戦火 15
時を移さずしてイェレミアス率いる第四巨蟹宮師団及びレディ・ブランウェン率いる第八天蠍宮師団は敗走するティセニア軍への追撃を開始した。
それだけではない。さらに急迫の展開が追い打ちを掛ける。攻城砲部隊としてアルトゥーリの第十磨羯宮師団、加えてツアゼルへ進撃中であった第一白羊宮師団より分隊しノーラス方面へと密かに展開していたという第五獅子宮師団がそれぞれノーラス攻囲戦へ合流することとなったのである。
相次いでもたらされた撤退と敗北、敵接近の急報にノーラスを取り巻く情勢が混迷の極みへと陥ったのは言うまでもない。退却するティセニア軍を追う魔物の軍勢は海嘯の如く押し寄せて森を埋め尽くし、退路を塞ぎ、堡塁をことごとく破壊し尽くした。かつては無敗を誇り、鉄壁、盤石の要塞と賞されたノーラスが今や見る影もなく孤立し、防戦一方のていたらくに転落するなどと、一体誰が想像し得ただろうか。今やノーラスは彼の城砦に決死の覚悟で踏みとどまったエッシェンバッハとアンドレーエによる死にものぐるいの抗戦でかろうじて防御要塞としての体裁を保ち、ティセニア国内への敵軍浸透を押し止めているに過ぎなかった。後方からの増援がなければいつ戦線が決壊するか分からない状況でありながら、その増援自体を送り込むことすら困難な戦況へと至りつつあったのである。
「魔物もいいけどいい加減うっとうしいわね」
数日間降り続いた雨がようやくあがって中州への渡河が可能になったと聞いてレディ・ブランウェンはいらいらと吐き捨てた。
「どこぞの馬鹿が考え無しにそこらじゅう魔物だらけにしてくれたせいで肝心の歩兵を全然先に進められないじゃない」
ニコルは足枷と鎖で縛められた状態のまま、ゾディアック軍が渡河準備にかかるのをぼんやりと見つめていた。
身につけているのはボタンすらない質素な女物の服だけだ。
ひそかに武器を仕込めるような、例えばブーツ、手袋、上着の類やあるいは髪留めのようなアクセサリーの着用も当然許されない。それどころか生活の全てをレディ・ブランウェンの厳重な監視下に置かれている有り様だ。
捕虜として投降したにも関わらず未だ収監されていないのは、ひとえにノーラス急襲への従軍を強制されているせいだった。人間の盾として、あるいは無力な捕虜として強引に連れ回される姿をティセニア軍へ見せつけ、士気喪失させるためだろう。
あれからずっと、天幕の入り口に杭を打ち、鎖で片方の足首をまるで犬のように繋がれて、持ち出すことを許された折りたたみの帆布椅子に日がな一日座り続けるだけのうつろな囚われの姿を晒している。
しかしそれすら捕虜にとっては最上級の待遇であると思えた。
風に白いワンピースの裾がふわふわとはためいている。
裸足の足下がこころもとない。
ざわざわと森の緑がうねっている。河は一時の激しさとはうって変わって比較的おだやかで豊かないつもの流量に戻っていた。
見上げる南の空はひどく青く、広く、何より怖いほどにまぶしかった。
何日ぶりの太陽だろう、と思う。
豊かな南の森の彼方に青く濃く雄大に伸び連なってゆく山嶺が見える。あの山腹のどこかにノーラス城砦があるはずだった。
目を凝らして白い城壁の在処を探す。
見えるわけがなかった。
思わず涙がこみあげそうになる。
ニコルはふるえる唇を引きつったぶざまな自嘲の形にきつく噛みしめた。
泣くのは最後だけでいい。泣いて済む状況でもない。
胸元の小さな薔薇十字のペンダントを手で探り、鎖ごとからめ取るようにして握りしめる。
ルーンもカードも奪われた自分が物理的に無力であることは分かっていた。だからといって精神論でどうにかなるものでもない。
冷静に考えるしかなかった。幸いにして時間はそれなりにある。好機を捕らえ、何としてでも奪われたルーンを取り返し、その後ザフエルに連絡を取ってティセニアへ帰るのだ。
連れ戻されるのではなく、自らの意志で脱出しノーラスへ帰り、そして。
真実がつまびらかにされるのを審問の場で待つ。
……怖かった。
赦しが請えるとは思わなかった。身分性別を偽ることは神を欺くも同然だ。不信仰と棄教、異端の罪を覚悟する以外にティセニアへ戻るすべはない。
もし神殿騎士団が何らかの行動を起こすとすればそれは囚われの聖女を奪還するためなどでは決してなく、背教の騎士を異端審問に掛けんがための追討となるはずだった。
逃げることはできない。それは今まで庇ってくれた皆を窮地へ追い込むことになる。司教伯座にあるザフエルがニコルの帰参に伴う免罪を願い出ることは自らもまた異端に与するを認めるに等しいだろう。アーテュラス家の義父母やアンシュベルも同様だ。異端の魔女をかくまったなどという罪を恩義有る彼らに着せるわけには絶対にゆかない。
皆が手向けてくれた慈愛を浅ましくも裏切って自分だけ逃げ隠れするなどできるはずがなかった。
運命は変わらない。
きっと繰り返される。
それでも、帰らなければならない。
二度と戻らない平穏な日々、皆で笑い合い支え合ってきた、あのころの幸せな思い出だけを胸に抱いて。
死の丘、城砦ノーラスへ。
「橋ができたら対岸へ渡るわよ」
足下に人影が差した。ニコルは顔を上げた。
日傘を差したレディ・ブランウェンが微笑みながらやって来るのが見えた。馬鹿にしたような声音で話しかけてくる。
「貴女にも当然人間の盾として参戦してもらうことになるわ」
「いや」
ニコルはとっさに底意を秘め隠し、意識の表層を愚かしく濁らせた。敗北の事実に挫折したかのような素振りをしていればいつか敵も油断するだろう。そうすれば脱走の機会は十分にある。
「……こわい……行きたくない……」
「お馬鹿ちゃんの真似はお止しなさいな」
レディ・ブランウェンは首を振って苦笑した。
「そんなやわな性根じゃないでしょ」
「やめて……おねがい……殺される……」
「ま、そこまで徹底して演技したいというなら止めはしないけど」
甘い香りがふわりと近づく。レディ・ブランウェンはニコルの顎を籠絡の仕草で持ち上げた。甘い紅の香りのするくちびるを近づける。
「全然泣きもしてないくせに」
ニコルはどきりとして眼を瞠り、レディ・ブランウェンを見返した。レディ・ブランウェンはしたりとばかりにニコルの視線を真正面から受け止めた。如才なく笑っている。
「あら、図星みたいね。ふふ、可愛い。これは虐め甲斐があるってものだわ」
（獅子宮師団が来たぜ。それとアルトゥーリが補給を連れてきた）
黒いぬいぐるみの影が舞い降りてきた。レディ・ブランウェンは表情をうんざりした苛立ちに変えて身を起こした。
「せっかく弄って愉しんでたのに」
（は？）
「まあいいわ。補給は有難いし。それより」
ぱたぱたと小さな羽を動かす影に不信の眼差しを向ける。
「その獅子宮師団って何なの。名前はこの際どうでもいいけど実際に第五が師団として編成されたって話は今まで聞いたこと無いわ。誰の差し金なの。指揮官は？」
（聞くまでもないと思うけど）
レディ・ブランウェンは肩をすくめた。
「……皮肉なものね。連絡はそれだけ？」
（うっ）
影は妙に怯えた仕草でおどおどとちぢこまった。
（ティセニア軍の増援が近づいてる。おそらくあいつだ。もし奴と手合わせを望まないというなら城攻めの猶予は二、三日しかない）
「ということは、結局、ツアゼル方面では何の成果も上げられなかったということね。だらしない」
ニコルは肩を震わせた。つい顔を上げてしまう。
「あら、聞いてたの」
レディ・ブランウェンがからかうような微笑みを投げかけた。
「もしかして期待した？」
ニコルは顔を伏せた。首を振る。
「……僕に人質としての価値なんてないって言っただろ」
「試してみれば分かるわ」
そのとき森の向こう側から鉄騎の騒然とした物音が近づいてきた。黒と赤の軍衣を着た部隊が現れる。軍馬が牽く物々しい野戦砲や砲弾の箱、重厚な幌を被った荷車などが続々と到着し、たちまち周辺はむせ返るような牛馬の臭いと鳴き声、人と鉄のごったがえす苦々しい赤錆混じりの空気で満たされた。
「とりあえず、来たけど」
「ずいぶんと遅い御到着ね、アルトゥーリ」
レディ・ブランウェンは気安い態度でかろやかに手をひらめかせた。
「悪かったな」
耳当てのついた帽子をかぶった陰気な顔の青年が猫背気味に近づいてくる。青年はじろりとニコルを見やった。
「これ、何」
「言ったでしょ。捕虜よ」
「だから何で女の格好なんだよ」
「女の子だからよ」
聞くなり、第十師団のアルトゥーリは帽子の下のぼさぼさした黒っぽい前髪の下に隠れた眼を心外そうに見開いた。
「ノーラスの悪魔野郎を捕まえたんじゃなかったのか」
「だからそうだと言ってるでしょ。鈍いわね」
レディ・ブランウェンは侮蔑の表情で冷ややかに吐き捨てた。
「詮索はいいからさっさと橋を架けてきてちょうだい」
アルトゥーリはろくに答えもせずむっつりと踵を返そうとした。そのまま、しばらく考え込んだ様子で立ち止まる。用心深い眼差しがニコルを捉えた。
「その他は。第二のアンドレーエとか、そのへん」
「さあね」
レディ・ブランウェンはそっけない。
「何か気に懸かることでもあるの」
アルトゥーリは黙りこくった。そのまま背中を丸め、ポケットに両手を突っ込んで陰鬱に去ってゆく。レディ・ブランウェンはニコルを見下ろしながらくすくすと笑った。
「明日には河南へ渡れると思うわ。総攻撃の際は貴女にもせいぜい役に立ってもらうから。期待してるわよ」
ニコルはレディ・ブランウェンの嘲笑を無視し、うつむいた。地に落ちた悪魔の影が目の前を音もなく飛びすぎてゆく。
虜囚の鎖が残酷に鳴った。
翌日午後に架橋工事は完了、ゾディアック軍は大挙して移動し始めた。それは《先制のエフワズ》を通して過去何度も見た光景と同じだった。
黒と赤の軍衣をまとったゾディアック軍兵士が恐ろしいまでに完璧な統制の下、ざくざくと土を踏んでひしめき進んでゆく。中には鬱金と黒、青金と黒といった定色の違う軍旗を押し立てて進む部隊もあった。
黒地に瑠璃の旗を掲げた漆黒の騎兵師団が壮観な隊列を為して目の前を通り過ぎてゆく。信じられない数だった。騎兵だけでも五千は下るまい。部隊全体の構成は一万から二万を優に超えるだろう。これに敵第十磨羯宮師団の野戦砲部隊、第八天蠍宮師団の特殊部隊が加わり、すでに対岸へ渡っている先陣のイェレミアス第四師団と合流することになるのかと思うと、今から総毛立つ予感がしてならなかった。
「立て」
冷たい金属の音が背後から聞こえた。名も知らぬゾディアックの騎士が近づいてくる。手に持っているのは黒い目隠しの布だった。
「ノーラス攻めに同行させよとの師団長の御命令だ」
ニコルは反射的に身をひるがえして逃げ出そうとした。鎖が伸びきり、無様につんのめる。
よろめいたところをぐいと髪を掴まれ、容赦なく背後から押さえつけられた。後ろ手に縛り上げられる。
「は、放せ」
とっさに振り払うこともできなかった。腕をぎりぎりときつく拉ぎ上げられ、そのまま敵わずに無理やり目隠しされる。
視界が闇に覆われる。どんなにかぶりを振っても遅かった。ニコルは今まで被っていた仮面を脱ぎ捨て、山猫のように激しく暴れ回った。手首に食い込んだ拘束の鎖が耳障りに鳴り響く。それでもまったく緩む気配はない。
「くそっ卑怯者、それでも騎士か！」
「黙れ」
強引に連行され、荷馬車か何かに押し上げられて問答無用に突き飛ばされる。誰かがすかさず鎖をたぐり寄せて縛り付けた。
「よし、出せ」
暗い声が命じる。荷車ががたりと動き出し、跳ね上がった。ニコルはよろめき、干し草の束らしきものに足を取られて倒れ込んだ。身体のあちこちをしたたかに打ち付ける。
喘ぎながら歯を食いしばる。
（いざ破滅の歌を歌わん、愚かなる魔の眷属どもよ、宿業の《ナウシズ》なき今こそ最大の好機）
けたたましく飛び交う嗤い声が聞こえた。
（この世の毒牙、聖なる牢獄ノーラスを）
ニコルは頭上を振り仰いだ。
「ル・フェ、やめろ！」
（歓喜の炎で焼き尽くせ、あの街のように！）
幾重にも狂気をまじえ、反響し、重なり合った嘲笑が打ち返されてくる。鉄の軋む羽ばたきの音が風を切る唸りをあげて襲来し、空を満たした。
ニコルは見えぬ目で必死に悪魔の風切り音を追い、声も限りに叫んだ。
「やめろ」
必死で身をよじって声を嗄らす。
「やめろって言ってるだろう……！」
「あらあら」
レディ・ブランウェンの苦笑が聞こえた。
「大人しくしてたのはやっぱり演技だったのね。油断して目を離したら思い切り逃げられるところだったわ」
「だから見かけによらぬと言ったはずだ」
がらがらと車輪の回る音にまぎれ、低い声がかき消される。
ニコルは目をふさがれ、縛られたまま愕然と呻いた。
「ル・フェ、やめてよ……お願いだから……！」
（血の盟約で結ばれし天空の騎士団よ、囚われの聖女を悪しき因習から解放するために今ここに団結を誓おう。虐げられし異端の聖女は真の自由を知ることになる。自由を束縛する白き闇から。自由を迫害するいにしえの者たちから。今、我らは真実を奪い取ったのだ。喜ばしきかな、ついに破戒の時は来たれり。歌え、歓喜の歌を。見よ、あの罪人の城を。吹き鳴らせ、崩壊の角笛を。破壊がすべての罪を洗い流すだろう）
調子っぱずれの狂った戯言がけたたましく響き渡ってゆく。
見えない頭上から、濡れたような声でりゅうりゅうと鳴き交わす銀の悪魔の羽ばたきが沸き起こり始めた。
空の彼方に、突如立ちこめた暗雲のよどみにも似て。
鈍色に打ち輝く翼が雲霞のごとく寄り集まり膨れあがってゆく。
風が凪いだ。
ふいに激しく吹き付ける。
どよめきに森がうねり、横薙ぎに振りちぎられて揺れ動いた。一斉に野鳥が飛び立つ。悲痛なさえずりが散り散りに飛び交った。
青黒く燃える闇の呪をまといつかせた騎士が騎兵師団を率いて現れる。
左半身をゆったりと覆う膜翼のごとき外套を高々と背後へ払いさばくと、その下から現れた異形の手に《悪魔の紋章》が蒼然とゆらめく。
漆黒に彩られた金泥の眼が開く。
不穏の風が舞い散る。誰かの嗤い声が遠く反響した。
音もなく、気負う様子もなく。騎士はただ冷淡に異形の腕を振りかざし――
「師団長っ」
「何だありゃあ！」
呼ばれるまでもなくアンドレーエは北の空を渦巻く悪夢に染めてなお迫り来る黒雲を見るなり、添え木を当て薄汚れた包帯をぐるぐるに巻きつけた足のまま猛然と物見の櫓の階段を駆け上がった。
「雲か。雲なのか？」
中空で身を乗り出し、半ば片手だけで手すりにぶら下がりながら怒鳴る。
「まさか」
ユーゴは緊張しきった顔で単眼鏡から目を離した。
「魔物……」
「や、や、やべえぞ、おい、だとしたら」
アンドレーエは髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「近づいてきます！」
みるみる巨大さを増してゆく暗雲にユーゴが声を甲走らせる。アンドレーエは固唾を飲んだ。
半鐘の音がけたたましく鳴り響き始める。
「ユーゴ、どうしたらいい。内か、外か」
城砦内の楼に立てこもり、上部あるいは窓から侵入してくる敵を室内や隘路に引き入れて討つか、それとも。確信を持って答えられる内容ではないと分かっていてアンドレーエは問いつめる。ユーゴは絶句した。食い入るように空を見つめる。
「外です」
それでも即座に判断を下す。
「幕壁の高さだけでは上から来る敵を排除できません」
「合点だ」
アンドレーエは凄まじく笑って階段から飛び降りた。
「行くぞ、ユーゴ！」
叫びざまに走り出そうとしたとき。
重くたれ込めた雲がさながら破裂したかのように真っ二つに割れ、銀箔めいた何かが降り始めた。音もなく一直線に森へと吸い込まれてゆく。
次の瞬間、爆発が木々を引きちぎった。鳥が逃げまどう。続けざまに火の手があがった。
「あれは……！」
雲が次々に割れてゆく。白い煙を引き連れた銀の塊が風を切る唸りを上げて地上へと突っ込んだ。再び爆発する。見る間に森が炎に包まれた。吹き付ける風に激しくあおられ、ますます広がってゆく。煙が何本も立ちのぼった。
逃げまどう兵士の叫び声があがった。
凄まじい爆発と崩壊の音響が地面を揺るがす。
煙と粉塵に視界が失われる。足下が強く揺れた。壁の崩落する音とともに助けを呼ぶ悲鳴がつんざく。
「師団長！」
ユーゴが口元を布で押さえて駆け寄ってくる。アンドレーエは歯を食いしばった。
「ターレン型の直撃でもくらったってのか！」
咳き込みながらもとっさに《静寂のイーサ》を反応させる。遮られていた視界が戻ってくる。
アンドレーエは四方を見渡した。
城砦の頂上に数十匹もの悪魔がまとわりついているのが見えた。煙にまぎれつつ舞い降りようとしている。
鈍色の翼が黒ずんだ断続光を放った。
また悲鳴が聞こえた。女の、それも少女の声だ。
「先に行ってろ」
ユーゴに怒鳴り返してからアンドレーエは反射的に身をひるがえした。崩れ落ちようとする門楼の下を足を引きずりつつ駆け抜ける。瓦礫が頭上から降り注いだ。
酷い有り様だった。目の前の城砦と塔を結ぶ回廊が半壊している。砕けた柱がそこかしこに転がっていた。その傍らにメイド姿の少女がしゃがみ込んでいる。
「な、何やってんだ、お前」
メイドは砂に汚れた顔を上げた。肩に銃を回し掛け、腕には幼い女の子を抱きしめている。白いふわふわのドレスを着た女の子は膝をすりむいて泣きじゃくっていた。
「ととさま、ととさまが！」
「アンドレさん……」
メイドは泣きそうな声でうめいた。
「お、おまえ、アンシュベル」
アンドレーエは絶句した。
「公女と一緒に南部へ脱出したんじゃなかったのかよ！」
「に、逃げるなんて」
アンシュベルは涙をこすって頭を振った。
「師団長が戻ってくるのを待つです」
「馬鹿、おまえ自分の立場分かってるのか、おい」
アンドレーエはアンシュベルの腕を掴んで引き起こそうとした。
「おまえ以外に誰がアーテュラスの正体を」
突如、目の前に。
銀の悪魔が凄まじい羽ばたきを巻き起こしながら舞い降りてきた。チュチュがひっと息を呑む。
「あ、あ……！」
肉感的な体躯、ゆるやかに波打つ銀の髪。表情一つない、のっぺりとした銀の顔立ち。
悪魔は歩みを止めた。
ぎ、ぎぎ、と、壊れた仕草で首をねじってチュチュを見る。
奇怪な笑いにも似た息が悪魔のくちびるからもれた。
仮面そのものだった美しい銀色の顔が、見る間に醜悪な喜悦を浮かべた悪魔のそれへと吊り上がり変化してゆく。
次の瞬間。
悪魔は爆発した。
「……！」
アンドレーエは意味不明の叫びを喚き散らしながら《静寂のイーサ》を前方へ突きかざし、瞬時に薄緑の結界を張り巡らせた。凄まじい爆風に耐えきれず端から一瞬でめくれあがり蒸発してゆく《イーサ》の結界を続けざまに何枚も張り重ねる。
「ちくしょう、こいつら破裂しやがるッ！」
爆風が晴れ、苦い煙が吹き流れる。アンドレーエは振り返るなりアンシュベルの肩を掴んだ。
「搦め手に行け。後で必ず迎えに行く。それまで二人で良い子にして待ってるんだ。いいなそこのちっこいの、泣きわめいて嬢ちゃんに迷惑掛けるんじゃねえぞ。それからアンシュベル、絶対に」
アンドレーエはふいに自嘲じみた笑いを放った。
「お前は他の聖騎士連中に捕まるんじゃねえ。エッシェンバッハにも、ユーゴにもだ。この爆撃が止んだらそのちびを置いてノーラスから脱出しろ。ホーラダインが来る前にだ。二度と戻ってくるんじゃねえ。さもないと」
「アンドレさん……」
「俺は、お前なんか影も形も見てねえからな！」
アンドレーエはアンシュベルを突き飛ばした。
「行けッ」
アンシュベルはチュチュの手を引き、転がるように逃げていった。見送る間もなく、アンドレーエの背後で爆発が吹き上がった。片足ではとうてい踏ん張りきれず爆風に吹っ飛ばされてもんどり打つ。
銀色の悪魔が次々に落下してくるのが目に入った。けたたましく鳴き交わしながら軋む翼を打ち振り、一直線に突っ込んでくる。
主城の屋根が砕け散った。瓦礫が凄まじい音響を上げて跳ね転がり、回廊の狭間を粉々に粉砕しながらなだれ落ちてくる。
高く掲げられたティセニアの旗が黒い炭になって燃え落ちるのが見えた。
どこかから絶叫が聞こえてくる。アンドレーエは半ば自暴自棄の笑いを浮かべて走り出した。
門衛塔が倒壊している。魔物の海嘯が突堤を乗り越え、散乱する瓦礫を踏みにじり砲塔を突き破ってなだれ込んでいた。燃える滝と化した火がそこかしこに亀裂を生じた城砦の塔からあふれ、流れ落ちている。
もはや戦闘ではなかった。一方的に空襲され、逃げまどい、火だるまになって泣きさけぶしかない無差別攻撃だ。
また、壁が剥がれ落ちつつ砕け散った。粉塵まじりの黒煙が毒々しく立ちのぼる。煙の彼方に魔物を焼き尽くす聖なる閃光が瞬いた。エッシェンバッハが戻ってきたのかもしれない。
アンドレーエはあちらこちらに転がる死体から目を背けて走った。時にナイフをふるい、時に鞭を振るってバラバラに敵を切り刻みつつ最前線へと突き進む。
「おっさん、無事か」
アンドレーエはエッシェンバッハの後ろ姿めがけて闇雲に突進し、背中合わせに飛び込んで怒鳴った。
銀の刃がきらめいて硬質な剣戟の音をひびかせている。ルーンの放つきらめきが水晶の障壁となって乱立し、魔物どもを押し潰しつつまとめて薙ぎ払うのが見えた。
「誰がおっさんだ」
エッシェンバッハは苦々しく応じた。
「チュチュは無事か」
「そうくると思ってちゃんと安全なところへ連れて行くよう言っておいたさ」
アンドレーエは袖口で鼻をこすり上げた。獰猛に笑う。
「どうするよ」
「持ち堪えるほか有るまい」
「本当にそう思うのか」
アンドレーエは中空に鞭を打ち鳴らしざま、目の前に迫る魔物を頭から引きずり倒し、返す手で空高く投げ上げて真っ二つに切り飛ばした。魔物の残骸は地に落ちる間もなく黒い粒滓となって霧散する。
「俺たち二人はともかく他の連中はどうなる」
「分かっている」
「分かってるなら！」
轟音が轟き渡った。激しい揺れが突き上げる。次の瞬間、赤黒い閃光が空を染め、瓦礫を含んだ爆風が吹き付けた。毒々しく裏返りながら膨れあがる巨大な煙が視界を完全に奪ってゆく。
「まさかあんたも馬鹿な真似をしようってんじゃねえだろうな！」
腕で眼を庇いつつアンドレーエは歯ぎしりして怒鳴った。白亜の居館が残酷な炎に呑まれ、無惨にも崩れ落ちてゆく。
炎に包まれた城砦の最期に、そこかしこから絶望の呻きが放たれた。
「ノーラスはもう駄目だ」
「分かっている」
「ああ、分かったよ！」
アンドレーエは埒のあかないエッシェンバッハを説得するのは諦めて怒鳴った。
「俺は逃げるぞ。城なんか捨てちまえ！ 逃げなきゃ全員が焼け死ぬんだ。こんな要塞いっちょ護ったところで何になる。人じゃなくて城を守る必要なんてあるかよ」
「敵襲！ 敵襲ッ！」
鬨の声が吹き寄せた。底ごもる凄まじい蹄音が轟き渡る。闇の炎を宿したサーベルを振りかざした漆黒の騎兵軍団が魔物の群れを容赦なく蹴散らしながら突堤を駆け上ってくるのが見えた。応戦する間もない。
「ちくしょう間に合わねえッ！」
敵騎兵師団の押し立てる藍と漆黒の旗が打ち寄せる夜の波のごとく無数にはためいていた。騎兵銃の弾が降り注いだ。銃声が空に鳴り渡る。
アンドレーエはとっさに遮蔽物の陰へと飛び込み、指をくわえて甲高い笛の音を鳴り渡らせた。
「撤退だ、撤退、全員退避！ ユーゴ、聞こえるか、搦め手から逃げろ。脱出だ！ おいおっさん行くぞ……」
「分かった」
エッシェンバッハは火線の交差する最中、無造作に立ちつくした。千々に色合いを変えてゆくルーンの結界を張り巡らせ、銀の盾を構えて振り向く。
「チュチュを頼む」
「ふ、ふ、ふざけんなッこんちくしょうッ」
アンドレーエはエッシェンバッハの元へ駆け寄った。
「何度言えば分かるんだこのガチガチの石頭野郎てめえの娘ぐらいてめえで護りやが……」
胸ぐらを掴んで引きずり寄せようとして絶句する。
目の前はゾディアック軍の黒旗で埋め尽くされていた。エッシェンバッハが静かにつぶやく。
「俺が逃げれば全員の撤退は敵わぬ」
「……」
アンドレーエは絶句した。ひきつった笑いが浮かぶ。
「笑うには、ちと、無理がありそうだな……」
「無理して笑わずとも良い」
エッシェンバッハは眼を剃刀のようにすがめて言った。
「泣けばどうだ」
「おっさんのくせにひねたこと言ってんじゃねえ！」
アンドレーエははしばみ色の眼をぎらりと猛々しく光らせた。
「ほら、来いってんだ、逃げるぞ！」
強引に腕を掴んで引き戻す。エッシェンバッハはよろめいた。
「しかし」
「もかかしもねえよ！ 親父が可愛い娘を見捨ててどうすんだよ、ああ？ 逃げるぞ！」
搦め手の門は脱出しようとする兵であふれていた。アンドレーエは揉みくちゃにされながらも門の手前で人の流れに逆らい、誰かを待っているアンシュベルの姿を見つけ、駆け寄った。
「馬鹿野郎なんでとっとと逃げ、って、うわあっ熊が出たっ」
腕まくりに前掛けとバンダナ、鉄の二丁お玉をがっちりと腰に差した巨体がぬっと現れる。気が付いたアンシュベルがぱっと顔を輝かせた。
「あっアンドレさん！」
「や、やあアンシュベル」
アンドレーエは冷や汗をかきながらひきつった笑いを浮かべて一歩下がった。
「食堂のおば……姐さんと一緒だったのか」
「誰がおばさんだ。鍋に叩き込むよ、ヨハン」
ヒルデ軍曹が緊迫の笑いを浮かべる。アンドレーエはぎくぎくと縮こまった。
「うっ、と、とにかく逃げるぜ。エッシェンバッハも連れてきた」
「ととさま！」
チュチュが泣きじゃくりながらエッシェンバッハの胸に飛び込んだ。
「ととさま、ととさま！」
「俺は皆を護らねばならん」
エッシェンバッハは一瞬、万感の愛情を込めてチュチュの額に唇を寄せた。強く抱きしめ、頬ずりしてから地面に下ろす。
「分かるな、チュチュ」
「はい、ととさま」
ちっちゃなレイディはエッシェンバッハから一歩離れてスカートをつまんだ。泣きながら笑っておじぎをする。
「わかっておりますわ、ととさま」
「良い子だ」
エッシェンバッハは眼光するどくヒルデ軍曹を見やった。
「娘を頼む、軍曹」
「あいよ」
ヒルデ軍曹は腕を鳴らして軽々とチュチュを抱き上げた。首に吊り直した前掛けにすっぽりとちいさな身体を押し込んでぶら下げる。
「師団長」
最後の兵の一団を引きつれたユーゴが転がるように飛び込んできた。迷彩服が泥と煤と血にまみれている。首に掛けたいつものゴーグルも割れ砕けていた。つんのめりつつ叫ぶ。
「魔物が」
悪魔の呼び声が聞こえた。アンドレーエは反射的に上空を振り仰いだ。
銀の悪魔が数匹、弧を描いて飛び回っている。りゅうりゅうと響き渡る笛めいた鳴き声が不協和音となって幾重にも重なった。
「み、見つかっ……ちゃったです……」
アンシュベルが絶句する。チュチュはぶるぶる震えながらもみだりに声を上げてしまわぬよう、ヒルデ軍曹の胸に必死で顔をうずめた。そのちいさな身体を、ヒルデ軍曹はしっかりと抱きしめる。
一匹が羽ばたきを止めた。
けたたましい笑い声がつんざく。
凄まじい風切りの唸りが巻き起こった。悪魔が猛禽のごとく翼を反り返らせて一気に突っ込んでくる。
エッシェンバッハが銀の盾を振り上げた。悪魔が目の前に墜落した。炸裂する。きらめく光が結界となって硬質化し、幾何学模様を描きながら張り渡されて爆風と熔け散った高温の水銀とを弾き返した。
おぞましい臭いが立ちこめた。炎が走る。地面が何度も揺れた。結界が今にも壊れそうな甲高い音を立ててめきめきとたわむ。アンシュベルが悲鳴を上げた。頭を抱えてしゃがみ込む。
アンドレーエは蒼白の面持ちで歯を食いしばった。《静寂のイーサ》が作る結界程度では、一撃ならともかくこの凄まじい爆発の連鎖を防ぎきることはできない。再び耳を聾する轟音が降り注ぐ。結界が悲惨に軋んだ。どこかで致命的な音が鳴り渡る。エッシェンバッハの顔が明らかな苦痛にゆがんだ。冷や汗が流れ落ちる。
「くっ……！」
次の瞬間、粉々に打ち砕かれたガラスのような絶叫を上げて庇護の結界が消滅した。爆炎と瓦礫が灼熱の熱風と化して襲いかかった。
壊れた羽ばたきが差し迫る。狂乱の笑い声が壁に叩きつけられた原色の絵の具のようにめちゃくちゃに咲き乱れ、つんざいた。銀の悪魔が煙を突き破って舞い降りてくる。
どうすることもできない。
もはや、これまで――
きらり、と。
何かが光った。
業火渦巻く絶望の城砦。毒々しい煙が立ちこめ、瓦礫が散乱し、既に逃げまどう兵の姿もなく。かつては色あざやかな花がこぼれ咲き、みずみずしくも不気味な野菜がたわわに実っていたはずの裏庭や、こんもりと盛り上がっていた作りかけの堆肥までもが今は無惨にも踏み荒らされ爆発で抉られている。
あるじがいないことをこれほどまでに雄弁に語って止まぬ廃墟と化したかつての城に。
ふいに、清浄な緊迫感がひた走る。
鈴の音が聞こえたような気がした。
ゆるやかな、心揺さぶる旋律とともに、聖明があふれ出す。
焼けこげたブリキのじょうろが転がる納屋の向こう側。壊れたまま放置してあった古井戸の、そのちいさなあずまやに作りつけられた、何処へつながるやらしれぬ開かずの扉が。
「……諦めるのはいささか尚早に過ぎるかと」
そっけない《黒炎》の詠唱とともに、ぼんと吹っ飛んだ。
白い土煙がたなびく。その向こう側にうすぐらい人影がひとつ。
上空から凄まじい重金属の風切り音を上げて銀の悪魔が突っ込んできた。身悶えんばかりの羽ばたきと鳴き声が響き渡る。
「ふむ」
人影が煙を振り払い、現れる。
「猊下」
膝を折ったエッシェンバッハが悲痛に呻いた。かろうじて腕をつき、身を起こそうとしながら、ルーンの結界を弱々しく明滅させる。
「……猊下！」
ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは不興まじりのためいきをついた。軍衣の肩に降った煤埃をハンカチでいかにも嫌そうに払い落としている。
しかしすぐにその表情は怜悧な仮面に覆い尽くされた。
「援護は不要」
ザ印のハンカチを投げ棄て、おもむろに掌を空へと差し伸べる。
底知れぬ黒いまなざしが迫り来る銀の悪魔を見上げた。
「悔い改めぬ者に神の怒りを」
かすかな呪の詠唱が光の真言となって五線譜のごとく宙へと書き連ねられてゆく。白い手袋をはめた指先が空を切るごとに、意のままに操られた呪が聖なる旋律を奏で、光彩を帯びてザフエルを取り巻き、やがて無限の輪環を描きつつめくるめく金色の光束となって収斂し――
次の瞬間、無数の天翔る剣が存在するすべての闇なるものを一直線に薙ぎ払い、焼き尽くした。
世界が白い闇に染め上げられる。
膨れあがる光の爆風が音を奪い、色を溶かし去った。罪なき身には傷一つ負わさぬ光球がすべてを呑み込み、同心円状に広がって魔物を跡形もなく蒸発させてゆく。
その光が晴れた後。
ころころ、と。
おそらく、どこかの納屋壁にでもずっと引っかけられていたのだろう、土埃を被ってすこし白っぽく変色してはいたものの相変わらず存在そのものがこの場に似つかわしくない、ふるぼけた麦わら帽子が風に吹かれて転がってきた。
「ほ、ほ、ホーラダイン」
ようやく、アンドレーエが動顛のあまり詰まらせていた声を吐き出す。
炭化した魔物の残滓が風に乗って消えてゆく。
ザフエルはつと身を屈め、麦わら帽子を拾い上げた。裏返し、私署されたくにゃくにゃと曲がる下手くそな字に目を落とす。
どれほどの間、かたくななまでに感情を秘め、帽子と持ち主の名に見入っていたことだろうか。
ザフエルはふいに麦わら帽子をぐしゃりと握り潰した。
「追撃だ」
顔を上げ、冷徹そのものの声で命じる。
「なっ」
アンドレーエは煤のついた鼻の頭をこすり、眼を何度も瞬かせた。必死に声を継ごうとして口をぱくぱくとさせる。
ザフエルは燃えるノーラスを見渡した。
「聞こえなかったのか。追撃せよ」
「ふ、ふ、ふざけんなッ！」
アンドレーエは足を引きずりながらザフエルに掴みかかった。ゆさゆさと胸ぐらを掴んで揺すぶり上げる。
「貴様何考えてやがるッ！ この状況が分かんねえのか。ノーラスはもうダメだ。燃えちまったんだよ何もかも。あんたがそこで聞き耳立てて今か今かと出る機会を窺ってる間にな！ 何が諦めるにはなんちゃらかんちゃらだッ！ 状況が分かってんならとっとと出てこいってんだ何を悠長に構えてやがるっうがああちくしょうっあり得ねえッ絶対あり得ねえッこんな奴！」
「贅言無用」
ザフエルは冷ややかにアンドレーエの手を払い退けた。
「エッシェンバッハ卿」
「猊下」
エッシェンバッハはわずかに顔色を変え、荒い息をつきながらザフエルの前にひざまずいた。
「このたびは、止ん事無き御手を煩わせることになり誠に申し訳なく……」
「構わぬ。まだ終わってはいない」
「あああ何言ってやがんだ、あんたそれでも司教伯かよ！ これだけの犠牲を目の前にして言うことはそれだけか、だめだ、ついて行けねえ。こんなのが聖ローゼンの伯だなんてあり得ねえ、絶対にあり得ねえぞ。俺は信じないからな！」
ザフエルは凄惨な闇の眼差しを燃え落ちるノーラスからそらし、北の森へと向けた。
「これだけの城砦に近隣の街へつながる脱出口の一本や二本もないなどと思い込まれること自体が心外」
アンドレーエが熱の出た頭を抱えてうんうんとうなされているのを横目にザフエルは続けた。
「追撃だ。殲滅しろ」
「は……」
ひざまずくエッシェンバッハが口ごもる。
「どうした」
ザフエルは総毛立つ眼差しをエッシェンバッハへと向ける。
「どうしたもこうしたもねえよ」
アンドレーエは気を取り直して歯を食いしばった。
「遊んでいる暇はない」
ザフエルはゆるぎない口調で突っぱねた。
「追撃しろ。命令だ」
「ふざけんな」
アンドレーエはぐいと口の端をゆがめた。手を振り上げて兵やヒルデ軍曹らを指し示す。
「状況を見ろって言ってんだ。幕壁全損、重軽傷者多数、物資欠如、悪疫流行の気あり、さらには女子どもまでいる！ 追撃どころじゃねえことぐらい分かるだろう」
「戦況なら分かっている」
ザフエルは他人事のようにつぶやいた。
「ツアゼル戦線は膠着均衡状態だがそれはいわば当初の計画通り。住民は避難済であり現地調達は不可能、またブリスダルからの補給路を妨害し、連絡線を寸断することにも成功している。敵軍が疲弊するのは時間の問題だがまだ今撤退されては困る。敵全兵力を壊滅させぬうちはこの計画を完遂したとは言えぬ。よって同様の戦略持久をノーラスにも求めるものである」
うつろな視線が揺れ動くゾディアック騎兵の黒い軍旗をとらえる。
「補給は随時行う。敵南下に備え予備役を投入し南部防衛線を強化。加えて西部戦線のクリスティアンに増援補給要請を行った。数日内には到着するだろう。これら両翼の動きが察知されて急遽ノーラスを先行襲撃する結果になったものと思われるが」
そこでザフエルは口を閉ざした。前方を見やる。
瞬時にしてすべて焼き払ったはずの魔物がまたしても薄汚くうごめきつつ分裂し、増殖しはじめるのが見えた。
瓦礫と化したノーラスにおぞましい腐敗臭が満ちてゆく。
立ちのぼる煙と入り交じった穢らわしい空気が風に押し流されて、豊かな森を見る間に枯らし、変色させてゆくのが見えた。這いずり回る魔物がノーラスの地をどす黒い泥濘で腐食してゆく。
ゾディアック軍が動き出した。軍旗の波が遠ざかってゆく。
ザフエルはわずかに表情をゆがめた。手にした麦わら帽子がかすかな音を立てて、さらに握り潰される。
「なるほど、ここで撤収か」
アンドレーエは冷ややかにつぶやいた。
「最強の聖呪をぶち込んでも完全に殲滅させられねえ、それどころか一気に倍増してくるんじゃあ双方共に手の打ちようもないってわけだ。ノーラスの空洞化は避けられねえ」
「手控えは許さぬ」
「冷静に現状を見ろと言ってんだ。あんたらしくもない」
アンドレーエは退却してゆくゾディアック軍を険しい顔で見送った。
「俺が思うにむしろそれこそが奴らの本当の目的なんじゃないのか。今のままだと、よほどの事がない限りノーラスから魔物が退くことはねえ」
「余程のこととは」
銀の悪魔が一羽、遙かな上空で円を描いて旋回している。
「……あいつが戻ってこない限り」
「だから先ほどから何度も」
「そう思い詰めたあんたが激情に駆られて奴らを追撃し、みすみす敵の罠に嵌るって展開だ」
ザフエルは無表情にアンドレーエを見返した。そのまま何も言わず、ノーラスの惨状へと目を移す。
兵舎、居館、主塔、礼拝堂の回廊。すべてが燃え落ちていた。時折崩れ落ちる壁が虚しい残響となって轟音を響き渡らせる。
思い出したかのように炎が噴き出して、空を泥沼の色にそめてゆく。
死の煙が立ちこめていた。ちらちらと深紅の雪のような火の粉が降りしきる。
廃墟だった。
だれかが男泣きにすすり泣いている。
「まずは体勢を立て直すべきだ」
アンドレーエは血を吐くような声でつぶやいた。
「あんたまで死んだらこの国は滅びる」
「ティセニアなど知ったことか！」
ザフエルはふいに声を荒げて吐き捨てた。
「こんな国など」
アンドレーエはユーゴの姿を探した。軽く眼で合図して呼び寄せる。
「ホーラダイン」
ザフエルは全く反応しなかった。
「……俺の副官だ。ヴァンスリヒトと同期だった」
ユーゴが眼を押し開く。アンドレーエはうなずいた。
「渡してやれ」
ユーゴは腕で目元をこすった。歯を食いしばり、ぎごちない手つきで背嚢を降ろして、固く丸めて縛った旗布を取り出す。
無惨に焼け焦げ、もはや元の色も形もとどめていない銃眼紋様の残骸。それはかつてノーラスの空の下ではためいていたこともある旗だった。
無言でザフエルに差し出す。
「これが何か分かるか」
アンドレーエは受け取ろうともしないザフエルの代わりに軍旗を手に取った。
「奴がターレン型を爆破し敵第十師団を足止めしなければおそらく誰一人戻ってこられなかった。公女も、第一師団も、奴を迎えに行くはずだったノーラスの連中も」
ザフエルは黙り込んだ。
「……これ以上、無駄な死人を増やさないでくれ。頼む」
アンドレーエは軍旗をザフエルに突きつけた。
「受け取れ。ヴァンスリヒトの形見だ」
ザフエルはアンドレーエを見返した。
「……感謝する」
手を伸ばし、受け取る。
その顔に一瞬、不穏当な激情がささくれ立った。
しかしすぐに剥がれ落ち、いつもと同じ、死を演ずるかのような無表情へと戻っていく。
アンドレーエはかすかに口元をゆがめた。
「アーテュラスは無事だ。あの後、対岸から戻ってきた連中に聞いたが敵に脅されて投降したらしい。となると、むしろ逆にあんたを操る手駒にされる可能性のほうが高いだろう」
ザフエルの表情をちらりと横目に探りつつ、続ける。
「知ってたのか」
ザフエルは答えない。
「知ってたんだな」
緊迫の雰囲気が漂う。
「気持ちは分か……」
「邪推無用」
ザフエルはつめたく遮った。
漆黒の眼がアンドレーエを睨み据える。
「戦死者の弔いが済み次第ノーラスは廃棄。南部防衛線まで後退しクリスティアンの部隊と合流。エッシェンバッハ、撤退指揮を執れ」
言い置いて唐突に歩き出す。
「猊下、どちらへ」
エッシェンバッハが困惑の声を上げた。
「弔いだ。祈りを捧げに行く。付いてくるな」
《破壊のハガラズ》が凄絶にゆらめいた。
次のページ<前のページ