めるきゅー ついてるかついてないかは問題ではない。重要なのは「俺の貞操が危ない」ということだ
ピ・ピ・ピ・ピ……
朝からけたたましい携帯のメロディアラームが鳴り響いている。
「う……ん……」
八坂翔太は、心地よい朝のまどろみに身をゆだねつつ、ベッドの上で寝返りを打った。
もう誰かがカーテンを開けたのか、まぶしい朝日がしらじらと降り注ぐ。
ぴっちょん……
ぴっちょん……
と、今度は、血のしたたり落ちる音にも似た、背筋も凍る小鳥のさえずりが聞こえ――
「フッフッフ……」
何者かが、ズリ、ズリッ……と、這いずる音をさせて近づいてくる。
赤く反射する眼。迫り来る闇。一体、何が――忍び寄ろうとしているのか。
ギィ、と、不気味な軋みをたてて寝室のノブが回った。
「目覚めよ」
ドアが、勝手に押し開かれてゆく。
「目覚めよ……」
空気の抜けるような音を立てて、白くこごった冷気が流れ込んだ。
とたん、室内の温度が明らかに下がった。
闇の霧をまとった薄暗い影がゆらめく。
「朝……なのである……」
ゆらゆらと不定形に揺らめく影は、みるみる寄り集まり、実体化し、マントを頭からかぶった少女の姿へと変わった。
ギラリ、と手にした銀の光を振りかざす。
「いざ運命の時宜は来たれり！」
少女は漆黒のマントをばさりと跳ね上げた。声を高々と張り上げる。
「悪徳の栄えたる死悪花《ラブレシア》の憎魔《ゾーマ》メルメルが命ず……まばゆき堕落の光、終わりなき灼熱の永劫より忍び来たりて砕け散るがごとき地獄の肉片、暁の刃光をその身に浴び、悶え苦しむ定めの二度寝の民よ、ひたすらに惰眠を貪る愚昧なる無為の時を過ごせし慚愧の念に、今こそ胸かきむしり倒れ臥して自ら犯したる愚行の末路を呪うがいい！」
手にしたフライパンとおたまを、ガンガンと翔太の耳元で叩き鳴らす。
「起きるのである、翔太！ これ以上寝ててはいけないのである！ もう朝なのである！ 今日は早起きするやくそくなのである。起きないと」
ぽい、とフライパンを背後に放り投げて、翔太のパジャマに手を突っ込む。
「ちんこひっぱるのである」
「はうーーーーっ！？」
……翔太はベッドから転がり落ちた。
「おはよーなのである、翔太」
「頼むから股間ダイレクトキャッチはやめろ」
「ではしょうた、代わりにこれを持つのである」
メルメルは、ひょいと手を振り、何もない空間をがらがらと引き戸のように開けた。
皿に乗った串付き焼きたて、じゅうじゅう、あっつあつの美味しそうなロングフランクフルトを取り出す。
「？」
「持ったまま、じっとしてて欲しいのである」
何が何だか分からないまま、フランクフルトを手に持たされる。
「どうすんだ、こんなもん？」
「まあ見ているのである」
まだ熱い汁がこぼれおちているそれに、メルメルは、ふうふうと口をとがらせて息を吹きかけた。
ぱくりとくわえる。
「ふふっ、しょうたのフランクフルト……食べちゃうのである」
もぐもぐ。
「ぁんっ、すごく熱くって……めるめるのお口には入らないのである……！」
んぐんぐ。
「しょうたのフランクフルト……こんなに、いっぱい、汁が出てるのである……！」
暑さと恥じらいで顔をかぁぁっ……と朱に染めながら、さらに舌を出してからめ、横すべりにくわえる。
「あふん……しょうたの味がするのである……おいしいのである……！」
「俺の股間でフランクフルト食うな」
「じゃ、代わりにちん……」
「最後まで言うな、お恥ずかしい」
翔太は赤面してメルメルを押しのけた。
「まったく、どこで覚えたんだそんなセリフ」
寝ぼけまなこで髪の毛をかきながら、壁掛けの時計を見やる。
「……パパさまの持ってる、年甲斐もなくせーらーふくを来たおばさまが映った円い銀色の平べったい円盤に書いてあったので……」
「……しっ！」
寝起きの悪さも一瞬で吹っ飛ぶ。翔太はあわててメルメルの口を塞いだ。
「んぐ！ うぐ！」
「おい！ まさかそのこと母さんにチクってねえだろうな……！」
「んぐぐぐ！」
メルメルは口を塞がれたまま、ぶるぶる首を横に振った。
「んぐ！ んぐ！」
「ならいい」
安心して手を放す。
「ぷはあっ！ 何するであるか！」
ようやく解放されたメルメルは、ぷう、とくちびるを尖らせて翔太を睨み付けた。
「そんなことどうでもいいのである。昨日の晩、お願いしたのをもう忘れたのであるか！？」
「はあ……何だよまだこんな時間じゃねえかよ……それより何だ？ 早起きの約束って」
「ひどいのである。翔太のいじわる、なのである。世紀末美魔女学園ミスコンテスト五百回連続優勝中の我がこんなに頭を下げているというのに、そのお願いが聞けないというのであるか！？」
「だから、内容をまず言えっての」
「内容？」
メルメルは、指を一本あごに押し当てた。
「んんー？」
少しずつ首がかしげられてゆく。
「だからそのお願いって何だよ」
メルメルは、こきん、と首の傾きをただすと、何処吹く風でにっこりと笑った。
「……忘れたのである」
「何だそりゃ」
翔太はあくびし、ベッドから降りた。
「覚えてないんじゃ意味ねえだろ」
苦笑いしながら着替え、ブレザーの袖を手を通してダイニングへと向かう。
「おはよう」
「あら、おはよう、翔太。メルちゃん、ごめんなさいねー、わざわざ翔太を起こしてもらって」
母親が呑気に笑いかけてくる。
「今日は時間があるからお弁当したわよ？ 翔太とメルちゃんと伊月ちゃんの三人分ね。あと伊月ちゃん、イチゴオレ好きだったわよね？ 保冷剤と一緒に入れておくからね。ちゃんと渡してあげてね？」
「わあ〜やった〜おいしそうなのである〜」
「伊月のまで用意したのかよ」
「だってぇ〜伊月ちゃん可愛いし〜」
「可愛いとか言うな。あいつは男だって言ってんだろ」
「どっちにしても、いつも外食じゃ可哀想でしょ」
「やれやれ、モテモテだな翔太は」
コーヒーを飲みながらニュースを見ていた父が冷やかす。
「まったく、誰に似たんだ？ 俺か？」
「まあパパったらぁ〜、うふン♪ やっぱり？ そうね♪」
「だな、きっと、ママの可愛いところとパパのモテモテが合体して変形して不条理になったんだよ♪」
「やぁん、パパったらぁ、何、朝からえっちなこと言っちゃってぇん♪ 素敵ね、パパ♪」
「ふふっ、ママがちっちゃくて可愛いせいだろっ♪ 可愛いよ、ママ♪」
人目もはばからずいちゃいちゃラブラブと互いにほっぺたのつつきあいなどしている。翔太はうんざりして顔を洗いに行った。
「まったくバカ親どもが」
朝っぱらから両親のバカップルぶりを見せつけられるぐらい、うんざりすることはない。
「パパさまもママさまも、見ているこっちが恥ずかしいのである」
「ってオイコラ。ちょっと待て！」
と、そこで根本的な疑念にようやく思い当たり、ずどどど、と足音も荒く駆け戻る。
「よく考えたらお前ら、何不自由ない顔してまったり和んでんだよ！」
制服の袖をまくりあげ、眉間に剣呑なしわを寄せてメルメルを睨み付ける。
「あらぁ、翔太ったら。パパに向かってお前とか言っちゃだめじゃない」
「オヤジじゃねえよ、こいつだ」
翔太はびしいッ！ とメルメルを指さした。
「ん？」
いつの間にか、メルメルもまた、ちょこん、とダイニングテーブルについている。
「はて。誰のことであるか？」
「お前以外に誰がいる！ そもそも、何でお前がうちにいるんだ！」
「細かいことは気にせぬが吉である」
制服姿のメルメルは、ほっぺたにフランクフルトのケチャップをつけ、にこにこしながら朝食のトーストを食べている。
「魔法少女もののお約束として、主人公の家に押しかけた場合は、敵に命を狙われて殺されそうになったところちっちゃくなる魔法にかかってしまったので、メガネをかけて正体を隠し、あちこちの親戚にたらいまわしされて預けられた子どものふりをしつつ学生生活を謳歌せよ、というのが王道であるとネットで見たのである」
「何かいろいろ著作権的にヤバイぞその発想は」
「ふふっ、でもメルちゃんの場合は、きちんとご挨拶してもらったからいいのよ？」
「うむ、それに、よく考えたら我はつるぺたではあってもメガネっこではないのであった」
「さらっと人前で身体的特徴を暴露すんな。そしてそこのオヤジ、皿に大量の鼻血を出すな」
「これは鼻血じゃなくてケチャップだよ、ぶはあっ……！」
メルメルは気にもせずに、あたためてもらったミルクのマグカップに口を付けた。
「ママさま、この飲み物、実にあったかくてほっこりするのである。我も血へどを吐き泥の中を這いずり回って訓練し、いつかこれらきらびやかにして得も言われぬ燻蒸の香り高き宮廷料理の数々を即座にチン、と作り出せる凄腕の悪辣鬼女になりたいものである」
「うふふ、メルちゃんたらぁお上手ね♪」
「……どう考えても、罵詈雑言並べられてるようにしか聞こえないんだが」
「……いやぁん翔太ったら何、朝からえっちなこと言っちゃってぇん♪ うふ〜ん♪ なのである」
「わざわざ真似るな！ だから何でメルメルがうちに……」
「そんなに怒らないであげてよ、翔太。メルちゃんね、転校したてのほやほやで、まだおうちがないんですって」
「家がない！？」
翔太は眼を剥いた。
「家ないのに何で転校してきてんだよ」
「でもないものはないで仕方ないである。だから居候するである」
「って、その時点ですでに設定がトンデモ強引すぎるだろ。少しは常識的に考えられないのか」
「不条理の根源である翔太が、こともあろうに常識を語るなんて、ちゃんちゃらおかしいのである」
「……どこからどこまでご都合主義なんだお前は」
「あ、でも、ちょっと間違えてたので訂正するのである」
「何にだよ」
明らかに嫌な予感がひしひしとこみあげる。
「居候ではなくて同棲なのである……きゃっ☆恥ずかしいである♪」
「☆だの♪だの散らすな。聞いてるこっちが恥ずかしいわ」
「ふふっ、翔太ったら見かけによらず手が早いのね……？」
「だからわざと勘違いするなって！」
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。パパとママもね？ 学生の時、一週間ぐらい同棲してたらいつの間にか翔太がおなかにうふふふふふってホントにこれぞまさしく生命の神秘よねえパパ？」
「あはははははホントに生きてるってすばらしいよねママ♪」
「あははん♪ ねえパパ、そろそろ……ちょっと年の離れた弟なんて……どうかしら♪」
「おおっ、ママ、いいねえ！ ちょっと年の離れた妹もいいかもな♪ かわいいぞ〜〜？」
「我が家にも、コウノトリさん来てくれないかしらね？」
「そうだねえ来ると良いな？」
「てっ……てめえら朝っぱらから……少しは配慮しろよ。全員、頭のネジ百本ぐらいゆるんでんじゃねーのか！」
「翔太、お前、小っさいヤツだな。そんなことではパパみたいに立派な大人になれないぞ？」
「翔太のアレはアレより小さいのであるか？」
「横から口を出すなっていうか待て何だその比較表現は。何と何を比較してる」
「……こういうときはしらんぷーするのである。しらんぷ」
メルメルは、横を向いてぱくり、とトーストをくわえた。
「知らぬがほっとけである。我は寛容ゆえちっさくても気にしないのである」
「まあ、めるちゃんったら肉食系なのね♪ うふっ、骨付きフランクフルト、もう一本あるわよ？ ほらどうぞ。熱いから、ふうふうして食べてね。ケチャップだけじゃなくてマスタードもあるのよ？」
お皿にのった焼きたてのフランクフルトに手早くケチャップをかけ、手渡される。
「わあい血まみれ血まみれ〜！ ママさま、ありがとうなのである！ 我は血まみれヌトヌトなケチャップも大好きなのである！」
「血まみれ言うな」
メルメルは顔をつやつやてかてかに輝かせ、焼きたてじゅうじゅうのフランクフルトに飛びついた。ぱりん、とかろやかな音を立ててかぶりつく。
「あちっ、なのである！ でもおいひいのである！」
「顔中ケチャップだらけにしやがって。これからはマスタードで食え。ほらよ、ぶっかけてやる」
「はにゃああっ！？ 何やらドプドプッと出てきたのである！？」
「表現おかしい」
「うふっ、メルちゃん、おいしい？」
「んぐ……！？ 何なのであるこれは！ はひゃぁぁわわ辛い、辛い、辛いのである〜〜鼻がつーんとするのである〜〜〜！」
「悪魔にニンニク以外の何かが効くとは思わなかったな。覚えておこう」
「ううう……辛い辛い……それでもフランクフルトはおいしいのである……！」
「そう、よかった。メルちゃんはホントにフランクが好きなのね」
「うむ、でもしょうたのちんこのほうがもっと好……」
「お、俺、もうガッコ行ってくる！」
翔太は椅子を蹴立ててあとずさった。これ以上この場に残っていては、家族に不条理な悪影響を及ぼしすぎてしまう。そう――
不治の病、不条理連鎖症候群Absurd-linked Syndrome 略してＡｌＳのせいで。
「え、もう出かけるのであるか？」
メルメルは、口にフランクフルトをくわえたまま、きょとん、と小首をかしげて翔太を見上げた。
「何をそんなに急いているのである」
「お前のせいだろーがっ！ 行くぞ、メルメル！」
「はうう、行ってきますなのである」
翔太はメルメルの手を引き、あわてて家から飛び出した。
学校に到着する。まだ登校時間には早い時刻のはずが、何人もの生徒が校門前で立ち止まってたむろし、不安そうに話し込んでいる。
「ねえ見た？」
「何、あれ……？」
何やら、怯えた表情でひそひそと噂しあっている。
女子が翔太の顔を見た。
「うわ、来たよあいつ」
「これ以上騒ぎ起こしてどーすんの」
「ほっとこほっとこ！」
嫌な感じだった。さすがに登校直後から後ろ指を指される覚えはない。やや、むっとして逃げる女子たちの背中を睨み付ける。
「何だ、あいつら」
「あ、いつきなのである」
メルメルが指さす。
グラウンドの傍らを、校舎裏に向かって伊月がかろやかに駆けてゆく。翔太は追い掛けて声を掛けた。
「おう、早いな伊月。どうした？」
伊月は目を丸くして振り返った。
「あら、おはよ、翔太こそどうしたの、こんな時間に」
明るく微笑む。むすんだ髪がさらりと揺れた。きらきら輝いている。
「いや、何だか知らないけど、メルメルのやつが早く学校に来たかったらしくてさ」
「あら、メルちゃん、約束のこと覚えててくれたの？」
「おはよなのである、いつきー！」
翔太の隣にくっついていたメルメルが、ぱたぱたと伊月に駆け寄って飛びつく。
「きゃあんっ！」
短いプリーツスカートが、ふわりと風を含んだ。ちらっとひるがえる。
「うふふ、おはよ、メルメル！」
健康的にすらりと伸びた、まっしろな肌が、朝日よりもまぶしく目を射る。
メルメルは伊月の胸に顔を突っ込んだ。
「……きゃ……？」
鼻を押しつけ、くんくんと匂いをかぎ回る。
「むむ！？ これは何なのであるか！？ かぐわしくもどす黒き匂いがするのである！ いつもと違う、殊更にねばつく闇、甘やかなる深淵の悪夢より這い出でし名状し難きものの香り！」
「やぁんっ、そんなに、あんっ……強く……！」
伊月はメルメルの勢いに半ば押し倒されかけながらよろめいた。
「あっ、あん……っ、翔太にもこんなにも激しく胸を揉まれたことないのに……！」
「この間まで男だっただろ」
「ああんっそっけないツッコミ！ いいのよもっと激しく突っ込んでも」
「……断る」
ブレザーに押し込んだはちきれんばかりの胸を、半ばはみ出させて伊月はあえいでいる。
「あんっ、んっ、この際、翔太も一緒にあたしの胸の感触を楽しまない？」
「いや、朝イチでいきなり警察沙汰になるのはちょっと」
うんざりと目をそらす。
「ちっ、ノリの悪いヤツ。触るぐらい良いじゃない、減るもんじゃなし」
「それは触る方のセリフだろうが！」
「けち」
伊月はしらじらしく舌打ちし、にやっ、と笑った。
「仕方ないわ、翔太がツッコんでくれないからこの続きはまた今度にしましょ？」
「えー！？ つまんないのである。もっとくんかくんかしたいのである」
「ふふっ、メルちゃんったら。昨日、約束したでしょ、忘れちゃったの？」
「はう？」
メルメルはキョトン、とする。
「はて……？ 何であるか？」
含みありげな言葉尻に、翔太はなぜかどきっ、とした。
「おい待て、伊月。お前まさか、メルメルにも手を出す気か？」
「あら？」
伊月はにやりと笑った。
言質を取った、とでも言いたげな皮肉な視線がまとわりつく。
「な、何だよ、その目つき」
気を呑まれてうろたえる。
伊月は、メルメルの傍に腰をかがめた。頬を寄せ、手を覆いのように立てて、その陰から翔太をわざとらしく横目で見やる。
「ねー聞いた？ 今の？ やあねえ、翔太ったら男のくせに嫉妬なんかしちゃって」
ひそひそと耳打ちする。メルメルもすっかりその気らしく、うんうん勢い込んでうなずく。
「そうだそうだである。嫉妬とはおはずかしい限りなのである！」
「ちげーよ！ お前らみたいな不条理の塊のどこに嫉妬すんだよ」
「で、嫉妬とは何ぞやである」
「知らないくせに同調すんな」
「バカね、正直にゲロっちゃいなさいよ」
伊月は肩の髪を払って、ふっ、と笑みをこぼした。
「あたしの喘いでる姿見て、ホントはちょっぴりドキドキしちゃってたんでしょ？ ふふっ、だめよ、否定したって分かってんだから。飛び込んでいらっしゃい、翔太！ てめえの熱いハート、俺がこの胸でばーんと受け止めてやるぜ！」
「ぐあっ、そこだけ男の声で言うなあっ」
「あ、ずっきゅん来た？」
「うるせー、男の喘ぎ声になんか、絶対に興奮してたまるか」
「んなこと言って。ふふっ……身体のほうは正直みたいよ？」
「！」
ぎくりとして前を押さえる。伊月は声を上げて笑った。手で口元を隠してけらけらと笑う。
「あはっ、騙されてんの！ 翔太ったら、可愛い♪」
「ちっ、ちが……！」
「やだぁっ赤くなってるう〜」
「翔太、照れているのである。モテモテなのである」
「おい、お前ら、いーかげんに……」
「やぁんっこわあい翔太に襲われちゃうぅぅ……！」
「変な声出すなっ！」
頬を朱に染め、白々しくいやんいやんする伊月に向かって掴みかかろうとしたとき。
登校途中の他の生徒たちが、眉をひそめ、ざわざわとどよめく声が洩れ伝わった。
「八坂のやつ、また朝から伊月ちゃん襲ってんじゃん」
「ひっどーい！」
「あいつ伊月ちゃんが可愛いのを良いことにやりたい放題よね」
「ケダモノよケダモノ！」
「でもさあ男の子の恰好したときの伊月ちゃん、めっちゃイケメンなの知ってる？」
「きゃー知ってるー！ 超カッコイイよねー！？」
「あたし実はバレンタインにチョコあげたことあるー！」
「え、あたしも！」
「あたしもー！ マジ告っちゃったー！」
「でどーなのどーなの？」
「当然、砕け散ったし！ 八坂サイテー！」
「確かあいつのせいよね、伊月ちゃんが女の子になっちゃってんのって？」
「そーよサイテー！ 伊月ちゃん、ホントはめっちゃイケメンなのにさ、八坂なんかにいいように利用されて可哀想すぎかも！」
「なっ……！？」
聞けば聞くほどさんざんな言われようである。どうやら女子の間では悪評ばかりが先走って広まっているらしい。
「うるせえっ、お前ら、勝手に勘違いしてんじゃねーっ！」
翔太はきゃあきゃあとかしましい女子を怒鳴りつける。
「きゃーーーーっ！」
怒鳴りつけられた女子生徒たちは、笑い崩れながらも悲鳴を上げた。蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。
「話しかけないでーーー不条理が感染るーーーっ！」
「ちっ……」
舌打ちしてごまかしはしたものの、やはり、面と向かって言われると良い気持ちではない。
翔太は逃げ散る生徒たちの背中を見送った。
鼻梁に剣呑なしわを寄せる。
心臓の奥が、じくり、疼く。
不条理連鎖症候群についてあれやこれやと取りざたされ、笑い草にされるのはいつものことだ。
そう、いつものこと。
拒絶の態度を如実に示されるだけ、まだましだ。表面だけ笑顔でとりつくろって、陰でこそこそと悪口を言ったり、悪意にまみれた噂をまき散らしたりされるのに比べれば、ずっと。
「何なの、あいつら」
伊月が苛立った声をあげた。
「勝手にからんできといて、あの言いぐさはちょっと何？ あたし、むかつくんだけど」
「いや、いいよ、別に」
翔太は掴んでいた伊月の胸ぐらから手を離した。ぱんぱんと埃を払う仕草ついでに、気づかれないうちにと気鬱を振り落とす。
「勝手に言わせておけばいいさ」
冷めた笑いでいなしておく。
「翔太……」
伊月はしばらく思い詰めた表情で立ちつくしていた。さざめき揺れる瞳が翔太を見つめている。
「……いいの？ それで」
翔太は肩をすくめた。取って付けた苦笑いで答える。
「何言ってんだ。伊月的に言えばそれこそ、”計算通り”なんだろ」
「そんなことないよ」
伊月は声をうわずらせて反論しようとし、口ごもった。肩を落として、うつむく。
「いつき、どうしたのであるか？」
メルメルが伊月の顔をのぞき込む。伊月は顔をそむけた。
「別に、何でもないよ」
「でもいつき、ここのところがハの字になってるのである」
メルメルは、心配そうに眉をひそめてみせた。そうしてから、指で眉を押さえ、左右から真ん中へ寄せてみせる。
「ほら、こんな感じに、いーって」
「やだもー何それ。変なこと言わないでよ」
伊月は固い表情で短く笑った。メルメルの言う、眉間のハの字を隠そうとして、額に手を当てる。
「何もないよ」
「どれどれ」
翔太は伊月に近づいた。
「な、何……？」
「見せろ」
「え」
表情を硬くする伊月の額に手をやり、ひょいと前髪を持ち上げる。
「きゃ……？」
逃げるに逃げられず、伊月は棒のように立ちつくした。翔太に前髪を押さえられ、真っ赤な顔で硬直している。
「何……」
「伊月、前髪あげても結構いけんじゃね？」
「……バ、バカ……やだよ、おでこ狭いから恥ずかしいもん……」
「意外と似合ってんぜ？」
「……そ、そう？」
「冗談だけどな」
翔太はにやにやと笑い飛ばす。伊月は、ふくれっ面まじりに頬を赤く染めて手を払いのけた。
「なっ……何よ、からかったりして！」
「そんな怖い顔すんなよ。他の奴らなんかに何言われようが知ったこっちゃねえっていつも言ってんだろ。お前がツレでいてくれさえすりゃあ、あんなの痛くもかゆくもねえって」
「だ、誰が翔太なんかと……って、え？」
「イヤなら別にいいんだぜ？ 俺は一人でも平気だしな」
「な、何よ、やせ我慢ばっかり……」
「うっせぇ、それぐらいのワガママは黙って言わせろよ。だだこねて通じる相手なんて、お前くらいしかいねえんだからよ」
「えっ……」
伊月は、口ごもった。
言葉を継ごうとして、口を開きかけ。結局、頬を染めて、うつむく。
「そういう……思わせぶりにカウンター食らわすセリフを、さらっと真顔で言わないでよ」
目を見合わせるのを恐れるかのように、困ったような、照れたような苦笑いを浮かべて顔をそむける。
「……バカ」
小さな声が聞こえた。
ふと、その様子がいつもと違う気がして。
翔太は眼をしばたたかせた。
何かが違う。と思っても、何が違うのか、一瞬、分からなくなる。
ふわり、と目の前に薄いヴェールがかかったようだった。不思議に思って、まじまじと伊月を見直す。
なぜか伊月が、いつもの伊月ではなく、本当の女の子のように可愛らしく――
……って……
え？
可愛い……？
まさか。気のせいに決まっている。ちょっとした見間違いだろう。
独り合点して翔太は苦笑いした。やれやれと首をすくめる。
「んなもん、いちいち反応しなくていいっつーの。面倒くせえ」
やさぐれたふうにカバンを背中にかついで歩き出す。
「あ、ちょっと待って、翔太」
伊月はあわてて駆け寄ってきた。
「始業前に寄りたいところがあるんだけど、つきあってくんない？」
「断る。面倒」
「じゃ、行こっか？ ほらこっちこっち」
クールに断ったはずが、いつの間にか腕を取られ、無理矢理引っ張られている。
「お、おい、こら、勝手に……」
気がついたら強引に腕を組まれている。むげに振り払うこともできない。
と、伊月は、てへっと笑った。猫みたいに、ぺろりと可愛らしく舌を出して見せる。
「ふふっ、駄目って言ってもちゃっかり連れ込んじゃうもんねー！ ほら、メルメルも行こ？」
肘が、何か柔らかい感触に押し当たる。
むにゅ。
……むにゅ？
うっかりどきどきし始めるのを何とか押さえ込み、素知らぬ顔で鋼鉄のむっつり仮面を保つ。
「行かねえって言ってんだろ」
「やだ行くの」
「いつき、我も行きたいのである」
メルメルが両手を結び合わせてぴょこんと跳ねた。
「我も連れ込んでほしーのである〜」
「いいよ、じゃ、今から翔太の童貞奪ってくっから、一緒に拉致ってくれる？」
「良かろうなのである。我も頑張って一緒にどーてーをうばうのである。３（ピー）なのである！」
「それ全然自主規制できてねーから」
「じゃ、行こっか！？」
傍目には完璧美少女にしか見えない二人に、いきなり両サイドからがっし、と腕を引っ掴まれる。
「な、な、何だ？」
ズルズル強引に引きずられてゆく。
「えへへ、逃げられると思うな、なのである」
「待て、放せ。話せば分かる。いったい、どこへ連れてく気だ？」
「……ふふっ」
伊月は、含みのある笑いを浮かべた。
「どうしようかなあ……教えてあげよっかなあ……？」
「どう考えてもヤバイとこ連れ込む気まんまんじゃねーかよ！」
「そんなに知りたい？」
「我も知りたいー！ 知りたいのであるー！」
「いや教えなくていい。結構です」
ぶすり、無愛想に顔をしかめる。
「あらそう？」
伊月は、流し目をちらりとくれ、ニヤリと笑った。
「そんなに知りたいなら、お姉さんが教えて、あ・げ・る♪ 今から行くトコ、どーこだ？」
「問答無用かよ。俺に拒否権はないのか」
「じゃ、言っちゃうね？ いい？ 言っちゃうよ？ 後悔しても知らないわよ？」
ちらちら誘惑の秋波を寄せる伊月の眼の奥に、きらり、と。
あくどい笑みが走り抜ける。
「分かった、行きゃあいいんだろ、行きゃあ！ まったく、どこに連れていく気だ」
「ふふっ、翔太ならきっと快諾してくれると思ってたわ」
「どうせロクでもねえ場所なんだろ」
「分かってるじゃない」
「せめてそこは否定しろよ」
とはいうものの、口で何を言っても伊月には叶わない。結局はこうやって丸め込まれるしかないのだ。しぶしぶ相づちを打つ。
「で、どこだ」
「まあまあそうひん曲がった顔しないで」
伊月はにこにこしながら、ころりんと態度を変えた。わくわくとじゃれついてくる子犬みたいにきゅっ、と腕を組んでくる。
「じゃ、行きましょ」
「だからどこ行く気だって聞いてんだろ」
伊月は、ニヤリと笑う。
「……秘密」
「何だそりゃ。約束が違うぞ」
「ふふっ……だって、ホントに行き先は秘密の花園なんだもの。ねえ、メルメル？」
「何？ メルメルも一枚噛んでんのか？ マジかよ！ 二人がかりでヤバイとこ連れ込もうってんじゃねーだろうな？ ん？ メルメル？」
翔太は、ふとメルメルの表情が変わったのに気づいてのぞき込んだ。
呆けたような、半分心を奪われたような表情で、空を見上げている。
「どうした、メルメル」
「おいー？ もしもーし？」
二人で取り囲んで、手をぶんぶんと左右に振ってみても、無反応。
風が、ふわり、と。
金髪をやわらかに揺らして吹きすぎてゆく。
やおら、メルメルは眼を瞬かせた。
校庭の木が、ざあっ……、と揺れた。日が、薄暗くかげり落ちる。
「うむ……我も、ようやく思い出したのである」
低く、つぶやく。
「だから何を」
それには答えず、メルメルは、ゆっくりと前方へと歩を進めた。
足さばきは普通だが、わずかに浮いて、空を滑っているようにも見える。重力をまったく感じさせない、存在感の希薄な光と影に包まれてゆく。
「我が、使命」
金色の髪を結んだ赤いリボンが、風にあおられた。まるで、堕天使の羽のようだった。
そよそよと胸元のリボンが揺れる。
メルメルは眼を閉じた。
すっ……と。
気配が、冷ややかにうつり変わった。
「堕落した日々にうつつを抜かす余り、この第一階梯地球世界に来た理由を忘れるところだったのである」
眼を、開く。
青い透き通る瞳が、虚空を宿し、陰鬱な光をゆらめかせた。
「何だよ理由って」
「いいんじゃない、言わせてあげたら？ メルメル的にはお約束みたいだし」
ひそひそ話が聞こえているのかいないのか。メルメルは、胸元から制服を引きちぎった。空高く投げ上げる。
「我こそはおぞましき狂気の魔女メルメル……偽りの安寧、現世に拘泥する愚かしき愚民はびこる世界を暗黒の栄光と堕落の深淵へと崩落させんがため、死せる王の器を求め彷徨うもの」
漆黒のオーラが、邪悪な蝙蝠の翼のように伸び上がって、メルメルを取り巻いてゆく。
さながら、狂気と戦慄のうめきに悶える亡者の魂を縫い込んだドレスのようだった。
どろり、どろりと。剥がれた粘膜の如き赤黒い闇が、地面に熔け落ちる。薄気味の悪い断末魔のうめきが煙となって立ち上った。亡者のすすり泣きめいた衣ずれが、闇の尾を引く。
「闇に祝福された死愛花《ラブレシア》の馥郁たる芳香をまといし花憎魔《ゾーマ》たる我の使命――暗黒と黄金、血と精液の密儀を交わし、許されざる背徳の名においていちゃいちゃらぶらぶし、みだらなる交歓と結合を経て強制受胎の恥辱に伏し、世界を埋め尽くす金襴の罪、煮えたぎる百億の魔王、狂える千億の邪気を生み出す任務遂行を、ついうっかり忘れてしまうところであった。来たれスポットライト！」
メルメルは、ぱきん、と指を鳴らした。
とたんにがらがらぴっしゃーん、と落雷の効果音が流れる。メルメルは、激しく明滅する閃光に照らされ、断崖に囲まれた孤島の王のごとき削げ落ちた笑みを浮かべた。高慢な所作で腰に片手の甲を添え、ちっこい肩をそびやかせる。
差し伸べた指先から青銅色に輝く魔性の光がしたたり落ちた。
「度し難き暗黒、狂気絢爛たる闇の威光、青き春の戯れ。だがすべては序章、こともなき余興に過ぎぬ。淫乱の初夜、獣のごとき千日夜、咲き乱れる暗黒の花、愛欲の蜜にまみれし悪夢の宴。隠微にして陋劣なる戦慄の角笛に、世界を滅ぼす魔の大軍団が呼び集められるさまを見るがいい、そして伏倒れ、心ゆくまで恐れおののくがいい。泣き叫ぶがいい、愚昧なる下等民族どもよ。我の前に這いつくばり、男娼としてその尻身を贄として差し出し、おぞましき精の肉芽を我が身の子宮たる血肉に突き立て、聖なる坩堝を掻き回して純潔の悪魔を降臨させるのである……！」
「うっとーしい。三行でまとめろ」
「うむ。我は、園芸部に、入った。である」
きらきらと輝く純粋な瞳が、翔太を見上げていた。
「えんげいぶ？」
翔太はきょとん、とした。メルメルは自慢そうに胸を張り、鼻をくしゅんとこすり上げている。
「えっへん、左様なのである！」
いそいそと制服を拾って着替え直す。
「あー……理解不能。伊月、説明よろしく」
投げやりに話を振られ、伊月も困った顔で笑う。
「聞いて字の如しよ。メルメルが園芸部に入りたいっていうから連れていってあげる約束してたの」
「なるほど。それで朝っぱらから早起きがどうのこうの言ってたんだな……」
ぽんと手を打つ。さんざん騒ぎたてていた理由にようやく思い当たり、翔太はうなずいた。
「うむ、あのアレである。しまった、つい使命を語るのに夢中になって大事な制服を破ってしまったのである……おうちに帰って裁縫セットを借りてちくちく縫い合わせなければならないのである……」
「裁縫セットなら持ってるよ。あとでつくろってあげる」
「う、うむ、でも、いちおう自分でやってみるのである。失敗したらお願いするのである」
「……失敗してる時点で直せない気がするんだけど……まあいいわ、メルちゃんもお裁縫できるようになったほうが将来的にもいいわよねー？ 女の子だもん、ねー？」
「ねー！」
「ねー！ って、何しれっと同調してんだよ。お前ら”女の子”じゃねーだろ……」
「そんなねえ、空気読めないツッコミしてたら絶対女の子にはモテないんだから」
伊月はむすっと頬をふくらませてから、表情をなごやかにゆるめた。
「まあいいわ。直してる間、あたしの体操服とブルマ貸してあげる」
「うむ！ いつき、恩に着るのである」
「ブルマじゃねーだろうちの学校は！」
「いいのよ可愛いから」
「お前、男のクセにブルマ穿く気だったのか」
「あら、悪い？ 大丈夫よ、ちゃんと……」
「その続きは言わなくて良い」
「……ふんだ。翔太のいじわる」
伊月は媚びを売る目線で身体をくねらせた。
が、相変わらず根本的な部分が理解できない。
「それはまあいいとしてだ」
後頭部に？を三つほど並べて首をひねる。
「何でまた園芸部なんだ？」
「ポスターが貼ってあったのである。そこに、『世界に広げましょう園芸の輪』と書いてあったのである」
「は？」
「魔性・園芸時・輪。これぞ秘められた暗号。解き明かされる歴史の秘密。世界の摂理を記す全知全能の書《アクロレガシア》が告げんとしていることにちがいないのである。我が肉欲の下僕とされるべき八坂翔太の初々しき桜の蕾をちぎり、快楽をむさぼる花盗人となりて調教陵辱ののち精神を崩壊させ、ぱふぱふ淫乱地獄へと誘い堕とす隷属拘束具製作の術たる魔女宴《サバト》の第一階梯世界における暗号名称すなわち」
「話長い。結論を言え」
「要するに見せてもらった温室のお花が、とっても綺麗だったので、我はいたく感動したのである」
メルメルは両手をしっかりと握り合わせた。腰をくねくねさせ、くるりんと回って、うっとりとほっぺたをあからめる。
「美しきものは強きものかな。第一階梯世界の花魔術師は”温室”なる暖かい名称の祭儀神殿を築き、象牙の塔内部で日夜、隠微なる情熱を滾らせ、官能と背徳の白濁にまみれた密儀の研究に没頭するとのことである。よって我もまた秘密の花園に初々しき羞恥に染まる肉体を投げ与え恥辱退廃の限りを尽くして園芸術を学び、美しくも残酷なる運命、たおやかなるマンドラゴラの青きつぼみを手折りてヒイヒイ泣かせるすべを学びとらんと画策中なのである……つまり、である、しょうたとけっこんするために、そのう……我も、その、証しを……であるな……」
何やら指先をつんつんさせ、もじもじしている。
「は？ 何だ？」
「きゃうん、やっぱり、未来のだんな様に面と向かって言うのは照れちゃうのである恥ずかしいのであるでも身体に聞かれたらつい言っちゃうかもである、やあん翔太のエッチ……♪ なのである」
「あっそ、へー、そうか。また今度な」
「ああん！ つれないのである！」
メルメルは両手を握りしめたまま、地団太を踏み踏みしてだだをこねた。ぶう、とほっぺたを膨らませている。
「しょうたは我が何を所望しているのか聞きとうないのであるか！？」
「ない」
「がーん！ ひどいのである。我はショックを受けたのである実家に帰らせて頂くのである……」
「うむ、帰れ帰れ。地獄にな」
「……ふえぇええん！」
などという下らないやり取りは全部すっ飛ばすことにして、翔太は伊月を振り返った。
「でも、温室なんて、うちの高校にあったか？」
「いや、まあ、元は壊れたビニールハウスだったんだけどね、メルメルが建て直してくれたの」
伊月は笑った。校舎の裏手へと回り込む。
「おかげで今朝、学校に来たみんなが怯えちゃってもう大変。ほらね。あれ」
いつの間に出現したのか――
裏庭に見慣れない建築物が出現している。
「何だ、あれは」
ぽかん、と口を開けて見上げる。
燦々ときらめく太陽に照り映える全面ガラス張りのゴシック建築。校舎の裏に、漆黒の魔城と形容するに言を俟たぬガラスの温室、異形の摩天楼がそそり立っている。
何たる威容。何たる荘厳。
そして何たる場違いであることか。
かつては一坪ほどのビニールハウスであったと思われるちっちゃな温室から、邪念迸る漆黒のイバラにからみつかれた巨大なガラスの城がにょきにょきと突き出している。
折れ曲がった枝の先から、ときおり青白く静電気の稲妻が放出される。
底ごもる雷鳴が鳴り渡った。
ギャアギャアと鳴きわめく破れ鴉が群れを成し、荒廃した景色そのものをまきちらすかのようにまとわりついている。
校舎に邪悪な影を落とすガラスの温室は、遙か上空の雲にまで達している。頂上は見えない。
「何ーーーーッ！」
完全に度肝を抜かれ、その場に立ちつくす。
壮麗なる不条理の城を前に、メルメルはわくわくと浮き立った顔でくるん、と回った。制服のスカートがふわっ、と浮き上がる。
「ようこそ我が園芸部の温室へ、なのである」
てへっ、と可愛らしくはにかんで、笑う。
異形の城は、明らかにぞわぞわとうごめく不気味なオーラをまとっていた。
「中は、案外、普通だな。マニアックな植物園ってとこか？」
キイ、とかすかにちょうつがいの音が鳴る。
ムダに壮麗かつ華やかに細工された鉄門のアーチをくぐり、温室の扉を開く。
むっとした空気の壁が見えないカーテンのように鼻へあたる。翔太は顔をしかめた。
「と思ったが……全然普通じゃないな……」
熱気に混じった青い草いきれが鼻をつく。
そこかしこに、百花繚乱、極彩色の花が咲き乱れていた。さえずる小鳥の声までが聞こえてくる。
「普通なのである。温室とは要するにお熱を上げるところ、と聞いているのである」
メルメルは周囲をきょろきょろと見回している。
「でもちょっとこれは暑すぎなのである。どんどんお熱が上がってゆくのである」
ゆらゆら揺れる緑の羊歯。だらりと垂れ下がった極太の蔓植物。湿気を帯びた空気は、茹だるように暑い。
たわむれに手を伸ばして蒸れた空気をかき混ぜれば、とろりと重い渦を巻いているのが目に見えそうだった。
「それを言うなら”お熱”じゃなくて”温度”だろ？ 熱上げてどーすんだ。もしかして、また何か勘違いしてないだろうな？」
翔太はうさんくさいものを見るような目でメルメルを睨んだ。用心して四方へと目を配る。
むん、とむせかえるほどに強く香り立つ南国の花が、美を競い合うかのように咲き誇っている。
「あ、こんなところにちっちゃな毛虫がいるのである」
メルメルは花壇の縁で立ち止まった。しゃがみ込んで、花壇に咲いていた花の裏側をのぞき込む。
「うえっ？」
翔太は顔を引きつらせ、立ち止まった。
「毛虫！？」
「ん？ しょうたは幼虫が嫌いなのであるか？」
「よ、よ、幼虫言うな。言葉の響きが気持ち悪いだけだ。虫ごときどうってことねーよ」
かすかに頬を引きつらせて強がる。メルメルはにんまり笑った。
「うむ、ならば大丈夫であるな」
ポケットから携帯用の虫除けスプレーを取り出し、しゅー、と掛ける。毛虫は、ぽとん、と地面に落ちた。くねくねしている。
「早いうちに駆除できてよかったのである。この毛虫は、刺されてもそんなに危険じゃないから良いのであるが、魔界のムシの中にはいろいろ危険な虫がいるのである。中には数日で全長二十メートルぐらいに成長するものも」
「おい！？」
「大丈夫である。成長する前に退治してしまえばタダのイモムシである」
「おいこらちょっと待て」
「大丈夫なのである。安心するのである。そんな大きなイモムシは、そもそも温室になんか入ってこられないのである」
「だからそういう条件付きの前提をだな……平然と……ま、まあいい。で、万が一の時にはどうする気だ」
メルメルは、にっこりと笑い返した。
「きっとしょーたが何とかしてくれるのである！」
「全力で他力本願かよ」
「大丈夫である、そんなこと、あるはずがないのである！ ところで何であるか？ あの、黒いもふもふしてるものは」
突然、メルメルは入り口の横で立ち止まった。黒い丸いもふもふ物体が、さっ、と移動して茂みに姿を隠す。
「は？ 何だ？ どこだ？」
翔太からは死角の向こうになっていて見えない。メルメルは声を弾ませた。
「何かあやしい物体がいるのである！ ボールみたいなのである！ ……あ、そこにいるのである！」
メルメルは脇目もふらず走り出した。
かと、思うと。
「……わあっ、ちょっと、助けてなのである！ いつの間にこんな魔界の植物が……！？」
頭上からぶら下がった食虫植物にいきなりぱくり、と食いつかれたメルメルが、びよんびよんとばねばかりみたいに上下しながらじたばたしている。それを放ったらかしにして、翔太は周りを見回した。
「それにしても異常に暑いな」
たまらず翔太はブレザーを脱いだ。空気全体が、じっとりと水分を含んで厚ぼったく、重く感じられる。ジャングルの奥地へ迷い込んでしまったかのようだ。
「ひゃうんっ、我なんか食べてもぜんぜんおいしくないのであるーーーっ！」
「メルメルの言う通りね。マジで熱上がっちゃいそう」
伊月も、暑さに疲れたようなためいきをついた。こめかみの汗をハンカチでぬぐう。
「暑っつー……」
手でぱたぱたと風を起こし、扇ぐ。
「まったくだな」
翔太も息をついた。ネクタイをゆるめて浮かし、ワイシャツの襟元を揺すって空気を入れる。
「メルメルがちょっかい出した温室なんだからある程度普通じゃないのは覚悟してたが」
「ふにゃああああ食われちゃうのであるーーーー……がじがじされてるのであるーーーー……食われてる食われてる食われてるのであるーーーー……んぐ！」
食われたらしい。
「……ああ、熱でくらくらしてきた。ちょっとヘンな気持ちになりそう」
伊月は熱を帯びた吐息をもらした。
頬が上気している。熱気に当てられた表情にはかなり汗ばんでいて、疲労の色が滲んでいた。
「も、ムリ。ちょっと、脱ごっと……」
伊月は上に羽織っていた夏用のベストを脱いだ。
ブラウス一枚の姿になって、胸元をぱたぱたと浮かして揺すり、風を肌近くに入れる。
「やだもう、汗でべたべた」
滲んだ汗のせいで、ブラウスがわずかに透けている。
翔太はどきりとして目をそらした。
別に、どうってことはない。今さら伊月のブラウスがちょっとぐらい透けたからといって、何をどぎまぎするいわれがあろうか。
「これじゃ、まるで温室じゃなくて熱帯雨林室だよな」
つい目を奪われたのをごまかそう、と、白々しく笑いながら近くに生えている木に歩み寄る。
変わった形のキノコが生えていた。
「何だこりゃ。妙な形だな」
と、翔太の目の前で、キノコはむくりと顔を上げた。石突き部分を後ろに突き出し、ひょろ長い手でぱんぱんとはたいている。
キノコ帽子の下から、不細工なおっさん顔がのぞいた。キノコなのに出っ歯だ。
目が合う。
「……」
「……」
どうやら存在に気づいていけなかったらしい。
極めて気まずい雰囲気。
……キノコのクセに、頭のてっぺんから何やらあぶら汗を、たらり、と垂らしている。
キノコは、くるり、と、身を翻した。ぴょんとはねて伊月の足にとびついたかと思うと、カサカサカサーーーーッ！ と驚異的かつキモすぎるスピードでよじ登った。
「ああんっ！」
伊月は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「ば、ばかっ！ この変態キノコ、どこ入って来んのよ……！ やあんっ！」
キノコはすっぽりと伊月のスカートに潜り込んだ。じたばた逃げ回りながらも行き場を無くし、止せばいいのにこれまた必死に頭をもたげようとする。そのたびに伊月のスカートはひらひらめくれ、ちらっ、ちらっ、と下着をかいま見せる。
「きゃんっ……もう、何これっ、あっ、ああんっ、もう、ばかっ、逃げ回らないでよっ……あっ、あっ……ああっ、やめてったら！」
伊月はすっかりもっこりと変な形に持ち上がったスカートを手で必死に押さえ込もうとした。
「もうやだっ、ああんっ……！ 取ってったら、翔太、この変なキノコ取ってえ、ああんっ！ もう、恥ずかしいったら……っ！」
「な、な、何やってんだこの腐れキノコ野郎！」
翔太は慌てて伊月に駆け寄った。
「伊月から離れろ！」
スカート内で四方八方に逃げまどうキノコを何とかして取り押さえようと、下からのぞき込もうとする。
「ああんっ！ や、やだっ……見ちゃいやっ！」
思い切りスカートをめくろうとしていた翔太の手を、伊月はぎゅっと掴んだ。必死に押さえながら喚き散らす。
「おぱんつが見えちゃう……っ！」
「お前いつも見せびらかしてるだろうが！」
「あっ、あっ、でもイヤぁ……こんなキノコ入れられてる状態で見られるのはイヤぁぁぁ……！」
「誤解されまくるような悲鳴上げんじゃねェーーーー！」
「あっ、でも、も、も、もうだめ、っ……やだああっキノコが、キノコが、ああんっ……あたしの変なところに……やぁあんっ！！」
「だから変な声出すなって言ってんだろーがーーーーーっ！」
真っ赤な顔で怒鳴りつける。伊月はこらえきれない様子でぶるぶるっと震え上がった。
「ぁっ……ああ……やだ、もう……きもちわるいよ、助けて……！」
半分泣き出しそうな顔。頬どころか、耳まで真っ赤に染まって苦しげに息をつむいでいる。
「分かった。すぐに取ってやるから動かずにじっとしてろよ？」
「う……うん……おねがい……」
半泣きの声を詰まらせ、あえぐ。
翔太は焦る手を伊月のスカート内にまさぐり入れた。
闇雲にそのあたりを探しまわる。
「やっ……あっ……！」
伊月がまた、ぶるぶるとすくみ上がる。さんざんに逃げ回られ、いい加減いらいらしてきたところで偶然、動きを止めた瞬間のキノコが手に触れた。
「これか！」
「ん！ んんっ！」
「よし！」
この形。この大きさ。間違いない！
逃げられまいと速攻でキノコを根本から、がっし、と掴み、握りしめる。
「よし、掴まえたぞ、伊月！」
キノコは、伊月のスカートを妙な形に持ち上げたまま動かない。
「ぁっ……あっ……？」
みるみる、伊月の顔が赤くなってゆく。
「これでもう逃げられないな」
翔太は汗みずくでにやりと笑った。キノコを引っ張る。
「……ぁんっ……！」
動かない。
「？」
もう一度、今度はやや力を込めて握りながら、引っ張る。
「……ああんっ、あっ……！」
伊月が、ぞくぞくっと身体を震わせた。背筋をのけぞらせ、頭のてっぺんから裏返ったような声を漏らす。
「何だ？」
「……ぁ……あのね……翔太……そ、それ……」
「分かってる。すぐに取ってやるから」
翔太はなかなか抜けないキノコにいぶかしみながらも、しっかりとキノコの軸を握り直した。すっぽ抜けないよう、何度も位置を確かめる。
「ヘンだな、取れねえ」
「だ、だから、あの、その、それはね……！」
「うーん、おかしいな？」
「ぁっ……んっ……！」
「だからさっきから何だ。変な声ばっかり出して」
「……んっ……！」
伊月は、ぶるぶると声もなくかぶりを振った。目元が熱を帯びたかすかな朱に染まっている。
滲んだ涙の粒に瞳をうるませ、上気した汗まで浮かべて、翔太の肩にすがりついてくる。
「ぁっ……あっ……ん……！」
「だから、何だって……」
ひょこ、と。
謎のキノコがスカートの下から顔を出した。
ぴらっ、と一瞬、プリーツをひるがえらせて飛び出したかと思うと、翔太の手を伝って、すたたたと駆け上がる。
「逃げた！？」
キノコは華麗に脱出すると、翔太の頭のてっぺんからピョーーンと飛んだ。
「お、おい……待て！」
「んんっ……ああっ、んっ……！」
感極まった声を上げ、伊月が震え上がる。
脱走したキノコは、見事な月面宙返りを披露するや、完璧な着地姿勢を取ってポーズを決め、そのまま、ニッ、とニヒルに笑って茂みの中へと一直線に駆け込んだ。
一瞬で姿を消す。
翔太は、目をぱちくりさせた。
「ん？」
なにやらひどいモヤモヤ感が漂っている。
なぜかしっくりと来ない。思案に首をひねりつつ、しばらく考え込む。
キノコには、逃げられた。
それは間違いない。
……ん？
待てよ……？
当のキノコに逃げられたということは……？
嫌な予感が、じわり、と。
なまぬるい冷や汗となってこめかみをつたう。
では、これは、いったい、何なのだ――？
心臓が、地鳴りのような低い振動に震える。
今、まさに、手の中にあって。
先ほどから引っこ抜こうとしてなかなか抜けず、四苦八苦している、スカート下の、このキノコは。
いったい、何のキノ――
「ぁふん……」
惚けきった笑みを浮かべて、伊月はしなだれかかった。
「ぁんっ……あ、もう……だめ……翔ちゃんったら……テクニシャンなんだからぁ……ん！」
「あああああああああああああああ！！１？ な、な、なんだ！？ 何で、キノコが逃げてるんだ！？ じゃあ、何、なに、何握ってんだ、俺は……！！？」
「何って」
伊月は、頬をつやつやと色っぽく染め、恍惚の表情でささやいた。
「……俺のキノコだ」
「あああああああきのあああこああああおおおああおお！！！？」
心ならずも全力で握り込んでしまった手を、伊月は、ふふっ、と狡猾な微笑とともに取り押さえた。
「あはんっ、あんっ、翔太のエッチ☆ そんなに強く握っちゃイヤ♪」
「ぐああああおげあもげろおあおあおあわわをわぉえ！ 畜生ッ……鎮まれ俺の右手……！」
とばかりにじたばた振り回していると。
ようやく何とか自力で脱出できたのか、上半身を食虫植物にぱっくりとかじられた状態のメルメルが、袋状の花をかぶったまま、どすん、と落っこちてきた。
「あいたたっ、おしり痛いのである。前も見えないのである。しょーた、どこにいるであるか？ しょーた？」
前が見えていないのか、食虫植物をかぶったままあたふたと右往左往している。
その間にも、伊月はしどけなく手であおぐ仕草をしながら、うわずったため息をついた。
「ああ、楽しかった！」
何やらすっかり満ち足りて満足しきったふうである。
「伊ーーー月ーー！ お前なあーーー！！！ッ！」
「あーもー、熱っ苦しい顔近づけんなよ。怒らない怒らない。そんなに怒ったら、よけいに暑くなって汗かくぞ？ あー、んもー、マジあっつー」
しれっと微笑みながら余裕の態度である。
伊月は上着を脱いだだけでは飽き足りなかったらしく、ブラウスの胸元をゆるめた。
手早い指づかいで、上から二つほどボタンをはずしてゆく。
胸元をはだけ、ブラウスを揺り動かして、はたはたと風を入れる。
その隙間から、ちらり、と。
何かが見えた。
ぎくり、とする。
思わず、ちらっ、ちらっ、と、あらぬ方向へと眼を泳がせる。
決して見間違いではない。だが、ホンモノかと聞かれれば何が何だかよく分からない……
ブラウスの下に、下着に押しつぶされるような形できつく押し込められている、扇情的なふくらみ。
熱を帯びて上気した肌が、まぎれもなく、ゆりん、と揺れる。
あまりに無防備な、まろみのある、なだらかな隆起が、こう、ぽわん、ぷゆん、ふにゅん、と。
ほんの少し身じろぎするだけで、ぷるぷるの真っ白な杏仁豆腐みたいに、ふるるん、と揺れ動いて……
何というか、その……
たぶん、たっぷん……
おっぱ……
イカーン！
と、頭の中で何か間抜けな鐘が鳴った。どこかのスイッチが入ったらしい。血流の水位が一気に急上昇する。
おっぱい！
ぬおおおおおおおっぱいだとーーーー！？ 何考えてるんだぁぁ……ッ！？
翔太はぶるぶると頭を振った。両手に何やら生理食塩水入りシリコンバッグ的なものをこんもり乗せたつもりでモミモミさせながら全力でたぷんたぷんな脳内感触妄想フィードバック機能を切断する。
胸に非ず！
あれは胸ではない！ 胸っぽいなにかだ！ おっぱいっぽい何か！ 伊月の胸は本物の胸ではない。もともと男だったのが、不条理の影響で女みたいに見えているだけだ。
だからいくらおっぱいに見えてもおっぱいではないのだ！ もちろんシリコンなどではないことぐらい知っているが、だからといって男のなまちちごときに心動かされるなどあり得るわけが――
と思っているはずなのに！
なぜか！
ちらっ、と。
横目で見てしまう。
肩に掛けた紐の部分が見えた。
もし……もう少し、前屈気味になってくれたりしたら……。
浮いた胸元から、たっぷりとたわわに実った二つの果実のような、甘いみずみずしさ、やわらかさ、ほんのりと甘い桜色をした肌、すべすべと白い誘惑が。
ゆるん、と揺れるさまが、もしかして見透かせるやもしれぬ――
ぷゆん、と揺れつつも、きゅっ、と上向きに持ち上がった先端……
その完璧にして究極の弾力性誘因性を併せ持つ魅惑の球体においてまさに画竜点睛と称されるにふさわしき至高の頂点！ すなわちぬおおおお！ この部分青少年に悪影響ありとして自主規制ぬおおお！ ……までもが垣間見えるかもしれない！ という全身全霊を込めた期待をたぎらせまくった結果、つん、と持ち上がった予想絵図が、瞼の裏に、ぽわわん、とピンク色に浮かんで。
解説しよう！ 普段はきつく密着しているであろう、下着と、肌の接触部分に油断という名の間隙、あるいは重力と圧迫から解放された遊びの余裕空間が生じ。
見えてはならない谷間の、その奥。
まさに秘密の青き花園、今まさに開かれんとする寸前の、淡い、かすかに赤みを帯びた、つぼみが……
ぷるん……
ぷるるん……？
ぷるるるるん……っ……！
けしからん過ぎるたぷんたぷんに、思わず青少年の股間にぶら下がるハートをがっちりと鷲掴みにされる。
一体、これは、どういうことだ……！？
今にも見えそうで……見えない……いや、決して見えてはいけないし見てもいけないしそもそも見る気なんて全然無いしあるわけもないのだけれど！ だけれども、でもでもでもでももしかしたらちょっとぐらいはハミちちが見えるかもというか、いやもうちょっと身を乗り出してくれさえすれば間違いなく見えるであろう、至高の楽園……！
儚い願望……胡蝶の夢……？
いや、羨望、切望……！ この世の桃源郷……そう、桃……桃……桃色の渇望、嘱望、垂涎の的と言い切ることに何のためらいもないまさに秘密の花園！
その、決定的瞬間を、決して見逃すまいとばかりに、目をらんらんと燃やし、鵜の目鷹の目で食い入るようにガツガツチラ見してしまうようになるとは……！
何かが、おかしい……！
この温室には、何かが……何かが渦巻いている……！
「ああん、もう、何とかしてほしいのであるーー！ 何かもふもふするのであるー動けないのであるーー！」
一方のメルメルは、と言えば、すっかり忘れ去られた状態で放置されていた。
食虫植物に上半身をぱっくりと食われ、金魚鉢みたいな状態でひっくり返ったまま、足をじたばたさせている。
どうやら先ほどからずっともがいていたらしい。
さすがに見かねた伊月が苦笑した。
「もう、しょうがないったら。ほら、メルメル。じっとしてなさい。今、出してあげるから」
助け起こそうとかがんだ瞬間、ブラウスの胸元が浮いた。
うおおおおついにキターーーーー！
見える！ 見えるぞ……！ 胸の内でガッツポーズを高らかに突き上げる。ついに、待ちかねたその瞬間が、おとずれ……
「ぷはあっ！ いつき、ありがとうなのである」
がば、とメルメルが伊月の首にかじりついた。
「ふふっ、礼には及ばなくてよ」
伊月はクールに受け止めた。よしよし、とメルメルの頭を撫でている。
……見えた？
プルプル。心の中のちっこいミニ翔太が震えながらかぶりを振る。
……見えなかったの？
ミニ翔太はしょんぼりと肩を落とし、うなだれる。
……メルメルが邪魔でおっぱい見損ねた……
……待て。なぜ失意のどん底に落ち込んでいるのだ……？
翔太は頭をかきむしった。うぐうぁぁぁ！ 何と言うことだ！ まさに孔明の罠……ッ！
悶絶する。
そんなに見たかったのか、伊月の、胸《おっぱい》――！？
まさか、いや、こともあろうに男である伊月に欲情してしまうとは……！
もちろん、もちろんである。健康で文化的な肉体に健全なる欲望を宿した青少年であるならば、年相応のむっちり女体にムラムラとさわやかな肉欲を抱いても別におかしくはない。
おかしくはないが、伊月は女じゃない。男だ。そして、たった一人の親友だ。
親友を相手に、そんな、むらむらと餓えたケダモノみたいな欲情を覚えていいはずがない！
考え直すのだ。今までずっと伊月に感じていた思いは、孤独を癒やしてくれる唯一無二の存在であることへの感謝であって、決して劣情などではなかったはずだ。
翔太の罹患している重度の不条理連鎖症候群――不条理を呼び寄せる体質のせいで、一見、女の子みたいになってしまっただけだ。いや、さすがに全部が考察通りにはゆかない、ということは、先ほど心ならずも不本意すぎる確認作業の結果、紛れもない事実として直に認識されたのだが……
問題は、なぜ、伊月に対するこんな欲情が突然こみ上げてきたのか、ということだ。
考えろ。考えるんだ。理性が残っている間に。早く。
（ふふっ……知りたい？）
はぁん、と甘い吐息をついて。
（何が、知りたいの……？ もしかして、あたしのこと……？）
肩紐をちらっとさげて見せ、色っぽい流し目をよこした伊月が、ほわほわとウィンクする。
（確かめてみる？ もしかしたら、ちょっとついてるだけで……他は、もう……女の子のカラダになっちゃってるかもよ……？）
片眼をつぶって、くすっ、と笑う。
うっ……？
ピク、と何やら反応する。
女の子の……カラダ……？
ど、どこが……？
（見たい……？）
ほわん、と。
伊月のあまったるい表情が迫ってくる。
微笑む唇を。
うっすらと半開きに開かせて。
鼻にかかった声でしどけなく甘えられたりしたら……。
それでもって、目の前で何か、もう、けしからんぐらいまん丸いたぷんたぷんの美乳が、押し合いへし合いの押しくらまんじゅう状態にされてこすれてピンク色に染まって、あんあんと目の前でぷにんぷにんぷにんぷにん催眠術みたいに上下左右に揺れたりしたら……
って、ぐおおおおおおおお何を妄想して喜んでるんだ俺はぁぁぁああ！
欲望と理性、肉体と精神の齟齬に引き裂かれ、苦悶のあまり、脳内ででんぐり返ってじったんばったんとシーソー状態で転がり回る。
いくら身体は女でも、中身は男だ！ ついてるし！ 伊月だし！ なのに、なぜ、そのついてる伊月に迫られてこんなにもモンモンとせねばならんのだぁぁぁ……！
それとも何か！？ 中身が男でも身体の大半が女ならそれでいいのか！？ いや絶対にそんなことはあり得ない！ ならば心さえ恥じらうオトメであるならば堂々たるグレートワンズが宿っていてもいいのか！？ ああんっいやあっあたし身も心も女の子になりたいのにこんなおっきくなっちゃっていやああん恥ずかしいのぉ的な！？ ああああ違う違う違う！！ 誰がそんな仰射角斜め四十五度のリアルな想像をしろと言った抹消しろ抹消……！
分かれ、俺！ 悟れ！ 違う！ そういう、そういう肉体的即物的な関係でいることを望んでいるわけではない！
伊月とは、もっと、伊月らしい関係というか何というか、友情というか、心のつながりというか、仲間としての絆を一番に大切にしたいわけで、決してもてあました性欲の対象にするとか、思い出しては夜ごとムラムラと欲望を滾らせたりしているわけでは――
生々しい想像図が、意識の裏に浮かぶ。
伊月と……
そういう……関係に……？
違あああああう！
ぎょっとして我に返る。
まさか、いや、そんな……マジで落ち着け。
中身は思いっきり”野郎”だというのに、何を血迷っているのか。いくら見た目が可愛くても、そんな馬鹿げたことを想像して良いわけがない。
まずは冷静になるべきだ。脳内にある危機管理マニュアルを取り出し、ページを繰る。
緊急事態においては、何よりも平常心を保つことが大切である。
状況を把握し、落ち着いて行動する。
よって、平静を取り戻すために深呼吸だ。よし、呼吸開始。翔太はワイシャツの襟を自分で掴んだ。ネクタイをゆるめる。大丈夫。大丈夫だ。明鏡止水。落ち着けば何とかなる。
吸って。すー。
吐いて。はー。
また吸って。すーーー……
もう大丈夫だ。はーーーー……
萌え荒ぶる気を無の境地にまで静めたのち、再び伊月をちら、と見やる。
「よしよし」
「はにゃぁぁんいつきだいすきなのである〜〜！」
「ぁんっ、もう、メルメルったらぁ……！」
「うふふふなのである〜」
「あはんっ、やだ、どこ触ってんの、いやあんっ……！」
「いつきのおっぱいふにふにしててやわらかいのである〜」
何だよヤベぇ……
めっちゃ可愛い……！！
一瞬でも気を許したとたん、頭の中が、ほわんほわんと温泉みたいになってゆくのが分かった。
湯気が充満する。温泉みたいな、ちゃぷん、ちゃぷん、と湯の揺れる音がして。
どこからかぷくんぷくん泡が立ってきて、可愛らしいポーズ、悩殺ポーズを取った伊月を映し出すシャボン玉でいっぱいになってゆく。
ぽんっ、と妄想のシャボン玉が弾けた。
風呂桶を頭に乗せて走り回るメルメルの笑い声が反響する。
透き通るような白い素肌。
湯けむりのかすみが、恥じらう伊月の幻影を、覆い隠す。あまずっぱい微笑みが、近づく。
（やあん……恥ずかしい……）
（何想像してんのよ……？ 翔太の……ばかっ……うふふ、見ないでってば……見たら怒るからね……？）
背筋がぞくっとする。翔太はぶるぶると濡れた犬のように頭を振った。
幻覚に加えて幻聴まで聞こえて来始めるとは、よほどの重症だ。
これはきっと目の錯覚、一時の気の迷い。あるいはもしかしたら一時的に混乱状態に陥っているのかもしれない。分かった。きっと、ＲＰＧなどでよく見るステータス異常に違いない。混乱して味方を攻撃するというバーサク状態。
すなわちconfuseが自分にreflectしてしまって男のはずの伊月がうっふんあっはんなラブリーエンジェルちゃんに見えてしまって可愛くて可愛くてたまらなく思えてしまうというハニー・デス・トラップ！ 何という果てなきデンジャラスクラッシャーゾーンであることか！
が、運命に絶望している場合ではない。
そもそも、こうなった原因は何なのか。まずはそれを突き止めることが先決だ。そうでもしない限り、どうすることもできない。
もし、このままの萌え萌えずっきゅんな前屈みバーサク状態が続いてしまったら、いったい、自分はどうなってしまうのか。おぞましいが、容易に想像はついた。
どう考えても、この、危うい均衡状態がいつまでも続けられるとは思えない。焦りながらもかろうじて頭をフル回転させる。
このままでは、もって五分。
脳内のストップウォッチが作動し始める。残酷なまでに精緻に刻まれる秒針の音が響き渡り始めた。
時間がない。
こういうときはとにかく深呼吸して理性を取り戻すに限る。
心を落ち着かせ、それから改めて見返せば、大丈夫だ、そうすれば、またいつもの伊月に――
ちらっ……。横目で見てみる。
伊月が、ふに？ と小首をかしげている。
あひゃぁぁあめっちゃ可愛い……ふるいつきたい……！
って……全然戻っていないではないか！ それどころかますますデヘデヘのベタ惚れの萌え萌え状態が加速している！
可愛い！
じゃなくて、落ち着け！
身体のあちこちから、奇妙にぬるい汗が、どっと噴き出す。
これは、マジで伊月可愛い……ではなくてヤバイ……めまいしそうなほど危険すぎる兆候だ。
自分でも、少しずつ呼吸が荒くなってくるのが分かる。
きっと、これは、むっと立ちこめる温室の熱気がなせる技だ。熱に冒された若さ故のあやまち。いや、もしかしたらこれこそが肉体の変質と精神の崩壊を企むフリーメイソンの陰謀、イルミナティの野望なのかもしれない。
と、思いたいのは激しくやまやまなのである、が。
なぜか、どうしても視線を、伊月からはずすことができない。
うつむいているせいで、伊月の表情は半分が淡い影になっていた。ほんのりと目尻が赤く染まっている。そのくせ胸元や首すじ、腕までも、抜けるように白くて。透明なやわらかみを帯びていて。
思わずその手触りを確かめたくてたまらなくなる。
息もつけない。どきどきする。
ヤバイ。やばすぎる……！
気持ちがますます高まってゆく。
やわらかそうな唇が、濡れたようにそこだけ淡く色づき、つややかに光っている。
もし、あのぷっくりと色めく唇にキスしたら、どんな感じだろう――
（伊月……俺……やっと気づいたんだ……）
（どういうこと……？）
（俺……ずっと、伊月のこと……）
（ん？ なあに……？）
（い、いや、その、つまり……だな？）
（どうしたのよ、翔太らしくないじゃない。はっきり言いなさいよ、男なら）
（う、いや、あの……）
（あたしのことが、何？）
（う……よし、言うぞ。言うからな？ 文句言うなよ？ はっきり言っちまうぞ！？）
（もう、さっきから何言ってんの。くどくど回りくどい言い方して？）
（伊月）
（え……？）
（実は、俺、ずっと……！）
（ちょ……あっ……翔太？ 何よ、どうしたの急にそんな真面目な顔して……えっ……ちょ……ええっ！？）
（好きだ！）
（ゃ、やあね、何、急に、翔……ぁっ……ん……？）
（つきあってくれ！）
（翔太……っ）
（もう、我慢できない！）
がば。
ぶっちゅうううう。
……！
待て。
何だ……今の寸劇は……？
がば、って！
ぶっちゅううう、って！
思わず、ぞくりと背筋が寒くなる。
落ち着くのだ。ハアハアしてはいけない。気づかれる前に冷静さを取り戻せ。完璧に落ち着くのだ。錯乱していてはいけない。
タイムリミットまで、あと三分。
大丈夫だ。伊月は男だ。落ち着け、と必死に自分で自分に言い聞かせる。
伊月は男。伊月は男。男だ男だちんこついてる男だ男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男男だけど可愛い――！！！
と、伊月は何気なく顔を上げた。
「ん？ どうかしたの？」
「い、いや、別に」
ここで焦っては余計に墓穴を掘ってしまう。
「何でもねえよ」
苛立ちまぎれにむっつりと顔をそむける。
「翔太」
伊月は、不安そうに手を握り合わせた。上目遣いに、翔太の眼をまっすぐのぞき込んでくる。
「もしかして、まだ、さっきのこと、気にしてる？」
揺れるまなざし。
ほのかに赤い唇。
脇の下に、じわりと冷たい汗がにじむ。
外見は確かに女子そのものだけれど、中身というか、見えないところがどうなっているかは知れたものではないわけで、先ほどのようにナニがソレでどーん！ なんてことも可能性としては大なわけで結局のところ翔太が招いた不条理の影響で女のように見えているというだけのことで中身は間違いなく男であって……
頭の中を嵐のような渦が巻き荒んでいる。結局のところ、何も考えられなかった。
呆然として、心ここにあらず。
ただ、伊月と見つめ合ってしまう。
「ほんとに、どうかしたの？」
ぎくっとしてあわてて目を伏せる。
迂闊だった。伊月の繊細な指先で、ハート型をした心臓を、キュッ、とつままれたような心地になる。
翔太は息をすくませた。
「別に。何でもねーって言ってんだろ」
どきん、どきん、心臓が馬鹿みたいに脈打っている。
（何よ、今さら！ あたしの気持ち……ずっと知ってて無視してたくせに……！）
（……ご、ごめん。でも、俺……！）
（ふふっ、冗談よ。そんなことないわ。言ってくれてありがと、翔太。うれしい。あたしもね、翔太のこと……ずっと……）
猫のような、万華鏡のような微笑みが迫ってくる。
だめだ、可愛い。マジ可愛い。めちゃくちゃ可愛い。もう認めるしかない。もし、本当に面と向かって伊月にそんなこと言われたら。指の一鳴らしで、理性の天井を瓦解させる自信がある。
ということは。
伊月と――
（キス、して……）
暗がりにまぎれて、熱っぽく迫ってくる吐息。
湿った熱い空気が、まじりあう。
妄想がますますエスカレートして、脳を浸食してゆく。
どきん……胸が、高鳴る。
（いいよ……）
どきん……心臓が、乱れ打つ。
（あたし……翔太になら）
どきん、どきん……微笑みが、近づいて。
（全部）
どきん……どきん……どきん……どきん……！
（あげちゃっても……）
どきん……どきん……どきん……どきん……
（いいよ……抱いても……！）
ふおおおおおおビリビリビリ限界突破ァァァァァ！ はにゃぁぁあんちゅっちゅしたいよちゅっちゅしたいハアハアはにゃぁぁああ……！
な、何だ、今のは……！？
妄想だか白昼夢だか分からない悪夢から、はっ、と目覚める。
翔太はこめかみを押さえ、よろよろよろめいた。
だめだ……本気で妄想と現実の間の垣根が低くなって来つつある。言うなれば、もふもふしたビキニ姿というか、ちょっぴりセクシーなヒツジさんのコスプレをした伊月が、ちょこまかと駆け寄ってきては、いっぴき、にひき、さんびき、よんひき、トテッと転んでごひき、ろっぴき……と次から次へと大挙して列を成し、むぎゅむぎゅ垣根を跳び越えてきている状態だ。
やばい……カワイイ……！ じゃなくて、うぐぐ萌えてはだめだ……下手に想像したら現実化しかねないというのに、……男なのにめっちゃ可愛くて……うぐあああ可愛いッもふもふしたいだめだ起きろ萌えたら死ぬぞ……！ 違う違う俺は変態じゃないっっっっっ！ あいつは男なのに何で……可愛すぎてごろごろしちまう……ああああ違うまた違うーーーッ！ ぐはあっ何言ってんだ俺はぁぁあーーーーーーッ！
あまりにも不条理すぎて、もはや手のつけようもない。どうしてこんなになるまで放っておいてしまったのか……！
妄想に耽りすぎて貴重な時間を無駄にしてしまった。
妄想が現実となるまで、あと一分。
限界ギリギリだ。不条理の倒錯症状が全身に回ってしまっている。蒸し風呂のような熱気に、脳までもが茹だってしまったのかもしれない。
頭がぼんやりと熱っぽい。
息が荒い。
だが、まだだ……！ まだ、間に合う……！
少しでも理性が残っているうちに、何とか打開の方法を見つけるのだ。
そうするより他に、解決の糸筋はない。
どこまでが妄想でどこからが現実かが分からなくなってからでは遅いのだ。
分かっている。ついているかついていないかは問題ではない。この、脆すぎる精神状態で伊月に迫られたら、たぶん、ひとたまりもなく。
ぺろり、と。山猫のように舌なめずりして笑う伊月が思い浮かんだ。闇の中に、白い歯が、きらり。
……食われる……！
ぞくっ、とする。まずい……！
もし、本当に、迫られでもしたら……！
来た。迫ってくる。カウントダウン開始。
三十秒――
（そんなに……恥ずかしがることないでしょ……？ さっきは）
緊急事態発生――緊急事態発生。誇大妄想接近中。ただちに回避行動に入れ……あっ、あ……だめだ……機長、機体の制御が効かない、膨張エネルギーが逆流している……！
リミットまであと、二十五秒――
アンコントロール！ だめだ……！ ああああ……！
視界がブラックアウトし、なまめかしい吐息に、ふっ、とつつまれる。
（あたしの、ふふっ……あんなにさせちゃったくせに……？）
迫るおっぱいの幻影に、呑み込まれてゆく。
（もう、こんなにしちゃって。意地っ張りのクセに、ココだけは素直なんだから……ふふっ……でも、可愛い。いいことしちゃう？ だめ？ えー、がっかり。仕方ないなー、じゃあ、ちょっぴり、いじわるしちゃおっか、な……？）
ヤバイぐらい、動悸が激しい。
うろたえるあまりに眼がそわそわと泳ぎそうになるのを、鉄の理性でがんじがらめに押さえ込む。
胸がつまって。
頭が、くらくらする。
喉がやたら乾いて、ひりひりといがらっぽい。
生唾を呑み込んで、唇を湿らせる。
全くと言っていいほど収まらない。これは本気でまずい。完全に限界寸前だ。
そのとき。
うつろな意識下で、何かがぴん、とひらめいた。
これらすべてが。
罠、だったのだとしたら？
最初から、この温室空間そのものが脳神経へ異常な影響を及ぼす精神エーテル物質、悪魔的な熱気に満たされていたのだと、したら……？
（うふふっ……やっと気づいたのね……？）
（うははははなのである！）
そのいたずらっぽい表情にまた、ずぎゅーん☆ と一発で心臓を撃ち抜かれる。
（ぐはあっ！ ……しまった……！！）
（ふふっ、むっつり怪人・翔太ブラック！ もう逃げられないわよ？ ここは魔キュン空間！ どんなむっつりスケベも一目で恋に落ちてしまう胸キュン魔空間なの！）
（胸キュンだと……うぐぁっ……！）
指をピストルの形に立てたスナイパー伊月が、ふっ、と恋の硝煙を吹き散らす。
（いつきぴんく！ これを使うのである！）
もふもふヒヨコの着ぐるみを着たちっちゃいメルメルが、ぽん、と手に魔法少女ステッキを生み出して伊月に向かって投げ上げる。
（必殺技を使うのである！）
（分かったわ！）
伊月は華麗にきらめくステッキを空中で逆ハンドキャッチする。
（これでとどめよむっつり怪人！ お前の童貞は頂くわ！ 恋する乙女は絶・対・無・敵！）
（ま、待て、話せば分かる……！）
（ピンクの魔法！ ラブウェディングピンキーホールド！）
（ドッキーン☆！）
投げキッスの矢に撃ち抜かれ、光り輝くピンクの鎖でがんじがらめに縛り上げられ、吹っ飛ばされる。
（恋に落ちたらごめんなシャイニーー……！）
翔太は、マシンガンのごとく連射されるピンクのハートをまき散らしながら、悪役怪人さながらに大爆発した。
（ぎゃぁぁあ……！）
（オトメのメイクはキラデコ姫盛り！）
手にした魔法ステッキを投げ上げ、くるくる落ちてきたところをのびやかに一回転してダイビングキャッチ。目元にピースのポーズを決めて、きゅぴーん☆とキュートに微笑みウィンク。
（男の娘《コ》でも、いいじゃない？ 恋のフォールはスリーカウント！）
（わん、つー、すりー！）
プロレスレフェリーのコスプレをしたメルメルが、無情にもスリーカウントを取り、試合終了のゴングを高らかに鳴らす。
（おめでとう〜！）
ぱん、ぱん、とクラッカーが鳴り響いた。紙吹雪が散る。放鳥イベントのつもりか、真っ黒い破れ羽の鴉が無数にばさばさと舞い上がった。
理性崩壊まで、あと十秒――
結婚式につきもののパイプオルガンのメロディが、ホラー映画のパニック寸前めいた不協和音をかき鳴らして次第に音を高めてゆく。
失神状態のまま、人形みたいにタキシードへと着せ替えられ、純白のウェディングドレスを着た伊月とメルメルの二人に、襟首つかまれてズルズルと引きずられ……血のバージンロードを通り抜けて……
罠だ……これは罠だぁぁ……ッ！
ばたん。棺桶型の扉が閉まる。
ぎゃぁぁぁあ……ああんっあんっ俺の貞操があぶな……ぎしぎしあんあんっああっ、あっあっ、ああーーーんっ……！
（うふっ、ごちそうさま♪）
魔キュン空間……だと……！？
まさか……そんな……そんなはずはない……そんな馬鹿な……
あと九秒――
だが、どんなに否定したくても、心の奥底に渦巻く疑念は収まらない。荒れ狂う川となって逆巻き、押し流され、疑心暗鬼の闇へとなだれおちてゆく。
改めて思い起こしてみれば、今朝からこの状況へ至るにおいては不穏な点ばかりだ。
だが……だが、もしこれが事実だとすれば……？
すべてに合点がゆく。
あと八秒――
秘密の花園＝秘密の色仕掛け計画。すなわち、色香にて誘惑し、拉致し！
謎の温室＝花の祭壇。すなわち、花の魔力を操るらしき悪魔メルメルの秘めたる野望そのものをあらわし！
異様な熱気＝心体ともに熱上昇、すなわち感情をあやつり、精神をあやつり、吊り橋効果ならぬ北風と太陽効果でもって手を汚さず着衣に乱れを生じさせ、みだらな行為に及ぶ……！
これぞ悪魔メルメルによって仕組まれた壮大なる陰謀、トキメキ魔キュン空間の呪わしき全貌――！
七秒――
陥れられた……
ばくばくと高鳴る胸を押さえて、苦しい息をつく。
六秒――
いや、メルメルだけのせいにしても仕方がない。
五秒――
誤算ですらない。そもそも、こんな罠にひっかかった自分が悪いのだ。こんな、見るからに「入るなキケン」フラグが百本ぐらいボコボコ立てられまくってるような、端倪すべからざる異界直結の不気味温室が、”まとも”である、”安全”である、だなどと思いこんだ自分が悪い。
四、三、二、一――タイムリミット。
ポキン、と音を立てて、「理性」と書かれた心の柱が折れた。
精神世界にヒビが入る。
視界が、ぐらり、とゆらいだ。
あへ……あへへへへ……
理性が……倒壊してゆく……！
油断して背を向けた伊月のうなじが目に入った。のぼせた視界が、傾ぐ。ノイズが入ったように乱れる。
汗に濡れたブラウス。透ける下着のライン。
きゅっとアップにして結んだ髪のほつれまでもがわずかに濡れて、つややかに光っている。
……ちょっとだけなら……触っても……バレない……？
恋は盲目。
エロは妄想。
震える手を、じわり、じわり、伸ばしてゆく。 どきん、どきん、胸が高鳴る。
心臓が破裂しそうだった。
……ちょっとぐらいなら、抱きついても……ごまかせる……
”抱きつきたい”。
”好きだ”。
だめだ、もう、我慢できな――！
「ふう……何とか脱出できたのである。とにかく早くお花にお水をあげなくては、なのである」
冷や汗を拭う真似などしながら、メルメルはどこから持ってきたのか、ピンクのぞうさんジョウロを手に屈み込んでいた。
「これ以上温室内にいたら、もっと、お熱が上がってしまうのである」
ちょろちょろ、と花にかけて回っている。
と、そのとき。
黒い影が不穏な羽音をたてて飛び去った。
「わっ！？」
枝を蹴ったその勢いで、頭上の葉露が跳ね返る。突然の雨みたいに、メルメルの背中へと大量に降りかかってくる。
「ひゃあんっ！？ つべたいのである！」
素っ頓狂な声を上げてのけぞる。メルメルは勢いあまってよろめいた。思い切りぶつかってくる。
「わわっ、何だ！？」
傾いだメルメルの身体を、かろうじて腕に受け止めた。その衝撃で、ようやく我に返る。
「お、俺は何を……！」
と、何かが、メルメルの頭からひょこんと飛び出した。。
「何だ、こりゃ？」
「ん？ 何であるか？」
メルメルはきょとん、と小首をかしげる。その頭に。
”何か”が、くっついている。
彩り鮮やか。
形状は斬新。
その正体はサイケデリック系なビジュアルの――
「ふんぎゃあああああああイモムシーーー！！ イモイモイモムシあああああっ！」
目玉がスポポーンと吹っ飛ぶぐらい悲鳴を上げる。
「どどどどどどーしたのであるかしょうたっ！ な、なんで我の顔を見て逃げるのである！」
「ぎゃああああ来るなあ来るなあっっっっっ……！」
翔太は血相を変えてじたばたと逃げまどった。
「ひいいっ！ 俺、そっち系は駄目なんだよーーーッ！」
「わけがわからないのである。なぜ逃げるのであるっ！？」
互いに追いかけ回しながらもぐるぐると逃げまどう。道無き道、ジャングルを草漕ぎしながらかき分けて進むも、ついに袋小路へと追い込まれてしまう。
「しまった、逃げ場が……！」
必死に左右を見渡すも、視界は密集する植物によって遮られていた。温室内、それも校舎の裏、という極めて限定的な空間内であるはずなのに上下左右の光景が、いつの間にか完全な密林と化している。遠近感の狂った光景が頭上からも迫ってきた。どこもかしこも緑、緑、緑の壁――
「ば、馬鹿な。どうなってんだ！？」
けたたましい鳥の鳴き声が響き渡る。
荒々しく羽ばたく羽音がした。獣どうしの争い合うようなうなり声までが聞こえる。
「ピイイ……ピイイ！」
黒い丸いヒヨコが、牙の長い蛇に追われてばたばたと羽ばたいていた。命からがら逃げまどっている。
「こっちだって余計なことしてる場合じゃねえんだが！」
翔太はとっさに足下の枝を拾った。
ヒヨコを丸飲みにしようとしていた蛇へ、枝を振り回して追い払う。
黒いヒヨコは、まるで礼を言うかのようにピッ！ と一声鳴いて、茂みに飛び込んだ。翔太は枝を投げ捨てた。ぬぐってもぬぐってもとめどなく流れ落ちてくる冷や汗を拭う。
「どうなってんだよ、ここは。まるで野生の王国、弱肉強食の世界じゃねーかよ！」
そこへ。
再び、号泣するメルメルの声が追い掛けてきた。
「しょうたっ、ひどいのである、何で我を見捨てて逃げるのであるーー！」
「しまった、余計なコトせずに逃げれば良かった」
後悔するも先に立たず。
「うっ……！」
宇宙的恐怖を具現化した巨大サイケデリックイモムシを頭に乗っけた――明らかに可視化、巨大化、大増殖した不気味ウィルスに寄生されているようにしか見えない状態のメルメルが、うにょろうにょろおぞましい影を巨大化させ迫ってくる。
「な、な、何だ、その頭！」
翔太は逃げるに逃げられず、緑の茂みを背に、じりじりとあとずさった。
「く、来るな、怪物！」
棒を振り回しながら、顔面蒼白で怒鳴り散らす。
じわじわと迫るメデューサメルメル。
「ひいいい怪物ーーーっ！？ どこっ、どこにいるのであるかっ！？ 怖いのである！ ああんったすけてなのである……！」
「怖いのはお前の顔だーーッ」
「ひどいのである！」
「いいからその頭、何とかしろ！」
まさに、絶体絶命。
生と死の瀬戸際。
「はて？ 頭？ であるか？」
メルメルは半べそをかいた顔で、頭に手をやった。
「む……何かくっついているのである」
こんもりとのっかった巨大イモムシを、まずは、ぺたぺたと手のひらでさわって触感を確かめ――
指でつまみあげる。
「何なのであるかこれは」
つまんだ指先に、ぷらーん。
むっちり艶やかなサイケデリック触手が、もさもっさ・うねうねと無数に蠕動している。
つやーん、と光る薄皮。引っ張られ、微妙にだらしなく伸びた極彩色のギラギラ模様。
イモムシと言うより、タコ。いや、いっそタコならタコらしく、足八本ですませてくれたほうがよほど精神的ダメージも少なくてすむのだが、残念ながらそうはならなかった。
強いて言うならば、足百本のタコ。うごめくモップ。ぬるぬるのナマコに色鮮やかなウミウシを足してイソギンチャクで割ったような伸縮自在の不気味生物、名状し難き何か。
もにょもにょ。うじゃうじゃ。ぎょろり。
ついでにカサカサ・わさっわさっ・しゃかしゃか、腕を伝って這い回る音が、聞こえ――
「ひ……こ、こ、このムシは……！！？」
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