船着き場に降りてきた四人は、人の流れに逆らうこともできず、そのまま大通りにまで流された。巡礼たちを率いる旅行業者が、〈ハージュ大聖堂巡礼行ご一同さま〉の三角旗を振りながら、迷子になったらしい誰かの名を必死で呼ばわっている。
素っ頓狂な声が響いた。
「うひゃあ、あいかわらず、すごいね」
「ベイツ、荷物を運んでおいてくれ」
人混みから頭一つ飛び出して見える大柄な騎士が、両手にトランク、背中にリュック、両肩に袈裟懸けの袋を下げた中年男に命じる。
「うええ、ワシ一人で？」
中年男は酒に焼けた赤い顔をくしゃくしゃにして文句を垂れた。大柄な騎士は首をねじ曲げて違う方向を振り向いた。
「ハダシュ、手伝ってやれ」
少し離れて立っていた赤毛の若者は、わざと聞こえないふりをして、あさっての方角を向いた。
「荷物なんて後でいいよ」
男装した金髪の娘がしかつめらしく言った。それから若者の腕を掴んで引っ張り寄せ、ひそひそと耳打ちする。
「それよりもさハダシュ、何だったら僕が街をあちこち案内してあげ……」
ハダシュは鼻の先でフン、とせせら笑った。
「別に、案内してくれなんて頼んだ覚えはねえ」
「そんなこと言わないでさあ。ね、一緒に行こうよ。せっかく来たんだから。用事が済んだら、またすぐシャノアにとんぼ返りなんだよ。あちこち見て回るのも悪くはないだろ？」
エルシリア侯姫、ラトゥース・ド・クレヴォー。国王暗殺を目論んだ刺客〈バクラントの黒い薔薇〉の計画を阻止した王国巡察使である。
ラトゥースは、懐かしそうに両手を広げ、しっとりと冷たい川辺の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ううううううーん！ 懐かしいぞーっ！ 我がふるさと、ハージュによーこそー！ ってな感じ？」
「ばかに寒いな。背筋にゾクゾクきやがる」
ハダシュは聞いていなかった。
「……ド田舎だし」
「う、ヤなヤツ」
ラトゥースは鼻を鳴らした。
「ねえ、シェイル。僕ちょっと手紙を届けに大聖堂に寄ってくから、先にナイツの公館で待っててくんない？ あとでバーナムのトコにも顔出すからって言っといて」
そうと聞いて、騎士は遠慮がちに聞き返した。
「お屋敷には？」
「どうせ会えないんだ」
謀反の疑いありとして蟄居を命じられた義父、クレヴォー侯とは、たとえ家族であっても面会が許されていなかった。明るかったラトゥースの表情に、ほんのわずか、暗い陰がさす。
「それまでは帰らないと誓ったろ」
「さようで。では……」
騎士シェイルはじろりとハダシュを睨み付けた。
「くれぐれも逃げられぬよう」
ハダシュは肩をすくめた。
「よし、行こ」
ラトゥースは楽しそうに言い、ハダシュの腕に手を絡ませた。ハダシュはむっとしてその手を振りほどいた。
「ベタベタすんな」
「あ、照れてる？」
「お前なあ……！」
「誰も見てないよ、ね、ね？」
「うっせえ、寄ってくんじゃねえよ……コラ、触んなって言ってん……」
先ほどの巡礼ツアーも、ちょうど移動を開始するところだった。ラトゥースは強引にハダシュを引っ張ると、黄色い衣を腰に巻いた一団の最後尾にくっついて歩きながら、添乗員の観光案内に耳をすませた。
「ほら、あれ。見えるだろ」
「ん」
「ハージュの大聖堂が一番大きくて歴史もあるんだ。何しろお膝元だから」
「ああ」
「巡礼の数もすごいんだ。シャノアの聖堂もけっこう大きいけど、こっちはもっとスゴイよ。本山だからね。毎年、新年の聖ヌルヴァーナ祭には何十万人とお参りの人が来てね……」
「フン」
「人の話聞いてる？」
「へえ」
「……もういい……」
巡礼一行と共に大聖堂にやってきた二人は、手近な神官を捕まえて手紙を渡すと、巡礼でごった返す広場に戻ってきた。
広場のところどころに、マイアトールの象徴である太陽の木が植えられ、風が吹き巻くごとに、黄金色に色づいた細かい落ち葉が流れ散っていく。足下の落ち葉が、さくさくと乾いた音を立てて割れた。
「ありゃ何だ？」
ハダシュは、木の根本に数人の兵士が集まっているのをめざとく見つけて、あごをしゃくった。
「見よ見よ」
ラトゥースは好奇心丸出しで駆けだした。
兵士たちは地面に杭を打ち、高札を掲げる作業を終え、その出来映えを眺めていたところだった。そこへラトゥースが頭を突っ込む。
「ナニナニ、リンウッド子爵トゥール卿殺害未遂の罪、かあ」
恥ずかし気もなく、大声で読み始める。
「事件が多いなあ、だめだ、こんなことじゃあ」
リンウッド村とラ・フォーニア村の間の森にて、リンウッド子爵トゥール襲わる。下手人の名はギール、ラ・フォーニアの従卒。黒髪黒眼、体躯よし。悪剣に長け、眼光鋭し……依然逃亡中にて、見つけたるものは番所まで届け出ること。
「トゥール……えっと、誰だっけ……ああ、あのぽっちゃりキノコか」
ラトゥースは引き出されてきた古い記憶に自ら苦笑した。
「それにしても貴族を襲うなんて大胆不敵な賊だな。あれっ、でも待てよ、ラ・フォーニアってセレムんとこ……あらららら、大変だ」
「悪い癖、出してんじゃねえぞ」
ハダシュは陰鬱に言った。
「面倒はごめんだからな」
「え」
ラトゥースは振り向いた。
「そっか、ここで点数を稼いでおけば、クレヴォー家再興の道が近づくかも」
「いいかげんに……」
ハダシュは突然口をつぐんだ。ラトゥースはキョトンとした。
「へ？」
「動くな」
やがて、ハダシュはゆっくりと息を吐いた。何事もなく行き交う巡礼たちの流れを、ぼんやりと見やる。
「臭いがした。誰かが見てた……俺たちを」
「えへへ」
ラトゥースはにんまりとした。
「もしかして、美女と野獣で不釣り合いだなあとか思われてたりして」
「あぁ？ バカかてめえは……」
ハダシュは回りを見渡した。軽口を叩いてみせたものの、さきほど感じた視線の鋭さときたら、まったく尋常ではなかった。
何かを感じる。それは、かつて殺し屋だった男の直感だった。
「なるべく一人でうろつかないほうがいい」
「何言ってんの。大げさなんだから」
ラトゥースは苦笑いした。
「ここはシャノアじゃない。ハージュだよ？ 都なんだよ？ 平和なんだよ？」
「田舎に帰って頭のネジが弛んでんじゃねえのか」
ハダシュはげんなりした口調で言い返した。
「とにかく気を付けろ。あとでデカブツにくどくど言われるのは我慢がならねえ」
「分かったよぅ……でもねえ、それぐらいちゃんと気をつけてるよ～だ！」
ラトゥースは人目も気にせず、思いっきり顔をしかめて、あっかんべーをした。悪くない顔かたちがどろんこ細工のように崩れる。
ハダシュはため息をついた。こんな女がエルシリア侯姫なのかと思うと、他人事ながら領民どもが哀れになってくる。
ラトゥースは頭の上で手を組んではすっぱに言った。
「あー、でも何だかくたびれちゃったなー……」
ハダシュは最悪な気分になって答えた。
「何抜かしやがる。冗談じゃねえ。てめえのお守りさせられるほうが、よっぽどうんざりするってんだよ」
湖のほとりをのんびりと歩く。吹き渡ってくる風は冷たかったが、日差しはぽかぽかとして気持ちよかった。
途中、屋根無しの軽馬車が止まっている。少年のような顔立ちをした騎士が、ラトゥースたちを見つめていた。
「知り合いか？」
ハダシュは立ち止まった。騎士は馬車から飛び降り、軽く敬礼した。
「分かんない。誰だろ……？」
ラトゥースは騎士に近づいていった。
「ラトゥースさま、お帰りなさいませ。お待ち申し上げておりました」
騎士の口から流れ出たのは、明るい少女の声だった。
ラトゥースは目をぱちくりとさせた。
「……セレム・フォーニア？」
騎士はぱっと頬を染めた。
「は、はい！」
上から下まで、まじまじとその姿を見つめながら、ラトゥースは感嘆したように言った。
「うわあ、ひっさしぶりぃ！ 元気？ でも変わったねえ、どおしたの、その髪の毛！」
「ええと、そのう……」
「でもすごく似合ってるよ、カワイイ！ まさかセレムが迎えに来てくれるなんて……もしかして、ナイツになる夢が叶った？」
「あ、いえ」
セレムはかぶりを振った。
「そうじゃなくて、ちょっと問題が……」
ラトゥースは、口を濁す友達の様子に異変を感じ取った。
「あ……もしかして、あの高札のことか」
「すみません、詳しいことは父が申し上げると思います」
セレムがちらりと視線を走らせる。ハダシュは視線に気付き、不快感をあらわに目をそらした。
「で、フォーニアの誰が領主に何したって？」
ラトゥースは馬車に乗り込みながら尋ねた。
「その犯人を追っかけてるんだ」
「はい」
セレムは馬に軽く鞭をあてた。馬車はゴトゴトとはねながら、ゆっくりと走り出した。
「でも、ハージュに高札立ててどうすんの？ こっちに逃げてきてんの？」
「あ、あの……」
それ以上は声にならない。ラトゥースは驚いて、御者席についたセレムの背中を後からさすった。
「ごめん。大丈夫……？」
「すみません」
セレムは目をこすった。馬車はヴァンシアン・ナイツの公館に滑り込み、玄関前で止まった。バーナム・フォーニアとシェイルが出迎えに現れた。
「お帰りなさいませ、ラトゥース姫。さ、お疲れでしょう、中へ」
「バーナム、先に話を聞かせてくれない？」
ラトゥースは馬車から飛び降り、剣を外してシェイルに預けた。
「聖堂で高札を見たよ」
「どうぞこちらへ」
バーナムは中へ案内しようとして、ハダシュに目を留めた。ハダシュはよそ者扱いにいい加減うんざりし、立ち止まった。
「聖堂に戻る」
「え？」
「さっきのあれが気になる」
ラトゥースは唇を尖らせた。
「そんなのあとにしたら？」
「いちいち命令すんじゃねえ、うっとおしい」
ハダシュは、ふらりと背を向けて立ち去った。バーナムが苦々しくハダシュを見送る。
「何者ですか、あの男は」
ラトゥースが答える前に、シェイルは咳払いして口を挟んだ。
「腕の立つ男です。〈黒薔薇〉を追いつめることができたのは、あの男の力があればこそでした」
ラトゥースはシェイルを見上げ、輝く微笑みを浮かべた。シェイルがハダシュを認めていることを表立って口にするのは初めてのことだ。
だがシェイル自身はラトゥースに注がれたセレムの強いまなざしに気付いて口の端を引き締めた。セレムは動揺し、目を伏せた。
「そうですか。ならばいいが……あまり素性の明らかではない人間を側に置かれるのはどうかと思いまして」
応接室の長椅子にそれぞれ腰を下ろすと、バーナムは詳しい説明を始めた。
こわばった顔で大筋を聞き終えたラトゥースは、かすかに眉をひそめてシェイルを見、呟いた。
「竜の書？ そんなもの、父上が……セレムに？」
■
耳元を、氷のような風が吹き抜けた。乾いた風が路上の埃を散らし、帰りを急ぐ人々の襟元をかき合わせる。
ギールは広大な広場の隅を伝い歩きながら、巡礼のマントを堅く巻き付けた。だが、いくら吹き込む風を避けようとも、体の奥底にまでしみこんでくる空虚さからは逃れようがない。
自分でも、なぜこんなことになっているのか分からなかった。
このところ、何回も経験している感触だった。フォーニア騎士伯が倒れていく姿に怯え、逃げ出したところまでは覚えている。それから、どこをどう辿ってハージュの都まで来てしまったのか……。気がつくと、巡礼の装いをし、大聖堂広場にちぢこまっていた。
全身が痺れている。ギールは手で眼をこすろうとして、我に返った。
血。
心臓が止まりそうだった。思わず、汚れた手を抱え込むようにして隠す。
とらえどころのない恐怖が、じわりとよじ登ってきた。
残照を背にした大聖堂が、影絵のように茜の空をくっきりと黒く切り抜いている。鳥の群が、隊列を組んで山の方角へ戻っていく。
寒い。
ギールはふと、高札の前で立ち止まった。書かれてある文章を、指でたどるようにして読む。しかし、どんなに頭を働かせても理解できなかった。
「リュ……イウー……？」
「リンウッド」
ふいに後から声がした。
「おっさん、字が読めねえのか？」
ギールはのろのろと振り向いた。赤い色が眼に飛び込む。思わず悲鳴を上げた。
風が、相手の髪をすくい上げるように吹き付けている。ギールは恐怖に駆られ、転がるように逃げ出した。後を追ってきた赤毛の男が、ぐいと手首を掴んだ。
「待てよ、逃げなくても……」
男の手を振りちぎり、つんのめりながら、さらに逃げる。幸いなことに、男はそれ以上追って来なかった。
路地に飛び込んで、ぜえぜえ言う。
（悲鳴）
何がどうなって逃げなければならないのかさえ、分からなかった。ギールは絞り出すようなうめき声をあげた。
（焦げる臭い）
身の竦む記憶が、雷鳴のように揺り戻されてくる。だが、それは逆に、はめ込んだパズルの断片がぼろぼろと剥げ落ちていくようにも思えた。
通りのほうから足音が近づいてきた。毛皮を首に巻いた老人だ。杖をつく、こつこつという音が、路地へさしかかったとたん土に吸い込まれて、聞こえなくなる。
喉の奥が熱い。
（アー・エル）
何度となく口にした名前。
黒衣の老人は、すれ違いざまにささやいた。
「巡察使が戻ってきた」
それ以上は聞き取れなかった。そのまま立ち止まりもせず、闇へ吸い込まれるように消えていく。
眼の奥が、ズキズキと張り裂けそうなほどに痛んだ。足をもつれさせ、つんのめりながら、大きく息を啜り込んで頭を抱え込む。
激痛から逃れようと、無意識のうちに、壁へ頭を打ち付けた。
血飛沫が飛んだ。
ギールは額を蒼血に染めながらよろめき、その場にくずおれた。
エルシリア侯クレヴォーの居城。
侯が現在暮らすこの古い平城は、主の蟄居を受けて、門を外から材木で堅く打ち付けられ、堀を埋められた無防備な状況で、放置されていた。
屋敷にいるのはエルシリア侯と、身の回りの世話をする老人だけだった。
かつては国王の信頼厚く、よい領主として知られていた。まだまだ不安定なところもある王国を、根本から支える屋台骨としての役割を十分果たしていると自負していた。
あの時までは。
いや、今も思いは同じだ。王国お膝元のエルシリアが不穏になれば、いくら国を統一した王家であっても、その政治的な手腕を疑われ、内外から揺さぶられる。だからこそ、重荷と知りつつ、娘に全てを託して、こんな古城に引きこもりながら、じっと待っていたのだった。
生き恥をさらそうとも、真実ではない罪を被って死ぬわけにはいかなかった。諸領から有能な騎士を集め、王直属の騎士団ヴァンシアン・ナイツとして組織したのは、たとえエルシリアが倒壊しても、国王、そして宰相より密かに預かった〈あの品〉を守るため……。
その在処を秘密にし続けるためにも、波風を立ててはならない。このまま、疑いが晴れる時を待つしかない。
誰もいない城に、吹き荒れる風のすさびが吹き込んできた。暖炉にくべた薪が明るくはぜる。
エルシリア侯クレヴォーは、車椅子を暖炉脇へ動かし、背当てにもたれて目を閉じた。古傷がじくじくと痛みを増していく。
「なるほど、みじめな暮らしというのは本当のようだな」
床が鳴った。
「主以外、誰一人いない城とは」
エルシリア侯は車椅子を回した。ろうそくのほのかな明かりに黒衣が浮き上がる。刺客は眼だけを出した頭巾をかぶり、かなり重たそうな金属音を滑らせて、ゆっくりと抜刀した。
「バクラントの竜月刀だな」
独特な形に反り返る刃身を見てエルシリア侯は低く呟いた。
「それで私を斬れば、切り口からバクラントの手の者の仕業と知れよう」
「鍵を返してもらいに来た」
刺客は皮肉な口調で言った。
「竜の書はどこだ」
「そのような物は知らぬ」
エルシリア侯は即座に答えた。刺客は闇の中でにやりと笑った。
「なるほど、しょせんは我が国から略奪した代物だからな。そう答えるしかなかろうさ」
暖炉脇にあるガラス戸棚に近づく。その中には、過去の武勲を讃える飾り帯に彩られた古い槍が納められていた。
「……まさか本物が偽物を掴まされていたとはな。とすると、やはり偽者が……二人とも殺してみるか」
エルシリア侯は顔色一つ変えなかった。刺客はガラスを破り、槍を取り出した。手触りと重みを確かめるように、軽く振ってみる。
「死ぬ前に、名を聞かせてもらえないか」
エルシリア侯は残していく娘たちに降りかかるかもしれない殺意のことを思って、苦悩の吐息をもらした。刺客は低く含み笑った。
「地獄で昔話をしても仕方あるまい」
エルシリア侯は、刺客がわずかに視線を逸らした瞬間を狙って車椅子を突進させた。隠し刀を振りかぶり、斬りかかる。刃が刺客の右腕をかすめた。
だが、それだけだった。
エルシリア侯の肺臓を貫いた槍が、その体を車椅子に縫い止めた。車椅子は音を立てて倒れ、ばらばらに壊れて、侯の身体を投げ出した。
黒衣の刺客は斬られた腕を見下ろし、伝う血を振り払って頭巾をはぎ取った。
苦々しい表情があらわになった。
気を鎮め、低い、かすれた呼吸をゆっくりと繰り返しながら、エルシリア侯が息絶えていく様子を見つめる。
やがて刺客は、死体の虚ろな目に見守られながら、壁に張り渡された飾り布を引きちぎり、火のついたろうそくを押し倒した。火はじりじりと黒ずみを広げ、やがて、煙を上げながらカーペットに燃え移った。
その知らせは、翌日未明にハージュへともたらされた。
寝静まった時刻にも関わらず、バーナムがラトゥースの部屋のドアを叩き、押し迫った声で事実を告げる。開けられずにいたままのドアを隔て、眠そうに応対していた声が、エルシリア侯暗殺の一言に凍り付いた。
「ラトゥース姫……？」
心配したバーナムが再度、声をかける。
一瞬が永劫にも思える沈黙が続いた後、小さなため息が聞こえた。おそらくそれまで、息をすることさえできずにいたのだろう。
「……わかりました」
気丈に見せかけた声が、震えながら応じた。
「すぐにそちらへ行きます」
エルシリア侯の死は、内外に動揺をもって伝えられた。しかし蟄居の身であったことから、葬儀を公に行うことは許されなかった。参列したのはわずかな親族と、近く仕えた数名のみだった。
ラトゥースはエルシリア侯を叙位するよう命ぜられる。しかしそれは、蟄居の身分を引き継ぐことに等しかった。
「偶然なんかじゃない」
最悪の夜が明け、黒に身を包んだラトゥースは、やつれ果てた顔で呟いた。
「あの家にはいつでも忍び込めた。父上は足がお悪かった……わざとだ。わざと、僕を……」
ハダシュは苦悩するラトゥースを見つめた。ラトゥースは椅子に腰掛け、両手を結んで額に押し当てて、じっと動かない。
「……バカだ、僕は、やっぱり」
やがて低い声が漏れた。もう、泣いてさえいない。
「何も分からないくせに巡察使だなんて言って、正義だ法だって理想論ばっかり振りかざして」
喉の奥から押し出される、ぎらりとした声色。聞いている方がずっと胸を締め付けられてくる。
「……やっと分かったよ。人を殺してやりたいっていう気持ち」
結んだ手の甲にぎりぎりと爪が食い込んで、赤く、白く鬱血している。その視線も、床の一点に見入ったまま、微動だにしない。
「ラトゥースさま……」
開けはなったままの入り口にセレムが姿を見せた。中に入ってこようとして、張り詰めた気配に思わず立ち止まる。ラトゥースに、まったく気付く様子はなかった。
「許さない……許せない」
「クレヴォー」
ハダシュは見かねて声を掛けた。ラトゥースは、ようやくはっと我に返った。
「セレム、来てたのか」
「ラトゥースさま……あの……」
セレムもまた、蒼白だった。
「申し訳ありません、申し訳……！」
セレムはラトゥースの前に身を投げ出し、床に額をすりつけんばかりに膝をついた。
「セレムが謝ることはない。まだ誰がやったとも分かってないのに。ほら、顔を上げて」
ラトゥースは椅子から立って、セレムの上体を起こさせようとした。
「すみません……あたしが……あたしがあんな……！」
セレムは涙ぐんで抗った。
ラトゥースはポケットから王国巡察使のメダルを引っぱり出した。そこに刻まれた紋章を見つめ、唇を噛む。
「……僕にはもう、資格がない」
メダルをセレムの手に握らせる。
「エルシリア侯ラトゥース・ド・クレヴォーの名において、ラ・フォーニアの騎士セレム・フォーニアを王国巡察使の後任に申しつける。あとで宰相閣下に認証してもらって」
「はっ……はい……でも、どうして……」
「自分の手で犯人を殺してやりたいと思う人間に、こんな大事なお役目、勤められるわけない」
ラトゥースはざんぱらに切ったセレムの髪をなでた。
「僕のことは気にしないで。父はマイアトールに召された。これからは神の御元で、お心安らかに見守って下さる。だから泣く事なんて、ないんだ」
「ラトゥースさま……」
ラトゥースは、震えはじめたセレムの背中を軽く叩いて、抱き寄せた。
「ラ・フォーニアの女ガキ大将が、そんなメソメソでどうする？ ほら、しっかりして、自分の正しいと信じる方法で解決して。ハダシュを貸してあげるから」
「何っ」
ハダシュは唇を歪めたが、先ほどまでのラトゥースの具合を思うと、怒鳴りつけることもできなかった。
「人をモノみたいに……」
「頼む」
ラトゥースは真っ直ぐにハダシュを見上げた。
「僕の、最後の頼みだ」