ギールは虚ろな眼差しを闇に投げかけた。まるで手負いのけものに成り果てたかのようだった。息を殺し、ほんの少しの音、自らの影にさえ怯え、頭の中でぐるぐると声がねじれるのを聞いている。
刺すように輝く月。密告のささやきに似た星の散らばり。
深く茂った草が身をよじり、悲痛な音を立てた。
なぜ、逃げたのだろう。
あのままセレムの剣を身に受けてしまえば、全ての後悔から逃れられたものを。
ギールは棒のようになった足を止め、道ばたの岩に腰を下ろした。
自分はまっとうな人間になれたと信じていた。
領主の孫娘を口説きたらし込んで、あわよくば婿養子に潜り込んでやろうとか、金目のものがあればかっぱらって逃げだそうとか、そういうことを少しでも思わなかったと言えば嘘になる。そもそも屋敷に潜り込んだのは、それが目的だったからだ。
しかし、いろいろな思惑があったにしろ、森賊から足を洗わせてくれたフォーニアには紛れもない恩義を感じていたはずだった。そのきっかけを作ってくれたセレムにも。……いや、待て、違う……。
違う？
ぐらりと夜が揺れる。”何”が違うというのか。
ギールは眼を押し開いた。心臓が乱れ打った。
「なぜ、逃げる」
低い、暗い声が聞こえた。声は巧妙にギールの耳へ滑り込んだ。
「元に戻れないのか」
「アー・エル」
その名前は、唇にくさびを打ち込むように、むりやりねじ開けられ、絞り出されたものだった。
「使命を果たせ」
呪詛にも似た呟きが毒となって耳に滴り落ちる。
「エルシリア侯が蟄居の身である今をおいて他に、好機はあり得ぬはず」
「嘘だ」
ギールは血を吐くような声で呻いた。
「どうして俺が……」
「デュゼナウ」
有無を言わさぬ声だった。
「竜の書に関わる者は、一族に至るまで、すべて、殺せ」
暗闇から突風が吹きつけた。
灯りをいくつもかかげ、騒々しく進んでいた隊列が中程から突然崩れた。荷駄の車を引いていた男が声もなく道ばたの茂みへと倒れ込む。
悲鳴が転がり出た。
「どうしたっ？」
護衛の兵がたいまつをかざし、闇に潜む何者かの姿を照らし出そうとした。
事態を見極められず、列のあちこちからざわめきが起こった。たいまつがいくつも差し付けられる。
森の中に、男の暗い姿が浮かび上がった。
「何者だ、貴様……？」
引き延ばされた影が四方へ伸びる。
薄汚れたマントを頭から被り、蛇の威嚇音のような息を漏らしながら立ちつくす男。手にした曲刀が、たいまつの色を吸って血の色に輝く。
「領主を出せ」
マントの男は不自然にしわがれた声で呟いた。頭巾の下の眼が鬼火のようにちらついている。
騎兵が列の先端から駆け戻ってきて、剣を振り上げた。男のマントが翻る。幽鬼のような姿が空中に跳ね上がった。
何が起こったのか分からなかった。
他の者が我に返ったとき、騎兵は馬から振り落とされ、背中から地面に叩きつけられていた。その脇に、根本から切り飛ばされた腕がどさりと落ちる。恐ろしい絶叫が響き渡った。
男は流れるように走り、暗闇と炎をすり抜けて馬車の扉に手を掛けた。護衛の兵のことなど気にもかけず、無造作に扉を開け放つ。
反対側の扉から、転がり落ちるように領主とその息子が逃れ出た。マントの男はそのまま中をくぐり抜けて後を追った。
息子は木の根に足を取られ、草むらに突っ伏してもがいた。ぷくぷくした顔を青ざめさせて、泣きわめく。
「ひいー、何すんだよう、お前え！」
「剣を取れ」
マントの男はわずかに見え隠れする口の端をつり上げた。切っ先をゆらゆらと振ってみせる。
そうしながら、背後に迫る兵の動きに目をやった。
「あわてるな」
ぎりっと奥歯を噛み軋らせる。
「ゆっくり殺してやる」
言うなり、ずぶりと剣を太股に突き刺す。領主の息子は信じられないほど大きな悲鳴を上げた。マントの男は残酷な笑い声を立て、わざと抉るように引き抜いた。
「お、お、お前は……さっきの……！」
リンウッドの領主は、息子の泣きわめく姿に、木の後から顔だけのぞかせて地団駄を踏んだ。
「ど、ど、どういうつもりっ？ 逆恨みならお門違いよ！ うちのトゥールが何したって……」
男は落ちていたたいまつを拾いあげた。乱れた前髪が男の顔に暗い陰をさす。
領主の息子は失禁しかけていた。焼けそうなほど火を寄せられて眼を開け、ずるずると後ずさる。その顔は涙と涎でべとべとだった。
「た、たしけてえ……セレムしゃぁん……ママンっ……」
領主の息子の目が大きく血走った。マントの男は、燃えさかるたいまつを頬に思い切り押しつけた。誰もが目を背けた。
地獄の底まで届きそうな絶叫が、氷のように冷たい風と共に舞った。
■
「東北に乱気の卦……」
隠者の衣をまとっていても、その穏やかな物腰まで覆い隠すことはできなかった。ほっそりした指先が水盤の上を走る。
「まさか、ラ・フォーニアじゃねえだろうな」
黒髪を短く刈り込んだ、目つきの鋭い男が、腕組みをしたまま応じた。
暗い部屋にろうそくが燃え、本でいっぱいの棚を浮かび上がらせる。テーブルの上には見慣れない文字でぎっしりと書かれたメモや、定規で引いた図面などが散らかって、たった今までそれを書きつけていたらしい羽根ペンもまた、インク壺に刺さったままになっていた。
男は部屋の中を歩き回った。隠者はかすかに笑って、フードを滑り落とした。
「何うろうろしてるんです、兄上？ 国王陛下ともあろうお方がクマじゃあるまいし……情けない」
「うるさい、この鉄面皮野郎」
男はむっつりして言い返した。
「よくない兆しが出てるってのに、ゾッとしねえでいられるかよ」
「たかが占いじゃないですか。こんなもの真に受けてどうします」
「何か悪い気配がするって言いだしたのはそっちだろうが。そこらの占い師が口から出まかせを抜かすのとは次元が違う……」
隠者はくすくすと笑って指を組み合わせた。
「それはどうも。では、ナイツの主だったものたちを集めますか？ 今の状況ではエルシリアの兵力もあてにできませんしね」
「ああくそ、分かってる」
男は苛立たしげに呟いた。
「クレヴォーを陥れたのが何者かさえ掴めたら……」
「巡察使どのがお戻りになれば、少しは分かるでしょう。〈黒薔薇〉の件はとりあえず片づいたとの報告が入ってます。成果はともかく、一度戻るようにと返事を出しておきました」
「そうか」
男の目が、再び鋭く変わった。
「エルシリア侯に罪をおっかぶせて内紛を起こさせようって魂胆……これ以上踊らされてたまるかってんだ」
王国の首都、ハージュ。
同時に、国を支える屋台骨、領邦エルシリアの都でもある。
この都はもともと、太陽神マイアトール大聖堂の門前町だった。湖畔に面するハージュの大聖堂は、その古い歴史によるだけでなく、繊細で優美な美しさを併せ持つ一級の建築物としても、その名が知れ渡っている。
だが、一歩路地に踏み込むと、そこは、ごく普通の人々が賑やかに生活する、庶民の世界だった。
秩序なく増殖した町特有の入り組んだ路地、無数の分かれ道は、不慣れな者ならたちどころに迷ってしまうだろう。少し広い道には車道が設けられ、とりどりの装いをした人々や、荷車などが行き交っている。
セレム・フォーニアは、跳ね上げた泥を被った姿のまま、街の人々や巡礼たちに向かって道をあけるよう怒鳴りつつ、大通りを馬で駆け抜けた。
マイアトール大聖堂の反対側、街全体を見下ろす丘の頂上には、幾重にも稜堡に取り巻かれた王国の城が壮麗に築かれている。
セレムは城へは向かわず、ヴァンシアン・ナイツの公館めざして、ひたすらに湖畔を走る。
父親のバーナム・フォーニアは、エルシリア侯クレヴォーに仕えながら、王を守るヴァンシアン・ナイツの一員として、その任についている。国王みずからの手で“王国の騎士”に叙せられ、剣を授けられる名誉は、他の何にも代え難く、誇らしいことだった。
ようやくナイツの公館に駆け込む。
セレムは改めて自分の薄汚れた姿に気後れしながらも、馬を飛び降り、衛兵にあれこれ説明した。
衛兵はセレムの様子が尋常ではないことに気付き、繁雑な手続きをすべて飛ばして、バーナム・フォーニアと連絡を取ってくれた。だがバーナムは今、国王に呼ばれて登城しており、戻るのはいつになるか分からないと言う。
セレムはしばらくの間、応接室で待っていたが、やがて部屋に兵士がやってきて、バーナムからの伝言、王城で待っているのでそちらまで来るようにということを伝えた。
セレムは少しうろたえた。
いくらなんでもこんな格好で登城するのは気が引けた。だが、事は急を要する。物怖じしている場合ではなかった。礼を言ってナイツの公館を後にし、再び馬を駆って王城へと向かう。
近づくにつれ、セレムは、この城が普段見慣れたような城ではないことに気付いた。
田舎の城はがっちりした石積みで、外周に水壕を巡らせ、隅塔を城壁で結ぶ形が普通だ。それが伝統だったし、セレム自身、そういう城でなければならないと思っていた。
だが、ハージュの城は違う。まず、城壁がなかった。
いや、あることはある。中腹を削るように作られた段状の中庭そのものが、幾重にも重なった外郭となっているのだ。セレムが街から見上げて城だと思ったものは、稜堡の重なり合った部分にすぎなかった。
突堤を横目に坂を上っていく。
途中、誰何を受け、名乗る。どうやら話が通っているようで、警備兵は城の入り口まで案内してくれた。
鮮やかな赤と白の軍服を着た衛兵が、銃剣のついたマスケット銃をかついで立っている。
衛兵は、見るからに胡散臭い格好をしたセレムへ、じろりと疑いの目を向けた。
「何者だ」
連れてきてくれた警備兵が代わって答える。
「フォーニア閣下へ、火急の件にて伝令だそうです」
「下馬」
衛兵は尊大に言った。
と、そのとき、衛兵たちは突然、直立不動の姿勢をとり、敬礼をしたまま動かなくなった。運の悪いことに、チャカつく馬を押さえていたセレムは、状況の変化に気付かなかった。
「バーナムの娘ってのはあんたか？」
声がする方向に振り返ると、馬鹿でかい男が立っていた。短く刈り込んだ黒い髪、腰にはちょっとばかり高そうな装飾のついた剣を帯びている。
「そーだけど」
「ちょうどよかった。俺もバーナムに呼ばれてるんだ。お前、城は初めてだろ」
セレムは頷いた。
「案内してやる」
「おじさん、誰？」
セレムは疑わしそうに尋ねた。
「あたし、本当に急いでんだけど」
「抜け道がある」
男はにやりと笑ってセレムを促した。
「ついてこい」
ほかに案内してくれそうな人もいないので、セレムは仕方なく男についていった。
少し歩くだけで、セレムにも、この男が城ではなかなかの有名人らしいということが分かってきた。すれ違う兵士たちが、みな最敬礼をしていく。男はそれに、いちいち手を挙げたり、「よっ」とか言ったりして応じていた。
セレムはめずらしく閃いて、男の横に並んで歩きながら、その顔をのぞき込んだ。
「ね、ねえ、おじさん、もしかしてナイツの人？」
「俺がか？」
男は声を上げて笑った。
「違う、違う」
「なーんだ」
セレムはがっかりしてそっぽを向いた。
「ナイツの関係者だったら、裏口入隊の推薦状、書いてもらうんだったのになあ」
「バーナムはナイツの重騎兵隊長だろうが」
「だって頭かたいんだもん、あのバカオヤジ」
セレムの声にぼやきが混じる。
「女には無理だ！ そんだけ。話になんない。そりゃあたしだってね、あんな古くさい甲冑着て槍振り回すってのはヤだけどさあ。でもほら、玄関で立ってた兵隊の人が持ってるみたいなマスケットだったら何とか使えそうじゃない？」
「女を直に戦わせる国なんてねえよ」
「それじゃあラトゥースさまは？ お殿さまがあんなになってんの、何とかしようって、必死で頑張ってらっしゃるのに。だからあたしも……」
男はセレムをまじまじと見下ろした。
「……ラ・フォーニアで何があった？」
その一言で、セレムは、張りつめる気持ちを押さえつけていた蝶番が、飛び散って壊れそうになるのを感じた。
「何かあったなんてもんじゃ……」
泣きそうになるのを必死でこらえる。
「とにかく、父上に会わなきゃ」
セレムは見ず知らずの男の前で泣くわけにはいかないと思い、気を取り直した。
「ちょっと、どこ行ってんの。ここどこ？ ぜんぜん分かんないんだけど？」
城の内部に入ってからは、自分がどこを歩いているのか、全く分からなくなっていた。一般の兵士が出入りできるような場所ではない。足下に敷き詰められたカーペットには塵ひとつ落ちておらず、なおかつ、やたらとふかふかだ。
「だから案内してやってんだよ」
「ちょっと贅沢すぎない？ いくら王様だからって、こんな贅沢して喜んでるとか、さすがにちょっとどうかと思うわ。ねえ？」
「まったくだな」
「でしょ？ 父上は仕事だからともかくとして、こんなところでふんぞり返ってる国王さまのお顔を見てみたいわ。まったく……」
「着いたぜ、ここだ」
セレムのおしゃべりをさえぎって男は立ち止まった。ノックもせずにドアを開ける。そこは陽光のふんだんに差し込む、明るい、そして広い部屋だった。誰か来るのを待っていた先客が、そろって振り向いた。
「父上！」
セレムはその中にバーナム・フォーニアの顔を認めて、中に駆け込んだ。男を振り返る。
「案内、ありがと。助かったわ」
「おう」
男はにんまりと笑った。
部屋にいたのは、バーナム・フォーニアを含め三人。一人は黄色いケープを肩に掛けたマイアトールの神官でかなりの老齢、そしてもう一人は、目立たない茶色のマントをまとった金髪の男だった。
「遅いぞ、ジャド」
マイアトールの神官がぽつりと言った。それを受けて、金髪の男も咎めるように言った。
「陛下、どちらにおられたのです。ティベルド師には、ご無理申し上げてお時間を戴いているのに」
「セレム」
セレムの父、バーナムはなぜか青くなっていた。
「お前、まさか……」
セレムはきょとんとして、男を振り返った。
男はずかずかと部屋を横切り、丸テーブルを囲む椅子にどすん、と腰を下ろした。
「俺が案内してきた。入り口でもめると面倒だからな。すまん、遅くなって」
「も、も、申し訳ございません陛下！」
バーナム・フォーニアは平伏しようとして、ぽかんとした顔のセレムをあわてて押さえつけた。
「お前もあやまるのだ！」
「何で？ あたし、別に何も悪いこと……」
「まあまあ」
茶色のマントを着た若い方の男が、苦笑しつつ間に割って入った。
「バーナム殿、どうかお気になさらず。どうやら兄の悪ふざけが過ぎたようです」
「滅相もございません、閣下。陛下の御前だというのに」
「へーか？ へー……」
セレムの頭の中で、その単語の意味がゆっくりと形をなす。
「陛下？ って、もしかして国王陛下っていうときの、陛下？」
「その陛下だ、控えろ！」
バーナムは苦虫をかみつぶしたような顔で叱りつけた。
「あ」
セレムは少し、考えた。そう言えばみんな、やたらとしゃちほこばって敬礼してたような気が。もしかしたら、かなり失礼なことを申し上げてしまったような気が。
「えーと……」
「構わねえから、置いとけ。どうせお飾りなんだからな」
国王は白い歯をのぞかせて、にやにやと笑った。
平謝りに謝ったあと、セレムはなぜか、その場に居合わせた全員の前で、フォーニア村での出来事を説明させられる羽目になった。ギールのこと、捕らえたガンズという男のことを、つっかえながら話す。
フォーニア騎士伯が瀕死の重傷を負ったと聞いて、バーナムは眉間に皺を寄せた。
茶色のマントを着た男は、名をナーフィと名乗った。これっぽっちも似ていないくせに、国王ジャドの弟で宰相を務めているという。もう一人、マイアトールの老神官はティベルドと言い、ハージュ大聖堂の館主を務めているとのことだった。
セレムは疑いの目で宰相や国王を見た。こんなに若い宰相なんて聞いたことがない。自分ごときがあれこれいうのもおこがましいが、こんな若すぎる人たちが国のトップで大丈夫なのだろうか。
どうせならティベルド師のような人が宰相を務めてくれている方が、見た目安心なんだけど、などと人ごとのように思う。
いろいろと考えていると、宰相が質問してきた。
「その刺客たちについて、他に何か気のついたことはありませんか」
大体のことは説明し終えていたが、セレムにとっても何が何だか分からない出来事であったため、思い出せることは本当に少なかった。
「ええと……」
「たとえば、どこの手の者か、とか」
記憶をたぐる。ガンズとかいう男は傭兵のようだったし、名前も本当かどうか分からなかった。だが突然、記憶が鮮明になって目の前が開けた。
「あのう、関係ないかもしれないんですけど、竜の書がどうのこうの……」
「ん？」
ナーフィは眼を細めた。
「そう言えば、ラトゥースどのも竜毒のことを言っていましたね」
沈黙が落ちる。
エルシリア侯姫ラトゥース・ド・クレヴォーは、刺客〈黒薔薇〉の策略により謀反の疑いをかけられたエルシリア侯に代わって、その行方を追っていた。報告によると、〈黒薔薇〉は竜の毒を使い、国王を暗殺する計画を立てていたらしい。そして、毒の元になる霊薬を産するのは、バクラントという国だけなのである。
セレムは肩をふるわせた。まさか、やはり……思わず、ぎゅっと目をつぶり、両手の拳を握りしめる。
その様子を国王が見つめていた。
「しかし、そのギールという男が直接手を下したわけじゃないんだろう？」
セレムは涙を見られたと気付いて、あわてて鼻をこすり上げた。
「え、はい、そうです」
ジャドは遠い記憶を探るように呟いた。
「竜の書か。バクラントが……だな」
「頭からそうと決めてかかるわけには参りませんが……とにかく、逃げた男を捜したほうがよさそうです」
宰相は、碧眼を陰鬱にひからせて答えた。
一方、バーナム・フォーニアには、娘の気持ちを思えばどんなに言いにくくとも、騎士としての責務から、どうしても言わなければならないことがあった。
「分かってるな、セレム」
次に来る言葉は分かっている。セレムは肩をこわばらせた。
「もしギールという男がバクラントの刺客ならば、斬るぞ」
「分かってます」
セレムはうなずいた。
「あたしも、あいつを許す気は……」
控えめなノックがあった。伝令の書を持った兵士が入ってきて、バーナムに小さな書きつけを渡した。バーナムはちらりと眼を走らせ、思わず唸った。そのまま、いぶかしげな表情の宰相へ回す。
ナーフィは顔色を変えた。
「どうした」
ジャドが尋ねる。バーナムは呻くように言った。
「リンウッドのトゥール殿が、重傷を負わされたとの訴えがありました。犯人の人相も、ギールという男と一致するようです」
セレムは、氷の海に転げ落ちたかのように全身が震え出すのを感じた。
何かがごっそりと抜け落ちていく喪失感。
それはやがて、裏切られたと分かったときの怒りから、泥の海をもがくのにも似た、深い悲しみへと移り変わっていった。
「動き出したか……バーナム、手配しろ」
国王はゆっくりと命じた。バーナムは立ち上がった。
「セレム、ゆくぞ」
「はい」
他に答えようがなかった。