”助けたい”
皆で、姫乃を助けると決めた。そのためにはどんなことでもする、と。
でも、目の前で。
獄文字乙女が散ってゆくのを。
一磨が、叩きつぶされるのを。
見捨ててまで――誰か一人だけを助けたいわけじゃない。
助けるなら、全員だ。
みんなの力を合わせて立ち向かうと決めたのだから、その仲間を犠牲にするような真似は。
絶対に……したくない！
迫り来る恐怖を、ひよりは全身の力で討ち払った。杖代わりにしていた光月の柄を掴んで、地面から力任せに引き抜く。
もし、そんな力が。
自分にあるなら。
「僕は、もう、逃げない！」
幻の光霧を振り散らし、血脂にぬめる刃が鞘走り出る。
光月が血の色に瞬いた。
胸の奥が、どくり、と、赤黒く脈打った。
心臓が、腕が、血を求めて、急激に膨張し、激しく拍動し始める。
身体の奥に潜んでいた、自分ではない、別の”何か”、別の”モノ”が、ぐるり、ぬらり、と、うごめき、ねじれ、みるみるうちに膨れあがってくる。
――力を。
遠くで、誰かが、立ち上がるのが見えた。
闇の中に潜んでいた、もう一人の、自分。
恍惚の血飛沫になまめく姿。
あやかしの刀を手に妖艶に嗤う、白髪赤眼の、鬼が。
――貸してやる。
凍えんばかりに、身体が冷えてゆく。
あれほど黒ずんで、当初は鞘からろくに抜けもしなかった刀身が、今はゆらめく妖艶の気を帯び、青白い光を血こごりのように滴らせて、鋼の輝きを取り戻し始める。
人を斬り、罪を斬り、闇を切り、怪異を斬り魔を斬り刻んだ、その刃。鬼の宿る、刃が。
血の誘いに乗って、殺戮の記憶を取り戻してゆく。
それは、瞳に映る蝋燭の炎に似て。
闇を見つめる、狂気の光に似て。
水面に映る、永遠の静寂に似て。
音もなく。
――血の光月の名において。
何かが身体の中を通り抜けた。
ふい、と、すべてが入れ替わる。
ひよりの表情から、色が、抜け落ちた。足元にはらりと、ひよりの魂の表面を覆っていた色彩の破片がこぼれ落ちる。絢爛の色が消え失せてゆく。
桜の花の散るように。
蝙蝠が闇に滑るように。
黒髪の色が抜ける。
身につけていた衣も、すべてが白一色へと変わっていた。死装束のようだった。肌の色も、血まで透けそうな月の色へと変わる。
ちぎれそうな風が白髪をたなびかせる。手にした妖刀に餓えた光が伝い走る。映し出すのは、深紅に狂える、鬼の、眼。
光月の冷たい霊光が、血脂と見まごう刃紋にいろどられた鋼の刃を赤く染め上げている。
乱反射する光がまるで血の色の虹に思えた。
「しょうがねえなあ……何だ、てめえら？ そのていたらくは、よ？」
（えっ？）
クク、と残忍に笑うしゃがれ声が喉から滑り出る。ひよりは、ぽかん、とした。
今、誰がしゃべった――？
僕……？
「――益体も無い」
ふいに、静謐が舞い戻ってくる。現実が音を取り戻す。
倒れる一磨を、誰かが助け起こしている。確かに自分の手のはずなのだが、なぜかまるでそんな感じはしなかった。
「恥ずかしげもなくケツ丸出しでよくもまあ……面白いじゃねえかよ一磨てめえいいぞどんどんやれ」
「ひ、ひより……い、一体……どうしたんだ？」
愕然とした声で、一磨がうめく。
「人が変わっちまったみてえに……」
「光月」
獄文字乙女が、ひどく緊張した顔でひよりを見つめていた。眼帯をしていないことに気が付く。隠されていた眼は反対側の眼と違い、真っ赤だった。鬼の血を宿した眼。
（獄文字先生、その眼、どうしたんですか。っていうか僕はいったいどうしちゃっ――）
「てめえは黙ってろ、ひより」
思っている内容とはまったく違う、嘲笑めいた声が、明らかに自分自身から発せられている。
視界が、自動で切り替わってゆく。いや、違う。誰かに、動かされているのだ、と。
初めて、気づいた。
左手に掴んだ光月が、ぎらり、と。
微動だにせぬ切っ先に己の顔つきを映し出している。鏡のように磨き上げられた刃に映るその目が、その笑いが、その表情が、まさか――自分……？
「待ってろ。すぐに」
わっ……！
目の前が、びゅっ、と空気の抜けるような音を立てて吹き流された。景色が熔け流れる。
「片づけてやる」
世界の速度が変わっている。ひよりは、呆然と夜空を見上げた。自分がどこにいるのかを理解する。足元には、空気があった。再び悲鳴を上げかける。だが声は出ない。火よりの身体を乗っ取った鬼が、高笑いしていた。
風を切って、空に舞う。浮かんでいる。違う――地面を蹴って、高々と跳ね上がったのだ。
光月に操られたひよりは、白い獣のような影をひらめかせて、外道の鬼へと突っ込んだ。
斬突の刃に炎が宿る。きらめきの深紅。烈火の光だった。
ひよりは、目にも止まらぬ神速で光月をひらめかせ、外道の鬼の周辺を飛び交って切り刻んだ。
耳をつんざく金属音が、めきめきとひしゃげ折れる音となって弾け飛ぶ。火花が散る。
光の尾を引く太刀筋が、何重もの弧を描いて闇に残像を描き出している。
絶叫が響き渡る。
わたしが
いちバんに
なる、ハズ、だっタのに――！
ぶよぶよとしたけむくじゃらの腹に、制服の切れ端をかぶっただけのような、無様な姿がうごめいていた。黒い体液が、放水したように幾筋も吹き上がる。足を斬り飛ばされた外道の鬼は、黒い霧を吐き戻しながら、ゆっくりと傾いだ。
手も足も、顔からはみ出した腕以外は、ことごとくへし折られている。
「うぜえんだよ、てめえはよ」
ぴたり、と。光月の切っ先を突きつける。
「あ……」
ひよりは血の光が映し出す眼前の光景に、呻き声を上げた。
（殺しちゃ……いけない……！）
「くそったれが」
まぎれもない自分自身の声が――血の色の剣光を半身に浴びつつ、笑っている。
「外道は死ねよ？」
（だめだってば）
ひよりは酸鼻を極める光景から無意識に眼をそらそうとして、心の中でうめいた。
（その子は、僕らのクラスメートだ。人間だ。普通の子だ。殺しちゃ……だめだ……！）
「知るか、そんなこと。てめえの都合でころころぶっ殺す相手を変えられてたまるか。俺は俺のやりたいようにやる。外道の鬼はぶっ殺す。それに何の文句があるってんだ？ イヤなら俺に障るんじゃねえ」
げらげらと残忍な笑い声が響き渡る。
（いやだ……！）
ひよりは、悲鳴を上げた。
心の奥底から、必死に抗う。
「ざけんじゃねえよ」
身体がまるで自由にならない。ひよりがどんなに抵抗しても、身体は勝手に動き出している。
ひよりの顔をした鬼は、光月をぎらつかせてけたたましく笑った。ふいに形相をかえ、嗜虐のまなざしで死にかけの鬼を睨み付ける。
「ぶッ殺す……！」
光月を、振りかざす。
（”光月”、僕の話を聞いて）
振り上げた腕の彼方に、外道の光が光っている。
この手を振り下ろせば、目の前の鬼は死ぬ。あっけない死。消える。バラバラになる。残酷な血しぶきが上がるだろう。宿主の少女とともに。
凄惨な末路が目に見えるようだった。
（お願いだから聞いて。僕が、君の力を借りたいと思ったのは）
もう一人の自分に向けて語りかける。
今、目の前の敵である少女を殺せば。
ほんのいっとき、道は開けるかもしれない。
でも、それは修羅の道だ。戦うことでしか、殺すことでしか、憎むことでしか先を見通せず、しるべの道を見失い――
途中襲ってきたような、生ける亡者となって、いつ果てるとも知れぬ六道の闇をさまようことになるかもしれない。
何のために”力”を欲したのか、何のためにここへ来たのか。
（姫乃ちゃんを助けたいからだ）
「だったら、こいつらを全部ブッ殺せばすむ話だろうが！」
（……そうじゃない。そうじゃないんだよ）
ひよりは、自分の思いを、考えを必死に伝えようとして、言葉を探した。うまく言えない。でも、気持ちを言葉にして表さなければ、言わなければ、自分自身にさえ伝わらないと分かっていた。
（確かに、助けたいよ。姫乃ちゃんを助けたいし、先生や一磨くんも助けたい。でも、だからってこの子を殺してまで無理に叶えたいとは思わないんだ）
「殺さずにどうやって助ける気だ」
（それはまだ分かんないよ。でも、この子まで殺しちゃったらもう、二度と、取り返しのつかないんだ。まだ何か方法があるはずだよ。探せば、きっと、他に……！）
――求めていたのは、姫乃を助ける方法、姫乃へと続く道。
が、真に見いだすべきは後悔を闘志へと変える力。つまづいたとき、失敗したとき、どうすれば再び前へ進み出せるかを考える力だ。
みんなを助けたい。
そのために、立ち向かう、と決めた。
その先に、答えが見える。
（僕が欲しかったのは、敵を殺す力じゃない。”光月”……僕が君から借りたかった力は、敵も味方も助けられる力だよ。だから――）
振り上げた手が、一瞬、止まった。
「うっとうしいガキだぜ、まったくよ」
ひよりはいらだたしげに吐き捨て、顔を凶悪にゆがめた。
「そんな甘い考えで、外道を狩れるとでも……思ってんのかよ」
かと、思うと。
にやりと笑って。
光月を掴んだ左手ではなく、鞘を握った右手で、容赦なく外道の鬼を殴りつけた。
そのまま、腕の生えた顔の穴に突っ込む。
（ギィゥイギィィィィァァァ……！）
外道の鬼が絶叫を上げた。
全身が痙攣したようにビチビチとのたうっている。ちぎれ残った足から、さらにおぞましい体液をどろどろと垂れ流して噴き出した。
顔から生えた腕が、ひよりを掻きむしろうとした。黒い煙が、顔の穴から、どろり、どろり、咆哮となってあふれ出してくる。
「鬼だけ斬りゃあいいんだろうがよ！」
（え、できるの、そんなこと？）
「てめえ、俺を誰だと思ってる」
ひよりは、腕を肘まで鬼の顔に突っ込んだまま、ぐちゅ、ぐちゅ、音をさせて低く笑った。
「そんなに、喉から手が出るほど姫乃が欲しいか。思い上がってんじゃねえぞ……ああん？ てめえみたいな外道ごときに、姫乃をくれてやるわけねえだろうが」
めきめきと腕をへし折りながら腕に絡め、一気に、引きちぎる。
瞬時に絶叫の炎を上げて、外道の鬼は黒く燃え上がった。
少女の闇を膨れあがらせていた漆黒の球体が少女から吸い取られて宙に浮かび上がった。
「……この俺から逃げられると思うな、ド外道が！」
光月でまっぷたつに断ち割る。球体はぐしゃりと薄汚い音を立てて裂け、どろどろの汚物をまき散らしながら蒸散した。
燃え残りの残骸が、めらめらと黒く降りしきる。軋り飛ぶ火が、怨念の塊となって四方八方へと跳ね転がった。
煙が風に吹き流されて、次第に薄れてゆく。
残された少女は、傷一つ無い姿で横たわっていた。
ぽかりと餓えた洞穴が開いていた顔もまた、すこしずつふさがって、元に戻りつつある。
「……悪霊退散」
炎を背にしたひよりは、事も無げに言い放って斬心し、光月を鞘におさめた。なめらかに鞘を滑り落ちる金属の音が、かちり、と月光のように響く。
「う？」
そこで、はっ、とする。
今、何か、カッコつけて、悪霊退散、とか言っていたような気が……
いや、そんなことより！
ひよりは焦って振り返った。姫乃は。どうなってしまったのだろう。
身体の自由が利かなくなった瞬間、見えなくなってしまった。
あの、光る玉の中にいた姫乃は。
「……あっ……！」
ふいに、まばゆい光がまき散らされた。空全体が白く染め上がってゆく。
「姫乃だ」
呆然と戦いを見ていた獄文字乙女が、はっと声をあげた。指で彼方を指し示す。
「姫！」
示された方角を見て一磨が声をはずませ、ひよりの背中を叩いた。
「おい、てめえ、何、ボーッとしてんだ。早く行けよ」
「ええっ！？」
ひよりは吹っ飛ばされながらも振り返った。
闇の向こうに、輝く球体が見えた。
はっ、と息を呑む。ゆらめく光に包まれ、眼を閉じた姫乃が、赤ん坊のような姿でまるくなっている。
ふいに、光が水のように揺らいだ。ひよりの声に反応したのか。ガラスのように透き通った壁が、音を立てて割れる。
姫乃の身体が、光の飛沫とともに宙へと投げ出された。
「姫乃ちゃん」
ひよりはとっさに走り寄った。落ちてくる姫乃の身体をすんでの所で受け止める。
「う……ん……」
姫乃の、華奢な瞼が苦しげに動いた。
白くなった唇がふるえる。濡れた身体が、ひやりと冷たい。
「姫乃ちゃん！」
ひよりは、おもわず声をうわずらせた。
こみ上げてくる思いに、声が情けなくも鼻声になってゆく。それにも構わず、姫乃の身体をぎゅっと抱きしめ、耳元で叫んだ。
「姫乃ちゃん、もう、大丈夫だよ。みんな、ここにいる。一磨くんも、獄文字先生も、みんなで姫乃ちゃんを助けに来たんだ！ 姫乃ちゃんが……無事で……」
腕の中に抱いた姫乃の身体が、ぶるっ、と。
引きつれたようにふるえる。
「本当に……！」
声がつまる。
姫乃の頬に、涙が、ぽつ、ん、と弾けて落ちた。
「……ごめん……こんな時まで、泣いてばっかりいて、マジごめん……ホント、僕のせいでこんなことになっちゃって、なのに、まだめそめそ泣いちゃったりしてさ、マジかっこ悪くてホントごめん……でも……でも……姫乃ちゃんが、無事で、ほんとうに……よかった……！」
姫乃は、うっすらと眼を開いた。
まだ、はっきりとは見えていないのかもしれない。かすかに赤みを帯びた瞳が、揺れ動いて。みるみる、涙の色にうるんだ。
「ひよりさま」
姫乃のくちびるが、かぼそい息をすべらせる。
「助けに……来てくださったのですね」
「うん！」
ひよりは、姫乃の身体を抱きしめようとして、はっと気が付き、あわててブレザーを脱いで、姫乃にかけてあげた。白い肌が、隠れる。
姫乃は、うっすら微笑んだ。
「……姫乃は……」
ひよりにだけ聞こえるように、ささやく。
「ほんとうに……うれしゅうございます……！」
そう言ったあとは、頬を、恥ずかしげに真っ赤に染め、ぎゅっ、と……
ひよりのシャツを握りしめ、ひよりの胸にふるえる顔をうずめて。
もう、片時も離れようとしなかった。
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