたら、姫乃は。
「姫乃ちゃんは……」
ひよりは爪が掌に跡を残すほど強く拳を握りしめた。
答えの在処は。
ひよりは、涙で情けなく汚れた顔を、袖でぐいと拭いた。眼を瞬かせ、唇を噛む。
ともすれば震え出す拳を、意志の力で必死に押さえつける。
握りしめたこぶしを、ゆっくりと開く。
姫乃が残した赤い毛糸は、ひよりの手の中で、湿って、くしゃくしゃになっていた。
「姫乃ちゃん」
掌中の赤い糸が、とぎれとぎれの声を伝えてくる。
時間は刻一刻と過ぎてゆく。
迷っている時間は、ない。
「獄文字先生」
こみ上げる声にともすれば混じってこようとする涙を、喉の奥で噛み殺す。
ひよりは獄文字乙女を振り返った。獄文字乙女もまた、ひよりを見返した。手にした鬼刀光月の発する妖気が腕を伝い、獄文字乙女の姿を血の月の色に染めている。
獄文字乙女は、”何処”に行きたいか、を問うた。ならば答えは――ただひとつ。
ひよりは獄文字乙女を真正面から見上げた。
「姫乃ちゃんを助けに行かせてください」
ためらいを振り捨てた声で。
迷いを、一閃する。
「その刀を……運命を切り開く力を、僕にください！」
世界が反転したかのようだった。追われ逃げまどうだけだった闇が、追いつめ、取り戻す光に変わる。
「そうか」
ひよりの言葉を聞いた獄文字乙女は、ふ、と相好を崩した。虚勢を張ったような肩を力なく落とし、安堵のためいきをつく。
「……行ってくれるか」
安心して気がゆるんだのか。獄文字乙女はさらに笑おうとして口の端をふるわせ、失敗して苦々しい舌打ちをした。
「ありがとう、ひより。その言葉を待っていた」
言ってから、急いたようにしらじらしく顔をそむけ、目の縁を指の背で拭う。
「姫乃が心配だ。行くなら急いでくれ。ぐずぐずするな」
先に歩き出そうとして肝心なことを忘れていたのを思い出したのか。獄文字乙女は手にした刀を見下ろし、慌ただしく揺すって確かめてから、ぽい、と何気なくひよりへと投げやった。
「受け取れ」
ひよりは手を伸ばし、飛んできた刀を空中で掴み取った。ずしりとした金属の衝撃が腕に伝わる。
重々しい音が鳴る。
鬼刀光月。ほぼ、初めて触れるものであるにも関わらず刀は、不思議なほど手にしっくりとなじむ。まるで長年使い込んで腕の一部になったかのようだった。
鞘の奥、刃に秘められた挑発が、今まで感じたことのない感覚となって伝わってくる。
ひよりは鞘の上からぐいと刀を握りつぶした。
荒ぶる猛りが逆巻く。手に鬼火がまとわりついた。と、同時に、魂を揺るがせる共振が這いのぼる。
「今はまだ抜くな。一度抜いたら、浴びるほど血を吸わぬ限り、決して元の鞘に戻ろうとせぬ外道の刀だ」
獄文字乙女は、ピンヒールの音を鳴らしてきびすを返した。
「ついて来い。異界の入り口に案内してやる」
校舎を出て中庭へと回る。外はすっかり夜だった。月が上がっている。
さわ、さわ、とせせらぎの夜風が木の葉を揺らしている。獄文字乙女が歩み入ったのは、驚いたことに見覚えのある場所だった。
気を失ったあと、目を覚ました保健室から見えた光景だ。
あのときは、ずいぶんと和風趣味だな、と思っただけだったが。
庭の隅に、ぐしゃりと踏みつぶされて折れた木の枝が突き刺さっている。ひよりは折れた枝に近づき、手に取った。
小指にはめた姫乃の毛糸が、見えざるものを視せてくれる。聞かざるものを、聞こえるようにしてくれる。
手をかざすと、曇りガラスを通したかのような、半分ぼかした景色が見えた
つぼみをつけた枝の先から霊気が立ちのぼっている。九十九の声が、あざなえる気流の渦を巻き、闇に伸び、青白い燐光を放つ白い花を咲かせている。たゆたう清浄の余香。
この世のものにあらざるくちなしの花が、芳醇に咲き誇る。闇へと続く香りの道しるべだ。
それは、踏みつぶされる寸前に木の枝が見た光景だった。
汚らわしくも群がる灰色の鬼の手に蹂躙され、人形のように担がれて運ばれてゆく姫乃の姿が見える。
顔色は悪く、くちびるは青白く、眼は閉じられたまま。ぬばたまの髪はしとどにみだれていて、あまりにもいたましい。
どうか、無事でいて――そう願うたびに見える恐ろしい光景に、ともすれば心が折れそうになる。
ひよりは唇を噛んだ。
自分が逃げてばかりいたから、姫乃は、鬼を討ち払うことができなかった。それは、いくら悔やんでも悔やみ足りない過ちだ。だが今さら後悔の繰り言ばかりを何百と連ねても、前に進むことはできない。
必ず取り戻す。絶対に助ける。
そう、決めたのだ。
ひよりは光月を握る手に、ぐっと力を込めた。魂を奮い立たせる。だが……
「あとはひよりに任せればいいというのも楽でいいな、一磨」
「はっ、御屋形様！」
「そう言えばこの衣装、お前にはまだお披露目していなかったな」
「はっ、御屋形様、今にも乳がはみ出そう……げぶあっ……いえ、超クールでいらっしゃいます！」
「うむ、なにせ俺の手作りだからな。材料費も結構かかっている。よかろう、そこの変態カメラマン石川一磨、記念に俺の写真を一枚、撮らせてやる。良きに計らえ」
「は、はひぃ御屋形さま、有り難き幸せに存じまする……ああっその挑発する視線ったまんないっす……くっはぁっ腋の下からよこちちへのラインがびくんびくんっッ……！」
一磨はフラッシュをばしばし焚きながら獄文字乙女の周りを変幻自在に出現し撮影しまくっている。
やる気が削がれること、この上もない。
「って、もう、そこで何やってるんですか！ ひとがせっかく、生まれて初めて本気で頑張るって決めたのに！」
「心霊写真部の活動に決まってるだろ」
「この状況でよくそんな余裕がありますね！」
「何を言う、心霊写真は俺のライフワークだと言っただろうが。見ろ、このすさまじい心霊写真っぷりを。乙女ちゃんのおっぱい周辺、めちゃくちゃ浮遊霊が群がってる。くそ、いやらしい霊どもめ。うじゃうじゃたかってんじゃねえよ」
「ふふっ、一磨、相も変わらぬえげつないアングル、健勝で何よりだ」
「はっ、お褒め頂き恐悦至極に存じまする」
「ぜんぜん褒めてないと思うんですけど」
「何だとテメエいちいち細っけえ奴だな。だいたいだな、辛気くさーい心霊写真と、乙女ちゃんの超！ ばいーん！ な、ぷるんぷるんジューシー果汁たっぷりな悩殺おっぱいと！ どっちがエロいと思ってんだよ！」
「……いいんですか？ 心霊写真部の存在意義を自ら全否定して？」
「馬鹿野郎、男なら全力でおっぱいと言えーーーッ！」
「うわあ言った！ この人マジで断言した！」
「あっ」
一磨はほんのちょっぴり照れて頬を赤らめた。
「言っちゃった……」
「言っちゃったじゃないですよーッ！」
「よく言う。ひより、お前こそ……俺にあんな恥ずかしいことをさせておいて」
獄文字乙女はふと、身をくねらせてしなをつくり、ひよりのほっぺたを、指先の爪で、くに、とつついた。紅く紅を掃いた瞼を伏せ、ふっ、と笑う。
「そこまでの……屈辱を味わわされた相手は……お前が初めてだぞ？」
婀娜めく甘ったるい吐息を、首筋へかすめるようにして吹きかける。
「ひゃっ……！」
あわてて逃げようとのけぞったひよりの首に、今度は一磨が食らい付いた。
「うおお！ 乙女ちゃんのフェロモン！ 寄こせっ俺が舐める！！」
「うわあっ来ないで！ 一磨くん、理性！ 理性ッッッ！！」
「落ち着け変態」
ふっ。今度は、傍らの石灯籠に息を吹きかける。つられて一磨は石灯籠にかぶりついた。
「ぶほっッこの冷たさと堅さがたまらん！ 乙女ちゃんに罵倒され蹴倒されて踏みにじられる時の靴の裏の感触と一緒！ あひゃひゃぁんもう辛抱たまらんっ乙女ちゅわぁあ〜〜〜んっ！」
石灯籠相手に、くねくねとほおずりしている。
「靴の裏……？」
「うむ。腕は立つがあいにくのド変態でな」
獄文字乙女は美しい眉をひそめ、身も蓋もなく断定した。腕を組み、憐憫のまなざしをくれて首を振る。
「どうやら調教しすぎたらしい。役に立つ下僕ではあるのだがな。あたら惜しいことよ」
そう言えば一磨は確か、獄文字先生に拷問されたがっていたような気が……とか何とか思い出してひよりはぶんぶんと頭を振った。その発想はあまりにもベストマッチングすぎて逆に危険だ。
「と、とにかくだ」
少し理性を取り戻したらしい。一磨は石灯籠から離れ、はたはたと制服の裾をはたきながら咳払いした。
「最初から霊を撮ろうとして撮れちまったら霊のほうもカッコ悪いだろ」
「それにしてもこの扱いはひどいです」
「うッせえ心霊乳首写真のレタッチ方法も知らんくせに一丁前のツラして語るんじゃねえッ」
「ふっ、青いな一磨。よかろう、その若さに免じて俺の霊息を注入してやる。ふっ。ふっ。ふっ」
「ふおおおお乙女ちゃんの吐息が耳に耳に耳にっぃぃぃ……ぶぴーーーッ！」
「あ、鼻血吹いて失神した」
「ちーん……エロ忍石川一磨、ここに眠る……」
「待て、埋めるな！ 線香焚くな！ 石碑置くなッ！！」
「わあっ近づいてこないで鼻血怖い！ 血まみれこわい！」
「さて、準備運動はここまでだ。一磨、戦闘配置につけ。先に進むぞ」
獄文字乙女は凄味のある薄笑いを残し、庭を赤い爪で指さした。
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