戦火 17
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帝都、ベルゼアス。
ティセニア国境より遙か北僻に位置し、漆黒の巨奇岩を頂く十二の丘、十二の城に護られ、大地に美しくも暗くつめたい闇と血の魔方陣を描き出して築かれたゾディアック随一の都である。
もう夏も過ぎようというのに、肌に触れる空気は高山のそれに似て薄ら寒く、希薄で、随分と心許無かった。
さすがに凍えるほどではないが、突然天候が代わって激しい雷雨に見舞われたり、朝方にはぞくりと冷え込むことも少なくない。おそらく秋になればすぐ雪と氷の闇に覆い尽くされてしまうのだろう。きっとノーラスよりも早く。
ニコルとチェシーを乗せた護送の馬車が石畳の軍道をゆっくりと進んでゆく。
あれから何日、いや、何十日かかったのだろう。
見渡す限り地平まで続く平原、畑、そして深い闇の森を越え、静かな夏の湖畔を仮の宿とする日々が過ぎて、今ようやく極北の地に至り、異邦の都を目前にしている。
遠目にもかすみがかった都の建造物が幾重にも連なる尖塔をそびやかせているのが見える。
夜になってもほとんど日は落ちない。夜になっても殆ど明るみは変わらず、しっとりと乳白色にくすむ空が深夜まで続く。今が昼なのか、夜なのか、ニコルにはまったく分からなかった。
「寒くないか、レイディ」
つと眼を上げて、チェシーがつぶやく。
ニコルは痛くないようひそかにゆるめられた手元の枷をみつめた。わざと無視して答えない。
「ならば良い」
チェシーはそれだけ言うとまた眼を閉じた。ニコルは眼をそらした。車窓の外をうつろに見やる。
なぜ今さらそんなことを言うのか、分からない。
周辺の警戒のために馬車を離れることがあっても必ずル・フェを見張りに残し、中から念入りに鍵を掛けさせて、決して一人で居るところを他の者の眼に触れさせない。用意しようと思えばいくらでも豪勢な専用宮廷馬車を調達できるくせに、わざわざ狭い薄汚れた護送馬車に乗り込んであれやこれやと持ち込んできては、ニコルの座る反対側の場所に椅子を置いて大きな体を無理やりちぢこめて、腕を組んで居座って。食事は取っているのか、何か入り用な物はないか、そういったとりとめもないことだけをぽつりと問うてはまた黙り込む。反応を求めるでもなく、揶揄するでもなく、逆に戦況はどうだと憎しみを込めて聞き糾せば何一つ答えず、残酷な狂おしい指先で、偽りのつめたい吐息で、征服者の論理で、ただ、忘れろと。
何をされても、もう、抗わぬと気付いたからか。
すべてはまやかしの夢だと。
信じるなと。
そう言ったくせに。
チェシーは眼を閉じたまま腕を組み、身体を馬車の揺れるに任せていた。もしかしたら眠っているのかも知れない。腕に留め付けられた《封殺のナウシズ》が濁った照り返しをうっすらと瞬かせている。逃げぬと思って油断しているのか。
ニコルは口元を皮相なかたちへとつりあげた。憐憫と寛容は同義ではない。あの後どうなったのか。皆は無事なのか。アンシュベルや義父母は秘匿の罪に問われたりしていないか。
忘れない。
忘れさせられてなるものか。
目の前のこの男は、敵だ。
ティセニアを裏切り、ザフエルに銃を向け、命まで奪おうとした――憎い仇敵だ。
やつれた微笑みを浮かべる。
もう、運命の跫音から逃げるわけにはゆかない。
ベルゼアスの市街が近づいてくる。
どこからか鐘楼の音が聞こえた。暗い、もの悲しい旋律が奏でられてゆく。市街地に入ると、馬車の進む道の左に漆黒の城街壁がせり上がってきて視界を遮った。街角や石畳の広場、宮殿を中心に同心円状に築かれているらしい内壁の門を次々にくぐりぬけ、さながら迷宮のように入り組んだ地下の道をどこまでも走ってゆく。角を通り過ぎるたび、漆黒の壁に嵌め込まれた血水晶のきらめきが赤く眼を射た。
果てしなく続くと思われた心臓破りの坂を駆け上がり、外界から閉ざされた広漠すぎる広場に出る。
星降るさいはての地。
車窓から見る白夜の空は遠く、どこまでもよそよそしかった。
深夜、宮殿の塔の房室に幽閉されていたニコルのもとへ女官が訪れ、やけに丁寧に身支度を調えさせられたあと、どこへ行くとも告げられず連れ出される。暗い壮麗な廊下を足早に通り過ぎ、荒々しい松明の燃える曲がりくねった狭い階段を何階も昇り、豪奢な金襴の掛布を剥いで現れる秘密の通路を抜けた先にあった扉を開け、人目を避けるかのようにひとつ、またひとつと隠微な続きの間を押し通って行き着くと、そこにチェシーが待っていた。
傍らの巨大な一枚板の扉を重々しく押し開ける。
まぶしい光があふれ出す。
ニコルは眼をかばって顔を伏せた。やがて声がして、顔を上げる。
上座に置かれた深紅の天鵞絨椅子に、女性がゆったりと腰掛けている。
ニコルは眼をまたたかせた。よく見えない。
女性は手にした銀扇を振った。女官が下がってゆく。扉が閉められた。
チェシーが何かつぶやいて許可を求める。女性は了承した。チェシーはニコルを振り返り、壁際の机から何かを取り上げて投げやった。軽い金属の音がして手の中にメガネがすぽりと収まる。ニコルはうろたえながらメガネをひらき、鼻の頭におそるおそる乗せた。
澄み切った視界が飛び込んでくる。
女性はドレスの裾を捌き、おもむろに立ち上がった。
「よくぞ戻ってきてくれました、我が息子よ」
黄金の高貴な香りが夜の闇に玲瓏と花開いてゆく。チェシーは長躯を折り、片膝をついた。首を垂れる。
同じ色の瞳。同じ色の髪。ゾディアック女帝アリアンロッドはチェシーに手を差し伸べた。絢爛たるドレスの裾がふわりと浮き、銀鼠の縁に彩られた金の紗が甘くたなびく。
「ゾディアックの喉元に突き刺さった忌々しい楔、あのノーラスを本当に陥落させ《ナウシズ》の使い手たるアーテュラスを虜囚に捕らえて戻るとは。本当に見事です」
気安い笑い声にチェシーは呼応して薄い笑みを浮かべた。そんな表情すらひどく似ている。
「母としてこれに勝る喜びはありません。今やそなたの存在を伏す理由も障害もない。何なりと申し出るが良い。地位も、名誉も、新たなる称号も。そなたが託った不遇を返上するに足るすべてのものを国家たるわたくし手づから褒美として取らせましょう」
「過分なるお言葉、幸甚に存じます、陛下」
チェシーは女帝の指先に口づけた。表情は暗く、硬い。女帝の親愛の情を受けてもそれは何一つ変わらなかった。
「臣下たる身が偉大なる皇帝陛下のために尽くすは当然の努め。帝国軍人として何の労を厭うことがありましょう」
「まずはそなたを皇位に連なるものとして復権し、新たなる準正名を与えることから始めねばなりませんね」
アリアンロッドは楽しげに言い、いそいそと何かを探す仕草で左右を見回した。
「秘書を呼びましょう。書記させねばなりません。そうですね、まずは」
部屋の奥に張り渡された緞帳の向こう側から物音が聞こえた。チェシーはかすかに眼を光らせた。
「陛下」
無表情にさえぎり、顔を伏せたまま押し殺した声でつぶやく。
「我が望みはただひとつ。野に下り、魔境ノーラスを我が封領とし《紋章》の力もて統べることを安堵して頂きたく言上つかまつります」
ニコルは愕然とチェシーを見やった。
アリアンロッドもまた驚きに眼を押し開く。
「何を言うのです。他に望みはないのですか」
「ありません」
「そなたに認められる継承位は」
「一縷たりとも望みませぬ」
アリアンロッドは衣擦れの音も不穏に一歩後ずさった。青い瞳がするどい火を宿して揺れ動く。
よろめくように椅子へと戻り、力なく座る。
「なぜです」
「異形に堕ちた我が身には過ぎたる望みと心得ます」
「しかし」
「もはや我も魔の同類なれば」
チェシーは低く言った。
「何の障りにもならぬかと」
アリアンロッドは苛立たしく扇を振った。傍らの卓から白鑞金の杯を取り、ゆっくりと口元へと運ぶ。
瞳に浮かぶ険しい色が困惑と入り混じってニコルをとらえた。
「聖女よ、そなたの企みか」
ニコルはわずかに眼をみはった。
「いいえ」
うろたえ、口ごもる。だがすぐに唇を噛みしめ、背筋を凛と伸ばして真っ直ぐに女帝の眼を見返す。
「違います。僕は聖女じゃない」
たおやかなドレス姿にそぐわぬ捕虜の矜持に驚いたか、女帝は一瞬、気後れした表情を浮かべた。
「だが、何を僭称しようと現実は変わらぬ」
女帝の声色が少しずつ変わってゆく。
「聖女たるそなたを取り戻すという大義名分のためならばティセニアは何十万もの兵を失おうと気に掛けもすまい。すでにその徴候もある。迎え撃つも良いが女王としてはたかだかそなた一人のために国を荒らされる妄挙を許すわけには行かぬ。だが、何故だ。そなたはティセニアにおいては異端とされる血を引くのであろう」
ニコルは表情を押し殺した。たった一人の背教者を処刑するために大軍を動かすなどあり得ない。思ったままを口にする。
「だから問うておる」
アリアンロッドは首を振った。扇を揺らし、思慮深くつぶやく。
「聖なるは理解し難きゆえに触れがたく、御しがたく、故に疎むべき穢れとなり、禁忌へと貶められる。真の禁忌なくばうつしみごとき如何様にもできたはず。名を偽り、異端を装ってまで真の名を伏せたのは訳があろう」
ニコルはためらった。
「それは」
言いかけて、よどむ。隣にいるチェシーの姿が目に入る。アリアンロッドは油断ならぬ怜悧な眼差しをニコルへと向けた。
「知らせねば分からぬ。分からねば永遠に認められぬぞ。おそらくティセニアは確たる信念、確たる正義をもって聖女なるものを欲しているのではないのだろう。ルーンの血を宿す形代、妙なる血筋を継ぎ分けるうつわを求めての劣情であればそれはもはや神ではなく自らの座への狂信に過ぎぬ。己が何者かを悟らせぬままその身に宿した聖なる杯で自らの国を民を滅ぼせば返す呪詛はすべて己が身に降りかかるのだぞ、聖女よ」
ニコルは黙り込んだ。
いたずらに時が過ぎてゆく。
ひそやかな朝の気配が忍び寄った。
払暁の鐘が聞こえた。天窓からはらりと白く降る砂のような光が射し込めている。
ニコルは薔薇の瞳に決意を込め、アリアンロッドを見返した。
「僕の本当の母は《ナウシズ》のマイヤではなく、マイヤがワルデ・カラアから助け出した《ウィルド》のレイリカです。義母から聞きました。そのときはもう僕がお腹にいたって。だから、間違いない」
アリアンロッドは驚きに眼を瞠った。
チェシーが弾かれたように顔を上げる。
「待て」
愕然とした声が差し挟まれた。
「どういうことだ、それは」
「貴方には関係ないでしょう」
ニコルは冷ややかに言い捨てた。
「今さら僕らのことなんて」
絶望が意識を浸してゆく。
ニコルはちらりとチェシーを見やり、見下げ果てた笑みを浮かべた。もう、どうでもよかった。
「いいや、ちょうどいい。覚えてますか、チェシーさん。僕がツアゼルで怪我した時のこと」
チェシーは唇をゆがめた。
「肩を……階段から落ちたと」
「いくら僕が馬鹿でもそんなに毎度毎度階段から落ちてばっかりいるわけないでしょう」
残酷な嘲笑を浴びせかける。
「この街に来るまで、ずっと、考えてた。どうして、あのひとは、僕や母さまだけでなく、何の罪もないはずのザフエルさんまであんなに憎んでいたんだろうって。どんなに考えても考えても分からなかった。分からなかったけど」
ニコルはふいに声をあげて笑った。
「今の、このひとの言葉で全部分かった」
なぜ、もっと早く気付かなかったのだろう。ザフエルの母が言った呪わしい言葉の真意に。ザフエルの態度に。
ずっと、背教者であることが罪なのだと思っていた。教えを棄てて逃げた聖女の血を引くこと自体が許されぬことなのだと。だが、そうではない。
《ウィルドの魔女》は、決して存在してはならない聖ローゼンクロイツの闇だ。聖性を構築する真理が内包する最大の矛盾にして罪の予兆、光にして闇、無垢なる憎悪そのもの――
ニコルは唇を引き結び、顔を上げた。
「僕をティセニアへ帰してください」
アリアンロッドはかぶりを振った。
「それはならぬ」
「ならば永遠の慈悲を賜りますよう」
「それもならぬ！」
女帝は扇で掌を打ち叩いた。甲高い音が響き渡る。
「分からぬ」
女帝は椅子の手すりを掴み、身を乗り出した。
「そなたの奉ずる教えがそなたの死を望んでいるというのにか」
ニコルは身体をわずかに震わせ、うつむいた。
「……それでも、帰りたいんです」
女帝は明らかに動揺してチェシーを見やった。チェシーはこわばった表情のまま動かない。
「分かった」
女帝はおもむろに立ち上がった。まといつける雰囲気が粛として強まる。
「サリスヴァール」
荘厳な声にチェシーは顔を上げた。アリアンロッドが手を差し伸べる。
チェシーは女帝の手を取った。ゆっくりと指先にくちづける。
アリアンロッドは儀礼通り、両の手でチェシーの手を押し包んだ。
「ゾディアック皇帝アリアンロッドの名において、チェシー・エルドレイ・サリスヴァール、そなたに帝国の保護とノーラス辺境の封爵を授ける」
「寛容なる御処置、幸甚に存じます」
チェシーの手の中に、ゾディアックの紋章を浮き彫りにした漆黒の指輪が下賜される。
やがて露払いの従僕と女官が現れ、女帝をいざなって去った。音のない部屋に、チェシーと二人きりで取り残される。
チェシーは一言も発しなかった。ニコルはただうつむくだけ。開け放たれたままの扉が闇をのぞかせている。ひどくやりきれない空気だけが漂う。
ようやくチェシーは立ち上がる素振りを見せた。身振りでついてくるよう命じ、歩き出す。
廊下に戛然と鳴るつめたい軍靴の音が反響してゆく。
蒼然とした魔宮の薄闇が広がる。視線の定かではない魁偉な肖像画。潜み隠れる何者かの息苦しい気配。揺れる剣を思わせる深緑の観葉植物がくろぐろと躍る影を床へ投げ落としている。
それはまるでつい今し方までその陰にうずくまっていた密偵があわてて飛び出していったのを声高に触れ回ってでもいるかのようだった。
【戦火 終】
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