戦火 16
ゾディアック騎兵師団は悪魔の爆撃によって破壊されたノーラスから一時退去し、半日歩ほど離れた小高い森の丘に陣取っていた。今のところティセニア軍が追撃してくる気配はない。
ニコルは囚われの身のまま、敵軍の先陣に晒されていた。
目隠しを取ることは許されなかった。聞こえるのは次々に運び込まれてくる荷物を引き回す轍の音、ばたつく旗、天幕を組む掛け声、物音、あるいは軍馬のいななきや蹄音、怒鳴り交わされるゾディアック語といったような、軍勢の中に身を置いている物音ばかりだ。
思い出すたびに身体が震えて止まらない。
遠くから聞こえる凄まじい礫音、喉を突き刺す煙の臭い。地面が揺れ動くほどの爆風、悲鳴、そして勝利を謳うゾディアック兵の歓声。
どれほどの災禍がノーラスを襲ったのか、想像もつかない。だが時折敵の口から洩れ聞こえる”ホーラダイン”、”反撃”の単語が喉元に突きつけられた刃のように容赦なくノーラスの状況を物語っていた。
それでもまだザフエルの名があげつらわれると言うことはすなわち――
違う。ザフエルは決して過ちを犯さない。
銀の悪魔の力を知っているザフエルが敗滅寸前の寡少部隊を護るために多数の予備兵力を動かすなどという無用の愚を犯すはずがなかった。ザフエルは来ない。自分のことは自分でどうにかするしかないのだ。
とにかく動けるようになるのが一番だった。後ろ手に縛られた手を揺すってみる。鉄枷と鎖のぶつかり合う音がちいさく響いた。
動かせない。
銀の悪魔が近くに舞い降りる気配が感じ取れた。独特の軋む羽ばたきがつむじ風を舞い起こす。
土を踏む足音が聞こえた。誰かが近づいてくる。ざわり、と胸の奥底が揺れ動いた。
近づいてくる。
ニコルは目隠しの下の目を固く閉じた。くちびるを噛みしめてぐいと顔をそむける。
銀の悪魔が騒ぎ出した。
誰かが傍にいる。
足音が止まった。真正面だ。
ニコルは息を呑んだ。見えないことによる恐怖を隠しきれず、息を乱して身をよじる。
かすかな布ずれの音が聞こえたと思った直後。
手が頬に触れた。
縛めの鎖が悲鳴のような音を上げた。
「触るな！」
ニコルは反射的に声をうわずらせて呻いた。頭を闇雲に振って払おうとする。
ふいに何かが意識の底で符合した。眩暈のする感覚が揺り起こされる。頬に触れる誰かのぬくもり。それと同じ――
身体が震え出す。
突如。
銀の悪魔がびょうびょうと吼え猛った。砂埃がざあっとするどく降りかかって頬をかすめた。凄まじい羽ばたきが耳元を吹き抜ける。耐えきれず咳き込む。
甲高い叫びが風を切って猛然と何処かへと飛びかかってゆく。
唸りが一瞬のうちに遠ざかった。続いて銃声、怒鳴り交わす大声が右に左に聞こえた。爆音が続けざまに伝い走る。
（たったっ大変だ悪魔どもが……ぐぼあ！）
ル・フェの声が唐突に途切れた。
（あいたた何しやがるんだサ……ぐぎゃあぶおえ！）
外套の裾をはためかせる風の音とともに足音が駆け去ってゆく。
ニコルは乱れかかった髪を振り払った。必死に耳をすます。再び銃声が空虚に響く。歩哨が叫んでいた。
「敵襲！」
（まさか）
ル・フェが驚きの声をあげるのが聞こえた。
（周辺は魔物だらけだってのに）
ニコルは咄嗟に息を吸い止めた。渾身の力を込めて身体をよじらせ、腕を縛めから引き抜こうとする。
（お、おい、こら、いいからおとなしくしてろって……あいたっ！）
止めようとするル・フェをあっけなく跳ね飛ばし、ニコルは繋がれた杭に向かって力任せに体当たりした。さらにけたたましく鎖が鳴る。
気配を感じた銀の悪魔が舞い降りてきた。
「逃げるぞ！」
羽ばたきに向かって挑発の叫びを投げつける。悪魔がニコルを取り押さえようと飛びかかってきた。凄まじい勢いで衝突する。
まばゆい銀の光が散乱する。ほとんど何も見えなかった。爆発したのかもしれない。全身が焼けつくように痛んだ。
そのまま遠く投げ出され、もんどり打って倒れる。ニコルは激痛をこらえながらも凄まじく笑ってよろめき起きた。鎖が手にからまっている。それでも動けることには違いない。
すりきずと火傷で血まみれになった足をひきずり、焼けこげたワンピースを爆風にたなびかせてニコルはすばやく周りを見回した。目隠しは焼け落ちたがまだ眼はかすんだままだ。それでも周辺が瑠璃と漆黒の驕慢な軍旗で埋め尽くされているのは分かった。
悪魔が喨々と吠え猛りながら群れをなし飛び交っている。ル・フェが追いかけてきた。
（おい、待てよ）
ニコルは声の聞こえる方へと一瞬振り返った。
「召喚無効」
（しまったああ！ ……って！）
ル・フェが頭を抱えて中空を転がり回っている合間にすたこらと逃げ出す。
（くそ、騙したな！ お、おい、そっちは危な……！）
きらめく支流の川を挟んだ向かいの森の一点へ、何事かを察したらしき悪魔が次々に突入してゆくのが見えた。轟音が鳴り渡る。火柱が次々に上がった。その中心に《ハガラズ》の放つ漆黒の結界が放射状にきらめく。
ニコルは声にならぬ声を振り絞った。矢も楯もたまらずに走り出す。
「捕虜が逃げたぞ」
「撃ち殺せ」
「逃がすな」
灼熱の銃弾が耳元をかすめる。ニコルは足をもつれさせどうっとばかりに倒れ込んだ。後ろ手に縛られているせいで手を突いて起きあがれない。
「敵だ」
叫びが耳に飛び込んだ。
「敵襲っ」
ニコルは砂混じりの唾を吐き、くちびるをぎりっと噛んで何とかよろめき起きあがった。目の前に暗い影が落ちてくる。銀の悪魔だ。長い手が伸びた。髪を鷲掴みにして引きずり上げられる。
「くそっ、放せ！」
身悶えながら悪魔に体当たりして引き離す。
再び何発もの銃声が轟き渡った。爆煙と業火に包まれた樹木がめきめきと音を立てて倒れ伏してゆく。凄まじい煙熱と轟音が漆黒の森をなぎ倒した。その一瞬後、眩む闇に呑み込まれて消え失せる。
悪魔がもたらした爆発ではない。爆風の合間を駆け抜ける白い軍衣がちらりと見えた。
銀の悪魔が吼え猛る。
黒い、冷ややかな視線がニコルを確かにとらえた。食い入る眼差しはもはや片時もニコルから離れようともしない。
間違いなかった。
「ザフエルさん……！」
ニコルは声をうわずらせ、駆け出そうとした。
その直後、いきなり背後から回り込んできた悪魔の腕がニコルの喉にがちりとからみついた。羽ばたきとともにぐらりと吊り上げられる。
腕が喉に食い込む。ニコルは弱々しく足掻いた。息ができない。
ザフエルの姿が歪み、かすんでゆく。
銃撃がザフエルを襲った。白い軍衣姿がわずかによろめく。
ニコルは叫ぼうとした。だが、もう声にもならない。
（ば、馬鹿！）
ル・フェが飛び込んでくる。
（誰がそいつを殺していいって……！）
悪魔は唐突に腕の力をゆるめた。吊り上げていた身体を芥のように地面へと投げ落とす。ニコルは激しく咳き込みながらくずおれた。
「逃げて」
聞こえるはずもない、擦れきった声で喘ぐ。
「来ちゃだめだ」
手も届かぬ、声も届かぬ、遠い川の対岸に向かって必死にかぶりを振る。
ザフエルは無造作に川へ向かって歩き出した。水を踏み散らして進んでくる。また河原に乾いた銃声が響いた。ザフエルの頬に、肩に、点々と深紅の血しぶきが散る。
それでも立ち止まらない。
ニコルはひときわ咳き込むなり、涙をぬぐって立ち上がった。一気に走り出す。悪魔が羽ばたいた。
凄まじい唸りを上げて背後から迫ってくる。風圧に吹き飛ばされてニコルはつんのめった。
目の前は崖だった。
ザフエルが顔色を変え、走り出そうとする。
空が見えた。鋭く尖った枝が目の前に飛び込んでくる。視界がふいに掛け違ったかのように断裂する。
足を滑らせたのだ、と。
気付いたときにはもう遅かった。後ろ手にはめられた手枷のせいでとっさに手を伸ばし何かに掴まることもできない。
身体ががくりと傾いた。
悲鳴。ちぎれ焼けたスカートの裾が空にひるがえる。
落ちる――！
と思った、瞬間。
漆黒の影がひらめき飛び込んできた。大地を蹴り、高々と空に舞ったかと見るや金色に煌めく邪眼を燃え立たせて斜面を強引に駆け下り、枝を折りひしぎ薙ぎ払いながら、もんどり打って落ちるニコルを両腕に抱き止め、そのまま再び宙に跳ね上がる。
罪を孕んだ瑠璃と漆黒の軍コートが、重苦しい音を立てて驕傲にひるがえった。
ゆっくりと地に降り立つ。
獅子の如き金髪がゆら、ゆらり、と、重力を失ったかのように不穏にたなびいている。
もはや人のものではない眼がニコルを見下ろしていた。
闇の翼がうすぐらくはためいている。
「……チェシーさん……？」
呆然とつぶやく。
「え……あれっ……チェシーさん……」
そこでニコルはふいに我に返った。思わず声をうわずらせてチェシーの手から離れようとする。
「チェシーさん、危ない、ゾディアック軍が！」
「久しいな、ニコル」
チェシーはどこかに感情を置き忘れてきたかのような、他人事めいた口調で答えた。
「な、何言ってるんです、ほ、ほら、上、上っ」
ニコルは悲鳴じみた声を押し殺しつつ敵軍の存在を知らせようと身をひねり足をばたつかせた。途端、異形の腕に半ば強引に抱きかかえられたままであることに気付いてぎくりと顔をこわばらせる。
「大丈夫だ」
暗い微笑みが射した。
「な、何が」
声が詰まった。
「あっ」
さらに強く、引き寄せられる。
「安心しろ」
おそろしいほどに冷淡な声が耳元へ囁かれる。ニコルは腕がねじ曲げられる痛みに顔を一瞬ゆがめた。
チェシーの存在に気付いたのだろう。ザフエルもまた凍り付いたように立ち止まっていた。崖上から怒声とともに銃声が轟いた。ザフエルの足下の水が激しく跳ねる。
「ザフエルさん」
ニコルは声を悲痛に泳がせた。銃声がつんざく度にザフエルはよろめいた。周辺の水面に跳弾の水しぶきと白い煙が吹き流れる。
「ザフエルさん！」
「大丈夫と言っただろ」
チェシーは気の置けない様子で吐息をもらした。無造作に上空を見上げる。
削げ落ちた笑みが浮かぶ。
ずらりと横列を組んだゾディアック軍部隊が崖上に並び一斉に銃筒を構えるのが見えた。その頭上をけたたましく鳴き喚く悪魔の群れが飛び交っている。誰かが叫んだ。悪魔が羽ばたきを巻き起こし急降下してザフエルへと突っ込んでゆく。
銀のきらめきが轟音に変わった。容赦ない爆発が降り注ぐ。重金属の凄まじい軋音が響き渡り、水柱が立ちのぼった。結界の放つ輻射光と黒煙とが悲惨に入り混じっている。水飛沫が降りしきった。
「ザフエルさん、嫌だ、いやだ、そんなの嫌……！」
木くず、枝葉がちぎれ飛び、一瞬のうちに赤い燃えがらとなって舞い散ってゆく。ニコルは身体をよじり、悲愴な呻きを放った。
「おねがい、やめてってば。何でこんなこと……」
「大人しくしていろ」
異様に無関心なチェシーの声がする。ニコルは出し抜けに歯を食いしばり、激情に燃える眼をチェシーへと突き立てたた。
「何言ってんですか早く止め……さもないとザフエルさんが……！」
ふいに骨が砕けそうなほど乱暴に抱き込められてニコルは悲鳴を上げた。
「い、痛……痛っ、チェシーさん、っ……！」
息が千々に乱れる。
「奴がどうかしたのか」
チェシーはかすかに翳りのある笑みを作った。ニコルは悲痛に喘いだ。
「痛っ……やめ……あ、あ……放して……！」
視界が激痛と涙でかすむ。切羽詰まるザフエルの声が遠ざかった。爆裂音が続けざまに耳を聾し、それ以外にはもう何も聞こえない。
「ニコル」
ふいに、耳元へ声が忍び寄った。
金の光を熔かし込んだあやかしの眼に魅入られ、ニコルは息を呑んだ。
チェシーの表情が変わった。視線が川面へとゆるゆると移ってゆく。
「悪いが」
チェシーはニコルを見てもいなかった。川の中途で血まみれの腕を押さえ痛恨の様相で立ちつくすザフエルを、さながら狐狩りか何かに興じてでもいるかのような表情で見やっている。
アルトゥシーで失ったはずの眼が開いている。否、開いているわけではない。もう片方の青く皮肉にきらめく眼の色とは全く違った、欲望に揺らめく闇の洞穴がのぞいている。
身体がふるえ出した。声がでない。息すら、止まったままだった。
「君を、奴の元へ返すわけにはゆかない」
「……！」
背骨が折れんばかりに抱き寄せられてニコルは涙声を上げた。チェシーが冷酷に片腕を振り上げる。
躊躇いもせず、ぴたりとザフエルに指先の照準を合わせ、指し示す。ザフエルは動かなかった。
ニコルは叫びかけた。恐ろしさのあまり必死にかぶりを振る。
ザフエルはニコルを見つめたまま動かない。ただでさえ常に変わらない表情がなおいっそう欠け落ち、みるみるうちに青白く血色を失ってゆく。
動けないのかもしれなかった。
「いいか、今度こそ外すなよ」
暗い笑みがふっと消えた。
「撃て」
次の瞬間、数十、数百の騎兵銃がザフエルを狙いを定めて一斉に火を噴いた。咄嗟に張り巡らされた《ハガラズ》の結界が粉々に砕け散り、黒い結晶めいた光を四方八方に放ってザフエルを呑み込んだ。
「ザフエルさ……！」
ニコルは絶句した。ザフエルの身体がふらついた。足下の水が赤茶けた濁り色に染まっている。そのまま飛沫を上げ、がくりと川へ膝をつく。
こめかみから血が幾筋も垂れ落ちている。
ニコルはチェシーの腕から逃れようと身をよじった。
「やだ、やめて、逃げて、もういいから、来ちゃだめだザフエルさん……お願い……！」
「ホーラダイン」
チェシーは仄暗い憐憫の表情をかき消し、つぶやいた。
「無駄な抵抗は止せ。もう退けばどうだ？ 今のあんたに何ができる」
見せしめにニコルの身体を揺すり上げる。耳障りに軋る鉄枷の音が響いた。
「くっ……！」
腕を拉がれ、ニコルは苦悶に喘いだ。ザフエルの黒い眼がふいにこみ上げる憎悪の波濤を爛々と宿してチェシーを睨みすえた。
「悪魔め」
ザフエルは立ち上がろうとして叶わず、再び膝からくずおれた。吐き絞るようにして呻く。
チェシーはうすく嗤った。
「否定はしない。しかし甘んじて屈する故もない」
ゆらり、と。
影が差し掛かる。
「そうまでして望むか」
悪魔の瞳が近づいてくる。
「この女の死を」
耳元でささやかれる執拗な声がニコルを凍り付かせた。
「己が聖性を顕正せんがために《ナウシズの魔女》の名を受け継ぐ女の、ただその血脈に生まれついた事実のみを唯一無二の原罪としてあげつらい、贖罪の贄として祀り殺すことを、ホーラダイン、まさかあんたが」
チェシーはわずかに息をついた。奇妙に優しい笑みを含ませてニコルを見下ろす。
「それが偽りの忠誠を捧げてきた真の理由、というわけだ」
「チェシーさん」
ニコルは恐怖の眼差しでチェシーを見上げた。
「な、何言って……」
「否定しろ、ホーラダイン」
嘲弄が響き渡る。
「しないのか」
聞こえているのか、いないのか。ザフエルは次第にひどく息を喘がせ、今にも川へと倒れ込みそうな容態で顔を伏せていた。かろうじて踏みとどまっているに過ぎないその表情は、生気が抜け落ちたかのごとく白くこわばっている。
足下から血の色がくねり流れてゆく。煙のようだった。
「ならば」
残酷な笑い声。
甘い、低い、かすれた声が、ほのかな毒の芳香をまとって近づいてくる。
「理由をくれてやるさ」
咄嗟にニコルは顔をそむけた。身を仰け反らせる。
「や……やだっ」
笑い声が聞こえた。吐息が首筋に熱く吹きかかる。ゆらり、と暗い金髪が目元に覆い被さった。
「やっ……チェシーさ……」
チェシーはにやりと笑って指を鳴らした。
「我が眷属として」
一斉に銀の悪魔が羽ばたいた。
凄まじい羽音が響き渡る。きらめきが川面に映り、空を染め、血風を巻き起こした。
「あ、あ……」
悪魔の祝福が降るなか、チェシーは異形の片腕でぐいとニコルを抱いた。瑠璃と黒の軍衣が残酷に翻る。
「血の盟約を」
ニコルは遮二無二にもがいた。悲鳴を上げ、かぶりを振り、必死に逃げようとして顔をそらす。
違う。違う。こんなのは、チェシーじゃ――
見る間に視界が翳ってゆく。
痛みにも似た悲鳴が喉から洩れる。息苦しい熱情が熔け混じるようにして絡みついた。唇が、塞がれる。悲鳴も上げられないほど深く、残酷に覆い尽くされ、支配されて。
血の味がにじんで、広がる。
「っ……！」
かすんだ眼から涙があふれた。力が抜けてゆく。闇にまみれた欲望の翼に包み込まれ、抱かれ、奪われ、目の前で、純潔を貪られ――
抗えなかった。
心が押し潰される。
ザフエルは一瞬、咳き込んだ。
そのままぐらりと川へのめり、倒れ込む。水飛沫が上がった。
と、ふいに水辺の蘆を踏み散らし、数人のティセニア猟兵が駆け寄ってきた。銃声が響く。
ティセニア兵は左右からザフエルの元へと駆け寄った。両腕を掴んで引きずり上げ、跳弾の飛沫をものともせずに見る間に森へと飛び込んで消え失せる。
チェシーは暗い表情のまま腕を上げて攻撃を制した。
銃声が止む。
「殺し損ねたか」
眼をほそめ、みだらな口元を拳で拭って、空々しくも傲然とうそぶく。
「面倒なことになったな」
「そういうことかよ」
がさり、と対岸の下生えが揺れ動いた。木陰に迷彩服姿の男が潜んでいる。もはや《静寂のイーサ》を使おうという気にもなれぬらしかった。
「もう、問い詰める気にもならねえ！」
憎しみのままに吐き捨てるアンドレーエの声だけが幾重にも谷間に反響した。
「……アーテュラスは、ずっと、あんたが戻ってくるのを信じて戦ってきたんだぞ。それを、知っていて、貴様は……！」
「最初から分かっていたことだ」
チェシーはニコルの頬に手を触れた。
ニコルは反応もしなかった。
「ああ、そうかよ！ ホーラダインも大概にイカレた馬鹿野郎だが」
アンドレーエの激しい憤りの眼がチェシーを貫いた。
「てめえほど狂っちゃいねえや！」
「同感だ」
チェシーはかすかに嗤った。アンドレーエは怒りのあまり木に手を掛け体重を預けてぐいと身を乗り出した。だがそこから前へ進み出ることはなかった。頭上を無数の悪魔が旋回している。ザフエルでさえ突破できなかった距離を狭めることは到底不可能だった。
「サリスヴァール」
はしばみ色の眼をぎらぎらと燃え立たせて空を睨み付ける。
「てめえにはもう、裏切り者の汚名すら値しねえ。同じゾディアックの人間にも中には高潔な野郎がいるってのに。それでも人間か。いいや、貴様はもう人間のクズにも満たねえ、クズもクズ、悪魔のクズだ」
谷間に声が突き刺さった。
「仲間を見殺しにし、異端の罪を犯し、悪魔と通じ、ティセニアを、友を欺いて。何が目的だ。人の想いを踏みにじって、投げ棄てて、何がしたかったんだ！」
握りしめていた枝を叩き折り、悲痛に投げつけてアンドレーエは姿を消した。
▼
ノーラス失陥。
その報が各地にもたらされても戦況は一進一退のまま何一つ変わらなかった。ゾディアック軍によるノーラス敗残兵追撃は必至と思われたが、他方、東部ツアゼルホーヘン戦線においてティセニア軍はゾディアック軍を完全に圧倒、さらには中立都市ブリスダルの支配権をも奪取して、遠征軍に著しい間接被害を与えていた。加えてゾディアック第一白羊宮師団を率いるゾディアック第一皇子ディランが慣れぬ遠征の途中、麦角病に冒され重体に陥って早々に退却した、との凶報まで伝えられたのである。
第一白羊宮師団の思わぬ劣勢を受け、ノーラス戦線に参加したゾディアック軍主力に動揺が生じたのも詮方がないことであった。イェレミアスなど一部の急進派はこの機に乗じてノーラス以南へ南下し、ローゼンクロイツの聖域ワルデ・カラアへ至る各街道へ進行すべきとの主張を繰り返したが、強攻するにはザフエル率いるティセニア軍第五師団、同じくエッシェンバッハ第三師団、クリスティアン第四師団といった主力による防衛線が予備兵力も含めほぼ無傷のまま温存されているであろうことが問題視された。ノーラス攻城戦に勝利したとはいえ、他方の戦線において数万余の兵が廃疾しており全軍の再編成が急務であること、欠員の補充が期待できぬこと、戦域内を侵蝕し続ける魔物の脅威を完全に排除しきれないがために物資を簒奪することも後方より円滑に輸送することも容易ではないことなどが更なる理由として挙げられた。
ノーラスの突破は可能になった。だが、ティセニア軍を完全に打ち砕くには野戦による決戦に引きずり出すほかはない。突破したその後、退却する敵を追う外線作戦を不用意にとれば、戦略的に撤退する無傷のティセニア主力による挟撃を受けることはまず間違いなく、既に幾重にも塹壕を築き各街道、橋、要衝に爆薬を仕掛けるなどの厳戒態勢を敷いて待ち受けるティセニア軍があえて決戦に打って出る失策をおめおめと演ずるはずもなかった。
よってこれ以上ティセニア軍を深追いすることなくノーラス落城をもって勝利とし、戦域より撤収することが提案されたのである。
無論、撤収決定を聞いたイェレミアスが激昂したのは言うまでもなかった。
「ふざけるな」
着々と解体され積み上げられてゆく陣地の天幕、巻き取られる有刺の蔓枝などには目もくれずイェレミアスが一直線に突進してくる。
ちょうどニコルは支柱を抜かれ倒される天幕からチェシーに連れ出されたところだった。
粗暴な声にびくりと身をすくませる。鎖で繋がれたままの両の手首が怯えた音を立てた。
チェシーは鎖の一方を手に、無関心を装った眼差しをイェレミアスへと伝い走らせた。わずかに姿勢を変え、ニコルを背後へ押しやるようにして立ちふさがる。
ニコルはぼんやりとその背中を見上げた。
もはや、見慣れたかつての白いティセニアの騎兵姿とは似ても似つかなかった。重々しい瑠璃と漆黒の軍衣に身を包み、異形の腕を隠す半身の外套を左肩に回しかけ、森を渡る暗鬱な風にはためかせている。
「何様のつもりだ、国賊の分際で」
イェレミアスは金の元帥杖を振りかざして居丈高に怒鳴った。チェシーはにべもなく答える。
「陛下より第五の指揮を委ねられたので任官したまでだが」
「どの面下げて戻ってきたのかと聞いているのだ！」
イェレミアスは怒りの余り異様に切れ上がった緑の眼をチェシーへ突き立てた。
「勝手な真似は許さんぞ。方面軍は私の指揮下にあるのだ。貴様ごときにしゃしゃり出てこられる覚えはない。いいからその女を寄越せ。それは私の戦利品だ……！」
イェレミアスはずかずかと回り込むやニコルの襟首を掴んで引きずり寄せようとした。ニコルは声もあげられぬままによろけた。抗う気力もない。
「触るな」
チェシーはイェレミアスの腕を邪険に払いのけた。
「黙れ。思い上がるな国賊ふぜいが」
イェレミアスが血相を変えて元帥杖を振り上げる。
チェシーは一瞬、総毛立つ眼を底光らせた。唸りを上げる拳骨がイェレミアスの顔を捕らえる。一撃でイェレミアスの身体は宙を舞って吹っ飛んだ。ぶら下げた幾多の勲章がちぎれ、ばらまかれる。
イェレミアスは凄まじい憤嫉の形相で頬を押さえ、起きあがろうとした。口の端が切れて血にまみれている。
「何の真似だ、貴様、この私を愚弄するか！」
「触るなと言ったんだが」
チェシーは傲然と肩をそびやかせ、答えた。
「聞こえなかったのか」
「何やってるの」
苦々しい面持ちのレディ・ブランウェンが近づいてきた。騒ぎを聞きとがめたのか、撤収の指揮を執っていたアルトゥーリも渋々といった様子で歩み寄ってくる。
「いい加減になさいな、味方同士で」
「うるさくて仕事にならないんだけど」
「こやつは敵だ。裏切り者だ！」
イェレミアスが口角泡を飛ばして怒鳴り散らす。
「なぜどいつもこいつも平然と騙されたふりをしている！」
「軍議で陛下の勅書を見せたでしょ」
レディ・ブランウェンは呆れた様子で肩をすくめた。
「執念深い男ね」
「黙れ。おいそれと信じてなるものか！ 忘れたのか」
瞋恚の炎に揺れる凄まじい眼差しがチェシーを突き刺した。
「この裏切り者はティセニア軍に手を貸し、私の召喚した魔物を何千と消し去った！ 敵軍を壊滅させる最大の好機をみすみす逸し、挙げ句の果てに公女シャーリアの逃亡をも手引きしたのだぞ。それを策応と言わずして何という！ まさにこやつが通謀者であることの最大の証拠ではないか！」
チェシーは軽侮の笑いを目尻にうっすらと滲ませた。
「……あれほど説明したのにまだ分からないのか」
「何だと！」
「公女とはいえたかだか一軍を率いる将でしかないシャーリアと、《ナウシズ》と《エフワズ》というルーンの守護であり難攻不落を誇る防衛線を堅持し続けてきたアーテュラスを引きずり出すことのどちらがより意義のある勝利だと思っている。もしあのとき貴様がシャーリアを殺せば」
チェシーはちらりとニコルを振り返った。ニコルは無意識に怖じて後ずさった。その背中が誰かに当たる。レディ・ブランウェンはうっすらと笑ってニコルを押し戻した。
「いいからお聞きなさいな」
「その時点でティセニア軍は第一師団の救援を断念し、魔物に対する防衛をより強固にする作戦へと転化したはずだ。考えてもみるがいい。アーテュラスがノーラス防衛に徹し、ホーラダインに第一白羊宮師団を撃破された状況下で貴様に何が出来る。いくら魔物を蛆虫の如く湧かせようがル・フェに爆撃をさせようが魔物を主力にする以上《ナウシズ》に撃退されて終わるだけのこと。運が悪ければ二方面ともに敗退、撤収となるは必定だった」
「口から出任せを言うな！」
「ああ、そうだな。せいぜい今のうちに吠えまくっておくがいい」
チェシーは嘲笑混じりに締めくくった。
「西方面は辺鄙なうえに荒れ地ばかりと聞く。ガレイラの息子達も後任が来ると知れば喜ぶだろう」
「何……！」
「そんなことより早く拾いなさいな。せっかくの勲章が汚れるわよ」
レディ・ブランウェンは足下に転がっていたイェレミアスの剣付勲章を拾い上げた。土埃をかるく払う。
「残念ね、イェレミアス。最初からこういう筋書きだったらしいわよ。分かってて私にサリスヴァールを襲撃させるなんて。おかげで随分とティセニア側の信頼を勝ち得たみたいだけど、陛下も大法官もお人が悪いったら」
「くそっ」
イェレミアスは口汚く吐き捨てて、レディ・ブランウェンの手から勲章をひったくった。
「覚えていろ。この借りは必ず返してやるからな」
かろうじて保った最後の驕慢を捨て台詞に代え、さんざんにまき散らしながら去ってゆく。
「そんなところだと思ってた」
アルトゥーリはイェレミアスを見送りもせず陰鬱につぶやいた。
「あんたやっぱり性格悪いよ、サリスヴァール」
暗い眼がニコルを見つめている。
「……たとえ敵でも、女を騙すのはよくない」
「極秘の任務だった。勅命とあらば致し方なかろう」
非情な声が頭上を素通りしてゆく。ニコルはうつむいた。眼をきつく瞑る。もう、これ以上何も聞きたくなかった。
「ノーラスの後始末はどうするの」
レディ・ブランウェンは肩をすくめてからニコルを押しやった。
「あのまま放置しておくわけにもゆかないでしょ」
「私に考えがある。それまで悪魔どもに棲まわせておけば維持の手間もかからない」
「それはいいけど」
レディ・ブランウェンはうなずきながらも危ぶむような眼差しを向けた。
「その子、顔色が悪いわよ。あなたのことだしどうせ――強引に言うことを聞かせてるんでしょうけどあまり無理させない方が良いんじゃなくて。身が持たないわよ」
「ああ」
チェシーはニコルの肩をゆるりと抱く。
「留意しよう」
ニコルはよろめいた。アルトゥーリはそれ以上何も言わず、鬱屈した嫌悪の眼をチェシーへ向けてから去っていった。
上空からすいと黒い影が舞い降りてくる。ル・フェは羽をばたつかせてニコルの周囲を飛び回った。尻尾にカードをぶら下げている。
（ホーラダインの状況が分かったんだけど、言ってもいいのかな）
チェシーは眉をひそめた。
「生きていたのか。悪運の強い男だ」
（悪運って）
ル・フェはさも心外といったふうな声を裏返らせた。
（何言ってんだあれのどこが悪運なんだよ全部かすり傷じゃないかハデにドンパチさせといて結局一発も直撃させなかったくせに何が）
「もういい」
チェシーは苛立った声をあげて手を打ち振りさえぎった。
「黙れ。口が過ぎるぞ」
ザフエルが――
ニコルはぼんやりと眼を瞬かせた。
闇紫の光跡が幾重にも螺旋を描き、ル・フェの飛んだ軌跡そのままにつめたく煙っている。《ラグナレク》だ。
チェシーは異形の腕を伸ばしてカードをかすめ取った。
「厭わしいな」
矯めつ眇めつ、《ラグナレク》の放つ黄昏の微光を見つめつぶやく。
ニコルは息を呑んだ。
チェシーの腕に濁ったルーンが留め付けられている。《ナウシズ》の成れの果てだ。無惨にひび割れ、もはや光を放つどころか透き通ってすらいない。濁りきっている。
だが、《ナウシズ》の存在がニコルの意識を揺り動かした。鮮烈な痛みの感覚がよみがえる。
「か、返して」
ニコルは思わず縛められた手を上げてチェシーにすがりつこうとし、逆にカードの闇に打たれてはじき返された。《ラグナレク》に触れた部分がじりじりと苦い煙をあげ、赤く血が滲むほどにみみず腫れを引き起こしている。
「返して」
「触るな」
鋭い警告の声にニコルは立ちすくんだ。
「ルーンを持たぬ君に何が出来る」
チェシーはどこかしら他人行儀につぶやき、《ラグナレク》を指先に挟んで、ひらり、ひらりと数回裏返してもてあそんだ。
ふいにぐしゃりと握り潰す。
ガラスの砕けるような音がした。
凄惨な光がしたたり落ちる。
「……こんなもの、二度と使おうなどと思うな」
滲み出た黄昏が闇に侵蝕され、青黒く染まってゆく。
「これは君が使うべきカードじゃない」
恐ろしくも美しい残映を帯びた異形の腕が黒ずんだ暗紫の煙をまとい、やがておぞましくも同化してゆくのをニコルは呆然と見つめていた。
「どうして」
かろうじて問いかけの言葉を絞り出す。
「どうして、そんな」
チェシーはわずかに表情を変えた。揺らぐ眼でニコルを見下ろす。
思いも寄らない視線にニコルはたじろいだ。澱んでいた心がひどくかき乱される。
胸の奥に何かがつかえて、無性に熱く、苦しい。
「チェシーさん」
思わず声が口を衝いて出る。
「もしかして」
「馬鹿か、君は」
冷ややかな嘲りの声。ニコルは反射的に身体をちぢこめた。
「不用意に敵を信じるな。何度言えば分かる」
突き放すようにして吐き捨てる。
また、声を失う。
ニコルは一瞬、悲愴な息を吐き出した。
「……そうだった」
肩を落としてつぶやく。
「最初から分かってたのに」
募る想いとは対照的に冷え冷えと両手を拘束する鉄枷が、こみ上げる自嘲の笑いに引きずられてがちゃりと鳴った。すぐに涙混じりのため息に取って代わる。
冬のツアゼルで燃やした、優しすぎるほど残酷な一通の手紙。
逢いたいと言ってくれた、守りたいと言ってくれた、その、今も震えだしそうなほど心に強く残っている言葉のすべてが。
むなしく燃え尽きる灰のように、ぽろぽろとくずれ、吹き散らされてゆく。
「馬鹿だ、僕は」
ニコルは鉄枷を見つめ、また声を震わせてちいさく笑った。
「あんな手紙なんて信じなければよかった。あなたのことを、少しでも信じよう、信じたい、だなんて思わなきゃよかったんだ」
（君のせいじゃないよ）
ル・フェが音もなく舞い降りてきてニコルの肩に止まった。
青黒い紋章の光が肩に落ちる悪魔の影を淡くゆらゆらと揺らがせている。
毒蛇にも似た囁き声がねっとりとわだかまり、這い伝った。
（すべてを奪い、与う。それが盟約だ。たったひとつの、人の身では決して叶えられぬ願いを叶えるために、僕が、彼に与えたんだ。真実ではなく偽りを、絆ではなく断絶を、苦渋を、喪失を。ただ、君を――）
最後の言葉はニコルには届かない。
すべてが枯れ果てた風の音のようだった。
「お為ごかしはもういい」
チェシーは表情をかき消した。
「まさか、まだ、あの馬鹿げた妄信に取り憑かれているのかと思っていたんだが。安心したよ。安心して、今度こそ本当の自分に戻れる」
ニコルは悄然とチェシーを見上げた。
「ほんとの……」
「そうだ」
生ぬるく吹き寄せる風がチェシーの金髪をかき乱す。
森の木陰が暗澹と揺れている。
「私にとって君はずっと、ゾディアックの、そして我が母アリアンロッドの忌まわしき仇敵だった」
表情が暗く翳り落ちてゆく。
「友でもなく、ましてや仲間でもない。見果てぬ思いも忘れ得ぬ記憶もすべてまやかしの夢。君が私を欺いていたのと同じように、私もまた君を欺いていた、ただ、それだけのことだ」
ニコルはただ、チェシーの言葉を聞くともなしに聞いていた。
音もなく、何かが壊れて。
やがて、ぽつり、ぽつりと。なすすべもなく涙がこぼれ落ちてゆく。
「分かったな」
もう、うつろいゆく昔日の面影すらなかった。冷淡な声だけが吐き捨てられる。
「彼女を《ルーンの聖女》としてベルゼアスへ連行する。レディ・ブランウェン。護送用の馬車を用意しろ」
物陰に身を潜めこっそりと探り聞きしていたらしいレディ・ブランウェンが姿を現した。近づいてこようともせずに眉をひそめる。
「今の話、本当なの」
「疑いたければ疑ってくれて構わない」
「……別にそんなことは言っていないでしょ」
レディ・ブランウェンは苦々しく近づいてきた。立ちつくすニコルを見やり、そっと肩を押して連れてゆこうとしてふとその場に立ち止まる。
「貴方のような男のことを何て言うかご存じ？」
「知ったことか」
「……最低」
チェシーは底知れぬ眼差しでレディ・ブランウェンを見返した。
「それがどうした。さっさと連れて行け」
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