枝垂れ柳の影が黒く水面に揺れている。
ざわめく月影。風にささめく柳が枝垂れの先で深堀の水面をすくっては、かすかな水沫の音だけを跳ね返らせる。ちぎれた葉の影が、白い同心円状の波紋を幾重にも広げ、広げて。音もなく、すいと身をひるがえし、水底へと消える。
行く手に、小さな朱塗りの橋が架かっていた。小さな橋でありながら高欄の親柱には青銅色に艶めく擬宝珠がつけられている。
ぎい、ぎい。
月夜に猪牙（ちょき）船の漕ぐ櫓の音が響いている。誰が乗っているのか。誰が漕いでいるのか、それすら定かでない。
うすぼんやりと灯る明かりが水面を照らしている。音がする限りは間違いなく誰かが漕いでいるはずなのに。
橋の袂には庚申橋、と彫られた柱が立っている。
何処へ逝くにも渡らねばならぬ。
ぎい、
ぎい、
橋の下を音が通り抜けて行く。
ぎい……
遠ざかる。
逆さまの青い月が、水に映っている。
「この先は彼岸。鬼の辻だ。異界と現世の境に掛け渡された橋を渡る」
獄文字乙女は、月避けの和傘を、ゆっくりと閉じつつ下ろした。ゆらぐ月の光が、凍える眼に映える。
手に結んだ印から霊気が立ちのぼる。
爪先で空を書する。梵字に似た光が、ひゅん、と奔った。誰かがささやいている。寄り集まって話をしている。笛の音が聞こえた。奇々怪々の気配が近づく。笑い声、泣き声、文句を言う声。からからと高下駄を鳴らして、何かが――来る。
ひよりはうなずいた。こわばった表情で頭を下げる。
「お願いします」
生物とも魔物ともつかぬ、けむくじゃらの小鬼が、するどい鳴き声を夜に走らせて獄文字乙女の肩に飛び乗ってきた。耳たぶを掴んで、何かささやいている。獄文字乙女はうなずいた。
「おーいひより、ちょっと待てったら。俺を置いていくんじゃねえよ」
どこへ行っていたのか、遠くから一磨の声が追いかけてくる。
「あれ、一磨くん。どこに行ってたんです」
ひよりは怪訝に思って振り返った。確か先ほどまで一緒にいたはずだが……
「いや、戦闘配置につけって言われたからよ」
何やら手を振り振りしながら、ずしんずしんと駆け寄ってくる者がいる。
「こんな感じでどうかなと」
「ん？」
ひよりは眼をしばたたかせた。
どすどすと地響きが強まる。
「……とうっ！」
「えっ！？」
”それ”が、流星のごとき噴煙を夜空に引いて、高々と闇に舞う。くるくる回転して、ぴらっ、と。
「な、なに……！ っていうか誰！？」
「巨大乙女ちゃん大地に立つ！」
でかい。
でかすぎる……！
超巨大獄文字乙女そっくりな鎧武者が、橋の袂に、ずううん、と土煙を蹴立てて着地した。金に煌めく前立ても勇壮な兜、威毛（おどしげ）の色も華やかな射向の袖、前の草摺、両籠手（もろごて）に巨大な弓太刀、箙（えびら）まで背負って、まさに式正の鎧形というに相応しい出で立ちをしているにはしているのだが――
ぎぎぎぎ、と異様な音が響いている。ぷしゅう、と、蒸気の音が吹き洩れる。ういん、ういん、ういいいいいん！ とさらに素っ頓狂すぎる駆動音までが轟いた。
「見よ、これぞ乙女ちゃん型戦国機動メカ、略して武者乙女ちゃんパワード、見・参！」
全身これ甲冑！ な装いをした、腰のくびれも美しい巨大獄文字乙女型ロボが、ぶん、と大太刀を振り回した。旋風が巻き起こる。そのたびに、ずどうん、と信じがたい地響きが鳴り響いた。
「いざ尋常にご笑覧あれいッ！」
けれんみたっぷりに大見得を切る。
「うわ！？」
ひよりは仰天してしりもちをついた。
「獄文字先生がでっかくなっちゃった！」
「馬鹿、良く見ろ。パワードスーツだ」
呆れ果てた顔の獄文字乙女が、ひよりの後頭部に、こつん、とげんこつを落とす。
「あいつの芸風はもう変態過ぎて俺の手には負えない」
「もう、芸風とか言うレベル越えちゃってますよ！？ 現代科学の粋を集めたハリボテじゃないですか！？」
くわ！ と、武者乙女ちゃんパワードのキャノピーが開いた。
「バカ、何言ってんだ、ひより。鬼を相手にするってぇ時に普通の人間がまともに戦えるとでも思ってんのか。常識的に考えりゃ、迫撃砲なり機関銃なり撃ち込まなきゃやってらんねえだろうがよ」
「って、巨大二足歩行ロボットのどこが”普通”なんですかーーッ！」
「るせえ、現代日本で堂々と日本刀を振り回す気まんまんな通り魔野郎に常識云々を諭されたかねえよ」
「ロボのほうがおかしい！」
「黙れ銃刀法違反」
「っていうかロボットにまでぱんつ履かせることないでしょう！ さっきからもう、ちらっちらっ見えちゃってるじゃないですかっ！」
「何だと、てめえ、ロボはぱんつ履くなってのかこのド外道が！ そんなにはいてない下半身が見たいのか！？」
「誤解を生じさせるようなこと言わないでください！ ぱんつ履かせること自体がおかしいって言ってるだけです！」
「色は黒に正しておけ」
「黒……黒……だとッッ……！ しまった……俺としたことが油断してつい白に……クッ……鎮まれ、俺のゾウさん……！」
「もう、獄文字先生まで！ そんなこと言い合ってる場合じゃないんですってば！ もっと真面目にしてください！ 早くしないと、姫乃ちゃんが！」
獄文字乙女の肩に止まっていた小鬼が、何気なくひよりの肩に飛び移ってくる。
だが小鬼はひよりに触れた途端、ギキッ、と鳴いてのけぞった。火傷でもしたかのように骨張った指を押さえ、弾かれたように飛びはねて、闇へと逃げ込んでゆく。
光月が青白く光っている。今まで気付かなかった赤い光が、光月の放つ闇の光に反応し、強められて、橋の向こう、闇の奥へと続いているのが見えた。
ひよりは自分の左手を見下ろした。左の小指にはめた赤い毛糸と、命の光とがつながっている。この糸をたどってゆけば、きっと、必ず、姫乃のところにたどり着ける。
「異界はこの先だ。行くぞ、ひより」
「はい」
逢魔が時の庚申橋は、あの世とこの世の渡らせ橋。擬宝珠の彼岸は咎の闇。
ひた、ひた。
わら、わら。
毛糸の痕跡を追って歩き続けるひよりの周りに、物の怪どもが集まってきては散り、また凝り固まってはくろぐろと影の行列を引き延ばして、騒ぐ。笑う。
獄文字乙女の姿が、九十九にさえぎられて見えなくなる。
足の折れた椅子、車軸のない牛車、鼎のぬけた人形が飛び跳ねて、壊れた鼓笛を吹き鳴らす。破れ扇子で割れ鍋叩けば、やんややんやの大喝采。壊れた携帯、棄てられたぬいぐるみ。まだ新しい液晶テレビが、砂嵐の映像を映し出して、ノイズの歌をかき鳴らす。ふるべの鈴を揺らして練り歩く。
「おい、プピヨり、何か妙な音がしないかプピー？」
ずしんずしん、と後ろからついてくる武者乙女ちゃんパワードから、ハウリングを付け加えた一磨の声が響いた。
「獄文字先生ロボの足音が一番うるさいです」
ひよりは苦々しい口振りで答えようとして、逆にとんでもないことに気づいた。
「それって、もしかして……！」
帰宅直後の６０１号室に現れ、煙のように消えた”巨大獄文字乙女の生首”！
一磨の笑い声が聞こえる。
「ああそうだ、ずっと、今のお前のプピを倉庫代わりにププってたんだがよ。お前がピー……してくるってんであわててボディを運び出したんだが、首だけプピーにピーちまっててさ」
「やっぱり！ もう、いい加減にしてくださいよ。あのときは本気で自分の頭がやばいのかと思ったんだから」
「まあ、そうピー言うな」
「ピーピー言ってるのは一磨くんのほうです。そんなことより」
焦って周囲を見回す。
「ホンモノの先生の姿が見えないんですけど」
「乙女ちゃんのことなら心配プピーだ……ところで何だあのプピは」
一磨の乗るパワードスーツの首が、ギギギ、と妙な音を立てながら一周する。
遙か後方――
距離感が喪失した闇と霧の彼方から、静かに流れる水音が聞こえてくる。
「プピプピ言う以外は何も……」
ひよりが言いかけたとき。
ふいに一磨が焦った声をあげた。
「後ろだ」
ぎょっとして振り返る。どこからか水飛沫のあがる音が聞こえた。続けざまに何かが空を切る甲高い音。
空から何かが降ってくる。
ひよりは息を呑んだ。
「空が……”落ちて”くる！」
まるでＣＧを見ているかのようだった。寄せ木細工をばらばらに分解するかのように、空が、空間ごと、真四角にすぱりと切り落とされている。空間が賽の目に切り分けられ、ぐらっと傾いて、みるみる崩れ始める。
足元の橋が、ふっ、とかすんだ。踏みしめているはずの橋が一瞬、透明になる。
「足下が……！」
身体が凍り付く。下を見下ろすと、そこには奈落があった。遙か下方に闇が渦巻いている。
橋板が落ちるたび、虹色の燐光が散った。そのまま、ごぼ、と音を立てて呑み込まれてゆく。
「何をやってる、お前たち。早く渡れ！」
遠くで獄文字乙女が怒鳴っていた。
ひよりは息を呑んだ。
橋桁が一本、音もなく消えた。
橋全体が、ぐらりと傾ぐ。
「逃げるぞ、ひより！」
今にも橋を踏み抜いてしまいそうなほどのすごい勢いで武者乙女ちゃんパワードがどすどす突っ走って来る。
「早く！」
衝撃でぐらぐらと足元が揺れる。
「な、な、何……？」
「橋が崩れてる！」
武者乙女ちゃんパワードのお腹が観音開きにぱかっと開いた。そこから必死の形相をした一磨が顔を突き出す。
「奈落に落ちるぞ！」
「えーーーッ！」
ひよりは泡を食って走り出そうとした。が、前方を見て愕然とする。
たしか、最初の入り口は学園の庭だったはずだ。渡る前は、ほんの数歩で渡りきれるようにしか見えなかった小橋が、今は、うねうねと細く長く、黄泉国《よもつくに》への道のごとく続いている。行く手は深い紅い霧に遮られ、まったく見えない。
「な、何で……！？」
何が何だか分からず、ひいい、と頭を抱えそうになりながら、ひよりは走って走って走りまくった。
「もっと早く走れてめえ、このバカひよが！」
「無茶言わないで……ぼ、僕、運動苦手なんだから……うわああっ……！」
片っ端から崩落してゆく橋に追われ、ただひたすら前へ、前へと転げるように突っ走る。
橋が落ちる。
轟音が背後に迫る。
息ができない。
胸が苦しい……！
どんなに走っても走っても、終わりがないように思えた。
駆け抜けざまに通り過ぎた視界の端に、荒々しい筆致で刻まれた欄干の文字が飛び込んできた。
この先、彼岸――
最後の橋桁が、がらりと崩れた。
橋を支えていた足場が、消え失せる。一気に橋が急勾配に変わった。
ひよりはうねりたわむ橋板に足をとられ、転倒した。身体が奈落へと滑り落ちてゆく。
「くっ……！」
とっさに片手を伸ばし、必死に欄干の柱を掴んだ。身体が一瞬、宙に浮き上がる。腕がちぎれそうに痛んだ。
ぶらりと不如意に足が揺れた。下には何もない。
暗黒だけが眼下に見えた。
左手には光月。手放すわけにはゆかない。
全体重が右腕一本に掛かっていた。ひよりは歯を食いしばった。脂汗が滲む。もう、悲鳴もうめき声も出ない。
「……くそっ……おおお！」
全身の力を腕に込める。
「僕だって、僕だって……やらなくちゃいけないときは、やるんだ！」
とっさに光月を口にくわえ、両手で欄干にしがみつく。全身の力を込めて、ぶらさがった身体を持ち上げた。足が橋板にかかる。
ようやく這い上がった、と思ったそのとき。
さらに強い揺れが襲った。
手が、ずるりと滑った。反射的に手を伸ばす。
「……！」
悲鳴を上げたが最後、光月は奈落に落ちる。ひよりは歯を食いしばって耐えた。だが片腕一本で身体を支えるのは、もう限界だった。
指が痙攣する。重みに耐えきれない。身体が、のけぞった。
月が見えた。ばらばらになった月が悔し涙に滲む。
掴むものもない虚空に手を伸ばす。
だが、間に合わない。
届かない――！
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