間違いなくそこにあるはずの空間が、何かの堕とす負の影に呑み込まれ、とっくの昔に食いちぎられてしまった、かのように。
ひよりは大玉転がしに巻き込まれたかのようにごろごろと頭から教室の中へと蹴り込まれ、ひっくり返った。
「ぎゃあっ怖い怖い怖い……！」
頭を抱え、床にしゃがみ込んで手を振り回しながらむやみにわめき散らす。
「あ、あ、あっち行け！ こっち来んなっ」
「まだ、何もいませんわ」
「え？」
戸の下から流れ出していた灰色の泥。てっきり、倒れ込んだ拍子にべっとりと手足にこびり付くか、と思っていたのに。
ひよりは目を疑った。床には濡れた跡一つ無い。何も落ちていない。教室全体が闇だった。
透明度の低い闇が視界を遮っている。
姫乃が、懐中電灯を闇へと向けた。手を伸ばして、確かめている。何も見えない。ざらざらした砂粒のような闇が見えるだけだった。
違和感が背筋を伝いのぼる。
並べられている机すら、ろくに見通せない。
町の灯りが見えるはずの窓の外まで、真の暗黒に塗り込まれている。
のっぺりとした、闇。
ひよりはおそろしさのあまり、目をつむって顔をそらしそうになった。
もしかしたら、騙されているのかもしれない。
仲間のふりをして、その実、あの黒い球体に、ひよりを食わせようと――
「気をそらすな」
鞭打つような一磨の声が背後から聞こえた。
「油断するんじゃない」
ひよりは顔をくしゃくしゃにゆがめ、押さえても押さえても乱れる喘ぎを、必死に鎮めようとした。
何も、いない、のではない。
何かに視界を遮られて見えないのだ。さながら――巨大な夜の蛇に一呑みされでもしたかのように。
ぶるぶるとうるさいほど震える手を押さえ込む。ひよりは闇を凝視した。
身体の震えがまだ止まらない。この闇の向こうに、本当に何か、いるのだろうか？
いるとしたら、いったい何が……？
はらり、はらり、暗闇から桜の花びらが降ってくるような気がした。
「誰かいますわ」
姫乃がせっぱ詰まった声でささやく。
「お気をつけくださいませ」
ぼんやりとした影が、闇に浮かび上がった。
今にも溶け崩れそうなぬばたまの悪意。
ぬめり、光っている。
いったい、いつの間に、そしてどこから現れたのか。影は分裂し、ますます増える。
ひとつがふたつ、みっつ、よっつ、いつつ――
ゆらゆら、揺れて、溶けて、呪って、ねたんで、ゆがんだ熱を増やしてゆく。輪を作って、ひよりたちを取り巻いてゆく。
ちりん、
ぢ り ん
泣く声。笑う声。狂えるうめき。血の色に錆びた鈴が枯れた音を鳴らしている。くねる尾のようにすり抜けてゆく冷たい声。
首筋の毛が、ぞわ、と逆立った。
「足下が……！」
灰色のよどんだ水たまりに変わっている。
こ っ ち
い ろ
よ こ せ
どろりと広がる悪意の淵。ねたみの虚空。歯がゆくのたうつ泥濘の闇を映し出す鏡――
「う、う、うわあっ……出た！」
なまぬるい風がびゅっと吹き抜けた。風が髪をあおる。ひよりは半ばのけぞりながら手で眼をかばい、息を呑んだ。
見覚えがある。あの影の色。あの視線の粘っこさ。あの、声――
（あの……今日は、一磨さまは？）
（いやだわ、奈々歌さんたら。他の殿方とご一緒の時に、そんなことお聞きにならないでちょうだい……）
「やっぱりだ、も、もう嫌だ、何で僕がこんなことさせられてるんだよ！ 騙されないからなっ……！」
何もなかった空間に、闇よりも昏い点が生まれた。みるみる、膨れあがってゆく。球体の放つ灰色の影が、悪意に溶けた少女のヒトガタを浮かび上がらせていた。
鬼辻坂学園高等部のブレザー。胸元のスカーフ。不格好なほど長めに膝を隠すプリーツスカート。校則通りの白いショートソックス。重たげな前髪。手にした通学カバン。カバンにつけられた小さな赤い鈴。
そこまで詳細に見て取れるのに、顔が――ない。口だけが紅くつり上がり、笑っている。
洞穴みたいになった少女の背後には、顔ごと魂を吸い取ってしまったらしき漆黒の球体が、邪悪にゆらめき浮かび上がっていた。
「あ、あれは、何……誰なんだよ、あれ……！」
ひよりは、腰を抜かしてしりもちをついた。立ち上がれなかった。
「これが、”百鬼夜行”」
姫乃が陰惨にささやいた。
「人の心の闇を無理に探し出し、傷をえぐり、膨れあがらせる、道。異界と現世の合わせ鏡。あの子が、呼び寄せたのです。外道の闇を」
「……た、助けないの……？」
「誰がですの？」
姫乃は不思議そうな顔をしてひよりを見やった。
「一磨くんも……姫乃ちゃんも……ぼ、僕より、ずっと詳しいんだろ。これが何か知ってるぐらいだからどうにかする方法も……！」
「申し上げたはずですわ、ひより様。私も、乙女ねえ様も、”光月”を手にすることのできる力を持つ者をずっと探していた――と」
姫乃は唇を白く引き結んだ。
「それは、もう獄文字家から失われて久しい力ですの。かつて、鬼刀”光月”と対をなす妖刀”紅月”を奪い、己の力に溺れて出奔した賽河原家の者は、鬼を斬る”力”を継いだ娘まで一緒に獄文字家から奪っていった。それが、ひより様、あなたの先祖にあたられる方のしたこと。従って、鬼子の血、賽河原の血を引くひより様以外に――”光月”を手にすることは、できないのです」
一磨がするどく怒鳴った。
「呑気に長話してる暇はねえ！ 来たぞ！」
灰色の影がふいにその手を伸ばして、顔のない少女を取り巻いた。
少女の身体がぐらり、とゆらめいて実体のない灰色に変わり、漆黒の球体に吸い込まれる。
「……どうする、ひより！」
「ど、どうするったって……！」
球体が巨大な眼球の形に変わった。黒い目に、紅い瞳。血走った血管と視神経の束が、ずるり、ずるり、と汚れた汁の痕を引きずって教室の床を汚す。
がたがたと机が押し倒された。
灰色の影を引き連れ、巨大な目玉はぬるりと汚泥の尾を引いて動き始める。
「ぐぎぃやゃえああひあい ほ えいぎぎ し あああ い ぎぃあああああ……！！」
気が違いそうな絶叫を上げて、周辺の灰色の影が実体化した。
牙の生えた手が、蚯蚓に毛が生えたような足が、汚物まみれのうごめく舌が、漆黒にのたうつ女の髪が、げぼり、げぼり、と吐き出され、あふれ出てくる。
「に、逃げよう、姫乃ちゃん！」
ひよりは姫乃の手を掴んで転がるように走り出した。姫乃は逆らわない。
「とにかくこの場から離れて……！」
吐き出された鬼が奇声を上げた。奇妙な形に折れ曲がった腕をのたうちまわらせ追いすがってくる。背後で、窓ガラスが粉々に砕け散った。
狂気めいた悲鳴と足音が近づく。今にも、背中から腐った息が吹きかけられてきそうだった。
真っ暗な廊下を、無数の鬼に追われて逃げまどう。
階段を駆け下りてゆく。荒げた呼吸の音が、乱れ鳴る靴の音と合わさって響いた。
「戦わねえのか、ひより？」
どこか平然とした口調で一磨が尋ねる。何が嬉しいのかにやにやと笑いながら、ときおりフラッシュを焚いてカメラのシャッターを切っている。
「戦うって、だから、どうやって！」
ひよりは悲鳴を上げた。
迫り来る鬼群の絶叫が一瞬、途絶える。
フラッシュの光を浴びた瞬間、先頭の鬼がどろりと溶けて、後続の鬼に踏みにじられた。
「姫に言われただろ」
「何度言われたって、”鬼を斬る力”、なんて僕にはないよ！ 僕は、”賽河原”なんかじゃない！」
何度も、逃げながらつんのめって転びそうになる。
廊下に置かれてあったスチールの棚にぶつかる。衝撃で、中からブリキのバケツや、掃除道具のほうきが転がり出た。
空虚な金属の音が響き渡る。ひよりはバケツにつまづき、頭から転倒した。
ぶざまだ、情けない、と思われても構わなかった。ひよりは泣きわめきながら、迫ってくる灰色の鬼に向かってバケツを叩きつけた。
「こっちに来るな！ 何で追いかけてくるんだ！ 僕は関係ないだろ、放っておいてくれよ……！」
半透明に変わった鬼の身体を、床に跳ね返るバケツが突き抜けていった。がらん、がらん、と、廊下をむなしく転がってゆく音だけが耳を射る。
影から現れた鬼が、ゆらり、とほくそ笑んだように見えた。
「何で追いかけてくるんだよっ！」
「ごめんなさい、ひより様」
立ち止まった姫乃が、闇を見つめながら、ぽつりとささやいた。
「きっと私の、獄文字の血が匂うせい、ですわ」
ひよりは呆然として、姫乃を見上げた。
「姫乃ちゃんの……せい？」
「お決めになって、ひより様。ひより様のお気の済むように」
姫乃は寂しげに笑ってひよりに手を差し伸べた。
「私は、ひより様に従います。ひより様が逃げる、とおっしゃられるなら――地の果てまで、おともをいたします」
その手に、赤い毛糸がまだ指輪のようにはめられて結ばれているのに気づく。
「……もう……いい加減にしてくれよ！」
ひよりはかぶりを振った。差しのべられた華奢な手を、恐怖のあまり叩きつけるようにして払いのける。
泣きわめきたかった。
ひよりは床に落ちていたほうきを引っ掴んだ。柄の部分を、むやみやたらに振り回して怒鳴りつける。
「勝手なことばっかり言って！ 放っておいてくれよ。どいつも、こいつも、僕に近づくな、そこから一歩も！」
「ひより様……」
姫乃が口に手を当てた。声を失う。一磨は姫乃を守ろうと傍らに駆け寄った。
「バカひよ、てめえ、姫に向かって……！」
「うるさいっ！」
ひよりは、半ば錯乱しながらほうきを振り回した。恐怖で前も真実も何もかも見えなくなっている。
そんなことをしてもどうすることもできないと分かっているのに、声が、涙が、止まらなかった。
「来るな、近づくな！ 何の関係もないだろ！ こんなわけのわからないオカルトごっこに、無関係な人間を巻き込むなよ！ 僕は何も知らない！」
「ひより様……！」
姫乃が声をつまらせる。
「後ろ……！」
「知るかッ！」
ひよりは、背後に迫る闇に気づかずほうきを床に投げつけた。
悲鳴と、絶叫と、涙と。自分自身の中にため込んできた膿すべてを吐き出し続ける。
「そんな名前なんか知らない。本当の父さんの顔だってもう分からない！ 紅にだって……何年も会えてない……！ なのにいつの間にか知らない人がお父さんになってて、下の兄弟がどんどん生まれて、邪魔者扱いされて、いなくてもいい、って思われるたびに……妖怪が僕の中にどんどん寄生虫みたいにわき出してくるんだ……そんなもの食っちまえばいいって言われたけど……どんなに吐いても……いなくならないんだ……気持ち悪い……気持ち悪い……死んじゃえばいいのに……って……声が、聞こえ……るんだよ！ 母さんの声で！」
灰色の手が襲いかかってきた。ひよりの髪の毛を掴んで、無理矢理に引きずり倒そうとする。
べったりとした手にからみつかれ、ひよりはのけぞった。
「離せよ！ 僕は、関係ない……できないよ、できない！ こんなの嫌だ、あ、助けて……うわあっ！」
「ひより様……ひより様！」
姫乃は悲痛な声を上げ、表情を揺れ動かせた。ひよりに駆け寄ろうとする。その手首を背後から一磨がぐいと掴んだ。
「なりません、姫」
険しい表情で引き戻し、首を振る。
「でも、一磨さま、ひより様が！」
「なりません！」
「だ、れか……ああっ……」
ひよりは手を差し伸べた。視界が、ゆがむ。
「たすけ、て」
喉が、掴み潰されてゆく。
「ひより様……！」
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