黒い、いやらしい、ぬめる光をしたたらせるものが、うねり震えながら獄文字乙女に近づく。
それでも眼を覚まさない。
黒いものどもは、互いに汚れた顔を見合わせた、かと思うと我先に女を食らいつくさんとばかりに飛びかかった。
たちまち醜い争いが繰り広げられる。獄文字乙女の首に手を掛けるもの、胸元を引きちぎるもの、舐めずれるものならばどこでも良いとばかりにむしゃぶりつくもの。
獄文字乙女の身体は、たちどころに異形の鬼に食らわれ、欲情のうめきに侵しつくされてゆく。
「それ……美味いか？」
ふっ、と臈長けた甘い声が頭上から降る。
（がっ？）
異形の鬼どもは、顔じゅうをプラスチックの粉だらけにしながら動きをとめた。
（なんだ いまの）
（おんなの こえ した）
頭上より降る声はなおいっそう、嘲笑の色を帯びてゆく。
「シリコンのラブドールなんぞ食って美味いのかと――聞いている」
頭上の枝に、鞭をからみつけてぶら下がっていた影が、冷ややかな侮蔑の視線とともに音もなく舞い降りてきた。
（ぎゃっ）
なまめく足が回し蹴りのように旋回する。
獄文字乙女は着地するなり、深紅の鞭で異形の群れを切りなびけた。
風を切る刃の音が頸を刎ねる。腕を飛ばす。
異形の鬼どもは、瞬時にばらばらの肉片と化して霧散霧消した。
汚泥の飛沫が飛び散る。
べちゃっ、と音を立てて、鬼の屍骸が跳ねた。
上空から盗み見ていたらしい漆黒の死肉漁りが破れ羽根を尖らせて急降下してくる。無数に集まってきた黒羽が鬼の屍骸をつつき荒らした、かと思うと、一瞬で血だまりだけを残して飛び去った。
があ、があ、があ、
割れ鍋を叩くような啼き声が響き渡っている。
があ、があ、
だが、突然。
すべての音が途絶える。
何も聞こえない。
風の音。ざわめきの音。
すべて、吸い取られる。
獄文字乙女は、妖気を帯びた深紅の蛇鞭を手に闇を見遥かした。びゅっと血振りして鞭先の汚泥を振り落とす。
「来たか」
かすれた笑みを口の端に作り上げる。
邪魔だ
消えろ
澄み切った鈴の音が転がり鳴る。
「消されるのは貴様だ」
鞭を一閃する。
ざくりと音を立てて闇が切り裂かれた。あやかしの幕を切って落としたかのように真一文字に横に裂ける。
闇は深紅の裏地を見せて、べろり、と剥がれ落ちた。
向こう側に顔のない少女が立っている。
少女の顔の部分は、影をまといつけたような霧に紛れ、ほとんど見えない。
ただの影ではない。
顔から流れ出した霧は、少女の身体を伝い、足下に落ちて、不気味な形に寄り集まりながら揮発し、立ちのぼっていた。
「横井奈々歌と言ったな」
哀れみの声で、獄文字乙女はつぶやいた。
その姿は、もはや、かつて横井奈々歌であったころの少女とは似ても似つかぬ。
怨念の火にあぶられた水墨画のように、黒ずみ、すすけ、かすんでいる。でありながら、少女が未だ固執してやまぬのであろう野暮ったい女子高生の制服だけは変わらぬままだ。
”鬼”の影をまといつけた制服姿。
少女から垂れおちる冷たい霧が、影と重なり、風に吹き流され、ゆらり、ばさり、と。
背後に巨大な因果の闇をうちひろげてゆく。
「……鬼に魂をつかまれたか」
邪魔 させない
わたしが トップに なるの
いちばんは わたし
顔のない少女は、洞穴のようになった口を開けた。黒い霧が、ごぼり、とこぼれおちる。生臭い風が吹き出した。
獄文字乙女は、ゆるりと首を振った。
「確かクラス委員長だったな。成績優秀、まじめでおとなしくて中等部では常に成績トップ、生徒会の書記もつとめた。その経歴の何が不満だ」
わたしが いちばん に なる はず だったの に
「……姫乃が恨めしいか」
獄文字乙女の声は、普段見せる居丈高な態度とはまるで違い、ゆっくりと低く、おだやかで、荒ぶるけものをなだめるようだった。
「知らぬとはいえ無体なことを」
獄文字乙女は白い吐息をついた。敵意をむしろ憐憫へと変えて眼を閉じる。
「あれは……生まれてこの方、人に疎まれるだけの幸せなど一度たりとも手にしたことのない娘だぞ。だが、それを今のお前に諭しても通じはすまい」
思いを振り払うかのように、片眼を覆う眼帯に指をかける。
獄文字乙女は黒の眼帯をむしり取った。隠されていた眼をゆっくりと開く。
血の閃光を宿した鬼眼が、今まで見えていたものとは全く違う、異界の様相を透かし出した。
無数の折り重なる魂で作られた土。
無数のうごめく瑠璃の燐光が漂う森。
命と、命ではないものと、光と、光ではないものとが、風となり渦となり、目に見えぬ青白い気脈の流れをさざめかせる。
闇の奥で、昏く、愛おしく、籠絡の鈴が鳴っている。
顔のない少女は、もはや、人ではない異形に変貌を遂げていた。
毛むくじゃらの身体が。
のたうつ、びらびらとした触手が。
虫の、足めいた節足が。
ぐじゅ、ぶじゅる、じゅるり、真っ黒に開いた顔の洞穴から、餓えのたうつ悪鬼の群れが列をなし、這いずりだしてくる。
最後、口すらも消えた喉から黒い蹴爪の生えた手がぬうと突き出した。何もない空間を、がつがつと餓えたようにまさぐっている。
「哀れよな。人の身で外道に堕ちるか」
獄文字乙女は、黒と赤に染め上がった眼を妖輝に濡らし、ほそめた。
少女の秘め隠していた心の闇を見つめる。
深紅の蛇鞭を空に鳴らす。目に見えない邪気が討たれ、火花となって闇に散った。
「が、安心しろ。外道の鬼は、俺たちが責任を持って……ぶち殺してやる！」
「骸骨ーーっ！」
「ゾンビーーー！」
つま先から頭のてっぺんまでぶるぶると震い上がって逃げ出しかけた、その目の前に。
枝からぶら下がっていたガイコツの手が、がらがらがらーっ！ と、梯子から足を滑らせたようなものすごい音を立ててなだれ落ちてきた。骨一式が地面にぶつかってバラバラになり、足元にとっちらかる。
「ふんぎぃゃあああああーーーー！」
当然、大絶叫ものである。
最後、しゃれこうべがごろんごろん転がってきた。乱杭歯を剥き出し、ガッキンガッキン噛み鳴らして、目の前へとすっ飛んでくる。
「ホネぇーーーー！」
「出たあああああああッ！」
涙と鼻水を噴出させながら、二人そろって転がるように逃げ出す。
「うわああぁぁん……ッ！！」
どこに引っかかっているのか、数珠繋ぎになった一連の骸骨が、ガランガランとけたたましい音を立てて追いかけてくる。
「いやあぁぁーーぎゃーー成仏してーー早くぅーー！ ついて来ないでーーっ！」
「バカひよてめえ俺を置いて一人で逃げるんじゃネエーーーーッ！」
「何言ってるんです心霊写真部のくせにーーーーっ！」
「うっせェ怖ぇもんは怖ぇんだよッぎゃーー出たあっ！」
森の中へと逃げ込む。ひよりと一磨は、道なき道を突っ走りながら、互いに責任をなすりつけあっていた。
「前がぜんぜん見えませんよっ……！ どうするんですかっこんなところに入り込んじゃって！ マジで生きて出られませんよっ！？」
「そんなのあのガイコツに訊けよ俺のせいじゃねえっ！」
喚き散らす一磨は、どうしようもなくめそめそと責任転嫁に忙しい。
「だいたい、何だよあいつら！ 何で死体や骨やらが全員整列してこっちに向かってくるんだおかしいだろゲームじゃあるまいし現実感ゼロすぎんだろうがよッ……！」
「わあっ、また出たあっ！」
暗黒の森を踏みしだき駆け抜けてゆく、その騒然とする気配を追うかのように、人の形をした泥が、地面を割って盛り上がる。
一体。二体。三体――
いや、もはや、数などというこの世の秩序は意味を成さぬ。
骨のみのもの、土を肉としてまとうもの、おぞましくも破れ帷子をつけ、汚れきった黒髪を妄執の如く頬にべたりと貼り付けたままのもの、あるいは完全に溶け崩れ、腐り果てて、互いに練り合わされた異形となってのたうつもの、ヒトではない別の何かの死体に呑み込まれ、取り込まれ、狂気の腐塊と化したモノが――無数の泥柱となって立ち上がり、ひよりと一磨を追いかけて、ずる、ずる、と這いずり寄ってくる。
ひいい……
ひぃぇぇぁああぁぁ……
背筋の凍るような泣き声が、風にまぎれて追いかけてくる。
「ああんまた来たあっホネいやあっ何とかして下さい死道不覚悟とか言ってたじゃないですかーー！」
「もう戦うとかいうレベルじゃねーって！ あんなの相手にしてたら変な病気になるわ！」
聞き捨てならない。どたばたと逃げまどいながら、思わず聞き返す。
「ええっ、変態って感染るんですか？」
「移るかボケエ誰がヘンタイだ！」
目の前に、ぞろり、と。
また、数を増やして、死体が寄り集まってくる。しゃれこうべのあごが、けたけたと震え、笑う。中には落ちている首を拾って、小脇に抱えているものまでいた。
ひぃぃ……
ひぃぃ……ぎぃぁぁぁ……
骨が軋る。唐突に崩れ落ちてバラバラになる骨もある。おぞましい臭いが充満していた。
呼吸するたびに、喉へ、べっとりと悪臭が貼り付く。
吐き気がこみ上げる。
恐怖にすくんだ息が、白く、激しく立ちのぼる。
手が震え、足が震える。泥水を蹴って走る足先から、体感温度とは明らかに違う別種の冷たさが這いのぼる。
「ああ！」
突然、一磨は法外な声を上げて立ち止まった。
「あああああ！？」
わめくだけわめいた後、よろよろとよろめいてがくりと膝を付く。一磨は、顔を覆ってうずくまった。
「終わった！ 俺の人生が……終わった！」
「ちょ、ちょっと、一磨くん」
ひよりは焦って一磨を引き起こした。
「どうしたんですか」
「カメラ落とした！！！」
「はあっ？」
「俺のカメラだっ！」
目と鼻と口からどばあっっっっ！ とばかりに大量の液体を噴出させまくりながら一磨は号泣した。
「俺の命！ 乙女ちゃんの新作コスチューム！ えろえろばいーんな超！ 悩殺！ スプラッシュふぇろもんむちむちボディの奇跡を治めた俺の、俺の、俺の……カメラがーーーッ！」
「……」
「ゆるさねえ」
一磨は、つと凄絶な笑みを浮かべた。もはや正気の沙汰ではない。暗黒のオーラをまといつかせ、ゆらりと幽鬼のごとく立ち上がる。
「絶対にゆるさねえ！」
「ちょっ……！」
ひよりは冷や汗混じりに一磨を引き止めようとした。
「冗談でもやめてください、無茶です、そっちに行ったら……！」
「取り戻す……取り戻すぞ……俺は、絶対に……正々堂々、俺の乳輪をこの手に取り戻すんだァーーーーッ！！」
「高らかに宣誓するようなことですかそれがーーっ！」
「うおおおおお突撃ィィィーー！！」
「わっ」
あわてて引き止めようとした手を、力任せに振り払われる。ひよりは悲鳴を上げてひっくり返った。
「一磨くん、だめだってば」
「俺の……俺の……命よりも大切な真実のカメラを返せーーッ！！ カメラは、俺の命なんだ！ 返してくれよ……！ 大切なんだ……命よりも……俺にとってカメラは……！ カメラがなかったら、もう……生きてゆけねえよ……ッ！」
一磨は涙ながらに走り出してゆく。カメラを好きな女の子の名前に入れ替えて考えれば少しは感動的な台詞にも思えるかも知れないが、よりによって獄文字先生のおっぱい写真入りカメラを返せとか台無しも良いところである。
「ああっ、まったく何でこんなときに一磨くんの変態が発症しちゃうんだッ！」
ひよりはぐしゃぐしゃと髪を掻きながら首を振った。まともに筋道立てて考えていては間に合わない。
「まだ終わっちゃだめだ！ 助けにいかなくちゃ」
泥を蹴って立ち上がる。一磨の姿を探すまでもなく、声が聞こえていた。
「あ、あんなところに！」
「うおおおおおおお！」
号泣しながらも、除雪車さながらにガイコツをちぎっては投げちぎっては投げ。
敵の渦中へと躍り込んでいった一磨は、その恐るべき変態嗅覚によって見事カメラを探し当てていた。
「俺のカメラ、見つけたりーー！」
泥まみれのカメラを掴んだ手を、高々と突き上げる。それは燦然と輝く変態の証し。
そこで一磨はようやく、我に返った様子で周囲を見回した。
うじゃうじゃいる。まさに黒山のゾンビだかりといったところか。
みるみる一磨の顔がひきつった。赤くなったかと思うと次に真っ青になり、そのまま紫へと変色してゆく。
「しまった、罠か」
背筋まで凍える冷や汗が流れ落ちる。
ガイコツの群れが、ぐわり、と笑った。はずれかけのあごをカタカタ言わせながら、這いずる歩みを速め、けものとも、ひとともつかぬ奇怪な姿勢で一磨を取り囲んでゆく。
「一磨くん、脱出してください……！」
ひよりは沼の泥を跳ね散らして駆け寄ろうとした。
「それが動けねえんだよ」
一磨の、力ない声が戻ってくる。
「沼に足を取られちまった」
「諦めちゃ駄目です」
何度も前のめりにつまづきながらも、ひよりは一磨めがけて泥の中を進んだ。
「さっきのあの勢いはどこに行ったんですか、乙女先生パワードで僕を助けてくれたときの颯爽とした勇姿は」
じりじりと包囲の輪が狭まってくる。
「だめだ、来んな、バカ、てめえまで巻き込まれる」
一磨は腕を振って振り払おうとした。歩く死体の群れは、ぎちぎちと奇怪な呻き声を上げた。
骨を軋ませ、腐肉の泥を撒き散らして、一磨に迫る。
「一磨くん」
ひよりはとっさに一磨へと駆け寄ろうとした。
足を、沼に取られた。何かに足首を掴まれている。
「わ、あっ！？」
、意志を持ったかのようにあふれかえり、へどろのかたまりとなって動き始めた。無数の骨の手が生えている。
「しまった！」
こぼれ落ちる泥に呑み込まれそうになる。轟音が目の前を遮った。あふれ返る土砂には、倒木や大小様々の岩に加え、墓石や骨壺、らしきものまでが混じっている。
「ひっ……！」
一磨の姿が泥流をかぶる。その身体に、ガイコツの手がからみついているのが見えた。がくり、と膝をついてよろめく。
「一磨く……！」
泥の中でも光月だけは手放すまい、としがみつく。
ひよりは渾身の力を込めて沼を踏み越え、半ば泳ぎながら一磨の傍へと駆け寄った。手を掴む。
ずるり、と手が滑る。足首を何かが掴んだ。
ごぼごぼと煮えたぎるような音が耳元で渦巻く。
口の中にまで泥が入り込んでいた。吐き気がこみ上げる。
「ちくしょうっ、この骨どもがっ」
一磨は泥だらけのカメラでしがみつくガイコツを殴りつける。朽ちた骨はもろくもくずれて泥にまみれた。
だが、骨の手は、どんなに倒しても倒しても、減ってゆく様子もなかった。それどころか、ますます数を増し、沼から生えて、からみつくように伸びてくる。
「あ、あっ……！」
ひよりは完全に抱き潰されて地面にぶっ倒れた。
顔に、泥が跳ねかかった。
「うっ……！」
いくつもの手が身体にかかる。足首を掴まれる。喉をまさぐられる。肘を取られ、ねじ上げられる。
「く、くそっ……！」
ひよりはずぶずぶと泥沼に呑み込まれてゆきながら、むなしくもがいた。
手にした光月が残忍に光っている。
抜けば、”戦える”。
殺せる。
なのに、なぜ、抜かない？
泥にまみれていながら妖輝を失わぬ刀が、そうささやいているようにも思えた。
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