そのとき。
激しく水蒸気の噴出する音が聞こえた。四方八方にまぶしい光がまき散らされてゆく。
ロープが飛んできてひよりの手首にからみついた。
「な、何……！？」
ひよりは光月を左手に持ち直した。眼をかばう。吹きしぶく突風にあおられ、身体全体が激しく揺れ動く。
「プピ、しっかりプピってろ！」
「一磨……！」
ひよりは半泣きの眼をこぶしでこすり、笑った。相変わらずハウリングがうるさい。
「飛ピッ！」
「……はあっ！？」
威風堂々、後光を背負って光り輝く武者乙女ちゃんパワードの姿が見えた。背中に背負った四角い箱状のジェット水流推進装置から四本の突起が生え、黄金色の蒸気を吹き出している。
「見よ、こんなピーもあろうかとプピー噴射プピー！」
武者乙女ちゃんパワードが、飛んだ。頭上を一気に飛び越えてゆく。ロープをたぐり上げながら一磨が手を伸ばした。
「掴まれ、ひより！」
ひよりは差し伸べられた一磨の手をはっしと掴んだ。腕にしっかりと抱きかかえられる。
「一磨くん……ほんとに、ありがとう……変なロボットとか言って、バカにしてごめん！」
風の吹き巻くなか、一磨は意気揚々とうなずいた。にやりと笑う。
「この俺を誰だと思ってる。伊達に毎週早起きして特撮バトルの研究をしてたわけじゃないんだぜ！」
「うん、すごいよ、一磨くん……！」
「プピピピピ！」
武者乙女ちゃんパワードは、笑い声と共に空高く舞い上がった。けたたましい汽笛を吹き鳴らし、黄金色の聖なる水……ではなくジェット水流の放物線を描きながらゆうゆうと飛び続けている。
はずだった――のだが。
ぷすん。
「あ」
なぜか、かすれた音を立てて噴射推進装置が止まる。
「あれっ」
「すまねえ、ひより」
ぱたん、と観音開きのキャノピーが開いた。顔を見合わせる。なぜか、顔が青い。
「燃料が切れた」
「ええええーー！」
というわけであえなく墜落してゆく。
「ちょっ……いい加減にしてくださいよ、何ですかこのぽんこつ」
「乙女ちゃんパワードに向かって何だてめえその言いぐさは」
「ちゃんと最後まで飛んでくれりゃ文句なんか言わずに済むのに」
「うっせえ、デケェ口きいてんじゃねえよバカひよのくせに。はんっ、テメエなんか助けんじゃなかったぜ！」
「あっそーですか悪かったですね獄文字先生じゃなくって！」
「ふん！」
「ふんっ！」
ひゅるるる、と落ちて。
着地失敗。見事大爆発を起こす。さんざん罵倒し合いながらも互いに支え合い、煤だらけの顔で這い出す。
落ちたところは――闇だった。
暗い小径が続いていた。周辺は鬱蒼とした暗い竹林。ひよりは、光月を前方へと差しつけた。
空間が、ぐにゃりと筒状に曲がっている。さながら魁偉な蜃気楼を夢に見ているかのようだった。
ゆがんだ空間の狭間が、遙か彼方にまで続いている。
「獄文字先生の姿が見えないけど」
ひよりは四方を見回し、声を押し殺した。左右の景色がむりやり前方へとねじ曲げられている。
置き去りにされたような不安がこみ上げた。
「大丈夫かな……？」
「俺らごときに心配される乙女ちゃんじゃねえよ」
一磨が肩をすくめる。
「ならいいけど……っていうかちょっとぐらい待っててくれればいいのに」
たちまち身の危険はない、と分かって、すこしは安心する。それでも心許ないことに代わりはない。
ひよりは行く手を見やった。遙か先の闇から、九十九たちが道案内する、もの悲しくもぞっとしない笑い声が響いている。
おそるおそる、ゆがんだ異界の径を歩き始める。あり得ない形に引き延ばされた石段が、どこまでも続いていた。注連縄に護られた鳥居をくぐる紅い光だけが、正しい道を指し示している。
「姫乃ちゃんが大変なことになって……なのに、こんなこと言って良いかどうか分からないけど」
ひよりは、ぽつりと口を開いた。
「僕、獄文字先生にこの学園に連れてきてもらって、本当によかったと思ってる」
隣を歩く一磨以外に聞く者はいない。
「格好悪い、恥ずかしい、情けないとこ、泣きわめいてるとこをさ……全部見られちゃったけど、」
「うん」
ひたすら石段を登る足音だけが、闇に吸い込まれてゆく。手にした光月は、ぼんやりと生ぬるい微光をしたたらせていた。
「でも、そんなふうに自分の気持ちを他の人の前でさらけ出せたことなんて、考えたら、今まで一度もなかったんだ」
そう、今みたいに。
ひよりは、自分の中にある思いを、少しずつ言葉にしてゆく。
適当なことを、とりとめなくしゃべるのとは違って、考えをまとめながら感じたことを言葉にして話すのは、やはり難しかった。
上手にしゃべるとか、何かを感じ取ってもらえるようにしゃべるとか、そういうレベルではないことも自覚している。自分の言いたいことを間違えないようにするだけで精一杯だった。
思いを、口にする。
たったそれだけのことが、もどかしくて。
「うん」
一磨は言葉少なにうなずくだけだ。
「自分を守ることだけでずっと精一杯でさ。今までの、ちっぽけで空っぽな自分だけの世界に必死にしがみつこうとしてた。自分だけが外に放り出されると思うと怖くてたまらなくて、一磨くんのことまで……疑ってた。ごめん」
「でも、今は違うんだろ。こうやって、ホントのことを話してくれるんだから」
「うん。だから、一磨くんが……うらやましいな。僕には、ずっと、友達って言える人はいなかったけど。一磨くんや、姫乃ちゃんや、獄文字先生見てるとさ、本気で信頼しあってるんだなって――思ったんだ」
ひよりは弱々しく笑った。
「こんなこと、先生には言えないし……姫乃ちゃんにも絶対に知られたくないけどさ……ずっと、怖かったんだ。人の眼が凄く怖くてさ……周りから自分がどんなふうに見られてるんだろうって思ったら、もう、身体が動かなくて。何もできない、何も知らない、下手に何かすればきっと責められる、嫌われるって……一人で勝手に思い込んで」
「うん」
「クラスでだって、一磨くんがいなかったらまた押しつぶされてたかもしれない。自分で自分を押しつぶしてることにずっと気がつかないまま」
「お前は強いよ。自分で気が付いてねえだけだ」
「そんなことないよ……」
一磨はにやりとした。ひよりの背中を力いっぱいにどやしつける。
「あんまり難しいことばっか考えてんじゃねえ。将来ハゲんぞ？ お前ならできる。何でも、まずは適当でいいんだからよ、とにかくやってやんぜッ！ ってえとこから始めちまえばいいんだよ。自分で自分に言い聞かせるんだ」
「うん」
「姫を助けるんだろ？」
「……う、うん、たぶん、」
ひよりは勢いに押され、苦笑いした。
「そのつもりではいるんだけどさ……」
「たぶんなんかじゃねえ。つもり、とか言ってる場合じゃねえんだ。助けるんだ、ひより。お前の手で、姫を！」
石段を上がりきる。一磨は気配を探る眼を四方へと配り、耳を澄ましてから合図を送った。
「うん」
ひよりもまた、前方の闇を見つめた。
きっとこの先に、姫乃は――いる。
奇怪な赤い火の玉がゆらり、ゆらり、飛び交っている。折れた卒塔婆が見えた。土砂に埋もれている。
ちりん
痛々しいほどにはっきりと、鈴が鳴った。風が吹き起こる。
墓石。べろりと濡れてちぎれた紙灯籠。石柱。折れた枝。生々しくえぐられた木の根。巨大な岩がそこかしこに生え、地獄の針山さながらの形で突き出している。
経帷子を着た骸骨が、しゃれこうべだけを墓に残してうつぶせている。聞こえる鈴の音。
とん、と。何かが――背中をつついた。
「何です、一磨くん」
ひよりはびくびくと首をちぢこめながら聞き返した。一磨は鋭い表情で周辺の気配に耳をそばだてている。
「何だよ、うるせえな。静かにしろ」
「あの、何か……」
「何かって、てめえだろ？ 用があるのは」
「……え？」
とん、とん。
また、背中をつつかれる。
「だからやめろっつってんだろ、それ。さっきから気味悪いから指の先でつつくんじゃねえよ」
「一磨くんこそ、驚かそうとしてわざとからかうのやめてくれませんか」
無意味に同じ事で諍いあう。やがて、互いに話がかみ合っていないことに気が付いた。
「俺、つついてねえぞ？」
「ぼ、僕だって」
「……？」
「……！」
「おいおい、いい加減にしろよ、冗談にしちゃタチ悪いぜおい？」
並んで歩きながら、ぼんぼんと乱暴に肩を叩く。
「もう、やだなあ一磨くんこそ、シャレになりませんよそろそろ？」
ひよりも負けじと一磨の胸を肘で突く。
「ははは、だよなあ冗談じゃねーっての！」
「まったくですよ、遊んでる場合じゃないんですから！」
必死の強がりに冷や汗を交え、互いに向かい合って腰に手を当て、あははははは、と声をそろえて大笑いする。
「だから、いーかげんにしろっつの！」
ひよりと一磨は、二人息を合わせ、互いに背中合わせになるよう勢いをつけて振り返った。
ぶらーん、と白い骨だけになった手が二本。
木の枝から逆さにぶらさがって。
風に、揺られて。
つん、つん、と。
「ひいいい……！」
ひよりは泡を吹いて卒倒しかかった。だが、異変はぶら下がる手だけではないことに気付く。
そこかしこで不自然な形に土の山が盛り上がっている。
地面にえぐられた無数の穴。
滴る水の音。くすぐるような笑い声。
倒れた墓石。鈴の音。
ぼこ、ぼこっ……、と。
やがて、周囲の地面、という地面から、地獄の釜の茹だるような音が聞こえてくる。盛り上がった土がくずれ、その下から。
手が。
骨が。
半ば埋もれたしゃれこうべが。
土を破って突き出し、一体、また、一体と腐泥の肉片を垂れこぼしながら起きあがっ――
「ぎゃーーーーーああああーーーッッッ！？」
「出たぁぁぁぁ！！！」
ちりん、と。
笑うような鈴の音が、耳をかすめた。
「……まったく、どこだここは」
獄文字乙女は、苦々しくつぶやいて立ち止まった。ぐしゃぐしゃと髪を掻く。
「あの下僕《ガキ》どもはどこへいった」
見渡す限り、原生の闇。
ほと、ほと、と、生ぬるく陰に湿った風に木の葉が擦れている。黒く揺るぐ影。鳴る風。濡れそぼつ草叢を踏み、ねっとりとぬめる土を踏む足音が近づいてくる。夜鳥が鳴く。異界にひそむものが、そこかしこから覗いている。
眼が、光る。
鬼火が、横切る。
「つまらん男どもだな。胎の洞橋一本、ろくに渡りきれず迷子になるとは」
当然、自分が迷子になっている側である、などとはまったく考える由もない。
「あいつらめ。どこほっつき歩いている。いちいち心配させて」
ため息をつき、改めて四方を見渡す。背後は切り立った黒い絶壁。振り仰いでも、頂上は見えない。
どこを、どうさまよってきたものか。
まっすぐ進んできたつもりでも異界の空間はそこかしこに事象の洞穴が開き、空間が捻れている。一歩踏み出せば不可視の道へ迷い込むこともある。そもそも、異界において道など在って無きが如しだ。望む者が望む場所を呼び、望む場所が望む者を喚び寄せる。それが異界。
「……さては俺も喚ばれたか？」
周囲に隻眼を走らせる。獄文字乙女は考え事をするかのように腕を組み、指先をあごにあてて、首をかしげた。
背後の岩肌に手を滑らせ、座れそうな窪みか突起を適当に探し、ぞんざいに腰掛ける。
エナメルのニーハイブーツを履いた足を、傲岸に振り上げ、高い位置で膝を組む。見え隠れする白い肌が闇夜にほんのりと甘い毒香を放つかのようだった。
風が、ひそやかな視線を連れてくる。獄文字乙女はうすく唇を吊り上げた。
「無駄に歩き回って体力を消耗するのも馬鹿らしいな」
伝法に片膝を立て、岩に背中をあずけて、手を枕に眼を閉じる。
「しばらく休むとするか」
くろぐろと這いずる影が音もなく足下に忍ぶ。
粘液を踏みつける、ねばついた音。
下卑た息が断続的に重なって吐かれる。
近づいてくる。
不格好に背を丸め、半ば這い、半ば足を引きずって忍び寄ってくる異形の影。
ハァ……ァァァ……
臭う……
女の臭い……
獄文字乙女はわずかに眉根を寄せ、眼を閉じている。周囲の異変に気づいている様子もない。それどころかかすかに寝息まで立てている。
黒ずんだ毛むくじゃらの手が、投げ出されたニーハイブーツの先に触れた。
べっとりと汚物がつく。
粘液の手がびく、と闇に引っ込んだ。獄文字乙女が気づいていない、と分かるや大胆になってべたべたとまさぐり、膝上へとのぼってゆく。
手は、やがて二つに増えた。三つに増えた。
ファスナーを探し当て、いじりまわし、ブーツを脱がせてゆく。
おお……
足だ……
おんなのあし……
ハァハァ……ハァハァハァ……へへ……臭うぜ……
もっと……
もっと……ぬがせ……
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