L/F/N

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薔薇の花嫁　1

　抜けるように澄み切った南国の空を、楽しげに鳴き交わす小鳥が飛んでゆく。
　ローゼンクロイツ総本山、聖ワルデ・カラア。その門前には幽玄の森が広がっている。赤、白、淡紅色、紫、青、黄色、色も形もとりどりな薔薇がこぼれんばかりに甘く咲き揺らめく小径を抜け、ルーンのきらめきを蒔くかのごとき聖女の噴水像を見上げながら、何処へ連なるとも知れぬ瀟洒な柱廊をたどってゆく。
　飼い慣らされた子鹿が小径を横切った。いたずらに木の芽をかじってはかろやかに跳ねてゆく。
　木陰の彼方に、白を基調にしたちいさな礼拝堂が見えた。十六角の屋根を持つ、古い建物だ。
　ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは礼拝堂の前まで来ると静かに立ち止まった。
　流麗な彫刻を彫り込んだ正面のアーチ、剣と薔薇を交差させた聖ローゼンの紋章、小さいながらも建物全体を支える飛梁の装飾。
　ほんの数段ほどのきざはしを上り、蔦を連ねた浮き彫りを緻密に施した円柱の立ち並ぶ前廊を通り抜ける。
　扉の左右を翼ある天使の彫像が支えている。
　どこからあらわれたものか、足下に黒い猫がまとわりついていた。皮肉に鳴いて、身をくねらせる。
　ザフエルは猫を無視し、開け放たれた礼拝堂へと歩み入った。
　するどい眼差しで堂内を見回す。
　壁の面それぞれに官能的な表情を浮かべ、薔薇を手にした聖女と戦士の装いをした天使を一対とした聖像が浮き彫られている。天井を仰げば、白地に金の装飾をほどこした豪奢な天井のモザイクと薔薇窓のステンドグラス、ゆらゆらとはためく紅白の旗布が目に入る。
　あわく染まった陽の光がさらさらと音を立てて差し込むかのようだった。
　足下は白く発光する大理石のモザイクがふんだんに嵌め込まれ、かがやくルーンを手にした無数の豆天使の絵が聖なる呪言とともに方陣を描き出している。
「よく来たね」
　男の声がする。
　ザフエルはゆっくりと、どこかぎごちない動作でひざまずいた。
　頭を垂れ、祝福の言葉を申し述べる。
「第十七代ローゼンクランツ総主教聖下と聖ローゼンに永遠の栄光あれ」
「同志ザフエルに更なる覚醒と祝福の有らんことを」
　聖女像の真下には作りつけの本棚がいくつもあり、貴重な古い神学書が収められている。それらのうちの一冊を手にし、白の法服、鬱金に縁取られた深紅のベルベットのストールを掛けた男が、衣ずれの音もたおやかに近づいてきた。
　つめたい微笑を絶やさぬ怜悧な面持ち。至高の位に就いて以来、一度もはさみを入れられたことのない、長い、まっすぐに腰までこぼれおちる銀の髪。
「座りなさい。此度の戦ではひどい怪我をしたと聞いたが」
　どこか空恐ろしいほどに似ている――他人を隔て、あるいは蔑む雰囲気を心底に押し隠した男が、心にもない労りの言葉で天鵞絨の椅子を勧めるのを、ザフエルは乾いた面持ちで見返した。
「もう、良いのかね」
「お召しにより参上仕りました」
「父と子が逢おうというのに何ともはや他人行儀な」
　ローゼンクランツは静かに笑っている。
「怪我の具合はどうかな」
「大事ございませぬ」
「無理をしてはいけないよ」
　上澄みのような声が通り抜けてゆく。
「勿体ないお言葉、恐縮に存じます」
　ザフエルは顔すら上げなかった。
「後で良い法薬を届けさせよう」
　ローゼンクランツは甘えるように鳴いてにじり寄ってきた黒猫に手を伸ばした。
「ところで、ザフエル」
　柔らかに身をくねらせる猫をじゃれるに任せ、ふと、首輪に指先をかけて、楽しげにつぶやく。
「聞くところによると鳥籠の鳥を逃したそうだね」
　突然、猫は悲痛な呻き声をあげてのたうった。首輪と喉の間に残忍な指が食い込んでいる。縊り殺す寸前、ローゼンクランツは猫を投げ捨てた。
「足下の失態か」
　あるじの寵を失ったと知って這々の体で逃げてゆく黒猫を、ローゼンクランツは変わらぬ微笑で平然と見送っている。
　ザフエルはわずかに唇を引き結んだ。
「覚悟はできております」
「如何なる覚悟だ」
　ローゼンクランツはうっすらと薔薇の眼をほそめた。
「純血を絶やさぬことがハガラズの後継たるものの唯一にして無二の務め。その務めを徒や疎かにして聖なる証を立てることなど能わぬ」
　ザフエルは顔を伏せたまま表情を変えない。
　その様子に気付いたのか、ローゼンクランツはおもむろに声を上げて笑った。緋表紙の書を閉じ、傍らの小机に置き放す。
「苦しむことはないよ」
　掌が空を泳いで印を切る。
「我等人の子にゆるされるのは聖女の天啓が伝える神の言葉を信じることだけだ。信仰に身命を捧げ、ただひたすらにルーンの声にすがり、祈れば、罪はすべて洗われる」
　翳りのある微笑みがローゼンクランツの口元をいろどった。
「誓いなさい。神の御前に己が身の潔白と忠誠を。ハガラズの守護、そして」
　しずかな、抑揚のない声が導きの光をいざなう。白い指先が呪を空書し、ザフエルの額を指し示した。光の花びらが額に散る。
「ウィルドの守護たる聖騎士ホーラダインの名において、穢れ無きルーンにのみ仕える守護のさだめを、高貴なる義務を、今こそ」
　ザフエルの眼に、あやうく熔け落ちる光が白く、狂おしく映り込んだ。
「穢れ無きルーンにのみ仕えるさだめを」
　何の感情をも交えぬザフエルの声が、機械のように、ただ同じ言葉だけを繰り返し刻んでゆく。
「今こそ」
　天の薔薇窓から差し込んだ蒼い光が、切っ先の如くするどく引き延ばされた聖十字の光となってザフエルを貫き、照らし出した。
　薔薇の花びらに似た光が音もなくこぼれ、降り積もる。
　ローゼンクランツは柔和に微笑んだ。
「ハガラズの系譜に連なるものよ、おまえに更なる叡智の覚醒があらんことを。期待しているよ、ザフエル――我が息子よ」

▼

　夢か、現か。ひそやかにまとわりつく赤と黒の薔薇が月影の落ちる窓際からくねり入り、揺らぐ影と影の狭間に潜り込んで音もなく這いつたってゆく。
　やがてとらえた標的の眠りに忍び込み、猜疑の根を這わせ、嫉妬の蕾を萌し、芽ぐませ、いつの間にか、ぎしり、ぎしり、と、葉擦れの音をさせて蔓延り、宿業の華を狂い咲かせ壁に妄執の棘爪を食い入らせて。
　赤く、暗く、そこかしこで戦場の埋み火のように燃えている。
　夢だと分かっていた。
　後悔が良識を責めさいなんでいる。逃げることも、眼をそらすこともできない。引きちぎられた純白の羽根が音もなく降りしきるなか、手首を残酷なイバラに縛められ、拈られ、引きずられる。痛苦に身をよじらせるたび、肌へと食い入る棘がするどさを増し、腕をつたい上って、まろみを帯びた身体へとからみつく。
　傷つくたび、悲鳴を上げるたびに、白い肌に深紅の薔薇が次々に淫靡な花弁を開き、みだらに咲きこぼれる。かと思えばすぐさまにどろりと黒く熔け落ちて身裡へと罪の種を植え付ける。
　悲鳴すら上げられぬほどの根源的な恐怖が喉元にこみ上げた。
　嫌だ――
　きらめきが水晶の涙となって闇に散ってゆく。
　絶え間ない腕の痛みに脂汗を浮かべては何度も寝返りを打ち、声を上げ、うなされる。
　深紅の薔薇の罠に囚われ、苦痛によがり泣く、そのおぞましくも妖婉に繰り広げられる失楽園の狂乱を、虚無が見せるこの世の悪夢と思うほかにどう思い做せばよいのだろう。
　耐えきれずに悲鳴を上げて飛び起きる。
　悪夢がちぎれ飛んでゆく。
　周囲は闇。
　腕に残った焼けつく痛みだけが夢の中の真実だった。喘ぎ、腕を押さえてうめき泣く。
　何度、同じ夢を見せられたことか。
　身体ばかりがひどくだるく、悪寒がおさまらない。熱があるのかもしれなかった。
　ベッドから下り、足枷に囚われた裸足を引きずって、壁を頼りによろよろと窓際まで伝い歩く。
　窓辺へ近づくにつれ、思いがけぬ温度差を持った空気がひやりと頬を打った。白く曇ったはめ殺しの硝子窓を指先でぎごちなくなぞる。
　冷たかった。窓越しの夜空から淡い月光が降り込む。
　闇の底から一列に並んだ仄暗い赤い光点が浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がるのが見えた。宮殿のあちらこちらに埋め込まれている赤い水晶が熱を放っているのだろうか。夢で見た燠火のようだった。
　硝子窓に手を触れたまま、明滅するゾディアック天宮の夜景をながめる。ふと、手に深紅の残影が浮かび上がった。目の錯覚か、と思ったときにはもう薔薇の幻は過ぎ去っている。
　時間の感覚はない。しんしんと冷え込んでゆく。
　身体がぞくりと震えた。眩暈がする。
　仕方なく闇を見はるかすのはあきらめて見せかけの優しい牢獄へと意識を引き戻す。
　房室はこぢんまりとした質素な雰囲気にまとめられていた。厚着した木彫りの人形ばかりが並ぶ飾り棚、ライティングデスク、重厚な木のチェスト。壁には手燭を兼ねた裸のランプがひとつだけ掛かっている。コンソール付きの古めかしい鬱金の壁掛け鏡には月明かりに照らし出された南国風の絵、ゾディアック語で書かれた書が収められた作りつけの本棚、毛皮をかけ、クッションを置いたカウチソファなどがさながら夜の水底に沈む難破船のように青白く映り込んでいた。
　ニコルは肩の開いたネグリジェの裾を引いて窓際の長椅子に腰を下ろした。素足をつめたく拘束する鉄の鎖が床に引きずられ、甲高く響く。
　ため息が漏れた。虜囚生活の間に奇妙なほど長く伸びた髪がはらりと肩からこぼれ落ちる。
　ニコルは血の色の混じった瞳で古い鏡を見つめた。
　鏡の中の自分は現実と乖離した色合いにくすんで、やたら生白く、唇や瞳にばかり病的な赤い血の色が差しているふうに見えた。本当にそれが自分の今の姿なのかどうかすら分からない。何もかもがひどく希薄で、怠惰すぎる感覚に呑み込まれている。まるで自分ではない別の誰かと向かい合っているかのようだった。
　すべてはあの男が仕向けたことだ。孤独で心を澱ませ、狂わせ、他にすがるものが何一つない状態にまで追いつめておいて、最後、残酷に突き放すつもりなのだろう。
　そう思えば思うほど、胸の裡にどろりと滲み広がってゆくかのような、憎しみとも口惜しさとも違う虚無の感情が降り積もってくる。
　ニコルの知るチェシーはもう、いない。
　夜ごと訪れる悪夢も、怪奇じみた悦楽も、慰めを装った暴虐に蹂躙されるのも。すべては血塗られた薔薇の狂気が見せる幻影だ。寝ても覚めても同じ悪夢の繰り返しを見せつけられるぐらいなら、まだ愚かしい忘失の毒に身をゆだねていたほうがましだった。
　しばらくの間、呆けたように座り続ける。
　ふと、物音が聞こえた。扉の向こう側から人の気配がする。
　囁き交わす狡猾な合図とともに鍵が回った。閂を滑らせる錆混じりの音が夜に軋む。
「起きているではないか。話が違うぞ」
「申し訳ございませぬ……」
　明かりを置こうと身を屈める侍女を傲然と肩で突き飛ばし、男達の一団が軍靴のまま牢獄へ上がり込んでくる。
「もう良い。往ね」
　命令し慣れた尊大な口調が侍女を追い払った。
「は、はい、申し訳ございませぬ」
「口外すれば命はないぞ。良いな」
　一瞬、ぎらりと黒く、威圧の銃口が侍女のこめかみに光る。
　この牢獄塔に入る扉を開けるための合い鍵を所持しているのは、大法官配下である家政長官だけのはずだ。侍女は生き餌を野獣の檻へ抛った後のような苦渋の表情でニコルを見、すぐに眼をそらして逃げ去っていった。
「これは、また、随分と変わり果てたものだな」
　高慢な嘲笑が耳を打つ。
　ニコルはぼんやりと顔を上げた。背格好も、雰囲気も。感じ慣れたチェシーのものでは、ない。
　ならば、もう、どうでも良かった。
　驕傲に吊り上がった緑眼の軍人、貴族、怪しげなガウンを羽織った魔術師、小柄な身体半分をすぽりと覆う重厚なマントに身分を隠す仮面をつけた忍び姿の貴族が秘密の会合でも開くかのようにニコルを取り巻いている。
　緑の眼の男がニコルの細い顎をぐいと掴んで仰向けさせた。
「恐ろしくて声も上げられぬか」
　ぬかるんだ記憶が踏み散らされ、厭な音を立てる。リーラ河を挟んだ激闘の日々がまるで遠い過去の出来事のように思えた。この声には聞き覚えがある。イェレミアスだ。
　ニコルはかすかに胸の底がぐらつくのを感じた。対ティセニア戦線にいるはずのイェレミアスが、なぜ。
　仮面の男ががさついた声をあげた。
「この女がルーンの聖女とやらか」
「さようには聞き及んでおりますが、果たして本当かどうか」
　イェレミアスは憎々しげにニコルを睨んだ。掴んでいた顎を粗暴に振り捨てる。
「この女は姿をやつし我等ゾディアック帝国を翻弄してきた凶悪なる魔女です」
「迷信などどうでも良い」
　男は執拗な光を眼に宿らせた。
「知りたいのはルーンの聖女に幻惑の霊験があるかどうかだ。陛下もガレイラも頭がどうかしてしまったに違いあるまい。正統なる皇太子である余を差し置いてサリスヴァールなどというどこの馬の骨ともしれぬ野盗上がりの私生児ごときをよりにもよって帝国の皇位継承者として認知するなど、常軌を逸した愚行としか思えぬ」
「御意にございます、殿下」
　イェレミアスが我が意を得たりとばかりに諂い迎合するのを、ニコルはぼんやりと見つめた。仮面の男をうつろなまなざしで見やる。
　ニコルの視線に気付いたのか、仮面の男は苛立たしげに顎をしゃくってイェレミアスに合図した。
「よし、連れ出せ。余みずからが厳しく尋問してくれる。この女から自白を得るのだ。さすれば陛下も帝国の安泰を揺るがす奸策にお気づきになるであろう」
「はっ」
　イェレミアスは嫉妬を敵愾心に転化させた醜い表情でニコルのすっかり細くなった腕を粗暴に鷲掴んだ。
「来い、アーテュラス。ぐずぐずするな」
　ニコルは腕の痛みに顔をゆがめ、よろめいた。すぐには立ち上がれず、かすかに抗う。イェレミアスはそれを抵抗と見たのか、腕をひねり上げんばかりにしてニコルを引き倒そうとした。だが虜囚生活で衰えた足に鎖がからまってうまく歩けない。
「逆らうか」
　イェレミアスの憎しみに荒んだ声が闇を揺すぶった。
「無駄な演技は止せ、魔女め。あのおぞましい闇のカードのせいで私の部下が何人食い殺されたか忘れたのか」
　ニコルはぎくりとして眼を押し開いた。こわばっていた身体から抗いの気力が失せてゆく。
「分かったら黙って言うことを聞け」
　イェレミアスは力なくうなだれたニコルを容赦なく引っ立てた。足枷の鎖が鳴子のようなけたたましい音をたてて夜闇に鳴り渡る。
　追いやられた先に急な勾配の螺旋階段が見えた。視界がにじみ、霞む。ニコルは息をすすり込み、手すりにしがみついた。膝が震える。
　ふいにイェレミアスが無様な叫びを放って手を振りほどいた。左手で右の手首を押さえ、くちびるを醜悪に歪めている。
「何の真似だ」
　イェレミアスは総毛立つ表情で睨み付けた。
　何が起こったのかとっさに理解できず、ニコルは眼をみはった。
　イェレミアスの手が暗鬱な悪意を滴らせてのたうつ蔓状の何かに絡みつかれている。仮面の男が忌避の唸り声を上げて後ずさった。
「この期に及んでまだ闇を使役するか、この魔女めが」
　イェレミアスは恐怖と憤怒の入り混じった凄まじい血相で異物をむしり取ろうとしながらニコルを力任せに突き飛ばした。ニコルは悲鳴を上げた。螺旋階段の壁に背中から激しく打ち付けられる。
　目が眩んだ。意識が朦朧としてゆく。そのまま膝の力を失い、くずおれる。足枷の鎖がもつれた。
　一瞬、ぐらりと世界が傾いだ。熱でかすんだ意識が遠ざかる。
　誰かの声が聞こえた。
　螺旋階段を猛然と駆け上がってくる切迫の靴音。反響する喚き声に魔物の羽ばたきにも似た重苦しい外套の音が交錯して。
「ニコル」
　とっさに背後から差し伸べられた異形の腕が仰け反るニコルを受け止めた。息が止まる。叫ぶ間もなく、身体が回転した。そのまま胸に引き寄せられ、ぐっと深く抱かれる。ニコルは喘いだ。
「あ、あ……」
　続けてひどい立ちくらみが襲ってくる。
「ニコル」
　明らかに動揺し息せき切った声が近づいた。うわずった狼狽の叫びが間近から降ってくる。
「この馬鹿。何してる。大丈夫か、おい、しっかりしろ」
　過ぎ去った黄金の日々にも似て、どうしようもなく遠く、もどかしく、まぶしい――
　あのころと同じ熱情に満ちたチェシーの声、胸の奥深くまで一気に突き抜けてくるようなその声に心を強く揺り動かされ、ニコルは思わず声を詰まらせた。
「チェシーさん」
　声が震え出す。
「チェシーさん」
　ずっと殺していた想いが、堪え難く、あふれる。
「もう、大丈夫だ」
　言い聞かせるかのような安堵のささやきにニコルはこみ上げる気持ちを抑えきれずすがりついた。震える手で漆黒の軍衣をくしゃくしゃになるまで握りしめ、顔をうずめる。感情が奔流となってよみがえった。
「チェシーさん……！」
「安心しろ」
　もう一度、今度こそしっかりと強く確かに抱き寄せられる。
「後は任せて」
　チェシーは静かな怒りを含ませた声でつぶやくと、ふいにするどくきらめく隻眼を頭上へと走らせた。
　対峙するイェレミアスと真正面から視線を衝突させる。
「サリスヴァール」
　仮面の男が素性を隠すかのごとくイェレミアスの背後へと紛れる。刹那、憎悪と軽侮の視線が鮮烈に交錯した。
「これは何の真似だ、イェレミアス」
　チェシーは視界から消えた仮面の男の存在をあからさまに無視して冷静な声をかけた。
「彼女は女王の名によりその権利を保護されている戦争捕虜だ。知らぬとは言わせぬ」
　イェレミアスは憎しみに目をぎらつかせながら吐き捨てた。
「ただの捕虜ではない。敵国ティセニアとの内通および国家擾乱の罪が疑われている。よって帝国法に基づいて尋問の必要があると判断した。退け」
「濡れ衣も良いところだ。彼女に何ができる。大法官の許可なくばこの塔へ立ち入ることも外と連絡を取ることも叶わぬ幽閉の身で」
　チェシーは冷ややかに笑った。イェレミアスの背後に見え隠れする仮面の男に向かって侮蔑の口調を突きつける。
「尋問の当否ならばガレイラに判断を仰げばよかろう。貴公にその権限はない」
　仮面の男が憎々しげに舌打ちする。イェレミアスはわずかに背後を振り返り、頷いた。
「覚えていろ、サリスヴァール。いつか貴様の欺瞞を暴き出してやる」
「好きにするがいい」
　チェシーはにべもなくいなした。闇を見据える眼差しで仮面の男を射抜く。
「それがゾディアックの正義だと信ずるのであらば、な」
「退け。邪魔だ」
　捨て台詞を残すなりイェレミアスは肩をそびやかせ、チェシーを突き飛ばさんばかりにして螺旋階段を降りていった。軍人の一団が騒然と後に続く。
　仮面の男が目前を通り抜けた。
　青い瞳が行き過ぎざまにぎろりとチェシーとニコルをすがめ見る。だがチェシーは仮面の男などもはや眼中にもなかった。声もなくただ喘ぐニコルを支え、痛ましそうに顔をのぞき込む。
　ニコルはそのままずるずると膝から崩れ落ちそうになって眼を閉じた。
「しっかりしろ」
　チェシーが改めて支え直し、頬に手を触れる。
「熱があるな。とにかく部屋へ。歩けるか」
　ニコルはぐらぐらする頭を持ち上げた。声が出ない。チェシーは首を振った。
「分かった」
　身を屈めてすばやく膝下に腕を入れ、ぐっと身体ごと抱き上げるなり元の房室へと急ぎ戻る。チェシーは暗い房内を見渡し、寒々しい様子に息を呑んだ。大股でベッドに近づいてゆき、抱いていたニコルをそろりと下ろす。ベッドがぎごちなくたわみ、揺れた。鎖の音が耳障りに軋む。
　うっすらと青白く肌の透けて見えるネグリジェの裾が乱れ、冷たい鉄枷があらわになった。チェシーは暗い表情をさらに硬くした。
「すまない」
　異形の手をかざし、赤く腫れた足首を傷つけぬよう細心の注意を払いながらやすやすと鎖を引きちぎる。
　ニコルは熱に火照った頬をそむけた。イェレミアスに無理やりねじり上げられた手首に、鈍く光る火傷のような痣が浮かび上がっている。
「触らないで」
　息苦しく喘ぎ、身をふるわせる。
「落ち着け」
　チェシーは鎖輪の残骸を床へ投げ捨てた。撒き散らされる音が床に硬く響く。
「大丈夫だ。すぐに医師を呼ぶ」
「だめ……」
　ニコルは呻いた。鉄枷の残骸に打たれ、あやうい微光を帯びた何かの影がぬるりとのたうって闇へと逃げ込んでゆく。
「ニコル」
　押し殺した声が覆い被さった。
「ニコル」
　ニコルは反射的にかぶりを振った。我知らず涙がにじむ。髪がみだれ、宵波のように広がった。
「……触らないで……」
　チェシーが声を無くす。
　ニコルは苦しい息を押してチェシーを見上げた。思い詰めたような真摯なまなざしが細くたなびく燭の火のように揺れ動いている。
　その眼に、歪んだ自分の姿が映っていた。
　虚無の幻影に囚われた、凍り付く血の色の瞳。
　ニコルは悲鳴を上げた。
　腕にまとわりついた深紅の残映を振り落とし、逃れようとする。とっさにチェシーが後を追った。
「ニコル」
　ニコルは押しとどめようとするチェシーの手を振り払ってベッドの反対側へと転がり落ちた。息苦しく咳き込み、足を引きずって立ち上がる。手が何かに当たった。けたたましい金属の音を立てて水差しが跳ね転がる。
「しっかりしろ。本当に、どうしたんだ。何があった。何が」
　チェシーの足下からくろぐろとうねり伸びる月影が荒みきった悪魔の翼のようにも見えて、ニコルはまた息を呑んだ。
　これは幻影だ。恐怖が見せる失錯の幻覚。
　助けに来てくれたように思えたのも。
　こころぼそさのあまり、つい、気をゆるしてしまいそうになったのも。
　足下が今にも壊れそうな吊り橋のようにぐらぐらと傾くのも。
　何もかもが心の迷いだ。まやかしの嘘だ。仕組まれた罠だ。
　忘れてはいけない。思い出せ。この男だけは決して信じてはいけない。心を開いてはいけない。どんなに信じても想っても、どうせまた裏切るに決まっている。息をするように嘘をついて、つめたく笑って、掌を返して。だから、もう、絶対に――
　ふいにチェシーが顔をゆがめ、ニコルの手首を掴んで壁に押しつけざま、身体ごと覆い被さってきた。
「落ち着いてくれ、頼む」
　張りつめた吐息が降りかかる。ニコルは敵わぬまでももがき、声を振り絞ろうとした。だが動けない。
　声が迫り、視界が暗く遮られる。
　気後れしているように見えても男の力だ。いったん抑え込まれてしまえば抗うことなどできようはずもない。
　苦しい息づかいが、不意にくぐもった小さな悲鳴へと変わる。
　影が、重なる。
　優しすぎるほどに残酷な、もどかしい、不器用なキスがニコルを壁に押しつけた。
「すまない」
　ニコルは呆然と眼を見開いたままだった。
　悪魔の腕に容赦なく抱かれ、涙ごと唇を奪われ続ける。
　心が、消えかかる。
　呻きがこぼれた。
「レイディ」
　チェシーはふるえるニコルの肩を抱いてつぶやいた。
「分かっている。すべては私の咎だ。君を」
　目には見えぬ抑圧の薔薇が、見る間に絡みつく赤い罪人の鎖となって張り巡らされ、無意識下の感情をひねり潰してゆく。
　分からない。泥のように苦いくちづけの意味も、何かをどこかに置き忘れてきたようなおぼつかなさも、今はない遠い激情も優しい記憶も、何もかもが不甲斐なく刃こぼれ、行き違って、かつての自分がこの孤独な征服者をどのように思っていたのか、そんな簡単なことすら、もう。
　虚無が心をむしばんでゆく。
　繋がれた人形のように無気力な様子に気付いたのか。チェシーは身をこわばらせて後に下がった。眼を押し開き、ニコルを見つめ、何か言おうとしかけて言いあぐね、そのままくちびるを噛む。
　ニコルは熱にかすんだうつろな目でチェシーを見やった。
　心をがんじがらめにされて動けない。
　いっそ、壊れるまで泣き叫んで、自分が自分であることを投げ棄てることができれば、そうすれば少しは諦められたのかもしれない。なのに、どうしてだろう。もう、信じ方も、憎み方さえも、思い出せない。
　胸の奥に暗くしたたる赤い毒。
　謂われ無き罪責の念が、とろり、と、滲んで。
　不穏に広がってゆく。
「医者を呼んでくる。待っていろ」
　チェシーは最後にもう一度ニコルと目を合わせようとして異形の腕を伸ばした。頬に触れ、顔を上げさせようとする。
　奪い取られたナウシズから、かすかな呼びかけにも似た光がもれて眼に映り込んだ。
　ニコルは反応しなかった。血の色に染まった瞳孔に、光は届かない。
　チェシーは口元をゆがめ、思いを振り捨てるようにきびすを返した。階下の闇からル・フェを呼び出し、二言三言、何やら低く言い置いた後、急いた様子で階段を駆け下りてゆく。
　暗闇だけが取り残される。
　やがてその足音すらふつりと途絶えて消えた。

▼

　先のツアゼル侵攻でゾディアック軍が受けた被害は人的、物的両面に渡る甚大なものであった。ディラン皇太子率いる総勢二十万余の第一白羊宮師団のうち、早々に兵を見捨てひそかに単身退却したと噂される皇太子の他、無事に帝都まで帰り着いた者は将兵含め数千にも満たなかった。しかも失われた兵員の大半が直接の戦闘による死亡ではなく、兵站の失敗や麦角病等による戦病死、栄養失調などによるものだったのである。
　さすがにこの不名誉な敗退の原因が表沙汰にされることだけは帝国の面子にかけて許されなかったが、かといって人の口すべてに容易く戸を立てられるものでもない。どれほど隠蔽しようとやがて噂は憶測を呼び、憶測は嘲笑混じりの風聞となってひそやかに広まってゆく。
　皇太子が帰国以来、顔半分を黒い仮面で隠し、人前でも手袋やマントすら取らぬようになったこと、また直接責任を面罵されることはなくとも隷下の部隊がティセニア軍に対し何ら痛撃を与えることなく撤退したのに対し、女帝と大法官の密命を帯びてティセニアへ潜入しノーラス征圧の戦功をあげたサリスヴァールが実はやんごとなき血を受け継ぐ皇統の身であり、今までは内訌回避のため敢えて出自を隠していたと女帝アリアンロッド自らの誓言によって証明されたこと。
　これら二つの象徴的な事実が、皇太子の軍や宮廷内における水面下の影響力に微妙な変化をもたらしたのは言うまでもなかった。
　言外に語られる二つの名を肴に、戯れ言めいた密談が思い思いに交わされ、風説が乱れ飛び、通謀、讒言、流言が蔓延する。さながら絢爛豪華な腐敗にたかる蠅のように。
　宮廷内に流れる不穏な空気が光と闇に切り分けられた不吉な影を落としてゆく。
　疑心暗鬼の渦中にあっては野に下るも身を引くも等しく擾乱の波紋を投ずることに他ならない。皇太子は己の身の安泰を図るためならばどのような手段を執ることをも躊躇せぬだろう。ままならぬ情勢であることは誰しもが十分に承知していた。右に付くか。左に付くか。いまさら女帝の威光を揺らがせる真似はできない。
　諍いの火種は既に撒かれた。
　すべての面において圧倒的優位に立つなどということはあり得ない。
　皇帝の座を望む望まざるに関わらず、それはもはや悪魔の描いた滑稽な二律背反の終末図にも似て、あまりにも皮肉だった。

「サリスヴァールめ、盗賊上がりの分際で」
　イェレミアスは激昂を隠しきれぬ様子で机を殴りつけた。金物めいた音が響き、白鑞の杯が倒れて酒が流れ出る。足の細い真鍮の花器に飾られた絹の造花がテーブルに落ちた。
　強い蒸留酒の臭いが鯨脂の臭いと入り混じって不愉快に漂う。
　その斜向かい、銀狐の毛皮をうちかけた寝椅子に深く身を沈めた男が仮面越しにイェレミアスを見た。陰鬱に灯された燭台のたもとに、濡れそぼったなめらかな光がちらちらと反射している。
「騒ぐな。まだ光明はある」
「しかし、殿下」
　仮面の男はイェレミアスからそらした眼を激しく揺らぐ燭台の炎へと向けた。
「余は急がぬ」
　黒ずんだ純銀の燭台は灯した火の暗さのせいか、煙までがどこかいびつに見えた。壁際の台上にうずくまる獣の剥製が奇怪な影を天井にまで届かせている。濁ったガラスの眼が闇を睨んでいた。
　イェレミアスは苛立ち紛れに召使いを呼びつけ、来るのが遅いと言っては鞭で打ち、こぼした酒を拭く手際が悪いと言ってはまた打ちのめして追い払っている。
　仮面の男は侮蔑の眼差しを隠そうともせず、手袋を嵌めたままの左手で蒸留酒の杯を取り上げた。形ばかりに口を付ける。苛立ちを酔いで紛らわせられる時期はとうに過ぎ去ったとでも言いたげだった。
「あの女」
　用心深くつぶやく。
「何者なのだ」
　ようやく元通りになったテーブルに安堵したのか、イェレミアスは追従の粘ついた笑みを浮かべることに腐心し始めた。まだ空にもなっていない相手の杯に酒を注ぎ足す。
「あの魔女のことでございましょうか」
「サリスヴァールの態度を言っている」
　男は苦々しく吐き捨てた。
「たかが一捕虜如きにあれほど執心するとは。ティセニア土俗の迷信を信じているのか、それともルーンの聖女とやらに曰くがあるのか。調べねばならぬ」
「むしろあの男の行動そのものに問題があります」
　イェレミアスは一本調子に主張した。
「疑わしいことこの上もない。あの様子では殿下の地位を狙うどころか帝国の転覆、お命を縮め参らせることすら企んでいるやもしれませぬ」
「賤しくも皇統を名乗る者が異教にかぶれたのであれば即座に名誉を剥奪し処刑追放せねばならぬが。しかしそうは容易く馬脚を現しはせぬだろう」
　男は仮面の下で神経痛に引きつる顔を押さえた。
「相当用心してかからねばなるまい。売国奴であるならば告発の確たる証拠が必要だ。他に実のある情報はないのか」
「いえ、私のほうでは何も」
　イェレミアスは我に返った様子で気まずく口ごもる。男は低く舌打ちした。
「ブランウェンに探らせる他ないか。いや、ブランウェンは大法官の犬だ。筒抜けになっては元も子もない」
　酒をあおって空の杯を振り、苛々と続ける。酔いと嫉みの混じった青黒い瞳が混沌とくるめいた。イェレミアスがまた酒を注ぎ足した。
「ノーラスを放棄したかと思えば彼の地の封爵を願い出て許されたとも聞く。確かに聖女を盾にすればティセニアの神僕どもに対しては有効な牽制となろうが、しかしそれが何の益になるというのか」
　仮面の男は険しい眼で杯を睨み、なみなみと注がれた酒を揺らした。
「敵を再び引き入れんと謀ってのことかもしれぬ」
「御意にございます、殿下」
　イェレミアスは勢い込んで調子を合わせた。
「我が召喚魔どもがティセニア公女シャーリアを捕らえんとしたまさにその矢先に堂々と邪魔立てをし、あまつさえ敵に呼応して逃亡を手助けせんとしたのは紛うことなき事実。もし公女を捕虜としていればアーテュラス如き一軍人などとは比べものにならぬ価値となり、それこそ婚姻の政略をもってティセニア軍を完全に屈伏せしめることも可能であったはず」
　ここぞとばかりに私見を並べ立て続ける。仮面の男は饒舌を遮るように荒々しく杯を置いた。
「弁解はもう良い。現状で切れる札を探す以外にあるまい」
　執拗に炎を見つめ、舌で薄い唇をなめる。
「たとえ数千、数万の私兵を集めようとも力押しではサリスヴァールを討ち取ることもできぬだろう。同じ紋章使いたるそなたならばあるいは感付かれずに動くこともできようが」
　イェレミアスは愚かしく口ごもった。
「それは……奴はただならぬ魔物を子飼いにしておりますゆえ」
「となるとやはり打てる手も限られて来るか」
「打てる手とは」
「見て分からぬか。あの捕虜だ」
　仮面の男はつい声を荒らげた。苛々と足を踏みならす。
「あれは虜囚の扱いではないぞ。どう見ても囲い女そのものだ」
「何と」
　イェレミアスが驚愕の表情を浮かべる。仮面の男はあからさまに顔をそむけたがイェレミアスにとって幸いなことにその冷笑は仮面に隠されて見えなかった。
「身代金交渉を始めたとの噂も聞かぬ。敵国の女、それも一軍の将であったものを懇ろに扱うこと自体、叛意有りと見なされても致し方なかろう」
「しかしあの魔女、何やら怪しげな蠱業《まじわざ》を使うようですが」
「戯言を申すな。臆病者めが」
　仮面の男の厳しい叱責にイェレミアスは萎縮し、平伏した。
「は、申し訳ございませぬ。ではただちに」
「愚か者が。ただ捕虜を殺して何になる。邪魔者はまとめて始末せねばならぬ」
　イェレミアスは困惑の面持ちで顔を上げた。
「それは、しかしどのように」
　仮面の男は肩のマントを払い落とした。豪奢な金の鎖をあしらい、深緑に赤絹の裏打ちをした天鵞絨の長上衣が現れる。ろうそくの火の色に染まった白絹のクラヴァッティを結び止めているのはゾディアックの皇族であることを示す略綬章だった。
「あの女を半殺すなり辱めるなりして、そうだな、奴の目の前で拉致し、盗賊の群れにでも投げ与えてやればよい。愚かしくもサリスヴァールが女の後を追えば皇族にあるまじき軽佻浮薄な振る舞いとして糾弾すれば良し、追わねば無論それまでの命だが、たかだか捕虜の一人や二人ごとき死なせたところでどうということはなかろう。サリスヴァールが捕虜への尋問を拒否したという事実さえ手元に残ればそれでよいのだ。くわえてティセニアへの逃亡を黙過したとあらば帝国への背任、通謀をくわだてた罪を問われ軍法会議に掛けられたとしても反論できまい」
　ゾディアック皇太子ディランは神経を冒す病毒に固くゆがめられた笑みをイェレミアスへとくれた。
「むろん、謀りごとの類に余は関与せぬ。が、成就すれば、すべてがそなたの勲功となろう」
　鯨脂の蝋燭が音を立てて燃えている。ひどい臭いだった。交易商人が持ち込む西方の蜜蝋やティセニアの木蝋を用いた蝋燭のたおやかな炎とは余りにも違う。
　冒険商人どもは国家間の戦争などお構いなしだ。異国から異国へと、追風に帆掛けて何ヶ月も月と星だけを頼りに外洋を航海して荷を運ぶのだという。商人どもはティセニアの海を青い宝石の道と呼んだが、皇太子にとって海は単純に領土の果てを示すものでしかなかった。その先を見ることも、思いをめぐらせることもない。ただ存在自体が不快なだけだ。
　そして、落ち着かぬ炎が燻り出す黒い煤煙もまた、行く手を遮るあの男の影に似て、ただひたすらに不快だった。

▼

　乾いた土煙が上がっている。
　銃を抱えた兵の一軍が騒然と行き交い、槌を打つ音が響き渡る。資材を満載した輜重車が轂《こしき》を軋り、怒鳴り交わす兵士達の声はやかましいのを遙かに超え、どよめきに近い。
　難攻不落とうたわれたノーラス城砦が鎮守していた国境周辺の森。だが平穏だった森は今やゾディアック軍が引き起こした過剰な魔召喚によって生態系を完全に破壊され、魔物どもの跋扈する異界へと堕落していた。
　根絶は不可能だった。召喚そのものを無効化するナウシズの加護なくしては、いくら魔物の群れをなぎ倒したところで後から後から雲霞のように新たな魔物が湧いて出るばかりで手の施しようもない。
　それでもノーラス城砦を完全に放棄するわけにはゆかなかった。城砦本体は悪魔の空爆を受けて炎上したものの、彼の地の要衝としての価値までが崩壊したわけではない。魔を制御する方法を――あり得ないことではあるが全く想定外と頭から否定するわけにもゆかない、とある方法を用いて――敵が魔召喚を一気に無効化し、ノーラスを足がかりにして侵攻を試みてこないとも限らない。通常の哨戒任務すら困難を極める状況では、いつ如何なる事態が生じようと迅速に対処する準備と覚悟が必要だった。
　よって、エッシェンバッハ元帥率いる第三師団を中心に、指揮官不在の第五師団とクリスティアン元帥率いる第四師団とがノーラス南部に広く防衛線を展開してゾディアック軍の侵攻に備えるとともに彼の地からあふれてくる魔物を撃退する日々が続いていたのである。
　ノーラスの森南端に位置するこの小さな村は、エッシェンバッハ率いる第三師団の管理下にあった。村の建物も殆どが兵営として徴発され、外郭防衛最前線の監視所として機能している。
　古ぼけた木造の礼拝堂前に広がる広場は、平素であれば子どもたちが歓声を上げて犬やニワトリを追い回したり、地面に輪を描いて陣取りをしたり、棒きれや石ころで武装したルーンの守護騎士ごっこをするといったようなほほえましい場であった。
　だが今はもう、そのように無邪気な光景などどこにもない。
　広場はにわか作りの廠舎で埋め尽くされていた。じりじりと灼熱の太陽が照りつける空の下、ティセニア軍旗が青く燦然とはためき、天幕が建ち並び、荷車がひしめき、両輪のついた野戦砲がぎらりと黒光りする砲口を見せて待機している。
　そこかしこに積み上げられた木箱には火気厳禁の焼き印が入れられ、銃を持った兵士が道をふさいでは側に近づこうとする者を片っ端から誰何していた。敵に遮蔽物として利用されることのないよう、防衛線近くの建物や林はことごとく解体され撫で切られて、その廃材は何重にも組み合わされた頑丈な木の防護柵や尖らせた鉄刺を巻き付ける杭へと流用されている。
　鉄金具の音が響き渡り、輓馬が野太くいななく。
　村の北端へ目を転じると、なびく軍旗のたもとに土嚢を積み上げ、塹壕を掘る作業に従事する工兵と一緒になって、持ち籠に掘った土を積んで運ぶ老人や女たちの姿が見えた。小さな子どもたちが必死に水を汲んでは手杓を持って走り回り、水を求める者に誰彼となく配り歩いている。
　最前線の防衛陣地と化しているのはこの村だけではない。ノーラスの森を望む一帯に張り巡らされた防衛線は畑を迂回し、森を突き抜けてどこまでも続いている。
　そんななか、疲れた顔のティセニア軍兵士に混じって、明らかに雰囲気の違う、漆黒の法衣をまとった神殿騎士が鋭い眼差しで立ち通しているのが見えた。
　その眼差しはゾディアック軍や魔物の押し寄せる北方ではなく、村の広場から少し奥まったところに立つ一軒の宿陣へと注がれている。公国軍の所属でないことは、風になびく白いストールと手にした銀杖、薔薇のアンクを紋様として縁に染め抜いた装いを見れば一目瞭然だ。
　そこへ、監視の目を物ともせずに堂々と神殿騎士の目の前を横切ってゆこうとする少女が現れた。
「みなさま、ごきげんよう。ほんじつもよいおてんきですこと」
　ふわふわした白金の巻き毛を二つに分けて結び、ちょこなんと後ろへ傾け気味にかぶったえんじ色のベレー帽からくるくるとやわらかく流して、レース仕立ての肩掛けポーチを斜め掛けし、緑と黒を組み合わせたエプロンドレスを着ている。
　少女は片手でドレスの端をつまんでおしゃまに会釈した。ぱっちりとした薄い紫の大きな瞳が無骨な神殿騎士たちを見上げる。
「レイディ・チュチュ、どちらへおいででしょうか」
　仏頂面の神殿騎士に問われ、少女は可愛らしく小首をかしげて微笑んだ。
「ちょっとそこまでですわ。そうそうこれ、みなさまでおめしあがりになって。はい、どうぞ」
　チュチュはハンカチでふわりと蓋をしたバスケットからキャンディの瓶を取り出した。綺麗な包み紙のキャンディを一個ずつ手にとっては、神殿騎士に振る舞ってゆく。
「それではみなさまごきげんようさようなら」
「どちらへおいでになられますか」
　再度問われ、チュチュはもじもじした仕草でバスケットを抱きかかえた。
「そちらのおやどへおとどけものにまいりますの」
「軍属含め、許可なき者は出入りさせぬようにとの御諚が出ておりますが」
　うって変わって冷ややかな口調になった神殿騎士がチュチュの行く手を遮る。
　チュチュはつん、と唇をとがらせた。
「ととさまのめいれいなんてチュチュにはぜんぜんかんけいありませんことよ」
　言いながら神殿騎士の合間を無理やりに押し通る。
「それにアンシュはノーラスでわたくしのみのまわりのせわをさせていたじじょですわ。あるじがじじょにことづてをめいじてなにがわるいのかしら。ちょっと、そこ、どいてくださらない？」
　さすがに守護騎士の令嬢が相手では、神殿騎士たちも力ずくでは止めようとしなかった。
　精一杯の虚勢を張って神殿騎士の制止を振り切ったチュチュは、広場を抜け、宿陣の表ではなく、通用口になっている裏側へとやって来た。中からつっかい棒を差して開けっ放しにされている戸を見上げ、輪になったノッカーへと手を伸ばす。
　届かない。
「とどきませんわ」
　少し考え、さらに手袋をはめた手を高く伸ばしてみる。
「どうしましょう」
　チュチュはしょんぼりと肩を落とし、ためいきをついた。開いている戸に向かって声を掛けようとは思わないらしい。
「がんばるしかありませんわね」
　持っていたバスケットを階段に置き、今度は両手でじたばたともがきながら頑張ってつま先立ちして遙か高みのノッカーを目指す。
「もうすこしですわ」
「何ぺったり貼り付いてんだ、ちびのレイディ」
　突然背後から人影が差した。呑気な声がひょいとチュチュを抱き上げる。
「こんなむさ苦しい兵員食堂なんかに来て」
　チュチュはこれ幸いと手を伸ばし、楽々届くようになったノッカーをはっしと掴んで叩き鳴らした。
「こんにちは、どなたかいらっしゃって？」
　可愛らしい声と同期した固い音が響く。
　何とか目的を果たし、満足しきってチュチュは振り返った。
「ごきょうりょくかんしゃいたしますわ、アンドレーエかっか」
「どういたしましてだ」
　アンドレーエは陽気に首を振って応じる。チュチュは人懐こくアンドレーエの首に腕を回して挨拶代わりのキスをしながら言った。
「ごきげんよう、おみあしのおかげんはいかが？」
「すこぶる悪いが、別に困っちゃいねえってところだ」
　アンドレーエはチュチュを揺すり上げて片腕に抱っこし直し、松葉杖の先でつっかい棒を跳ね飛ばしながら怒鳴った。
「おーい、ヒルデおばさん、お客様だぜ」
「……誰がオバサンだって！」
　即座に剛毅な怒鳴り声が返ってくる。
「アンドレーエかっか、バスケットもわすれないでくださいませね」
「おっと、すまねえ」
　アンドレーエは苦笑いしてバスケットと松葉杖を交互に見やり、しばし考え込んだ。中からどすどすという荒い足音が近づいてくる。
「まさかあんたまた昼間っからくだを巻きに来たんじゃないだろうね」
　右手に肉切り包丁、左手に巨大な骨、という凄まじく夢に見そうな出で立ちで現れた食堂のおばちゃんことヒルデ鬼軍曹はアンドレーエが抱っこしていたチュチュの顔を見るなりにこにこと相好を崩して駆け寄ってきた。
「おや、あらまあ、ちっちゃなレイディじゃないか。ようこそ」
「ごきげんよう、ヒルデぐんそう」
　チュチュは天真爛漫な微笑みを浮かべ、ドレスの裾をつまんで持ち上げる。アンドレーエはヒルデ軍曹が踏みつぶしてしまう前にあわてて足下のバスケットの存在を知らせた。
「悪いけど拾ってくんねえかな。いさましいちびのレイディからのお心付けだ」
「いもんでむらのちいさなお子たちにくばったキャンディがほんのちょっぴりあまりましたのでアンシュといっしょにたべようとおもってもってまいりましたのよ」
「そうかいそうかい、それは有難いね。きっと喜ぶよ」
　ヒルデ軍曹はあわてて包丁をしまい込み、バスケットを拾い上げた。アンドレーエに眼で合図しつつぞんざいにあごをしゃくる。
「入んな、ヨハン」
　ちらりと外を見渡す。目立った人影はない。アンドレーエもまた何食わぬ顔でうなずいた。この食堂が神殿騎士に監視されていることは分かっている。その理由も。
「ねえ、アンドレーエかっか、そろそろおろしてくださる？」
　チュチュは抱っこされていることに退屈したらしく、アンドレーエの世捨て人めいた無精髭をさんざんに引っ張りながら言った。
「ちょっとばかし痛えんだけど」
　苦笑しつつも言われるがままにチュチュを下ろす。
「アンシュなら厨房にいるよ」
　ヒルデ軍曹にいざなわれ、チュチュとアンドレーエは左右の棚に什器やら何やらいっぱいに積み上げた狭い通路を抜け、蒸気と美味そうな匂いと喧騒に満ちた厨房へと向かった。
「でも今はみんな忙しくしてるし、火とか熱いお湯とかがあって危ないから、少し、そうだね、そこの酒浸りの無駄飯喰らいと一緒に椅子に座って待っててくれるかい」
「何っ」
　ヒルデ軍曹が膝を折って屈み込み、チュチュにバスケットを手渡しながら真顔で言い聞かせている。アンドレーエは思わず聞きとがめて文句を言った。
「レイディの前で人聞きの悪いことを言ってくれるなよ」
「さけびたりのむだめしぐらいってどういういみですの、かっか」
　だが時既に遅かりしである。さっそくの質問にアンドレーエは頭を抱えた。
「働かざる者喰うべからずってことさ。今の俺みたいな、ね」
　チュチュは心外そうに眼を瞠った。
「そんなことありませんわ。ひどいおけがをなさったのですもの。ととさまだって、ええと、たいえき？　になってもおかしくないおけがだっておっしゃってましたわ。だから、たんとたべなくてはいけませんことよ」
「あんがとよ。ほら、これに座りな」
　ヒルデ軍曹がアンシュベルを呼びに行っている間、アンドレーエはその辺りにあった木の丸椅子を適当に見つくろってチュチュを座らせた。チュチュはうなずいてちょこんと腰掛けた。足をぷらぷらさせながら手を膝に置いてじっと待っている。
「おきづかいうれしくおもいますわ」
「ああ」
　アンドレーエは苦笑し、ふとチュチュから眼をそらした。
「退役か」
　松葉杖を壁へと立てかけ、腕を組んでもたれながら暗い表情でつぶやく。
「このザマじゃ、しょうがねえな。ホーラダインが戻ってきたら確定だ」
　そこへアンシュベルがやってきた。あたふたと前掛けで手を拭きながら駆け寄って来る。
「きゃああちっちゃなレイディ！　わざわざ来て頂いてありがとです！　アンドレさんもわざわざくだ巻きに来てくださってありがとです！」
「だからくだなんて巻かねえって」
　アンシュベルは外のことなど全く気にも留めていないようだった。大げさな素振りで盛大な歓声をあげ、チュチュとかたく抱き合っている。チュチュはバスケットを差し出した。
「アンシュ、はい、これ。おみやげですの」
「えええ何ですか何ですかっ！？　開けていいですかっ？」
「どうぞですわ」
「わくわくですうっ！」
　アンシュベルはときめきに声をひっくり返らせながらにこにこしてハンカチをぴらっとめくった。
「きゃああああああああ！！！」
　バスケットの中から甘ったるい色の砂糖菓子やらクッキーやらキャンディやらが燦然と光輝を放って表れる。それを眼にするなり、頭のてっぺんからクラッカーを弾けさせたかのような嬌声を上げてアンシュベルはチュチュを再度抱きしめた。
「おいしそうですっ！　うれしいですっ！　アンシュずうっと甘いおやつが食べたかったですっ！　それはそれは甘味に餓えまくってたです！」
「でしたらどうぞめしあがって」
　チュチュもつられて破顔し、うなずく。アンシュベルは物凄い勢いでキャンディを二つ、握りしめた。
「いちごミルク味、いちごミルク味っと。この二つは後で押し戴いて伏して食べるです！」
「今食えよ。せっかくなんだからさ」
　アンドレーエがあきれ顔で指摘する。アンシュベルはにこにこしながら首を横に振った。
「これは師団長が帰ってきたときにあげたいから取っとくです。師団長も副司令もいちごミルク味大好きでしたから」
「アンシュ、お前」
　アンドレーエは半ば呆然と眼を押し開いた。アンシュベルのくじけぬ明るい表情をまじまじと見つめる。
　アンシュベルはアンドレーエの視線に気付くと少しはにかんでもじもじした。
「きっと、何とかなるです。師団長も、きっと帰ってくるです。あたし、信じてるです」
　ポケットから何やら妙なハンカチを取り出し、いそいそとキャンディを包み始める。ハンカチにはなぜか無駄に華麗なザの字がずらりと金糸で刺繍されていた。
「帰ったらこのヘンテコリンなはんかちを副司令に返すから、その時までにちゃんと洗ってアイロン掛けしとくようにって……師団長、出陣した日にアンシュにそう言ったです。今度こそちゃんと返すからって。だから」
　アンシュベルはハンカチでキャンディをくるみ、きちんと包み終えると、大事そうにポケットへとしまい込んだ。それでほっとしたらしく、ちいさく舌を出して肩をすくめ、笑う。
「そのときのために、やっぱいちごミルク味は取っとかないと、なのです！」
「ですわよね。なのにととさまったら」
　チュチュは少し怒った口調で遮った。真剣な顔でぷうと頬を膨らませる。
「ほかのひとのいるところではアンシュとくちをきいてはいけないとか、ここにきちゃいけないとか。しんでんのものにみはられてるからだめだっていうんですの。そんなのあんまりですわ！」
「だめですよ、ちっちゃなレイディ」
　アンシュベルはあわててかぶりを振った。
「エッシェンバッハさんのおっしゃることはちゃんと聞いて欲しいです。じゃないとレイディにも炊事長さんにも御迷惑がかかっちゃうです」
「いいえ、まちがってるのはととさまのほうですわ」
　チュチュは頑として意見を曲げようとはしなかった。
「アンシュもアーテュラスかっかもわるくありませんもの。チュチュにはわかってます。でも、まだちっちゃいから、どうしたらいいかよくわからないのです……」
「ありがとです」
　アンシュベルはこみ上げる思いをそのままにチュチュを強く抱きしめた。
「そのお気持ちだけで十分なのです。みんな無事でいてくれさえすれば、それで」
　そのとき、ふとアンドレーエが顔を上げた。
「何だ、この騒ぎは」
　表が騒がしい。緊迫した気配が取り巻いている。
　ヒルデ軍曹が血相を変えて駆け戻ってきた。
「あんたら、気をつけな。食堂前に神殿の連中が集まって来てる」
「何っ」
　アンドレーエはとっさにもたれていた壁から身を起こした。すかさずアンシュベルが落ち着いた冷静な仕草で松葉杖を取って手渡す。
「ヒルデブルク糧食担当長、表へ」
　エッシェンバッハの苦々しい声が響き渡った。
「聖ワルデ・カラアよりの沙汰を伝える」
「くそっ、あの野郎……！」
　アンドレーエは思わず口汚い罵詈雑言を吐き散らしかけた。
「馬鹿をお言いでないよ。レイディの前で」
　ヒルデ軍曹がこっぴどく叱りつける。チュチュは不安そうにヒルデ軍曹とアンドレーエを見比べた。おろおろと両手を結び、揉み合わせる。
「アンシュ、つれていかれちゃうの……？」
「大丈夫。気にしないで、です」
　アンシュベルは気丈に首を振ってみせる。
「俺が行こう」
　アンドレーエは居ても立ってもいられずに身を乗り出した。
「話を付けてきてやる」
「だめだ。あんたが行ったんじゃ収まる話も収まりゃしない。ガキは大人しくすっこんでな」
　頭ごなしに一喝されてアンドレーエは黙り込んだ。
「とにかくまずは話を聞いてこなくちゃ。ヨハン、あんたはアンシュの傍にいてやるんだ」
「でも！」
「でもじゃない。言うとおりにしな」
「ああ、くそ、こんちくしょう！　分かったよ」
　アンドレーエは苛々と歯がみしながら答えた。大きな身体を揺すって出向いてゆくヒルデ軍曹の背中を、動揺の抑えきれぬ表情で見送る。
「仕方がねえ、ここで待とう。運が良けりゃあ……」
「いいえ、まちがってますわ」
　チュチュはちいさな手が真っ白になるほど固くこぶしを握りしめた。
「ととさまはまちがってます。ととさまのおっしゃることはいつもただしいけど、でも、あまりにもただしくあろうとなさりすぎて、いつも、いちばんたいせつなときに、いちばんたいせつなことをおまちがえになるのですわ」
　思い詰めた顔でつぶやくなり、ワンピースをふわりとひるがえして表へ駆け出してゆく。
「レイディ」
　思わずアンシュベルが追いかける。焦ったアンドレーエが引き止めようとするも間に合わない。
「何てこった、あのガキども」
　アンドレーエは痛む足を引きずりながらアンシュベルとチュチュの後を追って表へと飛び出した。
　外の空気は険悪そのものだった。神殿騎士がずらりと隊伍を組み、食堂を包囲している。
　絶句し、つんのめって立ち止まる。
　息を呑む雰囲気を漂わせたエッシェンバッハと眼が合った。
　おそろしく固い表情。血の気が失せるほどけわしく引き結ばれた唇。
　丈の長い、漆黒の外套を不穏にはためかせ、強迫的なまでに堅く巻き付けた鉄鎖を腕章のようにぎらつかせて、さながら死刑執行人のような装いで立ちつくしている。
　アンシュベルが息を吸いとめ、後ずさった。たじろいだ表情がみるみる青ざめてゆく。
「依命通達」
　エッシェンバッハは押し殺した声で続けた。
「ヒルデブルク糧食担当長に命ずる。異端隠避の罪によりレイディ・アンシュベルの身柄をすみやかに引き渡すべし。通達は以上だ。神命に逆らう者は異端者蔵匿の責めを受けることになる。心して聞くが良い、レイディ・アンシュベル――営倉入りだ。同行せよ」
　アンシュベルが絶句する。アンドレーエは思わずアンシュベルの肩を支えようとして、歯を食いしばった。
　華奢な肩が小刻みに震えている。
「エッシェンバッハ、てめえ……」
　アンドレーエは軋る声で吐き捨てた。怒りのまなざしを突き立てる。エッシェンバッハは唇を引き結んだ。
「これは、命令だ」
　聖ローゼンの教えに叛けば、異端と背教の罪になる。
　異端隠避の罪は異端の罪に次ぐ重罪だ。本人不在の魔女裁判で聖女の血統を偽り、性別を偽り、聖騎士の栄光を地に堕とし神を愚弄した、とまで嘲罵されたアーテュラスがティセニアに連れ戻されれば即刻死罪となるのと同様にその秘密を隠匿したアンシュベルもまた共謀者と見なされて当然だったのである。
　アンドレーエは己の見通しの甘さにどうしようもなくほぞを噛んだ。
　アーテュラスが女だと見抜けなかったのは致し方ない。外見や性格が如何に軟弱に見えようと、一度でもあの暗黒のカードが引き起こす容赦ない殲滅力を見せつけられれば傍目には傍若無人の印象しか残らぬだろう。それほどまでに凄まじい力を振るう者が、まさか、女であるはずがない――と。
　誰しもがそう思っただろうしアンドレーエ自身にもそういった差別とまではゆかなくとも、男に決まっている、という思い込みがあったことだけは否定できない。いくら子どもっぽく女っぽく見えても、まさか、本当に女だとは思わなかったのだ。
　しかし何年もの間アーテュラスの傍近くに仕え、直接身の回りの世話をしてきたアンシュベルにその釈明が許されるはずもないのは言うまでもなかった。
　アーテュラス内務卿夫妻やホーラダインを異端隠避として粛清の嵐に巻き込むのはあまりにも国内外への影響が大きすぎて現実的ではない。よってアンシュベルただ一人が贖罪の羊に祭り上げられ、全ての罪と罰を負わされる形になるであろうことは分かっていた。分かっていて、つい、安逸とした日々にかまけて見逃してしまった。もっと早く逃がしてやれば、ニコルを待つと言ったアンシュベルを強引にでも誰かに匿わせていれば、こんなことには。
「異議を申し立てる」
　アンドレーエはかろうじて平静を取りつくろった。煮えくりかえる思いを必死に押し殺す。
「まだ罪が確定したわけじゃねえだろう。なのに何でいきなり」
「命令に従え、アンドレーエ。さもなくば」
　エッシェンバッハは一瞬口を閉ざしてアンシュベルを見、すぐに眼をそらして、名状しがたい視線をアンドレーエへと走らせた。
「貴公も同罪である」
　酷薄な宣告にアンシュベルが肩を震わせる。アンドレーエは激情に駆られ、足を踏み出した。
「アンドレさん」
　かすかな声が聞こえた。
「もういいです」
「アンシュ」
　アンドレーエは心臓を掴まれたような心地でアンシュベルを見下ろした。
「だめだ」
　離れてゆこうとするアンシュベルの手をとっさに掴んで引き止める。
「行かなくていい」
「アンドレさん」
　怖気づいたぎごちない笑みがアンドレーエを見つめていた。
「ありがとです。でも、もう」
　アンシュベルは弱々しくかぶりを振った。アンドレーエの手にそっと掌を重ねて、振りほどく。
「御迷惑はかけられないです」
「いやだ、アンシュ、いっちゃいやです」
　チュチュが悲鳴にも似た泣き声をあげてアンシュベルのスカートにすがりついた。その小さな身体をヒルデ軍曹がくしゃくしゃになった顔で引き剥がす。
「はなして！　みんなだいっきらい！」
　チュチュは大暴れに暴れながら、か弱いこぶしでヒルデ軍曹の手を叩き続けた。
「チュチュはアンシュといっしょがいいの。いっしょじゃないとだめなの。ととさまのばか！　いつも、おんなじところでまちがって。かあさまがなくなったときも、あんなにチュチュがおうちにかえってきてくださいってひっしにおてがみかいたのに、しらんぷりして、おくにのためにってせんそうばっかりして。ばかばかばか！　だいっきらい！」
　チュチュは泣きじゃくりながらヒルデ軍曹の手を振り払った。そのまま荷馬車の激しく行き交う往来へと飛び出してゆく。焦ったヒルデ軍曹が無我夢中で後を追った。
「危ない、レイディ」
「止まれ、動くな」
　脱走するとでも思ったのか、神殿騎士たちが血相を変えて立ちふさがった。無謀にもヒルデ軍曹の前へ銀杖を交差させて行く手を遮ろうとする。
「どきな、うすのろども！」
　怒れる象のごとき憤怒の形相でヒルデ軍曹は神殿騎士の隊列へと突っ込んだ。渾身の体当たりで中央突破する。哀れ神殿騎士の一部隊は木っ端微塵に粉砕されて吹っ飛んだ。
「邪魔してんじゃないよ、お退きったら！」
　腕にひっかかった神殿騎士の襟首を掴んではぶん回し、往来を越えたはす向かいの家の屋根にまで豪快に投げ飛ばして吼え猛っている。
「アンドレーエ」
　霹靂を秘めた、低い声が耳を打つ。
　エッシェンバッハの声だった。踵を返し、背を向けようとしている。
　騒動の渦中だというのに、軍帽の庇をぐいと引き下げ、苦々しく腕を組んで、縦横無尽に暴れ回るヒルデ軍曹を睨みすえている。
　故意にアンシュベルから目を離して。
「……てめえ！」
　アンドレーエはふいに大きな息をつき、かすれきった苦々しい笑いを放った。
　暗い森の中での凄絶な記憶の数々が甦った。
　魔の眷属に身を堕とし、ティセニアを裏切ったサリスヴァールをいつまでも信じて橋を守ろうとし続けたアーテュラスの虚しい後ろ姿。
　そして、常に冷静沈着だったあのホーラダインまでもが、敵陣に単身突入し、一敗地にまみれ、川に這いつくばった惨憺たる姿を晒してまで、前へ進もうとしていた。
　それに引き替え、この、自分は。
「ああ、そうだよ」
　アンドレーエは自棄の限りを尽くして嘲った。エッシェンバッハはぴくりとも眉を動かさない。
「俺は臆病者だ。逃げて、隠れて、忍んで生きるしか能のねえ、騎士なんて名乗るもおこがましい由緒正しき盗っ人だ。その俺が！」
　アンドレーエは再びアンシュベルの手を取り、強く握り直した。何が何だか分からずにあたふたするアンシュベルを前に、また高々と笑う。
　アンシュベルはぱちくりと大きな眼を瞠った。
「何わけわかんないたわごとを抜かしてるですアンドレさん」
「まさか、まだ、元帥の肩書きなんてえクソ有難くもねえ免罪符に未練があったなんてよ。びっくりだよなあ、おい！」
「世迷い言などどうでも良い」
　エッシェンバッハはアンドレーエの独白を鼻先でいなした。軍帽の庇をさらに深く引き下げる。
「さっさと行け」
　静寂のイーサがきらめく。アンドレーエは笑った。
「そういうことだ。来い、アンシュ。ずらかるぞ！」
　アンドレーエはアンシュベルの手を引き、心置きなく身をひるがえした。
　邪魔になる松葉杖をその場に投げ捨て、何気ないふうを装ってすたすたと厨房を通り過ぎる。
　表ではまだ盛大に暴れているらしく、ヒルデ軍曹のたくましい雄叫びが聞こえてくる。
　それを後目にアンドレーエは裏口からひょいと頭を突き出した。どうやらあまりの馬鹿騒ぎに全員が表へ回ってしまったらしい。二、三度、左右を確認して人の気配がないことを見て取るやアンドレーエはすばやく指をしゃくってアンシュベルに合図を送り、外へと飛び出した。
「待て、囚人はどこだ」
「逃げたぞ、探せ」
「裏か」
「追え。取り押さえろ」
　さすがに気付かれたらしい。叫び交わす怒鳴り声が伝わってくる。
「おっと」
　アンドレーエは苦笑いした。せっかくの心尽くしを台無しにしてしまうわけにはゆかない。ぐずぐずしてはいられなかった。アンシュベルの手を引き、路地から路地へ、破れ木戸を野良猫のようにくぐり抜けて自由自在に伝い走る。
　しかしただ一直線に街道目指してゆくのでは芸がない。アンドレーエはわざと迂回してジグザグに逃げ回り、そのつどニワトリやら子豚やらをひっつかまえては見当違いの所に放り投げるわ、群れで飼われている豚の柵を大開放して集団脱走させるわ、野良犬の群れに拾った骨を投げつけて無駄に大げんかさせるわと、まさに陽動作戦の名手らしくここぞとばかりにやりたい放題、思いつく限りの悪事をはたらきながら追っ手を撒ききり、一気に村の外れまで到達した。
　あまりの見事な逃走ッぷりにアンシュベルは、吹っ切れた素っ頓狂極まりない笑い声をあげてアンドレーエの首にかじりついた。肩で息を弾ませながら笑い続ける。
「きゃあああカッコイイですステキですアンドレさん悪人すぎですもうこのまま悪の組織に入れそうですっ！」
「それじゃああまりにも人生転落しすぎだろ」
「えへへへいいんですっ！　だってほら、これってどう考えても手に手を取り合っての愛の逃避行！　それとも萌え萌え度最強のか・け・お・ち！　ってやつにしか見えないじゃないですかっ！　うひゃぁあん、まさにオトメのあ・こ・が・れ！　ああんもうこのまま地の果てまでもアンシュをさらって強引に逃げちゃってくださいですぅうう！」
「おい、ちょっとは真面目に逃げろって」
　アンドレーエは飛びついてくるアンシュベルの存外な感触に焦りを隠しきれず、あたふたと引き剥がした。
「逃げてる張本人がきゃあきゃあ喜んでどうするんだよ」
「あ、そうでしたです」
「声がしたぞ！　あっちだ！」
　後方から神殿騎士たちの怒鳴り声が迫ってくる。
「ほら見ろ、気付かれた」
「ありゃりゃ」
　アンシュベルは小首を傾げた。
「どうしましょ」
「どうもこうもねえや」
　アンドレーエは野性味のある笑いを浮かべた。
「毎度の如く逃げるが勝ちだ。まずはとにかく防衛線の北っ側に出る。そうすれば奴らは追って来られねえ」
「防衛線って？」
　唐突に神殿騎士の叫びが聞こえた。
　近い。
「静かにしろって」
「えっ、もうここまで逃げたら大丈夫で……」
　とっさにアンドレーエはアンシュベルの口を掌でふさいだ。
　背後の納屋の陰から二人組の神殿騎士が出てくるのが見えた。建物の大小を問わず臨検しているらしい。
　まるで状況の分かっていないアンシュベルが未だ懲りずにじたばたともがいているのを半ば無理やりに背中から抱きすくめ、気を凝らして、静寂のイーサが支配する不可視の領域へと身を紛らわせる。
「声を立てるな」
　笑いをそぎ落とし、アンシュベルに低く耳打ちする。
　アンシュベルはようやく神殿騎士の存在に気付いて息を呑んだ。
　恐怖に身をすくませ、動かなくなる。
「大丈夫だ」
　アンドレーエはゆっくりと安心させるようにささやいた。
「奴らに俺たちの姿は見えない」
　神殿騎士は一軒ずつ納屋を開け放ち、家畜小屋を覗き込んでは山積みの飼い葉を杖で掻き分け、脱走者の痕跡が残されていないかを用心深く調べ歩いている。
　アンシュベルがふいに力を抜いた。アンドレーエの腕にゆったりと身を預け、ゆるんだ息をつく。アンドレーエはにやりと笑ってうなずき返した。
　神殿騎士は、二人が息を潜める道端の木立を目前にして通り過ぎてゆく。
　そのまま、何ごともなく行き過ぎてしまうかと思えた――そのとき。
　神殿騎士の一方が突然立ち止まった。
　不審そうな顔で周りを見回している。
　アンシュベルが悲鳴にならない悲鳴をあげかける。アンドレーエは思わず顔を引きつらせ、アンシュベルの口をなおいっそう強くふさいだ。
「どうした」
　一方の神殿騎士が怪訝そうにたずねる。立ち止まった神殿騎士は困惑の表情を浮かべて首を傾げた。見たところかなり若い。
「いえ、その、気になる匂いがしたもので」
「匂いだと」
　苦々しい表情でもう一方の神殿騎士が問いただす。
「何のだ」
「はっ」
　若い神殿騎士は緊張した顔をわずかにほんのりと赤らめた。
「……その、何というか、若い女の子の髪の毛の香りというか、石けんの香りというか……」
「貴様、弛みすぎである！」
　たちまち神殿騎士は烈火の勢いで怒鳴りつけた。
「それが名誉えある神殿騎士の台詞か！　神の御前に仕えし騎士がそのようなふしだらな妄想を抱いて如何する。心より猛省し神の前に懺悔致せ。後ほど総括を聞く。よいな、覚悟せよ！」
「は、申し訳ございませぬ！」
　神殿騎士は蒼白になって上官に付き従い、アンシュベルの前から離れていった。そのまま遠ざかってゆく。
　アンドレーエは呆然と神殿騎士を見送り、ようやく安全を確認して、長々と嘆息しつつアンシュベルを解き放った。
「驚いた……せっけんの匂いって……あの小僧、過敏すぎるだろ……」
「まったくです」
　自分のせいで気付かれたとも知らず、アンシュベルも一緒くたになってやれやれと苦笑した。
「可哀想に、きっと溜まってるですね」
　ぽろりともらした一言にアンドレーエはぶったまげて眼をひん剥いた。
「な、何だと！？」
「はい？」
　アンシュベルはきょとんとして小首をかしげた。困ったような顔で笑う。
「えっと、その、やっぱりみんな少しずつ疲れが溜まってるんだなあって思っただけですけど……」
「そ、そうだな、疲れるなはははは疲れるに決まってるよなあ俺もその今の一言で一瞬にしてぐったりと疲れた気がするからなあ、さ、さてとそろそろ行くか」
「はいです、アンドレさんっ」
　アンシュベルはまったくもって屈託のないほがらかな表情でぴょこんと姿勢を正し、敬礼し、それからやにわに人なつっこく笑み崩れてアンドレーエの腕にむぎゅうとしなだれかかった。
「えへへ、とりあえずくっついていくです！」
「そ、そうか、それは、何というか……違う意味で危険が、あるような、ないような、気がしてしまうんだがな……ううっ」
　何も考えてないようで何考えているのか分からない無垢な笑顔がかえってそら恐ろしい。
　妙にうきうきと浮かれたアンシュベルの柔らかい胸元を何とか押しのけようとして逆に墓穴に嵌ってしまったアンドレーエは、ぴきぴきに引きつった顔でアンシュベルを見やり、額に手をあてて盛大な溜息をついた。
「先が思いやられるぜ……」
「ん？」
　アンシュベルはふと顔を上げてきょろきょろとした。今来た方角を指さす。
「あっちの方で何だか犬がわんわん言ってるみたいな声がするです」
「何ッ」
　アンドレーエはぎくりとして耳を澄ました。確かに兵を呼び集める声に混じって犬のけたたましい吠え声が伝わってくる。
「くそ、エッシェンバッハの野郎。あくまでも俺に全部おっ被せる気だな」
「きっとアンドレさんを信用してるんですよ」
「そういう問題じゃねえって。とんだ落とし穴だ。まあ、このまま生ぬるく見逃してもらえるとも思ってなかったが」
　内心焦りながらもアンドレーエは精一杯の余裕を見せて状況を笑いとばした。しかしいくらイーサの加護有りと言えども、獲物の嗅跡をたどって追ってくる猟犬の鼻まではごまかしきれない。
　ぐしゃぐしゃと茶色の髪を掻き回し、引きつった表情で四方を見渡す。犬を撒くには風下に出るか川を渡るか、あるいは空でも飛んで足跡を完全に消し去ってしまうかのどれかしかない。じりじりと後ずさりながらも必死に頭を回転させる。
「まさかこの俺が犬に追われて逃げ回る羽目になるとはなあ。とにかく逃げるぞ」
「はいですっ！」
　遮蔽物を探して茂みから茂みへと転がるように走り出す。
「いたぞ」
　追い立てるわめき声がみるみる背後に迫ってくる。
「犬を放て」
「お、追いつかれちゃうですっ」
　アンシュベルが息を切らしながら叫ぶ。アンドレーエは頼りない木の柵をまたぎ越え、塹壕掘りの工兵に踏みしだかれた野原へと抜け出した。
　黄色い野の花の咲くなだらかな野原を脇目もふらず駆け抜け、緑に塗られた四角い荷車を引くたくましい輓馬たちがいなないて跳ねるのを後目に視界の端に見えた古ぼけた粉ひき小屋を目指して突っ走る。
　無理をして走るたびに痛めた足の骨がまるで削られるように痛んだ。
　かすれたレンガ色の屋根を持つ水車小屋と、その脇を細く蛇行して流れる小川がきらりと陽の光に反射して眼に飛び込む。
「か、川ですっ」
　アンシュベルがよろよろとつまずきながら喘いだ。
「濡れるぞ、気をつけろ」
　アンドレーエは吠えるように短く笑うとアンシュベルをまるでじゃがいも袋か何かのように頭から逆さまに肩へと担ぎ上げ、一気に丸太橋から小川へと身を躍らせた。ふわりとスカートがめくれあがる。
「きゃああああああおはずかしいですうう……！」
「静かにしろって」
　きらめく水しぶきをまき散らしながら水辺を走り抜けてゆく。騒ぎを聞きつけたティセニア軍の工兵たちや村の男たちが何ごとかと振り返った。
　その目の前をアンドレーエは稲妻のように駆け抜けた。すれ違いざまに略式の敬礼を放り投げる。
「よっ、御苦労さん！　頑張れよ！」
「おおおおおぱんつ見えちゃってるですう！」
「は！？」
　見送った工兵たちの目玉が次々にすぽぽぽんと速射豆鉄砲の如く吹っ飛んでゆく。
　だがそれも宜なるかな、であった。思い切り逆さまに裏返ったエプロンドレス、ふりふりのペチコート、いちごのアップリケ付き純白かぼちゃぱんつ――あろうことか公国軍元帥たるアンドレーエが、黒靴下の足をばたばたさせながら悲鳴を上げるアンシュベルを肩に担ぎ、猛然と風を切って駆け抜けてゆくのである。
　しかしすぐに衝撃は現実に取って代わった。猟犬に引きずられた神殿騎士たちが土煙を蹴立てて追いすがってくる。
「脱走者どもを追え！」
　神殿騎士が杖を振りかざし喚き散らす。だが誰一人として動こうともしない。
「追えと言っているだろう！」
　地団駄を踏む神殿騎士に対して工兵たちは首を振るばかりだった。ノーラスから逃れてきた兵たちの中にアンシュベルとその運命の不条理を知らぬ者などいようはずもない。背教を疑われながらもあるじであるアーテュラスの帰りを待っていたそのいじらしさもまた、同様だったのである。

「さてと」
　何とか村を脱出したアンドレーエとアンシュベルの二人はとるものもとりあえず街道付近に出て大脱走の疲れを癒していた。木陰になった川のほとりに並んで座り、顔を洗ったり手を洗ったり遣る方無くためいきをついてみたりしつつ、ぼんやりと空を見上げる。
「この後どうするかな……」
「そうですねえ……」
　アンシュベルはポケットをごそごそとまさぐった。白いハンカチ包みを取り出す。
「これどうぞです」
　結び目をほどき、開いて、大切に包んでいたものを手のひらに転がり乗せて差し出す。
　アンドレーエは肩をすくめた。つまらなそうに笑って押し返す。
「それはアーテュラスのだろ。俺が食ってどうするよ」
　アンシュベルは何か言いたそうに口ごもったがすぐに思い直してうなずいた。ハンカチをポケットに戻しながら心配そうに問いかける。
「それよりアンドレさん、足のほうは？」
「ああ」
　アンドレーエは苦笑いした。痛めていた足首を何気なくさする。
「大丈夫だよ。本当は杖なんていらねえんだ。看護班のあのビジロッテとかいう中尉がどうしてもっていうから仕方なく使ってただけで」
「……無理させてしまってごめんなさいです」
「なに、どうってこたねえよ」
　穏やかにかぶりを振る。
「それより少し休んだら出発しよう。また追っ手がくるかも知れねえし。それまでにとりあえず寝床だけは確保しとかねえと」
　よほど疲れているのか、アンシュベルは立ち上がらなかった。
　アンドレーエは目の前に揺れる野の草をちぎった。くるりと指先で回しあそばせたあと、ぴんと弾いて放り投げる。葉っぱは小川の水面に落ち、水草に引っかかることもなくそのまま流されてどこかへ行ってしまった。
　風の音と、森の音と、静かなせせらぎの音と。
　少し傾きかけた陽射しは柔らかく、夕暮れのきざしに似た金色を含んで足下の影を淡くにじませている。
「アーテュラスも無事だといいな」
「はい」
「あいつのことだ、どうせ何だかんだ言いながらうまいことやってるとは思うけど」
「……はい」
　アンシュベルは膝を抱えた。流れる水面を見つめる。
「アンシュもそう思ってるです。准将さんだって……何かの間違いか、きっと、何かほかに理由があって……それで……」
　そのまま顔を膝に埋め、声を殺し、悲痛にうめいて。
　アンドレーエはかすかに顔をゆがめた。
　むせび泣きが聞こえる。
　ずっと忍ばせていた思いがついに噴き出したのか。肩を震わせ、堪えきれずしゃくり上げるアンシュベルを、アンドレーエはどうしようもなく気後れしながらちらちらと見やった。
「泣くなよ」
　どこか拗ねた口振りで突き放そうとしてはみるもののうまくゆかず、かといって慰めようにも何をどう言えばいいのか分からず仕方なく唇をひん曲げていらいらと自分を責め、頭を掻きむしる。
「すまねえ、悪かった。だから、泣くな」
　手を伸ばそうとして所在なくためらい、また草をちぎって、そこらじゅうを丸刈りにしてしまったあと、不甲斐なさをええいとばかりに振り払って胆を据え、アンシュベルの小さな肩に手を置く。
「大丈夫だ、何とかなる。きっとだ」
　いつもはきゃあきゃあと大げさなほどの笑顔を配っていたアンシュベルがまるで子どもに返ったような大声を上げて泣き崩れるのを、アンドレーエはずっと黙って受け止めていた。
「ごめんなさいです」
　ひとしきり泣いて、ようやくアンシュベルはぐすっとしゃくり上げ、顔を上げた。
「あたしのせいで、アンドレさんまで」
「アンシュベル」
　アンドレーエは薄暗くなりかけた木立の影を見やりながら呟いた。くしゃくしゃと鳥の巣のような頭を掻く。
「取り戻しに行くか」
「え」
　アンシュベルは涙でいっぱいになった目をぱちくりと大きく瞠った。
「えっ？」
「こう見えても腕っこきの偵察要員なんでね。ゾディアックに侵入するぐらいお茶の子さいさいなんだが。ベルゼアスまで行くとなるとちと遠いけどよ、行ってみる価値はあると思う」
　どこか遠くでカラスが鳴いている。
　西の空は透き通った茜色に染まっていた。うっすらと金色にかがやく雲が吹き流れている。もう夕暮れだった。
「ブリスダルは大きな街だ。通商の街だけあって自治の気風も高い。前の戦ではさんざんにぶっ壊しちまったがそれだけに今ごろはたぶん復興であちこちから山師やら商人やら石工を大量にかき集めてるはずだ。そいつらに紛れて堂々とゾディアックへ渡ろうぜ」
「ゾディアック……」
　アンシュベルは怯えた表情で身を引いた。
「敵国です」
「敵か味方かなんて区別は、本来、槍持った兵隊以外の一般人にとっちゃ何の関係もねえんだよ」
　アンドレーエはアンシュベルの涙をぬぐってやりながら言った。
「敵国の人間でも、苦しんでりゃ助ける。奴らにも人の死を悼む気持ちはあるはずなんだ」
　遠い記憶を追いながらつぶやく。
「もちろん行ってどうなるかは分からねえけど、でも何もしねえでティセニアの中をただ逃げ回るよりはアーテュラスに会いに行くっていう目的があるほうがいい。ノーラスで同じ釜の飯を食った仲間同士で殺し合うようなことになる前にさ。そんなこと……あいつらにさせたくねえだろ」
　アンシュベルは眼を瞠ってアンドレーエを見つめた。
「アンドレさん」
「さてとだ」
　アンドレーエは手のひらの埃を払い落とす振りをしながら立ち上がった。
「ぐずぐずしてると真っ暗になっちまう。まさかいきなり夜営ってわけにもいかねえしな、どこかの家畜小屋にでも潜り込んでとりあえず夜露をしのぐとしようや」
「アンドレさん……」
「ほら、立てるか」
　アンドレーエはアンシュベルに手を差し伸べた。いたずらっぽく笑いかける。
「行こう」
　アンシュベルは残った涙をエプロンで拭き、ぐすんと笑ってしゃくり上げた。
　勢い込んでうなずく。
「はいです！」
　差し伸べた手、差し伸べられた手を互いにしっかりと握り合って。アンシュベルは立ち上がった。

「こんな感じでどうです？」
「お、いいねえ。ばっちり」
　緑に白のぐるぐる模様が入った布包みを背負い、斜め掛けのかばんをさげ、紐の付いたネコ耳の赤ずきんをきゅっと結べば、どこから見ても立派な行商娘のできあがりである。
　すっかり町娘ふうの装いに変身したアンシュベルが嬉しそうにくるくる回るのを、同じく車曳きに身をやつしたアンドレーエはにんまりと悦に入った顔で見つめていた。
「重くないか」
「えへ、大丈夫です。ぜんぶアンシュ手編みの毛糸のぱんつですから」
「は？」
「見ます？　可愛いのありますよ。ピンクのぞうさんアップリケとかあ」
　アンドレーエは即座にぶんと首を横に振る。
「遠慮しておく」
　アンシュベルはまったく聞いていなかった。両手を結び合わせ、祈りを捧げるふりをしながら、あっちへつつつ、こっちへつつつつとつま先立ちして楽しげに歌い踊っている。
「あたしはぁ〜可愛い〜ぱんつ売りの少女ぉぉ〜〜」
「問答無用でぱんつかよ」
　がくりと肩を落としてアンドレーエは笑った。
「いくらなんでも斬新すぎるだろ」
　アンドレーエの予想どおり、ブリスダルへ近づくにつれ、復興特需を当て込んだ商人の一行らしきものを見かける回数はますます増えていた。どこへ行っても何を幾らで売れば一山当たるかといったような話題ばかり、その辺の隊商の最後尾にくっついて歩いてゆけばそのままちゃっかりブリスダルへ入り込めそうな気さえするほどだった。
　しかしすべてが元の活気を取り戻したわけではない。戦争の爪跡はそこかしこに色濃く残っていた。春小麦の畑は踏みにじられ焼き払われて一面黒く煤け、野良仕事にいそしむ者の姿とてない。果樹の枝は実りの時期を待たずして叩き折られ、家畜の囲いも壊されたまま片づけられもせずに放置されている。
　アンドレーエは薄汚れた帽子を深く引き下げた。用心して周りを見回す。
　銃火に曝されぼろぼろに焼け焦げたかかしが、ちぎれた腕を風に揺らし、いたずらに立ちつくしている。
　呑気に踊っているアンシュベルはこの際放っておくことにして、無数にえぐられた銃撃の跡が生々しく残る穀倉の石階段傍らに腰を下ろし、考え込みつつ水筒の水をあおる。
　今のところ、ツアゼル方面の神殿騎士団にまで手配の高札が回っている様子はない。巧妙に偽造した通行手形を持っているとはいえ、もし人相書きと照合されてしまえば足止めを食らう可能性も無きにしも非ずだ。油断はできない。
「アンドレさん、あたしおなかすいたです」
「そうだなあ……」
　牛馬に荷車を曳かせた商人一行が次から次へと目の前をせわしなく通り過ぎてゆく。彼らの後について歩いてゆけば夕方頃までにはブリスダルの遠景を望めるかもしれない。
　アンドレーエはがらくたを満載した荷車に手をかけ、立ち上がった。
「晩飯はブリスダルで食うとしようや」
　苦笑して付け加える。
「デザートに甘いケーキでもつけることにしてさ」
「えっデザート！？　それは妙案です今すぐ行くです」
　旅の道連れとなった他の商人たちと如才ない世間話などを交わしつつ、街道伝いにしばらく歩き続ける。やがて次第に道幅が広くなり、家が増え、行き交う人々の姿も頻繁に見受けられるようになってきた。道行く先々に商店が軒を連ね始めている。
　ブリスダルは川の中州に築かれた街だ。大小の運河で細かく分断され、迷路のように入り組んでいる。夜になれば跳ね上げられてしまう小さな橋も少なくない。だが商人たちにとってはその迷路こそが天国である所以なのだった。いったん河川交易の手形を手に入れさえすれば、いつどこで何を荷揚げしようが自由自在になる。もちろん、国境を越えてゆくことさえ例外ではない。
　川魚を焼く香ばしい匂いがあちらこちらから漂ってくる。ライエル弾きが肩に掛けた手回しオルガンを忙しく回し演奏するかたわら、仕事帰りらしい男たちがジョッキを片手にご機嫌な歌をがなり立てている。
　まるで戦争がしでかした野暮な不始末を笑い飛ばしているかのようだった。陽が落ちても不思議なほど人出は絶えず、賑わいも止まない。
　壁や店の軒先に、漁り火にも似たガラス玉の燭がいくつも縄で連ねられてぶら下がり、からり、からりとぶつかりあっては風に揺れている。
　不格好な半透明の手吹きガラスを通してこぼれる炎の色は不思議に柔らかく、どこか郷愁にあふれていて、ここが夕霧の闇に押し包まれる河のほとりであることを思い起こさせた。いくつもの透き通った影が壁にかげり落ち、足下を淡い色に染め上げている。
　そのとき、前方にがやがやと不満をくすぶらせて吹き溜まる人だかりが見えた。
　アンシュベルは不思議そうに眼をぱちくりとさせた。
「何でしょう、あの行列。あ、もしかしてケーキの美味しいおみせやさんだったりして！」
「行列？」
　アンドレーエはとてもそうは思えない雰囲気に用心深く眼をすがめ、先を見はるかした。
　篝火が見える。
　ブリスダルの中心部へ至る橋の手前に、急造の柵らしきものが組み上げられていた。あかあかと夜を照らし出す炎に行く手を遮られた行列のそこかしこから不平の声が洩れ、波及して、高まってゆく。
　喧騒の彼方から武具を鳴らすのにも似た不穏な音が聞こえた。嫌な予感が脳裏をよぎる。
「やばいな、もしかして検問……」
　と、その傍らをいきなり大荷物を背負ったアンシュベルが駆け抜けていった。
「あたしちょっと見てくるですっ」
「な、何いっ！？」
「大丈夫大丈夫、行ってきまーす」
　素っ頓狂な笑い声をあげながら列の先頭めがけて飛んでゆく。
「お、おい待てよアン……！」
　思わず叫んでしまいそうになってアンドレーエはぐっと声を呑み込んだ。どう考えても飛んで火に入る夏の虫だ。あわててアンシュベルの後を追い、走り出す。
　槍を持った人影が黒々と浮かび上がって見えた。騒然と殺気立った空気が壁となって行く手を遮る。
　燃えさかる篝火の光を受けた銀の杖がぎらりと赤く照り映えた。
「女だ。若い女を調べろ」
　吐き捨てるような声が聞こえた。間違いない。神殿騎士だ。
　さすがに狼狽を押し隠せず、アンドレーエはたたらを踏んで立ち止まった。焦って走りだそうとしてつんのめり、振り返り、唇を噛んで四方を見渡す。
　あれだけの荷物を背負っているのだから相当に目立つと思ったが、なぜかどうしても見当たらない。人混みを掻き分けて探そうにも、よくよく見渡してみれば誰もが似たような格好をし、荷車を引き、大荷物を担いでいる。
　神殿騎士に発見される前に見つけ出してやらなければ、何が起こるか分からなかった。
「ああもう世話の焼ける……」
　アンドレーエは業を煮やしてぐしゃぐしゃ髪を掻き回した。舌打ちして腕に隠し留めたイーサに触れる。無用な騒ぎだけは起こしたくなかったが、こればかりはもう背に腹は代えられない。
　闇が反転し、薄緑色に染まってぼんやりと浮かび上がる。
　ルーンの波動が響き渡る。ふと混ざった別の共振が微細な違和感となって反響を乱した。
　雑念が混じる。闇の障壁が見えた。構いつけもせず強引にイーサの効果を発動させる。
　邪魔な音が吸い込まれるように消えた。静寂が訪れる。
　遙か彼方、人混みの奥の奥に大荷物を背負って右往左往しているアンシュベルの姿が見えた。今の状況に気付いているのかいないのか、何か叫んでいるようにも思える。
　アンドレーエは仰天してイーサの効果を振り払った。
「……アンドレさーん、ねえ、どこにいるですかーアンドレさああん」
　途端に半泣きの声が飛び込んできた。やはり思った通りだ。アンドレーエは愕然と顔を引きつらせ、よろめきかけた。
「あの、馬鹿……！」
「ふええええんアンドレーエさあんどこいっちゃったですかああアンシュ迷子になっちゃったですぅ……」
　アンシュベルの身も蓋もない呼び声に神殿騎士がついに感付いて振り返った。見る間に血相を変え笛を鳴らして仲間を呼び集め、足音も荒くアンシュベルめがけて一斉に迫ってゆく。
「え？」
　神殿騎士の一団に取り囲まれて初めてさすがにまずいと気付いたらしい。アンシュベルは硬直して立ちつくした。
「え、ええっと、その、これはどうしたものかです……」
　青ざめ後ずさろうとした、そのとき。
「何やってんだーー！」
「きゃあんっ」
　間一髪間に合ったアンドレーエがアンシュベルの襟首を引っ掴むや身を翻して人混みの中へと躍り込んだ。
　たちまち周辺は蜂の巣をつついたような大混乱へと陥った。足を取られ転ぶ者、突き動かされた荷車にひっかけられ放り投げられる者、しまいには何が何だか分からずに逃げまどう者同士でぶつかり合い、怒鳴りあって、毛糸のぱんつは飛び交うわ酒樽は転がり落ちるわビンは無数になぎ倒されるわガチョウは籠から逃げ出してガアガア飛び回るわ籠に山盛りにされていたリンゴは雪崩れをうってごろごろ流れ出すわと、まさに阿鼻叫喚の悲鳴と怒号が重なり合ってゆく。
「追え」
「くせ者だ」
「逃がすな」
　甲高い呼子の笛の音が夜を引き裂いて響き渡った。古めかしい鎖帷子に薔薇十字を染め抜いた外衣をなびかせた神殿騎士が駆けずり回っている。
　その様子を、少し離れた場所で通行待ちの列に加わっていた隊商の一人が奇妙な微笑みを浮かべて見つめていた。
　明らかに他の商人とは違った雰囲気を漂わせている。隊商としての規模はさほどではない。「バシード冒険商会」の焼き印を捺した木箱、行李、つづら籠、トランクなど、一見しただけでは中身が分からぬように幌をかけ厳重に梱包して隠してあるが、敢えて強烈に振りまかれる香水の匂いだけはごまかせない。
　くっきりと彫りの深い顔立ち。青い眼。なめらかな南方系の肌。海を越えてやってくる西国の冒険商人、それも女だ。
　頭に真っ青なスカーフと華やかなスパンコールや毛皮の飾りがついた飾り布紐を巻き、肩には色とりどりのタッセルや花刺繍を縫い取った黒い布をかけている。何重もの環になったきらびやかな首飾りや、手を振れば音楽が奏でられそうなほどたくさんの、そして豪奢な腕輪をはめ、へそもあらわな薄絹と足下までたっぷりと隠れる異国の衣装をまとっている。
「何やら面白いことになっているようですけれど」
　西国の女商人は笑いを交え、傍らの荷馬車を顧みた。
　反応はない。
「いかがいたしましょう」
　木箱の影に腰掛けていた黒ずくめの人物に確認の声を掛ける。
「捨て置け」
　人影は身じろぎもしなかった。無関心極まりない口調を保ったまま、そっけなく言い放つ。
「……私の知ったことではない」

「どうすんだ、この、馬鹿たれがーー！」
「うわああんごめんなさいですーーっ！」
　一方、アンドレーエは半泣きのアンシュベルを頭から引っ抱え、ほうほうのていで逃げ回っていた。狭い路地へと頭から転がり込んでゴミ箱に蹴つまずきつつ壁をよじ登り、隣の家になだれ込み、そのままベランダの手すりを踏み砕いて反対側の路地へと転がり落ちる。着地の瞬間、どんがらがっしゃんとブリキのバケツを踏ん転がしただけでは飽きたらず猫とアンシュベルの声が入り混じったとんでもない悲鳴を吹き上がらせてしまったところを見るとどうやら猫の住み処に落っこちたらしい。
「いったああああああ……！」
「痛いのはこっちだっ」
　さんざん掻きむしられながら片足をバケツを突っ込んでかぼちゃぱんつならぬアンシュベルをかついで飛び上がり、猫の攻撃から逃れて、やっと表道へ転がり出た、かと思えば今度はいきなり松明を掲げた神殿騎士と真正面からばったり出くわしてしまう。
「いやあああぱんつ破れちゃっ……いやああああ！」
「耳元で叫ぶな」
　口を塞いで黙らせたいのはやまやま、だったのだがアンシュベルはアンドレーエの都合など意にも介さず、ひたすらお尻を隠そうとしてのべつ幕無しに泣きわめき続けている。
　夜闇にぽろりと浮かび上がった白いおしり。
　絶句する神殿騎士めがけ、アンドレーエはとっさのバケツ蹴りを顔面にくらわせた。爽快なまでにとんでもないブリキの音が鳴り渡る。仰け反ってどうっとぶっ倒れたところへ渾身の力を込めて急所に一撃。神殿騎士は悶絶する間もなく失神した。
　バケツだけがきれいな放物線を描いて暗闇の彼方へ跳ね飛んでゆく。転々とつぶれ転がる音が響いた。
　「あっちだ」
「物音がしたぞ」
　だがまたすぐに別の声が執拗に後を追いかけてくる。
　アンドレーエはわざとらしく舌打ちしてからにやりと笑った。
「しつこいってんだよ」
　ぎらつく眼に炎の軌跡を横切らせながら肉食獣めいた所作ですばやく左右を確かめ、気を失った神殿騎士の身体を手早く路地裏の闇へと引きずり込む。
「アンドレさんったら何するですおしり丸見えだったじゃないですかあっばかばかあああ……！」
「あいたた、静かにしろって」
　外衣を裂いて騎士を縛り上げ、猿轡を噛ませる。せっかく真面目に隠蔽工作を謀っているというのに、その間アンシュベルはといえば目に涙をいっぱいに浮かべ、真剣な顔を真っ赤に火照らせてぽかすかと殴りかかってくるのだった。
「もう完璧にお嫁に行けなくなっちゃったですひどすぎるです……！」
「何も泣くことねえだろう……」
「泣くに決まってるです！」
　アンシュベルは所構わず突っ伏してわんわんと泣き始めた。
「かわいい花嫁さんこそ乙女最大の夢であり願望であり野望だというのにアンドレさんったらこのぼくねんじんっ！」
「いや、少なくともそこは心配……」
「もしもお嫁さんに行けなかったらどうしてくれるですかああ！」
「だから勝手に嫁に行くな！」
　追われている最中だというのにまったく現状を顧みないアンシュベルに業を煮やし、アンドレーエは大声で一喝した。
「お前は俺がもらうっつってんだろ！　……って」
　思い切り言ってしまった後、何ともばつの悪い顔をする。
「何言ってんだ俺は」
　アンドレーエは頭を抱えて突っ伏した。
「……よりによって、こんな時に……！」
「そうですこんな大変なときに何そんな無責任なこと言っ」
　アンシュベルはごくり、と喉を鳴らした。
「え？」
　眼をぱちくりとさせる。
「ええっと……？」
「そ、空耳だ、空耳！」
　アンドレーエはあわてて声を荒げてごまかし、赤くなった顔で何ともはやぎごちない妙な雰囲気を振り払った。
「そんなことよりもだな！」
　足音がばらばらと迫っていた。神殿騎士の声がいくつも近づいてくる。アンシュベルは眼を押し開き、手のひらで口を覆った。
「来ちゃったです」
　アンドレーエは即座にアンシュベルの手を引き、物陰の闇へとさらに息を潜ませて身を隠した。
「このへんに逃げ込んだはずだ」
「しらみつぶしに探せ」
「明かりだ。火を持ってこい」
　乱暴に何かを蹴倒すような物音が転がり落ちる。どうやら草の根わけても探し出すつもりらしい。アンドレーエは苦々しく舌打ちした。本格的に追いつめられている。
　かすれた笑みが口の端に浮かんだ。無論、腕に物を言わせればどうということもない相手だ。たかが神殿騎士ごとき、何人がかりで来ようと敵ではない。だが。
　怯えきってすがりついてくるアンシュベルの横顔を見やる。
　たとえ偽善と思われようと、まだ大人とは言えぬアンシュベルに人の血が流される現実を見せたくはなかった。乱れた息を整え、荒んだ思考を振り払う。
　執念深く探し回る神殿騎士たちの声が迫ってくる。頭上を何度も炎の照り返しが横切った。影が動き、荒々しい足音が響き、ぶつかり合っては軋む武具の音が近づく。
「よく探せ」
　ルーンが淡く明滅を始める。アンドレーエはイーサに意識を集中した。動悸を押さえ、気を凝らす。
　視界がわずかに緑へと染まりかけた、そのとき。
　ふいに波動がかき乱された。別のルーンが近くにいる。闇の波動に反応している。
「何だ、この光は」
　声がして、神殿騎士が路地をのぞき込んだ。
　思わずアンドレーエはアンシュベルの身体を強く抱きかかえた。アンシュベルはもはや声もない。
　神殿騎士がのぞき込むのと、イーサが不可視の効果を発動させるのと、ほぼ同時だった。
　瞬時に闇が覆い被さる。静寂が染み込んだ。
　神殿騎士は不審の眼差しで槍を突き鳴らした。アンドレーエの潜む闇の真上を穂先でかき回し始める。
　あわや何度も突き刺されそうになるのを、その度に息を引っ詰め、冷や汗をだくだくとかきながら耐える。
「音がしたと思ったんだがなあ、気のせいか……」
　気が遠くなりそうなほどの時間が過ぎ去る。ようやく神殿騎士は諦めたらしかった。踵を返して去ってゆく。アンドレーエはがくりと脱力し、反動からこみ上げた安堵まじりの荒々しい笑いとともにアンシュベルを揺すった。
「ほら、起きろ」
　アンシュベルは首を振った。アンドレーエの胸にぎゅうっと顔を埋めたまま動かない。
「怖かったです……死ぬかと思ったです」
「今度こそ大丈夫だ」
　アンドレーエは溜息をついた。
「何とか逃げおおせたってところか……」
　ぎらり、と。
　イーサが光った。不穏に共鳴している。
　アンドレーエは息を呑んだ。
　闇色の波動。
　唐突に女の笑い声がした。
「まさか、ここ？　誰もいませんよ？」
　低い声が何ごとかを応じる。
「イーサ？　身を隠すルーン？　まあいいでしょう。とりあえず」
　すらりと伸びた女の影が超然と差し込んでくる。きらめく装飾品が炎にゆらめいて虹色を放った。切り取られた影が官能的な姿態を描き出している。
「隠れているなら出て来てもらうしかありませんね」
　ぱき、と指を鳴らす。何もない闇に魔術めいた鬼火が燃えあがった。右手に黒いかたまり、左手の人差し指に赤い炎。にこやかに笑う美しい異国の女の半身が挑発的な陰影とともにくっきりと浮かび上がる。
「返事がない。仕方ありません、ならば炸裂弾を」
「待て」
　アンドレーエはあわててイーサの効果を打ち消した。アンシュベルが悲鳴を上げてまたしがみつく。
「分かったから爆弾はやめろ」
　顔をゆがめ、アンシュベルを背後にかばいつつ立ち上がる。
「降参すればいいんだろ」
「あらまびっくり。見えないルーンというのは本当だったのですね」
　異国の女は指をもう一度鳴らした。吸い込まれたように火が消える。
「あんた、誰だ」
　アンドレーエは用心して訊ねた。
「敵……には見えねえようだが」
　異国の女はくすっと笑った。わずかに眼をそらして背後を振り返る。
「この方々がアンドレーエ元帥と従卒のアンシュベル？」
「知ってんならいちいち確かめる必要もねえだろ」
「それもそうですね」
　女は視線をすばやく元に戻し、腰高にひねった姿勢でひらひらと手をひらめかせた。
「さすが話が早い」
　すこし角度を入れ変えるたびに豊かな胸元の首飾りがきらめき、まぶしい音を立てる。
「平素は格別のお引き立てを賜り誠に有り難うございます。私、バシード冒険商会の第一秘書を勤めておりますアル・ハサードと申します」
　深々と礼をした後、悪戯っぽい表情で付け加える。
「以後お見知りおき下さいますよう」
「は？」
　アンドレーエは眼をひんむいた。バシード商会と言えば兵器廠にも出入りしている西国の有力商人だ。その冒険商人を名乗る者がなぜブリスダルに――
「バシード商会なら知ってるです」
　ぽかんとしたアンシュベルが呆然とつぶやく。
「……前に通信販売でモテモテ粉を買ったです……」
「あら、まあ、これはこれは。毎度お買い上げ頂きまして有り難うございます」
　女商人は演舞めいた大げさな仕草で腕をくねらせ、にこやかに会釈した。伸ばした腕にきらきらと幾重にも色鮮やかな腕輪が揺れ、打ち合わされてかろやかに鳴る。
「本当に奇遇ですわ、お客様でいらしたなんて。やはりこれは誠心誠意おつとめさせていただかなくては」
「何の話をしてるんだ、お前ら。というか」
　アンドレーエは眼をするどくした。
「モテモテ粉って何だ」
「そ、それはですね……ちょっとした恋の手違いというか罠というか……」
　たちまち焦ってあたふたするアンシュベルを差し置き、女商人は婉然と笑っている。アンドレーエは苛立ってこの際どうでも良い話を遮った。
「わけのわからない話はもういい。で、何でそのバシード商会が俺たちに関わる」
　女商人はふと油断ならぬ笑みをこぼした。
「密貿易の最中ですから」
　何気なくとんでもないことを口にする。
「は！？」
　アンドレーエは眼を再度ひんむいた。
「ですから、その最中に下手な騒ぎを起こされて国境を封鎖されたり警備を厳重にされたりいたしますと、後続がたいそう迷惑いたしますので」
「い、いや、密輸ってあんたみたいな武器商人がそんなあっけらかんとだな……」
　動揺するアンドレーエに異国の女商人は飄々と肩をすくめて答えた。
「大丈夫です。そちらのお嬢様でしたら可愛い人質兼売り物になるとして、あなたはそうですね用心棒あたりで隊商に加わって下されば何の問題もありませんから」
「はあ！？」
　アンドレーエはさらに眼をひんむこうとして、ふいに背筋に走る悪寒に気付いた。
　険しい視線を異国の女商人の背後へと走らせる。
　月影すらない、冷たい霧に沈んだ闇の彼方。
　今の今まで気付かなかった姿が――漆黒の人影がそこに立ちつくしていた。
　気配を完全に殺していたのだろう。物憂げに壁にもたれ、微動だにしない。
　女商人と同様、頭に異国風の黒のスカーフを巻いている。だが表から見えるのは目元だけだ。髪も、顔立ちも見分けが付かない。スカーフと同じ、すっぽりと身体を覆う黒衣をまとっている。
　女の装いだ。だがそれにしては恐ろしく背が高い。
　アンドレーエの視線に気付いたのか、女はふと視線をもちあげた。
　冴え冴えと冷えた威圧感が吹きつけた。
　あやしい兆候を帯びた漆黒のサーベルが闇に底光っている。
　危険な気配を感じ取ってアンドレーエは思わず放埒な笑みを浮かべた。アンシュベルの腕をつかみ、ぐいと後ろへ押しやって、用心深く身構える。
「せっかくのお申し出だけど人質は……そうだな、遠慮しておく」
　腰にぶら下げた鞭の握り具合を確かめつつ、緊張を押し殺し、平静を装った声で答える。
　女商人は眼を見開いた。
「あらら、困りましたわ、ねえ猊下？」
　振り返って背後の人影に声を掛ける。
　黒衣の女はゆらりと身を起こした。
　怜悧なまなざしがアンドレーエを睨み付ける。
「残念ながら」
　一見、美しい女のかたちをしたその口から。
「貴公らに選択の余地はない、アンドレーエ」
　にわかには信じがたい、男の――聞き慣れたとんでもない声が発せられた。

　……。
　…………。

「って何で俺まで！」
　アンドレーエは半分は強引に縛り上げられ、半分は抗う気にもなれずどうにも諦めきった悲しい気分に浸りながら怒鳴った。
「ありえねえ、ゼッタイありえねえってこんな展開……待て、嫌だ、おいこら止めさせろホーラダイン……頼む、ぎゃああああ……」
「うっそ、アンドレさん、可愛いーー！」
　よく焼けたアンドレーエの頬にさらに褐色の肌クリームを塗りたくり、その上からきゃあきゃあと大喜びでパフの粉をはたいているのはもちろん異国の踊り子風な装いに着替えたアンシュベルである。
　袖のふくらんだ丈の短い上着、腰で穿いたさらさらのスカート、編み上げのサンダル。バンダナで結んだやわらかな金髪はヘンナの染料で自然な黒に染め変えられ、布でかろうじて縛り止めているようにしか見えない胸元からは、はち切れんばかりに弾むたわわな谷間が今にもこぼれ出しそうな勢いで眼に飛び込んでくる。まさに眼のやり場にも困るけしからん格好だ。
「あら、まあ、でも、本当に素敵でいらっしゃいますわよ」
　同じく女商人アル・ハサードもすっかり乗り気でアンドレーエのくしゃくしゃな髪を櫛でといて付け毛を足し、リボンでひとまとめに結わえようとしている。ゾディアック宮廷の貴姫や女官たちに高値で売りつけるべく持ち込んできた南国製化粧用具一式入り、七色にかがやく豪奢な螺鈿の化粧箱を前に、二人がかりで縛り上げたアンドレーエを念入りに変装させている最中なのであった。
「次は口紅〜」
　アンシュベルはどれにしようかな、などと歌いながら紅の入った六角皿を選び、小指の先にとって、嬉々としてアンドレーエの唇に塗り始めた。名状しがたい感触に再びアンドレーエはぎゃあぎゃあと喚き始める。
　その鼻先へ黒衣の人物がサーベルの切っ先を突きつけた。
「大人しくなさい」
「できるかっ！」
　アンドレーエはアンシュベルの魔の手を必死に振りほどいて怒鳴りつける。
「俺はあんたと違ってそっちの趣味はないッ」
「誤解してもらっては困りますな」
　ザフエルはにべもなかった。しらじらしく眼をそらして否定する。
「貴公と違って私は別に化粧などしなくても」
「うるせえっ、どこから見ても女の格好してるくせに偉そうにふんぞり返ってんじゃねえッ！」
　アンドレーエはじたばたともがき続けた。アンシュベルがすっかりご機嫌になった笑顔を振り向けながら紅筆を手にザフエルへ提案する。
「副司令さんもおひとついかがです？　すっごい美人さんになれるかもですよ」
「結構」
　きっぱりと拒絶する。アンドレーエはみるみる可愛らしく塗り替えられてゆく鏡の中の現実から必死に眼をそらそうと、かろうじて自由になる足をどたばたと踏み鳴らした。
「何だそりゃ！　畜生、ずるいぞてめえだけ、この卑怯者ッ！　何で俺だけ化粧させられ……！」
「文句があるならまず鏡を見てからにするのですな」
「嫌だあああ！」
「もったいないことを」
　ザフエルはわざとらしく眼をほそめる。
「……案外お似合いだというのに」
「そうそう、まさかアンドレさんがこんなにお化粧映えする顔だったなんて思わなかったです」
　最後の仕上げに目の縁にばっちり濃い色の影を入れる。
「ああん可愛い、お鼻にちゅっちゅしちゃいたいです……」
　アンドレーエはうっとりとした声をもらすアンシュベルにぎくりとしながらがたりと椅子ごと身をひいた。
「お、落ち着け、アンシュ」
「ふむ」
　ザフエルはちらりとアンドレーエを見やった。
「意外とカワイイですな」
「黙れ貴様しれっとした面で何抜かしやがるそれでも司教伯かよおおお覚えてろ後で絶対にｑあｗせｄｒｆｔｇｙふじこｌｐ；＠……！」
「さてと、皆様」
　アンドレーエにさっと最後通牒の手鏡を突きつけたあと、女商人は手を鳴らして衆目を集めた。鏡に映った愛らしい自分にすっかり打ちのめされたアンドレーエ以外の全員が女商人を注視する。
「これでゾディアックへ渡る準備が整いました」
　ザフエルは無言でうなずく。
「冬が来る前には何とか後続も含めベルゼアスへ参りたいと思っておりますが」
「待て」
　アンドレーエが苦々しく口を挟んだ。
「荷は何だ」
　女商人は口をつぐみ、かすかに笑った。
「私がそれをお教えするわけには参りません」
「百歩譲って、この隊商に加えてもらえれば確かに検問を抜けてゾディアックへ入り込むのは容易だろうとは思うが」
「貴公が知る必要はない」
　ザフエルは冷淡に言い放った。
「ただ、隊商を護ればそれで良い。それが条件だ」
「だからといって行き先がベルゼアスなのは」
　アンドレーエは苛々と言いつのる。
「普通に考えてもおかしいだろう。あんたみたいな殺気まみれのばかでかい女もどきのいる隊商が仮にも帝都たるベルゼアスへのこのこと入れるわけが」
「だからこそ入れるのですわ」
　女商人は如才ない微笑みをたたえてアンドレーエを見やった。
「素性すら問わぬほどの凄腕の手練れを雇わねばおいそれと運べぬものもあるのです」
　アンドレーエは紅を塗った口元をゆがめた。斜めに振り返って荷を眇め見たのち、ただならぬ怒りを込めた低い声でつぶやく。
「ホーラダイン、まさか、貴様」
「……ツアゼルホーヘン製の銃器だ。高性能ライフル、鉄鋼そして弾丸」
「何を考えてる！」
　苛立つアンドレーエに、ザフエルは無表情な視線を突き返す。
「武器の供与であれば無用な疑いを掛けられずに済む。それだけの話だ」
　アンシュベルは不安そうに手を結び合わせ、交わされる物騒な話を聞いていた。
「……ベルゼアスに行けば、その」
　おずおずと口を開き、ためらって、意を決した様子で続ける。
「もう一度、師団長に……逢えるですか……？」
「確約はできない」
　ザフエルはつぶやいた。
「だが、侍して待っているだけでは、二度と」
　声が途切れる。
　アンドレーエは椅子に縛り付けられたまま身を乗り出した。
「それでもアーテュラスを連れ戻しに行くのか。連れ戻されれば処刑されると分かっていて」
　ザフエルは答えない。
「答えろ」
　アンドレーエは身を揺すり、声を荒らげた。
「ホーラダイン、てめえ、分かっててあいつを殺しに行く気なのか。それとも、あの日、あの、あいつがさらわれた時みたいに後先考えずに特攻してるだけなのか。どうなんだ」
　言い知れぬ長い間をおいた後。
「そのどちらでもない」
　低い、無感動な声が押し殺される。
　ザフエルは内面を微塵にも垣間見せぬ漆黒の眼をアンドレーエへと差し向けた。
「ただ、私は」
　ためらいに声が揺れる。思いも寄らぬ気弱な口調が後に続いた。
「……閣下を……」
「はあっ？　今の聞いたかアンシュ」
　アンドレーエはふいに破顔してアンシュベルを見上げた。アンシュベルは眼をぱちくりとさせている。
「この鉄面皮野郎、言うに事欠いてあのちびのガキに惚れた腫れたで宿怨の敵国まで取り返しに行くと白状しやがった！」
　鬼の首を取ったように大はしゃぎで椅子ごとはねて茶化し回る。
「何てこった、すっげぇ初耳だ、まさか司教伯猊下ともあろう御方が我が身の立場も危険も顧みずこんな安直な理由であのちびを助けに行くだなんて。いやはやそんなに惚れてたとはなあ、実に意外だよ……いや、まさかの展開だよ、なあ！？」
「はいですさすがは副司令さんです愛の力は偉大なのですっ！」
　アンシュベルは眼をきらきらさせながら大きくうなずいた。両手を揉み合わせ、くねくねとねじれ返らせながら陽気に腰を振って踊り回っている。
「スキスキ♪　マイハニー♪　大好き♪　ちゅっ♪　とか何とか言っちゃったりしてきゃああああいやあああん♪」
「……」
　ザフエルの頬が、ひくり、と動いた。
「……」
　声もなくサーベルの柄へ手を滑らせる。
　次の瞬間、凄まじい居合いの切っ先がアンドレーエの喉元へとぴたりと差しつけられていた。ごうっと空気が逆巻く。
「他に言い残すことは」
「うっ」
　はらり、と。
　付け毛の先が断ち切られて風に舞い散る。
　アンドレーエは絶句した。空気が凍り付いている。ふざけた笑顔がみるみる石のようにこわばった。
「い、いや、別に」
「ならば今生に別れを」
「ま、待て！」
「でも」
　アンシュベルが踊るのを止めて振り返った。眼をうるませ、ザフエルを見上げる。
「よかったです、副司令さんもやっぱり第五師団のみんなと同じ気持ちだったって分かって。アンドレさんもエッシェンバッハさんもヒルデさんもちっちゃなレイディも第五師団のみんなも、師団長が帰ってくるのを、ホントに、その……！」
「他の者のことなど知ったことではない」
　また泣きかけるアンシュベルを無視してザフエルはふんとそっぽを向いた。不承不承、といった様子でサーベルを引き、ついでにアンドレーエを縛りつけた縄を切り落とす。
「準備が終われば出立する。ぐずぐずするな」
「あんたがそれを言うか……」
　アンドレーエは哀れがましく咳き込みながら喉を押さえ、片眼を斜にすがめてザフエルを見上げた。
「それはいいが、大丈夫なのか、ティセニアをほったらかしにして」
　ザフエルはサーベルを鞘に収めた。神経質な音が鳴る。
「双方ともにあれだけの犠牲が出れば」
　怜悧な眼差しがブリスダルの街並みの彼方の闇を見据えた。
「戦力を再び元の状態にまで引き上げるには年単位の準備が必要だ。予備役も訓練せねば使い物にならぬ。次にゾディアックが動くのはおそらくは我が軍が不得手な厳冬期になるだろう」
「冬までに、か」
　アンドレーエは腕を組み、顎を触りながら考え込んだ。
「それまでにベルゼアスへ行き、アーテュラスの居場所を探り出して救出し連れ戻す、か――それはいいが」
　ふと思いついて反論する。
「アンシュベルはどうする。行くだけならともかく奪回となると危険だ」
「ならば連れ帰るがいい」
　ザフエルは冷ややかに突き放した。
「今さら戻れるものならば、な」
「あたしなら大丈夫です、アンドレさん」
　女商人と一緒に何やら貨物の間に屈み込んでいたアンシュベルが顔を上げて言った。さらさらした女物の衣やら装飾品やらを引っ張り出しつつにっこりと微笑む。
「はいこれアンドレさんのお洋服」
「うっ」
「顔だけお化粧して下に迷彩服着てるのはおかしいです。着替えるです」
「嫌だ」
「着替えろ」
　ザフエルがサーベルに手をやりつつ、ぼそりと脅す。
「さもなくばもっと可愛い服を所望する」
「てめえ……覚えてろ……！」
「知ったことか」
「あら、お似合いじゃありませんか」
　泣く泣く完全女装するアンドレーエを見やりながら、女商人は闊達に笑ってトランクの蓋を威勢良く閉めた。手にしていた細長いものをアンシュベルに手渡す。
「貴女にはこれね。取り扱いには十分気をつけて」
「ありがとです」
　アンシュベルは慣れた仕草でライフル銃を受け取った。木製の銃床から引き金に至るまで金で流麗に装飾された八角の銃身やフリントロックの撃鉄、銃剣の取付環あたりにまで手のひらを這わせて感触を確かめている。
「これなら使えそうです」
　顔を上げる。決意の笑みがアンドレーエを見つめていた。
「あたし、足手まといになんか、なる気ありませんから」

▼

「入るぞ」
　押し殺したノックの音が聞こえた。
　思わずびくりと身を竦ませたのに気付いたのか。ぬいぐるみのような顔をして素知らぬていで枕元に座っていた悪魔がふいに耳をぴんとそばだて、小さな羽を出して扉へと飛んでいった。
「私だ。医者を連れてきた」
　ニコルは呆然と座り込んでいた部屋の隅からもがき出ようとした。
　汗ばんだ胸元に固く結んだ拳を引き寄せ、かぶりを振る。
　中空で羽ばたく悪魔は、ゆっくりと首だけを不自然にねじ向け、名状しがたい笑みを浮かべてニコルを見た。
（いいよ、入って）
　弾かれたように扉は開いた。古くもないちょうつがいが錆び付いた凄まじい軋みを上げる。一番に飛び込んできたのはチェシーだった。ゾディアックの軍コートを猛々しくなびかせ、足音も荒く踏み込んでくる。
　その後ろに、よほど急かされてきたのだろう、外の冷たい風のにおいをまといつけた医者らしき長衣の老人と数名の女官とが肩で息をしつつ立っている。
「患者はどちらに」
　女官たちが口々に訊ねながら房室へ入ってくる。ニコルに目をとめた年長の女性がわずかに眼を押し開いた。すぐに駆け寄ってくる。差し伸べられた手からはハーブ液の臭いがした。
「出血斑、黒紫斑が見られますね。レイディ、こちらへ」
　手を取られ、いざなわれる。
　違う――
　ニコルは悲痛にかぶりを振った。
　幻覚が現実を侵蝕する。
　女官の手に棘蔓の影が乗り移った。恐ろしく緩慢な動作で音もなく巻き付いてゆく。
　ふいに声を上げて女官が手を振り払った。みるみる伝い広がってゆく実体なき影に息を呑む。その戦慄の表情が居たたまれないほどに胸を突き刺した。
　これは現実ではない。幻だと分かっているのに。
　何かが、どこかで、ひどく食い違ってしまったに違いなかった。
　歯ぎしりにも似た呻きが。もだえ、はいずりまわる、怨みがましい激痛が。かたちあるものへの怨恨となって燃えさかる劫火の記憶とともに身を苛んでゆく。
　悲鳴が幻を切り裂いた。
　抑え込んだ理性の殻が突き破られる。精神の砕け散る音が聞こえた。おぞましい棘蔓の影だけが壁を伝い走り、瞬く間に部屋を狂気の触手で覆い尽くす。
　食器や盆をなぎ倒すけたたましい悲鳴じみた金属音が散乱した。のたうつ闇に女官が引きずり倒される。聴診器や体温計、薬箱の中のさまざまなものが床に飛び散った。消毒の精油がまき散らされて鼻を突く臭いが広がる。
　他の女官たちは恐慌に陥った。目の当たりにした惨劇に悲鳴を上げ、逃げまどい、制止しようとしたチェシーを突き飛ばして、明かりもない螺旋階段へと我先に飛び出そうとする。
　その絶叫を、うねり狂う闇が追った。
　ガラスの割れ散らばる音が続けざまに鳴り響いた。鈍い致命的な叫びが断続的にこだまし、途絶える。
（落ちたな）
　扉を押さえ、闇をのぞき込んでいた悪魔が羽を震わせてつぶやく。
　ニコルは耳を塞いだ。
　耳の奥で悲鳴が繰り返されていた。
　砕ける音。
　割れる音。
　次々に責め立てる声、声、声――
　青ざめた顔のチェシーが呆然と振り返った。
「ニコル」
「僕のせいだ」
ニコルはうずくまったまま泣き笑った。昂ぶる狂気にほつれた前髪が振り乱れて顔を覆い隠す。
「君じゃない」
「僕だ」
　嗄れ果てた声を叩きつけ、血の涙に濡れた瞳でチェシーを睨み付ける。
「僕が殺した」
「戯れ言はよせ」
　チェシーは声を押し殺した。
「何かの間違いだ。君のせいじゃ」
　ニコルはふいに呻きをあげて腕を押さえた。
　肩に、今まで存在していなかった真っ赤な痣が浮かび上がっている。
　幻覚の火が赤黒く腕を伝い、床にぼたぼたと音を立ててこぼれ落ちた。
「な、何……これ……」
　涙混じりの息を呑む。
　肩を押さえた掌からどす黒い虚無が滲み出した。咲き乱れる薔薇のように、底無し沼のように、みるみる広がってゆく。
（ウィルドの闇だ）
　ぬいぐるみの悪魔が喜悦と絶望の入り混じった喚き声を上げた。ばたばたとうるさく羽音をたてて飛び回る。
（ローゼンクロイツがひた隠しにしてきた、ルーンの、真の闇）
「ニコル」
「来ないで」
　無意識に逃がれようとして、うわずった声で抗う。とっさに支えようとしたチェシーの手が愕然と空を切った。喪失の闇に覆われたニコルの身体を虚しく通り抜ける。
「……うそ……！」
　禍々しい色の霧が視界を奪い、立ちこめてゆく。
「いいからじっとしてろ」
　異形の腕が青黒い蛍光の軌跡を放って虚無の霧を引き裂いた。裂け目からチェシーの怒鳴り声が響き渡る。
　チェシーは唇をぐっと噛みしめるなり、半ば消えかけたニコルの身体を抱き寄せた。
　肉の焦げる異様な煙が立ちのぼる。足下からうねり出した虚無の霧が毒々しい香りを放ちつつチェシーに巻き付く。刺が食い込んだ。軍衣が裂け、鮮血が飛び散る。
　チェシーは顔を苦痛にゆがませながら異形の腕で霧に紛れた偽りの棘蔓を鷲掴んだ。一気にむしり取り、引きちぎる。
　だがさらに憎悪と拒絶に満ちた触手が手から喉へと伝い上がり、チェシーの首をへし折ろうと絡みついてゆく。
　苦悶の呻き声が聞こえた。
　めきめきと嫌な音が軋む。
「嫌だ、もう、いいから……！」
　ニコルの声に呼応した霧が音を立ててのたうった。破滅の闇が嬲るように身を食い荒らし、欠落させてゆく。チェシーは冷や汗の滲んだ顔でニコルを見下ろした。
「誰が離すか、馬鹿！」
　喘ぎながらもさらに強く、身体にまとわりつく憎悪の荊棘を引き剥がし、薄れゆく存在感をひたすらに引き止めようとあらん限りの力でかき抱く。
　毒々しい燐光の泡が、ごぼ、と吹き上がった。
　その、闇に照らされて。
　切迫した明滅を放つ無数のルーンがニコルの身体の内側から透かし出され、まざまざと浮かび上がった。
　苦悶によじれ半ばあらわになった肌を、ルーンの聖呪が織り上げた凄惨な光の鎖が幾重にもねじれた螺旋を描いて押し潰してゆく。
　ニコルは悲鳴を上げた。
　消える。
　押し潰される。
　存在すら、許されない。
　何かを叫ぶチェシーの声までもが消えた。

　顔を上げる。
　周囲はがらんとした虚無の深淵だった。
　首に掛けた薔薇十字のペンダントが淡い微光を放っている。行く手を差し示す、怜悧な漆黒の輝き。
　誰かが呼んでいる。
　ニコルは走り出した。水の跳ねる音が足下から聞こえる。記憶がこぼれおちているのだった。水面に皆の笑顔が映っている。だがその笑顔はすぐに踏みつけられ飛沫になって飛び散った。走るたびに思い出がふりすてられ、覆され、置き去りにされる。
　あの日に戻れるなら。その一心でニコルは走っている。
　ナウシズの聖女マイヤが死んだあの日に帰って。
　母レイリカが己に流し込まれた血への憎しみをルーンの器に変え生み落としたあの日に帰って。
　代わりに、すべてを。
　マイヤはいつも笑っていた。双子の姉妹だったレディ・アーテュラスとそっくりの笑い方で。幼いニコルをかくまう一方、神殿兵に追われ続けて気の休まる日など一日たりともなかったはずなのに、占いのカードを鮮やかな手つきで切り混ぜながら口癖のように言っていた気がする。いつわりの微笑などではなく、希望をいっぱいに詰め込んだ心からの笑顔で。
　ほら見てニコル、このカード。いずれ道は開ける、という意味よ。大丈夫、自分を信じていればいつか必ず願いは叶う。貴女ならできるわ、ウィルドの運命から逃れられる日がきっと来る。私も、貴女の本当のママも、ずっと貴女の幸せを祈っていてあげるから、だから。
　だから？
　マイヤの笑みが、一瞬にして暗黒に挽き潰された。
　足下ががくりと崩れる。
　無に沈んでゆく。膝から下が消える。動けない。前方で闇に飲み込まれた誰かが手招いている。すべて、無かったことにすればいい。うわごとのような声が聞こえる。そうすれば、何もかもが――

　気付いたとき、ニコルはまだチェシーの腕に抱かれたままだった。
「大丈夫か」
　チェシーのかすれた声が耳朶にそっと触れる。
　いつの間に、現実に戻って来たのだろう。
　まるで何もかもが夢まぼろしであったかのようだった。あれほど残酷に狂い咲いていた虚無の泥沼も、深淵への誘いも破滅の衝動も狂気の棘蔓もすべてが忽然と消え失せている。
　中空ではばたくぬいぐるみの悪魔と眼が合った。
　悪魔はそのまま平衡を崩してふらふらし、唐突に力を失って窓際の長椅子へと落下した。しばらく無反応に突っ伏したあとようやく起きあがる。
（な、何だ……？）
　黒いガラス玉の眼に困惑が浮かんでいる。
「良かった」
　チェシーはどうやら悪魔の身に起こった異変にはまったく気付いていないようだった。余裕ある態度をぎりぎり装って不埒に笑い、ニコルを見つめる。
「何とか追い払えたらしい。さすがの私も危なかったかな」
　頬に凄惨な血糊の跡がこびり付いている。ニコルは息を呑み、眼をそむけた。
「どうして……僕なんかのために」
　くずおれそうになるのを必死に堪える。
「そういう言い方は止めろ」
　チェシーは苦り切った顔で溜息をついた。
「せっかく苦難を乗り越えたというのにその反応は少々、いや、かなり心外に過ぎるんだが」
「……ごめんなさい」
　ニコルは突然こみ上げてきた涙に声を奪われて口ごもった。
「僕のせいで」
「だからいちいち謝らなくてもいいと言っているだろう」
「ごめんなさい……！」
「もういい。泣くな、いいから」
　チェシーはニコルの沈鬱な反応に態度を改めた。一旦空拍を置き、ニコルの手を取って、変色した虚無の残滓に用心しながら調べ始める。
「まだ少し残ってるな……悪魔の紋章とも違うようだが……あの黒い霧の魔物みたいなものが何なのか知らないが、どうせ君らが――君が、あのホーラダインにさえも知られないように隠してきた真実とやらに関係があるのだろう」
　ニコルはうつむいた。
　また涙がこぼれた。喉に呻き声が詰まる。
「分からない……どうしていいか……」
「そんなにすぐ諦める奴があるか。君らしくもない」
　険しい口調だった。だがすぐにチェシーは声に出した苛立ちをやわらげ、ニコルの髪をくしゃりと撫でた。そっと頬に手をあてがい、優しく気遣うようにして腕の中へ包み込む。
「大丈夫だ。私が何とかしてやる。だから、諦めるな。いいな」
「……どうして、今さらそんなこと」
　抗いがたい声に逆に怖じ気づき、また声を詰まらせる。チェシーはニコルを抱く腕に力を込めた。
「今までのことは後で幾らでも詫びる。だが、これだけは分かってくれ。君を、助けたかった。それが嘘偽りない今の私の気持ちだ」
「うそつき！」
　自分勝手な言い草にニコルはついに泣き出しかけた。
　その白々しい嘘に何度たぶらかされてきたことか。その口清い妄言を信じようとして、何度裏切られてきたことだろうか。
「貴方の言うことなんて、誰が……」
　そのとき。
　緊迫の気配が騒然と入り乱れた。敵意をみなぎらせた軍靴の足音がいくつも駆け上がってくる。息を呑むニコルの目の前に、漆黒の軍衣をまとった帝国軍の衛兵がなだれ込んできた。
「射撃用意！」
　全員が一糸乱れぬ動きで銃を構える。ニコルは絶句した。黒光りする殺意の銃口が容赦なくニコルへと向けられている。
　引き金に指が掛かった。
「何の真似だ」
　チェシーが声を荒らげた。
「銃を下げろ」
「残念だな。今回ばかりは言い逃れはできんぞ、この蠱業《まじわざ》使いが」
　衛兵の背後から、辛辣な憎しみのこもったイェレミアスの声が響く。
「貴様が口封じに殺した女どもの死体がすべての罪の訴因を語るだろう。ティセニアの魔女アーテュラス、逆賊サリスヴァール。貴様等を殺人、自殺を扇動教唆した罪、及び、外患に通謀し、敵国間諜を幇助した疑いで告発する。貴様の負けだ、サリスヴァール」
　じりじりと包囲が狭まる。イェレミアスはひたすらに勝ち誇っていた。昂然と罪名を並べ立て、勝利に酔いしれている。
　チェシーは押し殺した怒りと侮蔑の眼差しをイェレミアスに突き立てた。無言でニコルを背後へと追いやる。ニコルはチェシーが剣を帯びていないことに気付いて慄然と立ちすくんだ。
「抵抗しても無駄だ」
　イェレミアスは居丈高に肩をそびやかせた。醜悪に笑い歪んだ顔で言い放つ。
「少しでも反抗すれば貴様もろとも女をこの場で射殺する」
「それで私を罠にかけたつもりか」
　周辺の気配からイェレミアスの独断専行と読んだか、チェシーは敢えて冷静を装って突きつけられたいくつもの銃口を見渡した。
「随分と短兵急だな。何の証拠がある」
「動くな、動くと撃つぞ」
　数を頼りにしつつも恐怖と威圧感に顔を極限にまでこわばらせた衛兵が震える声で呻いた。場を制圧しようと揺れる銃口を必死にチェシーへと突きつけて喚く。
「もういいよチェシーさん」
　ニコルはかぶりを振ってチェシーを制止しようとした。
「僕が行く、だから」
「馬鹿言うな。信用できる相手だとでも思うのか」
　チェシーが言い返そうとしたその隙を狙い、すかさず四方から金属を織り込んだ投網が投げかけられた。ル・フェがけたたましいわめき声を上げて天井を逃げ回る。とっさに逃げ損ねたニコルは網に引きずられ、仰け反り倒れた。
　チェシーは異形の腕を閃かせて網を真っ二つに引き裂いた。ニコルを助け出し、腕に抱いて怒鳴る。
「剣だ。剣を持ってこい、ル・フェ！」
（了解っ）
　ぬいぐるみの悪魔は青黒い急旋回の光跡を引いて反転した。一瞬の間隙を突いて衛兵の間をすり抜け、錐揉みしつつ夜闇へと消え去る。
「あくまでも抵抗するというのだな」
　イェレミアスは姑息にも衛兵の後ろに隠れながら甲高く喚いた。
「ならば、軍法に従わぬとして帝国への叛逆罪を問われても致し方あるまいなあ！」
　笑みが無様な喜悦に吊り上がってゆく。
「叛逆の罪は即刻死刑だ。よし、殺せ！」
　杖が振り下ろされた。チェシーはニコルを抱いて横っ飛びにソファの後ろへと転がり込んだ。銃口が続けざまに火を噴く。轟音が牢獄の窓を吹き飛ばした。跳弾が壁の鏡を割り、花の壺を割って甲高い残響を叩き散らす。
「撃て、撃ち殺せ！　死ね、サリスヴァール！」
　闇が深紅に染まる。弾を撃ち尽くした銃を振りかざす衛兵の怒号が聞こえた。銃剣が鮮明な恐怖と殺意にぎらつく。ニコルは声にならない声を振り絞った。
　一瞬、何も聞こえなくなる。
　息もできない。チェシーの腕がニコルをねじり潰すほどの凄まじい力で抱きしめた。斬突の衝撃が呻き声となって伝わってくる。
「チェシー……さん」
　跳ね起きようとしたニコルの目の前で、チェシーの身体が唐突に前へとのめって崩れ落ちた。何本もの銃剣が背に突き立てられている。信じがたい重みがのしかかった。
「逃げろ」
　血を吐くような声で、チェシーは呻いた。
　ニコルは悲鳴を上げた。
「いや、嫌、嫌……！」
　力なくくずおれてゆく身体をニコルは泣き叫んで支えようとした。だが重みに耐えきれず、よろめき、壁にぶつかる。すがりつく手にぬるいものが伝わった。血の臭いが涙声に混じってゆく。
「死ね！」
　イェレミアスは思い上がった笑いとともに元帥杖を振り上げた。チェシーの後頭部をしたたかに殴りつける。返り血がしぶく。チェシーはもんどり打って血の海へと倒れ込んだ。
（サリスヴァール……！）
　狼狽した叫びが飛び込んできた。巨大な剣を引きずったぬいぐるみの悪魔が中空に急停止して絶句する。
「まだ死なぬか」
　イェレミアスは憎悪の嘲ら笑いを浮かべて力任せにチェシーの頭を踏みにじった。
（やめろ、馬鹿、この、サリスヴァールに何すんだよッ！）
　ル・フェは剣を投げすて、イェレミアスの頭にむしゃぶりついた。イェレミアスはぬいぐるみの身体を容赦なく引きちぎった。残骸を床にたたきつける。
「やめて」
　ニコルはチェシーを庇ってすがりついた。
「もうやめて、お願い！」
「邪魔だ！　退け！」
　イェレミアスの手がニコルのまとう薄物を背中から鷲掴んだ。脱げるのも構わずに破り捨てる。絹の裂ける甲高い音にチェシーがびくりと身体を震わせ、断末魔の呻きをもらして床を掴んだ。
「こやつらを縛り上げろ！」
「いや、嫌……ああ……チェシーさん……！」
　髪を掴まれ、肌もあらわにされながらチェシーから引き剥がされる。
　チェシーが血まみれの身体を痙攣させた。
「放せ……！」
　魔に濡れた闇の眼が硫黄の如く燃えてイェレミアスを捕らえた。背に刺さった鉄剣ががらりと音を立てて床に抜け落ちる。青黒い魔物の血が法外にあふれ、床を染めた。
「ニコルに……触るな……イェレミアス！」
　最期の力を振り絞り、命を引きちぎるようにして身を起こす。
「往生際の悪い悪魔が」
　イェレミアスは嘲笑と恐慌の入り混じった形相で後ずさった。背後からニコルの喉に腕を回して吊し上げ、血まみれの裸身を盾にしながら凄惨に揺すぶってチェシーへと見せつける。
「この化け物が、来るなら来い。女が死んでもいいのならばなあ！」
　懐刀を突きつけて喚いている。動くたびに切っ先が肌を傷つけ、腕が喉を絞めあげた。息すらできない。チェシーが何と言っているのかも聞こえなかった。イェレミアスの狂信的な笑い声だけが不協和音となって耳に突き刺さっていた。
「死ぬぞ、いいのか、一歩でも近づけば刺し殺す！　残念だったなあこの女さえいなければ何とかなったものを！　愚かな奴よ、その愚かさ故に貴様は死ぬ！　分かったか、分かったらさっさと死ね、死ね、死ね……！」

　耳元でイェレミアスが狂ったように罵り散らしている。

　自分さえいなければ。
　イェレミアス如きにチェシーがむざむざと後れを取ることもなかった。罪もないマイヤが火炙りに処せられることも。
　自分さえ、いなければ。

　ふいに、音が消えた。
　暗黒の海に差し掛かる薔薇の影が、深紅の雪を舞い散らしている。
　ふつふつとよだつ血に浮かぶその花びらを、てのひらにそろりとすくい上げる。
　いざなう虚無の香り。
　かつて、暴虐の力を願ったことがあった。
　恐怖から来る絶望故ではなく。ただ、生き延びるために。皆を、護るために、敵を打ち払う力を願おうとした。だが人の身にその力は重すぎた。狂えば狂うほど、過ちを犯せば犯すほど心の痛みが諸刃の剣となって自らを傷つける。もしあのときル・フェが、チェシーが止めてくれなければきっと心が破裂するまで戦い続けていたに違いない。でも、今は。
　分かっている。
　自分さえ、いなければ。
　人の、心など――無くしていれば、よかったのに、と。

　どくり、と。
　身体の中の何かが蠢いた。
　血の匂いが、悪夢の腐臭が、まとわりついてゆく。
　音が消え、声が消え、存在が消える。ニコルは悲鳴を上げようとした。
　だが代わりに洩れたのは悲痛な笑いだった。ふるえるまつげが血の涙の珠を弾く。
　眼を閉じ、再び開けば、そこには何もない。何もかもが消えている。
　おぞましい影がのたうち出る。虚無がすべてを侵蝕してゆく。世界が、歪む。
　刹那。
　疾駆する暗黒の棘蔓がめきめきと空間をへし折って現れ、無数に枝分かれして牢獄を打ち砕いた。床がひしゃげ折れながら隆起して傾く。轟音が逃げるイェレミアスを突き落とした。
　衛兵の絶叫が響き渡った。
　潰れた音が壁に叩きつけられる。壁が砕け、瓦礫ごと串刺しになった何かから暗黒の飛沫が飛び散った。テーブルが真っ二つに叩き割られ、宙に舞い木っ端微塵に打ち砕かれて散乱する。
　のたうち回る闇の棘蔓が鉄格子の嵌ったガラス窓を突き破った。横薙ぎに壁を砕いてゆく。炎が上がった。逃げ遅れた兵が引きずられ投げ捨てられる。
「ニコル……！」
　蜘蛛の糸にも似た叫び声が、ウィルドの闇にかき消される。
　崩壊する魂を閉じこめていた煉獄が燃えながら闇に崩れ落ちてゆく。それは飛散する記憶の末路にも似て、あまりにも取るに足らなかった。
　何人をも寄せ付けぬ拒絶がよじれあい、絡み合って残酷に羽ばたき始める。うごめく棘蔓が啜り殺す命を求めて黒くのたうった。
　血の瞳を持つ虚無が身を起こした。裸身を束縛するルーンの封印をあっけなく破り捨てる。
　半鐘がけたたましく打ち鳴らされ始めた。
　すべてが、耳障りだった。

▼

「ううおはようございますアンドレさん、今朝もまた随分とお寒い限りで……」
「なぜ人を売れない芸人みたいに言う」
　よほど朝晩の冷え込みが身に堪えるのだろうか。木賃宿に備え付けの粗末なベッドの隅で毛皮のマントにくるまったアンシュベルは身をちぢこめながら半泣きで訴えてきた。どうやらまったく眠れなかったらしい。一方、女商人のアル・ハサードの方は相当に旅慣れているらしく、全員女だということで無理やり同室にさせられたアンドレーエの存在すら全く気にも留めず肩を露出させた薄着に竜月剣を抱いて豪胆に眠っている。
「見張りの交代に行ってくる」
　アンドレーエは半べそをかいているアンシュベルに自分の毛布をくれてやり、代わりに壁にひっかけておいたマフラーを取った。当然の如くザフエルの姿はすでに部屋にない。
「何と言われてもお寒いものはお寒いのです」
「しょうがねえなあ。ほら、手を貸せ。暖めてやる」
　アンドレーエはアンシュベルの冷たい手を挟み込んでこすり、もみほぐしてやった。こわばった冷たさがすぐに柔らかさを取り戻してきゅっと握り返してくる。
「えへへアンドレさんの手、すっごく大きくて暖かいです」
「そ、そうか、いやそんなことはない、い、行ってくるからな」
　あわててマフラーをぐるぐる巻きにし、上衣をざっと羽織って宿の外に出る。
　今にも堕ちてきそうな曇天だった。短すぎる夏にすら見放されたような孤独感が押し寄せてくる。
　早暁の朝霧によどむ山懐には黄葉すらなく、針葉樹ばかりが波打つ黒く刺々しい雲に覆われていた。視界の大半を覆い尽くす峻嶺の稜線は酷薄なまでに白く凍り付いており、肌を刺す寒さと相俟って最果ての地を目指す無謀さを嘲っている。
　帝都ベルゼアスは目前にあった。
　つい先日まで、女武器商人アル・ハサード率いる隊商は都を同心円状に取り巻く郊外の一般居住地区、城塞都市の外周にあたる隔離地域に足止めされていたのだった。外国人である以上、許可なく帝都ベルゼアスへ進入することは許されない。しかし辛抱強く待った甲斐あってようやく用達の許可がおり、今度は女王の接見を賜る日を今や遅しと待ち受けているところなのであった。
　上着のポケットに手を突っ込み、荷車を止めてある天幕へと足早に向かう。
　焚き火の炎と、その炎を遮る人影が目に入った。影は微動だにせず炎を見つめている。
「ホーラダイン」
　アンドレーエは用心して背後からの声を掛けた。
「交代しよう」
　荷を満載した貨車には、黒い頭巾をかぶった猛禽が案外おとなしく止まっていた。毛羽立つ茶褐色の羽に赤と黄色の斑がちらほらと混じった猛々しい色合いだ。黒く塗られた筒を足に嵌めている。ユーゴからの密書だった。国からも神殿からも追われる身となったアンドレーエへ、忌々しいぐらいあっさりとティセニア国内の状況を知らせてくる。
　猛禽はアンドレーエの声に反応した。身体を横に揺すり、いかにも飛びたそうに嘴を鳴らす。
「結構」
　ザフエルは振り返りもしなかった。
　昨夜差し入れた熱い酒が一口も付けられぬまま冷えて残されている。その手に薔薇十字の護符が絡められているのをアンドレーエは見て取った。ザフエルの斜向かいに三脚椅子を引き寄せて座る。
「酒、もらうぜ」
　返事はない。元より期待したわけでもなかった。これ幸いと酒壺を火にかざして温め始める。
　アンドレーエは揺らぐ火を見つめた。
「このままアル・ハサードと一緒に行動するつもりかよ。一秒でも惜しいはずだが」
「少なくとも危険を冒さず宮殿へ入り込む確実な手だては今のところ他にない」
　護符の鎖が思い詰めたふうに指の合間からこぼれて鳴る。アンドレーエはザフエルの手元に目をやった。
「サリスヴァールに見とがめられなければ、な」
　ザフエルは答えなかった。黒い眼差しが地面に落ちる。
「冬になればなるほど不利になると言ったのはホーラダイン、あんただ」
「分かっている」
　ザフエルにしては珍しく心ここにあらずといった口調だった。指先で薔薇十字をもてあそんでいる。
「すぐに雪が降るぞ。いくらイーサがあっても女連れの雪中行軍なんてとてもじゃねえが無理だ。もしそんな下手を打っちまったらもう二進も三進もいかねえんだぞ」
「それぐらい言われずとも分かっている」
「だめだこりゃ」
　アンドレーエは嘆息を装って笑い、酒をあおった。
「どうやらアーテュラスのこととなるとからきし駄目っぽいな、あんた。よくそのザマで今まで平然とあいつの副官でいられたもんだ。どんだけ分厚いんだよその化けの皮は」
「閣下は」
　ザフエルは薔薇十字を握りしめた。
「私が何者であるかをご存じない」
「よく分からねえんだよな、そこらへんが俺にはさ」
　アンドレーエはつとめて陽気に白い息と酒臭い声を吐き出した。
「どこの何様が父親だろうが、だから何っていう感覚しかねえんだけど」
　ザフエルは火から眼をそらした。漆黒の眼差しが言い知れぬよどみを映し込んで揺らぐ。
「ルーンの血を受け継がぬ者が薔薇の系譜に名を列せられることはない」
「どのツラ下げて今さらそんな聖職者様ぶったことをのたまいやがる」
「貴公ほど自由自在の身ではないということだ」
「へっ、羨ましいか」
　アンドレーエは拳の背で口元を拭った。
「ざまあみやがれ。俺は由緒正しい山賊一味の御曹司だからな！　血統だの教えだの門閥だのと七面倒臭いしがらみにがんじがらめにされてる御貴族様と違っていちいち血統がどうたらこうたらと不幸ぶったりはしねえんだよ」
　また酒をあおり、酔いの勢いに任せて続ける。
「お尋ね者の今だから言うが、そもそもルーンに完璧な聖性を求めるほうがおかしい。イーサなんて盗っ人界最大の秘宝だったんだぜ。それを神殿の連中がだなあよってたかって！」
「……分かっている」
「うそこけ。口先だけ何もかもお見通しみたいに抜かすんじゃねえよ。何も分かってねえくせに」
　アンドレーエはザフエルの横顔を睨み付けた。
「さっさと腹をくくっちまえ。サリスヴァールをぶっ倒してアーテュラスを取り戻す。それでノーラスでの決着もつくだろうが」
　ザフエルは答えなかった。出陣前、ニコルの無事を祈って戦地へと送った薔薇十字とまったく同じ――今となってはもうその手元に残っているかどうかも分からない、心許無い絆の片割れだけを握りしめて黙りこくる。
　長い沈黙だけが続いた。
　継ぎ足されることもなく小さくなっていた篝火が、最後の火の粉を散らした。吸い込まれるように火が消える。夜が、明ける。
「私には」
　ザフエルはつぶやいた。らしからぬためらいが声をくぐもらせた。
「聖ローゼンの教えが」
　そのとき。
　突然、雹混じりの疾風が吹き付け、凄まじく灰を吹き飛ばした。荷車に止まっていた猛禽が甲高い怪鳥のさけびを放ってうち羽ばたく。羽が舞い散った。
　小石ほどの氷塊が降り注いでくる。厩を直撃したのか、悲痛ないななきが聞こえた。雹が地面にはね、転がり、天幕を打ち抜く。大波が打ち寄せるかのような騒然とした雹の音が宿を包み込んだ。
　アンドレーエは思わず腰を浮かせた。絶句し、黒雲に覆い尽くされた北の空を振り仰ぐ。どこかからガラスの割れるけたたましい音がし、続けてアンシュベルの悲鳴が聞こえた。雹が部屋に飛び込んだに違いない。
「何だ、今のは」
　腕に嵌めたイーサの宿す命の光が一瞬、吹き消されるよう激しく揺らめいた。ルーンの波長が乱れ、歪む。
　アンドレーエは歯を食いしばった。耳には聞こえない不協和音が高まってゆく。イーサが悲鳴にも似た光を振り散らした。
　本能が警鐘を鳴らす。
「気をつけろ、ルーンの様子がおかしい」
　飛んでくる木っ端や氷のかけらを腕で庇い、振り落としながら怒鳴る。
「とりあえず屋根のあるところへ退避して、それから」
　黒衣をちぎれんばかりにはためかせ、ザフエルは立ち上がった。激しい山颪にフードが飛ばされている。冷厳な顔容があらわになった。何の動揺をも窺わせぬ表情が空を見上げている。
「虚無《ウィルド》が覚醒した」
　抑揚のない声。
　漆黒の瞳がルーンの共鳴を帯びて、暗く、つめたく光った。
　雹混じりの突風が横殴りに吹き付けてくる。
　アンドレーエは止まり木にくくりつけた猛禽の傍へと駆け寄った。猛禽は暴れに暴れている。目隠しの頭巾はとうの昔に吹っ飛んで消えていた。
　綱をほどき、荒れ狂う空へと一気に解き放つ。
　猛禽は木枯らしの唸る灰色の空へと羽ばたいた。羽を散らし、一気に風に乗って彼方へと消え去る。
　ザフエルは暗く渦巻く北の空とその袂で威容を放つ帝都の遠景を見つめたあと、吸い寄せられたかのように突如歩き始めた。
「ちょ、ホーラダイン、待てよおいいきなりどこ行くんだこら返事しやがれ……！」
　風に飛ばされそうになるのを何とか踏みとどまり、アンドレーエはつんのめるようにして先行するザフエルを追った。
　女物の黒い外衣が狂ったようにはためいている。
　今までに感じたこともない感覚が風に混じって吹き付けた。気力まで吸い取られてゆくかのような、諦めにも近い絶望感がじわりと忍び込んでくる。
　深淵が横たわっている。さながらこの世とあの世を隔てる忘却の河のような、どこまでも深くよどんで、ただ暗澹と消えてゆく、時の果て。
　目に見えぬ壁が帝都ベルゼアスを包んでいる。
　都の中心部へ近づけば近づくほど何かが壊れているような気がした。拒絶の声が聞こえる。無理だ。もう、何も変えられはしない。このまま、諦めるしかない。夢も、希望も、どうせ叶うことなどありはしない――
「アンドレさん、どこですか……」
　涙まじりに叫ぶアンシュベルの声が聞こえた。
　アンドレーエは我に返って跳ね起きた。いつの間にか脱力してその場にくずおれていたらしい。
　声に引き戻されるようにして走り出す。
　アンシュベルはすぐに見つかった。建物の影で泣きじゃくっている。
「ほったらかしなんてひどいです……アンシュもベルゼアスへ行くです……！」
　完全防寒を施したメイド服の上にもこもこの短い上着を羽織って雪山用のゴーグルを首にかけ、フリントロックライフルと弾帯を肩に引っかけてこれまたぱんぱんに膨れた爆弾入りリュックを背負っている。
「お前には無理だ、帰れ。危険だ」
　アンドレーエは半ば脅しつけるように言ってアンシュベルを追い返そうとした。アンシュベルは首を思い切り横に振って拒否した。
「嫌です、行くです」
「駄目って言ってんだろう……」
「駄目駄目言うから駄目なんです！」
　まるで駄々っ子のようにアンシュベルは言いつのる。
「駄目なんかじゃないです。アンドレさん、アンシュを師団長に逢わせてくれるって約束してくれたじゃないですか。なのに何で置いていこうとするです」
　アンドレーエの胸元にすがりついて顔を埋める。アンドレーエは胸を衝かれてアンシュベルを見つめた。
　振りほどかれると思ったのか、アンシュベルはアンドレーエの服がくしゃくしゃになるのも構わずぎゅうっと掴んだままわめき散らした。
「やです放さないです連れてってくれるって言うまで絶対放さないです嫌われても付いてくですっ」
「アンシュ」
「あああんやっぱりやです嫌われたくないです、けど、でも、付いていくって決めたです離れたくないです一緒に行きたいです！」
「……アンシュ」
　ためらいを押し殺し、泣きじゃくるアンシュベルの手を強く握りしめる。
　アーテュラスにもう一度逢いたい――あの日、そう言って泣いた少女の願いを何とかして叶えてやりたくて行動を共にし始めたのではなかったか。逆巻く風にアンシュベルの髪が踊る。
「そうだよな、約束したんだもんな、逢わせてやるって」
　アンドレーエはアンシュベルを引き寄せた。
「いいか、絶対に手を放すなよ」
　アンシュベルの手をしっかりと引いて、アンドレーエは走り出した。

　底ごもる地鳴りが続き、ときおり漆黒の閃光がはためく。乾いた銃声が散発し、そのまま途絶える。
　ゾディアック帝都ベルゼアスの中枢を取り巻く宮殿前の大広場をアンドレーエはアンシュベルとともに駆け抜けた。
　誰一人行く手を遮る者はない。
　宮殿から逃げてきたのだろうか、道端に座り込んだゾディアック軍の士官らしき男が銃を投げ出し、涙に濡れたうつろな眼差しで地面を見つめながらぶつぶつとうわごとを口走っていた。その足下には影よりも濃い絶望の泥沼が広がっている。
　風は恐ろしいほどに凪いでいた。
　ねっとりと垂れこめた暗雲に渦の中心を思わせる巨大なすり鉢状の穴が開いている。
　再び、闇の稲妻が天空を切り裂いて走る。
　陰と陽の影に静謐を刻み込んだ邪悪なまでに美しい街並みが一瞬の閃光に照らし出された。闇と氷と炎渦巻く帝国の玉座、心狂わせる風の鳴る美しき魔都。ゾディアック帝国の始祖が悪魔と契約し、一夜にして築き上げさせたと伝えられる狂気の礎がそびえ立っている。
　天空へと伸びてゆく闇の回廊。あやうくも深紅にゆらめく血水晶の光輝に潜む魁偉な魔の彫像、都を幾重にも取り巻く拒絶の断崖。どこへどう接続されているのかも分からぬ漆黒の大理石で築かれた無数の階梯、無数の柱列、無数の迫持、無数の尖塔、門、外扉、内扉、地下通路。
　宮殿を前にして立ちつくしているザフエルの後ろ姿が見えた。駆け寄る。ザフエルはアンドレーエに気付いて肩越しに振り返った。宮殿の方向を無言で指し示す。
　異様な質量を帯びた黒紫の霧が、宮殿を取り巻く城壁からふつふつと吹きこぼれていた。
　内部では火の手も上がっているようだった。遠く離れたこの場所にまで瓦礫の崩れる音が聞こえてくる。
　助けを求めようとして霧に触れたのか、広場は脱力し座り込む兵士や市民で埋め尽くされていた。死んでいるわけではない。だが、誰一人として絶望に抗おうとする者はいなかった。
「虚無《ウィルド》って何なんだ」
　アンドレーエは怒鳴りつけようとして空にいんいんと自分の声が響き渡るのにぎょっとした。ザフエルは答えない。
「アーテュラスと関係あるのか」
　だがその声は絶句とともにかき消された。
　継ぎ目一つなかったように見えた城壁が割れた。跳ね橋が凄まじい鎖と滑車の滑る音を軋めかせ倒れかかってくる。轟音と共に地に落ちた次の瞬間、中から暗黒の霧と同時に魔物があふれ出してくるのが見えた。
　群れに押し流されるようにしてゾディアックの貴族らしき男がもんどり打って城外へと吐き出され、そのまま足をもつれさせて転倒した。酷い有り様だった。豪奢な外套は無惨に引き裂かれ、くるくるに巻いたかつらがはげて下から灰色の貧相な髪が見えている。
　アンドレーエは思わず飛び出そうとした。が、貴族が派手な杖を振り回すたびに空気が切り裂かれ、異界の門となって魔物がどろどろと溢れだしてくるのを見て、たたらを踏んで立ち止まった。口元が嫌悪にゆがむ。
　城門前に倒れていた衛兵が魔の群れに呑み込まれた。貴族は衛兵には目もくれなかった。転がるように逃げてゆく。
「あのクズ野郎」
　アンドレーエは嫌悪感もあらわに吐き捨てた。
　虫酸の走る思いで腰に巻き付けておいた鞭を解き放ち、地面に打ち付けて高く鳴らす。
　おぞましい悪臭が再び鼻を突く。ノーラスの森を埋め尽くしていた魔物の群れが記憶に甦った。同じ悪夢。同じ感覚。間違いない。魔物を盾に逃げ惑っているのはイェレミアスだった。何を怖れての愚挙か、信じがたいことに帝都の中心部で魔物を召喚し、放ち続けている。
「くそったれが……！」
　魔物がみるみる増殖し、分裂して膨れあがってゆく。だがその魔物ですら黒い霧に包まれた宮殿へは近づこうとはしなかった。
　目に見えぬ闇に遮られてかえって逆上したのか、おぞましい形がびしゃりと崩れ、どろどろと這いずり回って、目に付いたもの全てに襲いかかってゆく。
「だから何で俺が敵の兵士を助けなきゃなんねえんだよこん畜生ッ！」
　アンドレーエは毒づきながらも魔物の波に巻き込まれた兵士へと駆け寄った。魔物の群れを鞭の一閃でばらばらの粉微塵に細裂き、埋もれかけていた粘液まみれの兵士を引きずり出す。
「きゃあああ来ないでですうっ！」
　甲高い叫びとともにアンシュベルが擲弾を投げた。目と鼻の先が猛火に包まれる。魔の群れが熱に押され、遠浅のように引いていった。だが眉毛を燃やされては内心穏やかではいられない。アンドレーエは鼻の先を真っ黒にしながらアンシュベルを怒鳴りつけた。
「ああ熱ちゃちゃちゃ何しやがるてめえ俺まで焼き殺す気かッ！」
「あれえ？　アンドレさんそこにいたんですか？　えへ、魔物と間違っちゃいました」
　アンシュベルは手に火の点いた爆弾を持ったまま、困ったように笑ってもじもじした。
「ごめんなさい、ちょっと飛距離が足りなかったみたいでぇ……」
　導火線がじりじりと音を立てて燃え尽きようとしている。アンドレーエは眼玉ごと吹っ飛びそうな勢いで喚き散らした。
「わわわ分かったからそいつを早く捨てろ馬鹿ーーッ！」
「アンシュは馬鹿じゃないもん」
　ぷい、と拗ねた顔で手にした爆弾を後ろに放り投げる。
　アンシュベルの頭上で凄まじい爆発が起こった。アンシュベルは爆風にあおられて吹っ飛ばされ、毛糸のぱんつを丸出しにしてアンドレーエに頭から突っ込んだ。運良く背後に迫っていた巨大な魔物が爆発の直撃を受けてばらばらに四散する。黒い肉片が降りしきり、地面に跳ね返ってそのまま煙となって消え失せた。
「あれ、何かやっつけたみたいです……」
　びりびりに破れたスカートを押さえながらアンシュベルは臆面も無く胸を張った。笑っている。
　アンドレーエは再びぎゃあぎゃあ怒鳴り散らそうとして息を呑んだ。漂う死の気配に呼び寄せられたのか、闇雲に人を襲っていた魔物の群れが明らかに矛先をこちらへと向けて近づいてくる。
　思わず後ずさる。
「ちょ、ちょっと待て、俺は庇護《アルギス》持ちじゃねえぞ……」
「ど、どうするです？」
「どうするって、その、逃げるしかねえんだが」
「逃げ道もないです」
　アンシュベルが後ろを振り返ってうわずった声を上げる。
「何てこった、囲まれちまった」
　アンドレーエは色めき立って吐き捨てた。魔物の群れが腐った口蓋をだらしなく開け、悪臭漂うおぞましい涎を振り散らしながら四方八方から迫ってくる。顔が引きつった。
「さしものアンドレさんも焼きが回ったかな。この数はちょっとばかし手に負えねえぞ」
　アンドレーエは凄まじく笑ってアンシュベルを抱き寄せた。
「爆弾一発投げて、その隙に突破するしかねえなあ」
「あたしが投げるです」
「よし任せた」
　アンシュベルは導火線に燐を塗った擲弾の安全弁を引き抜いた。燧火が摩擦で燃え上がる。アンドレーエは機を見計らって怒鳴った。
「三、二、一、投げろ！」
　アンシュベルはえいっとばかりに擲弾を投げた。
　ひょろろ、と飛んで。
　ぽと、と目の前に落ちる。
　擲弾はころころと転がって魔物の足下に消えた。
「……」
　まだ、爆発しない。
　アンドレーエはアンシュベルと顔を見合わせた。
　不発らしい。
　互いの血の気がみるみる引いてゆく。
　魔物が、一斉に襲いかかってきた。
　静寂のイーサが波長を乱し、荒々しく瞬いて誤作動した。荘厳な音楽にも似た雑音が耳鳴りとなって耳を突き刺す。視界が灰色と黒の砂嵐に覆われて暗転した。アンドレーエはとっさにイーサの加護を振り払った。知覚が戻ってくる。魔物は眼前に迫っていた。アンシュベルが悲鳴を上げる。
　その、刹那。
　何かが、姿を現した。

　風が凪ぐ。
　音が、消えてゆく。
　荒々しい唸りも、猛々しい魔物の咆哮も。
　すべてが、吸い込まれて。

　絶望の重圧が現実の重力となってのしかかった。
　身体が鉛のように重い。何も聞こえないのに憎悪の轟音が耳を聾し、何も見えていないのに、耐え難い悪臭を放つ色と名状しがたい喪失感を併せ持った闇とが全身をまさぐる悪寒の乱舞となってまざまざと迫ってくる。
「な、何、これ……怖い……」
　アンシュベルが泣き声を上げた。しがみついてくる。
　アンドレーエはイーサの結界を奮い立たせ、恐怖を押し殺してアンシュベルを抱き寄せた。
　重い瞼を無理やりにこじあけ、周囲を見渡す。
　宮殿前広場を埋め尽くしていた魔物の群れが、動きを止めている。
　時すら止まったかのようだった。
　開いた城門から、黒い霧が絢爛たる死の泉のごとくあふれ、流れ出している。
　しんしんと音もなく薔薇の花びらが降る。
　赤い花びらの雪。
　魔であろうと。
　人であろうと。
　すべてに等しく、それは、降り積もってゆく。
　視界の隅を黒い影が横切った。とっさに振り返る。いつの間に足下にまで忍び寄っていたのか、すすけた鉄《くろがね》の棘蔓が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
　引き延ばされた戯画的な影が嘲笑とともに死の舞踏を演じていた。過去の幻影が面白可笑しく映し出され、沈む。壊れた機械人形が踊っている。延々と音程の狂った不協和音の旋律が繰り返され、糸の切れたからくり曲芸の舞踊団が軋み歩き、這いずり歌って、錆びた現実を見せつける。遠い望郷の歌。振り返り見れば、流れる黄金と燃える氷で作られた機械仕掛けの噴水がきらびやかな腐乱臭を放ち、永遠に完成せぬパズルの最後の一片を追い求めて繰り広げられる過ちを走馬燈に映して、回る、回る、回る――
　流れる霧の彼方に、一糸まとわぬ女の妖婉なかたちが透けて見えた。
　一瞬、その凄艶な雰囲気が誰かに似ているような気がしてアンドレーエは息を呑んだ。ゆらめく暗い藍色の髪。ほっそりと華奢な背格好。似ている、似てはいる、だが、あり得ない。あれが、あの、魔性そのものの姿がアーテュラスだなどと、そんな信じがたいことを、誰が――
　突然、アンシュベルがつぶやいた。
「師団長」
　うつろな血の色の瞳が呆然と動いた。砕かれた魂の骸《むくろ》がアンシュベルを見つめる。
　アンシュベルは吸い寄せられたかのようにふらりと前へと進み出た。
「馬鹿、何言ってやがる……」
　アンドレーエはアンシュベルを引き止めようとした。
「師団長です」
　アンシュベルはかぶりを振った。みるみる大きく見開いた眼から涙があふれ、こぼれ落ちる。
「違う。よく見ろ」
　アンドレーエはもがくアンシュベルの耳元で怒鳴りつけた。
「あれはアーテュラスじゃねえ」
「離してくださいです」
　アンシュベルはアンドレーエの手を振り払った。
「師団長です、師団長師団長師団長っうわあああんずっとずっと会いたかったですううう……！」
　泣きながらいきなり前へと飛び出し、ポケットから白いハンカチを取り出して大きく振り回しながら走り出してゆく。止める暇もない。
　闇をまとった白い人影はアンシュベルにはまるで構いつけもせず、そのままゆっくりと視線を転じた。
　何かを凝視している。
　視線の先には転がるようにして無様に逃げる男の姿があった。イェレミアスだ。
　棘蔓が、ゆらりと鎌首をもたげた。アンシュベルは走ることに夢中で気付かない。
　血の瞳が、イェレミアスの背に照準を合わせるかのように、すっと細められる。
　凍り付く風の旋律をつま弾く指先が空を斬った。死の五線譜を操るかのように、黒い霧が氷の微粒子の尾を引いて宙に生まれ、吹き流されてゆく。
　次の瞬間。
　石畳に無数の亀裂が入った。地面を突き破り噴出した亀裂が、石畳をジグザグに粉砕しながらイェレミアスめがけて殺意も露わに突き進んでゆく。黒と金の火花が散った。地響きが鳴り渡る。
　アンシュベルが盛り上がった瓦礫に足をすくわれて転倒した。避ける間もなく棘蔓に巻き込まれる。のたうつ棘は容赦なくアンシュベルを引きずりながらぐるぐるとねじれ返った。イェレミアスを狙っている。
　棘の先がイェレミアスの足首に巻き付いた。一気に反り返り、イェレミアスの身体を逆さ吊りにして高々と跳ね上げる。悲鳴の尾が弧を描いて舞った。棘蔓はおぞましくうねり、しなりながら、アンシュベルごとイェレミアスを地面へ叩きつけようとした。
　気を失っているのか、アンシュベルはもう悲鳴すらあげない。
　間に合わない――
　アンシュベルを巻き込んだ棘蔓が、凍り付いたように動きを止めた。
　その一瞬の隙を狙って、アンドレーエは巨大な弧を描く棘蔓へと一気に駆け上がった。棘の中途に引っかかっているアンシュベルを強引にかっさらい、鞭を命綱代わりに蔓から蔓へ渡り移って、最後、ひらりと身をかわしてかろやかに着地する。
「大丈夫かアンシュ！　って、何だこれは」
　華麗に抱き止め、互いに熱く揺れ動く愛のまなざしで見つめ合っているはずが、残念ながらアンシュベルはまた上下逆さまになっていた。思い切りいちご模様の毛糸のぱんつに話しかけていたことに気付いてアンドレーエは赤面し、ぎごちない手つきで見なかったことにした。
「……助かったぜ、ホーラダイン」
「贅言無用」
　冷ややかな声が遮った。その背後で、根本から一刀両断に断ち切られた棘蔓がぐらりと傾き、闇の霧となって四散する。
　ザフエルは怜悧に光るサーベルを鞘へ納め、振り返った。
　棘蔓が消え、放り出されたイェレミアスはもんどり打って地面に落ちた。はずみで元帥杖が手から離れる。イェレミアスは半狂乱になって杖に這い寄った。鷲掴み、泣きわめきながら振り回す。
「おい、やめろ……！」
　止める間もなく、イェレミアスは闇雲な恐怖と生への執着に駆られた醜悪な表情で杖をかざし、膨大な量の魔を召喚した。
　爆発的に増殖するばかりのおぞましい腫瘍めいた肉壁が地面から盛り上がる。
　どろり、と溶けて、流れ落ちる。そのねばねばと腐った糸を引く吐瀉物にイェレミアス自身が足を取られてはまり込んだ。肉壁が蠕動し、みるみる奥へと呑み込まれてゆく。
「ひぃぃあああ助けて……助けてくれ……あああ、やめろ、なぜ、こんな、助けろと言っているのが分からぬか……！」
　棘蔓がゆらゆらと風を切ってのたうった。かと思うと一気に伸び上がり、イェレミアスめがけて突っ込んでくる。
　ザフエルはその正面に立ちふさがった。
　つと左腕のハガラズに触れ、つぶやき祈って眼を閉じる。イェレミアスはまだ口汚く喚き散らしていた。
「そんな奴、庇うこたねえッ」
　アンドレーエは駆け寄ろうとした。ザフエルは無言で手を振り払った。拒絶の仕草だった。
　静かに眼を開け、薔薇の檻を破った虚無の凄艶な裸身をひたと見つめる。
　結界を張ろうともしない。ただ、見上げている。
　眼前に棘蔓が迫った。疾風が吹き付ける。ザフエルの黒髪が狂おしくなびいて舞い上がった。イェレミアスのみを狙って、無数の死が凄まじい勢いで降り注いでくる。
　ぎらつく殺意が心臓に突き立つ。貫かれ、引き裂かれる。避けられない。
　そう、見えた瞬間。
　首から下げた銀の薔薇十字が、涙にも似た音を立てて砕け散った。

「閣下」
　足下に、粉々に砕けた護符のかけらがこぼれ落ちてゆく。
　きらめく音に、虚無を宿していた血の瞳が、かすかな自我を取り戻して瞬いた。
　涙がつたい落ちる。
　寒々と青く変色して見えたくちびるが、引きつるように動いた。
「ザフエル……さ……」
「閣下」
　虚無は、悲鳴を上げて身をよじらせた。闇の霧が猛然と噴出してその姿を覆い隠す。瓦礫と雹を含んだ突風が吹き荒れる。
「アーテュラス」
　アンドレーエは巻き起こる嵐に逆らい、前に進もうとして、絶句した。
　行く手をイェレミアスが呼び寄せたおぞましい魔物の肉塊が遮っている。イェレミアスの姿はもうどこにもない。とうに呑み込まれてしまったのかもしれなかった。
　腕の中のアンシュベルが意識を取り戻した。身じろぎし、悲痛に喘ぐ。
「師団長……あ、アンドレさん、師団長は……？」
「くそっ」
　アンドレーエはザフエルの姿を探した。
「どうすればいいんだ、ホーラダイン」
　おぞましいまだらの色に染まった魔物の寄せ集めが穢らわしくも音を立てて砕け、潰れ、練り上げられ、血しぶきと腐肉と膿のかたまりをびちゃびちゃと噴き上げながら膨れあがってゆく。
「必ず取り戻す」
　ザフエルは憑かれたように呻いた。
「この手に、貴女を」
「お、おい、今回こそは落ち着いてるんだろうなホーラダイン、また馬鹿丸出しで真正面から突っ込んでいくんじゃ、って言ってるそばからうわあああ……！」
　どうしようもなくおぞましく膨らみきった魔の腫瘍が自重に耐えきれず破裂した。頭上から一気に汚濁がなだれ落ちてくる。アンドレーエはアンシュベルを離すまいと強く抱きしめた。今度こそ逃げ場はない。もう――
　青黒い閃光が空を切り裂く。
　力を帯びた詠唱が暗雲たれ込める天空を震わせた。
　大地が割れ、砕け、吸い上げられて宙に浮き上がった。凄まじい真空の太刀風が突き抜ける。魔物の肉壁が旋風に巻き込まれちりぢりに蒸発しながら吹っ飛んだ。
「な、何だ……」
　眼前の景色が、二つに割れる。
　魔の壁がみるみる溶解し、霧散してゆく。アンドレーエは呆然と顔を上げて裂け目の彼方を見やった。
　破れ果てた、漆黒と瑠璃色の軍衣。
　そこには、剣を支えによろめき立つ傷だらけの悪魔の姿があった。
「アンドレーエ、それに、アンシュベル」
　呆然と悪魔がうめく。
「何で、お前たちが、ここに」
　折れた黒い片翼。
　醜くゆがむ、異形の腕。
　青黒く光る血が足下に流れ落ちている。
「サリスヴァール、てめえ……ッ！」
　アンドレーエは激情に駆られ、何もかもかなぐり捨ててチェシーへと殴りかかった。風に舞う闇の残滓を踏み越え、瓦礫を蹴って一気に肉薄する。
　鞭を抜いて力任せに叩きつける。
　甲高い風鳴りが空気を切り裂く。
　チェシーはとっさに剣をかざし、鞭の一撃を受け止めた。刃に鞭が巻き付く。火花が散った。アンドレーエは臆することなくさらに踏み込み、嵐のような打擲を放ちつつ怒鳴った。
「どのツラ下げて出てきやがった！　アーテュラスを返せ、元に戻せよ。何もかもてめえのせいだ、この悪魔野郎ッ」
　鞭先が目にもとまらぬ速度で乱舞し、無数の残像を描き出す。
「やめろ、アンドレーエ」
　チェシーはかろうじて乱撃を受け止めながらうめいた。
「こんなことをしている場合じゃない……」
　人にあらざる眼が黒衣の人物をとらえた。戦慄に押し開かれる。
「……准将さんの馬鹿あっ！」
　涙混じりの甲高い声が耳に突き刺さった。アンシュベルだった。
　ありったけの擲弾を両脇に抱え、前に飛び出して来る。
「何でこんなことになるですか。師団長を返すです、返してですっ……」
　片っ端から安全弁を引っこ抜いてチェシーに投げつける。
　アンドレーエはとっさに右方向へ身を投げた。頭から地面に飛び込んで片手を突き、側転しつつ空中で軽々と身体をひねって転がり逃れる。
　擲弾がチェシーの足下に跳ねた。
　目も眩む白熱の閃光がほとばしる。
　灼熱の光が眼に突き刺さった。押し殺した叫びが聞こえる。アンドレーエは光に吹っ飛ばされ倒れ込みつつ、眼をかたく瞑った。
　凄まじい光が染み込んでくる。
　何も見えない。
　だがそれで十分だった。見えないのならば光も闇も同じだ。
　瞬時にイーサが反応した。光が遮断される。アンドレーエは乱舞する光の残像に目を眩ませながら闇雲に突っ走った。
　苦悶によろめくチェシーの気配が感じ取れた。一歩も動いていない。どうやらまともに閃光をくらって動けなくなっているようだった。
　そこへすくい上げるような地擦りの鞭を振るい、叩き込む。
　先鞭の唸りが矢のように地を這い、風を切る。鞭音を聞き分けたのか、チェシーはとっさに反応して鞭を剣で打ち落とした。鞭先がしなり返る。
　狙い通りだ。アンドレーエはぐっと手首を返して鞭を引いた。重い手応えが返ってくる。
　チェシーが歯を食いしばって唸った。
　鞭先は剣の根元に何重にも巻き付いている。
　ただの鞭ではない。するどく研いだ鋼糸を縒りあわせ、刃と鉄菱を編み込んで、触れたものすべてを指先一つの加減で細裂くことも可能な戦闘用の鞭だ。たとえ剣に巻き付こうと、容易く切れることはない。
「サリスヴァール！」
　挑発まがいに怒鳴りつける。だが、予想した反撃はない。
　閃光が晴れ、視界が戻ってくる。
　チェシーはアンドレーエを見てもいなかった。凄絶なそのまなざしはザフエルにのみ向けられ、怒りとも、苦悩ともつかぬ激しさにくるめいている。
「手を引け、ホーラダイン」
　漏れ出たのは、元の声とは似ても似つかぬ、血を吐くようなしゃがれ声だった。
「頼む、退いてくれ」
　アンドレーエはくちびるをゆがめた。
「ホーラダイン、何してる」
　力ずくで鞭を引き寄せ、剣の動きを押さえ込みながら怒鳴る。
「今のうちだ、アーテュラスを追え」
「やめろ」
　鞭に引きずられ、チェシーが体勢を崩す。
「あいつを、連れて行くな」
　立っていられるのが、不思議なほどだった。血にまみれた満身創痍の状態で、狂おしく片息をつき、髪を振り乱して、沈鬱にうめく。
「あれは、違う……！」
「うるせえっ！」
　アンドレーエは唾棄せんばかりに吐き捨てた。なおいっそう力を込めて鞭をたぐり寄せる。
「てめえ、自分が何をしたのか分かってて！」
「何かの間違いだ」
　チェシーは血まみれのかぶりを振った。
「……あれは、あいつじゃない……！」
「あまりにも愚かしく」
　低い、祈りにも似た呟きが場を圧した。
「あまりにも、哀れ」
　乾ききった声が、すべてを打ちのめす静寂のようにいんいんと伝わってゆく。
　ザフエルは黒衣をはためかせてチェシーを見やった。
　冷淡なまなざしが、茫漠とした砂漠のように底光る。
「もはや、異端でもない。人ですらない貴方に、この世界で生き長らえることをゆるす謂れはありません」
　息を呑む鋼の音をつと滑らせ、漆黒のサーベルを抜き放つ。
　闇に誘われるがごとき切っ先が風を切った。
　吸いつけられた氷塵がきらめく。ぬめるような青白い刃。一気に周辺の気温が下がってゆく。
　鋼がうっすらと白く霜に覆われ、つめたく揺らぎ始める。
　白い夜霧が弧を描き、舞い散る。
　チェシーの顔が一瞬、ひきつってゆがんだ。
　それでも、動かない。
　腕を伝い、軍衣の裾を伝って、足下に点々と青黒い血が散ってゆく。
　音を立てて、血のしずくが落ちる。
　動かない、のではなく、動けない、のかもしれなかった。
「悔い改めぬ者に、神の怒りを」
　ザフエルの指先が聖なる印を結んでゆく。朗々と奏でられる聖呪がきらめきとなってサーベルを取り巻く。
　青白い光が解き放たれた。
　すべてを灼き尽くす輻射光があふれ出す。
「ちっ！」
　アンドレーエは剣に巻き付いた鞭を振るった。反動でチェシーの足下がふらつく。
　焼けつく影が黒々と地面に引き延ばされてゆく。
　絡みついていた鞭がほどけた。身をひるがえす。アンシュベルが何かを叫んだ。呼んでいる。
　アンドレーエは声を頼りに突っ走った。すれ違いざまにアンシュベルを頭から抱え、瓦礫の陰へと飛び込んで身を伏せる。
　次の瞬間、輻のような光芒が、天から地へ一直線になだれおちた。
　無数の和声、響き渡る調和の音色。燦爛と飛び散る壮麗な光が大地に突き刺さり、視界を黄金色に染めあげてゆく。
　聖なる光に身を焼かれる寸前、チェシーは跳ね飛んで逃れた。
　石畳が同心円状にめくれ上がり、浮き上がって剥ぎ取られてゆく。浮き上がった瓦礫は光の圧力に耐えきれず、爆縮して砕け散った。周辺に残っていた魔物ごと、瞬時に蒸発して消え失せる。
　一瞬遅れて、真っ白な粉塵を含んだ爆風が吹き抜ける。
　破れた黒い翼が煙を振り払った。風にあおられ、うなりをあげてばたついている。今にも吹き飛ばされそうだった。
　そこをザフエルのサーベルが襲った。
　煙さえ真っ二つに断ち割るほどのするどい横一閃が喉元をかすめる。チェシーの手から剣が吹っ飛んだ。反射的にチェシーは身をひねり、返す刀が来る前に高々と跳ねて、手からこぼれた剣の元へと走り寄った。駆け抜けざまにすくい上げ、態勢を入れ替える。
　土煙が巻き起こる。
　だが劣勢には変わりなかった。待ち受けていたザフエルの凄まじい斬突が連続で打ちかかる。息つく間もない。足下が砕けるほどの踏み込みが瓦礫を弾き飛ばす。
　甲高い鋼の軋みが響き渡る。
　一瞬のつばぜり合い。がきりと噛み合い、受け流す刃から流れ星のような火花が散りこぼれる。
　その閃光がザフエルの黒い瞳にぎらりと色をなして映り込んだ。
「ホーラダイン、話を聞け」
　チェシーが瀕死の息を吐き乱しながらうめく。
　ザフエルの攻撃を弾くたび、背中の傷から青黒い魔性の血が噴き出している。まともに戦える状態ではないことは傍目にも明らかだった。
「聞けと、言っている……！」
　ぎりぎりと刃こぼれさせながらも十文字に刃を交わらせていたサーベルが、ふっと切っ先をいなして受け流した。
　きらめきとともに切っ先が反転する。
　ザフエルの身体が一瞬視界から消える。
　重量感に勝るチェシーの剣の下をザフエルは一気にかいくぐった。懐深く踏み込み、漆黒の柄頭でチェシーの喉に打突の一撃を突き入れる。
　致命傷ではない。が、反応を止めるには十分だった。チェシーは喉を掴んでよろめいた。咳き込みながら苦悶に顔をゆがめ、息を吸い込もうとあがく。
　その顔面を漆黒の爆炎が矢継ぎ早に襲った。吹っ飛ばされる。
　チェシーはのけぞり、吠え、ついに防戦一方であることに耐えかねて剣を握り代えた。太刀風をまとわせて一気に振りかぶる。
　大地を割る突風が渦を巻いて剣に収斂する。だが無理な体勢が祟ったか、チェシーはまた膝の踏ん張りを失って、がくりと突っ伏した。手が震えている。顔面はすでに蒼白だった。
　ザフエルは剣を擦り構え、立ち止まった。
　その腕に宿した破壊のハガラズが、光をいや増してゆく。
　漆黒の壁にも似た結界が波打つかのように広がった。
　地面がわずかに揺れる。
　破砕の震動が鳴り渡る。
　サーベルの切っ先が風を切った。氷煙が尾を引いて吹き流れる。
　同時につむがれ始めた聖呪《ヘヴンズ・ゲート》が天の底を踏み抜かんばかりに空間を引きゆがめてゆく。
　漆黒のきらめきが眼を射た。風の歌う喨々たる聖歌が、悲愴に演じられる運命の旋律が、光闇相打つ悲劇を奏でてゆく。
　ザフエルはふと哀憐の仕草でその手を差し伸べた。チェシーの剣を指し示している。
　腕に嵌めたハガラズが不穏にゆらめく。
　ぐいと掌を返し、ひねる。
「排除せよ」
　声に呼応し、ハガラズがぎらりと黒い閃光を放った。
　剣が、根元から砕け、折れ飛んだ。内部に仕込まれていたカードが粉々に吹き散らされる。
　チェシーは愕然と眼を押し開いた。
　乾いた音を立てて、折れた刀身が石畳に転がってゆく。
　ザフエルは無表情にチェシーを見やった。
「今のは、何、何が起こったです……」
　物陰に身を潜め、戦いの行方を見守っていたアンシュベルが固唾を呑んでつぶやく。
「ハガラズの力だ」
　答えるアンドレーエも同様だった。やにわには信じがたい光景を目の当たりにし、絞め上げられたようなうめきをもらす。
　破壊のハガラズ。
　アンドレーエの持つ静寂のイーサが不可視の能力を有し、ニコルの持つ封殺のナウシズが魔召喚を無効化する力を持つのと同様に。
　ザフエルが守護する破壊のハガラズも、ほかのルーンにはない固有の能力を持つ。
　自らの前に立ちはだかり、害を成す意をもって振るわれるものすべてを強制的に排除する、断罪の能力。
　漆黒の瞳が、無慈悲にチェシーを見つめた。
「貴方さえ、現れなければ」
　滅びゆくものへの追憶も、憐憫も。
　嫌悪の念すら、その瞳にはない。
　天啓のごとき一瞬の閃光が、陰影にいろどられたザフエルの半身をまざまざと照らし出した。足下に濃くわだかまる罪の影。
「……こんなことには、ならなかった」
　浄化の白い光が、チェシーの姿を完全に埋め尽くした。

　がらり、また、がらりと。
　瓦礫の転げ落ちる音が、うつろに続いている。
「貴方に、虚無《ウィルド》は渡さない」
　土煙が舞い立ち、視界を薄暗く覆い尽くしてゆく。
　ザフエルは、立ちこめる煙の彼方を見つめた。
　何かが、呼んでいる。
　ルーンの血が、共鳴を始める。
　同じ血に連なる何かが、呼んでいる。
　ザフエルは呼ばれるがままに踵を返した。無言で歩き始める。
　まとっていた黒衣は戦塵で白く汚れていた。砕けた石畳が、ところどころ地面から突き出している。
　尖った石の先が触れ、黒衣を破いた。ほつれた裾が地面にひきずられる。
　そのことに気付いて、ザフエルは何のためらいもなく衣の喉元に手を掛けた。
　引きちぎり、投げ棄てる。黒衣が風に舞った。
　下から表れたのは純白の法衣だった。
　精緻なまでに美しいローゼンクロイツの徴を赤く胸元に染め抜いた、聖職者の祭服。薔薇の装飾に彩られた紅と黒と金の紐を腰に結び、肩に聖帯をかけ、墨染めのストールを風になびかせている。
　がらり、と。
　また、何かが転がり落ちる。
　誰かの呻き声が聞こえた。ザフエルは気にも留めない。歩き続ける。
　やがてその姿は煙に呑み込まれて、消えた。

「ち、ち、ちくしょうッ！」
　どれぐらい意識を失っていたのだろうか。アンドレーエは降りしきる粉塵と瓦礫に半ば埋もれている自分に気付いて、頭と声をそれぞれ怒りに震わせた。
「ホーラダインの野郎、少しは手加減しろってん……」
　身体のあちらこちらがひどく痛むのをこらえつつ、何とか起きあがる。背に乗っていた瓦礫がこぼれ落ちた。
　と目と手足と地面との間に――正直に言おう思い切りのしかかった状態で組み敷いていたらしい――気を失ったアンシュベルが、あられもなく乱れた姿で倒れているのが目に入った。まさに腹上での不始末、あまりの衝撃に声も出ないぐらい狼狽し卒倒しかけたところで、はたと我に返る。
　アンシュベルはびくりとも動かなかった。あわてて抱き上げ、強く身体を揺すぶる。どうやら降ってくる瓦礫から庇うつもりがそのまま一緒くたに埋もれてしまったらしかった。
「おい、アンシュ、しっかりしろ、アンシュ！」
　頬に手を当て、ぬくもりを計る。冷たくはない。大丈夫だ。アンドレーエはそのままアンシュベルの身体を注意深くまさぐった。腫れたところもなければ怪我をした様子もない。
「う、うーん」
　桜色のくちびるが震えた。
「アンドレさん……」
「アンシュ、気が付いたか」
　アンドレーエは思わず安堵の溜息をついた。アンシュベルはまつげを震わせて眼を開けた。視線の定まらない空色の眼をぼんやりと泳がせている。
「良かった、しっかりしろ」
「ああん、やさしくして……」
「な、」
　アンドレーエは硬直した。
「なにいっ」
「ん……」
　アンシュベルは眼を閉じ、くちびるを何とはなしに物欲しげな様子で半開きにさせつつ、うっとりとしなだれかかってくる。
「な、な、何言ってんだお前ッ！」
「あれれ」
　アンシュベルはひょこんと身体を起こし、眼をぱちくりとさせた。
「違ったですか」
「ね、寝ぼけるのもいい加減に」
　アンドレーエは怒鳴りつけようとして、声を呑み込んだ。
　目の前の地面がない。
　おそろしいほど巨大な穴が地面に開いている。爆発で半球形にえぐり抜かれたのだろう。漆黒の岩と様々な色の溶岩、堆積した土砂などがすさまじい力でねじ曲げられ、斜断層となった土があらわになっている。
　アンドレーエはその陥没の底に何者かの動く気配を感じて身構えた。
　静かにしろとアンシュベルに眼で合図しつつ、おもむろに穴の底を見下ろす。
　岩肌の縁から瓦礫が剥落し、崩れ落ちている。
　生きているものの気配はない。
　だが、何かがいる。
　からり、と。
　穴の縁から、また小石が転がり落ちる。
　どこからともなく、ひねた声でちいさく笑う声が聞こえた。
（アンシュベル……さよならだ）
　青黒い光の玉が視界を横切る。風の音がした。
（悪かったね、黙ってノーラスを出ていっちゃってさ）
「悪魔さん」
　アンシュベルはびくりと肩を震わせた。ル・フェの声だ。奇妙に遠い。
「どこにいるです。見えないです。それに、何でさよならって言うです」
「気をつけろ。油断させておいて、襲ってくる気かもしれねえぞ」
　アンドレーエは声をするどくさせた。
（やれやれ、疑り深いね……これだから人間は）
　声はどこか楽しそうに笑ったあと、ふいに裏返った。
（紋章の悪魔ともあろうこの僕が、これしきの光で死ぬなんて、そんな、馬鹿なことが、あるわけ……な……）
「悪魔さん」
　アンシュベルは転がるように穴の縁へと駆け寄った。黒いぬいぐるみの姿を探して崖の端を掴み、今にも落ちかねないほどに身を乗り出す。
「悪魔さん、どこにいるです。返事してくださいです」
　陥没した穴の底に向かって叫ぶ。声が反響した。
（千の魂を持つ悪魔が……死ぬわけ……ないんだ……ただ、ちょっと……）
　自嘲気味の嗤い声が吹き消される寸前の火のようにゆらいだ。遠ざかってゆく。
（眠るだけ……なのにさ……はは……へそが、青汁沸かしちまうよね……）
　光が、ついと消える。
　唐突に穴の底が持ち上がった。瓦礫が崩れ落ちる。
　腕が突き出した。うめき声がほとばしる。
「くそっ」
　腕が岩をはねのけた。土に汚れた金髪、ぼろぼろの軍衣。
「何が、どうなっ……」
　墓場にも似た瓦礫の下から、チェシーが亡者のごとく起きあがってくるのが見えた。
「准将さん」
　アンシュベルが握った手を口元に当てた。息を吸い止める。
　ぼろ切れのような姿だった。引きちぎられ、焼けこげた軍衣は、もはや原形を留めてすらいない。チェシーは声に反応して顔を上げた。目が合う。
「無事だったか、アンシュベル」
　激しく咳き込み、よろめく。
「良かった。アンドレーエは」
　手でこめかみを押さえようとして、チェシーは眼を押し開いた。
　異形の腕がない。
　人間の手に戻っている。
　チェシーは呆然と自分の手を見つめ、信じられないといった様子で裏返し、また愕然と見入った。
「馬鹿な」
　破れ果てた軍衣の袖をたくし上げる。腕に宿していたはずの悪魔の紋章が、唐突な光を放って剥がれ、消える。
　何かが地面に落ちて、転がった。透明な青いルーンが、地に落ちた衝撃で弱々しく瞬く。
「馬鹿な」
　チェシーははじかれたように虚空を振り仰いだ。消えた悪魔の気配を探す。
　アンドレーエは声もなくアンシュベルの手を掴んだ。ぎくりとして振り向くアンシュベルにかぶりを振り、有無を言わさず背後へと追いやる。
「で、でも、悪魔さんが……消えちゃっ……」
　アンドレーエは険しい眼でチェシーを見下ろした。
「それでも、あいつは敵だ」
「……」
　チェシーはくちびるを噛んだ。
　かるく膝をつき、足下に転がる青いルーンに手を伸ばす。
　ゆるやかにまたたく氷碧のきらめきを、チェシーは掴み取った。
「敵、か」
　眼を閉じる。
「その通りだ」
　ナウシズを握りしめたまま、ふいに眼を上げる。きらめくするどいまなざしがアンドレーエを射た。
「ホーラダインはどこだ」
「あんたがそれを聞いてどうする」
　チェシーはもう、眼をそらそうともしなかった。
「奴を止める」
「悪いな」
　アンドレーエは背筋に走るつめたさを押し殺し、不敵に笑った。腰に差していたナイフを引き抜き、逆手に押し構える。
「俺の意地に賭けても、あんたに、ここを通らせるわけにはゆかねえんだ」
　チェシーは青白い顔を苦痛の笑いに引きゆがめた。
「お前たちと戦う理由はない」
「あんたにはなくても」
　アンドレーエは声を荒げて吐き捨てた。
「こっちにはあるんだよ！」
「何のために、と聞きたいところだがその前に」
　チェシーは斜面を登ろうとして、足をふらつかせた。
「悪いが手を貸してくれないか」
「嫌だね！」
「丸腰の私を頭上から一方的に攻撃するのか。卑怯だな」
「うるせえ悪魔野郎」
　アンドレーエはくちびるをひん曲げた。
「そんな手に誰が乗るか」
「……敵に塩を送るのが騎士の鑑だと、アルトゥーリから教わらなかったのか」
「だあああ、その名前を出すな卑怯者！」
　アンドレーエはこの上もなくいらいらと頭をかきむしって怒鳴った。
「アルトゥーリも敵だ！」
「……友達でもないのにやたら友達友達と馴れ馴れしい元帥がティセニア軍にいたらしいな」
「いねえよッ！」
「あ、いい考えがあるです」
　アンシュベルはぽんと手を打つとくるりと振り返り、ちょこまかと走り出した。瓦礫に埋もれた鞭を目ざとく見つけ、拾ってくる。
「ほい、これで釣られるです、准将さん」
「おい待ておかしいだろそれ絶対！」
　アンドレーエは頭を抱えて地団駄を踏む。
「敵に手を貸すな！」
「え」
　アンシュベルはきょとんとした。
「来る者は拒まず、去る者は追わずって言うですよ？」
「誰が！」
「師団長が言ってたです」
　アンドレーエは愕然として絶句した。その間にもアンシュベルは鞭を釣り竿のように振り回して遊んでいる。
　チェシーは目前に飛んできた鞭先を片手で掴んだ。
「命綱にするには危険すぎるが」
　苦笑いしてから伺いの目線を上げる。
「いいのか、上がっても？」
「くそっ！」
　アンドレーエが手を貸そうとしたとき、チェシーは何気なく鞭を引いた。
　アンシュベルがつるっと足を滑らせる。
「きゃあああ……」
　なぜか悲鳴が放物線を描いて宙に飛んでいた。
　そのまま、かすり傷ひとつ負うことなく華麗にチェシーの腕に落っこちる。
「人質一名確保」
　チェシーは痛ましげに眼をそらした。
「あり得ねえ展開だ……」
　アンドレーエは頭を抱えた。やることなすこと、ことごとく墓穴を掘り歩かずにはおれぬアンシュベルの貧乏神っぷりに、もう茫然自失のていである。
　アンシュベルはもじもじした。両手をもみ合わせ、気恥ずかしそうな上目遣いでチェシーを見上げる。
「てへ、落っこちちゃいました」
「くそっいいから返せ、この卑怯者、何が騎士の鑑だ、風上にも置けねえのはそっちの……！」
「仕方ない、自分で上がるか」
　ぎゃあぎゃあとうるさいアンドレーエを後目に、チェシーはアンシュベルの手を取った。勢いをつけて一気に斜面を駆け上り、最後、地を蹴って地表へと転がり込む。
　そこへアンドレーエが烈火の形相で駆け寄ってきた。
「てってってめえ、返せッ！　っていうか、自分で上がれるなら何で最初から上がってこない！」
　まずは一番にアンシュベルを奪い返し、腕にしっかりと抱いて怒鳴りつける。
　チェシーは疲れたようなため息をもらした。
「先に動いたら攻撃されるからな」
「当たり前だ！」
　アンシュベルがチェシーの足下に散る赤い色に気付いて、くぐもったうめき声を上げた。
「准将さん、お怪我されて」
「大事ない」
　チェシーは首を振った。声を落とし、アンドレーエを見返す。
「ひとつ、聞こう。どうしてティセニア軍元帥のお前が、アンシュベルを助ける」
「うるせえッ煙に巻こうったってそうはいかねえぞ、俺に詭弁は通用しねえからな……！」
「助けたいと思った理由を聞いている」
　苦渋の光を宿した険しい眼がアンドレーエを見つめていた。
「ニコルの――レイディ・ニコラの存在を知っていたのは、アンシュベルと、アーテュラス家の者だけ。だがレディ・アーテュラスはナウシズの血統を継いできた聖女の血筋、アーテュラス内務卿は言わずもがなだ」
　身体がぐらつく。また、ぽたり、と赤い血が落ちた。
「とすれば国情安定のためにアンシュベル一人が異端隠避の罪の全てを負わされることになってもおかしくない。そう思ったから、アンシュベルを助けたのだろう」
　アンドレーエはチェシーの足下を睨みつけ、くちびるを噛んだ。動揺の面持ちでうなずく。
「……その通りだ」
「ならばなぜ、私も同じ考えだったと思い至らない？」
　ふいに遙か遠い一画で光の柱がせり上がった。空が真っ白に染め上げられてゆく。一瞬遅れて大地が鳴動し、次いで凄まじい轟音が突風を伴って吹き荒れた。瓦礫が浮き上がり、翻弄されつつ宙に乱れ舞う。
「ホーラダイン」
　チェシーは顔色を変えた。身をひるがえそうとする。
「待て」
　アンドレーエはその腕を掴み、引き止めた。
「だからって、みすみす行かせるわけには！」
「まだ分からないのか。ニコルの本当の出自、あいつが――本当はナウシズの血統ですらない、ということを、ホーラダインに知られたら」
　チェシーはアンドレーエの手を乱雑に振りほどいた。反動で血が法外にしたたり、飛び散る。
「あいつの本当の母親をかばって死んだナウシズの聖女マイヤのように、贖罪の名の下に殺されるんだぞ。それでもあいつを強引に連れ戻すのか」
　アンドレーエは呆然とつぶやいた。
「本当の……って」

　――虚無《ウィルド》が覚醒した――

　ザフエルの残した言葉がよみがえる。
「まさか、虚無のウィルドってやつのことか……？」
　チェシーは荒らげていた声をふいに呑み込んだ。アンドレーエを見つめ、背後の光を振り仰ぐ。
「やはり、そうなのか」
　自嘲気味にあえぐ。
「虚無……」
　わななく声を押し殺し、拳を握りしめる。
「今のあいつは、もう、元のあいつじゃない。私のせいだ。あいつを裏切って、傷つけて、苦しめた……苦しんでいると分かっていたのに、何もしてやれなかった……全部、私のせいだ」
　行く手に立ちのぼる光の柱を、凄絶に睨みすえて。
　チェシーはよろめき、歩き出し、やがてつんのめるように走り始めた。

▼

　闇の翼が、ぞわり、と、のたうつ。
　限りなくゆっくりと、何かが、したたっている。
　立ちこめる、ねっとりとした深紅の匂い。残酷なまでに甲走った音が、また、反響する。
　明かりは、ない。ただ、暗く、重苦しい悲嘆の微光だけが、死に宿る蝶のように無数に飛び交っている。
　折れた柱には石化した死の棘蔓が巻き付いている。天井にあったはずのシャンデリアはそのきらめきをねじ切られ、舞台中央に墜落し、栄光を失った廃墟の如く斜めに傾いで。
　血まみれの水晶が散らばっている。
　舞台を取り巻き、豪奢な弧を描いていたであろう二階観覧席はその半分が崩れ落ちていた。神殿風の様式を模した貴賓席は薙ぎ払われて、もはや影も形もない。引き裂かれたカーテンだけが死骸のように揺れている。
　昨夜までは。
　悲しみも貧しさも失意すらも知らぬ令嬢たちが花のようなドレスをまとい、享楽の甘い香りを馥郁とさせて恋人たちとさんざめきあっていたであろう、この劇場に。
　深々と通る天性の声を響かせる俳優が、偽りの恋、滑稽な恋、涙あふれる悲恋を演じていたであろう、この劇場に。
　孤高の天才楽師が弾き奏でる超絶の技巧に心奪われ、固唾を呑んで聞き入っていたであろう、この、劇場に。
　今は、音もなく、虚無の棘が蔓延っている。
　人の姿はない。
　死の空気が澱んでいる。
　生きよう、などと、思うことすらできない。すべてを拒絶する無が、空間律を支配している。風化した意識の断片だけが舞う、虚無に満たされた、負の空間。
　何も、見えない。
　誰も、いない。
　無言の絶叫だけが響き渡っている。叩きつけられ、壊れゆく悲鳴。聞こえない痛哭。
　何一つ、残らない。
　思い出も。
　絆も。
　すべて、消えてゆく。

　闇の底に、白い裸身が、赤子のように膝を抱いて、ちぢこまって。

　無意識に這いずる棘蔓が、ねじれかえっては絡みついて、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
　ゆがんだ光がこぼれている。ルーンの残骸、聖なる枷の末路が、引きちぎられながらもたまゆらの残響をつぶやかせている。
　すすり泣きにも似た死の花びらが、音もなく降る。
　巨大な翼の影が、ゆら、ゆら、と、黒い虹色を放ってのたうっている。舞い散る黒い羽根。
　静寂が闇を押し包む。常軌を逸した絶叫が、空気を狂わせる。それでも、聞こえない。
　ふいに、乾いた靴音が響いた。
　一歩、また一歩と。
　瓦礫を踏みにじり、死の慟哭を踏み越え、迷いもせず一直線に近づいてくる。
　虚無は、涙に濡れた血の色の眼を上げた。
　あおざめたくちびるが、わななく。
　声にならない。
　ほのかなルーンの光を帯びた、聖なる騎士。その怜悧な面差しはすべてを支配する絶対の運命そのものだった。
　聖ローゼンクロイツの法衣に身を包んだザフエルが、目の前にいる。
　底知れぬ光をたたえる黒い瞳が、見下ろしてくる。
「……虚無《ウィルド》の聖女」
　懐かしく、穏やかな、何よりも恐ろしい声が、霹靂となって轟き渡る。虚無は悲鳴を上げて耳を塞いだ。
　もう、戻れない。
　二度と、帰れない。
　楽しかった、嬉しかった、時にせつなく、苦しく、皆と力を合わせて戦おうと誓った、息が切れるまで走って、怒鳴って、笑って、泣いて、ぶつかって、ずっこけて、叱られ、迫られ、脅され、爆破され吹っ飛ばされくちづけられ抱かれた、あのくだらなくも幸せだった日々には、二度と――

　棘蔓がふいに跳ね上がった。瀕死の蛇のようにねじれ狂い、いっぱいに伸びきったかと思うとザフエルめがけて突っ込んでゆく。
　ザフエルは、おもむろにハガラズを嵌めた手をかざした。
　黒光る八芒星の防御結界が瞬時に張り巡らされる。
　棘蔓が結界に弾かれた。ザフエルは微動だにしない。表情すら変えなかった。
　のたうつ棘蔓が床を掘り砕いて噴出した。天井にまで達し、跳ね返ってジグザグに折れながら突っ込んでくる。
　鉄槍の雨が降り注いだ。ザフエルのいた空間そのものが粉砕され、爆発する。攻撃に巻き込まれたシャンデリアが粉々に爆裂し、涙のように飛び散った。
　砕け散る残響がいつまでも続いている。熔けたガラスのかけらがそこかしこで燃えていた。塗料に反応しているのか、赤い火、青い火、緑の火、無数の魂が燃えてでもいるかのような火の粉が舞い上がって、廃墟と化した劇場を、極光の色に染め汚している。
　土埃にかすむ闇に、白く、聖なる支配者の姿が浮かび上がる。
　感情のない眼が、虚無を見つめた。
「お迎えに上がりました」
　結界が、ふっとゆがんだ。瞬く燐光を放ち、消滅する。
　ザフエルは再び、歩を進めた。その歩みにもはや躊躇はない。
　手を差し伸べる。
「ウィルドの守護騎士として、貴女を」
　悲鳴の風切り音を唸らせて、棘蔓の尖端がザフエルに降り迫る。手に蔓が巻き付いた。棘が掌を刺しつらぬく。血がしぶいた。
　虚無が耳を押さえ、悲鳴を上げる。髪が乱れ舞った。
「来……」
　涙が疾風となって吹き流れる。
「……フエル……さ……ん」
　淋漓たる音を立てて、床に血痕が飛び散る。
「来ないで」
　ねじ上げられた腕の骨が異様な音を立てて、たわんだ。砕ける寸前のように軋む。ザフエルは感情の削げ落ちたまなざしを己の腕へと向け、かまわずに血にまみれた手を伸ばした。
　虚無の裸身に、そっと触れる。
　死の翼が凄まじく痙攣し、羽ばたく。吹き狂う疾風が闇を巻き立てた。棘蔓がのたうち、ザフエルを排除しようと背後の全てを薙ぎ払ってゆく。鯨の白骨を思わせるシャンデリアの残骸が叩きつぶされた。破れた羽が、焼けこげた虫の死骸のように燃え尽き、散る。
　だが、ザフエルには一撃たりとも命中しなかった。攻撃のすべてが虚しく空を切る。
「だ、め……」
　出し抜けに、虚無の声がふるえた。
　その、声。
「もう、僕……は……僕じゃ……ない……」
「それでも」
　ザフエルの手が、虚無を引き寄せる。
　棘蔓がびくりとのたうった。
　白い法衣を血に染め、ザフエルは、かつてニコルだったものを腕に抱いた。
「貴女を取り戻す」
　表情ひとつ変えず、頬を寄せて低くささやく。
　虚無が喘いだ。涙がこぼれ、血の色に染まる。
「……を……殺した……いっぱい……殺……た……もう……もどれ……な……」
　細い棘蔓が伸びて、ザフエルの手首に巻き付いた。
　棘蔓は薔薇に変わり、うねって、左手の薬指にからみついた。血を啜ったウィルドの薔薇がその運命を妖婉な花芽に芽ぐませ、宿す。匂い立つ濃密な血の香りが、結びあわされる。
「……お……ねがい……して……」
　白い闇に虚無の薔薇が狂い咲く。滅びの薔薇。鉄の色に朽ちて、錆びて、腐り落ちる。
「僕を……殺して」
「それは、できません」
　さらに強く身体を重ねて、まつろわぬ虚無の身体をかき抱く。もはや欲望なのか絶望なのかすら分からないほどに、荒々しく、狂おしく、妬ましく、激しく。酷いほどに痩せおとろえ、それゆえに嗜虐のゆらめきをかき立てて止まぬ裸身を、抱く。
「たとえ、貴女を苦しめることになろうとも」
　一輪の小薔薇が。
　首をもがれ、足下に落ちる。
「ウィルドの守護たる聖騎士ホーラダインの名において、穢れ無きルーンにのみ仕える守護のさだめを、高貴なる義務を、今こそ」
　黒い眼が、虚無の深淵を見つめる。
　何も映さない、閉じこめられた鏡の闇。
「国を傾けてでも、無数の血を流してでも、騎士は聖杯を求めずにはおれぬ。それが、神と人を繋ぐ唯一の形代であるがゆえに」
　力を失って倒れかかる身を腕に抱きとめて、ザフエルはうつろな声でつぶやいた。
「私も、また、貴女を」

　死のほとりに咲く花が、月下に青白く、腐敗の燐光を放って躙り燃えている。
　響く、硬質な靴音。
　砕かれた壁に這う薔薇が、化石のような砂混じりの花をそこかしこで咲かせている。傍を通り過ぎてゆくたびに、薔薇の化石は一瞬にして風化し、崩れ落ちて、時を奪ってゆく。
　背後は、息絶えた闇。
　死の羽が、なびく。小蛇にも似た薔薇の蔓が、のたうっている。
　ザフエルは腕に抱いた虚無を見下ろした。
　白い肌の大半が、あやうくゆらめく半透明なまだらに覆われている。ともすれば諦めに変わって消えゆこうとする身体もまた、おそろしいほどに軽い。しっかりと抱いていなければまざまざと闇に透けて、今にも消え去ってしまいそうだった。
「閣下」
　虚無の首に掛かった銀の薔薇十字が、うつろな光を放った。失われた忠誠の証。その片割れが、せつなくもはがゆく揺れて。　
「閣下」
　糸のように細い蔓が這いまつわった。腕に巻き付き、まさぐり、喉に這い、まぐわうかのように幾重にもからみつく。すがりつくかのようだった。
　静けさを破り、いくつもの気配が駆け込んできた。死に満たされていた廃墟が、異質な生命の熱風に洗い流されてゆく。
　ルーンの放つ明哲な光が、さまざまな色で廃墟を照らし上げた。天空のティワズ。破壊のハガラズ。エフワズ、イーサ、そしてナウシズ。
「ホーラダイン」
　押し殺された驚愕の声が、廃墟の天井にいんいんと反響した。破れ果てたゾディアックの軍衣が凄絶にはためいている。
　チェシー・エルドレイ・サリスヴァール。
「ホーラダイン、てめえ……！」
　絶句する別の気配が降りかかる。
　続けて飛び込んできたアンドレーエが顔色を変え、唐突につんのめった。棘蔓にまとわりつかれたザフエルの姿に、アンシュベルが裏返った甲高い悲鳴を放つ。イーサの放つ薄緑の光が闇を消し、廃墟全体をゆらめく水底の色に染め上げた。
　チェシーが、足を踏み出す。
「ニコルを、どうする気だ」
　ザフエルは黒く底光る眼を上げた。
　あのときと同じだ。すべてが厭わしく、煩わしい。何よりも己に宿った狂気そのものが、どうしようもなく許せなかった。
　視界の隅を何かが疾駆する。
　唐突に天井が打ち砕かれた。
　悲鳴が上がる。轟音が飛び散った。瓦礫とガラスの破片とが入り混じって降り注いでくる。破片が雪のように舞い、四方八方に跳ね返ってチェシーを切り裂いた。アンシュベルがアンドレーエにかばわれて瓦礫と土煙の向こう側に消える。
　ゆらり、と。棘蔓がくねった。音もなく旋回する。
　横薙ぎに叩きつける一撃が瓦礫を吹き飛ばした。絶叫のような崩壊の地響きが建物全体を揺るがす。割れた二階窓から滝のように砂が降った。音楽の女神を刻んだ柱像が砕かれ、真っ二つに刎ね飛ばされて、転がる。
「副司令さん」
　アンシュベルの悲痛な泣き声がつんざく。
「も、もう、もう、やめてくださいです、おねがいするです……」
　ザフエルはかぶりを振った。
　死が闇の霧となって噴出した。霧にゆがみ映る影絵を思わせる黒い冷気が、廃墟を埋め尽くすほどの巨大な翼となって広がってゆく。みるみる壁が霜に覆われ、白く凍り付いた。
　絶望があふれ、吹きすさみ始める。
　ザフエルは動かない。
　アンシュベルが咳き込み、喉を押さえてアンドレーエにすがりついた。足下がふらついている。
　その手から、くしゃくしゃになったハンカチが舞い落ちた。どれほどの想いを込めて握りしめ続けていたものか。あまりにもこの場に不釣り合いな、興ざめな金刺繍が目に入る。
　ハンカチは絶望の風に晒され、見る間に黒ずんで縮み消えた。
「てめえ、何しやがる」
　アンドレーエが激高のまなざしでザフエルを睨み付けた。
「私ではない」
　黒い霧はザフエルを決して侵すことなく、法衣の影のみを暗黒に流し染めながら渦を巻いて噴き出している。
　またひとつ、消える。渦に巻き込まれた灰が、形ある記憶が散ってゆく。すべてが消えてゆく喪失の様子を、ザフエルはむしろ淡々とながめていた。
「嘘つきやがれ、じゃあ何であんただけ」
「私には」
　ザフエルはゆっくりとアンドレーエから眼をそらした。
「果たすべき義務がある」
「殺す気なのか」
　チェシーが呻いた。
「ニコルを！」
「貴方には関係ない」
「やめろ」
　立ちふさがろうとしたチェシーを、のたうつ棘蔓が一撃で払いのけた。手足にからみついて身体ごと地面に叩きつけ、血を吐いて跳ね返ったところをすくい上げ、叩きつぶさんばかりに壁へと投げつける。
　ガラスが散った。壁がぶち抜かれる。チェシーの姿が崩れる瓦礫の下に消えた。
「サリスヴァール！」
「下がりなさい」
　ザフエルは愕然とするアンドレーエを視線で押しのけた。
「アンシュベルを無下に死なすこともないでしょう」
「てめえ……！」
「……行くな……」
　がらり、と瓦礫がくずれ、持ち上がった。血まみれの呻きがザフエルの歩みを突き刺し、縫い止める。
「連れて行くな。ニコルを殺さないでくれ、頼む」
　偽りを投げ棄てた叫びが一瞬の静寂を圧して響き渡った。
「殺すなら私を殺せばいいだろう。悪魔に魂を売り、ティセニアを裏切ってニコルを奪おうとした私を。それで気が済むなら、なぶり殺しにでもなんでもすればいい、私を殺して、それで終わるなら」
　瓦礫の山が割れた。血をかぶったチェシーが瀕死の状態でよろめき、起きあがってくる。
「……もう、遅い」
　棘蔓が凄まじく旋回してチェシーを襲った。無数に突き出される蔓の尖先が壁をえぐり、屋根を砕き、柱という柱をことごとく打ち砕いてゆく。チェシーは鮮血を散らしながら身をよじり、飛び、かいくぐって駆け出した。
「ニコル、眼を覚ませ……諦めるなって言っただろう！」
　ザフエルはわずかに顔色を変えた。天井を振り仰ぐ。
　壁全体に亀裂が入っている。棘蔓が舞うたび、ガラスが飛び散り、床がえぐれ、窓ごと壁が打ち抜かれてゆく。さらに不穏さを増した激しさで建物全体が揺らいだ。掛けられていた巨大な絵画が額ごと粉々に引き裂かれ木っ端微塵に宙を舞う。
「君にも聞こえているはずだ……我々の声が！」
　チェシーの声に、虚無が身じろぎした。意識すらないはずの青白い顔に、苦痛の反応が浮かんでいる。
　くちびるがふるえた。
　もはや声にならない涙がこぼれ落ちる。
　その、わずかなくちびるの動きに。
「貴方には」
　ザフエルはふいに眼をそらし、腕に抱いた虚無の身体を、残酷なまでの荒々しさで引き寄せた。ニコルの面影が残る髪がみだれ、降りかかる。
「関係ないと……何度言えば！」
　憎悪にゆがんだまなざしでチェシーを見据える。
　チェシーの姿が崩落する瓦礫に呑み込まれた。
　絶望の一撃が建物を貫いた。
　天井が落ちる。
　何もかもが、壊れる。
　もはや支えきれなくなった回廊の壁、柱、彫像、テラス――すべてのものがめちゃくちゃに押しつぶされ、崩壊してゆく。ガラスの砕ける音が幾重にも耳障りに響き渡った。
「連れて行かないでくれ……頼む、ホーラダイン……！」
　拒絶の障壁が、懇願にも似たチェシーの叫びを呑み込む。
「私は」
　ザフエルは崩れゆく廃墟に背を向けた。
「ツアゼルホーヘンへ戻ります」
　冷徹の氷によろわれた、感情のない声が、絶望を宣告する。背後の叫喚にはもう目もくれない。
　靴音のみを孤独に響かせ、歩き続ける。
　その足下には虚無の深淵が広がっていた。

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