「従う必要はありません。ただちに兵を率い、賊の追討に向かいます」
バーナム・フォーニアは血を吐く声で呟いた。
「元がクレヴォー閣下のお血筋とはいえ、今は名実ともにフォーニアの一族です。あれの監督不行届は私の責任、ともに罰せられてしかるべきところを、逆に国の宝を賊へ引き渡すなど言語道断です。色恋に目を眩ませ、賊を取り逃がす愚行に走る娘のために」
「しかしねバーナム殿……セレムの命がかかっているのですよ」
ナーフィは竜の書を前に呟いた。
「父親であるあなたが娘を見捨てて、誰が救うのです」
「敵国の賊に魂を売るような娘など救う必要ありません」
それが、父親である前に騎士であろうとするバーナムのけじめだった。その強面からは、意見を翻そうという気持ちが微塵も感じられない。
「しかしね……」
ナーフィは目をそらし、助けを求める視線を国王へ向けた。
ジャド王は組んでいた腕をほどいた。
「陛下、あの娘のことはお忘れ下さい」
バーナムはうつむいた。
「エルシリア侯閣下を殺めた賊と分かっていて縄を解くような娘です。謀反の罪に等しい……もし助け出したとしても、私がこの手で……」
「私刑は許さん」
ジャドはじろりとバーナムを睨み付け、黙らせた。
「罪と、罪を犯した者の命は別物だ。血讐の掟は廃止したはずだ。それはラトゥースが一番よく分かってる。覚えとけ、バーナム。ハージュの守護を司る者がそんな考えでどうする」
「そろそろお呼びしてもよろしいでしょうか」
ナーフィはお伺いを立てるように言った。ジャドは頷いた。
「頼む」
「では」
ナーフィは席を立ち、部屋を出ていった。部屋に残されたジャド、バーナム、そしてマイアトール神官のティベルド老師は、しんとして宰相が戻るのを待ち受けた。
「竜の書か。あれも苦しんでおる。悲しいことよな」
老師は胸で印を切った。
「強すぎるゆえに疎まれ、欲望に囚われる。使い道を誤れば破滅を導き入れると分かっていながら、その幻影に惑わされずにはおれぬ。我々も好んで戦をしたわけではなかった。征服者と言われ恨まれもした。バクラントはその面影をお前たちに重ね見ておるのかも知れぬ」
「力には力、恐怖には恐怖か」
ジャドはため息と共に言った。
「もう二度とあんな時代は来ねえさ。勝とうが負けようが関係ないんだ。もう泥沼みたいな戦争は必要ねえ」
「お待たせしました」
ナーフィが戻ってきた。今度は一人ではない。ラトゥースが後に控えていた。だがその衣装はまだ、喪の明けやらぬ黒のままだった。
「ラトゥースどの、どうぞお先に中へ」
「……では？」
バーナムの顔が輝きかける。ナーフィはゆっくりとささやいた。
「一連の騒ぎは、すべて、ギールこと、バクラントの刺客ギルベルト・デュゼナウによって仕組まれたものと判断しました。よってエルシリア侯の蟄居処分を解くこととし……」
だがラトゥースの表情は変わらなかった。
「ラトゥースどのには、バクラントへの特使随行として向かっていただきます」
「随行？」
バーナムは眉をひそめた。
「では、特使はどなたが」
ナーフィはにっこりした。
「私が参ります」
「ええっ？」
驚いたバーナムはジャドを振り返った。
「陛下……？」
「これが一番安全だ。バクラント王へ公の立場で抗議をする。あっちはどうせ認めやしねえだろうけどな。ホントは俺も行きたいんだけどよ……格好の囮になれると思うんだが……ち、肝心なときには動かしてもらえねえときたもんだ」
国王と宰相の言葉双方にうろたえつつ、バーナムは立ち上がった。
「で、ではただちに護衛団の人選を」
「それには及びません」
ナーフィは肩をすくめた。
「しかしそれではお二人の身が」
ジャドは立ち上がり、エルシリアの女侯爵を心配そうに見つめた。
「三国一の呪禁使いを護衛につけてやる。ラトゥース、安心して行って来い。決着をつけさせてやる」
ラトゥースはうつろな眼差しを国王へ向けただけで、答えなかった。
「さて」
ジャドは王としての意識に切り替え、猛々しい顔つきを取り戻した。
「ベルデルの軍港にあるのは何と何だ？」
宰相は細い眉を持ち上げた。
「一級ガレオンが一隻。二級ガレオンが五隻、五級フリゲート艦が十隻、あと旧式のガレー船が多少」
「上陸を許すとあちこち攪乱されて厄介になる。どうせなら海戦でドハデに決戦といこうぜ」
「陛下」
ナーフィはわざとらしい咳払いで制した。
「シャノア沖海域にて、エルシリア及び王国海軍による合同軍事演習を行うとゴーティエ侯に伝えます。とりあえずはその程度の牽制でよろしいでしょうか」
ジャドは眉根を寄せた。乗り気でないはずのルイネードを参加させるのは、彼我の実力差を思い知らせるためだろう。
だが、奥歯に物が挟まったかのようなまどろっこしいやり方は、王の好みではなかった。
「ふん。まあいいや。演習の指揮は任せる」
「戦となると頭に血が昇りやすい人ですから」
ナーフィはバーナムに耳打ちした。
「ティベルド老師によくお願いして、行きすぎないよう抑えてやって下さい」
耳ざとく聞きつけた国王が怒鳴る。
「何コソコソ言ってる！ てめえこそ、馬鹿げた突貫計画をインチキくさい動きでごまかしてるだけじゃねえかよ」
「はいはい」
ナーフィは軽くラトゥースの肩を叩いた。
「目立たないよう、できるだけ身軽に行きますからね」
「では、準備して参ります」
ラトゥースはそっけなく言い残し、部屋を出ようとした。
氷が張りつめたようなその後ろ姿に、国王は思わず声をかけた。
「お前の妹だ。必ず連れて戻れよ」
妹と聞いて、ようやく瞳に光がさし戻る。ラトゥースはかすかにうなずいた。
ドアが閉じられると、バーナムはそれ以上取り繕えなくなり、心痛に顔を歪めた。ジャドはそれと気付いて、ため息を漏らした。
「もういい、バーナム。無理しねえでくれ」
秤に掛けることさえできない相反する思いに、偉丈夫の背中が頼りなく震えている。
「陛下、私は……」
応えられる自信などあるはずがない。だが、応えなければならなかった。
「大丈夫だ。必ず連れ戻す」
若い王は、父の代からの忠臣を心底いたわろうとしてつぶやいた。
「それに、ラトゥースなら、きっと」
久しぶりに城を出られたというのに、ラトゥースは、外のまぶしさにさえ興味を示さず、寒風に髪を吹きさらして現れた。
シェイルが馬車を用意して待っていた。
「お嬢さん、じゃない、クレヴォーさま、どうぞ」
ラトゥースは馬車に乗り込むなりつぶやいた。
「屋敷跡に向かってくれませんか」
押し殺した声にシェイルは竦み上がった。
「はい……あ、あの、ハダシュは？」
ラトゥースは答えない。
「このまま、見逃すおつもりで」
かたくなに逸らした視線が、何一つ喋る気のないことを表していた。
馬車は林の道を通り抜け、寒々とした土をさらす畑の横を駆け抜けていった。
着いたのは、ごく普通の、どこにでもある村だった。
エルシリア侯を閉じこめていた古城は、未だに片づけ手のないまま黒こげになって崩れていた。ラトゥースは馬車から下りて、廃墟を見上げた。
風が甲高く鳴り渡る。焦げ臭い埃がたち、ゴミとなって目に飛び込んできた。
ラトゥースはシェイルについてこないよう言い、ゆっくりと城の中に踏み込んで、何かを探し始めた。何もないと分かっていた。ここはエルシリア侯の居城でも何でもない。ただの牢獄に過ぎない場所だ。
だが、義父はここで死んだ。
セレムの好きな男の手にかかって。王と宰相の身代わりとなって。竜の書を守って。
それが本望だったのだろうか。
涙が頬を伝った。
どうして養子ではなく、養女を取ったのか。ずっと心の底にひっかかっていたことだった。
どうせ跡継ぎにするのなら、男の子をもらえばよかったのに。そうすればこんな……。
でも、たぶん、周囲の目をごまかすためには、身代わりになる女の子が必要だったのだ。セレムに似た女の子。年の変わらない女の子が。
おそらくは暖炉だったと思われる場所に立つ。
あの晩は冷えていた。さぞかし、古傷の膝も痛んだことだろう。
「義父上」
ラトゥースは、ひざまずいて足下の灰をすくった。手のひらにべっとりと炭泥が貼り付いた。
汚れた手を胸元に引き寄せ、震えだしそうな祈りとともに抱きしめる。
あの男が、セレムと自分を変えた。
殺されたのが本当の父親だと知っていたら、セレムはどうしただろう。それでも、愚かな、血迷った行動に出ただろうか。
心の闇に、黄色い炎がゆらめいている。
クレヴォーの後ろ盾がなくても構わない、自分自身で、地に足をつけて立つことが出来ていればいい……ずっとそう信じていた。でも、今はその思いさえ定かではない。
いったい、自分は何者だったのだろう。名家の跡継ぎというだけではなく、そもそも、一人の娘として本当に愛されていたのだろうか。似通った面影を、ラ・フォーニアへ送った実の娘に重ねていただけではないのか。
あれほど信じていた正義でさえ、今はもう、見いだせなくなっている。
確固たる自分など、どこにもない。
ラトゥースはぬかるみに拳を叩きつけた。
どうして、胸を突き崩すようなこの痛みをセレムに与えないで、自分に与えるのだろう。愛してくれる家族も、本当の家族もいたくせに、なぜ、敵国の刺客ごときのために、全てを捨ててしまえるのだろう。
本当は、単なる一人の女に返って、誰かの胸に泣きすがりたかった。子供みたいに、人はばかりなく声をあげて泣きたかった。みんなが思っているほど、自分は強い人間じゃない。
やがて心の奥に暗い思いが浮かんだ。
もっと早く、蟄居が解かれていれば。
そうすればあの夜、自分もこの場にいたはずだった。
ならば、きっと、こんなことにはならなかった。かなわぬまでも、せめてもの一太刀をあの男に浴びせることができたに違いない。結果として無力に殺されたとしても、それでも。
その方がずっとましだった。
……愛する者を、この国を、世界を、秩序のすべてを憎んで、恨んで、怨み尽くすよりは。
■
目が覚めて、最初に目に入ったのは、穴の開いた草葺きの屋根だった。どうやら壊れかけたあばらやにいるようだ。ゆっくりと首をひねる。外が暗いのにあれこれ見えるのは、炉に火が入っているせいだ。手を動かそうとして、頭上でひとまとめにくくられていると気付く。
薪がはぜ、小屋が明るく染まった。
暗い後ろ姿が見えた。そのとたん、セレムは息を詰め、どうにかして逃げだそうと身をよじらせた。
物音にギールが振り返った。
「そんなに怖がることないって、お嬢ちゃん」
ギールは立ち上がり、炉の火を背に、ゆっくりと歩み寄ってきた。
全身が硬直して、まともに動けない。
「ダイジョウブ、まだ何にもしないってば」
にやにやしながら、指先でセレムの頬を突っつく。背筋に寒気が走った。
「さ……触らないで……」
ギールは鼻先で笑った。
「そりゃずいぶんな言いぐさだね。泣いてすがってきたくせに」
ゆっくりと記憶が戻ってくる。確か、ギールを殺そうと思って忍び込んだつもりだった。それがどうして、こんなことになっているのだろう……？
閃光のような情景が駆け戻ってきた。セレムはもう一度、悲鳴をあげかけ、ギールに手で口をふさがれた。
「あんまり騒がれると、いくら田舎でもね、外に聞こえるとまずいっしょ？」
面白そうに笑っている。
「とりあえずバクラントまでつきあってもらうから。大体もう、分かってんだろ？」
「な……何を……」
冷たいものが背筋を伝う。
「ダンナが戻ってこないように、できるだけおとなしくしてた方が身のためだって事だよ。俺の方がマシだろ？ それとも、元の、あのダメ男がよかったかな」
「元の……？」
歯の根が合わない。
「お前、ギールじゃ……ない……？」
「オマエとは心外だなあ」
ギールはかがみ込み、セレムの額にキスした。
「曲がりなりにも婚約者に向かって。キミとは一度会ってるんだぜ？ あんときはチュウしそこねちまったけどね。アー・エルが手柄を焦ってガンズをよこしたりしなきゃ、うまく行ってたのに。全く、年寄りは気が短くっていけねえよな。一年や二年、待てないのかねえ」
セレムは体を反らし、避けようとした。
「おやおや、嫌われちゃったかナ～？」
ギールはそのままセレムの肩を押さえ込んで仰向かせた。
「怖がってる？ ダイジョウブ、俺は優しいんで有名なんだ……女の子にはネ」
「イヤ！」
「嫌って言われてもねえ……据え膳食わぬは何とやらだし、キミの知ってるギールもね、いや、マジな話、本気で惚れちまったみたいだから、案外、奴も大喜びかもよ～？」
セレムは唇を噛んで泣きそうな顔をした。
「どうなってるの……ギールそっくりの、別人なの？」
「まだ分からない？」
ギールは耳元でささやいた。
「俺は俺。キミの知ってるギールも俺さ。みーんな入れ物は一緒」
「……？」
「アー・エルは同一性障害とかって言ってたな。子供の時にひどい目に遭うと、そうなることもあるんだって……てなわけで、安心して、ホラ、力抜いて……キモチイイことしようぜ？ な？ な？」
「馬鹿っ！」
セレムは必死で顔を背けた。
「やめて！」
「うひょ、結構胸でか……」
ふとギールは顔を曇らせた。
「あ……ごめんなさい」
脱がそうとしていた手がボタンから離れていく。
「まただ……どうしてこんなことばっかりしてしまうんだろう。汚らわしい……恥ずかしい、情けない……何でこんなふうになってしまったんだろう。どうやったら治るのかな？ 僕にはどうしようもないし……もう、こんな毎日、嫌だ……死にたいよ……何人も人を殺しちゃって…………ねえ、お願い、助けてよぅ……」
子供のように背中を丸め、両手で顔を覆う。セレムは表情が万華鏡のように変わっていく様子に息を呑んだ。
ふっと顔を上げる。また好色な目つきに戻っていた。ぺろりと唇をなめる。
「……邪魔すんなよナ～？ せっかくイイトコだったのに……てへへ、続き、続き……っと」
「教えて」
セレムはぞっとしながら訊ねた。
バクラント精鋭、〈黒の騎兵〉。短銃とサーベルで武装した竜騎兵を構成員とする最強の傭兵団で、火砲を主力とするその突撃は十倍の数の方陣槍兵をもあっさり蹴散らすという噂さえある。
エルシリアにも騎兵科はあるが、その数はまだ少ない。数百の単位で竜騎兵の体裁を整えられるのは、国王直属のヴァンシアン・ナイツぐらいだろう。エルシリア軍の主力は未だに旧態依然とした槍兵、矛兵であり、マスケット兵や野戦砲に至っては、ようやく各歩兵大隊に配備されはじめたという水準でしかない。
……もしバクラントの精鋭が密かに海を渡ってきたら、見るも無惨な結果になる。
ハダシュの言ったことがはじめて分かる。あのとき見た顔が、傭兵長デュゼナウの顔だ。油断していようがいまいが、絶対にかなわない敵。
生かされている理由は、人質以外考えられなかった。それも、デュゼナウ自身が逃走するためなどではない。その気になれば、どんな包囲網でも突破できる絶対の自信があるからこそ、この男は単身敵地へと乗り込んできたのだ。
その凄腕の傭兵を、一時の気の迷いで、牢から解き放ってしまった……。
いくら悔やんでも、もう、遅すぎる。
国を裏切り、ラトゥースを裏切った挙げ句が、この様だ。
「どうしてあたしを連れてきたの？」
「どーしてって言われてもねえ」
ギールはあごに手をやって首を傾げた。
「見張ってろって言われてるだけだし」
「……元の……あいつはまだ、いるの？」
「さあ」
ギールは皮肉に笑った。
「キミを口説くのがあいつの役割だったからネエ……とにかく惚れたフリをして潜り込め、とは言ったけど。いくらなんでも、ちょっとその気になりすぎだよナ。キミも声かけられたぐらいで、ダメだよ、すぐにその気になるなんてさあ……ちょっと尻軽すぎない？ いや、これ以上道踏み外すとヤバイかなぁとか思って、だいぶん内側から奴の精神を壊したんだけど、往生際悪いよネ、まだしがみついて……てめえみたいな女のためによ。お前見てるとヘドが出そうになるぜ」
突然、口調が変わった。雑草でも見るような目つきが投げつけられる。
「きぃきぃわめくし、感情的だし、あげくの果てにバカときてる。少し気のある素振りを見せただけで尻尾振るような女なんて、本当ならこっちからお断りだ……」
侮蔑の一言一言が胸を刺し貫いた。
目の前にいるこの男が、自分の知っているギールではないと分かっていても、身を切られるような痛みを押しとどめることは出来ない。もう、涙も出なかった。
最初から、ずっと騙されていた……。気を持たせる振りをしたのも、強引に口説きかかってきたのも、少年のように頬を赤らめて照れていたあの夜の出来事も、自分の気持ちを引きつけておくための計画。すべて、竜の書を手に入れるための嘘。
セレムが持っていた竜の書は、エルシリアに語り継がれる英雄を歌ったサーガだ。祖父の言った「竜の書」とは違う。苦しい息の下で伝えたかったのは、何なのだろう。
セレムは突然、身を震わせた。
祖父を斬った男の仕事ぶりを評価するように笑っていた黒い衣の老人。
どうして、今までこんな大事なことを思い出せなかったのか。
その歪んだ笑みと、竜の霊薬を差し出す柔和な医師の笑みとが、ぞっとするほど重なって見えた。
「うるさいってば……静かにしてろって。今は俺がこの子を預かってんだから……こんな女、一、二発ぶん殴って足腰立たねえようにしちまえばいいんだよ！ そしたらおとなしく……だ～か～ら～、ダンナが決めるコトだって言ってんだろ～？ ダメだよ、やめて、かわいそうだよ、そんなひどいこと……いい加減にしないか。つまらないことで私を煩わせないでくれ。こんな女どうだって……ええい、うるさい！」
「……ねえ」
セレムはぼんやりした様子で呟いた。ギールは一人でコロコロ人格を変えながら、内面の葛藤を暴露し続けていた。
「竜の書を……探してるんでしょ……？」
ギールはちらりとセレムを見やった。
「本物はどこだ」
「クレヴォーさまを殺したのも……」
「違う違う、俺じゃないよ」
ギールは焦って首を振った。
「人殺しなんてとんでもない。そういう裏の仕事はダンナに任せとくさ。俺は女の子を悦ばす専門♪」
「あんたに用はないわ」
セレムは全ての勇気を振り絞って言い放った。
「出しなよ、あいつを」
ギールはびくっとした。
「容赦ないぜ、あの人は。俺で我慢してってば。キミのためだよ、それが」
「なによ、あんたがその本人なんでしょ？ 殺すなら殺せばいいじゃない……どうせあたしはエルシリアの裏切り者だもんね。残念だけど、人質としては全然価値なんかないの。おあいにく様！」
「ナニ言ってんだよ、せっかく連れだしてやったのに。あのまま残していけば、逆にキミが殺されるかも知れないからってダンナが…………黙れ！」
ギールは表情を変えて押し黙った。
低い吐息が漏れる。気配が変わる。
さすがに二度目ともなると、少しは覚悟ができているかと思ったが、その変わり様を見るなり、冷や汗が噴き出した。
しばらくの間、デュゼナウはセレムの怯える様子を無表情に見下ろしていた。
ようやく、ぽつりと言う。
「自分の娘を囮にしてまで竜の書を守る、か。クレヴォーも宰相も、すました顔をして、とんだ食わせ者だな」
セレムは息を呑んだ。
自分の娘？
どういうことだろう？
その自問を見透かしてか、デュゼナウは皮肉に続けた。
「あの女侯爵、さぞ恨んでるだろうな。育ての親を殺されただけじゃなく、その実の娘が犯人に荷担しているんだからな」
嘲笑うような表情に、セレムは全身が震え出すのを感じた。敵の刺客の言うことなど、信じられるはずがない……信じる方がおかしい……でも、もし、本当だとすれば。
全てのつじつまが合う。
「嘘……！」
デュゼナウは何の加減もなく、セレムの胸を踏みにじった。肺の空気が全部押し出されるほどの苦痛に顔を歪め、悲鳴を上げる。
「口答えするな」
デュゼナウの目がふと瞬いた。
「……バクラントに来るか、死ぬか、決めろ」
「何……？」
「竜の書を手に入れる手伝いをするなら、しばらくは生かしておいてやってもいい。逆らえばあの女侯爵も殺す……でなければ、今、死ね」
答えられなかった。一瞬、頭の中を、寒気のする考えが駆けめぐった。
「どういう、こと……？」
「口答えするなと言ったはずだ」
デュゼナウは凄まじい勢いで剣を抜き放ち、セレムの喉元ちかくへと無造作に突き立てた。セレムは反射的に目を瞑り、顔を背けた。
身体が凍えきってこわばる。全身の重みが、容赦なく踏みつける足にかかっていた。
死にたかった。クレヴォー侯のお命を縮めた賊を牢から解き放った上に、人としての道からもはずれ、むざむざ人質となって生き長らえるなど、できるはずがない。死ねば、罪を償える──
でも、今死ねば、最悪の事態を招くかも知れない。ハダシュを手玉に取るほどの腕があるのなら、ラトゥースの命を奪うことなどたやすいだろう。
今、この男は『逆らえばあの女侯爵も』殺す、と言った。
すぐには殺さない、という約束の真意がどこにあるかはともかく、その条件はセレムにとって、藁にもすがるようなものだった。
「分かった、お願い……殺さないで」
セレムは涙混じりの固い声を作って言い返した。
「どうせもう、戻れないんだし……何でも言うこと聞く……だから……」
デュゼナウは軽蔑の表情を浮かべた。
「そうか」
苛立たしげに吐き捨てたかと思うと、デュゼナウは再度剣を突き下ろした。セレムは、呆然としたまま、身じろぎ一つしなかった。
むき出しの土に深々と切っ先がのめり込む。冷たさがわずかに手首をかすめていた。
ばらり、と綱が裂けて落ちた。
「下らない茶番は止せ」
デュゼナウは剣についた泥をぬぐって鞘に収めた。薄笑いが浮かんでいた。
「お前はそんな女じゃない」
「分かってるみたいな言い方しないで」
セレムは、赤い切り傷のついた手首をさすりながら体を起こした。
失ったすべてのものを取り戻す。そのためなら。
絶望を押し殺し、胸に決意をたぎらせ、ギールの顔をした敵を睨み付ける。
……いつか、必ず、絶対に。
出立の日、供もなく船着き場に現れたラトゥースは、出航の準備にあたふたする荷役夫たちの動きをじいっと見つめていた。彼らはもちろん、今朝の便にエルシリア侯と宰相が乗り込むことなど知りもしない。いつもと同じように下っ端を怒鳴りまくり、邪魔な荷物を蹴りまくり、投げまくっている。
「おはようございます」
静かな声が背中にかけられる。ラトゥースは振り返った。小さなリュック一つを背負った宰相が、古くさいマントを被って立っていた。
「お早いですね」
ラトゥースは陰鬱な感情をもみ消して微笑んだ。
「おはようございます。あれ、お一人ですか？ 宰相さまともあろうお方がお供の一人もないなんて」
「何しろ極秘ですからねえ」
ナーフィはにこにことした。
「さてと。あれ、まだ来てないのかな」
ラトゥースは眉をひそめた。
「なんだ、できるだけ少人数で行くんじゃなかったんですか？」
「いいえ、別に、そう言うわけでは……ああ、いたいた」
ナーフィは軽く手招いた。ラトゥースは振り向いて、そこに見慣れた、だがわずかに心痛む相手の顔を見つけ、唇を尖らせた。
「ハダシュ、何であんたが」
「知らねーよ」
ハダシュもまた、同じだった。あの時と比べ、何一つ変わりなく青ざめたラトゥースを前にして、思わず視線を逸らす。
「でかぶつ野郎が無罪放免だって言うからシャノアに帰るんだよ。こんなクソ寒いとこに長居するわきゃねえだろ。それをわざわざ同じ便に切符取りやがって、全くしち面倒くせえったら」
「いやあ偶然ですねえ」
ナーフィは手を差し出した。
「初めまして。ラトゥースどのからお話は伺ってます。私、ナーフィと申します」
ハダシュは鼻に皺を寄せた。
「何だてめえ。初めてじゃねえだろ、このクソ野郎！ すっ込んでろ！」
「うわ」
ナーフィは本気で噛みつかれるかと思い、あわてて手を引っ込めた。
「だめだよ」
ラトゥースはあわてて間に入った。
「お願いだから、失礼のないように頼むよ」
「失礼……？ 冗談じゃねえ、こいつのせいでお前が」
何かを言いかけようとしたハダシュの手を、ラトゥースがぐいと掴んだ。
「口を謹んで」
ナーフィは船を見やった。
「そろそろ乗船してもいいようですね」
「とぼけやがって」
ハダシュはじろりとナーフィを睨み付け、聞こえるように吐き捨てた。
ラトゥースは苦笑いを浮かべながら言った。
「何むきになってんの。もしかして妬いてる？」
「……」
「体動かしてるほうが楽なんだ。僕から連れてってくださるようお願いしたんだよ」
そう諭されてしまうと何も言い返せない。ハダシュは仕方なくラトゥースの後にくっついて船に乗り込んだ。腹立ち紛れに心にもないことを言う。
「……シャノアまでだからな、一緒に行ってやるのは。そこでおさらばだ」
「そのほうがいい」
ラトゥースは拍子抜けのする声で淡々と答えた。
ハダシュは舌打ちした。手の届かないもどかしさに苛立つ。なおいっそう腹が立つのは、どうにもならない自分の無力さだった。
ハージュからシャノアまで、あちこちの寄港地に立ち寄りながらゆったりと川を下りつづける船旅は、順調でさえあれば、二週間ほどで終わるはずだった。
だがもう三日も、途中の街で足止めを食っている。カネに目の眩んだ船長が、むりやり割り込んできた大量の荷物を引き受けたせいだった。
どうにかして積み込んでしまわないと、出発もできない。かといって莫大な報酬を無碍に断るなど思いもつかないらしい。ただ無益に、積んでは下ろし、下ろしては積み直し、やっぱりダメだ！ という堂々巡りばかりを繰り返している。
「うーん」
喫水線ギリギリの状態で、見るからに危うく傾いている船を見ながら、ナーフィは考え込んだ。
「一体何を考えてるんだか……あんなに載るわけないでしょうに」
「身分を明かして、やめさせましょうか」
ラトゥースも苦笑いをしていた。
「いや、それはちょっと」
ナーフィは照れた様子で頭に手をやった。
「ま、もう少し様子を見ますか。そんなに急ぐ旅でもないし」
「だってさ」
ラトゥースはむっつりしたハダシュを振り返って言った。
「遅くなるね。シャノアに着くの」
ハダシュは返事するのも嫌な様子でそっぽを向いた。タヌキ野郎にキツネ娘がくっついていては、腹立たしい事このうえなかった。
ナーフィはなだめるように微笑みかけ、軽く酒を飲む仕草をしてみせた。
「今夜も出発しないみたいだし、名物の焼きガニで一杯といきますか」
「いい加減にしろ」
頭の固い騎士どもと同行せずにすむのは願ったりかなったりだったが、このナーフィとか言う宰相がこれほど腹立たしいとは思わなかった。わざとらしい慇懃な態度は内に何を隠しているやら分からないし、それに、武術の心得もないふりをしているくせに、後に目でもあるのか、全く背後が取れない。本当にムカつく奴だ。
「飲んで来る」
「何だよ、みんなで行こうよ」
ラトゥースが引き留める。ハダシュはそっぽを向いた。
「冗談じゃねえ。女連れで花街うろつけるかってんだ」
真っ赤になって怒り出すかと思ったが、意外にもラトゥースは肩をすくめただけだった。ハダシュは本当にうんざりして、二人に背中を向けた。
「いいんですか？」
ナーフィは笑いながらハダシュの背中を指さした。
「怒ってますよ、あれはかなり」
「仕方ありません」
ラトゥースは微笑んだ。
「どうせシャノアで別れることになってますし」
それに、故なくエルシリアに縛り付けておくこともできないのだから、と心の中で続ける。
「それにしても、彼があの有名な殺し屋だったとはね」
ナーフィはため息のように言った。
「噂も当てになりませんね。その仕事は残忍にして冷酷、狙った獲物は必ず仕留める凄腕の殺し屋、でしたっけ……とても許されざる罪を犯した人間のようには見えませんがね。側にいる人の影響ですか？」
ほほえましい様子で笑う。ラトゥースはかぶりを振った。
「まさか」
「あの子も、己の出自を知っていれば愚かな真似をせずにすんだかもしれません」
ナーフィは荷物を背負いなおし、きびすを返した。
赤く染めたガラス越しに、淫猥な女の影が踊る。
どこからともなく、竪琴の素朴な音色が漏れ伝わってきた。やがてそれは、吹き鳴らされる指笛と、異様にうわずった喧噪へと転じていった。
街角に立つ女たちはどこも同じだ。もとの輪郭が分からないほど目元を黒く染め、薬に浸した煙草を吸いながら、酔った笑みをしどけなく向けてくる。それは、今となっては懐かしくさえある雰囲気だった。
ハダシュは、むしゃくしゃしながら飲み屋を探し歩いていた。あんまりいらいらしすぎて、甘くしなだれかかるような女たちの呼び声も耳に入らなかった。
シャノアで別れる別れるって、あの女、青い顔しやがって、そんなの放置できるわけが……。
ぐしゃぐしゃと髪を掻きむしる。気がつくと同じ場所を何度もぐるぐる歩き回っていた。
呼び込みの親父が不審そうに見ていた。まったく、あの女にはいらいらさせられる。どこかおかしいに違いない。
何かもう、全部が嫌になって、とにかく手近な店に転がり込んだ。視線がぱらつきながら突き刺さる。あまり羽振りのよい連中が集まる店ではなさそうだ。
入り口と店全体が見渡せる一番奥のカウンターに陣取り、憮然として頭を抱え込む。
「何、しましょ」
厚化粧のおばはんがくねくねと近づいてきた。
「ビール？ ハチミツ酒？」
「ビール」
どうせ酔えないと分かっている。とりあえず、のぼせてこんがらがった頭の中身を整理したかった。
「あらま、お兄さん、失恋でもしたのお～？」
冷やかしの言葉が、いきなり痛いところに突き刺さった。
「……」
「え、何？ あら、図星い？ 道理で不景気な顔してえ、やっぱカネの切れ目は縁の切れ目って、ねえ。男はカネよ、カネ！ 若いうちだけヨ、お兄さん、体力勝負なのは。分あってる？」
「るせえっつってんだよババア」
ハダシュは低く唸った。
「ぐたぐた話しかけてくんじゃねえ」
「おい」
ふいに肩を掴まれた。
「余所者が何……」
頭に昇った血が下がる間もなかった。
身に染みついた性か、掴まれたと同時に握った拳を背後に振り抜いていた。クマ並の体つきをしたひげもじゃ親父の耳に、手甲がヒットする。
思わずよろめく相手に、容赦ない渾身の掌底をひねり込んだ。
親父は頭からテーブルに突っ込み、ソースやら食べかけの皿やらを派手になぎ倒して吹っ飛んだ。
厚化粧が悲鳴を上げた。
「あんたあ！」
はっと我に返る。親父は目を白黒させながらのびていた。ハダシュはちらりと厚化粧を見やった。
「うちの人にあにすんのよう！ きいいいい！」
厚化粧はグラスを振りかぶりざまに投げつけた。ハダシュの耳元をかすめ飛んだグラスは、壁にぶつかって甲高く割れた。ひげもじゃの頭上に、きらめく鋭利な破片が散らばる。
厚化粧の顔色が変わった。
「避けんじゃないよ！」
目が血走っている。完全にイッてしまった顔だ。
こんなところで、くだらない大騒ぎを起こしたと知れたら……。
ラトゥースに怒られる。
ハダシュはあせって身を翻した。わめき声とともに、背後からナイフやフォークが雨あられと降り注いできた。どこまでも追いすがってくるのを振り切り、路地へ飛び込む。
ヒステリックに怒鳴り散らす声が近づいた。
「どこ行ったぁ～ッ！」
刃物を打ち合わせる狂気じみた音を響かせながら、厚化粧は路地を走り過ぎていった。気配が遠ざかる。ハダシュはげんなりして全身の力を抜き、ため息をついた。思わず苦笑いが漏れる。
これがいわゆる骨抜きにされた状態かもしれない、という馬鹿げた考えが頭をよぎった。シャノアにいた頃なら、少なくとも、一般人相手に背中を見せて逃げ出したりするようなことはなかった。
ハダシュはまた、ラトゥースのことをぼんやりと思った。
結局興ざめして、宿に戻る。
宿の二階、ラトゥースの部屋にはまだ、仄かな明かりがついていた。
斜めになった雨戸の隙間から動く影が見える。
外からのぞくつもりはなかったが、何となく窓の下に近づいた。ささやくような、独り言のようなつぶやきが聞こえた。異様な感覚に襲われて、耳をそばだてる。
それは、嗚咽だった。
まさかと思ったが、ラトゥースの声に違いなかった。
ハダシュは、聞いてはならないものを聞いたような気がして、思わずその場に立ちすくんだ。
翌朝になると、積み荷の問題は見事に解決していた。
荷主の老人が、どうやっても載らないのなら、かさばらない別の商品に替えてもいいと申し出てきたのである。船長は二つ返事でそちらを引き受け、さっそく町中に聞こえるような銅鑼で出航を知らせた。
船は今にも沈みそうに見えた。
桟橋に集まった乗客たちは驚きあきれ、口々に文句を垂れた。だがほかにどうしようもなく、しぶしぶ乗り込んでいく。
ラトゥースは、昨夜のことがまるで嘘だったかのように、いつも通りを装っていた。ハダシュはまた、目をそらした。
上っ面な微笑みなど、見たくもない。かと言って、必死に鎧う気持ちを突き崩すような真似もできなかった。どうしようもない無力感が胸をさいなむ。結局、何をしてやることもできず、このまま道を違えていくだけなのだろうか……。
いざ乗船という段になって、ナーフィはふと立ち止まった。ちらりと振り向いてハダシュを見つめる。
「何か感じませんか」
ハダシュは耳をすました。
「別に。何だ？」
「いや、ちょっと……」
その表情がみるみる曇っていく。
「臭いませんか……焦げるような……」
木造船に火は御法度だ。そんな臭いがすること自体、普通ではあり得ない。
ナーフィはデッキにいた船長を呼んだ。船長は忙しそうにあれこれ指示をしながら近寄ってきた。
「焦げるような臭いがしませんか？ 火の気があるのでは？」
「まさか……おいコラそこの、蹴飛ばしてんじゃねえオタンコナス！」
船長は桟橋に立ったままのナーフィを見下ろした。
「大事なお宝なんだからな！ ……で、乗るのか乗らないのか、どっちなんで」
「荷物を積み替えましたね」
要領を得ない船長の対応にも関わらず、ナーフィは辛抱強く訊いた。
「その中に発火しやすいものがあったのでは？ 一度船倉を調べてみられては？」
「心配性だね、あんたも。そんなことじゃあすぐに禿げちまうぜ？ 乗るんならとっとと……」
船長の声はそこで途切れた。
一瞬の後、凄まじい爆発が、船を紅蓮の炎と暗黒の煙に変えた。全身を切り裂く木切れの塊が、燃え上がる爆風にあおられ、人々を弾き飛ばす。
炎が真横に見えた。
ハダシュはとっさにラトゥースに飛びついた。
目の前が赤く染まる。
腕の中のラトゥースが、悲痛にハダシュの名を呼ばわるのが聞こえた。爆風が二人を吹っ飛ばし、地面に叩きつける。
絡み合ってもんどり打ったその背中を、火矢となって破裂する削片が次々に撃ち抜いた。
悲鳴が巻き起こる。
焼けちぎれたロープが鞭のようにしなって風を切った。斜めマストがめらめらと燃えながら折れて倒れ込み、白煙と水しぶきを上げて川面に突き立つ。
乗客たちは転がるようにデッキへ殺到し、むなしい助けを求めつつ、火にあおられて次々と川へ飛び込んだ。煙と流れにのまれ、みるみる見えなくなってゆく。
そして、もう一度。
跡形もなくなるほどの轟音とともに、船は激しい水柱をあげ、ばらばらに四散しつくした。
ラトゥースは、力無くずしりとのしかかるハダシュの身体を押しのけようとした。その手がなぜか、ぬるぬると滑る。
熱い。重い。息ができない。動けない。
頭が混乱して、何が起こったのかも分からなくなってくる。
伝わり聞こえる悲鳴や呻きでさえ、どこか遠い他人事のように思えた。
水蒸気と黒煙が入り交じって、半分砕けた桟橋をまだらに包み込んだ。ラトゥースはいがらっぽい空気に咳き込んだ。
「大丈夫ですか」
切羽詰まった声が聞こえた。
ふいに明るくなって視界が開けた。やっとハダシュが退いてくれた……のかと思い、ゆっくりと身を起こす。のぞき込むナーフィと目があった。
宰相は、黒こげになった板切れや荷物の残骸が下流へ流されていくのを、ささくれだった表情で示した。
次々に、やけどを負った人々が川から助け出されていく。だが、その救出作業さえも、速い流れに阻害され、ままならない。
「よかった、ご無事で」
煙を払いのける仕草をしつつ、微笑みを浮かべようとしたナーフィは、ふと顔を大きくゆがめ、腰のあたりを押さえた。
ラトゥースはぶるぶると震えはじめた。
「まさか……！」
「それより早く彼を」
ナーフィはハダシュのそばにかがみ込んだ。首筋に指先を当て、脈を取り、ちいさな安堵のため息を漏らす。
「大丈夫ですよ」
焼け付く痛みをこらえながら、ナーフィは竜の書の包みを取り出した。白い布をはだける。金色の輝きがこぼれ出た。
「上着を取って」
ラトゥースは、言われるままにハダシュのシャツを脱がそうとし、その下から現れた無惨な様子に息をすすり込んだ。赤黒く焼けただれた背中にはまだ、くすぶる木破片がいくつも突き立っている。
思わず、声を上げてすがりついた。
「……ハダシュ、やだ、そんな、ハダシュ……だめだよ……！」
名を呼ぶほかに、どうすればいいのかわからなかった。ハダシュはその声にわずかな反応を見せ、聞き取れない何かをつぶやいた。
「しっかりなさい！ あなたがそんな状態では誰一人助けられませんよ」
ナーフィが厳しい口調で叱りつけた。
「時間がないんだ」
言いながら、竜の書をばらばらのかけらに叩き割る。そのかけらを拾いあげ、動揺しきっているラトゥースに手渡した。
「これをすり合わせてつけて。落ち着いて、竜の霊薬を使えば、みんな助かります。時間は充分、間に合いま……」
ナーフィの目が陰鬱にきらめいた。
取り巻いた人だかりが、まっぷたつに割れていく。
余裕たっぷりに現れたバクラントの傭兵隊長は、勝利を確信した薄笑いを浮かべていた。
背後に、縛められてもいないのに、逃げる素振りすら見せない、沈み込んだ表情のセレムを従えて。
「セレム……どうして？」
ラトゥースは、信じられないという顔で呟いた。
デュゼナウはゆっくりと竜月刀を鞘走らせた。ぬめるような輝きが、その流麗な曲線に沿って白く波打った。そしてもう一本、細身のサーベルを逆手に抜く。
ナーフィはマントを脱ぎ捨て、腰に下げていたレイピアを抜いた。服の裾に、わずかな朱の色がにじんでいた。手を置き、表情を引きゆがめる。
「真剣なんて何年ぶりかな」
「禁呪を使え」
ギルベルト・デュゼナウの唇が皮肉に動いた。
ナーフィはきょとん、としてみせた。
「何のことでしょう」
「とぼけるな」
稲妻のような一撃が繰り出された。白刃のきらめきが弧を描き、空に唸る。ラトゥースは息をすすり込んだ。見えない……！
「何と、これは途轍もない。人間業とは思えませんね」
ナーフィはいつの間にか横に移動して、平然と冷や汗を拭いていた。
デュゼナウの表情が酷薄に移り変わる。
「ヒトじゃないのはどっちだ」
ナーフィは薄く笑った。
「何か誤解なさっておいでのようだ……あ、そっち、まだですか？」
顔こそ笑っているが、声には全くといっていいほど余裕がなかった。ちらちらと気がかりそうにハダシュを見ている。ラトゥースは我に返り、あわてて竜の角のかけらをこすり合わせた。さらさらの粉が傷に降りかかる。
その効果に、ラトゥースは思わず目を見張った。あれほど深く傷ついていたにもかかわらず、みるみる血が止まり、ふさがっていく。
「……うわ……」
ラトゥースの声に、ハダシュは突然、意識が引き戻されるのを感じた。と同時に、忘れていたいくつもの悽愴な記憶がよみがえってくる。
血と汗と饐えた臭い。闇は恐怖そのものだった。追われ、逃げまどい、おびえる心を必死で匿いながら、ナイフの感触だけにすがっていた……。
ハダシュは体をふるわせた。飛び起きようとして、痛みに呻く。今にも全身がはり裂け、バラバラにちぎれ飛びそうだ。薄皮一枚張り合わせただけの、懐かしく、危うい、絶望にも似た感覚。
見交わすラトゥースの目に、涙が浮かんでいた。
「う、動けるの……？」
「……るせえ、退け！ ぶっ殺してやる！」
「ハダシュ、無理だよ、そんな……」
ハダシュは猛獣のように唸り、目に殺気を血走らせて、ラトゥースの肩をつかみ背後へと押しやった。
「てめえはすっこんでろ。何もできねえくせに」
ラトゥースは、かすかによろめいた。
その隙に、デュゼナウの剣が凄まじい太刀風を巻き起こしてナーフィを襲った。レイピアはあっけなくぽきんと根本から折れ、空を舞った。
「おっさん、何やってんだ！」
ナーフィは駆け寄ってきたハダシュを振り返った。手を挙げてのんきに挨拶する。
「おっ、やっと戦線復帰ですか。それじゃ、後はお願いします」
「へっ？」
「剣がこれではちょっとね。さすがの私も手も足も出ない」
ナーフィは折れた剣を捨てて、にっこりと笑った。
「では、後方支援に回らせていただきます」
「おい、何だそれ。役立たずか、てめえ」
ふと、背後にラトゥースの気配を感じて振り向く。思わず舌打ちが漏れた。
「余計な手出しは無用だ」
吐き捨てようとしたハダシュの目の前で、ラトゥースは、澄み切った音を立てて剣を抜き払った。怒りにくるめく瞳が、真っ直ぐにセレムへと向けられている。
低く、押し殺した声が流れた。
「セレム……どういうつもり？ 本気でそんな男に……！」
「これを使え、セレム・フォーニア」
デュゼナウが口元を吊り上げつつ振り返って、サーベルを投げよこした。セレムは黙って剣を拾った。感触を確かめるかのように幾度か振ってみせる。
セレムは剣を構え、目を細めた。