ぽん、ぽん、と青空に花火があがった。
フォーニアの屋敷前に広がる馬場は、精一杯の一張羅を着た村人たちであふれていた。
前座がわりの詩人たちが、即興の歌を披露しては喝采を浴びている。食べ物を出す露店も多い。
ジャガイモを揚げたのや、油が垂れるほど香ばしくあぶったスペアリブ、ベリージャムたっぷりのパンケーキ。子供にはしぼりたてのジュースやはちみつ水、大人にはビール、ワインなどが売られ、さながら一大イベントのようだった。
あれこれもめはしたものの、隣村対抗の騎馬試合はどちらの村人たちにとっても、ひさしぶりに楽しめる娯楽だったのである。
「絶対、履かない」
セレムはハイヒールを前に駄々をこね続けていた。侍女たちが困った顔をして途方に暮れる。
「でも、今日はセレムさま、貴婦人席にお付きになるんですから。それに、昨日、あんなにおきれいだってみんな……」
「い～や～だ～！」
侍女たちの手には、ひらひらのローブパニエ、日傘、レースの手袋とチーフなどが握られている。
「いい加減にしてくださいまし」
女中頭がむっつりと言った。
「セレムさまは少々わがままが過ぎますわ。そんなことでは、ギールさまもさぞや気をお悪くなさることでしょうね……主家の姫が、まるで男のような姿をなさっていては、騎士の立場がありませんわ。そんなことでは、いくらギールさまといえど何かの拍子に手元がお狂いになって、負けておしまいになるということも……昨日のお姿にしても、それはそれは誉めちぎっていらしたのに」
侍女たちは顔を見合わせた。
「リンウッドのトゥールさまとご結婚なさりたいとおっしゃるのなら、私どもはそれでもかまいませんけれど」
「わーっ着る着るっ！ 着りゃいいんでしょ！」
セレムは侍女の手からローブをひったくった。
「ではこちらへ」
セレムがおとなしく着替えの部屋へ行くのを見て、女中頭はため息をついた。
「もったいないお話ですこと……」
ノックがあって、フォーニア騎士伯が顔を出した。
「どうじゃな、様子は？」
「これは大殿さま」
女中頭は深々と頭を下げた。
「何とか丸め込みましたわ」
「すまんのう」
フォーニア騎士伯は笑った。
「ところで、ギールの奴は来ておらんか？」
「いいえ」
「そうか、もし来たら、わしのところへ来るように伝えてくれんか？ 隣村のボンボンめ、ギールに恐れをなしおったか、替え玉を立ててきおってな」
「承知いたしました」
フォーニア騎士伯は首を傾げ、そのままドアを閉めて立ち去った。
「あいつ、どこへ行きおったんじゃ？」
ギールは晴れがましい装いで広場を見つめていた。隣村からも多くの見物人が来ているのだろう、広場はいつもよりもずっと騒々しく、浮かれていた。
なのに、どういうことだろう。
ギールは日の当たる側へ自ら踏み込むことができずにいた。楽しそうに飲み食いする見物人たちと自分の間には、越えようもないほど深い亀裂があった。
その理由に思い当たり、ギールは額を押さえた。
何かを楽しんだ記憶など、まるでないことに気付いたのだ。いつも、暗闇や日陰を選んで歩いていた。セレムに会うまでは、それが当たり前だと思っていた。無理に働かなくても、盗んだり奪ったりすれば生きていける。何者にも縛られない、放埒な暮らし。ずっとそうやって生きてきたような気がする。
ふと、屋台の途切れた場所にたたずむ老人の姿に気付いた。杖をつき、一人ぽつんと立っている。行き交う村人たちは自分たちが楽しむことに夢中で、孤独な老人の姿に気を止める様子もなかった。
老人が顔を上げた。眼が合う。
しわぶかい古木のような顔に、炯々と黄色く光る双眸が、まるで射抜くかのようにギールを見つめていた。
ギールは息を詰まらせ、思わず目をそらした。背筋が粟立つ。
おそるおそる、もう一度老人の姿を探す。ほんの一瞬、目をそらしただけなのに、すでに老人は元の場所から消えていた。ギールは当惑し、押さえきれない動揺を鎮めようとして、剣に手を這わせた。
びりっと電流が走り、手を引っ込めた。火傷のような痛みが指先に走る。
何が何だか、分からなかった。
思い出せ。
ギールは自らの心が叫ぶのに怯えた。
思い出せ、早く！
「ギール」
ぎょっとして振り向く。フォーニア騎士伯が立っていた。
「どうした？」
「いえ」
ギールはよろめきそうな気持ちを押し殺した。
「少し、緊張していて……」
「相手も隠し玉を持っとったようじゃ。油断するまいぞ」
「はい」
「そう、堅くならんでもよい」
フォーニア騎士伯は苦笑いした。
「お前らしゅうもない。そんなようでは、ちょっとまだ、セレムをやるわけにはいかんな」
「と、とんでも……」
「よう言うわ」
フォーニア騎士伯は面白そうに笑った。
「あのじゃじゃ馬娘のどこに惚れたか知らんが、あれでよければ話をしてやってもええ。だがな、相当苦労するぞ、あれは。気性の激しい子でな。口先だけで足を洗うなどと申しておるようでは承知するまいよ」
ギールは顔を真っ赤にした。
「お館さま、あの、わたしは、その……！」
「頑張れよ、ギール。お前さん次第じゃ」
笑いながら去っていくフォーニア騎士伯の背中に、ギールは深々と礼をした。
子供といってもいいような年頃の見習いたちが見せるつたない試合に大笑いしたあと、ようやく本日のメインイベント、ラ・フォーニアのギールとリンウッド村の騎士との騎馬試合が始まった。
ギールはセレムがくれたリボンをランスに結び、飾り気のない兜の面頬を下ろした。
相手はリンウッドの息子ではなかった。
こういう見せ物めいた騎馬試合では、勝つためだけに雇われる流しの傭兵も少なからずいる。だとすれば油断はできない。セレムに言われるまでもなく、自分が誰よりも強いとうぬぼれるほど愚かではないつもりだった。
「では本日のメ～ンエベ～ント！ 東～、ラ・フォーニアの騎士（見習い）、ギいいい～ル！」
「ギールさまカッコイ～！」
「きゃ～！」
「めっちゃステキ～！」
「きゃ～！」
「結婚してえ～！」
「え？」
観客席から黄色い声援が上がる。館の侍女たちが手に手にハンカチを振っているのが見えた。ちらりと貴賓席のセレムを探す。
セレムは着せ替え人形のように飾り立てられて、すっかりうんざりした表情だった。それでもギールの視線に気付くと、いつもの仕草でやれやれと肩をすくめ、かじりかけのフライドチキンをぐるぐると振り回して、にっこりした。
口元が、勝たないとぶん殴るからね！ というふうに動く。ギールは思わず吹き出した。
隣村のせがれは、と見ると、ぶううとほっぺたを膨らませ、隣に腰掛けた父親に甘えたようなしぐさで何かを必死で訴えかけている。
こんな子供のような男と天秤に掛けられていたとは。何ともやりきれない気分にさせられ、ギールは苦笑いを浮かべた。これでもし負けたりしたら、何を言われるやら分からない。それより何より、セレムにだけは、そんな不様な試合ぶりを見られたくなかった。
「対するは西～、リンウッド村の騎士、ガああああ～ンズ！」
黒馬を駆る騎士が馬場に走り込んできた。重そうなランスを楽々取り回し、片手で悍馬を御しながら、わき起こる拍手にも動じた素振りひとつ見せない。
ギールは笑いを消し、唇を噛みしめた。間違いなく傭兵だ。油断すれば、やられる。そんな気がした。
「構え！」
ラッパが鳴り渡る。全身に震えが突き抜けた。
「よーい」
右手にランス、左手に手綱を短く束ね持って、ギールは鐙の足を踏ん張った。狙うは敵の胸、心の臓ただ一点。
「突撃！」
二人とも、声を上げなかった。
凄まじい勢いで、二頭の馬が柵一枚を隔てた道を一直線に突き進んだ。乾いた土煙が蹴立てられる。
ギールは相手の兜の下に輝く黒い目に、射すくめられるような恐怖を覚えた。
一瞬のうちに槍が交わされ合う。ギールは肩を弾かれ、思わず槍を手放した。だが、その寸前に槍が相手の腰の当たりを突き、そのいきおいで足がはずれたのか、リンウッドの騎士、ガンズは転げ落ちるように落馬した。
空馬だけが激しく首を振って逸れていく。
ギールは手綱を引き絞って馬を返し、駆け戻った。
「勝者ぁぁ、ラ・フォーニアのギぃぃぃぃぃルぅぅぅぅぅっ！」
「いや～ん、もおサイコ～！」
「ギールさまあ！」
「こっちむいてえ！」
侍女たちの声に審判の馬鹿でかい声さえかき消されそうだった。そのけたたましい騒ぎを背負いつつ、馬から飛び降りたギールは、鎧の重みで一人では立ち上がれない相手に手を伸ばした。
「大丈夫か」
ガンズはその手をつかみ、上半身を起こした。
「……すまん、デュゼナウ」
ギールは眼をしばたたかせた。
ガンズは目を細め、ヒステリックに怒鳴り散らしている領主やボンクラ息子を見やった。
「茶番とはいえ、本気でやったつもりだったが……どうやっても貴様には勝てんな。ほら、行くぞ」
ギールは違和感を覚えつつも、ガンズとともに領主たちの前へ出て礼をすべく、並んで歩き出した。
「分かってるな」
ガンズはギールを横目で見ながら押し殺した声でささやいた。
ギールは立ち止まった。眼が眩む。呆然と立ちつくしたままのギールを押しやり、ガンズはフォーニア騎士伯とリンウッド伯の二人の前へ進んだ。
「全く、恥をかかせてくれるわね」
リンウッドの領主は顔を真っ赤にして怒っていた。
「何がバクラントでは負け知らず、よ！ うそつき！ 約束は約束ですからね！ だれがお前なんかに……！」
セレムはギールの様子がおかしいことに気付いた。青ざめ、震えている。思わず立ち上がりかけた、そのとき。
ガンズは主君へ差し出す剣を抜き払った。飾りであるはずの刀身に、まぎれもない殺意が照り映えた。ギールは、動かない。
「殺れ！」
ガンズの叫びに、誰もが凍り付いた。
すべてをなぎ倒す勢いで貴賓席に飛び込んだガンズは、剣を振り上げ、力任せに斬り下ろした。抗う隙もなかった。
フォーニア騎士伯がセレムの目の前で肩口から血を吹き上げ、のけぞり倒れた。セレムはガンズの眼に歪んだ狂気を見て、自分でも信じられないほど、とっさに行動を起こした。
第二撃。けたたましい笑い声がリンウッドの息子に迫った。
セレムはいちごマシュマロを蹴飛ばし、そのおもちゃみたいな剣を逆手に抜き取りざま、ガンズの顔めがけて薙ぎ払った。ローブパニエの裾が華やかなマントのように広がってその動きを隠す。ガンズは右の眼をつぶされ、ちぎれるような叫びをあげた。
セレムは息もつかせぬ勢いでガンズの手首を切り払い、剣を叩き落として叫んだ。
「誰か！」
その誰か、とは、ギール以外の誰でもないはずだった。
なのに、助けを求めたつもりの相手、ギールは、蒼白な表情でフォーニア騎士伯を見つめていた。ガンズは駆け寄ってきた村の男たちに袋叩きにされながらも、誰よりもささくれだった声で、意味不明の罵詈をわめきちらしていた。
セレムはふいに冷たい気配を感じて左に眼を走らせた。その視線に引きずられるように、ギールが顔を上げる。
黒衣の老人が、無表情に唇を引き結んで見つめていた。セレムに眼をやり、うっすらと笑う。
（アー・エル）
ギールの唇が、確かにそう動いた。
誰も、老人の存在に気付いていないかのようだった。セレムとギールだけが、したたるような悪意の意味に思い当たった。
セレムは、一歩足を踏み出した。
その瞬間、老人の姿は煙のようにかき消え、ギールもまた、我に返ってびくりと身を竦ませた。
「＊＊！ ＊＊＊！」
ガンズの怒鳴り声が魂を砕く。聞いたこともない異国の言葉だった。憎々しい悪意だけが響き混じる。
「うそだ」
ギールの声が裏返って響いた。
「そんなこと……できるわけ……！」
その目は、血の海に倒れ込むフォーニア騎士伯に向けられていた。
セレムはギールへ蒼い火のような視線を突き刺した。
眼から涙があふれていることにも気付いていなかった。それが怒りなのか、悲しみなのか、絶望なのか、自分では何が何だか、分からなかった。ただ、激しい思いが体を突き動かした。
「ギール、この……っ！」
引き倒された貴賓席を飛び越え、馬場に駆け出て、剣を振りかぶる。ギールは無意識にその刃を受け止め、薙ぎ払った。セレムは赤子のように振り払われ、芝生の上に吹っ飛んだ。ギールのために履いたヒールが、片方だけほろりと脱げて、点々と転がった。
「最初から、ギール、あんた……！」
涙がこぼれ落ちた。
「ち、ちが……」
ギールは悲鳴を上げた。何もかもがめちゃくちゃな勢いで頭の中に飛び込んできて、打ちのめされ、引きずり回されるような気がした。誰かの声が聞こえた。
（〈黒薔薇〉は失敗した。所詮は女、だったな）
（ついでに片づけておくさ）
応じる冷たい声。
それが自分の声だと分かるまでに、どれだけの時間と恐怖が必要だったのだろうか。
（宰相は食えぬ男だぞ。あれがその地位に安住する限り、国は揺るがぬ……だが竜の書を取り戻せば……）
黒衣の魔導師が諫めるのに、低く答える。
（御託はいい。要は殺す、それだけだ）
「違う」
頭を押さえて叫ぶ。
「俺じゃない……それは、俺じゃない」
ギールはよろめき、剣を投げ捨てて逃げ出した。
「ヤツを捕まえてっ！」
リンウッドの領主が半狂乱になってわめき散らしていた。
「トゥールを殺そうとしたのよっ！ 処刑処刑処っけーい！！」
たちどころに、数人の兵士たちが槍を持ってギールの後を追いかけていく。セレムはそれ以上ギールを追いつめる気力をなくし、剣を取り落とすと、医者のひざまずくところへ足を引きずるように歩いて戻った。
取り囲んでいた侍女たちが、無言で道をあけた。医者は血止めに必死だった。
緑の芝が流れ出した赤い血に汚れている。
どこからかすすり泣きが漏れる。
リンウッドの領主が息子の手を引きながら、ずかずかと近づいてきた。
「どういうつもりなの、あんな殺し屋をうちのトゥールと戦わせるつもりだったなんて！」
「やめてよパパ！ セレムちゃんは悪くないんだよう！ それにフォーニアさまを斬ったのはウチの……」
「おだまり、おバカ！ つまんないこと言わないの！」
リンウッドの領主は、ゆでだこのような顔で下品な言葉を吐き散らかし、じたばたする息子の襟首を掴んでどこかへ行ってしまった。
セレムはひざまずいたまま、両手の拳を地面に叩きつけた。涙が熱い粒となって伝わる。
「セレム」
ようやく意識を取り戻したフォーニア騎士伯が、弱い息の下で呟いた。
「わしは死にゃあせん……」
セレムは涙を拭った。
「ハージュの都へ早馬をやれ」
焼け付くような痛みに、フォーニア騎士伯は身を折って呻いた。
「賊の一人を捕らえたとバーナムに伝えろ」
「はい」
セレムは氷のようにこわばった顔で答えた。すべきことは、それだけではないはずだった。
「それと、竜の書を……くれぐれも……」
それ以上は、声にならなかった。セレムは医者にフォーニア騎士伯を運ぶよう命じ、怯えて震えるだけの侍女たちを追い払った。
無言で部屋に戻る。
セレムは華やかなドレスを脱ぎ捨て、いつもの格好に着替えた。使い慣れたサーベルを掴んで、鏡に自分の姿を映す。騎士姿に、華やかに結い上げた髪は似合わなかった。
ピンを抜き、リボンをむしり取り、結わえた束を乱暴に根本からつかんで、長く伸ばしていた髪をずばりと切り落とす。きらきらと輝く髪が、なだれのようにまき散らされた。
それから書棚に目をやり、細密画で装丁された一冊の古い本を抜き取る。
竜の書。ギールが、誰かから凄いお宝があると聞きつけてセレムを襲った、いわくの本。
こんなもの、子供向けの冒険物語でしかない。たとえそれが、セレムの三歳の誕生日に、お祝いとしてエルシリア侯より賜った品だとしても。
フォーニア家の家宝としての価値はあっても、それ以外の何でもない、ただの本だ。こんなものをどうして……。
セレムは本を床に叩きつけた。糊で綴じた本のページは脆くもはずれ、部屋中に散らばった。それを踏みつけながら歩み出てきたセレムに、侍女たちは息を呑んだ。
「あたしが留守の間は、みんなで村とおじいさまを守って」
セレムは足音も荒く屋敷を出て、馬を引いてくるよう命じながら言った。
「セレムさまはどちらに……？」
うろたえながら、執事が駆け寄ってきた。セレムはギールの落とした剣をじろりと睨み付けた。その燃えたつような色に、引き留めようとした屋敷の者たちも思わず引き下がる。
「あいつを」
叫びだしたい思いを必死でかみ殺しながら、セレムは呟いた。
引かれてきた愛馬にまたがり、手綱を短く持って、馬首を返す。耐えられなくなった誰かが声をあげ、むせんでいた。
「ハージュへの知らせはあたしが行く。あいつは、必ず……」
セレムは馬の腹を蹴った。これ以上、気丈でいるふりを続けることはできなかった。