和やかな暖炉の火。テーブルに並べられた五人分の食事。すきま風にゆらゆらたなびくろうそく。
痛いほどの静寂。
闇に隠れ、苦悶の形に掻きむしる指。生暖かく床に流れる赤ワインの色。飛び散った羽枕の中身が、波紋を広げながら、ふわふわと舞う。
ゆりかごから、ぽたり、またぽたりと、黒い滴が落ちる。
「ちょうどいい、食事にしよう」
獣の目を持った男が呟いた。後にいた黒衣の老人が舌打ちして答える。
「クレヴォーの娘はどうした。まだ泳がせているのか」
老人はテーブルにつき、パンを取って口に運んだ。
「まさかとは思うが」
「俺のやり方に口を出すな」
男は吸い込むようにワインを空けた。
「邪魔になればいつでも殺せる」
「二度とあんな失敗をするでない」
老人は呟いた。
「いつでも呼び覚ませるようにしておけとあれほど……」
「くどい」
男はテーブル上の料理をすべて、撫で斬るように払いのけた。食器が床に散乱し、粉々に砕け散る。
老人は、散らばった料理を不快そうに見渡した。
男は長椅子へうつり、かすかに笑ってから、壁にもたれて目を閉じた。
そして。
ギールが、目を覚ました。
寝返りを打とうとして、狭い長椅子から転げ落ちる。ギールはこっぴどくぶつけた頭をこすりながら、顔を上げた。
悪夢の情景が目に飛び込んだ。
凄まじく歪んだ表情で壁に叩きつけられている男。無惨に衣服を引き裂かれた女。うつぶせの老人。クッションに埋もれた小さな手足。
部屋中が、どす黒い。たちこめる臭いも、なにもかも。
意味をなさない声をもらし、よろめく。歯の根があわなかった。頭がおかしくなりそうだった。
記憶がジグザグに錯綜し、胸を突き刺した。
「ああ！」
ギールは泣き叫ぶ子供のような悲鳴をきしませ、小屋を這いずり出た。
下水路を跨ぐアーチ橋の下に逃げ込み、がちがちと震える。あれが現実の光景だということさえ信じられなかった。紫に変色した冷たい手で身体を抱きしめ、喘ぎをもらし、呻く。
けたたましい笑い声が脳裏に聞こえた。頬の肉がえぐれそうなほど顔を掴んでいたことに気付く。爪に血がべったりとついていた。笑っているのが自分なのか、それとも見ず知らずの誰かなのか区別が付かなかった。
記憶の底に、火の粉を噴き上げつつ崩れ落ちる城らしき建物が見えた。思わず頭を庇い込む。押しつぶされた胸が軋みをあげた。
嘲笑う誰かの声が、蛇の舌のように忍び込んだ。風景が不快にねじれ回り、げらげら笑いながら伸び縮んだ。
（……消えろ）
（壊れちまえ）
（お前なんか要らない）
無数の声が頭蓋内で反響しつづけていた。
心のどこかで、何かが、びしりと音を立てて割れた。
ギールは身体をよじらせ、狂ったように逃げ出した。絶叫がちぎれる。何度も何度も足をもつれさせて転倒し、そのたびに惨い擦り傷を増やしていった。自分でもどこへ向かっているのか分からなかった。誰でもいい。誰でもいいから助けて。恐い。怖い。こわい。助けて。いやだイヤだ嫌だイヤ……！
気が付くと、マイアトールの広場にいた。ギールは立ちつくし、また顔を掻きむしった。口の端の皮が剥がれた。血の泡と涎がまじり、だらだらと糸を引いてこぼれた。その姿でギールは泣き笑い、わめき、暴れた。
狂乱の悲鳴に衛兵が駆け寄ってきた。取り押さえようと手を伸ばしてくる。ギールはその指に噛みつき、肉を食いちぎり吐き捨てた。絶叫があがる。鉄錆の味にギールはまた泣き叫んだ。
凄まじい殴打が後頭部を襲った。身体が跳ね返る。ギールは昏倒し、血みどろの泡を吹いて手足を痙攣させた。
視界が真紅に染まった。
連絡を受け、セレムが駆けつけたとき、ギールはすでに気を失い、二目と見られない無惨な有様で囚われていた。どれほどの抵抗があったかは、敷き詰めた珊瑚の砂利に飛び散ったどす黒い血の量でわかる。一歩でも動けば心臓を槍で貫かれかねない、そんな極限にまで張り詰めた雰囲気が場を支配していた。
まだ朝早かったせいか、聖堂前の広場には衛兵以外誰もいなかった。湖からミルクのような霧が街に流れ込んでくる。曙光を含んだ空気全体が、ぼんやりとオレンジ色に輝いて見えた。吐く息が白く、立ちのぼる。手が凍え、かじかんで、動かない。
これが夢ならば、どんなにか良かったか。
セレムは呆然と思った。
ハダシュが見た、高札にこだわる巡礼というのは、おそらくこの男で間違いない。だが見たくなかった。認めたくなかった。
これが、ギール……？
セレムは心に浮かんだ名をただうつろに繰り返した。聖域で狂気をまき散らしたこの男が――
不敵に笑い、または計算高く取り澄ましてみせながら、鼻歌まじりに初めての唇を奪っていった……あの夜、噴水が照らし出す青いゆらゆらした光の中で、剣を捧げると言ってくれた――そのギールと同じ人間だなんて絶対、絶対に……！
セレムは涙を噛み殺し、目を上げて男を見つめた。
男は土気色の頬をし、全身に血を被って死んだように横たわっている。
バクラントの刺客ギルベルト・デュゼナウ、〈黒の騎兵〉の首領を仮にも名乗るのであれば、こうもやすやす捕らわれて半死半生の目に遭わされるなど、あまりにも不様で似つかわしくなかった。
もしかしたら、これら全ては罠なのかもしれない。バクラントとエルシリアを敵対させ、王国を混乱と陰謀に巻き込むための捨て駒として利用された可能性もある。実は本物のデュゼナウがどこかにいて、今も虎視眈々と国家転覆の機会を狙って……。
セレムはそこにわずかな希望の隘路を見いだそうとし、逆にどうしようもない絶望を味わった。そんなことはあり得なかった。事実を受け入れるしかないのだ。それがどんなに苦しい現実であったとしても。
やがて、面通しのためにたたき起こされたのか、猛烈に不機嫌そうな顔をしたハダシュが、バーナムとシェイルに伴われてやってきた。ハダシュは近づいてくるなり呟いた。
「こいつだ」
その直後、自分に視線が集中するのを感じて、セレムは息を呑んだ。
証言すれば、拷問と取り調べによる残酷な死が待っていると分かっている。
「どうだ」
バーナムの問いに、セレムは悲痛な声をしぼり出した。
「こんなの……ギールじゃ……」
「別人なのか」
バーナムが険しい目で畳みかける。セレムは握りしめた手を目に押し当て、唇を食いしめて全身をわななかせた。
「いいえ」
絶望が気力を奪っていた。もう、逃げられなかった。
「ギールです。間違いありません」
「よし、デュゼナウだ。引っ立てろ」
シェイルが衛兵たちに命令を下す。セレムはごみのように引きずられていくギールをいまにもはりさけそうな目で見送った。 認めてしまった。あの男がギールだと。セレム以外の誰にもギールかどうか分からないはずなのに、認めてしまった。
きっとあの男は死ぬ。全身の生皮を剥がされ、目を焼き焦がされくり抜かれ、指を一本ずつ切り落とされて。
なぜ、認めてしまったのだろう。なぜ。
気を失いそうな自らを押さえつけ、支えようとしたとき、投げやりなハダシュの声が聞こえた。
「せいぜい気をつけるがいいさ、焦って殺しちまわねえようにな」
ハダシュは役人への侮蔑もあらわに笑った。
「殺すのは簡単だが、それだけではすまないときもある」
バーナムが低く恫喝する。ハダシュはそれを無視し、きびすをかえそうとしてふと動きを止めた。陰鬱にセレムを見つめる。セレムは身体をふるわせた。気付かずに流れた涙が頬を濡らしていた。
バーナムもまた、セレムの涙に気付いた。険しい目が複雑な心境にゆれる父親のまなざしに転じていく。だが声を掛けることはなかった。バーナムは国家に忠誠を表すほか心の裡をさらけだすすべを知らぬ不器用な男だった。
ギールが混濁の意識に呑まれていることは、誰の目にも明らかだった。尋問しようにも、その唇から漏れるのは悲鳴か戯れ言だけ。手のつけようがなかった。
セレムは絶望にさいなまれ続けていた。ギールの姿を見るのも厭わしかった。本人の口から真実を聞き出すことだけが願いだったのに、もう、それすらかなわない。
だが、気がつくと、セレムは独房の前に立つようになっていた。
看守が付きっきりで見張っている。セレムはランプを上げて、独房の中を照らし出した。
箱を並べただけのベッドに、饐えた臭いのする毛布一枚を被って、ぶつぶつ虚ろに呟いている男の姿が浮かび上がった。二重の檻が、複雑な形の影を引き延ばす。
ギルベルト・デュゼナウ。セレムの中で、許されざる思いが暗く渦を巻く。
敵でもいい。バクラントの刺客だというのなら、それでもいい。 せめて、あのときのギールに戻って、返事をしてくれさえすれば。そうすれば、あきらめられる。自分の愚かさを見つめ直せる。
セレムは鉄格子を掴み、身体をあずけて、あふれそうになる涙をこらえた。
「……けてくれ」
突然、かすれた声が聞こえた。
「れ、じゃない。おれ、じゃ」
だがそれはすぐに、意味のない呟きにかき消されて聞こえなくなった。セレムは鉄格子にしがみついて息を呑んだ。ギールは毛布を頭にかぶったまま、下卑た笑い声をあげ身体を揺すった。左の手が下履きの中に潜り込んで、なにやらまさぐっている。腐った魚のような目があらぬ方向を見ていた。セレムは鉄格子を激しく揺すぶった。
「ギール、やめて！ 聞こえてるんでしょ！ 目を覚まして、何でもいいから返事して……返事をしてよ！」
「だ、だめです！」
看守があわてて制止に入った。セレムは鉄格子から引き離されながらも、ギールが何か理解したような素振りでも見せやしないかと、すがるように見入り続けた。
「だめですよ、めちゃくちゃに暴れることもあるんですから」
看守は、檻の中のギールをまるで野獣か何かのように言って、セレムを押し戻そうとした。
そのとき、ギールがゆっくりと顔を上げてセレムを見た。その目が、にやりと笑み崩れる。左手の動きが、止まった。
突然、苦悶の絶叫が迸った。壊れたマリオネットのように全身をのけぞらせ、なまぐさく汚れた手で自分の喉を締め、顔を掻きむしり、おかしくなりそうな悲鳴を上げて、ベッドに頭を叩きつける。看守もセレムも、気を呑まれて後ずさった。
体を縛める鉄の鎖を引きちぎらんばかりにして吠え、壁に爪を立て、頭を何度も叩きつける。額が割れ、朱に染まった。
ギールは意識を失って、床に崩れ落ちた。
セレムは立っていられず、その場にへたり込んだ。見ていられなかった。胸がつぶれて、ぎりぎりと締め上げられるように痛くなった。
意識を取り戻したギールが、よろよろとベッドに這い登った。犬のように繋がれた首枷をはずそうとしては咳き込んでいる。セレムはその様子をひたすら見つめ続けた。
ふと。
ギールの目に理性が揺り戻ってきたような、そんな気がした。濁って宙をさまようだけだった黒い瞳に、ランプの光とセレムの姿が小さく写り込んでいる。開ききっていた瞳孔が、すうっと細くなった。
焦点があった。視線が絡み合う。ほんの一瞬交わり、行き過ぎて、漂いながら、また戻ってくる。
ギールは長い吐息をこぼした。
「誰……」
今にも消え入りそうな声で呟く。
セレムは息をすすり込んだ。
ギールは立ち上がろうとして鎖に引き戻され、よろめく。ギールはもどかしげに手を差しのべ、食い入るようにセレムを見つめながら、何度もあえいだ。
「知ってる……」
先ほど打ち付けた額の傷から、涙のような血が幾筋も流れ落ちていた。凄まじい形相の中で、声だけがすがるように響いた。
「お前は……誰だ……？ 俺の……何だったんだ？」
「父上を呼んできて！」
セレムは看守に向かって叫んだ。看守が泡を食って地下牢を飛び出していく。
その瞬間を見計らって、セレムは銃を抜いた。
「クレヴォーさまの仇！」
腕が震えて、止まらない。
引き金を引く、ただそれだけのことなのに。憎々しい笑顔も、鼻血を垂らしながら逃げ回るおどけた姿も、何もかも真っ黒に塗り込めて忘れてしまいたかった。
ギールは苦しげに胸を押さえた。
「……かたき？」
「とぼけるなっ！」
セレムは悲鳴を上げて引き金を引いた。地下牢じゅうに轟音が響き渡った。反動で飛ばされ、後の壁にぶつかる。思わず銃を取り落とした。心を押しつぶす、鈍い轢音がした。
弾はまるで見当違いの方向へ飛んでいた。
駆け込んできたバーナムがセレムを引きずり起こし、銃をつかみ取った。弾も火薬も一発分しか入っていないことを確認する。
バーナムは思わず安堵の吐息を漏らして、ベルトに差し込んだ。
「もう、この男に関わるんじゃない」
そう言ってバーナムは、セレムを階段側へ押しやった。
セレムは自分の無力さ、愚かさ、情けなさに声を上げて泣いていた。
どうせ壊れるのなら、そのままでいて欲しかった。戻るのなら、真実を認めて欲しかった。
こんな中途半端に忘れられてしまうほど、自分は、取るに足らない存在でしかなかったのか……！
ギールの眼がセレムを求め、そして、伏せられていく。バーナムは憎々し気に呟いた。
「こやつはバクラント傭兵軍団〈黒の騎兵〉の首領だ。国王陛下のお命を狙うためにお前に近づき、欺き、クレヴォー閣下を……」
「……違う」
低い声が漏れた。確信に満ちた否定。
「俺じゃない」
「だれか、火を持ってこい」
バーナム・フォーニアはぞっとする口調で言った。
「思い出せないと言うのなら、貴様がリンウッド卿にしたことをそっくり真似てやる」
セレムは悲鳴を啜り込んだ。
「父上ッ！」
あわてて止めようとするのを、誰かがぐいと引き戻した。セレムは振り払おうとして、それがシェイルの手だと気付き、凍り付いた。
シェイルの目もまた、焦燥に燃え立たんばかりだった。セレムの気持ちよりも何よりも、クレヴォー侯を殺めラトゥースを蟄居の身に追いやった犯人を、何が何でも暴き立てずにはおれぬ、そんな顔だった。
「セレムを連れ出せ」
バーナムが冷ややかに命じる。セレムは呼びたくても呼べない名を喉から出かかるまで膨らませ、そのまま、引きずられるように階段まで連れて行かれた。
目の前のドアが閉じられる。何も聞こえなくなる。
聞こえるはずのない叫び声が聞こえたような気がした。
ラ・フォーニアへ帰る……一週間後、セレムはそう言い残してハージュを去った。
バーナムは、エルシリア侯殺害だけでなく、バクラントの傭兵であることさえも認めないギールの口を割らせることにかかりきりになっていて、娘の気持ちにはまったく注意を払わなかった。
馬はどこへ行けとも指示されないまま、ただ森を道なりに歩いていた。背に乗せた主が低くむせび泣き始めるのに気付いて心配そうに立ち止まり、振り向く。
馬は人の心を読む、賢い動物だ。何が主の心を痛ませているのかは分からないまでも、その悲しみを受け止めることはできる。セレムは愛馬の気持ちに気付いて、安心させようと首筋を叩いてやった。
ふらりと身体が傾く。目の前が暗くなった。
気がつくと、地面に寝っ転がっていた。どうやら落馬したらしい。
しばらくの間体を動かさず、じっと眩暈が取れるのを待つ。
落ち葉が弧を描いて流れ散っていった。森全体が、ときおり吹きつける突風に巻き上げられ、唸りをあげてしなり返る。
セレムは両手で顔を覆った。あれからずっと眠れなかったから、たぶん疲れがたまっているのだろう。
少し休むことにして、道ばたに腰を下ろす。
水筒の蓋を開け、包みをほどいた。威勢のいい食堂のおばちゃんに、押しつけられるようにして持たされたものだ。
いつものセレムなら、よだれが止まらない逸品に見えた。焦げ目のついた骨付きのソーセージを、特大のパンケーキで丸め込んでいる。小瓶に入ったマスタードまで添えられてあった。
しかしどうしても食べる気にはなれなかった。包みを横に置いてため息をつく。
（俺じゃない……それは、俺じゃない）
あのときの言葉が、遅効性の毒となってじわじわと胸を蝕んでいく。
そうだ。ギールがあんなこと、するはずない。捕まったときのあいつは、もう、ぼろぼろだった。自分で自分のしたことが全然分かってなかった。あれは、きっと、何かの病気みたいなものなんだ。突然、ほんの少し思い出しかけただけなんだ。そのギールに、クレヴォーさまを殺せるはずがない……。
「どうかなされたかな、騎士どの」
セレムは顔を上げた。白いひげを蓄えた柔和な老人が立っていた。襟元に毛皮をまき、藍色のマントを身につけている。
「あ、いえ……」
老人は驚いたように白眉を上げた。
「これは失礼を申し上げた、レディ」
「いいえ」
「どこか、お悪いところでも」
セレムの顔を見て、老人は心配そうに訊いた。
「あなたは？」
セレムは逆に尋ねた。老人はちらりと左右を見渡し、マントの下をごそごそとして、不思議な紋章を刻んだ薬入れを取り出した。
「巡回医師のエリオネスと申す」
「お医者さまでしたか」
老人は薄笑いを浮かべた。
「どこかお悪いようなら、これを」
言いながら、薬入れから白い紙に包んだ粉薬を取り出す。セレムはかぶりを振った。
「お会いしたばかりの方から、そのようなもの戴くわけには参りません」
たったそれだけの会話をかわすだけで眩暈がした。
老人は爪の先ほどの小さなかけらをちらりと見せた。金色に輝いている。
「これは竜の角と呼ばれる薬です」
それとよく似た何かを、どこかで見たような気がした。
「万能の霊薬と言われております。ご存じですか」
「いえ……」
疲れと絶望が、セレムから猜疑心を奪っていた。老人はゆっくりと続けた。
「どのような傷病にもたちどころに効くとのこと」
胸が熱くなる。
「どんな……？」
なぜだろう。その老人には全てを話せるような、そんな気がした。セレムはもし迷惑でなければ一つ尋ねたい、と言った。老人は穏和に頷いた。
誰かに聞いてもらいたかっただけなのかも知れない。エルシリアの人間はみんなギールを犯人だと思っている。もし違っていたとしても、たかが傭兵一人。クレヴォー侯のようにはいかない。急がないと、本当に……。
セレムは、老人にギールのことを打ち明けた。
「恐ろしい出来事にあったりすると、心が壊れてしまうことがあると聞きます」
老人はいかにも医者らしく、淡々と答えた。
「治りますか」
「それは周囲の受け止め方一つです。診て差し上げましょうか？」
セレムはかぶりを振った。
「それには及びません」
老人は小さく頷いた。
「見守ることが大切です。何かのお役に立つでしょう。どうぞこれはお持ちになってください。服用すれば、効き目はゆっくりですが、内外の疾患すべてに効きます」
セレムは思いに沈んだ。気がつくと、老人の姿はすでになかった。手に黄金の薬包が残っている。
「竜の角……？」
もしそれが本当なら、ギールの病気を治せる。本当のことも分かる。
バクラント門外不出の竜の角。
セレムには、老人がなぜそんなものを持っているのか、その理由を疑うだけの判断力さえ残っていなかった。薬を握りしめているだけで、張りつめていた糸がほどけていきそうな、そんな気がした。
目を閉じる。安心すると、久しぶりに少し眠りたくなった。
夜を待って、セレムはナイツの公館に戻った。当直の兵士たちに忘れ物をしたと嘘をつき、部屋を探すふりをして、密かに地下牢へ忍び込む。自分でも何をやろうとしているのか分からなかった。
看守は二人。槍を持ち、ランプを赤々と照らして、牢の中の囚人を睨み続けている。
わずかなうめき声が聞こえた。セレムは身を竦ませた。ギールの声だ。
腰の剣を確かめる。
心を決めた。
ゆっくりと鉄格子の扉を叩く。看守が振り向いた。
「あ、セレムさん……どうかなさったので？」
セレムは扉を通り抜けて後ろ手に閉め、覗き戸をふさいだ。
「どう？」
「あの、何か……」
「白状したかどうか訊いてんのよ」
セレムは声を低め、冷酷に呟いた。
「バクラントの刺客だという証拠はまだ挙がらないの？」
「あの、はい、いいえ、まだです」
看守たちはうろたえて答えた。
「口の堅いヤツで……どんなに痛めつけても、知らないの一点張りで」
セレムはちらりと牢内に目をやった。暗闇につるされたままの姿が見える。
「そう」
セレムは感情のない声を返した。
「いい加減、認めればいいのに」
そうすれば、こんな姿になることもなかったのに。
剣に手を掛けた。
銀の刃が、ランプの色をぎらりと映り込ませて鞘走った。
看守は剣の背で頸動脈を打たれ、声もなく吹っ飛んだ。手にしていた槍が床に倒れかかる。
もう一人も、セレムの目にすくみ上がった瞬間、柄の握りを喉もと深くに突き込まれていた。
思ったよりあっけなかった。
ギールをつるしたロープが、錆びた軋みを上げて揺れている。
セレムは、意識をなくして横たわる二人の看守の懐を探り、鍵の束を引きずり出した。どれがどの鍵やら分からないほど大量にある。
セレムは一本一本合わせていき、ようやく一つ目の戸を突破した。続いて二つ目。こちらは数合わせのシリンダー錠になっていた。
低く舌打ちし、一番上の桁をゆっくりと回し始める。
「とめろ」
突然、ギールが呟いた。セレムは顔を上げた。
逆らう気にはなれなかった。今まで何度となく聞いた鍵の回るかすかな音とタイミングで、あたりの数字を感じ取っていたに違いない。最後の桁もそれでぴたりと合った。セレムは唇を噛んだ。たかが森賊に、そんな芸当のできようはずもない。
「何しに来た」
「殺しに来たのよ」
セレムは剣を抜いてギールの喉に這わせた。
「このあたしを騙した……あんたの不様な様子を笑うついでにね」
「お前……」
ギールはうつろに呟いた。
「どうして俺を……」
「聞きたいことがある」
セレムは滑車をつなぎ止めるくさびを蹴り飛ばした。磔にされた体が崩れ落ち、上半身を固定する十字の枷が壁にぶつかった。ギールは、連日の取り調べで受けた酷いほどの傷に呻いた。
「どうしてラ・フォーニアの村に来たの」
「……」
「何でリンウッドのいちごマシュマロを黒焼きにしたの」
「……」
「どうして悪霊憑きのふりしてまで捕まったのよ」
「……」
「答えて！」
ギールは赤黒く腫れ上がった顔をセレムへ向けた。セレムはポケットの中の薬包をぐっと握りつぶした。
「本当のこと教えて。あんたが、バクラントの傭兵だって……あたしのこと騙して、ハージュに入り込むために仕組んだことで、あの時のことも何もかも、全部嘘っぱちだったって……そうすれば、もう、ひと思いに……こんな目に遭わなくてすむようにしてあげるから」
絶望的な声が反響する。水滴の滲み入る音が聞こえた。
ランプから焦げ臭い煙が立ちのぼった。炎が揺れる。
ゆらめいては重なりあう濃淡の闇が、いくつも壁に浮かび上がった。
ギールは力なく首を振った。
「……自分が何をしてるか、分かってんのか？」
「うるさい、答えろ！」
セレムは剣の腹をぴたりと喉へ押し当て、わずかに皮一枚を引いて脅しつけた。だが、どんなに強がっても、悲壮な響きが入り混じる声、ためらいをあらわに震えつづける手を隠す通すことはできなかった。
ギールはセレムの目を覗き込んだ。
日々受け続ける苦痛さえ、ともすれば鈍くしか感じられないというのに。なぜか分からないが、目の前にいる、あまりにも愚かで無謀なこの女へと、魂ごと吸い寄せられていくような気がした。
「何で……」
ギールは、どこかに置き忘れてきたものを必死で探し求めながら、呻いた。
胸が騒ぐ。この娘の顔。声。口調。知っているはずなのに、分からない。
なぜ、こんなに自分を憎むのだろう……。
深奥に潜む何かを探り当てる。触れた瞬間、破裂してしまいそうなあやうい血腫……いつだったか、これと同じ思いを抱いたことがある……。そうだ、あのときも、目の前にこの娘がいた……。
かすかな記憶が、寄せては引く波に乗っておぼろげな形を成した。
「……あ……」
ギールは歯を食いしばり、肩で息をした。頭の奥に、ぎらぎらした光が走った。血を吐くような光景が浮かんでは切り替わり、その度に凄まじい現実味を帯びてのしかかってきた。
その全てから逃げていたことに気付く。
ずっと、目を背けてきた。次、逃げたら、もう、戻れない。
「そうか……ラ・フォーニア……」
ギールは喘ぎながら、バクラントの言葉で呟いた。セレムは聞きとがめ、身をこわばらせて、血に汚れた体を抱き起こそうとした。
ギールはくすんだ目をセレムに向けた。
「セレム、戻れ……でないと……」
「ギール！」
セレムは、こみ上げる思いを御すこともできず、ポケットの薬をつかみだしていた。
これさえ飲めば、もしかしたら、全てが良くなるかもしれない。
ギール、いや、ギルベルト・デュゼナウがクレヴォー侯殺害の嫌疑をかけられていることも、ラ・フォーニアで隣村のせがれを襲ったことも、その目的が国王暗殺であるかもしれないことなども、すべて意識から弾かれていた。
かつての面影を一瞬でも取り戻したというだけで、矢も楯もたまらずにすがりつく。
それは、追いつめられた者特有の、藁をも掴む愚かな思い込みだった。
ギールの目に必死の色が浮かんだ。セレムは何も気付かず、口に薬を振り入れた。ギールは咽せながらも飲み下し、ようやく正気を取り戻して長い息をついた。
セレムはギールを縛る綱を切り飛ばし、剣を放り出して、倒れかかる体を受け止めた。
「大丈夫、ねえ、薬、効いてる……？」
「ああ」
ギールは熱にうなされたような吐息を漏らし、力なく頷いた。
「……じーさんがうまくやってくれたみたいだナ。まったく、一時はどうなることかと思ったよ」
その言葉に、微妙な違和感を覚える。ギールは笑っていた。
「セレム、だっけね」
細いその体を抱きしめ、耳元でささやく。
「ありがとさん。後でお礼に抱いてやるよ」
「何、何言ってんの！」
ギールの腕に力が入る。容赦ない力に、全身ひねりつぶされそうだ。
セレムは首筋へ吹きかかる熱い息に竦み上がった。
頬からあごへと降りる指先が、つかず離れず、愛しげに喉を這いつたう。唇が耳朶に触れた。皮肉な囁きが滑り込んでくる。
「だって、それが、キミの望みだったんだろ……？」
あまりにも執拗なその冷たさに、体がぶるぶると震えた。身動き一つできない。
突然、ギールはセレムを突き飛ばした。手で顔を引き剥がさんばかりに掴み、全身を反り返らせ、長く引き延ばした呻吟を漏らす。指の間からのぞく目が、セレムを突き刺すように燃えていた。
「嫌だ……やめろ……」
その喉から、搾り尽くされるような叫びがほとばしる。
「やめてくれ！」
一瞬後、凍り付いた静寂が二人を取り巻いた。
ギールはゆっくりと手をはなした。
無言のまま床に転がる剣を拾い上げ、薄笑いを浮かべてセレムを見やる。
その眼を見たとたん、セレムは、心臓を氷の手で握りつぶされるのを感じた。
声が出ない。
息もできない。
何が起こったのかも分からなかった。
闇にゆらめく鬼火、哀れな獲物を見下ろすときの、血に飢えた表情。
蛇に似た、かすれた呼気が、地下牢を異様に満たしている。
……別人が、そこにいた。
翌朝、見張りの交代に来た兵士は、血の海に足を滑らせた。
無惨に打ち捨てられた看守たちの遺体を踏み越える足跡が階段まで続く。開け放たれた扉の向こうに、無人の牢獄だけがあった。
走りついた血をぬぐい取って書かれたものか、壁にぞっとする血文字が残されていた。
（竜の書を持ってシャノアへ来い。さもなくば娘を殺す）
兵士はすべてを悟って、青ざめた。