９　セレム、死に逝く者に別れを

「何だよあんた等、こんな時に。ケンカなら余所でやってくれ」
　対峙しあう様子に苛立った誰かが、緊迫の気配に気づきもせずに怒鳴っている。近づいて手を掛けようとするその動きを、セレムのサーベルが唸りをあげて止めた。
「死にたくなきゃ下がってて」
　視線はラトゥースから離さない。
　セレムは、デュゼナウ以外の誰にも聞こえないよう呟いた。
「クレヴォーさまにだけは手を出さないで。さもないと」
「いつでも来い」
　それは、ハダシュへの挑発であると同時に、セレムへの返事でもあった。ぞっとする輝きが目を黄色く染め上げている。
　セレムは全ての感情を叩き割った。サーベルをひっさげ、一直線にラトゥースめがけて駆け寄る。
　火花の散る打ち込みに、呻き声が重なる。
「やめて、セレム」
　ラトゥースの表情が、怒りから驚き、悲しみへと、とりどりに変化してゆくのが見えた。
「掛かってきなさいよ、エルシリアのお姫さま。それともやっぱりあたしには敵わない？」
　セレムはラトゥースに足払いをかけて倒した。無様にしりもちをつく主君へ、ゆがんだ笑いを投げかける。
　ラトゥースは唇を噛んだ。涙に濡れた憤りの眼がセレムを見上げる。剣の束を握る手がふるえていた。
　セレムはわざと挑発した。くるりとその場で回転し、からかう仕草で背中を見せる。
「あたしに追いつけるものなら追いついてみなさいよ」
「セレム！」
　ラトゥースは剣を杖代わりに身体を支え、よろよろと立ち上がった。
　これでいい。きっと追ってくるだろう。セレムはそれだけを見届けて、身を翻す。

　・◆・◆・

　あからさまに罠と分かる挑発にひっかかり、後を追いかけていくラトゥースを、ハダシュは心配そうに見送った。
　だが、現実がすぐに殺気となって、意識を引き戻す。
　無駄なおしゃべりをしている余裕はない。
　ここしばらく使っていなかったせいか、手持ちのナイフが異様に頼りなく感じられた。それでなくとも、相手の得物は重量感のある曲刀だ。受け流すにはさすがに無理がある。
　さらに腹立たしいことに、いつの間にやら宰相まで姿をくらましている。逃げ足の速い奴だ。
　そのうえ、周囲は船の事故を見に来た野次馬の壁に取り囲まれている。時間が経つにつれ、さらにその数は増えてゆく。こうなったら逃げることもできない。
　いっそ、こいつら一般人を楯にすればどうだろう？　人質を楯にデュゼナウの攻撃を避けて……。
「馬鹿かよ、俺は」
　苦笑いが漏れた。
　後でその事実を知ったら、ラトゥースが何と言うか。怒るだけではすまされない。あの女なら絶対に泣くだろう。
　考えるだけで情けなくなる。
　自分の命がかかっているというのに、行動の規準が他人にあるとは、何とも頼りない限りだ。いっそ、あんな女とはきっぱり縁を切ってしまえばいい。
　そんなふうに思ってみたところで、単に同じ事を、もう一度繰り返すはめになるだけだった。
　それができれば、苦労はしない。
　もう、認めるしかなかった。
　かつて、この手にかけた友がいた。あのときは分からなかった。どうして友ではなく敵の女を選ぶのか、と。敵うはずがないのに、何の利もないのに、どうして……と。
　あの女は、クレヴォーは、国の屋台骨を支える大貴族の名を背負っている。
　対して、自分は殺し屋だ。足を洗おうが洗うまいが関係のない、それは峻烈な事実だ。
　身分など関係ない。欲しくなれば奪う。今はまだそのときではないだけのこと。それでいいと思っていた。
　人知れず苦しむ、あのすすり泣きを聞くまでは。
　本心を縛っているのは、自分とあの女を隔てているのは、身分の差だけじゃない。
　犯した罪と、支払うべき代償。胸の内に潜む絶望と苦悩。互いに背負う自責ゆえに、相手に手をさしのべることさえできず、踏み越えることも許されない、最初にして最大の一歩。
　生殺しだった。
　今なら分かる。カネのためでも、正義のためでもない。どうにもならないもののために、いや、どうにもならないからこそ、せめて、言葉ではなく何か別の忠誠で、この思いを示さなければならない。
　嫌な汗が、脇の下を冷たくした。
　デュゼナウの目が、ハダシュの内心を透かし見るように揺らめき、細められた。
　背筋が凍る。
　来る……
　ぎらりと走る剣の反射が目の隅に飛び込んでこなければ、首が飛んでいたかも知れなかった。
　身をのけぞらせて避ける。喉元を引き掻く剣の風圧に、背筋があわだった。
　ナイフを持つ手に力がこもる。
　背中の傷が、引き剥がされるような痛みとともに開いた。目がくらむ。
　今の一撃で分かった。ハダシュは凶暴な笑みを浮かべて見せた。
「話が違うぜ」
「同感だ」
　デュゼナウもまた、空振りしたことに拍子抜けしたらしく、ハダシュを見つめている。
　これは今までの敵とは次元が違う。チンピラ相手に、生きるの死ぬのとほざいていた殺し屋とは。もっと緊迫した状況下を生き抜いてきた相手だ。
「はい、行きますよ～」
　突然、間の抜けた声が響き渡った。　おひねりみたいなものが、目の前にぽとんと落ちてきた。ちちち、と小さな火花を散らしている。ハダシュはよく見ようと目を凝らした。
　その途端、おひねりは猛烈な煙を吹き出して破裂した。
　タマネギの臭いが充満した。すさまじく目にしみる。涙が視界を歪ませた。
　見物人も、右往左往、ぶつかりあいながら逃げまどっている。
「クソオヤジ！　何しやがる！」
　ハダシュは、どこにいるのか分からないナーフィに怒鳴った。
「催涙弾ですけど」
　案外近くから返事が戻ってくる。しかし、ぬらりくらりと姿をくらます声を在処を捕らえることはできなかった。
「まともに当たっては敵わないでしょう？　でもオヤジはひどいなまだ二十代のつもりですけど」
「この状況で年齢詐称してる場合か！　……まったく余計なことしやがって」
　ハダシュは立ち止まった。
「こっちも相手が見えねえだろうが」
　涙を拭って、咳き込む。
　煙の中から悲鳴が上がった。誰か運の悪い奴が、デュゼナウと鉢合わせしたのだろう。腹立ち紛れに斬られたのかもしれない。　　
「逃げれば女侯爵が死ぬぞ、小僧」
　デュゼナウの声がした。煙を振り払い、ゆっくりと現れる。その半身は、奔りついた血しぶきに汚れていた。
　ハダシュは顔を歪めた。
　動じていないふりだけはしてはいるが、催涙弾という搦め手はさすがに全く予想していなかったらしい。語尾に怒りが混じっている。
「いちいち小僧、小僧って、そっちもオッサンかよ。いい年して調子こいてる勘違いオヤジにあれこれ口出しされるとか、もう世も末だな」
　かすかな後悔が脳裏をかすめた。喋ってる暇があったら、あのスピードとリーチをどうにかして削ってしまわないと……。
「第二弾、行きまーす」
　またタマネギ催涙弾が飛んできた。真面目なのかふざけているのか分からない。そのくせ、どうやって目標を察知しているのか、確実にデュゼナウの足下へと着弾させている。
　真っ白い煙が立ちこめた。みるみるデュゼナウの姿を覆い隠す。あの煙の中では眼も開けられまい。
　ハダシュは片目を伏せて刀子をつかみ、かすかに透かし見える影へ投げ込んだ。手応えはない。代わりに、地面に当たって跳ね返る音が聞こえた。
　その刃をぎりっと踏みにじる気配。
　とっさに、感じた的めがけて投げナイフを叩き込んだ。
　重みのある呻き声があがった。
　射止めた……？
　ハダシュは全身をそばだて、回り込んだ。
　だが、ふいに巻き起こった風が、一瞬のうちにすべての煙をぬぐい去った。
　ひとすじ、ふたすじと流れゆく、うすぎぬのような煙。
　気づいた瞬間、ぞっとする距離のみを挟んで、真正面からデュゼナウと向き合っていた。
「っ……！」
　嘲弄を含む邪眼に気おされかけた瞬間、剣が斜にきらめいた。
　本能的に左へ飛んで、一撃をかわす。
　だが、振り抜くと見せかけ、そのまま同じ軌跡を返すよう薙ぎ払った切っ先が、とっさにかばったハダシュの右腕を裂きちぎった。
　手首に巻き付けていたバンテージがちぎれ飛ぶ。
　帯状に血が噴き出した。
　見かけほど深い傷ではない。ハダシュはわざと大きく転がって逃れ、ナイフを左手に持ち替えた。
　とどめを刺そうと容赦なく叩きつけてくる剣を、辛うじて払い流し、飛びすさる。
　息が詰まった。
　右肘を伝う生ぬるい感触。じりじりと増してくる痛み。背中の灼熱に、寒気が入り交じる。
　全身が砕け散りそうだった。意識がもうろうとする。このままだと死んでしまいかねない。もう逃げるしかない。逃げるしか。
　……ふいにラトゥースの顔が浮かんだ。
　馬鹿げた考えをあわてて振りほどく。まだ死ぬと決まったわけじゃない。
「下がって！」
　ナーフィの切羽詰まった声に、ハダシュは我に返った。
　デュゼナウの背後に閃光が走った。思わず目をかばう。
　轟音と閃光だけではない。鋭く尖った鉄菱が飛び散った。
　デュゼナウは破片を背中一面に受け、大きくよろめいた。剣を地面に突き立て、身体を支える。
　かすれ気味の、熱い吐気が漏れた。
　うつむき加減になった顎のあたりから、わずかに血が垂れてくる。ぽたり、またぽたりと赤い滴が散った。
　その肩が揺れた。笑っていたのだった。
　ハダシュは噛みつくように怒鳴った。
「そんな強力な爆弾があるなら、最初からそっち使えよ！」
「危ないじゃないですか」
　煙の彼方から宰相の声だけが聞こえてくる。
「これで互角か」
　デュゼナウは、含み笑いをこぼして呟いた。
「久しぶりに楽しませてもらった」
　ハダシュは動揺をかみ殺した。
「うるせぇッ！　まだ勝負はついて……」
　また、デュゼナウが笑う。
　動けなかった。
　何の予兆も感じなかった。あっと思った時にはすでに、デュゼナウの剣が目前にあって、そのまま左の肩を貫いていた。
　ハダシュは倒れ込みながら、その眼が冷ややかに笑っていることに舌打ちした。わざと急所を外したのだ。
　もて遊ばれている。
　その気があれば、心臓を串刺しにすることも、腕を根本から切り飛ばすこともできたはずだった。
　切っ先が肩の関節を砕く。骨をえぐり取られた音が、絶叫のように響き渡って聞こえた。
　ナイフがどこか遠くへ飛んでいった。
　頭から地面に叩きつけられる。
　衝撃が過ぎ去ると、突然、肩に灼熱の激痛が走った。目の前が深紅に眩んだ。
　呻き声が喉を押しつぶした。
　誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
　だめだ。ここで死ぬわけにはいかない。ラトゥースを見捨てて死ぬわけには。
　必死で剥がれかけの意識を引き戻す。
「デュゼナウ」
　だが、それは息を乱したセレムの声だった。
　ハダシュは、残るすべての命をかき集めて喘いだ。
　血でぬるつく右手を支えに、何とか体を起こす。
　目の焦点を合わせることもできない。激しい思いにすがらなければ、身体を動かすこともできなかった。
　壊された左の腕が、ちぎれかけた人形の手そっくりに、ぶらん、と揺れていた。血と泥にぬかるむ足下。視界が黒ずんだ。
　あと五分。
　妙に冷めた計算が働いた。ひどい出血だ。五分、息が持てばいい方だろう。だが、運が良ければあと十分は生きていられる。それまでに片をつけるしかない。
　デュゼナウは、興ざめした様子でセレムを振り返った。
「あの女はどうした」
　セレムは気がかりそうな眼をハダシュに走らせた。
「殺した」
　デュゼナウは鼻先で笑った。
「嘘はよせ」
「本当よ」
　セレムはまだ、誰かを捜す視線を周囲に配っている。
　だが、ハダシュは、頭の中で鐘が鳴り渡る幻聴におそわれていた。
　クレヴォーを、何……？

・◆・◆・

　時間は数分、さかのぼる。
「止まれ！　止まってよ！　聞こえないの！」
　ラトゥースの悲痛な叫びが、石造りの壁に囲まれた狭い路地に反響する。
　セレムは逃げ続けた。止まれるはずがなかった。
　足元の石畳を蹴る乾いた靴音に、小刻みな金具の響きが混じる。背後から息詰まる気配が迫った。
「待てったら……！」
　肩に手が掛かる。セレムは発作的に立ち止まって、その手を振りほどいた。
　ラトゥースは勢いをそがれ、つんのめった。たたらを踏み、どうにか体勢を立て直す。
　周囲は高い壁に囲まれている。どこにも逃げる場所はない。
　セレムは、ゆっくりとした仕草でサーベルを持ち替えた。一つ、大きく息を吸い込み、呼吸を整えて、相手を見つめる。
　記憶の底にある、あの日のラトゥース。黒い喪の衣装に身を包み、青白い絶望に打ちひしがれて、デュゼナウの所業を呪っていた……。
　装いも雰囲気も、置かれている状況でさえ、今とは全く違う。だが、何一つ変わっていなかった。
　背負いきれないほどの不安と憎悪。その大きさと重苦しさを持て余し、どう向き合えばいいのか分からずにいる。
　枷を解き放つ方法は、ただひとつ。
「セレム、いったい、どういうこと……！」
　ラトゥースは、かなり息を乱していた。
「どうしてあの男に組みする？　分かってるはずだ、あいつは君を騙して、フォーニアの爺を……義父上だって、本当は……！」
「分かってます」
　セレムは無表情に切り返した。
「だったら、どうして」
　ラトゥースは剣を構えていた。腕を突っ張り、肩をいからせた、不格好な構え。セレムは思わず目をそらした。
「自分だって、あんな男を側に置いてるくせに」
　ラトゥースは、たちまち頬を朱に染めて気色ばんだ。
「そんな下らないこと……」
「下らない？」
　セレムは、目に殺意さえ滲ませて、ラトゥースをにらみすえた。
　思わず身を引きかけるラトゥースの横に飛び込み、得物をはたき落とす。剣は、甲高い音を立てて地面に跳ね返った。
　ラトゥースは、セレムが突きつけた刃に青ざめ、顔をこわばらせた。
「何か、理由があるんでしょ。本当は、奴に脅されて、こんな……」
「まだそんなこと言ってんの」
　ラトゥースを苦しめているのは、その優しさだ。心だけを無理に強くよろってみせたところで、目の前にいる、たった一人の裏切り者さえ未だ斬れずにいる。
　あまりの優しさに、悔しくて、悲しくて、涙が出そうだった。
「竜の書なんかのために、捨てられて、追いやられて……何も知らずに、どこの馬の骨とも知れぬあなたなんかを、主君の姫だと思い込んで！」
　自分自身の心まで、ずたずたに引き裂いていく言葉を吐きつらねる。
　本当のことを言いたい。本当の気持ちを伝えたい。
　でも、そんなことをすれば、ラトゥースが受けた心の傷をいっそう深く呪わしく封じ込めてしまう。前に進むことも、後ろに戻ることもできず、ただ、立ちつくし続け……。
「だから、あなたにも死んでもらう」
　セレムは、帯に吊った剣の鞘を引き抜くなり、ラトゥースの喉めがけて突き立てた。ラトゥースは悲鳴を上げて仰け反り、背後の壁にぶつかって、ずるずると身を折った。
　首筋めがけ、力任せに鞘を振り抜く。
　ラトゥースは、あえなく意識を失い、くずおれかかった。とっさにサーベルを投げ捨て、両手で受け止める。
　驚くほど、華奢で軽い身体。力を失ったかぼそい腕が、だらりと揺れる。
「ラトゥースさま……」
　セレムは、その柔らかい金髪に顔をうずめ、呻いた。
　涙が頬を伝い、こぼれ落ちる。
　このまま、ずっと抱きしめていたかった。全てを伝え、赦しを請いたかった。
　でも、それはもう、遅すぎる後悔だった。セレムは、袖口でぐいと目を拭った。
　正体をなくしたラトゥースの身体をゆっくりと壁に預け、ふるえる指先でその頬に触れようとして、手を止める。
　これ以上、優しさに触れてはいけない。
　代わりに、ラトゥースが落とした剣を拾い上げた。
　この剣にかけて、デュゼナウを殺す。
　必ず。

・◆・◆・

　急いで桟橋に駆け戻るも、やはり間に合わなかった。
　ハダシュは血の海に沈んでいた。
　とどめを刺す気があるのか無いのか、デュゼナウは、すこし離れた場所で、様子見を決め込んでいる。なぶり殺しにする気かもしれなかった。
「デュゼナウ」
　あわてて呼びかける。その声に気を取り直したのか、ハダシュはよろよろと起きあがった。
　デュゼナウが振り返った。
「あの女はどうした」
　セレムは、内心の苦痛を押し殺し、ハダシュを見やった。
「殺した」
「嘘はよせ」
「本当よ」
　軽蔑を含むデュゼナウの声に、思わず苛立ったふうを装ってごまかす。
　ハダシュの傷は相当深い。あのままでは、数分と持たないだろう。思ったより悪い状況だ。
　セレムの姿を認めた宰相が、煙の中から、おぼろに姿を現した。
「まさか、本当に裏切るとはね」
　宰相は、ハダシュを支えながらつぶやいた。
　膨大な失血のためか、唇が青紫に変色している。ハダシュは、すがるような手つきで、予備のナイフを引っこ抜いた。
　セレムは、ナーフィを鋭く睨み付けた。
「何もかも知ってたくせに」
「ラトゥースどのが、どんな思いであなたを追ってきたか、分かりますか？」
　たったそれだけの言葉に、セレムは、自分の体が大きくかしぎ揺るいだ、ように思った。だが、それは一瞬の錯覚だった。
　仮面の笑みを浮かべてみせる。
「あたしを囮にして、騙してたのは、あんたたちでしょ？　裏切られてたのはこっちよ」
　セレムは、無防備にデュゼナウの側へ近づいた。腕をとり、しなだれかかって、動きを封じる。
「エルシリアもクレヴォーさまも関係ない……」
「ラトゥースが」
　ハダシュは、ようやく言葉の意味を深く理解した。
「てめえ！」
　 絶望の谷底から、かすかに仰ぎ見えていた出口。たとえ差し違えてでもデュゼナウを殺す、そうすればラトゥースだけは助かる……はずだった。
　はずだったのに。
　頭の中が、熟れ柘榴のように弾け飛ぶ。激情が奔流のようにあふれ返った。
　ハダシュは、ナイフを閃かせるなりセレムへ襲いかかった。
　ラトゥースが殺された。その言葉だけですべてを捨てるには充分だった。
「返せ……あいつを返せ！」
　剣を持ったデュゼナウの右腕に、わざとぶら下がるようにしてしなだれかかるセレムめがけ突進する。
　なぜかセレムは凍り付いたように動かない。
　眼があった。青い眼だった。ラトゥースとよく似た眼の色。泣いている。
　切っ先があと一歩に迫る。ナイフを突き立てようとした、その時。
　突然、セレムの姿が視界から消え失せた。
　凍り付くような軌跡を描く血の十字が閃いた。
　何が起こったのか理解する前に、風の音が途絶えた。色が、音が、光が、全て「死」という黒ずんだ闇となって、みるみるのしかかってくる──

　セレムはデュゼナウに振り払われ、よろめいた。
　凄まじい剣が、目の前にまで迫っていたハダシュを、一刀のもとに斬り捨てる。
　殺し屋の身体は、まるで細裂かれた人形のように、虚ろな音を立ててもんどり打った。
　一瞬置いて、破裂したのかと思えるほどの鮮血が、空に弾け散る。
　顔に、手に、胸に。
　ハダシュの血が、耐えきれない生ぬるさとともに奔りついた。
　セレムは悲鳴を上げた。
　宰相が顔を引きつらせて何か叫び、倒れ込むハダシュに駆け寄った。
　その指先が奇妙な印を切り結ぶ。
「……〈死霊使い〉」
　デュゼナウは、返り血にまみれる顔を、凄絶な笑みでゆがめた。
「その男も蘇らせてみるか」
　必死だったナーフィの顔つきが、ほんのわずか、凍り付いた。
「誰に訊いた……？」
「貴様が〈竜の墓場〉を穢したりしなければ、こんなことにはならなかった」
　デュゼナウは、唸りをあげて旋回する太刀の一撃で、その問いに答えた。
　宰相はとっさに避けた。だが、ハダシュの身体につんのめり、足がもつれた。その背中に、袈裟懸けの血刃が容赦なく襲いかかった。
「っ！」
　絶叫をこらえ、ナーフィは胸元から掴みだした黒い包みをデュゼナウへ叩きつけた。
　デュゼナウの顔が、一瞬、激しく燃えさかる青白い閃光に包まれた。獣のように吼えて眼を押さえる。
　しかし、ナーフィもまた、身体を支えられず、空しく倒れ込んだ。
　その背中から、音もなく朱がにじんで、みるみる広がっていく。
「終わったな」
　冷たい笑いが流れた。
　デュゼナウは、顔から手をはがし、かすれた息を吐き散らした。
　竜月刀が、深紅の光をまき散らして、高々と振りかざされる。
　セレムは完全に動揺して、何をどうすればいいのかさえ分からずにいた。
　目の前で次々に流されていく血。
　折り重なる身体。
　分かっているはずなのに。決意したはずなのに。
　どうすれば、どうすれば……！
　突然。
　セレムは、背後から走りすがってくる気配に、冷水を浴びせかけられたような恐怖さえ感じて、振り返った。
　間に合わなかった……
「全員、動くな」
　喪心のラトゥースが、両手で銃を支え、構えていた。
　全身で荒々しく喘ぎ、青い炎のような眼をぎらつかせながら、セレムとデュゼナウを睨んでいる。
「動いたら、撃つ！」
　デュゼナウは、わずかに眼を押し開き、セレムを見やった。
　その一瞬を狙い、ラトゥースは警告も制止もなく、いきなり引き金を引き絞った。轟音と反動に跳ね上がる手から、銃がふっ飛ぶ。
　残響が鳴り渡るなか、デュゼナウは平然と立っていた。狙いを定めず撃ったと分かっていたらしい。
　頬に薄笑いが浮かんでいる。
　だが突然、表情が激変した。
　デュゼナウは、血のしたたる刀を引きずりながら、一歩、ラトゥースめがけて踏み出した。
　はりつめる殺意。
　ラトゥースは後ずさろうとした。
　息が凍り付く。
　セレムは、逃げろと叫ぼうとして、それが醜悪な偽善でしかないことを本能的に悟った。
　ラトゥースから、心の支え全てを奪い去っておきながら、まだ、気持ちの奥底で、ギールを取り戻せるかもしれないなどとためらって……。
　もう、目の前には、ラトゥースとデュゼナウの二人だけしか残っていなかった。
　一瞬の選択。
　死を選ぶも、生を選ぶも、ともに地獄。
　それでいい。それしかなかった。
　デュゼナウの背中が、まるで意識して隙を露呈してでもいるかのように、ぽっかりと開いていた。
　セレムは剣を握りしめた。
　今、この瞬間のためにだけ、生き長らえてきたようなものだった。
　こんな姿に、こんな人間になってしまった男を殺すためだけに。
　それが、今。
　声もなく、何の後悔もためらいもなく。セレムは、渾身の殺意とともに剣を振りかぶった。振り下ろす。
　誰かが悲鳴を上げた。
　デュゼナウの体がねじれる。
　一瞬早く、剣に重苦しい手応えが返った。
　血と、肉と、骨。すべてを深く断ち割る、ごりっとした感覚。
　刀が凄まじい勢いで翻り、叩きつけられてくるのが目の隅に見えた。
　氷より冷たい風が吹き迫る。
　刃が、セレムの首を刎ね飛ばしかけた寸前。
「……！」
　デュゼナウが、突然訳の分からない恐怖に満ちた悲鳴を上げ、手首を返した。
　最後の瞬間、刀を押しやり、手放す。
　それでも、返しきれなかった刃が、深くセレムの首筋に食い込み、致命的な一撃を与えてから弧を描いて飛んだ。
　セレムは、半分吹っ飛ばされそうになりながらも、どうにかその場に踏みとどまった。
　もう、殆ど意識はない。どうしてまだ生きているのか、その理由も分かってはいない。
　ただ、吹き返す血で手を滑らせながら、もう一度、今度は、残る全ての力を込めて、デュゼナウを頭から拝み斬った。
　これで死んだはずだ。のけぞる相手を浴びせ倒し、膝をつく。
　セレムは、ちぎれそうなため息を漏らした。ゆっくりと身体が傾く。
　これで、終われる。
　膨大に流れ落ちる血が、互いに混じり合った。
　それは、生ぬるく、やがて冷たく変わりながら、二人の顔を、全身を、赤く染め抜いた。
「セレム……」
　ラトゥースは駆け寄ろうとして、体をこわばらせた。
　止めどのない絶望。
　まさに、悪夢だった。
　血の海を踏み越えて。襟元に真っ白い毛皮をまいた藍衣の老人が近づいてくる。
「失礼ながら、エルシリア侯ご息女ラトゥース殿とお見受けする」
　老人は、陰湿に眼を細めた。
「我はエリオネスと申す呪禁者。軍使の役、仰せつかって参った」
　それがバクラントの宰相、魔導師アー・エル本人であることは分かっていた。
「……私がエルシリア侯です」
　くずおれそうな声で応じる。
　眼の隅に、朱に埋もれ横たわるハダシュ、セレム、ナーフィ、そしてギルベルト・デュゼナウの姿が映った。
　皆、死んだ……？
　ラトゥースは、全身に震えが回るのを、必死で押さえ込んだ。心の中で何度も自らを叱咤し、逃げ出したくなる気持ちを引き戻す。
「バクラント軍使エリオネス。口上を聞く前に尋ねたい。この不始末、どうつけるおつもりか。この者がバクラント傭兵であることはすでに明白です」
　老人はほのかに笑った。
「バクラントの意志ではない」
「それですむとお思いなのですか！」
「さて」
　老人はラトゥースから眼をそらし、視線を四方へ走らせた。
「答えなさい！」
　相手にされていない、と直感したラトゥースは、思わず声を荒げ、一歩前へ進み出ようとした。
「何も聞いておられぬのか」
　老人は低くつぶやいた。　
「御身のような凡人が口を挟まれることではない」
「何を……」
　ぎらり、走る、眼差し。
　身体がこわばった。
　ラトゥースは、全身が凍り付くのを感じた。喉が押し潰される。息もできなかった。
　ふいに、どす黒い恐怖がこみ上げてきた。ラトゥースはよろめき、その場に腰を落として、呆然と喘いだ。一度竦んでしまうと、もう、顔を上げることもできなかった。
　老人が、ラトゥースの横を、嘲り笑うかのようにすり抜けていく。
　一歩。二歩。
　背筋が、えぐられるように痛んだ。
「待ち……なさい……」
　ラトゥースは、悲鳴のように呻いた。
「まだ話が……」
　足音が、止まる。
　おもむろに振り向く、その気配だけで、言いしれぬ恐怖に打たれ伏してしまいそうだった。
「エルシリア侯クレヴォーどの」
　喜悦に満ちた毒のように、耳の奥まで滑り込んでくる声。
　眼が眩んだ。
「もう、辛いことはお忘れになったほうがよろしかろう……」
　自分を含めた世界すべてが、突然、ぐらりと歪んだ。
　つらい。
　何が？
　殺された……みんな……ハダシュも……。
　誰に？
　考えたくない。
　そんな恐ろしいこと、考えたくない。
　……分かっているくせに。
　心の中に棲みついた何かがささやく。
　本当に悪い奴らは誰なのか、と。
　あのとき、誓った……デュゼナウを殺し、義父を裏切ったセレムを殺し、〈竜の書〉なんかのために義父を死に追いやった〈あいつら〉を憎む。
　憎む……？
　そう、取り繕った貴族の仮面など脱ぎ捨ててしまえ……本当の自分を……どろどろした憎悪と嫉妬と怨念……すべて解き放て……
　お前の大切なもの、愛したもの、その全てを奪っていった国王と宰相を……。

　……殺せ……！

「そうやって」
　突然、恐怖に満ちた夢想が破れた。
　ラトゥースは悲鳴を上げて地面に突っ伏した。
「人の心をゆがめるのが、あなたのやり方ですか」
　それは、魂を焼き焦がす闇の中で、殺したい、殺してやる、と呪いさえしたナーフィの声だった。ラトゥースは耳を押さえ、涙を浮かべて、めちゃくちゃに頭を振った。
　聞きたくなかった。自分自身が恐ろしかった。
「ラトゥース。同じ事を何度も言わせるんじゃありません」
　ナーフィの優しい声が背中を打った。
「そんな貴女は、貴女らしくないですよ」
　ラトゥースは、はじかれたように顔を上げた。
　全身を朱に染め、蒼白な唇を震わせつつ立ち上がる宰相の姿が目に入る。
　とっさに跳ね起き、宰相の側へ駆け戻った。ナーフィは、深く長い安堵の吐息を漏らした。
「ナーフィさま……よくぞご無事で」
「これぐらいでは死にませんよ。ちょっとした致命傷です。それより」
　宰相は、抜き身の刃にも似た、寒々とする視線を老人へ向けた。
「ラトゥースが先ほど尋ねたこと、お答え願いましょうか」
　老人は、わずかに片頬を吊り上げた。
「……このものは、バクラント王に謀反せんがために邪悪なる手段にて竜の書を奪い取らんとした反逆者。まこと残念ではであるが、バクラントにとって存外のこと、このものの所業と我が国は何の関係もなきこと、まず申し上げておく。
　宰相どのには、それとは別に、書を引き渡していただきたく御願いに参った。其はバクラントの至宝にして永遠の象徴。異国の地にありては何の意味もなさぬはず」
　ラトゥースは歯を食いしばった。この期に及んでまだ、書、とやらを求めるのか。ナーフィは静かに諫めると、ラトゥースに竜の角のかけらを手渡した。
「あなたはこれでみんなを救ってください」
　それがデュゼナウをも含むということに気付いて、ラトゥースは眼を押し開いた。
「バクラント国王陛下にお伝え願いたい」
　ナーフィは、立ちくらむ眼を片手で押さえながら答えた。
「たとえ一部の突出した過激派の行動とはいえ、我が国の主権を脅かそうとしたのは事実。これ以上の逸脱行為を容認するおつもりなら、制裁を振るわねばならなくなります。
　我が国とバクラントとの永年の友好関係を維持するためにも、出来るだけ避けたい手段ではありますが、さすがに受忍できる限度というものがある」
　冷たい風が逆巻く。老人は苦々しく眉根を寄せた。
「そもそも、御身らが竜神の至宝を国外へと持ち出したこと自体、許し難き蛮行とは申せぬかな」
「竜王より直接預かったものです。亡き王の遺志と思われて結構」
　いらえを聞き、老人の眼が光った。
「これは異な事を。御身が最初であろう、竜の墓場を開き、その毒気を用いて諸国を戦乱に陥れ、己に優位な状況を作らんと謀ったのは」
　巧妙な響きが言葉の隅々に入り交じる。　
　ナーフィは怜悧な笑みを浮かべた。
「さあ、何のことでしょうか。少なくとも、今の私はこの国の宰相に任ぜられ、王、領、そして民の暮らしを守る義務がある。国に平和と秩序をもたらすことこそ真に望む形です。もし両立できないときは、ためらうことなく我が国における秩序を選ぶ。お判りですね」　
　おそらく、それこそが老人の望むところだったのかもしれない。老人はしなびた追従笑いを作った。
「もし叶わぬ時は、御領内の同盟者とともに挙兵する旨、しめし合わせてあるとしても……？」
　ナーフィは頭を振って見せた。
「ルイネードの海賊も玉石混淆、上が思うほど、末端は指導者の能力を信じていないものです。バクラントの国王陛下には理性的な対応を望みますとお伝え下さい。こちらから申し上げられるのはそれだけです」
　ラトゥースは、壊れそうな気持ちをかき集め、よろよろとハダシュに近づいた。
　助かるだろうか……いや、きっと、助かるに違いない。まだ生きてさえいてくれれば……。
　突然、ハダシュの身体がびくりと痙攣した。
　死の間際に漏らす、あまりにも弱々しい喘ぎが聞こえた。
　……まだ息がある……！
　ラトゥースは息を呑んだ。はち切れそうな思いが、涙の熱い滴となって、頬を伝い落ちてゆく。
　そのしずくが、乾いて割れたハダシュの唇に吸い込まれた。
　苦痛に歪んでいた表情が、わずかに震えた。
　ラトゥースはすりあわせた竜の霊薬を吸い込み、ハダシュの唇にかさねて、力一杯に吹き込んだ。ハダシュの胸が大きく上下する。
　そのまま、今度はセレムの元へ走り、同じ事を繰り返した。無我夢中で何度も往復する。霊薬がなくなるまで、ラトゥースは薬を吹き込み続けた。
　手当を終えると、あとはただ、途方に暮れて座り込み、ハダシュの力無い頭を膝において、竜の霊薬に癒されていくのを見守るだけだった。
　本来なら、全員、死んでいるはずだった。絶望と怨念入り交じる血のにおいが、未だ渦巻いていたはずだった。
　すべての憎悪をもたらした〈竜の書〉。あまりにも強大すぎる力があるからこそ、その帰趨を巡って命が失われる。だが、これがなければ……。
　ラトゥースは、血の泡にもがいていたはずのハダシュを抱きしめた。土色の頬に血の気がさしてくる。指先がぴくりと動いた。
　その様子は、薬という能力の限界を遙かに超え、魔法の域まで達しているように思えた。
「ハダシュ」
　そっと呼びかける。まだ、返事はない。だが聞こえているのは確かなようだった。
「僕……あんたを楯にして、利用してただけかもしんない……自分じゃ何もできない……何も、してあげられない……」
　ハダシュは一息ついた。
　何を言っているのか、よく聞き取れない、悲痛なため息にも似たつぶやきだった。
　それでも、聞こえる。好きな女の声が聞こえる。こんな嬉しいことはなかった。
　声にしようにも、形にできない言葉が、霧にかすむ意識の底へと沈んでいく。
「ごめん、セレム……見てくる……」
　ラトゥースは、いたたまれない気持ちを押し隠して立った。ハダシュは熱い吐息を漏らし、起きあがろうとあがいた。自分でも、今すぐに動けるはずなどない、と分かっている。だが、これ以上、ラトゥースの前に、こんな姿を晒していたくなかった。
　ラトゥースはセレムの側にひざまずいた。首に巻いた包帯に、おずおずと手を触れる。
　普通なら、絶対助からない。
　傷をふさいでも、流れ出してしまった血は、もう、戻らない。
　ラトゥースはセレムの蘇生を願いながら、一方で、隣に眠るデュゼナウへ、毒を孕んだ眼差しを向けた。
　この男さえいなければ、憎悪に身を焦がすことも、絶望に襲われることもなかったはずだった。セレムを、宰相を、国王を殺したいなどと、一瞬でも思ってしまった自分が呪わしかった。
　ラトゥースは思わず、片手持ちの小さなナイフを引き抜き、白蝋のような手で握りしめた。
　この男が義父を殺したりしなければ。
　この男がハダシュを傷つけたりしなければ。
　この男がセレムを汚したりしなければ。
　ラトゥースは、こみ上げてくる嗚咽に堪えかね、ナイフを放り出した。
　身を引き裂かれるような自己嫌悪に、思わず呻く。
　もしかしたら。
　自分も、この男と同じなのかもしれない。
　本当は貴族でも何でもないくせに、わざとらしい正義ばかりを振りかざして、その裏では呪い、妬み、そのくせ、弱い、醜い心を見せまいと必死で取り繕って……。
　セレムは、何を思って剣を取ったのだろう。
　自分の命と引き替えにしてでも、この男の罪を償わせたかったのか……それほどまでに想っていたのか……それとも……。
　傷がふさがっても、セレムは目覚めなかった。
　一通りの交渉が終わった頃合いを見て、ナーフィが様子を確かめにやってきた。
「終わりましたか？」
　ラトゥースは返事しなかった。
　ハダシュがもがくように起きあがりかけるのが見えた。ラトゥースは再びハダシュのもとへ戻り、肩を貸した。
「……すまねえ……」
　ハダシュはあえいだ。喉がつまる。息をする度に引き裂かれるような痛みが走った。それでも立ち上がれる振りをしてみせるのは、ラトゥースをこれ以上、苦しめないためだった。
「ではアー・エル、じゃない、何だったかな……粉々の砂まみれになってますけど、こんなものでよろしければお受け取りを」
　ナーフィは、砕け散って地面に散らばる竜の書の残骸を指し示した。
　老人は顔色を変えた。
「何という冒涜！」
　それを聞いたナーフィの碧眼に、ぞっとするほど冷たい色が混じった。
「……私たちは、クレヴォーという、エルシリアにとって王国にとって共にかけがえのない人材を失った。謀反人として切り捨てられるような男とは違う。我々が味わった苦悩と後悔を、せめて、わずかでも、あなた方に感じていただかなければならない。こんなもののために、これ以上、誰一人として失いたくない、という思いを」
　老人は、しばらくの間、輝きを失った竜角のかけらを凝視していた。
「……承知つかまつった」
　悔しそうに吐き捨てる。ナーフィはかすかにうなずいて見せた。
「分かっていただけたようで何よりです」
　魔導師は、デュゼナウに目もくれなかった。じりじりとあとずさりながら、黒い煙に紛れて霧散してゆく。
　ナーフィは、深いため息を漏らした。
　ラトゥースは、そのけわしい横顔を見つめた。
　疲れ果てた目だった。何も終わっていない、終わることなどない、そう思っているかのようだった。
「なぜお見逃しに……？」
　他に聞くこともなく、たずねる。宰相は暗いまなざしを彼方へと向けた。
「殺すだけでは何も解決しない……それどころか、ここでアー・エルを殺せば、開戦の口実をバクラントに与えるだけです。私たちが、軍を擁して向かい合おうとしたようにね。そうなれば否応なく、何千、何万と人が死ぬ。たとえ力任せに相手をねじ伏せたとしても、それは正義でも勝利でもない、より多く殺戮した結果にすぎない」
　宰相は我に返って、おざなりに笑った。
「とにかく、我が国が所有する〈竜の書〉にはもう何の力もなくなってしまったと分かれば、少なくとも、バクラントが我が国をやたらと怖れる理由はなくなるでしょう。あ、とすると、早く兄上に兵をさげるよう連絡しておかなければ。ぐずぐずしてると本当に戦になりかね……」
　ナーフィは、ふとデュゼナウを見やった。
　ラトゥースは目をそらした。ナーフィは厳しい表情を浮かべ、竜角の最後のかけらを拾い集め、歩み寄った。掌をデュゼナウの深い傷に押し当てる。
　ラトゥースは、デュゼナウの治療を行っていなかった。
　すでにその息は絶え、心拍の鼓動も止まっている。
　ナーフィは指を組み、月夜を司る女神の名を読誦しながら反魂を祈った。手にした竜の書のかけらが青白く燃え、雪のように傷口へ降りかかっては溶けていく。
「どうしてこの男を助けるんです」
　ラトゥースの凍えた眼が、宰相の背中をとらえた。氷のように青ざめていながら、なだれ落ちる火の奔流にも似た眼差し。
　ナーフィは振り向きもせずに答えた。
「どうしてって、見なかったんですか？　彼は剣を止めていた。セレムを殺さなかった」
「ハダシュが斬られたのに？　義父を殺した犯人だと分かってるのに？　セレムこそが本当のエルシリア侯女だから……だからセレムさえ助かれば、僕の気持ちはどうでもいいんですか……！」
　ラトゥースは、自らの思いを押さえきれず、振り絞るように叫んだ。
「そういうことなら、あなたがこの男を許しても、僕は許さない。セレムのことも許さない。何もなかったことになんか、絶対にできない。どんなことをしてでもこの男だけは殺すと誓った！　どうしても助けるとおっしゃるのなら、あなたもこの男もセレムも殺して僕は死ぬ。斬首も絞首も厭わない。地獄に堕ちてもかまわない……殺してやるんだ！」
　吐き捨てるラトゥースに対し、ナーフィは悲しそうに嘆息しただけだった。
「聞かなかったことにします」
「……落ち着けよ」
　ハダシュは、ラトゥースの冷たい手を押さえようとした。ラトゥースはその手を振り払った。
「触るな！」
　今のハダシュには、それさえかわしきれない。おもわずよろめく姿に、ラトゥースは我に返った。
「……ごめん」
「落ち着け。らしくねえぞ」
　ハダシュはかすれた声で低く言った。
　できることなら抱きしめて、そんな辛いことを言うのはやめろ、と言ってやりたかった。苦しすぎる重荷を取り払ってやることもできない自分が歯がゆかった。
「申し訳ありません」
　ナーフィは厳しい表情を取り戻し、はっきりと言った。
「この男を殺させるわけにはゆかない。まだ、何も、終わっていないのです」