めるきゅー ついてるかついてないかは問題ではない。重要なのは「俺の貞操が危ない」ということだ ２
さすがのメルメルも、顔を引きつらせて硬直した。
「な、何なんだ！？」
「たっ、たっ、タイヘンなのである！ ひいいいこのムシはこのムシは！」
「だから何がタイヘンなのか早く言えって！」
「むっ……むひ……むひ……むけーーーーッ！」
奇天烈な奇声を発して、動かなくなる。
「メルメル？」
「むひ……」
眼の光が、ふつん、とうつろに消えた。どうやらエイリアンイモムシを手につまんだまま、正常な意識を失ったらしい。
「おい、メルメル……どうした？」
魂の抜けた茫然自失の表情で、錆びた人形のように動き始める。
「う、うわっ！？」
ぐるぐる首が回り始める。
「わああっ！？」
「あれ、おかひいのである。目が回っているのである……」
「回ってんのは目じゃねーよ！ お前の首が回ってんだよ！」
「ほえ？ 悪魔だから首が回るのは正常なのである……わーいぐーるぐーる、ぐるぐるー……」
「ぐるぐるじゃねーよそのムシから早く手を放せ！ 早く、メルメル！」
翔太は頭を抱えながらわめいた。
「ムシ？」
メルメルは壊れた笑いを浮かべた。
「えへへ……そうなのである……さすがにこの温室は、ちょっとムシムシし過ぎてるのである……えへへへへへへへへへへ……☆」
「わひゃぁぁ精神崩壊しすぎて受け答えもトンチンカンになっちゃってるじゃねえかよ！ しっかりしろっ……い、い、今助けてやるからな……って、俺もこんな虫になんか触れねえんだったーーーーー！！ どうしたらいいんだっっ……あああ！？」
「むひ……けけけけけむひなのである☆……しょうたのちんこにむけけっけけけなのである！ ひひひひのけになるのである……！」
イモムシに浸食された手を前へ突き出し、うねうねくねくねうごめく触手――もしゃもしゃのわしゃわしゃをこれでもかと見せつけながら――
凄味のあるうつろな笑いを引きずったメルメルが迫ってくる。
「あひぃ……けむ、むけけっ……むっけけけけ……」
「お、おい、翔太」
伊月が青ざめた顔で口走った。
「ま、まさか、メルメルはあのイモムシに”寄生”されてるんじゃ……！」
「そんな馬鹿な」
翔太は声を裏返らせた。
「お、お、おかしいだろ、そんなの。悪魔がイモムシに寄生されるとか、パワーバランスどうなってんだよ！」
「そんなの知るか！ でも、ほかに考えられないだろ、あの言動は」
「むけけけけーーーっ！」
「ひいい来るなぁっ！」
にょろにょろが伸びてくる。翔太は情けなくもうわずった悲鳴を上げた。振り回した枝もあっさりと奪われ、折り砕かれる。
頭を抱えた。眼を閉じる。
もう、だめだ。逃げられない。まさに風前の灯火。
身体が、がたがたと震える。動けない。
このままでは、三人ともイモムシに寄生されて……！
と、そのとき。
「伏せろ、翔太ッ！」
するどい声が飛んできた。
虚を突かれ、身体をこわばらせる。
一体、何が――
「くらえ、ぞうさんシューーーーーーートっ！！」
光り輝く水しぶきの尾を引いて、ぴんくのゾウさんジョウロが飛来した。
神懸かり的な軌跡を描く超ロングなミラクルシュートが決まる。
「きゃんっ！」
ジョウロは狙い過たず、メルメルの手首にクリーンヒットした。イモムシはどこかへと弾け飛んだ。くるくるとサイケデリックなリボンとなって緑の向こうへ消える。
しかして弾丸ジョウロの勢いは衰えなかった。そのままの勢いで跳ね返る。
「ぐへっ！？」
見事、翔太の顔面に命中。
「ふんがっ！」
「ああっ、ごめん、翔太、大丈夫？」
伊月があたふたと駆け寄ってくる。翔太は赤くなった鼻を押さえ、かぶりを振った。
「……痛ってぇ……！ てめえいきなり何しやがんだ……！」
まだ目の前にくるくると星が回っている。
「ごめん、ホントにごめんっ！」
伊月は笑いながら手を合わせた。
「昔執った杵柄ってやつで、ついやっちゃった」
「……」
怒るに怒れず、かといって笑って水に流せるほど大人な対応も取れない。
さっきまでさんざん女の色気に惚けて、翻弄されまくっていた自分。虫一匹に半泣きで逃げ惑っていた自分。
それに比べて、何食わぬ顔であっけなくけりを付けた伊月。
男としての耐えられない落差を思い知らされたような気になって、翔太は黙りこくった。
伊月はメルメルの傍らに屈み込んだ。手を添え、心配そうにのぞき込みながら支え起こす。
「メルメル、大丈夫か？ さっきの変なムシ触って手とかかぶれてない？」
「う、ううむ……？」
メルメルはぼんやりと眼を開けた。
「いったい何が起きたのであるか……？ むう……おかしいのである、何だか記憶がないのである……手も痛いのである……」
「ちょっと見せてみて」
「うむである」
「まあ、たいへん。ゴメン、ジョウロ当たったところがすりむいてる。消毒してもらったほうがいいかもね。虫さされの薬ももらっておかないと。ほら、もうこれで大丈夫よ。あとで保健室に連れてってあげる」
可愛らしいレースのハンカチをメルメルの手首に巻き付け、てきぱきと手際よく結ぶ。
「おお、感謝するのである」
「それにしてもびっくりね。まさか翔太が、あんなに虫を怖がるだなんて。思いも寄らなかった。ごめんねー？ 知ってたら、こんな変な温室に連れ込んだりしなかったのに」
「……」
しゃくに障る言い方だ。小馬鹿にされたような気がして、翔太は少しむっとした。口元を剣呑にゆがめる。
伊月は翔太の表情が変化したことに気づかなかった。
「まったく、翔太ったら。男のコのクセにぜんぜん頼りないんだから。ふふっ、でもそこが可愛いのよね。やっぱりあたしがついててあげないとダメなのかしら……？」
慌ただしく額に手を押し当てられ、たいしたこともない傷をたしかめるようにして触れられる。
「いちいちべたべた触ってくんじゃねーよ」
乱暴に手を振りほどく。翔太は八つ当たり気味のうなり声を向けた。制服に付いた土を払って、立ち上がる。
「うっとーしい」
無性にいらいらとして、足下の植木鉢を蹴飛ばす。転がった鉢が、他の鉢にぶつかった。粉々に割れ、土がちらばる。
「ちょ、翔太お前何してんの」
伊月はむっとした顔で声を尖らせた。
「その態度なに？ 何で勝手にキレてんの」
「それはこっちのセリフだ」
伊月の顔を見るたび、なぜか、やたらと苛立ちが増してくる。
「ほっといてくれ」
翔太はきびすを返した。
女みたいな顔してるくせに――
やはり、中身は全然、そうじゃない。
「翔太ったら、ねえ、急にどうしたの？」
慌てた伊月の声が追い掛けてくる。
「何？ 怒ってんの？ もしかして怒っちゃった？」
「お前ら、グルだったんだな」
吐き捨てる。
伊月は、眼をまたたかせた。とまどった笑みを浮かべる。
「何のこと……？」
まとわりつく空気までもが、じくじくとよどんで、不快度を増してゆく。
「とぼけんな。俺が”こうなる”のが分かってて、わざと温室に連れてきたんだろ」
自分のことを棚に上げて、女々しく罵声を浴びせかける。
「あわわ、しょうた、モノを壊してはいけないのである」
泡を食ったメルメルが割れた植木鉢に屈み込んだ。かけらをつまんで、ぶう、とくちびるを尖らせる。
「これは学校の備品なのである。一緒にごめんなさいするのである」
「知るかよ」
邪険に払いのける。
「ふえっ……！？」
メルメルはよろめいた。打たれた手を押さえ、愕然と立ちつくす。その様子を見て、またとげとげしい感情が噴き出した。
「そもそも、こんな面倒くさい状況になってんのは誰のせいだ」
メルメルは、今にも泣き出しそうな顔をした。
「分かんないのである……いったい何を怒ってるのである……？」
「お前のせいだろうが！」
剥き出しのナイフみたいな言葉を、直接メルメルへと投げつける。
全部、この温室のせいだ。
そうに決まっている。この温室に長居すればするほど、変な妄想が沸き上がってくるのも。
全部。全部。全部――
「どうせ、全部、遊び半分でやってんだろ？ 人をおもちゃにして。馬鹿にしてからかって。ふざけんな。何が”温室”だ。人の気持ちをさんざんもてあそんで、何が面白いんだ……！」
「おい、翔太。その言い草はないだろ」
ふいに伊月が声を低めた。腕を組み、肩をいからせて睨み付ける。
「さっきから聞いてりゃお前、何、わけ分かんねーことでブチキレてんだ？ グルだとか何だとか……虫のことからかったのが気に入らなかったんなら直接俺に言え。何で関係ないメルメルに八つ当たりしてんだ」
「うるさい」
翔太は伊月を睨み付けた。互いに向き合い、火花を散らしていがみ合う。
「あ、あの、喧嘩はよくないのである……」
メルメルはまごまごしながら二人の間を右往左往した。
「さっきまでなかよしさんだったのに、急にどうしてしまったのである？ 何で、そんなに怒って……」
ふと声を呑み込み、どきり、とした顔で立ちすくむ。
「わ、分かったのである。ぜんぶ、我のせいである、翔太の言うとおりである、ごめんなさいなのである、だから喧嘩はやめてほしいのである……！」
「ごまかしてんじゃねえよ」
翔太は吐き捨てた。
腹いせに、足下に落ちていたぞうさんのジョウロを蹴飛ばす。中に残っていた水が飛び散った。
「きゃっ……！」
飛沫が伊月とメルメルに降りかかる。伊月がとっさにメルメルを庇う。
「ひゃんっ……！？」
メルメルは飛沫から逃げようとして、眼を見ひらいた。
「いつき、髪が濡れてしまったのである……」
「俺はいい」
伊月は低く受け流す。翔太はきびすをかえした。
「待てよ」
伊月の険しい声が後を追ってくる。
「ごまかしてんのはどっちだ。勝手にキレるな」
「知るか」
翔太は振り返らなかった。
「しょうた、待つのである、これはきっと、何かの間違いで……」
「もういいって言ってんだろ。これ以上、俺に関わるな」
冷ややかな声を突きつける。
濡れた土が、黒ずんだ滲みを広げてゆく。
伊月は、顔を伏せたままぴくりとも動かなかった。
浴びせかけられた水で前髪が濡れている。しずくが、したたり落ちた。
誰も、動かない。
からっぽになったジョウロが、地面で揺れている。うつろな音だけが残った。
昼休み。ぼんやりと屋上のフェンスにもたれて、青空の下に広がるグラウンドを見下ろす。
グラウンドのネットの向こうには、箱庭のような市街地が広がっている。あのいまいましい漆黒の温室も、送電線の鉄塔の一員みたいな顔をして、天を摩する高さで突き立っている。
その頂上は雲にかすんで見えない。
翔太は、ためいきをついた。
俺に関わるな――
とげとげしい言葉が、まるで魚の小骨みたいに喉に刺さって、いつまでも取れずにちくちくとひっかかっている。
子供じみた自分の態度を思い出すたびに、重苦しい圧迫感がこみ上げてくる。
いつもなら、今頃は伊月と一緒にだらだらと学食でメシを食っているか、あるいは購買部で買った焼きそばパンにかぶりつきながら馬鹿話に花を咲かせているころだ。
だが今は弁当を食べる気にもならない。
フェンスを掴み、突っ伏して、また、うんざりとためいきをつく。
空は、こんなに青くて。
雲は、あんなに、呑気だというのに。
自分は。
そう思うたび、フェンスに指をからめ、いらいらと揺すぶって錆びた音を鳴らす。
間抜けで。
気が回らなくて。
ひねくれている。
伊月のことはしばらく考えないようにするほかなかった。さすがにあれだけ馬鹿な態度を取れば、いくら気の良い伊月でも気分を害するに違いない。
風が、くしゃくしゃに掻き回した髪を撫でて吹きすぎる。
何で、あんなことを言ったのだろう。
伊月の何が気に入らなかったのか。
「……男のくせに、女みたいになりやがって。普通でいりゃあ良かったのに」
ポケットのケータイが震える。受信件数、１。
まさかと思い、慌ててメールチェックする。
……キャッ☆☆☆的中率９８パーセント以上！？ ドッキドキ☆｡+ﾟ☆ﾟ+｡Ｙ⌒Ｙ⌒Ｙ｡アナタの恋の診断無料でお届け☆☆今すぐチェック→ＹＥＳ！
「いらねーよ！」
思わず、ちっ、と口汚く舌打ちする。
そのまま画面を消そうとして、受信履歴を眺める。昨日までの履歴には、伊月から来たメールばかりがずらりとが並んでいた。それ以外は、家族か、ろくでもないスパムぐらいしかない。
翔太は一件ずつメールを開いた。下らないショートメールばかりだ。
（翔ちゃんおやすみ〜ｃｈｕ♪）
（何時だと思ってんだ馬鹿ーー！）
（ああん翔ちゃんとずっとつながってたいの〜愛してるぜハニー♪）
（メールで寝言言ってんじゃねー！）
（今夜は語り尽くそうぜ、愛ってやつのことをさ♪）
（るせーとっとと寝ろ！？）
（分かったわ、うふ、じゃ、一緒に寝ましょ♪ 全裸で♪）
（ぎゃーー変態メールやめろーーもうレスしねえからなマジで！！！）
（眠れないなら、夜のお供にあたしのエロ写メ、送ってあ・げ・ゆ♪）
（送ったらケータイたたき壊す！）
見返せば全部がそんな、お馬鹿な、お気楽な応酬ばかりだ。
よく考えたら、知り合ってからはずっとこの状態が続いていた気がする。
元の伊月がどんなふうだったのか、かつての記憶を掘り起こして探す。それぐらい意識して思い出そうとしないと、元々の伊月のことを思い出せないほどだ。
いったい、いつから――
高校に入ってすぐの頃、伊月は、今とはまるで違っていた。普通どころかクラスでもかなり目立つ存在だったかもしれない。確かサッカー部に所属していたはずだった。
一方の自分は、いつも窓際の席にいて、無気力に外ばかりを見ていた。
近づけば、おかしくなる。
ヘンな出来事が起きる。
ひそひそと陰口をたたかれるだけの毎日。
当然、クラスメイトたちは、誰一人翔太には近づかなかった。
だが、ある日――
（おい、八坂、ちょっと）
帰りのホームルームが終わって教室を出て、学校から下る坂道をうつむいて歩いていた翔太に、伊月が声を掛けてきた。
サッカー部のユニフォームを着て、男らしくにっこり笑って。怖いぐらいまぶしい逆光の夕日を背負って、翔太を見下ろしていた。
（お前、不条理何とかっていう病気なんだってな）
グラウンドのフェンスにボールを蹴りながらたずねる。翔太は無視しようとした。
（答えないとボールぶつけんぞ）
しぶしぶ立ち止まる。
（俺には関わらないほうがいいって誰かに忠告されなかったのか）
（ああ、そういえばされたっけ。そうだそうだ、めっちゃされた！）
伊月は大声で笑った。
（陰でお前のことをヘンだの何だのとひそひそ言ってるからさ、聞いたんだ。あんまりむかつくからおでこにペンで普通普通普通って十個ぐらい書いてやったよ！）
（人の忠告は素直に聞いておいたほうがいいと思うぜ）
ふい、ときびすを返して背を向けた翔太に、伊月は後ろからサッカーボールを投げつけてきた。後頭部に当たって、ごん、と跳ね返る。
（いてっ！ 何すんだよ！）
（落ちた。拾え）
（そっちが勝手に投げたんだろ！）
（ええ〜〜拾ってよ〜八坂くううん〜〜、お願いだってば〜〜！）
翔太が無言で見返すと、伊月は眼を丸くして、それから笑い出した。
（あ、ああん？ 何だ、今の？ マジで俺が言ったのか？）
（それ以上近づいたら不条理が感染るぞ）
（ああ、それも言われた）
伊月はフェンスを平然と乗り越えた。段差のあるグラウンドから歩道へと猫のように飛び降りてくる。
（じっとしてろよ）
（な、何だよ、おい）
手に油性ペンを持って、じわじわと攻め寄ってくる。
（おい、ちょっ……待て、お前……！）
（お前、普通になりたいんだよな？）
（な、何言ってんだよ、おい、ちょっ、うわっ、やめ……わああてめえ人の顔に何書いてんだおい書くな！）
（よし普通だ！ これで普通になれるぜ！）
伊月は翔太のおでこにさんざん油性ペンで普通普通と書きまくりながら大声で笑った。
（八坂、俺のおでこに、オッパイって書け！）
（はあ！？）
（普通じゃねえって何それ最強じゃねえかよ！ 俺なんかマジ普通だぞ？ つまんねえぞ普通なんて！？ 自分が普通ならせめて誰かの特別になりてえじゃねえかよ！ 毎日普通にガッコ来てさ、毎日普通に授業して、普通に部活してセイシュンしてさ。つまんねーだろそんなの！ 俺は普通を超えた超普通の男になりたいんだよ！ だから書け！ 伊月ちゃんはオッパイですって書けーーーっていうか、ああんお願い書いて！ もっと書いてっ！）
（やめろ、おい、めちゃくちゃすんなって、うわあっ……ぎゃああ！ 油性で落書きすんな、おいっ……！！）
（書けーーー書けーーーー！）
（お前、自分が言ってること自体、もう完全に普通じゃねえってことに気づいてないだろ……！）
ドアが開く音がした。
「しょうた……こんなとこにいたであるか」
背後からおずおずと気後れした声が聞こえる。
「探したのである」
振り返る。両手いっぱいの巨大なランチボックスがよろよろ近づいてくるところだった。
「ママさまが心を込めて作ってくれたお弁当なのである。ちゃあんと食べないとママさまが悲しむのである」
「勝手に食え」
ふたたび目をそらし、フェンスにもたれる。
「……そんなお馬鹿なこと言ってないで、せっかくのおべんとであるから一緒に食べよ、なのである」
陰鬱な空気を振り払う明るい声で、メルメルが笑いかける。
翔太はためいきをついた。
「……分かったよ。食えばいいんだろ。食えば」
「うむなのである！」
見る間にメルメルの表情が、ぱっ、と明るくなる。
「ほら、シートも、おてふきも、ちゃんと持ってきたのである。ここに敷いてお花見しながら食べるのである！」
「誰が昼間っから花見すんだよ。っていうか花なんてどこにもねえだろ」
いそいそと嬉しそうに準備しながら、メルメルは、ふん、とふんぞり返った。こまっしゃくれた鼻息を吹き、胸を張る。
「お花だったら、我が無限の魔力でたちどころに咲かせてみせるのである。咲いた瞬間、惨憺たる悪臭が天に立ち上る暗黒腐臭の花とか、つみ取った瞬間迸る絶叫にて心和ませる発狂花とかを、いつでも花壇いっぱいにネッチョリとはびこらせることができるのである！」
「花見する前に毒見させる気か。あっさり死んでしまうわ。学校を立ち入り禁止区域にすんな」
「分かったのである。では、ぽかぽか陽気に誘われたということで、ちんこ弁当を広げるのである」
「ちんこ言うな。普通にフランクフルトと言えよ……」
屋上のドアが再び開く。メルメルは振り返った。立ち上がってぶんぶんと手を振る。
「……あ、来たのである。こっちである！」
翔太は眼を上げた。
顔をそむけた伊月が、立っている。
「ほら、いつき、こっちである。翔太のママさまがいつきのぶんまでお弁当作ってくれたのである。冷たいイチゴオレも三つあるのである……一緒に食べるのである」
伊月は、後ろ手にドアを閉めた。だが、それ以上近づいてこようとはしない。メルメルは焦ったふうに笑ってあわてて伊月に駆け寄った。
「ほら、ママさまの美味しいお弁当なのである。食べれば元気百倍、ちんこも万倍なのである。ほら、見るである。ちんこがぎっしりである」
伊月はメルメルに半ば引きずられながらやってくる。
翔太は顔をそむけた。
互いに、表情が硬い。
目を合わせることができない。胸の奥が、嫌な感じにうずまく卑屈な思いにぐるぐるしている。
ついさっき、あんなひどいことを言ったくせに、しばらくたったらけろっとして気が済んだみたいな顔をするのも卑怯だし、謝って済むと思い上がるのも卑怯だ。
合わせる顔もなく、いらいらと空を睨みつける。
伊月と喧嘩がしたいわけではない。
自分でもそれは分かっている。妙なところで片意地を張っているだけだということも。今、謝れば、伊月ならきっと”無かったこと”にしてくれるだろう。でも、だからこそ、そこにつけ込むのは卑怯な気がして、自分で自分が許せない。
分かっている。気づかないふりをしても無駄だ。
軽々しく友だちだ、親友だ、と持ち上げていたくせに、見た目が女に変わっただけで伊月に抱く感情が友情から欲情に変わってしまった、というなら、そもそもそれは”友情”などではなかったのだ。
”打算”。
”欺瞞”。
それどころか、もしかしたら全部が、”虚構”だったのかもしれない。
今までは――”不条理だから仕方がない”の一言ですべてを片づけてきた。
でも、もし、それが、間違いだったとしたら。本当は望んでもいないのに、強引に友情だと勘違いさせていたのだとしたら。ただ、翔太の都合で一方的に引き止めていただけなのだとしたら。
孤独と退屈をまぎらわせるために。
自分から離れてゆかないように。
伊月の変化をむしろひそかに利用して、縛り付けていたのだとしたら――？
冷や水を浴びせかけられたような感覚が背筋を伝う。
「やっぱいいわ、俺。翔太本人がまだ、そんな気分じゃないみたいだしね」
伊月は肩をすくめた。うすく笑っている。
「何一人でキレてんのか知らねえけどさ」
きびすを返しかけた伊月を、あわてた作り物の笑顔でメルメルが引き止める。
「だっ、だめなのである、いつきにもいてほしいのである。お願いしたである、ママさまのおちんこ弁当を一緒に食べてほしいのである……」
その笑顔は、半分泣いているようにも見えた。
「おいしいもの食べて、にこにこして、その……仲直りしてほしいのである……」
「ああん？ 何、勝手に段取りしようとしてんだ」
翔太はむっとした眼でメルメルを睨んだ。
とげとげしく遮り、言い返す。
「悪魔のクセに。何が、仲直りだ」
倍速のコマ落としで記憶を巻き戻してゆけば、どこに不条理の分岐点があったのかはすぐに分かる。
出会った頃の伊月は、どこにもおかしいところなどない、ごく普通の男だった。今朝、さんざん翔太の悪口を言っていた女子たちが言っていたとおりだ。
（伊月ちゃん、ホントはめっちゃイケメンなのにさ、八坂なんかにいいように利用されて可哀想すぎかも……）
そのとおりだ。
伊月を、おかしくさせたのは――
「余計なお世話だ」
「どうしてそんなこと言うである、いつきは悪くないである……！」
「じゃあ俺が全部悪いってのか？ ああ、そうだろうよ、はっ、勝手に人のせいにしてりゃあいい」
「ち、違うのである……我はそんなつもりで……」
メルメルを押しのけ、逃げるようにその場を離れる。
ざあっ、と屋上に風が吹きぬけた。
明るかった屋上が、メルメルの不気味な温室の落とす影に押し包まれる。
硬い表情の伊月と、すれ違う。押し殺した憤りが感じられた。
眼も、合わせない。
光まぶしい屋上から、建物の陰へ。翔太は無言でドアノブへ手を掛けた。乱暴に引き開ける。
メルメルの声があたふたと追い掛けて来た。
「しょうた、待ってほしいのである。ちゃんと話を……」
「話は終わりだ」
それ以上はもう聞きたくもなかった。
翔太は後ろ手にドアを閉めた。ドアの閉まる音とともに、メルメルの声もまたふつんと途絶えた。
次の日。
伊月は学校に来なかった。
その次の日も。
その次の日も。
「伊月のこと……心配じゃないのであるか……？」
「うるさい。勝手に決めるな」
学校から帰るなり部屋に閉じこもってベッドに転がり、携帯を握りしめたまま布団を頭からかぶる。
「しょうたは……心配じゃないのであるか……？」
「心配なんかするか。何でいちいち俺に言う」
「でも……」
「いちいちうるさい。余計なお世話だ。どうせ、伊月だってそう思ってる！」
翔太は潜り込んだ布団の中でケータイの白い画面を見つめた。三日も連続で学校を休んでいるくせに何の連絡も寄越さない。
どうせ――
「俺みたいなヤツとは」
関わりたくないと思っているに違いない。
最後までは言わず、ぷいと拒絶の背中を向ける。
「じゃあ……電話してみてほしいのである」
「お前がしろ」
「電話番号分からないである」
「これ見て自分で勝手に調べろよ」
翔太は携帯を放り投げた。伊月からのメールがいっぱい並んだ受信履歴の画面が表示されている。
メルメルは投げ捨てられた携帯を拾い上げた。
「いつきからのお手紙……いっぱい並んでるのである……やっぱり、その……」
「早くしろ」
「う、うん……なのである」
画面を見つめ、いとおしむように携帯を手で撫でてから、ぎゅっと握りしめる。
「分かったのである。携帯、ちょっと伊月の家に行ってきて欲しいのである」
空中で手を放す。携帯は、ポン、と煙をあげた。煙の中からコウモリが飛び出す。
「ケェェ！」
ぱたぱたと部屋の中を飛び回っている。
「伊月の様子を聞いてきてほしいのである」
「ケエエエエ！」
からりと窓を開けると、コウモリは旋回しながら空へ舞い上がった。
「何で普通に電話しない」
「使い方分からないである」
「……分からないのに寄越せって言ったのかよ。まったく」
「あ、戻ってきたである」
「早いなおい」
「それはもちろん、メールの実体化であるからして」
「えっ」
コウモリは窓から部屋に舞い込んでくると、くるくる舞いながら奇声を発した。
「キイイイ……！」
「ケェェェ？」
「メェェェェ……！」
メルメルは身振り手振りで両手をばたばたさせ、コウモリと意思疎通を図った後、振り返った。
「……いつきは具合が悪いのだそうである」
翔太は眼を丸くして起きあがった。
「今のどこが会話だ。超音波か？」
「それはどうでもいいのである。いつき、ずっと調子が悪くて起きられなかったそうなのである」
翔太は唇を噛んだ。歯がゆさを押し殺し、ぱたぱたと室内を舞い続けるコウモリを睨む。
「……我……やっぱり心配である。お見舞いに行きたいである……」
メルメルはしょんぼりと肩を落とした。おずおずと言う。
「行っても……いいであるか……？」
翔太はうつむいた。
「地図書いてくれたら、頑張って一人で行ってくるである」
翔太はメルメルを顧みもせず、窓の外を睨んだ。今、五時半。だいぶん日が長くなってきているとはいえ、七時には薄暗くなるだろう。もしメルメルに伊月の家へ歩いてゆかせでもしたら……
（うわああん、しょうたぁぁ……ここはどこなのであるかぁ……）
ぐるぐる回り歩いたあげく、何処にも行けなくて近所の公園でべそをかいているにちがいない。
気の進まないためいきをつく。
想像するまでもない。メルメルが一人で行けるはずがない。
「方向オンチのクセに背伸びしてんじゃねーよ」
うんざりと髪をかき上げる。
メルメルと眼があった。
メルメルは一瞬、子犬みたいに眼を輝かせた。期待に胸を膨らませ、ちぎれんばかりに尻尾を振る犬のように、眼がきらきらさせている。
「おみまい、連れてってくれるのであるか！？」
メルメルは声を飛び跳ねさせた。
「俺は行かねーからな」
うつむいたまま、吐き捨てる。
「自転車で乗せていってやる。でも俺は行かない！」
「……うん、うんっ！ やっぱりしょうたは優しいのである、我はうれしいのである！ ありがとうなのである！ ではさっそくお着替えしてくるのである！」
メルメルは顔を輝かせて、部屋から飛び出していった。翔太はくちびるを噛み、窓の外を見た。傾いた西日が斜めに差し込んで、白い壁を朱色に染めている。
「まったく、余計な世話焼かせやがって」
まだ部屋の中をぱたぱた飛んでいるコウモリを掴まえる。コウモリは、ぽん、と手の中で返信を解き、元の携帯へと変わった。
伊月からのメールが入っている。
（ごめん ぐあい 悪くて れんらくできなかっｔ）
それだけしか書かれていない、力尽きたような文面。
顔をゆがめる。翔太はケータイをジーンズの後ろポケットにねじ込んで立ち上がった。
「あいつ……馬鹿だろ、マジで」
翔太は財布を掴んで部屋を出た。苦笑いする。馬鹿なのは自分の方だ。
玄関に脱ぎっぱなしだったシューズに足を突っかけ、苛立ちを装った声をかける。
「ほら、いくぞ、メルメル。さっさとしろ」
「うむ、準備完了なのである」
ぽん、と煙が上がった。可愛らしいピンクと黒のゴスロリワンピに身を包んだメルメルが現れた。廊下をトテトテと走ってくる。
ベルベットのカチューシャ、斜めにかけたポーチはレースをふんだんに使ったうさぎの形。濃い目のピンクに、黒の編み上げコルセットをきゅんっとウェストで締め上げて、背中にはオーガンジーの大きなリボン、スカートはふわふわのラメチュールでふくらませている。
「待て、その恰好で行く気か」
「悪魔は中身より見た目が大事なのである」
家を出て、自転車に乗る。メルメルは後ろの荷台にちょこんと横座りした。
「そんな恰好して、スカート引っかかったりしねーだろうな？」
「えへ、気をつけて乗るから大丈夫、である」
メルメルは翔太の腰に腕を回した。身を寄せ、ぎゅっと抱きつく。
「そんなにしがみつくなよ」
「えへへ……」
「何笑ってんだ」
「やっぱり、しょーたはしょーたなのである。いじわる言ってても優しいのである。我は嬉しいのである」
「ち、ちげーよ」
「違わないのである。さすがは我が見込んだ肉奴隷なのである。エロ汁したたる良いちんこなのであ……ぐにゅ！」
「……その表現今すぐやめろ」
すりすりと抱きついてくるメルメルを全力で押しやる。翔太は自転車のハンドルを握った。
まずは、近所のスーパーへ向かう。食材やおやつ、伊月の好きなイチゴ味のヨーグルトや熱冷ましのシートなど、思いつくまま大量に買い込むと、翔太はレジ袋いっぱいになった荷物を自転車のカゴへと突っ込んだ。
「行くぞ。飛ばすからな」
「おお、すごいのである。この自転車は空も飛べるのであるか？」
「ちげーよ、スピード上げるから振り落とされないよう、しっかりつかまってろってことだ」
「うむ、分かったのである。華麗に飛んでいくのである！」
メルメルは、翔太の腰に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。
「では出発である！」
「わあっ……！」
こぎ始めた自転車が、ふわり、と浮き上がる。
「わあああああ！？」
翔太が自転車を漕ぐたび、自転車から巨大なコウモリの翼が伸び上がり、ジェット気流をうずまかせて羽ばたく。
「わ、わっ、何だこりゃ！」
「しょうた、もっと飛ばすのである！」
「飛ばすの意味がぜんぜん違うわーーーッ！！」
空に舞い上がった自転車は、きらきらとまたたく夜景を見下ろしながら、ひとっ飛びで街を飛び越えた。
青い月がはばたく悪魔の羽影に覆い尽くされる。
「わあああああ……！」
だがおかげであっという間に伊月の家の近くにまで到着する。
「まったく、とんでもないことをしてくれる」
冷や汗をかきながら自転車を地上へと向かわせようとした、とき。
「あれ？ 何か来るのである」
「タクシーだ」
翔太は眼を凝らした。タクシーは伊月の家の前で止まった。誰かが降りてくる。
「薄暗くてよく見えないのである……」
メルメルは不安そうにつぶやいた。
「……女の人なのである」
タクシーから降りてきたのは、一見、身持ち堅そうでいながら、ぞくりとするほどの色香を漂わせた美しすぎる女性だった。年齢はまったく分からない。研究者のような白衣を着て、髪をうしろでキュッとひっつめ、赤いメガネをかけている。
ピンヒールの音が響いた。
「でも、いつきではないみたいなのである」
「ほら、いらっしゃい」
屈み込んで手を差し出している。上から見下ろしているせいで、まっしろな胸元がほとんどそのままのぞき込めた。が、伊月の時とは違ってなぜか全くどきどきしない。
「いいって」
「だめよ、ずっと黙ってたくせに。もう心配させないでって言ったじゃない」
「大丈夫だって」
続いて降りてきたのは、高校のジャージを着た男子高校生だ。
顔立ちを見て、はっとする。翔太は、眼を押し開いた。
「ごまかしてもダメよ。そんなこといって。まだ足がふらふらしてる」
「一人で歩けるっつってんだろ……」
「……んー？ あれはいつき？ いー……」
うわっついた声を上げかけたメルメルの口を、あわてて片手で塞ぐ。
「しっ！」
「んぐ！ んぐぐ！？」
「静かにしろ！」
「むむうう！？」
頭上でどたばたと揉める巨大コウモリ自転車には気づかず、伊月と女性は家へと入ってゆく。
女性は伊月にぴったりと身体を寄せ、ほとんど抱くようにして玄関の戸を開けた。
「無理しないで。普段のあなたじゃないんだから。ゆっくり休んでちょうだい。せっかく……逢えたことだし、ね？」
「もういいって、子どもじゃねえんだから……っ！」
「大丈夫？」
足をもつらせた伊月は、女性に抱かれて壁にもたれかかった。
「ほら、無理しちゃ駄目」
「ちょっとつまづいただけだって言って……ん……」
薄暗がりで伊月とその女性は身を寄せ合っている。建物の陰になってよく見えなかったが、抱き合っているようにも――キスしているようにも見えた。
「そんなにあからさまに白々しく心配そうな顔されてもな、どうせまたいつものパターンだろ……不条理連鎖症候群の精神影響調査とか何とかのさ……いい加減、俺を被験者《モルモット》扱いするのは止めてほしいな」
「あなたのことが心配だからよ。誤解しないで。現在の医学では、不条理連鎖症候群が周囲の人間にどんな影響を与えるか、まだはっきりしたことすら分かってない。だから、本当は、あんまり、無茶なことはさせたくないの。本当に無理しないで。八坂君は、貴重な”臨床試験対象”。踏み込みすぎたら、本当に危険。分かってる？」
伊月は答えない。女性は喉の奥に笑い声を含ませた。
「……すぐそうやって拗ねるんだから。まだまだ子どもね。意地張らないで。今夜ぐらい、優しくて綺麗なお姉さんに看病させなさいよ」
「……どうせ余計なことすんだろ、また」
ささやきあいながら、伊月と女性は家の中へと消える。
「あれ、何かヘンである」
メルメルは眉をハの字にして考え込んだ。
「今の……いつき……じゃなかったような気がしたのである……んー？」
うーんと、うーんと、と悩ましげに唸って頭を抱えている。
「分からないのである。いつきなのに、いつきじゃなかったのである」
「伊月だよ」
翔太は低くつぶやいた。
「あれがホントの伊月だ」
「へ？」
「帰るぞ」
「ほえ！？」
翔太は振り払うように言った。自転車のハンドルを切る。
コウモリの翼が、不気味に打ち振られた。風をかき乱す鈍い音が強まる。
「ちょ、ちょっと待つのである。いつきのお見舞い終わってないのである」
「一人じゃないって分かったんだからもう行かなくてもいいだろ」
「何でそうなるのである。いつき、ふらふらしていたのである。具合悪そうだったのである……」
コウモリ自転車は進行方向を変え、もと来た道を戻り始める。
メルメルはあわてて後ろから翔太の首を掴んだ。ゆさゆさと揺さぶる。
「ぐえ！？」
「だめなのである。戻るのである。我はお見舞いにまだ行ってないのである。せっかくいつきのために、いちごヨーグルト買ったのにである。いつきに、ゴハンつくってあげるって言ったである……ネギとかタマゴとかぐちょぐちょビチャビチャなおかゆの材料も買ったである、である！」
「ぐえええ放せ、放せってば！ 落ちる、やべえ、ぐるじい！」
「あう。すまないのである」
「まったく、何すんだよいきなり」
翔太は咳き込みながら喉を押さえた。咳のしすぎで涙がにじみそうになる。
「首絞めんな！ 息できねえだろ！」
「でもお見舞い行けていないのである……」
「せっかく部屋に女連れ込んでるってときに、わざわざ邪魔しに突撃するアホがあるか」
「お見舞いいくのに、何で邪魔扱いされるのである」
「友達なら、な」
翔太は鼻先でふん、と笑った。
「いつきはお友達である」
「ちげーよ。ありゃ、俺に会う前の伊月だ」
「はう？」
メルメルは眼を白黒させる。
「わけわからないのである」
「ずっと、友達だと思ってたけどな」
翔太は目を伏せた。
「でも、どうやら俺が勝手に友情モドキのことを押しつけてただけみたいだ。俺の傍にいたらどいつもこいつもおかしくなっちまうってさ……分かってんのにわざわざ俺と一緒にいてくれてさ、オカマみたいな恰好までしてくれてさ。なのに、俺のせいで」
付き添っていた女性に対し、伊月が口にした言葉。
（不条理連鎖症候群の精神影響調査）
翔太が知らないところで、モルモット扱いを甘んじて受けていた、と――
初めて知った事実だった。
「リトマス紙じゃあるまいし。近づいたら危険と分かってて……どんなふうに変わるかテストされるなんて、俺ならまっぴらゴメンだ」
声を殺し、続ける。
「いや、マジな話さ。今行ったら空気読めねえアホ扱いでたたき出されるのがオチだ。だから、こうやって、こっちから距離を置くほうが伊月にとってはいいんだよ。キレイなお姉さんも看病してくれてることだしな……あいつも、俺なんかが行くより、美人のお姉さんにちやほやされるほうが嬉しいに決まってんだろ？ 俺や、メルメルみたいなのが邪魔しに行ったらまた不条理なことが起きてわけわかんなくなっちまう。こういうときこそドタバタなだれ込んで邪魔すんのがお約束だろうけど、具合悪いんじゃ、マジでシャレになんねーよ」
「翔太、それは違うのである」
「違わねーよ」
翔太はうつむいた。自転車を漕ぐスピードを上げた。
「違っててもいい」
青い月光が降り注ぐ。
はばたく巨大なコウモリの影が、滑るように地表を移動している。
「俺だって、伊月と――ずっと友達でいたかったよ」
夜風が流れ去ってゆく。
「でも、あいつが、俺のせいで病気でもないのに身体を調べられてたり、俺の知らないところで具合悪くなったりしてたんだとしたらさ」
ペダルを漕ぐ音が静かに続く。翔太はこうこうときらめく夜空の月を見上げた。風を受けた髪がなびく。
「いくら俺でも、今までと同じ調子で平気なふりして友達ヅラなんか……できるわけねえわ。ただでさえ迷惑かけてんのにさ……なのにあいつのことが気になって、なりすぎて、もう、まともに顔も見れねーとか……そんなろくでなしな気持ちでいるのって、人として正直ありえねえから」
「しょうた……」
メルメルは翔太のＴシャツをぎゅっと掴んだ。背中に顔をうずめる。
「しょうたは……いつきのこと……」
「ちげーよ。あいつは男なんだって。さっきから言ってんだろ」
ほろ苦く笑ってかぶりを振る。
「勘違いすんなって。結局、俺はただの独りよがりで、伊月は度の過ぎたお人好しだったってことさ。こっちが勝手に友達だと思い込んで、押しつけて、エロい妄想かきたててただけなんだ」
胸の奥底に闇がある。何一つない殺風景な闇。その中央に、鏡のような水たまりが広がっている。
合わせ鏡に映っているのは、のぞき込む自分の顔だ。偽りの友情と偽りの日常に埋没し、すべてが虚構だったことを知ろうともせず、鏡の中で踊る自分だけを見つめている孤独のピエロ。
直視できなかった。
ためいきまじりに肩をすくめる。
「……なのに、メルメルにまで八つ当たりしちまってさ。悪かったな。ごめん、マジで」
「ううん」
メルメルはなおいっそう、翔太の背中に顔を押しつけた。そよそよと月風になびく金髪が淡くきらめいている。
「我のことは、いいのである……でも、あの……」
「ダセエな、俺」
翔太は自嘲を振り払った。
さばさばと笑う。
「だからさ、決めたんだよ。そんなことでうじうじ悩むぐらいならさ、元の、本当のあいつに戻ってもらって……不条理だか何だかワケわかんねー変な影響受けずにさ、あいつのやりたいようにさせてやるほうがずっといいって思うのがさ」
あっけらかんとした笑顔で、後ろの荷台に横座りしたメルメルを振り返る。
「友達としては正しい見送り方、ってもんじゃねーのかなって、さ」
「違うのである、翔太、それは」
「違っててもいいっつったろ？ いいか、ヨーグルト全部やるから伊月には黙ってろ。俺なんかとはなるべく関わらない方がいいんだ。みんなそう思ってる。だから、絶対に言うな。分かったな？」
どこからかラーメンのチャルメラが聞こえてくる。
青白い月の照らす静かな夜を、音もなくコウモリ自転車は羽ばたく。
重いペダルを、翔太はただただ漕ぎ続けた。
翌朝起きると、珍しいことにメルメルはさっさと一人で学校へ行ってしまったらしかった。ひさびさに静かな起床時間を迎える。
いたらいたでやたら面倒くさいメルメルの存在も、いなければ逆にしんとして、それが”普通”であるにもかかわらず、まるで火が消えたように物寂しく感じる。
翔太は一人もくもくと朝食を取った。食べる者もなく山盛りにされているフランクフルトを弁当箱に詰め、好きなだけつけられるようにと用意されたケチャップとマスタードのチューブと一緒にカバンに放り込む。
家を出る。
時間前に到着し、靴箱のあるピロティを歩きすぎる。階段を上がっていこうとしたとき、ふとせわしなくざわつく気配を感じた。踊り場の上から、靴箱を見下ろす。
いくつも並んだ学年ごとの靴箱の向こうに、メルメルの目立つ金髪が見えた。どうやら生徒指導の教師に捕まったらしい。叱られている。
「そこの女子、何年何組だ！ 頭髪違反だ。髪を染めてはいけないと校則で決まってるだろう。パーマも禁止！」
「これはパーマではないのである。染めてもないのである」
「外人だとでもいう気か？ ああ？」
「我はガイジンではないのである。ジンガイなのである。花憎魔《ゾーマ》なのである。だから金髪なのは致し方ないのである。こーちょーにもそう伝えてあるのである」
メルメルの面喰ったような弁明が聞こえる。
「頭髪検査の書類は提出したか？ してないだろう！？ 親御さんに来てもらうぞ？」
「そ、それはまずいのである。我が母は第四十階梯冥界女王として地獄に君臨する身。第一階梯のようなちっぽけな世界に降臨してしまえばその巨大すぎる恐怖質量によりたちどころに全宇宙がブラックホールと化し、激甚の終末を迎えるのである……！」
「ワケのわからんことを言ってごまかすな！ 職員室に来い！」
「わあんっ！ わ、わ、ちょっと、引っ張らないでほしいのであるーー！」
「くそっ、メルメルのやつ……」
舌打ちして階段を下り戻ろうとしたとき。
「先生」
おだやかな声がかかった。
「伊月か」
生徒指導の教師が虚を突かれたような声をあげる。
「どうした、その恰好。不条理ごっこはやめたのか」
「……ええ、まあ、そんなところです」
落ち着いた所作で、メルメルをかばい、背後へ追いやる。
伊月は如才なく微笑んだ。
生徒指導の教師は伊月の表情にも、翔太が背後から見ていることにも気づいていない。
「まったく、八坂と関わると、どいつもこいつもロクなことにならないな。とにかく眼が覚めて良かったな。あのままだったら、間違いなく、学業どころか今後の進路に差し障っていたな」
高圧的に決めつけられる。
「何でそうなるのである！？ そんなこと……！」
くってかかろうとしたメルメルの肩に、伊月が手を置いた。目配せしながら、間に割って入る。
「”君”は黙ってて」
「いつき……？」
メルメルは子どもっぽく振り上げた手を取られ、声を呑み込んだ。まごついた表情で伊月を振り返る。
伊月は、素知らぬ顔で方便を並べ立てる。
「彼女も僕と同じクラスです。八坂の不条理連鎖症候群の影響で、自分のことを異界から来た悪魔だと”思い込まされて”いるんですよ。髪色もそのせいです。特別許可をお願いします」
「そうか。なら仕方ないな。伊月がそう言うなら信用してやる」
教師はあっけなく引き下がった。黒い生徒指導用の出席簿を手に、階段を上がってくる。
「まったく、八坂め、次から次へと問題ばかり起こしおって……あんな問題児、さっさと退学になればいいものを」
翔太は教師に気づかれる前に、トイレの奥へ身を隠した。唇を噛んで、苦い気持ちを押し殺す。
伊月とメルメルが連れだって一緒に上がってくる。
「ふう、いつきのおかげで助かったのである。ところでいつき、具合は？」
「ん？ 別に悪いトコなんてないけど？ どうして？」
「この間……あ」
メルメルは、ばつのわるい顔をして両手で口を押さえた。しどろもどろで弁解する。
「あ、う、何でもないのである」
伊月はかすかににやりとした。
「この間、何だって？」
「……全然何でもないのである！ 美味しいヨーグルトで口止めされたとかそんなことは全然ないのであるっ！」
「……ふーん？」
「何ジロジロ見ているのである！ 我は何も隠してなどいないのである！」
胸を偉そうに張って声高に主張する。
「分かった分かった。分かったから大声出さない。また先生に目をつけられるぞ」
「うっ、それは困るのである」
おずおずと縮こまるメルメルに、伊月は表情をほころばせた。
「と、ところで」
あわてて話題を変えようとメルメルは口を開いた。
「いつきは、いつ、男の子になったのであるか？」
「いや、元々俺、男なんだけど」
「しょうたと……喧嘩したから、であるか？」
「こっちはそのつもりはないんだけどね。こうもあからさまに避けられてちゃあ、だんだんそうならざるを得ないね」
伊月は低く含み笑う。
その余裕ある笑いに、翔太は、いたたまれない思いを押し殺した。踊り場のトイレに隠れて、去ってゆく二人の会話を盗み聞きしている自分が、あまりにも、未練がましく、格好悪く思える。
「でも、いつき、思ったよりカッコイイのである。我にもモテモテである！」
「そう？ じゃ、付き合っちまうか？」
「何を突き合うのである？ はっ、もしかしてちんこ？ ちんこであるな！？」
「何があってもちんこは連呼するんだな。じゃ、ついでにそれも突き合ってみるか」
伊月は、ふっ、と謎めいた笑みを浮かべ、メルメルの耳元に唇を寄せた。ひそひそと何かを耳打ちする。
「良い方法がある」
「え？」
「……その代わり、翔太《あいつ》には内緒にしとけよ」
からかうような挑発の視線が、翔太の隠れているトイレに向けられている。
思わずどきり、とする。翔太は気配を殺した。壁に貼り付いて、身をこわばらせる。
「分かったのである！」
メルメルは目をきらきらさせて伊月の腕にしがみついた。半分ふわふわ浮かびながら、すりすりと頬を寄せる。
「うむ！ 今日の放課後にこっそり温室に行って、我といつきでふじゅんいせいこうゆうしてちんこのお突き合いするとか、絶対に翔太にはナイショにしておくのであるーーーーっ！」
「声大きい」
「ゆびきりげんまんなのである！ うそついたらちんこ千本飲ますのである」
「誰のちんこだよ」
「えっへっへ〜〜いつきのちんこ楽しみなのである〜〜！ ふじゅんいせいこうゆうするのである〜〜」
「だから声大きいって」
「ナニが大きいのであるか！？ それは重畳である！ 我は大っきければ大っきいほど好きである！ あれ、いつき、なぜ逃げるのであるか？」
「放課後な、放課後っ！」
「ああん、待つのである〜！」
聞こえよがしに笑いながら逃げ去る足音が聞こえた。
放課後――クラスメートのほとんどが帰ってしまったあと。
ぽつんと自分だけ教室に残って、帰るに帰れず、帰ろう、と思い立つこともできず、ためらいに後ろ髪引かれてばかりで机にしがみついている。
最悪。憂鬱。どん底。気分は下の下、奈落の底だ。
「何なんだよ……」
自棄になって翔太は机に突っ伏した。
落ち込む理由など何処にもないのに、頭の中がぐるぐるして、自分でも訳が分からない。
「だから、帰っちまえばいいんだって」
傾いた夕暮れ前の日差しが、薄赤く教室の壁を染めている。廊下側の窓から、暗黒温室がくろぐろとそびえ立っているのが見えた。
ギャア、ギャア、と、温室に巣をかけた大鴉が、不気味な黒い破れ羽を広げては、廊下を歩く生徒たちが近づくたびにやかましい鳴き声を浴びせかけている。威嚇しているつもりなのかもしれない。それにしても、見たこともない大きさだ。どうせ、異界から来た怪物の仲間なのだろう。よりによって学内に居座らなくても良いものを……。
「メルメルと伊月が、何をしようが俺には関係ない……って、何一人でいつまでもグチグチ言ってんだ俺は」
ほぞを噛み、頭を抱えて吐き捨てる。
そんなことは分かり切っている。
「厄介払いが二つ同時にできてせいせいするってもんだろ、ふつーは」
カバンを掴んで寄る辺なく立ち上がる。
「そうだ、そうに決まってる。あいつらがよろしくやろうが俺には関係ない……」
なのに、頭の中が、メルメルと伊月のことでみっともなくもやもやと渦をまいて、収まらない。
どうでもいいことばかりが脳裏をよぎる。伊月とメルメルが付き合いたいなら付き合えばいい。当人同士の勝手だ。なのに、そのことが何度もぐるぐると頭をめぐって。
頭の中に風船がふくらんで、まともな思考を押しのけてばかりいるような心地がする。イライラとモヤモヤの熱風でいっぱいになった気球が、今にも破裂しそうに膨らんでいる。
さんざん不条理に生活を毒されていながら、今さら常識的思考を語るなんておかしい。”常識”的に考えれば、極めて喜ばしいことのはずだ。無駄にエロフェロモンを振りまく伊月に迫られることもなくなるし、魔王の子種がどうのこうのとうるさいメルメルの注意もそらせる。まさに御の字。
頭の中のイライラを、振り払ってはたきおとす。
翔太は目つき悪くうろつき回った。冬眠あけのクマみたいに、喉の奥で不機嫌に唸る。
「だから、何でこんなことで俺が悩まなきゃならんのだ」
”正気に戻った”伊月が、メルメルと付き合う、と言い出したことについても、翔太がとやかく言える筋合いではない。そもそもメルメルが家に居座っているのも、勝手に魔王の子種を寄越せだの何だの言いながら勝手に押しかけてきた、というだけのことだ。
伊月がどこで誰と何をしようと構わない。 翔太が自分から関わってゆきさえしなければ、”不条理”は生まれない。
ましてや相手はメルメルだ――一見、無害なロリ顔をしているだけについ忘れてしまいがちだが、あれでもいちおうは悪魔か魔女のはしくれに違いない――本気で魔王がどうのこうのと言い出すような、ややあっち世界に片足突っ込んでいる邪気眼スピリチュアル悪魔を相手に、何らかの対処をしなければならない、などと焦る道理はまったくないはずだ。
まさにどうでもいい。本当に、そんなこと、どうでもいいことだと分かっているのに。
「だから、別に、あいつらが何してようと」
いい加減、くどくどとしつこい自分にうんざりして、教室を出る。
足取りも荒々しく廊下を歩いてゆく。
窓の外の温室は、いやでも目に入る。
「……ちっ……！」
舌打ちして目をそむけようとする。
入り口近くに人影が二つ見えた。
伊月と、メルメルだ。
何やら楽しげに話し込んでいる。
メルメルは、ぴょんと跳ねて伊月の腕を取った。背中に小さな悪魔の羽が生えている。
翔太は眼を押し開いた。
幻覚かと思い、窓に額を押し当てて眼をみはる。
メルメルの足下には、可愛らしい姿とは裏腹な、おどろおどろしい邪悪な影が広がっていた。くろぐろと波打つ異形の翼が、地面に映し出されている。
「お、おい、何だ、ありゃ……？」
奇怪な陰影に、思わず目を疑う。
「嘘だろ！？」
まさか、あれが、メルメルの本当の姿……？
何かの見間違いであればと、目をそらし、呼吸を整え、見返してみる。それでも不気味な影は消えない。それどころか、ますますうごめく闇は澱みを増し、どん欲な深みを増して、精緻に巨大化してゆくように見えた。
翔太は焦って窓を開けようとした。
だが、手が無様に震えて、カギの上を滑る。
「……くそっ、開かねえ！ 何だよ、こんなときに」
錆びているのか、うまくロックを解除できない。
「伊月のやつ、見えてねえのか？」
手こずりながらも気が気でなく、窓ガラス越しに見下ろす。額を押しつけるようにして様子を窺うと、メルメルの黒い翼がさらに広がってゆくのが見て取れた。伊月はというと、まるで異変に気づいていないらしい。
「くっ……！」
ようやくカギが回った。翔太は身を乗り出すようにして窓を開け放った。
と、頭上に暗い影がさしかかった。暗黒温室に巣を作った化け物鳥が、破れ翼を羽ばたかせて突進してくる。猛烈な突風を巻き起こった。
「うわっ！？」
あわててのけぞる。
羽ばたきの風が唸りをあげる。
化け物鳥が襲いかかってきた。するどく尖ったくちばしが大きく開かれている。深紅の色がのぞく。
超音波みたいな鳴き声がガラスをびりびりと震わせる。
「ギャアギャアうるせえんだよこの化け物！ どっか行け！」
しゃにむにカバンを振り回して応戦するも、激しく翼を振るわれ、巨大なくちばしでつつかれては敵わない。翼がガラスを打つたび、黒い羽が廊下にばさばさと舞い込む。
暗黒温室に残された巣に、案外可愛い顔をしたまんまるなヒヨコが、押し合いへし合いしていた。ピーヨピヨ鳴いている。
「くそっ！ 何なんだこの鳥！ 勝手に増えてんじゃねーよ！」
手で眼をかばいながら怒鳴る。
襲ってくる翼の下から、メルメルと伊月が、歩いてゆく姿が窺えた。
相変わらずメルメルの足下はどす黒く変色している。不気味な足跡が、点々とつらなっているようにも見えた。
「メルメル……！」
怒鳴ってみても、聞こえている様子はない。
「伊月！」
二人は連れだって温室内へと消えてゆく。黒い影は、ゆらり、ゆらり、揺れ動いて、まるで薄気味悪く笑っているかのようだった。
「どうなっちまってんだ、いったい……！」
化け物鳥の攻撃に耐えきれず、窓を閉める。
だが、化け物鳥は執念深かった。くちばしを無理矢理に窓の隙間へとねじ込もうとしてくる。窓がギリギリと音を立てた。こじあけられてゆく。カバンを楯にして防御するも、どうしても敵わない。
ついにカバンが弾き飛ばされた。中身がちらばる。
「くそ、もう、いい加減にしろ！」
中から、ケチャップとマスタードのチューブが転がり出る。
今朝、弁当と一緒にカバンへ突っ込んできたことを思い出す。
ピン、とひらめく。
「溺れる者はカラシをも掴む！」
翔太はマスタードのチューブをひっつかんだ。キャップを開けて構え、見る間にメカニカルな可動部分をじゃきんじゃきん言わせながら自動変形してゆくチューブを力任せに握りしめる。
「くらえ、マスタードキャノン！ ファイア！」
ぶにゅ！ 超高速で射出されたマスタードは、化け物鳥のくちばしに向かってにゅるにゅると一直線に飛んだ。
「ギャッ？」
マスタードの銃弾が、しこたま口の中へとばらまかれる。
ごっくん。
止せばいいのに呑み込んだ。
「ギャ？」
顔が赤くなってゆく。
「ギャァァァァァ！」
どうやらかなり辛かったらしい。化け物鳥はヒーヒー言いながら羽ばたいて逃げ帰っていった。
「甘いのは嫌いでね」
翔太は静かにたたずんだ。ふ、とチューブの銃口に息を吹きかけ、ぱちん、と音をさせてキャップを閉める。
「でも、甘くない人生はもっと嫌いだ」
愁いを帯びたまなざしで夕日を見上げる。
「って、意味不明にたそがれてる場合じゃねー！ 緊急事態だっての！」
悩んでいる場合ではない。
「メルメルのやつ、まさか余計なことをしようってんじゃねえだろうな？」
不安がこみ上げる。薄気味の悪い想像が脳裏をよぎった。
伊月はもう、不条理の影響からは逃れている。とすると、一般人、普通の状態だと言うことになる。不条理に耐性のある翔太ならともかく、普通の人間である伊月が不条理の塊である悪魔《メルメル》に取り憑かれたら……
いったい、どうなる？
じわりと迫る、不気味な影。
メルメルの謎めいた誘惑。
熱気のこもる異界の温室。
（今日の放課後にこっそり温室に行って、我といつきでふじゅんいせいこうゆうしてちんこのお突き合いするとか、絶対に翔太にはナイショに……）
まさか。
我知らず冷や汗がこめかみをつたう。
メルメルが、ついに、悪魔の本性をあらわに――！
「くそっ……ナイショにしときたいんなら小声で話せってんだよ！」
矢も楯もたまらなくなる。
翔太はカバンの中身を拾い集めると、誰もいない廊下を走り出した。
一方、伊月とメルメルは、おそるおそる、と言った顔で温室の戸を開け、中に入り込んでいた。
「しょうたは、来るであろうか？」
濃いジャングルの緑色を振り仰ぎながら、気後れした表情でメルメルがつぶやく。
「さあね」
伊月は冷ややかな笑みを浮かべてメルメルを振り返った。
「鈍いからな、あいつ。俺たちが何考えてるか、全然気づいてなかったみたいだし」
薄く唇を吊り上げる。
「来なきゃ来ないで、何とかしておびき出す方法を考えるさ」
「他の方法って？」
「そうだな、たとえば」
伊月はメルメルの背後に回り込んだ。
「こんな感じで……見せつけてみるのはどうかな？」
腕を回して、背後からからかうように抱きしめる。ぎゅ、と腕に力を込める。
「ん……？」
抱きしめられたメルメルは、何かに気づいたらしく、ぱちくり、と目を瞬かせた。
「いつき、どういうことなのであるか、”それ”は……？」
伊月はくしゃりと笑って相好を崩した。
「あ、気づいちゃった？ そうだよ。実は……」
だが、そのとき。
ふいにジャングルの奥から樹木の砕け折れる音が聞こえてきた。巨大な影がみるみる迫ってくる。
「何だ、今の音？」
伊月はとっさにメルメルをかばった。後ろへと追いやろうとする。
「い、いつき、あれっ……！」
震える指先で指し示した先に――
雪崩のようにジャングルを押し倒しながら迫ってくる巨大な漆黒の闇。
メルメルは蒼白な顔で悲鳴を上げる。
ばらばらと木くずが降ってくる。花が舞い散った。逃げまどう小鳥たちが、引き裂かれるような鳴き声を上げて飛び立つ。
「逃げろ、メルメル！」
伊月は声をあららげてメルメルを突き飛ばした。
「温室の外へ逃げるんだ！」
「いつき、後ろ！ あぶないのである……！」
「何っ……？」
のたうつ巨大な腕が伊月めがけて叩きつけられる。
「こ、こいつは……あの……！」
伊月は、眼を押し開いた。
視界が暗黒に塗り込められる。ごうっと風の鳴る音が聞こえた。
悲鳴が、響き渡った。
猛スピードで階段を駆け下りる。何をそんなに自分でも急いでいるのか、分からない。
とにかく、走った。息が切れるほど走って、校舎の外に飛び出す。
圧倒されそうな漆黒の城が、遙か天空のその先にまでそびえ立っている。
温室の戸は開いたままだ。先ほど伊月とメルメルが中に入ったとき、開けっぱなしにしたのだろう。
「ちくしょうっ……！」
ごうっと風を切る唸りが聞こえた。すさまじい羽音に思わず息をつまらせる。
暗い影がけたたましいわめき声とともに迫った。先ほどの化け物鳥だ。しつこくまだ狙っていたらしい。
超音波の鳴き声が響き渡る。
連鎖的に校舎の窓ガラスが割れて砕け散った。
「……ッ！」
割れたガラスが雨のように降ってくる。
翔太は意を決して裏庭へと飛び出した。背後から、連続して降り注いでは粉々に砕け散るガラスの音が響き渡った。
「ベタベタとしつけーんだよっ！」
羽ばたいて急降下してきた巨鳥が、ぎらぎらと湾曲したするどい爪を光らせて掴みかかってくる。
「わあっ！」
横に身を投げ、転げながら避ける。
「そんなにカラシが頭に来たんなら、わざわざ襲って来なきゃいいだろうがッ！」
化け物鳥の爪にえぐられ、校舎裏の花壇が、めちゃくちゃに踏み荒らされる。ばらばらと土が飛び散った。
「めちゃくちゃしやがって……！」
何としてでも温室へたどり着かねばならない。
だが、化け物鳥の猛攻があまりにすさまじすぎ、遮蔽物づたいに行くにも命がけに思えた。
「くッ……何で、お笑い担当の俺がこんなハードな展開になってんだよ」
時間だけがむなしく過ぎてゆく。こんなことをしている間に、いつ、メルメルが妖しげな儀式を始めないとも限らない。
「ええい、当たって砕けろ、だ！」
翔太は壁際から飛び出した。化け物鳥の猛攻を避け、必死に走る。
「だああ、痛い痛い後頭部つつくな止めろハゲる！」
カバンで頭を防御しながら突っ走り、温室に飛び込む。
と、目の前に。
「ピッ？」
黒いヒヨコがいた。
「ピピピピピーーー！」
黒いヒヨコは翔太の顔を見るなり、嬉しそうに飛びついてきた。
「ピイ！ ピイピピ！ ピピー！」
「うわっ！？」
ぱたぱたはばたく腕の中のもふもふを扱いかねて、翔太はのけぞりそうになった。
「お前、あのときのヒヨコ！」
背後から爆風にも似た風が吹き込んでくる。化け物鳥がくちばしで温室を突き破ろうとしているのが見えた。
「わっ！」
手にした黒いヒヨコを取り落としそうになる。ヒヨコは、なぜか、もがくように力一杯はばたいた。
「ピイイイ！」
「あ、あぶねえ！ 外は危険……ッ！」
「ピイイ！」
あわてて後を追う。ヒヨコは転げるように小さな翼を打ち振った。まるで翔太を守ろうとでもするかのように、化け物鳥の前に立ちふさがる。
「ピイイ……！」
「馬鹿ヒヨコ！ 逃げろ、あぶねーって！」
我を忘れた化け物鳥のくちばしが降り迫ってくる。来たる惨劇の予感に翔太は思わず眼をそむける。
「……ピイッ！」
猛然とした羽ばたきに、黒く羽が散る。
砂混じりの突風が吹き込んだ。
正視できない。哀れな姿となったヒヨコの末路を想像し、翔太は歯を食いしばる。
が。
「ピイ、ピイ……？」
なぜか。
心やすらぐヒヨコの鳴き声が聞こえた。
翔太は、おそるおそる眼を開けた。信じがたい光景が眼に入る。
ヒヨコは、無事だった。それどころか化け物鳥に飛びついてはくちばしに乗り、滑り落ちてはまた飛びつく。化け物鳥は、愛おしげにくちばしでヒヨコを転がしては毛づくろいをしている。
「……どういうことだ？」
「ピイ！ ピピ！」
黒いヒヨコは、化け物鳥を指さすかのように羽をぱたぱたさせた。何やら語りかけているようにも見える。
「……これって、もしかして、感動の親子対面ってやつか？」
苦笑いして鼻をこする。翔太は思わず肩の力が抜けるのを感じた。やれやれと胸を撫で下ろす。
「ってことは、おまえ、あの巣から落ちたヒヨコだったのかよ？」
「ピイ！」
「で、こっちは、落ちたヒヨコを探してた親鳥ってことか？」
「ギャア！」
「何だよ、もう。まったく人騒がせな」
翔太はヒヨコを手に包んで持ち上げてやった。ひょい、と化け物鳥の頭に乗せてやる。
「もう、落っこちるんじゃねーぞ。いいな」
「ピイ！」
ヒヨコは嬉しそうにさえずった。別れの挨拶のつもりか、翼を振っている。
親鳥が羽ばたいた。突風が巻き起こる。
「ピイイ……！」
ヒヨコは、すっかり攻撃性を失った親鳥とともに巣へと戻っていった。いつまでも羽を振っている。
翔太はため息をつき、汚れた制服の土を払った。ポケットから携帯を取り出して時間を見る。
「ずいぶんと時間を食っちまったな。あいつらが入ってから十分以上は過ぎてる」
電子コンパスのアプリを表示させる。
「ぐるぐるかよ……」
いつまで待ってもコンパス画面は北を指し示さない。不安定に揺れ動いて確定しない。
「”魔キュン空間”か。マジ、異世界とつながっちまってんのかもな」
翔太は密かに笑った。
「さすがにシャレになんねー気がしてきた」
不条理の支配する異界。
どんなトンデモ生物、どんな危険が潜んでいるか知れない。
一歩中へと踏み込めば、再びあの萌えキュンハアハア状態へと陥る可能性もある。だが。
「ま、いい。据え膳食わぬは男の恥っていうしな……。あれ？ 何か違うな。毒を食らわば皿までよ、だったかな？」
冷や汗まじりに笑い、表情の軽さとは裏腹に緊張した拳を、ぐっ、と握りしめる。
危地へと向かう題目など、この際どうでもいい。友達の無事を確認するのに、”不条理の世界から解放する”だの何だのと、小難しい大義名分を掲げるいわれもない。
強いて言うなら、なくしかけた気持ちを、本当の――友情を、取り戻すため。
ともすれば揺れ動く気持ちを押し鎮め、先の見えぬ温室の内部を仰ぎ見る。
腹の奥底がふつふつと沸騰を始めたような気がした。
行く手を遮るのは、異界の熱気うずまく魔キュン密林《ジャングル》。
一歩、足を前へと踏み出す。
この奥のどこかに伊月とメルメルがいる。
もう、ためらわない。歩き出す。
翔太はジャングルの奥へ踏み込んだ。
「どんどんイカレてきてるな……」
翔太は苦笑いして汗を拭った。
あまりの蒸し暑さにブレザーなど五分と着ていられない。とっくに脱ぎ捨て、入り口にひっかけて置いてきた。
先日より遙かに、異様な熱気が立ちこめている。
空気までもが、ますます重みを増しているような気がした。
植物の草いきれが満ちている。反響する鳥の声。騒がしく走り回る獣の影。
頭上には緑色をした霧が漂っている。密林の臭いが鼻につまった。
極彩色の巨大な蝶が悠然と羽ばたいている。両手を広げたぐらいの大きさだ。見るからにあやしげなりん粉をまき散らし、飛び回っている。
前方に、緑の玉すだれが下がっている。
キラキラ光る露のついたツタ、といったところか。それが、からまりあって遙か天井にまで伸びる巨木の枝から下がっているのだ。
翔太は童話の豆の木を思い出した。
「まさか、これを登れってんじゃねえよな……」
ひきつり笑いを浮かべ、玉すだれのツタを払いのけようとした。
手に、べたりと接着剤のようにくっつく。
「うわっ、何だ、こりゃ」
振り払おうとしてもぺたぺたとまとわりついてまったく取れない。
「ちょっ……！」
と、先ほどの巨大な蝶の羽が、同じ玉すだれにくっついた。
蝶はツタから逃れようと暴れ回った。だが暴れれば暴れるほど粘着し、巻き付いてゆく。
息もできないほどのりん粉がまき散らされた。翔太は咳き込ながら、かろうじて粘液を引きちぎった。
「何だよ、これ、ヤベェ……っ……！？」
と、次の瞬間。
頭上から牙の生えた巨大な食虫植物の花が降ってきた。大量の玉すだれもろとも一瞬で蝶をくわえ、再び遙か頭上へとばねじかけのように消えてゆく。
「わああああああ食われたッ！」
翔太は青くなって命からがら逃げ出した。
「ど、どうなってんだ、まったく？ くそ、どこにいる？」
――翔太。
声が聞こえた、気がした。
「伊月か！」
反射的に翔太は上を振り仰いだ。緑の樹冠しか見えない。
がさり。
背後で、草の揺れる音がした。
びくりとして振り返る。
わずかに、尖った葉の先が揺れている。
風か……？
だが、温室の中に気を揺らすほどの風が吹くとも思えない。じりじりと後ずさりながら、用心して周囲の気配に耳を凝らす。
視線を感じる、というほどではない。
だが、不条理力によって時空をゆがみを生じた”魔キュン空間”の中心には、確かに、何らかの巨大エネルギー、理のブラックホールとでも言うべき何かが潜んでいる。
葉擦れの音が、波のように遠ざかってゆく。
だが、あちらこちらから似たような音が反響し、肝心の音の出どころがよく分からない。
翔太には見えていない死角から、何かが、くすくすっ、と笑った。
緑の奥に、黒い人影らしきものが潜んでいる。
ざわり。
ざわり。
気配が移動している。
「伊月、いるなら返事しろ」
目が回りそうなジャングルの光景に圧倒される。翔太はくぐもった声をあげた。自分では声を張り上げているつもりでも、熱気と動揺が喉に絡まって、かろうじて押し出しただけの声にしかならない。
「メルメル、どこだ？」
だが返事はない。
頭上から垂れ下がる緑の蔓だけが、ゆらり、ゆらり、揺れている。
と思ったのも束の間。
「きゃあぁわあぁぁぁぁ……」
遙か頭上から悲鳴が降ってきた。
「ぁわわああぁぁぁあ助けてなのである……！」
まだ落下中。近づいてきた。
「うわぁぁぁ……ああんっ！」
めきめきめき、とジャングルの木の枝をへし折り、転がり落ちてくる音とともに。
目の前に、ずどーーーん！ と。巨大なドリアンが降ってきた。
全長約五メートル。超巨大なトゲトゲの球体。
「ぐえっ」
超巨大ドリアンは、どーん！ と地面に突き刺さった。静かになる。
「……」
「お、おい……？」
何やら嫌な予感がするが致し方ない。
「メルメル……中にいるのか？」
おそるおそる、近づいて、何とか内部を窺おうとする。だが巨大ドリアンのどこにも亀裂は見られなかった。
「メルメル？」
直接手で触ると怪我をしそうなトゲトゲを避けて、殻のように硬い皮をノックする。
「聞こえるか？」
「うぐぐぐ……！」
「ぐ？」
「たいへんなのであら……っ」
「ら？」
翔太は首をひねった。腕を組む。ぐら？
いぶかしんで超巨大ドリアンを見上げた、そのとき。
ドリアンがぐーらぐーらと大きく傾いでいるのが見えた。
「！！！？」
「た、た、大変なのであるーーーー！」
「馬鹿、アホ、グラグラさせんなあっ！」
「しょうたっ、たっ、たっ、助けてほしいのであるーーーー！」
超巨大ドリアンはメルメルの声で叫ぶなり、翔太めがけて、ぐらっ、と倒れかかってきた。
「うわ！？」
ごろんごろん、数回その場で転がった、かと思うと。
明らかに翔太めがけてロックオン。ものすごい勢いで転がり始める。
「待つのであるーーーー！」
「来るなああああああっ！」
「来るなと言っても、うっかり転がってしまうのであるーーーー！」
「いくらご都合主義のお約束展開ＯＫな俺でも、全身トゲだらけの直径五メートルに轢かれたりしたら命がいくらあっても足りんわあああああ！」
「ああん相済まないのであるーー穴があったら入りたいのであるーーー！」
「俺を穴だらけにする気かーーーーっ！」
「でも何とかしてほしいのであるーーー！」
「馬鹿っ止まれってのーーー！」
「ドリアンは急には止まれないのであるーーーーー！」
「うわあああ！」
「あひいいいい！」
翔太は頭を抱え、涙ながらに逃げまどった。逃げ回るうちに、いつの間にか先ほどの巨大な豆の木の根本にまで戻っていた。
頭上はキラキラした滴を伝わらせた無数のビーズカーテンで覆われている。
「やべっ！」
先ほどの食虫植物が、捕食用の罠代わりにしていたことを思い出す。とっさに身をのけぞらせてスライディング。ギリギリのところで身を交わし、玉すだれの下をかろうじてすり抜ける。
「ふう、あぶねえとこだったぜ」
土煙を蹴立てて立ち上がる。
「ふにゃぁぁぁぁあ……！？」
どんごろこっこ、どんごろこっこと転がってきた巨大ドリアンは、粘着玉すだれのカーテンに、べちゃ、と真正面から突っ込んだ。
蜘蛛の巣のように貼り付いていている。さすがの巨大ドリアンも勢いを削がれたのか、それ以上は転がらない。
粘着玉すだれは、さながら無数の糸を引いた納豆みたいになっている。
だが、まだ勢いが止まったわけではない。
ぐ、ぐ、ぐ、と、今にもはち切れそうな不気味な軋みが聞こえてくる。
「ふにゃ？」
ぶちぶちっ、と気持ち悪い音を立てながら玉すだれがちぎれ飛ぶ。
引きずられて、上からこれまた巨大な食虫植物の花が落っこちてきた。
がじ。牙を剥いた巨大食中花が、あんぐりと地獄の口を開いて巨大ドリアンにかぶりつく。
「！」
まさにこの世のものとも思われぬ驚異のスペクタクル、空前絶後の死闘――！ 転がる巨大ドリアンｖｓもんどり打つ巨大食虫花の大乱闘は、しかし牙を光らせた巨大食虫花の勝利で終わった。躍り食いに成功した食虫花が、ドリアンを食いちぎる。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁあああ……！」
中から、ぼてっ、と。
バキボキとすさまじい音を立ててドリアンの殻をかみ砕く巨大食虫花の傍らに、果肉でべとべとになったメルメルが転がり出てきた。
「しょうたぁぁぁ……！」
とたん、すっさまじい悪臭が漂い出す。
「くっさ！」
翔太は鼻を摘んで脱兎のごとく遁走する。
「待つである、鼻を摘んでいる場合ではないのである！ いつきがたいへんなのである！」
「そうだった」
鼻を摘んだまま翔太は立ち止まった。
「メルメル、伊月はどこだ！」
「だからタイヘンだとさっきから言っているのである！」
「それは分かったから何が大変か言え」
「とにかく大変なのであるものすごく大変なのであるっ！」
メルメルはあたふたしながら、ドリアンの悪臭べったり状態で翔太にひしとすがりついた。
「確かに大変臭い」
「そこは美少女のうんこだと思って我慢するのである」
「大便じゃねーよ！ それにウンコ愛でる趣味もねーよ！」
「でも意外と美味しいらしいである」
「誰がウンコなんざ食うかド阿呆ーーーーーっ！」
「やれやれ勘違いも甚だしいのである。我はドリアンの話をしているのであってスカトロ話をしているわけではないのである」
「ああ、もう、ウンコでもドリアンもどっちでもいい！ 早く伊月の居場所を教えろ！」
風の臭いが、変わった。
巨大ドリアンをむさぼり食っていた弱肉強食の王者、食虫花が、唐突にその動きを止める。
「……何だ？」
底ごもる地鳴りが聞こえた。
「な、何だ？」
みるみる近づいてくる。
巨大食虫花は、食べかけのドリアンを吐き出した。あわてふためいた様子でのたうち、ねじれるようにして逃げ去ってゆく。
地面が、揺れる。
草木が、ざわざわと嵐の予兆に身をよじらせはじめる。
また、地鳴り。先ほどより遙かに近い。
近づいている。
温室のガラス壁が軋んでいるのか。甲高い耳障りな不協和音が混じる。嫌な感覚が耳を突き刺す。音が、ますます、迫ってくる。
何かが。
巨大な、何かが。
近づいてくる――！
ふっ……と。
だしぬけに、音が聞こえなくなった。代わりに、その他の微弱な音がまざまざと聞こえ始める。さやけき静けさに、陽の光が落ちる。
小虫の這う音。風のながれる音。木の葉の降り落ちる音。腐葉土を踏む、さくり、という音。心臓の脈打つ音。
緊迫の鼓動が高鳴る。
翔太は息を呑んだ。
「翔太ーーーーっ！」
突如、伊月の怒鳴り声が響き渡った。
「来るな馬鹿野郎……あっ！」
「伊月！」
翔太は拳を握り込んで怒鳴った。
「どこだ！？ どこにいる？」
「……っ……く！」
切迫の悲鳴が、口を手で塞がれたかのように聞こえなくなる。
「ん……くっ……んんっ！」
突風が吹き付ける。
ざあっ、と、木々が押し倒されたようになびいた。雷めいた轟音が鳴り渡り、稲光が伝い走る。南国のスコールのような、土砂降りの雨が突如降り始める。
「んんんっ！！」
地面が揺れる。土砂崩れのような音が響いた。
前方の緑が、巨大な足に踏み倒されたかのように傾いでゆく。
めきめきと生木をへし折る音がした。異界の生物たちが悲鳴を上げて逃げまどっている。
ジャングルがぐしゃり、踏みつぶされる。
先ほどの巨大食虫花が、からみついていた枝からツタごとひきちぎられ、ばらばらと爆弾のように降り注いできた。粘着玉すだれが、ビクンビクンと痙攣したようにのたうつ。
「きゃああっ、何か落ちてきたのであるーーっ！」
メルメルが翔太の背中に飛びついた。
のたうつ巨大食虫花が、ぐわりと牙を剥く。闇雲に虚空へ噛みついている。
「翔太っ！」
伊月の声が響いた。
「逃げろ……俺に構うな！」
翔太は声のする方向を険しく睨み付けた。
「伊月」
翔太は顔を振り仰がせた。
空中高く吊り上げられた伊月の姿が見える。
何者かに縛られ、吊されているようにも見える。
ジャングルの壁に阻まれ、ともすればその姿を見失いそうになるのを、食い入るような視線で追い掛ける。
決して見失うことのないように。二度と失うことのないように。
その状態で、翔太は、背後から襲いかかってきた食虫花を顧みもせずに一撃で蹴り倒した。へし折れた首根っこを、片足でぐしゃりと踏み潰す。
「……邪魔してんじゃねーよ、ハナタレ坊主の分際で」
憎々しげに吐き捨て、蹴飛ばす。巨大食虫花は吹っ飛んで消えた。
「伊月」
押し殺した声で、呼ぶ。
「……来るんじゃねえ！」
伊月の悲鳴がかすれる。
「来るなと言われたら行きたくなるのが男ってもんだろうがよ」
「だめだ、こいつだけはお前の敵う相手じゃ……ああっ！」
伊月の声がつぶれる。
「伊月！」
翔太は走り出した。前方に、極彩色にのたうつ触手が見えた。
「……」
ま、さ、か。
翔太は絶句した。
今、何か、とんでもなくキモイ物体が見えたような見えなかったような気が。
「ま、ま、まさかな？」
メルメルをちらりと振り返る。
「な、何であるか？」
「一番最初に、この温室入ったときにさ」
「うむ」
「毛虫、いたよな？」
「う、うむ」
「そのとき、メルメル、言ってたよな？」
「な、何をであるか？」
「……数日で巨大化するイモムシがいる、って」
「……う？」
「言ってたよな？」
たたみかけるようにして尋ねる。メルメルは、こくこく、とうなずいた。
「もしかして、それってさ」
「はうあ！」
メルメルは、びくぅっ！ と身体をすくませた。大きく眼を見ひらく。
「……言われてみれば……え、いや、ええと、そんな馬鹿な、なのである……！」
翔太は、ひきつった笑いを浮かべた。
震える指で、ジャングルの向こうを指さす。
「メルメルの頭に乗っかってた、あのイモムシのことだったんじゃねーの……？」
……。
…………。
きわめていたたまれない空気が、時間を支配する。
そのとき。
緑に塗り尽くされた植物の壁を、サイケデリックな触手が突き破った。
超高速で暴走する巨大イソギンチャクが、ジャングルの木々をことごとく轢き潰し、押し倒しながら、猛然と突進してくる。
「ぎゃぁぁぁぁあああああああああああああ！」
「出たのであるーーーーーーー巨大イモギンチャクムシーーーっ！！」
それは――
皮肉すぎる運命の摂理によりさらに巨大化凶悪化した、あの、デンジャラスサイケデリック破壊神イモムシであった。
デンジャラス巨大イモムシは、ねっとりとのたうつ触手を振り回した。その先端には、伊月が捕らわれている。
「う、うっ……！ んんっ！」
触手に口を塞がれている。もがいても身動きならない。
「まんももももお〜〜！」
巨大イモムシは、身もだえる伊月に向かってぐわり、と顔を近づけた。無数の牙、というか捕食器官の一種なのか、巨大なブラシ状になった口がべろり、べろりとめくれ開いて、中から、不気味きわまりない真っ赤な口が開く。
「いんもおもも〜〜！」
「メルメル！ 放送禁止用語一歩手前みたいなあの下品な吠え方をヤメさせろ！」
「わ、我は断じて関係ないのであるっ！」
「くっ、何であんなものに伊月が捕まってんだよ」
翔太は真っ青になりながらよろめき後ずさった。声がかすれる。
「近づけねえだろーが！」
助けなければ、と思っても、どうしても足が前へ進まない。
巨大イモムシが触手の鞭をびしりと振り回した。棘の先端が伊月をかすめる。
「きゃあっ……！」
伊月の身体がはじかれる。その足首に、別の触手が巻き付いた。引っかかった棘に、男子用のブレザーが引きちぎられる。
あっけなく破られる。ブレザーだけではない。ワイシャツまでもが、びりびりに引き裂かれ、端切れとなって舞い散る。
「いもっ？」
巨大イモムシは、棘に引っかかった端切れを振り払った。
ボロ布のように引きちぎられたワイシャツがかろうじて袖に引っかかっている。
伊月は、破り取られた胸の部分を隠そうとしながら、半泣きの声をあげた。
「やっ、あっ……何で……やめてっ……何でまた……いやぁっ！」
「伊月！」
翔太は声を振り絞った。
だが、身体が動かない。
助けなければ。
そう思って乗り込んできたはずなのに。
耐え難いイモムシのにょろにょろを見るだけで、全身が凍り付く。
「まんもももも〜〜！」
巨大イモムシは鼻息を荒げた。再び触手の鞭を振り上げる。
鋭い棘が、びしりと音を立ててスラックスを破り取る。
「きゃあんっ！！ ばかっ、あっ、ああんっ……やだ、見えちゃう……！」
しゅばばばと鞭が舞う。再び絹を裂く音が響き渡った。細切れの白い吹雪が舞い散る。
ひらり。
ふわり。
白き、けがれなき花が散る。
はらはらと花散る桜の静けさを破るかのように、何かが、ふわり、と。
翔太の掌上に落ちた。
「こ、これは……」
「ばかあっ」
頭上の伊月が、真っ赤な顔で怒鳴った。
「見ないで！ 見ちゃいやっ！ ばかあっ……！」
翔太は、手のひらに乗った白い布きれに呆然と見入った。
どうやら、何かの切れ端、であるらしい。
やわらかなレースのふちどり。くまさんのアップリケ。引きちぎられたひも。
「ひも？」
ぷらあん、と左右にひっぱってみる。
「ぁぁんっっ！ 翔太のえっち、ばかあっ……！！！」
翔太はそのヒモつきなちいさな布の切れ端を、広げるようにして両手に持ち、頭上を振り仰いだ。
「何だ、これ……？」
「み、見んなっっつってんだろうが馬鹿野郎！ ぼけなす！ 翔太の、えっち、いやあっ……ばかああああっっ……！」
半裸で逆さづり状態の伊月が、声を嗄らして喚き散らす。
だが、そうやって暴れるたびに、ぐるん、ぐるん、と。ぶら下げられた足首を中心に身体が回転している。
「やぁぁあんっ目が回る！」
ぐるぐる回りながら、何とかして身体のあちこちを隠そうとして手で押さえる。だが、秘すべき場所はあまりにも多い。ついには隠しきれず、半泣きの喚き声をあげる。
「もう、いやぁぁあ……！」
回転速度がやや遅くなって、ようやく、伊月の状態が見えて来始めた。
「ば、ば、ばかあっ……じろじろ見ないで……！」
顔が真っ赤だ。今朝までのクールな伊月とは、ぜんぜん違う。伊月は両手を振り回そうとして、また悲鳴を上げた。
「やあんっ……もうっ……見えちゃう！」
「え……？」
翔太は、手の中の切れ端と。
逆さづりの伊月とを見比べた。
「……？」
確か、温室に入る前は男子生徒の制服を着ていたはずだ。だが、今、ブレザーを奪われ、スラックスを引き裂かれ、ワイシャツを破り取られて上気する肌を晒したその姿は――
「え、えっと？ これは、何だ？」
どうしても、頭の中のイメージと、手中にあるレース紐付き布とのイメージに齟齬が生じる。
「ああん、やめてーーっ！」
「もしかして」
「言っちゃだめえっ……！」
翔太は、上を見上げた。
眼があった。
みるみる、伊月は全身を真っ赤に染めて顔を手で覆った。
「ばかあっっ！」
ぺらり、と。
かろうじて押さえていた破れワイシャツが、逆さまにぶら下がる。
「きゃあっ！？」
愕然としてよろめく。
握りしめた布きれの正体。
それは、まさしく――
「ぱ、ぱん……？」
「皆まで言うなーーーーーーーー！」
伊月は、かあっ……と頬から耳の先まで赤くした。必死に破れたシャツを元通りにしようと押し延べながら身体を隠し、羞恥に赤く染まった腰をくねらせる。
「ちが、違うって言ってるでしょー！ 何、ジロジロ見てんのよー！」
「う、あっ！？」
翔太はあわててパンツを握りしめた手で眼を塞いだ。
「み、見てない！ 俺は伊月のおっぱいなんて見てないぞ！」
「いやぁぁぁぁあヘンタイーーー！」
「な、何だ、今度はっ！？」
ぱんつで顔を覆ったまま、翔太は右往左往する。
「あたしのぱんつに顔に押しつけないでーーーーっ！！」
「うあっ！」
ようやくパンツに顔を突っ込んでいたことに気づき、あわてて顔から引き離す。だが、何がどうこんがらがってしまったのか、ぱんつのひもが耳にからまってしまう。
「うぐぐぐ！ むぐぐぐ！」
押しのけようとすればするほど、ヘンタイマスクのようになってゆく。
「何でこうなるっ！？」
パンツを引き下げ、かろうじて呼吸しようと目鼻を出せば。
「わあっ……！？」
伊月のやわらかすぎる姿態のラインが、今度はばっちりと目に入る。
「バカあっっっ！ み、見ないでって言ってるでしょ……！」
「わ、悪いっ、見えてねえからっ！」
「だからってぱんつかぶらないで！」
「わあっ！」
「見ないでヘンタイっ！」
「うわあっ！」
「顔埋めないでヘンタイっ！」
「っていうか、そもそも、何で……何なんだよ、いったいどーなってんだ！」
翔太は目をつぶったり顔を赤くしたりドキドキしたりしながらわめいた。
「何でまた女になってんだよ……！ っていうか男に戻ったんじゃなかったのかよ！」
「翔太があんまり相手にしてくれないから、ちょっと心配させようと思って男のカッコしてただけよ！」
伊月も半泣きで喚き返す。
「変態戦隊パンツマンごっこをしている場合ではないのである！」
翔太の背中にかじりついたメルメルが、半分泣き出しそうな声でわめいた。
「とにかく伊月を助けるのである！ あの気持ち悪いイモムシをやっつけるのである！」
「助けるったって、ど、ど、どうやっ……見るなって言われるし！ 見たら見たでイモムシ気持ち悪いし！」
「愛の力があれば何だってできるのである！」
メルメルの涙声が耳元で喚き散らす。翔太は怒鳴り返した。
「んなもんあるかあっ！」
「……あるのである」
メルメルの声が、澄みきった鐘の音のように響いた。
「どこにあるってんだ！」
メルメルは、翔太の背中に顔をうずめた。ワイシャツをくしゃくしゃにして握りしめる。
「いつきは、しょうたのともだちなのである」
「……」
はっ、とする。
千の戯言の中に隠された、たったひとつの真実。
メルメルは、かすかにしゃくり上げた。息を吐き出し、声を立てて、笑う。
「仲直りしてくれさえすれば、我が全部何とかするである」
声がわずかにふるえている。
「しょうたの言うとおりである。こんな温室作った我が……全部、悪いのである。だから、我……我さえいなくなれば、消えるのである。そしたらいつきとしょうたが喧嘩する必要もなくなるのである」
メルメルは、翔太の背中に顔を突っ伏したまま、つぶやいた。
「もう、こんな世界、どーでもいいのである。魔王なんて、いてもいなくてもおんなじなのである。園芸魔性のリングなんて、どうせ嘘なのである。だから、いつきとしょうたが、前みたいに仲良しに戻ってくれさえしたら、しょうたのお望み通り、とっとと実家に帰ってあげてもいいのである……」
裏返った声をふるわせ、意地っ張りに言いつのる。
翔太は肩越しにメルメルを振り返った。
「本気か？」
「全部、しょうたの言うとおりにするのである……だから、だから、もう、喧嘩はやめてほしいのである……うええええん……！」
メルメルは子どものように泣きじゃくり始めた。涙に濡れた顔を押しつけられるたび、背中がやたら熱くなってゆく。
翔太はめそめそと泣くメルメルを見やった。
肩をすくめた。
「……馬鹿か？ お前」
「ふえっ……？」
涙と鼻水でびちょびちょのメルメルが、真っ赤にうるんだ眼を瞬かせた。顔を上げる。
翔太はその頭に、ぽん、と手を置いた。
「そんなわざとらしい泣き落としに俺が騙されるとでも思ってんのか」
くしゃくしゃに掻き回す。
「しょうた……」
「もういいよ、危ないから降りてろ。メルメルがくっついてたら殴れるもんも殴れねーだろ」
「馬鹿、カッコつけてムリしてんじゃねーよ！ お前、ムシ、苦手なくせに」
逆さにぶら下げられた伊月が、荒い息を弾ませながら怒鳴る。
「どうせ怖くてロクに近づけもしねえくせに……俺のことなら気にしなくていい、自分で何とかするから……！」
「……うっせーよ、逆さづり野郎が」
「え、あっ……きゃあっ！」
伊月は真っ赤な顔であたふたと身体を隠す。
「あられもないカッコして偉そうにぶっこいてんじゃねーよ。だいたいてめえがそんな……ドキドキさせるようなエロいカッコしてるから……こっちから手が出せなくなってるだけだっつーの」
翔太は顔をひきつらせつつ、虚勢まじりにニヤリとした。
「てことは、だ」
「翔太……！」
「見なきゃいいってことだ。イモムシだろうが裸だろうが、目で見えちまうものに惑わされてビクビクするぐらいなら、いっそ見なきゃいい。そうすれば、どうってことはない。ついてるかついてないかは問題じゃねえ、重要なのは――」
びしぃっ！ と指さして断言する。
「見えるか見えないかだ！」
「ああんいやぁんッ恥ずかしいッ見ないで……っっ！！！ ……て、この期に及んで、ちんこのことしか頭にないのかーーッ！」
「うるせー！ ちんこぐらいでガタガタ抜かすなッ！ 俺が言ってんのは……そのけしからんおっぱいだ！ ぷらぷらさせてんじゃねーよ！ 目のやり場に困るだろーがっ！」
ぷしゅうぅぅぅ……！ 顔を真っ赤にして翔太は怒鳴り散らした。
「ばかあっ……純情すぎるでしょッ……！ そんなことで戦えるわけが……！」
「うっせぇ！ だから”見ずに倒す”って言ってんだろ！」
翔太は眼を閉じた。
「どうやって……！」
「ふっ……見くびってんじゃねえよ、不条理の力！」
翔太は、眼を閉じたまま顔を上げた。不敵に笑って、額へと手をやる。
「お前が、教えてくれたんだぜ……？」
「ええっ……？」
「不可能を可能にするだけが不条理じゃねえってことを教えてやる。伊月！ 借りるぜ、お前の友情パワーッ！！！」
「ううっ、まぶしい！」
まぶしさのあまり、直視できない。伊月は顔をそらして目をつぶった。
「そ、それがあたしと翔太の友情パワー！？」
「しょうた……その姿は……！」
メルメルもまた、感極まった声をあげて声を詰まらせる。
直射日光よりもまぶしい、きよらかな光が放たれる。きらめく正義の光。
翔太が装着したもの。それは――！
ぱんつであった。
「か、か、カッコイイ……のである……か？」
さすがに賞賛の讃辞も尻すぼみにならざるを得ない。
伊月は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「馬鹿！ ヘンタイ！ あたしのぱんつかぶらないでよーーーーーッ！」
「うっせー！ お前を助けるためっつったろうが！」
翔太もまた、ぱんつをかぶったまま真っ赤な顔でがなり返す。
「ぱんつで視界を塞げば煩悩も振り払える！ すなわち心頭滅却すれば火もまた涼し！」
「ぱんつ被って煩悩滅却もクソもあるかこのド変態がーーーッ！」
「ぐんもおおおっ……！」
巨大イモムシが襲いかかってくる。
「翔太、”これ”を使うのである！」
メルメルが必殺の武器を翔太へと手渡す。
「我の魔法で必殺技に変えるのである！ みんなで力を合わせれば勇気百倍、ちんこも百倍なのである！」
「ちんこはいらん！」
翔太は華麗にきらめく”必殺武器”を空中で逆ハンドキャッチした。ぱんつマスクと必殺武器の相乗効果で全身がキラキラと光り輝く。
「これでとどめだ、にょろにょろイモムシ！ 伊月は返してもらう！ 勝負ぱんつは、絶・対・無・敵！」
「な、な、何わけわかんないこと口走ってんのよ、翔太、ま、待って、落ち着いて……いつもの翔太に戻って！」
「しょうた、撃つのである！」
「必殺！ 虫除けスプレー！」
ぷしゅー。
ノズルから虫除けスプレーが噴き出される。
「いもっ！」
虫除けスプレーを真正面から食らった巨大イモムシは、伊月を放り投げた。くるり、と向きを変え、這々の体で逃げ出してゆく。
「きゃあっ……！」
悲鳴ごと、伊月の身体が宙に放り出される。
「伊月！」
翔太は、ぱんつをかなぐり捨て、落ちてくる伊月の落下地点に駆け込んだ。寸でのところで受け止める。
「きゃあんっ！」
「……ぐえっ！」
「何そのカエルが潰れたみたいな声。ひどくない？」
お姫様だっこされた伊月は、真っ赤になりながら翔太に掴みかかった。
翔太は、迫ってくる伊月から何とかして眼をそらそうと、真っ赤な顔を必死にそらす。
「ば、馬鹿、そのカッコで抱きついてくんじゃねー！」
ほとんど破り取られたワイシャツは、申し訳程度に肌を覆っているだけだ。
「何よ、翔太が悪いんでしょっ！？ もっと軽やかにキャッチしなさいよっ！」
翔太は身体をのけぞらせた。首っ玉にかじりついてくる伊月の、ゆっさゆっさとたわわに揺れるおっぱいから逃げまどう。
「わ、わかったから、降りろ！ 離れろ！ 俺に近づくな！」
「ああん、嘘！ 冗談！ 翔太、マジ格好良かったわ、サイコーじゃんお前！？ ホント大好き！ もー最強に惚れ直しちゃった。ねえキスしていい？ ぱふぱふしていい？ 駄目って言われてもするけど！？」
「落ち着けって！」
「誰が落ち着くかってんだ！ もう、我慢できないっ！ 抱いてくれ翔太！ っていうか抱け！ いや、もう、まどろっこしいことはヤメ！ 今すぐ俺がお前を抱いてやる！」
びりびりと翔太のワイシャツを破り始める。
「ちょ、ちょっと待て、何、言って……ぎゃあぁぁぁあ……何とかしろメルメル！」
「分かったのである！ そういうことなら我も３（ピー）に参加するのである〜〜〜っ！」
「うわあああっ！」
翔太は青くなって転がるように逃げ出した。
「おいこら待て逃げるな！」
「逃げるに決まってんだろうがっ！」
そして、翌日――再び教室にて。
「おはよ、翔太」
「あーー！ おはよなのである！」
メルメルはいつきに抱きついた。
「おは……ああ、何だ伊月か……」
様々な要因によりげっそりとやつれた顔の翔太は、登校してもろくに動けず、机を抱え込んで倒れ伏していた。
「何？ どうしたの？ 元気ないのね」
妙につやつやしたほっぺたの伊月が、くすっと笑って屈み込んでくる。
「……お前が襲ってくるからだろうが！」
「てへっ」
伊月はぺろりと舌を出す。
「狙った獲物は逃さないの」
「うああああ露骨に言うな！ 心の傷が、心の傷があっ……って、やってないわ！ 変な言いがかりつけんな！」
「ちっ……次は最後まで逃がさないんだからね」
「最後までとか言うな」
「ま、それはおいといて。話があるんだけど」
「お前の話は聞きたくない」
「大事な話」
翔太はぐったりとあごを机に載せたまま、不審の目だけを伊月へ向けた。
「何だよ、改まって」
伊月は前の席の椅子を引いて、勝手に座った。
「実はね、この間、うちに真っ黒い鳥がきてさ」
ひそひそと声を低める。
「何、何、何であるか？」
メルメルがさっそく頭を突っ込んでくる。
「で、その鳥が言うにはね……あのね……」
伊月は、不意打ちみたいにぽうっ、と頬をピンク色に染めた。翔太の袖をつんつん引きながら身をくねらせる。
「やっぱりちょっと恥ずかしい……ああんっ☆」
「は？ 何言ってんだ？」
「えー、だってぇ……♪」
「どこから声が出てんだよ」
「だってぇ〜恥ずかしいんだもん〜〜♪」
「だったら言うな！」
「……翔太ったら、あたしが病気でガッコ休んだとき、お見舞いに来てくれてたんだってね？ メルちゃんから聞いたよ？ んもう、照れ屋さんなんだから〜〜遠慮せずに来てくれたらよかったのにぃん☆☆」
「ば、ば、馬鹿っ！ 行ってねーよ！」
「いやぁん、否定しなくても分かってんだからあ〜翔太のばかあん♪」
「メルメル！ しゃべったのか！？」
「だって、本気で、仲直りしてほしかったのである」
「うふふ、メルちゃんは悪くないのよ？ 悪いのは、勝手に”友達じゃない”なんて思い込もうとしてた翔太のほうなんだから」
「で、でも、あのとき、お前……一緒にいた女と……モルモット扱いがどうのって……」
「ああ、アレのことか」
伊月はかすかに性悪な笑みを浮かべた。
「あれ、俺の”兄貴”だ」
は？
「言ってなかったっけ？」
「は！？」
「あいつ医者なの。医者だけど女装が趣味でさ。俺が翔太と付き合ってんのが妬ましいらしくてさんざん別れさせようとしてうぜえのなんの」
「付き合ってねーよ！ って突っ込むのそこじゃねーよ！ 兄貴？ 女装！？」
「ん？ もしかして……勘違いしてたの？ 俺が、あいつと付き合ってるって思って、それで……？ え、え、もしかしてジェラシー感じてくれてたってこと！？ マジ？」
「誰がだ！ 違うに決まって……！」
「ああんっ、やっぱ翔太カワイイ！ そんな翔太がたまらなくスキ♪」
「だっ、抱きつくな！」
「はううん！ そんなことないのである〜〜！」
話を聞いていたメルメルが、くちびるをとがらせて地団太を踏む。
「我の方が、ずっとしょうたのことが好きなのである〜〜〜！」
「違うわよ俺の方が翔太のことずっと好きだってば！」
「ああん我の方がずっとずっとずっとずっと好きなのである〜〜☆」
「俺の方がずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと好きだってば〜〜☆」
「やぁあん負けないのである〜〜！」
「あたしだって負けないわよ〜〜〜？」
どうやら、どちらがより翔太を好きかで喧嘩しているらしい。
ゴホン、と咳払いする。
「で……お前ら、まともに話する気あんのかよ」
伊月とメルメルはげふんげふん咳き込んだ。二人そろってきりっと居住まいを正し、厳粛な顔つきをする。
「うむ、そうだったのである」
「ゴメン、忘れてたわ」
「……いまさら取り繕っても遅いっての……で、何だ？」
「そうそう。で、ね？」
……何だか嫌な予感がする。
「翔太が温室で助けた黒いヒヨコいたでしょ？」
「ウ、ウン……」
「あの子、魔界のコウノトリなんだって」
「おい待て。今なんて言った！？」
翔太は椅子から転げ落ちそうになった。伊月は気にも掛けず、にこにこしている。
「で、そのコウノトリが、翔太に助けてもらったお礼がしたい、って言ってね……？」
ふと、おなかに手を当てる。
「まさか。おい、ちょっと待て！ おい！？ コウノトリと会話したのか！？ って突っ込むべきはそこじゃねーだろ俺！？」
さすがに愕然とする。コウノトリといえばたしか、何か……ろくでもないモノを運んでくる鳥だったような気が……！
とそこで、伊月の手に目がいく。
「って、お前、さっきから、何でおなかばっかりさすってんだよ」
信じがたいモノを見るかのような目で、伊月を見返す。
「ま、ま、まさか……？」
「……」
伊月は、ぽっ、と頬を染めた。
「来ないの」
「ちょっ……ちょっと待てーー！ 何、何だと、いったい、待て、ちょっ……どういうことだ……来ないって、何が、えっ！？」
「……」
「ま、まさか、嘘だろ」
「翔太は……どうしたらいいと思う？」
伊月は、顔を伏せる。
「えっ、お、俺！？ 俺なのか！？ そ、そんなこと言われても身に覚えなんかないぞ！？ な、な、ないけど」
息を吸い止め――
呆然と伊月を見つめる。
「コウノトリって……ことは……俺に責任取れってこと……だよな？」
「……無理しなくていいのよ」
「……い、今すぐは……さすがに無理だけど……！」
「はい、言質取った」
は？
ぽかん、とする。
伊月は、にっこりと笑った。ポケットから、ちらり、とピンク色の紙パックを見せる。
イチゴ味の乳飲料。
「やっぱヨーグルトはちゃんと毎日食べないとね？ お通じが来ないのよね〜？」
「そっちかよ！ って……てめー！ 騙したなっ！」
「勝手に勘違いしたのはそっちでしょ」
「おいこら待て！」
「やあんっ翔太に襲われちゃう〜〜！」
「誰が男なんか襲うかあああーーーッ！」
というわけで。
八坂翔太にとって、世界は今日もまた――不条理なのであった。
おしまい。
もくじTOP
前のページ