こつん……
こつん……
青白い非常灯のみがともる学園の廊下に、硬質な足音が響いた。鬼火のような懐中電灯の明かりが窓にぴかり、反射して伝い走る。
「ひいい！」
窓ガラスに青白い顔が四つ、ひゅうどろどろどろ……と浮かび上がる。
「出たあっーーーーっ！ 今ひとり多かった！」
ひよりは半泣きになって一磨の背中にしがみついた。
「怖い怖い怖いよ一磨くんっ！」
「ギャーッ！！？」
いきなりしがみつかれた一磨もまた、びくうっして心臓を喉から飛び出させていた。はあはあと恐怖に呼吸を喘がせながらわめき散らす。
「って、てめえかよ！ びっくりさせんなバカひよが！ てめえ男のくせに、いちいち俺にしがみつくんじゃねえーッ！ ちびりそうだったじゃねえかよ！」
「痛あっ！」
ごきん、と力任せにひよりの頭をぶん殴る。ひよりは眼から火花を散らして吹っ飛んだ。思いっきり膨れあがったたんこぶを抱え、涙目で恨めしげに一磨を見上げる。
「だってぇ……！」
「だってもクソもねェ！ 俺だってマジ怖ェんだよくっつくなドアホ！」
「まあ、怖いですわ。どうしましょ」
姫乃だけが一人、平然と立ちつくして、ハンカチを握りしめながら楽しそうな作り声の悲鳴を上げている。
目に見えない影が、ひゅっ、と行く手を横切る。
「わあ姫乃ちゃんっまた出たっ……！」
「ああん……ひより様、姫乃は苦しいですわ……そんなに抱きしめられたら……あんっ……」
「わっ！？ ご、ごめんっ！」
あわててひよりは耳まで赤くして姫乃から飛び離れた。
「てっ、テメーら、少しは静かに歩きやがれ！ 怖ぇだろうがッ！」
「わ、分かってるって……！」
ひよりはぶるぶる震えながら、覚束ない足取りで歩き出した。
一磨は首からカメラをかけている。どれほどへっぴり腰であっても心霊写真カメラマンの魂は忘れない、ということなのか。
「それはともかくとして、何で夜の学園に？」
ひよりは半泣きの声でたずねた。
「それは……」
懐中電灯を逆さまに持った姫乃が、あごから下を照らし出しながら口を開いた。
「ひいっ！」
「姫っっ……！」
「……その昔……」
ゆらゆらと懐中電灯の光が揺れ動く。
「この学園があった場所は、鬼の刑場でしたの。地面を掘り返せばいくつも……鬼と妖怪の骨が出てくる……そうですわ」
「ひいいっ！？」
獄文字姫乃は、うっすらと闇を掃いたまなざしを横目にすり流してささやいた。
「この町には古来より……鬼の血を引く……とされた家がありましたの。代々鬼辻坂の郷里を治めてきた古い家柄の獄文字家と、傍流にして今は里から出て行ってしまった分家筋の……」
「ちょっと待って」
ひよりはうろたえ、気の急いた質問を矢継ぎ早に繰り出した。
「でも、そんな歴史ある古い町には見えないよ。この学園とベッドタウンと、国道と、あとちょっとした駅前商店街とかぐらいでしょう。ごく普通の町としか思えなかったんだけど」
「ええ、でもそれはこの学園に通ってくださる皆様のおかげですわ。学園のみなさまが、この町を、明るく、活気に満ちた、近代の都市にしてくださいましたの」
姫乃は続けた。
「鬼辻坂学園を最初に開かれたのは、私たちの曾祖母に当たります獄文字忍。忍は、それまで鬼の刑場跡とされていたこの学園のある丘こそが、鬼の辻、すなわち”異界”と、”現世”が重なる渡瀬の橋道であると悟られ、鎮守の宮として、そして、未だに獄文字家への恨みを抱いてこの地にさまよう魑魅魍魎の類を弔う強力な霊結界として、学園を建てられたのです」
「えっ、ここ！？」
「おいこら、ひよ、てめえ、下っ端のくせにいちいち姫の話の腰を折ってんじゃねえ！」
振り返った一磨がカメラを振り上げ、ひよりの胸ぐらを掴んで脅す。
「かまいませんのよ、一磨さま。ひより様は……ね？」
姫乃はくすりと声を上げて笑った。しとやかな笑い声が夜の校舎内に反響する。まるで真っ暗な洞窟内にしたたり落ちる水滴のようだった。
「信じられないのも致し方ありませんわ。ひより様はホンモノの百鬼夜行を見たことが一度もないのですもの」
本物の――？
ひよりは、一磨に胸ぐらを掴まれたまま、呆然と思いを巡らせた。
いつの間に、世界はこんなふうに変わってしまったのだろう……？
昨日、いや、一昨日までは。
まだ大丈夫だった。
ひより一人が壊れているだけで済んでいた。
口から妖怪がはみ出ようが、人に見えないものが見えようが、しょせん他人には何の関係もないことだ。ひよりと、今はどこにいるのかも分からない同じ顔をした双子の弟だけが、他人の悪意が妖怪の形になって、でろ、でろ、と顔からうごめき出るのを見ることができた。
見たくなくても、見えてしまう。
顔の奥底に真っ黒な洞穴があるのを。
知りたくなくても、見えてしまう。
そこに、何か、気持ちの悪いものが渦巻いているのを。
怖い。
嫌だ。
見たくない――
いつしか、恐怖は別の感情へと変わっていた。
見なかったことにすればいい
知らなかったことにすればいい
自分さえ、黙っていれば
誰にも、気づかれずに
誰とも関わらずにいれば
「……関係ないよ」
ひよりは死んだような眼で、一磨のカメラを見やった。
カメラにとらえられていた、口から白い妖怪の手を吐く姿は紛れもなく――今まで、誰にも言えないまま、ひよりが一人で悩み、苦しみ、呪っていた病の正体。
他人が発する様々にゆがんだ思いの”あやかし”を、知らず知らず吸収し、ため込んでしまってその身をさいなむ”九十九憑き”――転校直後、世界を拒絶して引きこもろうとしたひよりに獄文字乙女が”光月”とともに語った真実そのものだった。
にも関わらず。
「証拠とか言ったって、どうせＣＧなんだろ。あれだけ隠し撮りができるなら、ちょっとそれっぽいオカルト画像と合成するとかお手の物なんじゃないのか」
逃げる。
「『関係ない』の次に来る言葉は、いったい何ですの」
静かな声が、廊下に響いた。
「……見えないものが見える、聞こえないものが聞こえる。それは普通じゃないコト。だから、”関係ない”と――必死に思い込もうとなさっていらしたのですね？ すべては白昼夢。すべては幻影、間違っているのは、壊れているのは、”ご自分のほう”だと」
姫乃の言葉が耳に突き刺さる。
聞きたくない。
思い出したくない。
関わりたくない――
「じゃあ、あれは」
声が、かすれた。壊れかけた笑いがもれる。
「……獄文字先生が……あの黒い玉に食べられて……ばらばらにされたのは……あれが夢じゃなくて、何だって言うんだ……？」
「ああ、あれか」
一磨はひょい、とひよりから手を離した。
「お前、あんなの気にしてたのか？ ありゃあたぶん、俺が以前乙女ちゃんに似せて作ったマネキンの足だ」
絶句する。
「え……」
激流に呑み込まれる、と必死にしがみついていたロープがちぎれた瞬間、そこが浅瀬だったと気が付いたときのようだった。
「何だって……？」
唖然として聞き返す。
「マネキン？」
「ああ」
一磨は苦々しくうなずいた。
「心霊写真の構図を考えるのにちょうどいいなーとか思って、等身大の乙女ちゃん型シリコンドールを完全再現してみたんだが」
「が？」
「……あまりのなまなましさに、つい……別の目的に使用してしまってだな……。半殺しの目に遭わされて没収された」
「……ど、どんな？」
一磨は、ぴき、とこめかみに怒りの血管を浮き上がらせた。
「てめえ、今それをこの場で俺に聞く気か」
「い、いえ……」
そのとき、前方に、どす黒い闇がよどんでいるのが感じ取れた。
教室の戸の下から、灰色の水が滲み出している。
「な、何だよ……あれ……」
ひよりは一磨の背中にしがみついた。おそるおそる姫乃を見やる。
「さあ……？」
姫乃は薄笑みの表情をかき消した。とたんに、ぞくりとする寒気が背筋を伝う。遠くに風の音が聞こえた。近代的な校舎にすきま風などはいるわけがないのに。
がた、
がた、
サッシか、あるいはスチールキャビネットの扉が揺れ動いているような音にも聞こえた。
その間にも、教室の戸の下からにじみ出てくる灰色の泥水は、量を増して廊下へと広がった。
流れ出してくる。血だまりのようだった。
廊下に面した曇りガラスの向こうに、何かがいる。いくつもの影が動いている。
どす黒く、ゆらめく。
突然、窓にべたり、と。
人の手形のようなものが貼り付いた。ひよりは心臓が口から転げ出しそうになるのを必死に手で押さえ込んだ。代わりにかすれた悲鳴が噴きこぼれる。
手形から、どろり、と、ぬめる粘液がこぼれ落ちる。
どろり、
どろり、
ガラスの向こうで、何かが黒く揺らいでいる。
月蝕のような、灰色の闇がさまよっている。
「おい、バカひよ。てめえいきなり悲鳴を上げたりすんじゃねえぞ」
一磨が教室の戸に手を掛けた。必ず施錠されているはずの戸が、ほんの少し開いている。
「ま、待って、開けちゃダメだ……」
見てはいけないものが、隙間の向こうに、あるかもしれない。
ひよりは怖じ気づき、後ずさろうとした。
見てはいけないものが、隙間の向こうに、あるかもしれない。
ひよりは怖じ気づき、後ずさろうとした。
「逃げんな。ひより。てめえの役目だろうが」
にべもなく突き飛ばされる。
ひよりは言葉を呑み込んだ。
どす黒く濡れた窓の向こうを、一磨は獰猛な眼差しで睨みつけている。先ほどまでとはまるで違う、鷹のような声色。
その横顔――まさに、別人。鉄の色。鋼の色。刃の色だった。
「検めろ」
一磨は腕を組んだ。あごをしゃくって教室の戸を示す。
ひよりは悲鳴を噛み殺した。
「何で僕が！ 僕は、その、一磨くんや姫乃ちゃんが行くっていうから……ただ何となくついてきただけで……こ、こんなオカルト探検ごっこなんて全然興味ないよ……！」
「ちびってんじゃねえ、ひより」
一磨は凄味のある眼のほそめ方をした。
「いい加減、直視しやがれ」
眼の奥に、ひややかな光が伝い走る。
「この世の”現実”ってやつをな」
「むっ、ムリです、僕は」
ひよりは半分逃げだそうとして、一磨に襟首を掴まれた。
「わあっ！」
「伊達や酔狂で見に来てんじゃねえんだよ」
刃の切っ先にも似た声。毒をしたたらせるかのような痛みが耳の奥に差し込まれた。
「うっ……！」
思わずじたばたともがく。ひよりは、声を裏返らせて一磨と姫乃とを交互に見やった。
「勘弁して下さい。マジでマジで、僕、こういうの苦手で！」
「死道――不覚悟なり」
姫乃が、眼を上げた。氷のような声だった。薄ら白い顔に、濡れたように青ざめる瞳が光っている。ぞくりとつやめく唇。血のように、紅い、輝き。
一磨の声が、つめたく耳元を吹き過ぎてゆく。
「それでも”鬼刀使い”か、賽河原ひより」
その名。
霊気の刀で、背骨をまっぷたつに断ち割られたかのようだった。
絶対に、誰も知っているはずのない――十年以上も前に棄てさせられた、その名を、”なぜ”。
ひよりは身体をこわばらせた。なまぬるい息を吐く。
――いったい、何を、どこまで知っているのか。
突然、一磨を見る目に、混乱と一緒に疑念が覆い被さってきた。黒く、どろりとしたものが渦巻いて見える。
ああ見えて一磨は意外といい奴、なのかもしれない、などと思い始めていた。孤立しようとしていた自分に声を掛けてくれた。もちろん、それなりの理由はあったにしろ、もしかしたら、友情に近いものを感じることができるかもしれない、と思い始めてさえもいた。
でも、やっぱり、ふざけたその顔の下には、ぞっとする異界の気配を秘め隠していて。
肝心なこと、本当のことを尋ねられたら、黙り込んでしまう。力で黙らせようとしてくる。
先ほど見せられたえっちな映像も、一磨が見せた黒い球体の映像も、結局は同じような盗撮まがいだ。と、いうことは。
もしかしたら、姫乃や獄文字先生が隠し撮りされていたように、自分も……
まさか。
言下に否定しようとしてできないことに、ひよりは気づいた。疑ってはいけない、と思いながら、どうしても頭の中に沸き上がった黒いもやを払い落とすことができない。
猜疑の眼を床へと落とす。姫乃の顔を直視できない。
「一磨さま。ひより様に、見せて差し上げてくださいませ」
「御意」
襟首を掴んだそのままの体勢で、強引に押しやられる。ひよりは抵抗した。教室の戸にしがみつく。
「開けろ、ひより」
「だったら、この向こうに何があるか、それをまず、教えてくださいよ……」
「知りたきゃ、てめえの眼で真実を見ろ」
一磨は、言葉少なに遮った。さらにひよりを押しやる。
「この世の彼岸は――どこにでも現れる。奴らはどこからでも現れる。見えちまったからにはもう、渡らざるを得ねえんだよ……あの世と、この世の狭間にかかる外道の橋を、な」
一磨は、ぽん、とひよりの頭を叩いた。
「分かったら、やれ」
「一磨くんも」
ひよりは、うめくような声で言った。
「”視える”んですか……僕と同じように」
「俺のことは関係ない。ぐだぐだ言わずとっととやれっ！」
「わああっ……！」
後ろから思い切り尻を蹴っ飛ばされる。
教室の戸が開いた。目の前が、灰色のよどみに呑み込まれる。
巨大な口が、開いていたような――気がした。
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