小悪魔で困っちゃうクマー☆ ２
少年に、キスされた――瞬間。
まるで、今まで見ていた夢が、全部崩れ去ってしまったかのように思えた。
がくん、と身体の力がすべて抜けて。
すべてが光に包まれたみたいになって。
身体中が、ぱあっと熱くなって、虹色の透過光を散らす。
あたしは、自分が自分じゃないものに変えられてゆくのを感じて、悲鳴を上げた。
あたしは、あたし……の、はずなのに。
こんな……
今までのあたしが、光に包まれて、消えてゆく。
新しいあたしが。
水しぶきみたいな光を散らして。
彼に、抱かれて。
生まれ変わる――
夢の中から、はっ、と我に返る。
あたしは少年を突き飛ばした。
時間が飛び去ってゆく。
「何してんの！ そんな暇ないって言ってんでしょ！？」
「……やれやれ」
少年はかすかに濡れた唇を、狼のようにぺろり、と舐めた。拳の背中で口の端を拭いながら、悪びれもせずに笑う。
「もう少しで契約完了するところだったのに」
ミラーボールみたいなきらきらした光が、一瞬で消え失せてゆく。
あたしは現実に戻っていた。
ここは自分の部屋だ。
ワークをしっかりと抱きしめ、じりじりと後ずさる。
「クマがアクマに変わるとかそんなオヤジギャグはどーでもいいからっ！ あたし宿題しなくちゃいけないの。こんなくだらないやり取りをしてる場合じゃないの。マジで警察呼ぶから！」
あたしは少年の腕を掴んで窓の外へと押し出そうとした。
だが、あたしの意地は、見事に空回りした。
信じられないことに、手が、少年の身体をすぽんと突き抜けて、向こう側へと飛び出している。
「うえっ……！？」
あたしは、ぎょっとして身体をこわばらせた。コレは、いったい、どういうこと……！？
まさか、まだ、夢の中にいる……？
ぎくりとして立ち止まる。
少年は、うっすらと微笑んだ。
「今回は残念ながら失敗しましたが、でも、まだ、諦めるつもりはありませんから」
少しずつ身体の色を薄れさせ、消えてゆく。
まるで――幽霊みたいに。
「貴女のような、クソ真面目にやるしか今のところ能のないお嬢様なんて……イマドキ、そうそういるものじゃない。それでこそ悪魔にとっては堕とし甲斐のある獲物《トロフィー》だと思いませんか？」
「トロフィー……？」
消えゆく声が、残響のようにあたしの耳に焼き付く。
「ふふっ、何でもありませんよ。それはこちらのこと」
胸元のポケットから、漆黒のカードをつまみ出す。
「何かありましたら、こちらの連絡先にご一報くださいますよう」
少年は、ぴん、とカードを指ではじいた。
カードはふわりと宙に舞った。
落ちてくるカードのゆくえを、思わず眼で追う。
「では、これにて失礼。次にお逢いできる時をこころからお待ち申し上げております」
カードは机におちた。
不思議な材質の、真っ黒いカードに、少年の目の色を思わせる赤い色で、謎めいたクマのマークが書かれている。
「何これ？ くま？」
不審に思いながらもカードを手に取った瞬間。
くまにしか見えないはずのそのマークが、少年の名前――ルイード・アン・クセロ・マウリダール・シン・ヘルヴェリア・ジグル・ダルゼイラス・ゾルガ……と延々続いているように、読めた。
ぎくりとしたあたしの目の前で、今し方まで読めていた文字が、ふっ、と意味不明の紋様に変わる。
「消えた！？」
あわてて目をこする。
そんな馬鹿な。
でもそこであたしはもう一度我に返った。
ううん、そんなことはもう、どうでもいい！ 早く、提出物を終わらせないと。
あたしは、今度こそ最後までやり遂げるつもりで勉強机に戻った。
真っ白なワークとプリントの山。
それを見るたび、悔し涙がにじんでくる。
どうして、もっと、最初からちゃんとしておかなかったんだろう。
毎日一ページでもしておけば。
プリントもらった日から、提出日がいつとか関係なく、少しずつ終わらせておけば。
そもそも、自分の勝手な思いこみ――テスト当日に提出するに”決まってる”――とかじゃなくて、最初からきちんと日付を確認しておけば、こんなことにはならなかったのに。
悔しくて、情けなくて。
そのうえ、何で、こんな、訳の分からないことに時間をむだにしちゃったんだろう！
あたしはもらったカードをくしゃくしゃにまるめ、投げ捨てようとして。
手の中でちくちくするカードの感触に、なおいっそう泣きたくなった。
カードに八つ当たりしたって、時間は戻ってこない。
泣いたって、わめいたって。
自分がワークを済ませてない、という事実からは逃れられないのだ。
そうだ。泣いたってしょうがない。
できるとこまでやるしかない。
あたしは、最後にぐすっ、と盛大にしゃくりあげた。
涙をこらえる。めそめそ泣きながら勉強なんて、できるわけがない。
あたしは涙をふいて、ちーん、と鼻をかんだ。それから椅子を引いて勉強机の前に座る。
やるべきページを確かめてから、ほとんど手つかずな英語のワークを開く。
まっしろな問題ページを見ると、また涙がこみ上げてきそうになった。
とにかくやろう、と思った。頑張るしか能がない、真面目しか能がない、ってさっきの男の子――ルイなんちゃらかんちゃらは言っていたけど。
彼が何者かなんてことは、今となってはまさにそんなことどうでもいいけど、言ってることは正鵠を射ている。
あたしは、結局、ダサくても頑張るしか能のない、要領の悪い子なんだ。
時間の使い方も下手で。
何をやらせてもぶきっちょで。
もっとうまく立ち回れたらいいのに、って思うけど、でも、できない。
頑張らなきゃ。
頑張らなきゃ。
そう思って、気持ちばっかり空回りして、焦ってばっかりで。本当に……あたしって……ダサい子だ……！
ぐすっ、としゃくり上げて、ぶるぶると頭を振る。
今はそんなこと考えないようにしよう。
とにかくできるとこまでやる。できなくてもいいから頑張ろう。無理でも頑張る。たとえ明日の朝に提出できなくても。
どうせ、あたしは、そうするしかないんだから。
あたしは徹夜を覚悟してシャーペンを強く握りしめた。
ワークに向かう。
しん、と静まりかえった部屋に、あたしがシャーペンを走らせるかすれた音だけが聞こえる。
頑張るしかないんだ。頑張るしか。
泣きそうになりながら、眠気を必死に追い払う。
あと三時間ある。
ギリギリ頑張れば、もしかしたら、何とかできるかもしれない。
なのに、つい、こっくり、こっくり……頭で船を漕いでしまう。
「頑張ってますね？ 無駄な努力はもう止めればいかがです？」
ルイの声が聞こえた。
「ほっといて！」
あたしはくすくす笑うルイの声を背後に聞きながら、集中しようとした。
かちゃかちゃとカップの鳴る音が聞こえる。ふんわりと甘い紅茶の香りが漂った。
「なっ、何してんのよ人の部屋で！」
「眠気覚ましに紅茶をお持ちいたしました」
夢見るような笑顔で、ルイが、そっとカップに紅茶を注いで出してくれる。
「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
漆黒の翼を持った少年は、うっすらと闇夜に笑ってふいと消え失せる。
そのたびに、あたしは自分の頭をぽかぽか叩いて眼を覚まそうとした。
起きたまま夢を見ているようではだめだ！
でも、目の前には、ルイが入れてくれた紅茶がほんのりと温かな湯気を上らせている。
あたしは、カップに口を付けた。
……確かに、カップの柄は、これでもか、というぐらいに悪趣味なドクロ模様だったけれど。
でも、紅茶からはかすかなジャスミンの香りがした。いろんな香りが、ふんわりと重なってひろがる。
そう言えば、ジャスミンティーって眠気覚ましになるんだっけ……？
思わず、ふっ、と気がゆるむ。
この紅茶、おいしい……
いきなり現れて、嫌みばっかり言って来る変な悪魔だけど、でも、少しは優しいところもあるみたいだ……
「でしょう？」
いきなり真横にルイが現れる。
ちゅっ、と。
ほっぺたに、キスされる。
「ぎゃあっ！ な、な、何すんのよっ！？」
椅子から転げ落ちながらあたしは、真っ赤になったほっぺたを手で押さえた。
「ば、ば、ばかっ……！」
「別に、他意はありませんけれど？」
ふっ、と笑ってルイはまた、顔を近づけてくる。
「でも、今ので眼が覚めたでしょう？」
「ばかーーーー！ 眼が覚める前に心臓がどっかに行っちゃったらどーすんのよーーっ！？」
「それは困りますね」
ルイは小首をかしげ、綺麗な形のまゆをひそめる。
「悪魔には、やはり心臓を捧げて頂かないと」
「な、なに、言って……！」
「今、どきん、としたでしょう？」
「し、し、してないわよっ失礼ねっ……！」
「いいえ。私には分かります。先ほどの契約は途中で終わってしまいましたが、私と、貴女の魂は今、半分つながっている」
「えっ」
ルイは、うっすらと笑って小指を立てた。
赤い糸が、きらり、と光って。
あたしの、小指に、つながっている。
「うえええ！？」
「貴女の気持ちをもてあそんで、その胸の鼓動が高鳴る音を聞く度に」
ルイは、意地悪そうに、くすっ、と流し目をむけて笑った。
「私も、無性に悪魔としての胸が躍るのです」
「ちょっと何それ！ ひどい！ はずしてよ！」
「契約ですから」
「だから、クーリングオフするって言ってるでしょ……！」
「ところがまだその契約が完全に実効状態にある、と承認されていない状態ではクーリングオフもできないのです」
「何とかして！」
「私も、こんな中ぶらりんな仮契約状態を何とかしたいのはやまやまなのですが」
ふう、とルイはためいきをついた。
「契約は契約。いわば、放棄も、履行もできない状態でして……いかんともしがたいですね」
「そんな無責任なーーーっ！」
「まあ、しばらく、様子を見れば何とかなるでしょう」
ルイはにっこりと極上の笑みを浮かべた。
「それまで、さんざん、あなたを……たぶらかさせて頂きます」
「えーーーっ！！！？」
と、そこで、あたしは、はっ、と眼を覚ました。
また、変な夢を見てた……
ぶるぶるっと頭を振る。
ダメ。認めちゃだめ。
自分のほっぺたを両側からぴしゃんと引っぱたく。
あんなのは夢。
存在しない。
夢の中で見てるだけに決まってる。
寝ちゃだめだ。
頑張らなきゃ！
がんばら……なきゃ……
……へにゃぁ……
「起きた方がよろしいのではありませんか、クソ真面目しか能のないお嬢様？ ヨダレくって寝ている場合ではありませんよ……？」
夢の中で、ルイが肩を揺すってくれたような気がした。
「起きなさい、お嬢様。ほら、しっかりして」
「……う……ん……？」
「起きないと」
耳元で、ひとこと、ふたこと、ささやかれる。
「これから毎日毎晩三百六十五日。一晩中……ずっと……眠らせてあげませんよ？ よろしいのですか？」
……ぎくり、として身体を起こす。
まさか、本当に、起こされた？
と、思って部屋の中を見回しても、誰もいない。
大丈夫だ、ほんの一瞬、眠ってしまっただけみたいだ。時計を見る。朝の四時ちょっと過ぎ。まだ夜明けまでには時間がある。
もう少し。
あと、もう少しだ……！
つい、また、すうっと寝落ちしてしまいそうになるのをあたしは必死にこらえた。
必死にワークを片づけてゆく。自分でも恐ろしいぐらいの集中力だった。普段なら丸一日かかるような量が、あっという間にすらすらと解けてゆく。
そして朝の五時四〇分――
ついにワークは、完成した。
まるで夢のようだった。ホントに信じられない。
あたしは、そのままぱたんとベッドに倒れ込んだ。
眠気が一気に襲ってくる。意識が、ふうっと遠くなってゆく。
「クソ真面目だけが取り柄のお嬢様にしては、よく頑張りました」
頭上から、くす、くす、笑う声が聞こえた。
「私が、一晩必死に頑張れる魔法を掛けてあげたおかげですよ？ 感謝して頂きたいものですね」
「……う……ん……？」
「では、ご褒美に」
漆黒の影が、ふっ、と目の前を覆ってゆく。
まるで、巨大な翼を広げたみたいだった。
でも、うとうとして。まぶたがひどく重くて。
もう、まともに眼も開かない。
声だけが――
近づいてくる。甘いささやきに包まれて。
「夢の中の貴女にだけ、差し上げます」
ぁっ……
ふわ、ふわ、と。
空を飛んでいるみたいな心地になる。
本当に夢の中にいるみたいだった。
ルイが……キスしてくれる。
ちょっと……恥ずかしい……
「怖がらなくても、構いませんよ……？」
「う、ん……」
「本当に、お綺麗です」
撫でてくれる手も。
キスしてくれる唇も。
包んでくれる腕も。
引き寄せられて、ひとつになってゆく、その感触も。
初めて、なのに。
何もかも、優しくて。
暖かくて。
すごく、心地よくて。
あたしは、眠りの底へと引きずり込まれていったのだった。
▼
ピピピピ……
ケータイのアラームが鳴ってる……。
いったい今、何時なんだろう……？
カーテン越しに見える空はもうかなり明るくなっている。
ぴっ、と。
なぜか、勝手にアラームが止まった。
えっと、何時にセットしたんだっけ……と、あたしは、お布団にもふもふとくるまりながら、うつらうつらと考えた。
昨日の出来事のことが、寝ぼけまなこなあたしの脳裏に、ほやぁん……と思い出されてくる。
確か。
あれは、夜中の二時のことだ。
うとうとしていたら、自分は悪魔だ、とかいうルイがいきなりやってきて――
あわてて、飛び起きる。
何で、”ベッドで寝てる”んだろう！？ ワーク、本当に終わっったっけ！？
悪魔なんてこの世にいるわけがないのに！
もし、あれが、全部……夢だったりしたら。
あたしは、机の上を見た。
クマのぬいぐるみは、昨日置いたそのままの場所に置いてある。特に変わった様子はない。
ワークは変な形に折り重なって広げられたまま。床にはシャーペンが落っこちている。
えっ……？
まさか、と思った。
一瞬胸の奥にわき起こった、どす黒い嫌な予感を、必死に噛み殺す。
そんなはずはない。
そんな、馬鹿な。
うろたえて。
自分で自分に言い聞かせる。
さっきまで、何をやってた？
ワークは、必死に頑張って仕上げたはず。だから、こんなに、不安に思ったり、びくびくしたりする必要はない。
でも。
ちょっと、待って。
自分が、本当に、今まで何をやっていたのか、分からなくなる。
クマのぬいぐるみから悪魔のルイが出てきて。
ワークが間に合わないから、手伝ってあげる、と言った。
もちろんあたしは断ったけど――
ちょっと、待って。
それって、本気？ あたし、今、何言ってるの……！？ マジで寝ぼけてるとしか思えない台詞なんだけど……悪魔なんて、夢の中以外に存在するわけないのに――
（あんなのは夢、存在しない。夢の中で見てるだけに決まってる。寝ちゃだめだ。頑張らなきゃ……）
ワーク解きながら、あたし、そんなふうに、必死に思いこもうとしてたんじゃなかったっけ……
嘘。
まさか。
そんなこと、あるわけない……。
あれが、全部――本当に、ただの、夢だったなんて。
「ウソっ……！」
あたしはベッドから転がり落ちるようにして跳ね起きた。
悲鳴を上げそうになりながら、角に無様な折り目の付いたワークを見下ろす。
開きっぱなし、押しのけられっぱなしの形で放置されている英語と数学のワーク。
……全部できたはずなのに。
心配する理由なんて、ない、はずなのに。
心臓が、どき、どき、と、心拍数を跳ね上げる。
そんなことなんて、あるわけがない。
あたしは昨日、本気で頑張ったのだ。
徹夜して、ワークを仕上げたはずなのだ。
大丈夫。
全部、覚えてる。
ルイが、紅茶を入れてくれたのも。
よく頑張ったね、って褒めてくれたのも。
全部、覚えてる。
あれが、まさか、全部夢だったなんて――
嘘。
本当は……
全然、できてない、なんて……
そんなこと、あるわけが。
勉強机の上には、昨日の夜、必死で仕上げたはずの英語のワーク、辞書、参考書が無造作に残されている。
ちゃんとやった痕跡は、確かに残っている、けど、でも、何だろ、凄く――不安だ。
嫌な予感に駆られて、ワークを見下ろす。
な……
何コレ……！
ぐにゃぐにゃ！！
一目見て、まさに眠さに耐えきれない状態でやりました的な、あの、判別できないぐにゃぐにゃ文字！
ときおり、ガクッ、と手が滑ったときの奇妙な線でいっぱいの、理解不能なミミズ文字で埋め尽くされた英語ワーク！
読めない！
こんなの、英語じゃない！
一瞬で、あたしの頭も真っ白になった。
何で！？ どうして！？ 何でできてないの！？ あんなに頑張ったのに！？
「わあああああああっ！ どっどっどっどうし……」
間に合わない。間に合わない。絶対間に合わない。
あたしは凄い勢いで真っ白のワークをめくった。１、２、３、４、嘘、そんなの嘘、ぜんぜん出来てない！ ５、６、７ページ、８ページ……ルイの馬鹿……！ うそつき！ やだ、こんな現実、絶対に……
あたしは我に返る。
ルイなんて。
存在しない。
悪魔なんて――やっぱり、この世に、存在するわけ……ないんだ。
あたしは、机に手を置いた。
髪がふりかかるのもかまわず、突っ伏す。
時間だけが過ぎてゆく。
肩が震える。
泣いてなんかいない。
皮肉言われながらも、必死に頑張れたことも。
優しくしてくれて、嬉しかったことも。
全部、ただの――夢だから。
「あたし、寝ちゃったんだ……」
乾いた笑い声が洩れる。
ワークも、何もせずに。
できた、できたって、馬鹿みたいに喜ぶ夢だけを、見てた。
何て、ばかなんだろう。
「提出物なんて……もう、どうでもいいや」
あたしはなげやりにワークを押しやった。もうダメだ。やっぱり間に合わなかった。こんなめちゃくちゃなワーク出したって、受け取ってもらえるわけがない。
しばらく、涙をこらえながら突っ伏していると。
少しは気が晴れた。
まだ、あと、出かけるまでに一時間はある。
それまで、少しでも頑張ろう。ううん、早めに行って、ギリギリまで教室でやろう。
あたしは洗面所に行った。
ぐっすり寝たおかげで顔色良好な泣き顔を念入りに洗って、くしゃくしゃの髪をとかして、いつも通りに結んで。
それから、できるだけ落ち着いて朝食を準備した。
「お、どうした？ 早いな？」
パパが、眠そうな顔でトイレから顔を出した。よれよれのパジャマにぼさぼさの頭。手には器用に折りたたんだ朝刊を持っている。
「おはよ、パパ。ごめんね。宿題できてないから早めに行ってガッコでやることにした」
「そうか、頑張れよ」
沈み込んだあたしの表情に気づいたのか、パパはそれ以上言わず、おだやかに励ましてくれた。
「うん、ごめんね」
あたしは笑って、家を出た。
高校までは自転車で三十分ぐらいだ。自転車をぼんやり漕ぎながら、あたしは、ルイのことを考えた。
もし、本当にルイがいるとしたら、こんな残酷な悪魔はほかにいない。
優しくて。
励ましてくれて。
良くできたね、って褒めてくれて。
キスまで……してくれたのに。
そんな優しい悪魔、現実には、どこにもいないなんて。
笑い出しそうなほど、情けなかった。
さんざん、夢の中では喧嘩したけど。
あたし、本気で――
ううん、もう、いい。あたしはかぶりを振って自転車を漕ぐスピードを上げた。
髪がふわっと風に舞う。
しっかりとペダルを漕いで、前を見つめる。
自分が見た夢のことで文句を言っても、どうしようもないし。
ルイにだって、もう、二度と逢えるはずないんだから。
学校に到着して、教室に入る。運動部の人以外はまだ誰もいないみたいだった。
ちょっと時間は足りないけど、でも、できるとこまではやろう。
そう思って、自分の席につき、ワークを広げる。
書き込みはめちゃくちゃだけど、問題はどれも見覚えのあるものばかりだった。どれも、不思議なぐらいすらすらと簡単に解ける。答えを分かっている問題もあるような気がした。
どうしてだろう、と不思議に思いながら、ミミズ文字を消しては綺麗に書き直してゆく。
そうやっているうちに、ぽつり、ぽつりとクラスのみんなが登校して来始めた。
「あっれ、どーしたの萌花？ 早いじゃん」
「うん、ワークできてないから」
「えーヤバイじゃんっ、頑張んないと。答え、見せてあげよっか？」
「ううん、できるトコまでは自分で頑張る……でも、ありがと。うれしい」
「うん、そーだよね。お、あとちょっとじゃん、って、何この字。寝落ちしたの？ おっかしー……！」
「うん……どーも寝ちゃったみたい」
「あ、でも、だいたい書けてるじゃん？ それなら間に合うよ。頑張れっ」
「うん！」
あたしは、話しかけてきてくれた友達に笑顔を向けた。
ワークは、思いの外簡単に終わった。
やっぱり、不思議な感じがする。
どの問題にも見覚えがある。
夢の中で、一度、解いてるからだ――と思った。
「やったー……！ 終わったーーー！」
「オメデトー！」
「すごいねーー！」
「あんなに残ってたのに！」
「ううん、ありがと、応援してくれたみんなのおかげだよ！」
「違うよー、萌花ががんばったからだよー！」
「そんなことないよ……」
「じゃ、みんなで一緒に持っていこ？」
「うんっ！」
あたしのワークが仕上がるのを、みんな、ずっと待っていてくれたのだ、と思うと。
本当に、嬉しかった。
自分のこと……
地味で、ダサくて、真面目にやるしか能がなくて、何をやってもとろくさい自分になんて、ぜんぜんたいしたことない、ろくな価値もない、って……ずっと思ってたけど。
でも、そのおかげで、みんな、あたしのこと心配してくれて。
頑張れ、って、応援してくれて。
些細なことでうじうじとしていた自分。
心の中のわだかまりを抱え込んでいた自分。
そんな暗い気持ちは、みんなと笑いあっているうちに、いつの間にか全部、どこかに吹っ飛んでいた。
あたしは、数人の友達と一緒に、ワークを持って教室を出た。みんなでわいわい言いながら職員室の前にやってくる。
と、職員室の隣の小会議室から、ブレザーを着た見慣れない男の子が、担任の先生に連れられて出てくるのが見えた。
「あれっ」
きょとん、として、あたしたちは立ち止まった。
「おう、お前たち」
担任の先生が、ワークを持ったあたしたちに気づいて声を掛けてくれる。
「ワークならそこに提出しておけよ」
「は、はい」
あたしたちは、ぎごちなく歩いて職員室前のボックスにワークを入れた。ちらっと見えた男の子のことをひそひそと噂し合う。
「今の子、見た？」
「うっそ、めっちゃカッコイイじゃんっ？」
「すっごいイケメン！」
「あんな子いたっけ？」
「転校生？ もしかしてマジ転校生っ？」
「キャーーー！ おんなじクラスーーー！？ きゃーーー！ ガイジンみたいに格好良くない？ ね？ ね？」
「あ、あの」
あたしたちがきゃあきゃあ騒いでいるのに気づいたのか、先生は困ったように指を口に当てた。
「こら、おい、静かにしろ。みんなに紹介する前に、紹介しなきゃならんじゃないか。こちらは、真堂《しんどう》ルイ君だ。ご両親がフランスから帰国されたばかりで、日本語はあまり得意じゃないそうだが」
「えーーーーっ帰国子女ーーーってことですかーーもしかしてハーフ？ クオーター？ キャーーー！ キャーーー！」
後ろから飛び出してきた子に、どん、と突きのけられる。
「きゃあ！」
思いっきり突き飛ばされて、あたしは、真堂、と紹介された少年に真正面からぶち当たった。「キャーーーーーーーー萌花だけずるいーーーー！！！」
「キャーーーーーーーーーーーあたしも突き飛ばされたいーーーーッ！」
悲鳴を上げる他のみんな以上に、あたしもまた、悲鳴を上げる。
「キャーーーーーーー！」
「おや、どうかしましたか？」
「い、い、いえ……何でも！」
あたしは反射的に逃げようとした。
息を呑んで、身体をこわばらせる。
あたしを抱きとめている真堂ルイは。
黒い、さらさらの髪。
深紅の瞳。
まるで、外国人みたいな、綺麗な顔立ちをしていて――
信じられない。
うそ。
まさか――
あたしは、みるみる、顔が、かぁぁぁ……っ、と赤く、熱くなってゆくのを感じた。
名前もルイで一緒だし……？
本当に……ルイなの……？
思わず涙がにじみそうになるのを、必死にこらえる。
真堂と紹介された少年は、おだやかな表情であたしをみつめている。
どき、っと心臓が音を立てた。
あわてて眼を伏せる。
ヤバイ、顔が……たぶん……マジで真っ赤だ……！
違う、違うって。絶対に違う。
気のせいに決まってる。他人のそら似、ってやつだ。ルイは、あたしの、夢の中にしかいない。本物であるはずがない。
でも、本当にルイにそっくりで……
「初めまして……？ あれ？ 僕、このお嬢さんと、初めましてじゃないみたいです、先生」
真堂ルイは、にっこりと天使のように笑った。
「えっ」
はっ、と我に返る。
あたしは、ぎくうっとして首をちぢこめた。
「な、っな、っ何言ってんの……あ、あた、し、こんな人知らなっ……」
「あ、失礼。じゃあ人違いかな？」
真堂ルイは、くすっ、と――間違いなく昨日の夜、悪魔のルイがもらしたのとまったく同じ笑い方をした。
その直後、ブレザーのポケットから、ぎょっとするぐらいにぐるぐると渦をまいたビン底メガネを取り出して。
からかうようにあたしを見てから、ビン底メガネをかける。
「……また、お逢いできましたね、マドモアゼル？」
「はっ！？」
「じゃ、なくって、コレなら分かりまスカ〜〜〜？ アハ〜〜？」
おフランスな仕草で小指を立てる。その小指に、きらり、と。
赤い糸が光っているように見えた。
「これからヨロシクお願いしますデスよ〜！」
「あーーーー！！！！ 隣に引っ越してきたストーカー男！」
「ストーカーとはひどいでっす」
そのビン底メガネはまさしく。
あたしの家の隣に引っ越してきたあいつだった。
「キャーーーーイヤーーーーヘンタイーーーーっ！」
思わず逃げ出すあたしを、ビン底メガネのルイは、風みたいに追いかけてきた。
「モーエーカーさーーーん〜！」
「いやあっ追いかけてこないでえっ……っていうか何であたしの名前知ってんのよーーーっ！？」
廊下を曲がって、一瞬、みんなの視界からはずれる。
その、他の誰も見ていない、瞬間。
「もう、逃がしませんよ……クソ真面目なお嬢様？」
「ちょっ……ルイ……！？」
「非常に残念です。お嬢様」
ビン底メガネの悪魔は、冷ややかな笑みを口元に浮かべた。
「私が、どんなに貴女を誘惑しても、結局、貴女は堕ちなかった……がっかりして、あきらめて、投げ出してくれると思ったんですけれども、ね？ どうやら貴女は、私の思い通りにはならなかったようです」
「っ……！」
ルイに、抱きとめられて。
「だから、ゲームは、貴女の勝ち」
その手に、引き寄せられて。
「私との仮契約はもう――無効です」
「ううん……」
あたしは、かぶりを振る。
優しくて。
意地悪な。
悪魔のルイ君。
残念ながら、ルイにとっては思い通りの結果にはならなかったみたいだ。
――あたしを、悪魔の罠にはめる、という当初の狙いははずれてしまったみたいだけれど。
でも、どうやら。
ルイは、まだ、気がついていないみたいだ。
ルイが仕掛けたもう一コの罠に、あたしが、思いっきり落っこっちゃってるってこと。
どうしよう？
どきどきする。
もし、このことを知られたら。
今度こそ、もう、逃れられないかもしれない。
悪魔の仕掛けた、恋の――
甘い罠から。
（終わり）
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