小悪魔で困っちゃうクマー☆ １
「あああああ明日どうしようどうしようっ間に合わない！ 塾のワークもまだ出来てないし！ 英語と数学の提出物まだ最後まで○付けできてないしっ！ あああもう萌花《もえか》のバカバカバカーーー！」
カーテン開けっ放しの窓に映ってる、姿――
もらい物のクマのぬいぐるみを放置した勉強机の前で、ぎゃーぎゃー喚き散らしながら半分パニック状態で通学バックの中身をひっくり返してるのは、まさにこのあたし、小山田萌花《おやまだ もえか》高校一年生。
何でこんな非常事態になってるのかというと……
話は、昨日の昼間にさかのぼる。
学校が終わって、急いで帰ってきたらいきなりマンションの目の前に馬鹿でっかい引っ越しのトラックが止まってて。
そのせいで自転車置き場に入れなくって、で、塾の時間に間に合わないっとか思ってぎゃーぎゃー文句言ってたら。
「やーどーもどーもボンジュール？ 今日、このマンションに引っ越してきましたシンドーでぇっすよろしくどーぞ、あ、これ、引っ越しのご挨拶です」
とか何とか言いながら近寄ってきたビン底メガネ男が、いきなり悪趣味なラブアンドピースのロゴが入ったくしゃくしゃの紙包みを突きつけてきた。
「えっ、ちょっ、はあ、どうも、あの、あたしすいません、急いでるんで」
もちろんそんな気持ちの悪いものは受け取れるわけもなく、逃げるようにマンションへ入ろうとすると。
「いやーこのへんのこと全然わかんなくってさー、いろいろ教えてもらおうと思ってさー、ねー、このへんに店ないかなー、なんかの店ー？」
こっちはマジギレする寸前に焦ってるっていうのに、そいつときたらヘラヘラとチャラく、いつまでもしつこくつきまとってくる。
「あれっ、っていうかカノジョ、その制服もしかして鈴ヶ丘高校で〜スカ〜？ 何だー奇遇じゃんボクもさー」
「何ですか、さっきから。なれなれしくしないでください……っ！」
「何デスよーつれないこと言わないでくださいよー、っていうか同じマンションじゃんー？ ってことはもー”ご近所さんどーし”ってことでひとつよろしくメルシーボクー？」
「もう、あなたたみたいな人しらないって言ってるでしょっ！」
結局、そいつは猛ダッシュで振り切ることにして、あたしは自分の家のある階まで、階段で一気に駆け上がった。
ここまで来ればもう安心、と、ばかりに、ほっと一息ついて歩き出したあたしの背後から、ちーん、というベルの音が聞こえた。
背後のエレベータが、誰かの到着を報せている。
「あっ、カノジョ、奇遇じゃんまた会ったー」
へらへら笑いながら、ビン底メガネ男が近づいてくる。
「ええっっ！？」
そう、愕然と立ちつくすあたしの眼に映ったのは。
しばらく空き家だったはずのお隣の部屋が、まさしく引っ越しの最中であって。
次から次へと運び込まれてくる荷物の山で通路がいっぱいにふさがれている図と同時に。
新しく掲げられた隣家の表札に、ふざけた鉛筆書きで、「しんどー」と書いてあるという……
衝撃の事実だった。
と、まあ、そんなことがあったのはともかくとして。
ビン底メガネからもらったのはクマのぬいぐるみだった。
何かちょっと気味悪い。と思って。
そのまま袋をかぶせ直して、とにかく塾へと出かけた。
テスト前特訓でいつもより遅い時間に帰ってきたのが夜の十時。
送迎バスがすこし遅れたから、もしかしたら十時十五分はまわってたかもしれない。
で、疲れたから、シャワー急いで浴びて、パパが帰ってくるのを待って。
で、パパのごはんを、いつでも食べられるようにと思ってきちんとテーブルに並べといたのが確か十一時過ぎぐらい？ だったはず。
（萌花ーただいまー！ おー起きててくれたのかーすまないなあ、いつもー、おっ、うまそうだなー！）
パパが帰ってきたのは十一時半すぎ。
会社からうちの最寄り駅まで、満員電車で一時間ぎゅうぎゅうづめになって、揺られて。
それからバスでだいたいうちまで十分ぐらいかな？ きっとお仕事でくったくたに疲れてるだろうに、いつも駅前の二十四時間営業スーパーで、ちゃんと明日のばんごはんの材料を買って帰ってきてくれる。昨日だって、嬉しそうに半額シールの貼られたお刺身とか、おやさいとか、見切り品をちゃんと選んで買ってた。ホントに大変だと思う。
（おかえりパパ！ 晩ご飯できてるよっ！ 暖めてあげよっか？）
（いいよいいよパパ自分でするから。お前、明後日から期末テストじゃなかったか？ テスト勉強進んでるか？ 提出物はちゃんと仕上がったか？ 提出物ちゃんと出さないと、内申点に響くんだろ？）
（ううん、大丈夫、提出日は”明後日”だもん）
と、その時点までは思ってたのだ。でも、何か気になって――
明日の持ち物の最終チェックをしようと時間割を見て、そのあとテストの時間割を見た。
出題範囲。英語ワークp１２〜４４、数学ワークｐ３５〜６１、なお提出物は職員室前提出ボックスへ。（※注意！ テスト前日の放課後までに必着のこと）
――なんてかいてあるのを見るまでは。
▼
「う、う、うそおおーーーー〜〜〜〜〜！！！１１！！！」
あまりの衝撃にキョドってしまう。右。左。上。下。前。後。ちらっ。
もう一度、時間割を見直す。
テスト前日の放課後。って書いてある。
で、明日は。
その、テスト前日、だ。
ぎゃーーーーーーーーーー！
はあはあ。ちょっと待て。
落ち着け。
落ち着くののののののーーーーー！
って、全然落ち着いてないし！
深呼吸。そう、深呼吸するのよ。
すう、はあ、すう、はあ、はあはあはあうわああーーーんっ！ やっぱめちゃくちゃやばいーーー！
きっとこれは何かの間違い。
仮にもクラス委員長であり、真面目だけが取り柄のあたしが、よもや提出日を間違えて記憶していて、”前日必着”のワークが”何一つ出来てない”とか、そんなことが現実にあるわけが――
縁の広い、度のきつい小さめなメガネを、いちどはずして。
眠い眼をこすって。
ぎゅっとつむって。
それから、かろうじてすがりつくための自尊心を取り戻すために、呼吸を整える。
きっと、勘違いに決まってる。
きっと……。
（小山田は、いつも前髪きれいにそろってるし、身だしなみもさっぱりとしていて、良い意味で女子高生らしくて、先生は見てて気持ちが良いぞ。うん、校則を守るってのはいいことだ）
以前、クラスで集めた提出のプリントを職員室に持っていったとき、担任の先生がお礼の言葉と一緒に言ってくれた言葉を思い出す。
それを、隣の席にいた、イケメンでサワヤカ、女子人気最高な英文の佐竹先生にまでバッチリ聞かれたのは、さすがにちょっと恥ずかしかったけど。
とかいっても、ホントのあたしは、ただ冒険できないだけ。
いつもきちんとしてる、んじゃなくて、レールから外れる勇気がないだけ。できるだけ目立たないように、地味にしてるってだけ。
校則って言ったって、そもそもそんなに厳しいわけじゃないし。生徒の自主性に任せる、ってことで、先生も所持品検査の日以外は見てみないふりをしてる。
中には禁止されてるケータイ持ち込んでるコもいるし、バイトだけじゃ絶対買えないような、ブランドものの凄い高そうなバッグさげてきちゃうコもいる。
髪もくるくる巻いてみたり、茶髪に染めてみたり、本気でおしゃれに命かけてるコもいるけど、あたしはちょっと、逆にそういうのは難しい。
結局、真面目にしてるのがいちばんカンタンだから。
前髪もぱっつんだし。
いまどき黒ゴムのお下げだし。
地味メガネもはずせない。
スカート丈だってぜんぜん普通。
ときには、他のみんなみたいに、きゅって短めにして可愛くてしてみたい、とか思うことも時にはあるけど、可愛くしてるコたちはみんなホントにカワイイからそれが許されるって思うから、あたしみたいなダサイ子が目立つと恥ずかしい。
だからってわけじゃないけど、とにかく高校生活は大学受験めざして頑張る、って決めた。決めたからにはあきらめたくないし、いったん自分で決めたことを止めちゃうのは、早くも挫折した人みたいで恥ずかしいし、怖いし、後ろめたいし。
そもそも、勉強以外に何をすればいいのかわかんないから。
だから、せめて真面目にして、何するにもきちんとして、目立たないようにして――
って、そう思ってたのに。
そのあたしが、まさか、ワークの提出日を間違えるわけが……
おそるおそる、もう一度、最終確認のつもりで、ちらっ、と横目に目をつぶってから、テスト範囲の日付を確かめる。
ああ！
……やっぱり明日だ……！
「あああああ明日どうしようどうしようっ間に合わない！ 塾のワークもまだ出来てないし！ 英語と数学の提出物まだ最後まで○付けできてないしっ！ あああもう萌花《もえか》のバカバカバカーーー！」
あたしみたいな、真面目しか取り柄がないコは、テストで良い点取るなんてほんとに徹夜でもして頑張らないとムリなのに！ マジでどうしようっ！？
もう……夜中の二時だ……
ホントに、どうしたら……！
そのとき、窓を誰かが、コン、と叩いた。
「今忙しいから！」
コンコン。
もう一度叩く。
「もうっ！ マジでヤバイって言ってるでしょ！」
と、そこで、あたしはあり得ない現実に気がつく。
「ちょっと待って……誰！？ 誰が叩いてるの？」
窓の外から、こん、こん、と誰かがガラスを叩いている。
でも、よくよく考えると。
ここは、マンションの六階。窓の外に、人がいるわけが――
と、思った瞬間。
目の前が、突然、ピンク色に光った。
触ってもいないのに、いきなり、がらりと窓が開いた。
外から、風が、ごうっと音を立てて吹き込んでくる。
あたしは思わず悲鳴を上げた。眼を庇うのも忘れて、とにかく机の上のワークを必死に押さえる。こんなビル風ごときに提出用ワークを飛ばされてなるものかっ！
まるで投光器で直接部屋を照らし出されているかのようだった。まぶしい光に、あたしは眼をかばう。
「やあ、そこのクソ真面目なお嬢さん」
人を小馬鹿にしたような、それでいて落ち着いた声が聞こえた。
机の上に置いてあったクマのぬいぐるみが。
すっく、と立ち上がっている。
「どうやらお困りのご様子」
いったいどこから垂れ流しているのか、ちゃんかちゃんかと騒がしい笛の音がいきなり流れ込んで来る。
「そんなときにはお電話一本、６６６−６６６６。信頼と実績の悪魔派遣協会へ。誰にも言えない貴女のお悩み、秘密のおまじないと悪魔パワーであっさり解決してみませんか？ クソ面倒な宿題も、受験も、人間関係も、この契約書にサインしさえすればあら不思議、どんな悪事もお望み次第……さあ、罪の大小にかかわらず、どうぞお気軽に声をおかけ下さいま……」
「あたし、今、忙しいから」
勝手に開いた窓をぴしゃんと閉める。
声が遮られる。風にあおられていたカーテンもようやく静かになった。窓の外のサイケデリックなピンク光も、すぐに見えなくなる。
まったく、提出ワークが終わるか終わらないかっていう瀬戸際だって言うのに、いったい全体今の訳分からないサオダケ屋さんみたいな宣伝カーは何？ だいたいこんな真夜中にいったい何？ 何を売り歩いてるのか知らないけど変な宣伝文句まき散らして、窓の外を走り回ってるなんてマッタク非常識きわまりない……
ん？ 窓の外？
気のせいだ。うん、気のせい。
あたしはぶるぶると頭を振る。
きっと眠気と現実逃避でアリもしない幻聴を聴いたに違いない。そんなことより先にワークを……
コンコン。また窓が外から叩かれる。
「だから何！」
あたしはずかずかとまた窓に近づき、カーテンを、がばっ、と開けた。
次の瞬間。
「……！」
窓の外に、一瞬、くろぐろと闇の影が広がった、かと思うと。
クマのぬいぐるみが、吸い上げられたように空中へと浮かび上がる。
耳元に、ひゅんっ、と甲高い風の流れ込むような音がして、天井から少年が舞い降りてきた。
いや、違う。あのもらいもののクマのぬいぐるみが――
光を放って。
少年に姿を変えた、のだった。
黒スーツに黒のネクタイ。たっぷり巻いた純白のストール。
そいつは、ぎょっとして立ちつくすあたしの背後に音もなく着地した。
一瞬、窓ガラスに黒く広がる影が映り込む。
ガラスに映った少年は、明らかにあたしを見つめてにやりと笑った。
声も出せず硬直して立ちつくすあたしの背後から手を伸ばして。
いきなり、ぴたり、と。
悲鳴を上げる寸前だった口を掌で塞いだ。
「ううううう！ ううっ！ うう！」
「少々お静かにしていただけませんか？ クソ真面目な性格しか取り柄のない地味でダサめなお嬢さん？」
「ううう！ ううううう！」
後ろからぴったりと口を塞がれてしまって、どんなに叫ぼうとも声にならない。もがいて逃げだそうにも、腕でぐるりと身体ごと回し抱かれていて。
そのときのあたしのううううをちゃんとした言葉に訳せば、だいたい、
「何なの！ ちょっと！ このぬいぐるみ！ 人の家に勝手に入ってきて！ クマのくせにおかしくない！？ あたしワークしなくちゃいけないって言ってるでしょ！ だいたい地味でダサくて悪い！？ あんたなんかの相手してる場合じゃないの！ 明日、提出日なんだからねっ？ 間に合わなかったらどーしてくれんのっ！？」
本当は、もっと、重要なことを言わなければならないような気がするのだけれど、でも、あたしの頭はとにかく。
ワークしなくちゃ。
ってことで頭がいっぱいで。
そいつが何者なのか、とか。
何でいきなり部屋に入ってきたのか、とか。
そもそも、マンションの十階の窓だというのに、どうやって入って来たのか、とか。
そんな、最も肝心と思われることすべてが、頭から吹っ飛んでいた。
ううん、そもそも、「クマのぬいぐるみが少年に変身した」という時点で――
あたしの日常は崩壊しているも同然なんだけれど。
「よろしいのですか？」
黒服の謎めいた少年は、あたしの耳元で、くす、っと笑った。
「このままでは、絶対に、間に合いませんよ？」
「へ？」
少年はゆっくりとあたしの口から手を離した。
「今、何て？」
「このままでは絶対に間に合いません、と申し上げたのですがミミクソかっぽじらないとこれまた聞こえませんでしたか？ クソ真面目しか能のないお嬢様？」
慇懃無礼に微笑みながら、出てくる言葉はクソクソの連呼だ。
かちん、と来る。
「あ、あんたこそ何様！？ 邪魔しに来たんならとっとと帰って。あたし忙しいの」
「どうせ間に合わないのですから、いくら頑張っても焦ってもやるだけ無駄」
「えっ」
「そうやって何度も何度も聞き返す時間こそが最大の無駄だと思いませんか」
「だ、だから……出て行ってって言ってるじゃない……」
「はあ、やれやれ。何度、同じことを繰り返し言わせたら気が済むのです？ 私は壊れたプレイヤーじゃありません。良いですか、同じことは二度言いませんよ、ムダですから」
「そっちこそムダに同じことしか言ってないじゃない！」
「はあ」
少年はまた、あからさまにため息をついた。しらじらしく目をそらす。
「……お可哀想に。さては、テスト途中の長文読解に無駄な時間を費やし、簡単に解ける最後の問題を時間切れで全問失う、馬鹿正直が馬鹿を見るタイプでいらっしゃいますね？」
「ちょっと、人のこと残念な人みたいに言わないでよ！ ……半分その通りだけど！」
「やれやれ。クソ真面目なだけが取り柄だと思っていましたが、残念ながら貴女の欠点はそれを遙かに上回るガチな石頭のようです」
最初の衝撃から少しずつ眼が覚めてくると、驚きや疑問よりも先に、この少年の態度そのものに怒りがこみ上げて来る。そもそもいきなり人の部屋にやってきてなんだかんだと説教を始めるとは何事だ……
「オウムじゃあるまいし言われたことをそのまま言い返すレベルのツッコミではとてもとても現状を打破しようとする意欲があるとは思えません。当意即妙な受け答えもろくにできないくせに、一を聞いてマイナス一を知るという状態では」
「何それどういう意味！？ 誰がツッコミよ。あたしは勉強したいの。ボケツッコミの練習したくてこんな夜中にまで起きてるわけじゃないんだからあんたこそとっとと出て行きなさいよ！」
少年は、かすかに小首をかしげた。漆黒の髪に、深紅の瞳。真っ白な肌。
まるで、外国人だ――
おもわずぎくりとして、眼をまじまじと見ひらく。少年の顔を見つめる。
信じられないぐらい、きれいな顔。
心臓に、てのひらをぎゅっと押しつけられたような、気がした。
どきん、と胸が音を立てる。
な……
何、この反応……！
でも。
「貴女が、おバカだからです」
少年が発した言葉は、常日頃温厚で有名なこのあたしの堪忍袋の緒を、ぷっちーん！ と斬り飛ばしてくれるに十分だった。それこそ、わざわざ手の届かないところにある枝の下に高枝切りばさみ持ちで駆け参じてきて、わざわざ切る必要もない枝、という枝を総丸刈りにしてくれるぐらいには許し難い所行と言えた。
「な、な、なんですってーーーッ！」
あたしは顔を真っ赤にして声を張り上げようとした。
「ほら、また」
突然、指をぴっ、と立てて。
少年は、しー、と、自分の唇に押し当てる真似をした。
そうしてから、一度くちびるに当てた指を、ゆっくりとあたしへと向けて。
「な、なっ……」
心臓が、どきっ、と跳ね上がる。
指が、少しずつ、あたしの目の前へと近づいてくる。
「何……する気……！？」
指の先が、ぴたり、と。
あたしを指し示す。
「一言、よろしいですか？」
あたしは、びくびくしながら後ずさった。
「……だ、だめに決まって……」
少年は驕慢に、ふっ、と微笑んだ。
その、完璧、とも言える笑顔に。
また、どきん……、とする。
知らず知らず、頬が、かあっ……と熱くなっているような気がした。
いや、違う……ちょっと気を呑まれて、びくぅっ、てしてしまっただけだ。
ここで引いたら、なしくずしに相手のペースにはめられてしまう。
あたしはあわてて自分の回りに理性の防御鉄条網を張り巡らせた。
そんな、一時の気の迷いで、おろおろしても仕方がない。ここは撃退の一手を打つほかに手はないのだ。
だいたい、こんな変な奴、こんな失礼な奴、それも初対面のくせにいきなりバカだの何だのと言ってくるような奴に。
どきん……、って、させられるなんて。
絶対に……あり得ないんだからっ……！！
「光陰矢の如し、ですよ、お嬢様」
少年は、くすっと意地悪に声を上げて笑い、背後の壁を親指でちょいと示した。
「私がこの部屋にお邪魔してからすでに十五分が経過しています。それだけの時間があればワークの一問も解けたはず」
「何たわけたこと抜かしてくれちゃってんのよ、そっちでしょ、思いっきり邪魔してんのは！」
「さらに十秒経過」
「だからとっとと出て行けーーーっ！」
「二十秒……三十秒……さあ、いかがなさいますか？ クソ真面目以外取り柄のない、残念な頭《おつむ》のお嬢様？ 少しは私のご提案を聞いてくださる気になりましたか？」
かっちーーーん！
な、な、何なのコイツ！
むかつく……！
「そこで、悪魔との人生楽々契約はいかがですか？」
「お断りします」
「誰にでもかけられる誘惑の魔法を使って小悪魔少女に変身し、魅惑の人生をエンジョイしてみませんか？」
「誇大広告も甚だしいです」
「お申し込み方法はびっくりするほど簡単です」
「むしろ提案内容にびっくり仰天です」
「この申込書に住所氏名年齢電話番号、印鑑を押して頂くだけで」
「個人情報の不正所得です」
「簡単お申し込みの完了です」
「即時にクーリングオフを請求します」
「なお、悪魔の保障は一生涯」
「いっそ、今すぐ消えてください」
「今なら月々の振り込み手数料が何と無料に」
「振り込め詐欺で訴えます」
「もしご検討頂けるようでしたら、微力ながらサービスとしてワークの仕上げをお手伝いさせていただきますが？」
「！」
「いかがでしょう？ お互いに悪い申し出ではないと思いますが」
少年はまだ、気取った口調で手をひらひらさせ、誘うような笑顔を浮かべている。
あたしはぎくりと息をつめた。
そうだ、こんなバカの相手をしている場合ではなかった……！
机の上のワークを見つめる。
まだやってないページが数十ページもある。
こんなことをやってたら、絶対に間に合わない。
あたしは謎の少年を見やった。少年は、相変わらずふざけた、見下げたような薄笑いを浮かべている。
手伝ってくれる、っていうなら、手伝ってもらえばいいじゃん？
どこかから、あたし自身の、声が聞こえた。
えっ……？
自分の中から聞こえてきた声に、あたしは逆に動揺した。
まさか、自分が、そんなことを考える子だったなんて――内心、思ってもみなかったから。
これは、きっと、悪魔の誘惑。
だめ。そんなの。
自制心が足りない。
そう思おうとしても――
どんなに頑張ったって、何十ページも残ってるのに、今さら、全部できるわけがないんだからさ……
もう、そんなに、必死に真面目ぶって、必死に良い子ぶって、必死に先生に気に入られようとしなくったっていーじゃん……？
そんなどーでもいいようなことに必死になるのってやっぱダサい証拠……カッコ悪いよね……
テキトーでいいじゃん……それなりの点だけ取っとけばさ……？
一回や二回ぐらい、悪い点取ったってどうってことないよ……？
ちょっとぐらい。
サボったって。
今回、一回ぐらいなら……
「……さあ、お返事は如何に？」
黒いスーツの少年は、柔らかく微笑んであたしの手を取った。
あたしは、声もなく、少年を見返す。
「……この私と契約していただけますか、お嬢様？」
契約……？
ふと、気がつくと。
あたしは、少年の腕の中にいて。
ゆっくりと、ほっぺたに触られていた。
「私にすべてをお任せ下されば」
優しい吐息が、ふっ、と耳元に吹きかけられた。
「契約してくだされば、お嬢様がお休みになっていらっしゃる間に、私がすべて片づけておきましょう……安心して、ごゆるりとお休み下さっても結構ですよ……？」
髪を、指先で、くる、くる、いじられている……
何でだろう……急に、頭の中が、ぼうっとしてきて……
訳が、分からなくなってる……
眠たい……
こんなことしてる場合じゃ……ないのに……
急いでワークしなくちゃ……間に合わないのに……
でも……手伝ってくれるっていうんなら……
ほんの少しぐらいなら……
ほんのちょっとなら……？
そう、そんなに大げさなことじゃない。
ほんのちょっとだけ。
五分ぐらいでいい。
……この変な人に任せて……休憩するぐらい……別に構わない……よね……？
「契約の意志有り、ということでよろしゅうございますね？」
「……」
「では、誓いのキスを」
ひどいめまいにも似た眠気に襲われる。
あたしは、少年の腕に抱かれて、その、つめたい微笑みの形をした唇が近づいてくるのを、見つめていた。
えっ……？
う、うそ……
あたし、キス……されちゃうの……？
どきん……。
どきん……どきん……って。
鼓動が、高鳴る。
胸が、きゅっ、と。
息苦しく、なってゆく。
キス……なんて……
今まで……
いっ……一度も……！
幼稚園の時に、パパに冗談で、ちゅっ、てしてあげたの以外、したことないのに。
もし……キスなんか……されちゃったりしたら。
あたし、どうなっちゃうんだろう……？
胸が、どきどきして。
身体の奥の方が、こらえきれないぐらい、ぎゅうって締め付けられるように熱くなって。
もしかして、いつも、こんな……ふうに……
男の子のことばっかり、考えるようになっちゃうのかな……？
勉強しなくちゃいけないって分かってるのに、頭の中が、男の子のことで、いっぱいに、なっちゃったりするのかな……
授業中でも、ぼーっとして……ノートに……意味不明の落書きをいっぱい……しちゃったりするのかな……？
男の子と手をつないだことだって、運動会の練習でダンスしたときぐらいしか記憶がないっていうのに。そんなあたしが、いきなり、知らない男の子にキスされちゃったりしても……本当に、いいのかな……？
男の子と、手をつないで。
男の子と、キスして。
男の子と――抱き合って。
真っ白な光があふれ出すみたいな、そんな光景を思わず想像しそうになって。
「ま、待って……」
必死にそう言おうとしたけど。
声が、かすれて。
出ない。
「そんなに……ご自分を卑下なさらなくても大丈夫ですよ」
少年の声が聞こえた。
「堕ちてゆく貴女は、充分に魅力的ですよ……萌花お嬢様？」
あたしの名前を……知ってる？
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