ここはエルシリア侯領の片田舎、ラ・フォーニアの森。
豊かな──ど田舎とも言う──緑あふれる森の小径を、木漏れ日が照らしていた。穏やかな散歩を楽しむには絶好の日和と思えたのだが……。
木立の向こうから蹄の音が聞こえてきた。みるみる大きく、せわしなく迫ってくる。
近づく気配に小鳥たちが一斉に飛び立った。道を横切ろうとした野ウサギがびっくりして立ち上がり、耳をくるくるとさせて草むらに飛び込む。
ふいに風が起こって、頭上を覆う森が割れた。幾条もの光が地面を射し照らす。
生き生きとした表情を取り戻した森の小径の曲がり角。まぶしくもぽっかりとぬるい日だまりを、さながら踏み散らすかのように突っ込んでくる騎馬があった。
手綱を取るは、驚くほどほっそりした武人らしからぬ体つきの騎手だった。
陽光を弾いてなびく金髪。
真正面を見据える青灰色の瞳。
人馬は何事もなく、そのまま猛然と駆け去っていった。巻き起こす風が枯れ葉を散らす。
一瞬の風景だったが、印象的な姿が、寒ささえ吹き飛ばしていくように思えた。
「見たか。今のが標的の”セレム・フォーニア”だ。あいつを誘拐する」
声がして、道端の木が不自然に揺れた。
古いブーツを履いた足だけが枝からはみ出して、ぶらぶらと見え隠れしている。
周辺の茂みに隠れていたらしい子分たちが、膝についた土や枯れ草を払いつつ、ごそごそと立ち上がった。枝葉の合間に垣間見えるブーツに向かって声を掛ける。
「すんません、親分。速すぎて見えませんでした」
間の抜けた顔をした大男が正直に頭をかく。
「気にするな。どうせすぐに戻ってくる。決行はその時だ。いいな」
森賊は枝から飛び降りた。
「ホントに戻って来るんですかね」
疑わしげにもう一人が言う。森賊は手下の疑問をそっけなく鼻であしらった。
「少なくとも夜までには戻ってくるさ。あれでも一応は」
森賊は野放図に伸びた黒い髪をかき上げた。整ってはいるが、飼い慣らしきれない野獣のような、危険な雰囲気を漂わせる顔立ちがのぞいた。
「”お姫さま”なんだからな」
セレム・フォーニアは馬上で盛大なくしゃみをした。鼻をすすり、スピードを落とす。森を抜けてしまえば、それほど急ぐ必要はなかった。
「おつかい頼まれたのはいいけど」
ぽくぽく揺られながら独り言を言う。
「あんまり気が進まないな……」
フォーニア村とリンウッド村との境にある森は、近頃追い剥ぎが出るとかで物騒だと噂されていた。か弱い（？）見習い騎士の少女が一人で通り抜けるような場所ではない。できることなら暗くなる前に届け物を済ませて帰りたかった。
届け物は、リンウッドの領主に宛てた祖父からの書状だった。
「あー、もー、やだなー、何かいい方法、ないかなあ」
頭を掻きながら、盛大に顔をしかめる。
ピンクのハートをいっぱい背負った領主のせがれの顔がぽや～っと浮かび上がった。いちごマシュマロのようなほっぺたを思い出して、ぶるっと身震いする。
どうにかして、顔を合わせない方法を考えるしかない。だが領主の屋敷に行けば、なんだかんだと丸め込まれ、引きとめられてしまうだろう。
何度断っても、あのバカ息子はセレムをあきらめてくれなかった。しつこいのか、単に鈍いだけなのかどうか分からないが、事あるごとに結婚の申し込みをしてくるのだ。
まだまだ人の妻となるには心構えが足りず、そちら様にご迷惑をおかけするかと思いますので、とか、気の強いわがまま娘ですので、とか、いろいろな言い訳をその都度考えてきたが、さすがにそろそろ断り文句のネタも尽きてきた。
どうせこの手紙も、丁重なお断りの手紙に違いなかった。
「まったく、近所づきあいも楽じゃないわ。これだからイナカは嫌なのよねー。あー、もー、早く騎士になって都会にいきたーい！」
隣村に入ると、ブタを連れた少年が手に棒を持ち、木の枝を叩いてどんぐりを落とし、食べさせているのが目に入った。
ブタたちはおしくらまんじゅうをしながら、道の真ん中でぎゅうぎゅうとひしめいている。
「こんにちは」
「ぶぎゅー」
少年は帽子を取って切り株に飛び乗り、手を振った。
「ねえ、通れないんだけどー！」
「ぶぎゅるるるる」
「聞こえてんのー！」
少年は小枝を振り回してブタたちを追い出そうとしたが、ごちそうに群がるブタたちが、それぐらいで動くはずもなかった。
「もういいわ。これ、渡してくれない？」
セレムは手紙の封をやぶり、中にコインを数枚詰めて、少年に放り投げた。少年は手紙を受け取り、きょとんとした顔をした。
「それをね、リンウッドさまにお渡しして欲しいの！」
「ぎゅるるるぴー」
「分かった？」
「ぴぎゅ」
少年はコインに気づき、にっこりと笑っておじぎをした。セレムは話が通じたものと思い、安心して手を振り返した。
「じゃあ、よろしくね」
馬を返すセレムの背後で、コインに目が眩んだ少年は、宛先が誰なのかも分からないまま、手紙を丸めてぽいと投げ捨てた。
帰りはご機嫌だった。軽快に馬を走らせつつ鼻歌など口ずさむ。セレムは、あんまりうまく事が運んだものだから、森の噂のことをすっかり忘れてしまっていた。
「る、る、るん……今日の晩ご飯は、何かいなっと……」
狭い道を通り抜けながら、今夜のメニューのことを考えてにんまりする。
骨付き肉と野菜山盛りポトフもいいけど、久しぶりにマスの蒸しバター焼きもいいなあ。
スープはベーコン入りのコンソメ。
デザートはチョコレートと生クリームたっぷり、クルミのパウンドケーキ。かぼちゃプリンも食べたいし……。
突然、森の中から何かの破裂する物凄い音がした。馬が驚いて跳ね上がり、セレムを振り落としかける。
とっさに手綱を引き絞り、鞍にしがみつくようにして体勢を立て直した。
だが興奮した馬はセレムの制止を聞かず、むちゃくちゃに走り始めた。とにかく落馬しないように掴まっているしかない。
目の前に、頭上からどさどさっと枯れ枝が降ってきた。馬は何とかそれを飛び越したが、着地に失敗し、激しくよろめいた。
「！」
体が宙に浮き上がるのを感じた。そのまま地面に叩きつけられる。
目から火花が出そうだった。
「痛……っ！」
起きあがろうとしたところ、誰かにぐっと胸元を踏みつけられた。セレムは痛みをこらえて目を開けた。
薄汚い格好をしたひげだらけの男が、獲物を見下ろす狼のように笑っていた。
「フォーニアのお姫様ですね」
格好はむさ苦しいが、言葉遣いは案外丁寧だった。
「その汚い足、どけてくれない」
セレムはとげとげしく呟いた。森賊ごときに踏みつけられる覚えはない。
森賊は手にした布包みの紐をほどき、中からぎらつく剣を滑らせた。
「俺たちと一緒に来てくれないか」
「あたしを誘拐しようっての？」
セレムは笑い出しそうになった。
森賊はバカにされたと感じたのか、たちまち気色ばんで、セレムの首筋近くに剣を突き立てた。顔が刃に写り込む。
「ふざけるな」
セレムはため息をついた。
「分かったわ」
森賊は手下たちにセレムを見張っているよう命じて、剣を納めた。手下の二人は、ノホホンとした顔の巨漢と、バンダナで顔半分を隠しているつもりの小悪党だった。油断しているのか、女だと思って馬鹿にしているのか、剣を取り上げようともしない。
ちらりと森賊の横顔を確かめる。
セレムはぐっと奥歯を噛みしめ、一番ぼんやりしているバンダナの間合いに飛び込んだ。
剣を抜き払い、ナイフを持った手に切りつける。バンダナは悲鳴を上げて転がった。もう一人の方はまだ、状況を把握し切れていないのか、バンダナを助け起こそうとかがみ込んで、セレムに背中を向けている。セレムはその尻を蹴倒し、脱兎のごとく駆けだした。
森賊が行く手に立ちふさがった。セレムは剣を振り回して森賊に斬りかかると見せかけ、身をかわそうとした。ひょい、と足が突き出される。
しまった、と思う間もなく、派手にひっかかって転んだ。剣が手を離れて飛んでいった。
襟首を掴まれ、引きずり上げられながら、腕で喉を締めつけられる。
息が詰まった。
「手間取らせやがって」
かすれた毒々しい声が耳に吹き込まれた。
「てめえら、何だよ、女なんかにやられて……」
セレムは森賊の腕をまさぐり、偶然探し当てた小指を掴んで思い切り逆にひねり上げた。思わずゆるんだ腕にがぶり！と噛みつく。
そのまま一発、後向きに蹴りを入れて相手を突き放す。森賊は声も出ないほどの痛みにぴょんぴょん飛び跳ねながら、前を押さえて呻いた。
「う……」
「ばーか！」
セレムはあっかんべーをすると、逃げ出しにかかった。
「！」
いつの間にか、目の前に巨漢が立っていた。セレムは丸く膨らんだ腹にぶつかり、ボールのように跳ね返されて尻もちをついた。
「な、何……」
ソーセージみたいな手がセレムにつかみかかる。転がって逃れ、立ち上がったところに、森賊が目に涙を浮かべたまま駆け寄ってきた。
喉元に切っ先を突きつけられる。
「ふざけやがって！」
「ふざけてんのはどっちよ」
セレムは眉をつり上げた。
「エルシリア侯よりラ・フォーニアを賜りし騎士伯家の者と知っての狼藉なんでしょうね！」
「そんなこと知るかよ」
森賊はにんまりと笑った。
「田舎貴族の娘でも誘拐してお宝をせしめてやろうと思っただけさ。何だか凄えもんがあるんだってな……」
「おあいにくさま」
セレムは近づいてくる剣の先が微動だにしないことに気づいた。森賊とはいえ、侮れない腕のようだ。
「ただの田舎娘だと思わないでよ」
目が茂みの中にきらりと輝く剣に向かった。思わずつられた森賊が視線を走らせる。
その瞬間をセレムは逃さなかった。切っ先から逃れるやいなや、森賊の懐に飛び込んで、突き上げるように顎へ掌底をくらわせる。森賊は剣を取り落とし、顎を押さえて数歩、よろめいた。セレムは落ちた剣を奪い、その重さに顔をしかめつつも、悟られないように両手で短く持ち、構えた。
「形勢逆転ってヤツね」
森賊はゆっくり下がって、草むらに突き立っていたセレムの剣を引き抜いた。
睨み合う視線が青く燃えて、ぶつかり合った。
しばらくの間、二人とも動かなかった。気迫で負けないよう、強く唇を噛みしめる。
「女だと思ってナメてんじゃないわよ。まだやる気なら、いくらでも相手にしてやるから」
それはかなりの強がりにしか過ぎなかったが、弱みを見せるわけにはいかなかった。森賊はおもしろそうにセレムの顔を見つめていたが、やがて手にした剣をぽい、とセレムの足下に放り投げた。
「あー、くそ、やってらんねー」
手を伸ばしてくる。
「俺の剣、返せよ。あんたには重すぎるだろ」
セレムは剣を拾い上げてから、足下に重い剣をがしゃりと投げだし、ゆっくりと後ずさった。森賊は剣を軽々と鞘に収め、にやりとした。
「かなわねえな、じゃじゃ馬にはよ」
セレムはむかっとしていきり立った。
「逃げる気！」
「今日は勘弁してやる」
森賊はぬけぬけと笑い、森の中へ消えていった。
「あ、兄貴ぃ～？」
手下たちが慌てたように後を追う。
セレムは力が抜けるのを感じ、深いため息をついた。
しばらく歩くと、心配して戻ってきた愛馬が草を食みながら待っているのが見えた。駆け寄ってそのたてがみを撫でてやり、足まわりを調べる。馬はうれしそうに鼻を擦り寄せてきた。
どうやら着地に失敗しただけで、どこも痛めてはいないようだ。
セレムは安心させるように声をかけ、またがった。とにかく早く、森から抜け出したかった。
数日後。
セレムはフォーニア村の女たちを集めての訓練に余念がなかった。いつ何時、野伏や盗賊の襲撃があってもおかしくないご時世である。こわいだの、恐ろしいだのと言って逃れることはできなかった。
野原に黄色いかけ声が響く。とりどりの格好をした女たちが、木の枝を削って作った槍や刺又を振り回していた。
「せーのっ、やー！」
「やー！」
「はい元気よくー！」
「やー！」
日が高くなる頃、村の鐘つき堂に黄色いケープをまとった神官が登ってくるのが見えた。神官は女たちの中にセレムを見つけ、軽く会釈した。
お昼の鐘が鳴り始める。女たちは槍を荷車に積み戻し、セレムに礼を言って散っていった。
セレムは汗ばんだ額を拭き、一休みとばかりに荷車の端っこに座って水を飲んだ。
「ふう……」
「元気でやっとるかあ？」
「うわ！」
セレムは飛び上がって振り返った。
「お、おじいさま！」
今はもう引退して久しいが、エルシリア侯に仕えて統一戦争に参戦したこともある祖父のフォーニア騎士伯が近づいてきていた。足音も立てずに忍び寄ってくるとは、あいかわらず趣味が悪い。
「頑張っとるな」
「はい」
フォーニア騎士伯の後に、新しく入ったらしい背の高い従者が控えていた。顔を伏せ、背中を丸めがちの姿勢は一見暗そうに見えたが、体格自体は悪くない。
「新しく入った従卒のギールじゃ。いろいろ使ってやってくれ。ギール、これが孫のセレム。手に負えん、はねっかえりのオテンバじゃから気をつけてな」
「初めまして。お初にお目にかかります。ギールと申します」
ギールと名乗った従者は胸に手を当てて膝をついた。セレムは不審に思いつつ頷いた。
「ども、よろしく」
「それじゃ、あとはよろしゅう頼むわ」
フォーニア騎士伯は、手を後に組んでノコノコと戻っていった。
セレムはため息をついた。名目は従卒かも知れないが、どうせお目付役といった役どころだろう。ごちゃごちゃと小うるさい奴だったら、明日にでも追い出してやればいい。
「じゃあ、とりあえず、これを片づけるの手伝ってくれない？」
ギールは顔を上げ、セレムと目が合うと、かすかに唇をつり上げて笑った。セレムは思わず目をしばたたかせ、ぎょろ目を剥いた。
「あ、あんたっ……？」
それ以上は言葉もなかった。あまりのことに、どう対処していいものか、とっさに思いつかない。
なんと、ギールというその男は、森でセレムを襲ったあの賊だったのである。