涙まじりに叫ぶ姫乃。猛禽のような眼でひよりを睨みながら、姫乃を押しとどめる一磨。
対照的な二人の姿が、互い違いに映し出されたコマ送りのようにそれぞれ、切り取られて、見えた。
声だけがきれぎれに伝わってくる。
手が、むなしく虚空を掻きむしる。
手応えも、すがるものもない闇。
そのとき。
「いい加減にしろ。御桜ひより。……何かといえばめそめそと泣きわめいて、逃げ回って」
こつん、と。
なめらかな廊下を蹴る靴音が聞こえた。
近づいてくる。
妖艶な声が、闇から発せられた。
「ションベン垂らしながらケツにぶっといのぶっ込まれてヒイヒイ言わされないと”本性”を表さないつもりか」
血のように紅い唇が、とろける喜悦のかたちに吊り上がってゆく。
「っ……この……声……！」
ひよりはあえぎ、喉を押さえながら涙目で後ろを振り返った。
膝よりもさらに上まである、エナメルのニーハイブーツ。剣のような鋭くつややかなピンヒール。
ボタンのはずされた軍服ふうの着物は、少しでも服の形が崩れれば今にも胸元からちぎれて、はじけ飛びそうだった。
「そんなに緊縛プレイが好きなら、死ぬまで自分で自分の手首を縛って犬みたいにキャンキャン泣きわめいていろ」
びしり、と、極太に巻きつけられた深紅の革鞭を床に打ち付けて高く鳴らす。
濃密な白檀の香り。
闇を震え揺るがせる、挑発の瞳。
漆黒の眼帯には、燃えさかるような獄の一文字。手に朱塗りの刀を提げている。
鬼刀――”光月”。
「獄文字先生……！」
「言ったはずだ。自分の道は、自分で切り開け、とな」
獄文字乙女は、横にした刀を片手で突き出した。装具が邪悪に鳴る。その金具の音に怯えたのか、鬼が、ひよりから手を離した。
「”光月”だ。受け取れ」
ひよりは、まろびもがいて前へとつんのめった。四つんばいで逃げつつ、髪を振り乱してかぶりを振る。
「もう嫌だ……何で僕なんだよ、誰か別の奴にやらせればいいじゃないか！ こんな……情けない弱虫に……無理矢理やらせることないだろ……」
がたがたと膝が笑っていた。ろくに這いずることもできない。
「嫌だ……来るな！」
拒絶の悲鳴を叩きつけて身をひるがえす。背後から灰色の鬼が追いすがった。ぐわり、と投網のように広がって、ひよりを背中から呑み込む。
全身に気持ち悪い悪意が降りかかった。
「うあ……あっ……！」
ひよりは喉を押さえ、うめいた。息ができない。耳の中にまでどろりとした粘液が流れ込んで来た。
裏切れ
紅い声が、聞こえた。
「ひより様！」
濁った視界の向こうから、姫乃が駆け寄ってくるのが見えた。ひよりの傍らに膝をついて汚れた泥を素手で必死にかき分けようとしている。
「今お助けいたしますわ……！」
こっちへ 戻ってこい
その 女を 差し出せ
裏切れ 裏切れ 裏切れ――そうささやく、この、声は。
りん、りん、と鳴る悪意の鈴音にまとわりつかれる。笑い声がひそ、ひそ、くす、くす、と、ささやき込んでくる。忍び込んでくる。
――あいつさえ いなくなれば
――あんな子さえ いなくなれば
――ひとりだけ 特別扱いされて
――きもちわるい、変な力を持ってる
――自分だけが 特別みたいに思って
――気持ち悪い眼をして こっちを見るの
――あんな子
――こんな子
死ねば
………………いいのに死ねばいいのに死ねばいいのに死ねばいいのに死ねばいいのに死ねば死ねば死ね死ねば死ね死ねば死ねば死ねば――
「いやだ……あ、ああ、……僕は……ぼくは……そんなこと……思ってない……！」
ひよりの裡に潜んでいた心の闇が、暴き立てられる。巨大な眼球の放つ闇のまなざしに、古い傷を切り裂かれる。
闇が、灰色の泥水となって噴き出した。
巨大な眼球がぶるぶると震え上がった。ひよりの闇をも呑み込んだまなざしが、爛々と狂い光る瞳を憎悪に濡らして姫乃を睨み付ける。
「……っ！」
突如。
からみついていた灰色の泥が、突然、ねじれかえって巨大な手の形に収斂し襲いかかった。
「ひより様！」
姫乃はとっさにひよりの身体を抱きしめ、覆い被さるようにしてかばった。涙混じりの怒りに濡れた眼で、鬼の手を睨み据えている。
「そんなに私が憎らしければ、直接、私を狙いなさいな！ ひより様を苦しめるような真似は、これ以上、この私が許しませぬ……！」
「うぎぃあぁああ死ぇぇえいいあしいいあ！」
わめき散らす狂気の手が、姫乃を握りつぶした。すさまじい力で、姫乃をひよりから引き剥がしてゆく。
「いやあぁっ！」
姫乃の身体は甲高い悲鳴の尾をひいて引きずられた。天井近くまで、一気に振りかざされる。
「助けてひより様……いやあっ、ぁああっ……！」
「姫乃ちゃん！」
廊下一杯に膨れあがった鬼の手が、床に、姫乃を叩きつけた。
「びるりぃあああぎょぇう殺るりおっれええ！」
床が崩れるほどの轟音が響き渡る。校舎全体に振動が貫き通った。
衝撃波で廊下の窓ガラスがすべて砕け散った。突風が吹き荒れ、闇が渦を巻いてめくれ上がる。
散乱するガラス粒に、ひよりは悲鳴を上げた。姫乃の姿が視界からかき消える。
ふいに闇が吹き払われた。
「姫乃……ちゃん……？」
ひよりは、とまどった。おどおどと左右を見回す。土煙にも似た濁りが、視界を奪っている。
「どこに……いる……の？」
ちりん
かすれた鈴の音が聞こえた。飛び跳ねるように位置を変えながら、くすくす笑っている。ひよりは顔に残った泥を拭いちぎって飛び起きた。音の後を追いかける。
「姫乃ちゃん！」
かえさない
闇に鈴の音が吸い込まれる。遠ざかる。消える。
ひよりはつんのめるようにして立ち止まった。頭が混乱している。何が起こったのか分からない。
姫乃の姿はどこにもない。
あの巨大な眼球も。
灰色の鬼も。手も。
どろどろの影も。
すべて、消え失せている。
「姫乃ちゃん……」
いない……？
ひよりは愕然と立ちつくした。
そんなはずはない。
割れた廊下の窓から、町の灯りが見えた。風が吹き込んでくる。国道に沿って赤々と空を照らす街路灯が見える。車のエンジン音も聞こえる。犬の吠える声。クラクションの音。遠い電車の音。音。音。音――
なのに。
姫乃の姿だけが、ぽっかりと、ない。
握っていた手の中に、何かの感触が残されている。ひよりは、おそるおそる、掌を開いた。
赤い毛糸の輪が落ちる。
「……これは……」
ひよりは屈み込んだ。ふるえる手を伸ばす。
落ちたものを拾い上げる。何の変哲もない毛糸に見えた。赤い糸をくるくる巻いて、小指に嵌められる大きさの輪にしたものだ。
（ゆびきり、げんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます♪）
霹靂にも似た記憶がよみがえる。
小指をからめ、そっと寄り添い、はにかむように笑っていた――
「姫乃ちゃん……！」
それは、姫乃が小指に巻いていた、赤い糸だった。
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