薔薇の花嫁 （最終回）
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燦々たる闇が燃えあがっていた。満天に広がる光の帯が仄暗くゆらめき、はためき、時に激しく、けざやかにひるがえる。
めくるめく狂気の色彩が夜空を染めあげる。さながら悪夢のように、形を変え、色を変えてはまた薄れ、揺らめいて。
青く光る流星が極光を突き破り、記憶に焼き付いては消える。
空がこぼれ落ちてくるかのようだった。
忘れ得ぬ永遠の夏。記憶の小箱に閉じこめられた、今となっては儚すぎる絆のように、それは美しく、恐ろしく、そぞろに移り変わって色褪せ、ちぎれて。
月だけが――
まごうことなき確かさで欠けてゆく。
水に落ちたインクが溶けて広がるように。虚無の滲みが夜に落ち、光が消え、代わりに雲が広がる。
ちらほらと雪が舞い始めた。
白く、黒く。人の心に、街に、情念の雪が降る。降って、降って、降り積もる。
ほのかに底光る夜の果てに見えるのは街の明かりだ。消えゆく天上の光とは比べようもない、卑小な営みの色。だが、それは確かに存在する光だった。
ツアゼルホーヘンの街に、雪混じりの木枯らしが吹き抜ける。
心癒す聖歌が誇らしげに歓喜を奏で、夜を打ち払ってゆく。幻の極光が音もなく舞い散るなか、深夜の湖水に羽を休める白鳥のごとき麗しの伽藍がきよらかな影を浮かび上がらせる。主の帰還を祝する大聖堂の鐘の音が鳴り渡り、眠れる地上の街に栄光を、随喜の輝きを灯し広げてゆく――
真の闇を裡に孕んだ、偽りの光を。
「それが、何になる」
闇と氷。くろがねと黄金。光溢れる希望の乙女が微笑んだ場所で、時を隔てた同じ娘が子宮の血にまみれ、絶望と汚辱を孕んだ怨嗟の鎖を引きちぎろうとのたうち回っている。
それは鏡の表と裏、世界の表と裏だった。同じ場所でありながら、何もかもが違ってしまっている。咲きこぼれる薔薇も、光そそぐ夢のような日々も、今はもう遠くうつろう昔日の彼方に消えてしまった。
どこまでも続く螺旋の闇に、こわばった足音だけが反響する。
白い法衣。漆黒になびくストール。薔薇十字を刻んだ銀の杖。口元は襟に隠され、見えない。
吐く息が白く、つめたく流れている。
ザフエル・グラーフ・フォン・ホーラダインは、供も連れず、奈落への階段を下っていた。
いくつもの隠し扉をくぐり、迷宮のごとき通路、罪と罰の名を冠した贖罪の間を進んで、聖堂地下に秘め隠された禁断の地へと降りてゆく。
「すべての戦いを終わらせることさえできる力。神の恵み。恩寵。愛という名の破壊、名誉という名の狂気、称賛、歓喜、希望――阿諛、欲望」
足下を小蛇のような旋風が忍び舞う。
墓碑にも似た巨大な白と黒の扉が、行く手をさえぎっていた。閂には幾重にも鎖が巻き付けられている。
汚され、逆さに吊られた薔薇十字の護符が、釘打たれ赤錆びた光を放っていた。
鏡のように磨き上げられた黒曜石の壁が、断片化した姿を映し出す。
闇を畏れるがゆえに、さらに濃い闇と化し、狂う。
ザフエルは軽侮のまなざしを己が手へと落とした。奪った罪の重さを計るかのように掌を幾度も返し、そのぎごちない動きを見つめる。
おもむろに扉へと手を掛ける。
ちょうつがいが軋んだ。
暗黒の冷気がこぼれ出す。みるみる足下が白い霜に覆われてゆく。微細な共鳴がルーンから伝わった。虚無がすすり泣いているのか。それとも。
生と死を違える扉を前にして、ザフエルは立ち止まった。
「あるいは絶望、永遠の悪夢」
風洞の奏でる荘厳な風の音が、心狂わせる不協和音となって響き渡っていた。深淵の宿す隠微な光が遙か彼方に光っている。
華燭が燃えている。立ちこめる没薬と死の香り。
青く揺らめく水晶の床は、ローゼンクロイツの紋章である薔薇の連環と十字を組み合わせた絢爛たる呪紋のモザイクで一面埋め尽くされていた。
中心に叡智の眼を頂く天球図を描いた円蓋の大天井には、無数にきらめく蓄光石の星が星図そのままに散りばめられている。精緻に配された星座の上を、青白く火を吐く彗星が通り抜け、からくりの惑星が実際とほぼ変わらぬ周期の楕円軌道を描いて時を刻む。
聖域の円周は官能的にそそり立つ巨大な列柱に取り巻かれていた。柱は二十四に分かたれ、それぞれが正確な方位を示している。袂は聖女像の台座になっていた。
黄金の子山羊と戯れる像、赤子を抱く像、ルーンを模した宝珠の聖杯を掲げた像、あるいは騎士に抱かれ、肉感的な肢体もあらわに法悦の表情を浮かべる像。
それら聖女像が見つめる視線の先に、隷属の祭壇があった。
永遠に咲き乱れる水晶石の薔薇に囲まれ、炎とも氷ともつかぬきらめきに包まれた、その中央に。
黄金と、銀と、鉄で作られた巨大な斜め十字が、天井に達するほどの高さで突き立っている。残酷なまでに美しく、怜悧な装飾を施された剣の形の十字には、朽ちたくろがねの薔薇が絡みついている。
こぼれる水琴の音。
愛おしい闇の半身に気づいた虚無の棘蔓が、ずるり、ずるり、と、どこからともなく這い出してくる。
鉄鎖の軋み。
咎人の、喘ぎ。
「閣下」
墓標たる薔薇十字のたもとに――
触れただけで消えてしまいそうな、淡い影。
薔薇の柄をあしらった純白の引き裾が長く、なよやかに広がっている。幾重にも重ねられてなお透き通るヴェールが、無惨に散ったブーケの花が、泡のように流れる白いドレスが、消えゆく肌を隠す白絹の手袋が、ゆったりと花のように腰に結ばれたサッシュが、さざ波のように風にそよぎ、炎に揺れて。
透き通るルーンを模した薔薇のティアラがきらめいている。
藍色の髪が、はらりとつめたくこぼれた。
風が、死を巻き立てる。闇の翼が、うち震える。
見るものを呪わぬよう目隠しされ、真実を知らせぬよう耳をふさがれ、死を歌わぬよう口を塞がれた、聖なる虜囚。
そこには、からみつく薔薇の鎖に縛められ、手枷をはめられ、罪人そのものの姿を晒された虚無の姿があった。
あたかも時が止まったような虚の空間に、ひとり。
薄い緑を帯びた眠りの香がたゆたっている。
幽霊船の舫綱のような、蒼然と垂れ下がった薔薇の鎖が伸びてきてザフエルに絡みついた。
細く黒い蔓がまさぐるように身体を伝い、巻き付いてゆく。暗い蜜を孕んだ花弁が音もなく開き、血を啜って匂い立ち、しおれる。
朽ちた病葉が地に堕ちる。血が滴る。花が、散る。
病んだ衣擦れの音がした。
ザフエルは銀杖を床へ置き、純白の花嫁衣装をまとったウィルドの聖女の前にひざまずいた。手袋に隠された細い手を取り、こうべを垂れ、祈り、偽りの祝福を口にして印を結び、そっと指先にくちづける。
かすかな反応があった。鎖が揺れる。
虚無の視界を奪っていた目隠しを取り去る。耳を塞いでいた覆いをはずす。
血の色の眼がぼんやりと開かれる。真珠色の涙が浮かんでいた。だがすぐにまた闇のまどろみが帳を降ろし、理性を奪い、濡れたまつげの下に瞳を隠させようとする。
ザフエルは膝をついたまま、虚無のヴェールをゆっくりと持ち上げた。噛まされていた隷奴のくつわをほどき、投げ棄てる。
息詰まる喘ぎが吐き出された。身体が苦悶によじれてゆく。悲鳴じみた呻きがこぼれた。
くちびるが青くふるえている。
吊り上げられた手枷が、割れ落ちる氷の音を立てて鳴った。
薔薇の細い鎖が、蛇のようにザフエルの左手へ食い込んでゆく。棘が突き立つ。血が珠を結んで膨らんだ。黒い血の軌跡を描いて転がり落ちる。
はかない何かが砕けたかような、華奢な音。ほの暗く光る結晶が床に散った。そのまま揮発して溶け消えてゆく。
黒い血のしずくが、虚無の顔に道化師の涙めいた点を散らした。
ザフエルは眼を瞬かせ、白い吐息をついた。薔薇の鎖を引きずった両手をそっと伸ばし、ためらいの指先を虚無の頬に添わせて、己が血で汚れた顔をぬぐう。
幼子じみた仕草で虚無は顔をそむけた。苦悶の忍び声が洩れる。ザフエルは手で虚無の顔を包んだ。指先で耳朶に触れ、髪に触れ、濡れたまつげに触れ、くちびるに、頬に触れる。
吐息が近づいた。冷たすぎるくちづけ。虚無の翼がざわりと揺るいだ。冷気が波紋を描いて疾走し、同心円状に広がる。
ここにいれば。神への供物として、永遠の牢獄に捕らえておきさえすれば。
聖杯の血を長らえさせておくことだけは赦される。眠りに落とし、生でも死でもない、時の止まった孤独のゆりかごに眠らせておけば、光射さぬ薔薇の檻に投獄しておきさえすれば、生かしておくことだけは、赦される。
ザフエルは聖呪のカードを封じた杖を手に取った。光の楔が宙へと打ち込まれる。
光と闇。眩暈にも似た、変幻する陰影が空をよぎった。張り巡らされたルーンの結界が虹色に燃えて揺らめき、囚われの聖女を何重にも取り巻いてゆく。束縛の光が虚無を締め上げた。苦悶の声があがった。髪がみだれ、身体がふるえ、頬に涙が光る。
ザフエルは手を止めた。光の呪が途切れ、滴る文字となって床に溶け流れる。
想像を絶する苦痛が、かつての自我を呼び覚ましたのか。濡れた薔薇の瞳がザフエルをすがるように見上げていた。弱々しく瞬く。
ニコルの声が聞こえた。
「……ザフエル……さん」
「閣下」
杖を手放し、ニコルを支えようと手を伸ばす。
「いいから……続けてください」
ニコルはかすれ声で笑った。やつれきった空咳を響かせる。だがそれはもはや力ない喘ぎでしかなかった。
吐息に血の腐臭が混じってゆく。
「ザフエルさんが、そうしてくれてる間だけ」
身裡を侵蝕する虚無の衝動に苦しみ、のたうち、死による解放だけを望むようになっても。
「僕でいられる……気が……」
薔薇の鎖につながれた腕が力なく揺れた。鉄の音が鳴った。甲高い軋みが心の尊厳を縛り付けている。
「ごめん」
ニコルは泣き笑った。
「僕の、せいで」
神に仕えるものは、神の定めた運命に逆らうことはできない。
人は神の前に無力だ。神はすべてを定め給う。誰の身の上にも等しく時が流れるのと同じく、千々の運命を等しく定め給う。ルーンという残酷な定めを聖女の身体に刻むも同じ。ただ現実という名の無情な刃のみを突きつける。教えとは真理であり秩序であり従わねばならぬ掟そのものだ。逆らうことは赦されない。ましてや奇跡を望むなど――
「どうして」
声が、震える。
ザフエルはニコルの頬に触れた。もどかしい手つきで包み込む。伝う涙のつめたさにザフエルは息を呑んだ。髪が吐息で揺れる。
胸の傷。呵責の痛み。切り裂かれ焼かれたあの日と同じ幻の痛みがよみがえる。決して癒えることのない魂の傷は、白と黒の塔に幽閉された、あの狂える女につけられたものだった。ハガラズの福音たる薔薇の瞳を受け継がなかった――ただそれだけの理由で存在を否定し心臓を抉り出そうとし、あまつさえニコルの命をも奪おうとした。聖女が何を孕み産むのかも知らず、ただ虚飾の幻影だけを信じ込んで。
それと、今の、このおぞましい己の姿と、何が違うというのか。
「……どうして、その秘密を墓場にまで持ってゆかなかったのです」
くちびるに、言葉の毒を。
「そうすれば聖下が虚無《ウィルド》を怖れることもなかった。私がこんな命令を受けることもなかった。貴女を――辱めずにすむかもしれなかったのに」
吐息に、悲痛の毒を入り混じらせて。
神に捧げられたしるしである隷属のヴェールを引きちぎる。薔薇のティアラが床に跳ね、点々と転がった。
悲鳴のような音が反響した。闇に吸い込まれてゆく。
囚われの鎖が激しく揺れ動く。
「貴女は、存在してはならなかった」
ザフエルは自らの喉を鷲掴んだ。息が白く、醜く、狂おしくみだれてゆく。
「聖下の、御命令です」
腕を伸ばして。
神への供物たる花嫁の、聖女の装いを力任せに破り捨てる。首に掛かったチョーカーがちぎれ飛んだ。薔薇水晶がこぼれ落ち、レースが張り裂け、留め具が音を立ててねじ切られる。
「ウィルドの守護たる聖騎士ホーラダインの名において、穢れ無きルーンにのみ仕える守護のさだめを、高貴なる義務を」
それはまるで押し潰された絶叫のようだった。
「貴女を――我がものにする」
悲鳴が白い吐息になって立ちのぼった。
「虚無《ウィルド》は、ローゼンクロイツの闇です。光でありながら闇、混沌でありながら虚ろ。今のままの貴女では、ローゼンの権威が及ばない」
青銅の翼がもぎ取られる。舞い散る濡れ羽の色。揺らぐ息、みだれる息遣い、飛び散る悲鳴。もつれる白と黒の呻き。
「ルーンである以上、ウィルドは薔薇十字の理に従属し、支配されなければならない」
鉄の音がちぎれそうに軋み、いっぱいに張りつめる。鈍色の光が散乱する。
「それが、よもや蔑ろにされるなどと、あってはならない。ルーンのゆりかごたる聖女が、自ら教えに叛き、穢し、聖俗の境域を越えようなどという矛盾を、ゆるしてはならない。なればこそ」
幾度も見た悪夢と同じ。泥のように交わる剣と薔薇が、互いに酷く深く束縛し傷つけ合う鉄棘となって罪の爪痕を描き出す。
映らぬはずの影がゆがみ、引き延ばされて滑稽に踊る。常軌を逸した色彩が、天球図をまだらの光に染め上げる。魁偉な聖女像が古めかしくもみだらな笑みで星を指差し、聖なる罪の受胎を告げる。
「我が父ローゼンクランツが、貴女の母親であるシスター・レイリカを――したように」
やつれきった身体に背後から両手を回し、かき抱く。
なぜかまるで抗おうとせぬのを、むしろ拒絶を煽り立てようとするかのように頑なに引きずり寄せる。吊られた腕だけが反り返った。苦痛の呻吟がもれる。
ザフエルは骨の浮き上がるニコルの背に顔を埋めた。くちびるを押し当てる。虚無の描き出すなまめかしい闇の紋様が青白い肌に黒く浮かび上がってはルーンの光にかき消され、塗りつぶされていった。
「私も、また、罪を――罪に罪を混ぜ捏ね作られた不完全な操り人形でしかない私自身の血の濁りを貴女の身体を通して濾し浄め、贖い――きよらかな、罪けがれのひとつもない次代の聖女を、絶対の支配と従属によって封印された無垢なるルーンの器として、貴女に――」
隷属の鎖が甲高く鳴る。
ニコルは抗わなかった。
吐息が長く、こぼれてゆく。
また、鎖がわななく。濡れた血の匂いに、苦痛とは違うやるせない喘ぎが混じった。
「なぜです」
腕の中の無力な姿に、ザフエルは呻いた。
「どうして、抗って下さらないのです。貴女を、こんなにもして――汚そうとしているのに」
ニコルは苦悶に穿たれた息をもらした。
「……違うよ……ザフエルさん……それは」
やつれきった身体がふいに仰け反る。ザフエルはとっさにニコルの身体を抱き支えた。髪がみだれ、肩に降りかかる。ザフエルはその無抵抗にすぎる重みを受け止めかね、声を詰まらせた。
「何が違うというのです」
触れる肌の冷たさに息を呑む。
ニコルは眼を閉じた。息苦しい喘ぎをザフエルの腕に預けて、弱々しくかぶりを振る。支配という名の楔を打ち込まれた虚無が、ルーンの結界に反応し、ほのかな受容の波動を放って光っていた。
「悪いのは……僕のほうだ。ずっと側にいてくれてたのに、助けてくれてたのに……ずっと嘘ついて、騙してた……だから」
骨のようにやせ細ったニコルの手がザフエルの左手を所在なく探り、求めている。指が触れた。
「教えて」
ニコルはふいに眼を開けた。すがりつくかのように手を重ね、小指をからめあわせて、きつく握りしめる。
「どうすればいいのか、おしえて」
みるみるその血の瞳が色あせてゆく。かすれきった笑い声が軋んだ。
「……ザフエルさんなら、知ってるはずだ……本当の……」
ザフエルはニコルを抱く腕に凄まじい力を込めた。指が肌に食い入る。
「私は」
食い込む指に、圧迫された肌がみるみる赤く染まってゆく。ニコルは痛みに身をよじらせた。
「何も知らない。何も、知らされてなどいない。本当のことなど、何も」
腕の中のニコルが激しく身をよじらせる。囚われの枷と鎖が揺れ動いた。その度に、心をかき回す金属の音が響き渡る。
「放して」
ザフエルの手だけを振り払って、ニコルは喘いだ。
「知りたいんだ……」
朽ちた薔薇が散り敷かれた闇に、声だけが反響して吸い込まれてゆく。
「母さまは………ルーンの運命から逃げようとして……できなかった。ザフエルさんや……ザフエルさんの御母様や、レイディ・ユーディットを苦しめて……マイヤを死なせてまで抗おうとして、それでもどうすることもできなかった」
立ちのぼる吐息に悲痛な呻きが混じる。
「どうしてザフエルさんの御母様が……薔薇の瞳を持ってなかったのか……どうしてあんなに……ザフエルさんまで憎んでいらしたのか……ずっと、分からなかった。ごめんなさい……ごめん……どうして……もっと早く気付けなかったんだろう……僕が、壊したんだってことに」
「違う」
ザフエルは声を押し殺した。
「貴女ではない。断じて」
「全部」
ニコルは思い詰めた息を吐くなり、振り返ってザフエルの胸に身を投げ入れた。
「僕が、壊したんだ。幸せを、ハガラズの福音を、未来をザフエルさんから奪って、みんなを傷つけて、苦しめて、たくさんの人を……ルーンでありながら他のルーンや魂や希望を食い荒らして、殺して、喪わせて、それでもまだ足りずにすべてを奪おうとした。僕が、そう……望んだから。心なんて、もう、消えてなくなってしまえばいいって……望んでしまったから」
ニコルはザフエルの胸に顔をうずめた。むせび泣きの声が途切れる。
「でも……きっと守護騎士なら」
鈍い音が響いた。ニコルの肌の上で何かが流星の火花を散らし、弾ける。ニコルは苦痛の悲鳴をあげてザフエルにすがりついた。
「ザフエルにさんなら、きっと」
光るルーンの枷がニコルの身体を捕らえた。首にからみつき、喉を締めあげ、手首をとらえ、全身をきつく絞り上げてゆく。つらぬく支配の血にニコルは悲鳴を上げた。身体が苦悶に染まってゆく。滲んだ冷や汗が青白く光っていた。絶望の吐息がまき散らされる。
髪がみだれる。のたうつ薔薇の鎖がいっぱいに引き延ばされ、細く、細く伸びきって、ちぎれ飛んだ。闇に跳ね返る。破片が赤い血の結晶となって四方へ散らばった。硝子の雨だれが甲高い音となって響き渡る。
どんなに強く、荒くかき抱いても真実には届かない。
「ザフエルさん」
腕の中にあるのは身体だけ。心は、そこにない。
「だめだよ、もう」
幾度罪を重ねようとも、同じ。
「……決めたんだ」
ニコルは、やつれた手を伸ばした。
疲れた微笑みを浮かべ、ザフエルの頬につめたく触れる。
ザフエルはかぶりを振った。
「できない」
「できるよ」
「できない！」
「……できるよ」
ニコルは、かすれた声で陶然と繰り返した。
「僕なら、できる」
ザフエルは引き裂かれた聖女の衣装を見下ろした。
赤い薔薇の花びらが散っている。
無惨にちぎり取られた赤い花びらが、一滴、二滴、と、さらにこぼれ落ちて。
涙のようだった。ザフエルはニコルの眼の奥に滲んだ色を見つめた。求めて止まなかった薔薇の瞳が涙に濡れ、きらめいて、抗いようのない凄まじい飢餓の波動をうち震わせてゆく。引きずり込まれる。
「虚無は、何も生み出さない」
支配に縛られたまま、ニコルはつぶやいた。
「輝かしい未来も。喜びも、平穏な明日も。苦しみを与え続けることすら、きっと、できないんだ。ただ、奪う。何もかも奪って、消してしまう。返せないのに。人の記憶も、痛みさえも奪い去って、無くしてしまう。無くしたことも忘れて、また、奪う……あなたからも、ほかのみんなからも、何もかも奪い続けるんだ。ザフエルさんが止めに来てくれなければ……チェシーさんのことも、アンシュベルのことも忘れたまま、殺すところだった……」
ニコルは息をついた。突き放すように笑う。
「そんなのは、もう、嫌なんだよ」
心を支えていた柱が、砕ける。理性の天蓋は既に砕けた。次に砕けるのは、床か。大地か。
ニコルは、指先でザフエルのくちびるに触れた。
「『ルーンの支配』だけが虚無を制御できる。ザフエルさんの――僕と、同じ――ウィルドの守護たるあなたの支配だけが」
「言い逃れは許さない。貴女はもう、私のものだ」
ザフエルは頑なに繰り返した。欲望を正当化したその言葉こそがもっともおぞましい刃だと分かっていながら、続ける。
「分かたれた血がひとつになるまで、私は貴女を汚し続ける。おぞましい姿を、穢らわしい本性を貴女の前にさらけ出して、二人して狂い果てるまで、何度でもその身体に教えてやる。私と貴女が、ローゼンクランツの血を分けた兄妹であることを。私が、貴女の血と骨を食い荒らす、けだものであったことを」
「ザフエルさん」
ニコルはくちびるでザフエルの呻きを遮った。頬を涙がつたい落ちてゆく。
「いいんだ。そんな言い方、してくれなくてもいい。僕なんかでよければ、いくらでも好きにしてくれたらいい……あなたが失った――僕の母さまが、あなたの御母様から奪った――ハガラズの福音の代わりになるのなら……でもね」
吐息と悲痛な涙声とが濡れた音を立てて混じり合う。
「もう、分かってる」
定められた罪と、罰。
「ずっと」
ニコルはうつろに笑った。
「ずっと……分かってた。ザフエルさんのことを、ずっと本当の家族みたいに思って――どうしてこんなにザフエルさんが当たり前みたいに側にいてくれて、何があっても離れ離れになったりしないって……理由も考えたこともないぐらいそれが普通のことだって思ってたのか……全部が、ずっと、当たり前すぎて、壊れることなんて絶対にないって思い込んでた」
わななく手でザフエルの襟元を掴み、握りしめる。
「なのに、気付けなかった。僕の存在そのものがザフエルさんにとっては、あってはならないものだったんだってことに」
「違う」
否定するザフエルの腕の中で、ニコルは眼を閉じた。
「もしここでまた僕があなたの優しさに逃げれば、また、同じ事が繰り返される」
声を呑み、涙を呑み込んで顔を上げる。青ざめたくちびるが、壊れた笑いのかたちにゆがんだ。
「罪もない誰かが……虚無の血を受け継いだちっちゃな誰かが……僕の代わりに虚無を宿す形代になる。いつ壊れるか分からない血の宿命を背負うことになる……そんなこと、できないよ。だから、」
ニコルはかぶりを振った。かすれた声で喘ぐ。
「僕が、運命を変えてやる」
張り裂けそうな微笑でザフエルを見つめ、笑う。
「いつか、必ず、じゃない。今、終わらせる。母さまがマイヤに託したのは、希望なんかじゃない。終わらない虚無と絶望の二重螺旋だ。マイヤを見殺しにしてまで僕を生き延びさせたのは、僕で終わらせるためだ。おそろしい記憶を僕につめこんで、運命と絶望を逆手に取って。ほかの誰かにこんな思いをさせることになるぐらいなら他でもないあの男の娘である僕にこそウィルドの運命を背負わせて、皆に憎まれる定めを、すべてを滅ぼすなんていう、おぞましい魔女の名を、永遠にルーンの中へと刻み込ませて、それで終わりにするために」
虚無の花びらが降る。
赤く。黒く。破れた花びらが、淡雪のような白い引き裾に鮮烈な色を散らしてゆく。幽玄の波紋が広がる。
「だから」
ほろほろとこぼれる血の色の幻想を、ブーケのように胸に抱いて。
「終わらせて欲しいんだ。ザフエルさん……あなたの手で、僕を」
ニコルは、囚われの手を伸ばした。
薔薇の棘が、指を刺す。こぼれる血の――命の色。
「それが、定め」
灰色に朽ちた薔薇が一瞬、鮮烈な熱を放って花開き、咲きこぼれた。黒い虹が針となって飛び散る。
だが、幻の薔薇はザフエルが触れたとたん、脆くも変色して砕け、床に散らばった。あえかな音が闇に反響する。
「守護騎士であるあなたと、聖女である僕が果たすべき……真の定めだ」
ニコルは、ザフエルの胸へと頬を寄せた。
手枷に繋がれた手とザフエルの手を結び合わせ、鎖をからめ取ってゆく。軋む音が滑り落ちた。
「聖女は騎士にすべてを捧げ、その血で、信仰の証たるルーンの福音を薔薇水晶にしるす。騎士は、死の婚姻によって結びあわされた永遠の忠誠を、ルーンに誓う」
白い吐息をまとわせ、頭をそっと傾けて、うたかたの微笑みでザフエルを見上げる。ザフエルは手を振り払おうとした。狂気めいた音を立てて鎖がいっぱいに張りつめ、鳴り響く。
「虚無《ウィルド》のルーンなどいらない。それは、存在してはならないものだ」
闇雲にかぶりを振り、うめく。
「ザフエルさん」
「私が欲しかったのは、貴女だ。ルーンじゃない」
こわばりきった表情が、みるみるゆがんでゆく。
「福音などどうでもいい。貴女は私のものだ。シスター・レイリカがローゼンクランツの子である貴女に虚無と憎しみの定めを負わせたように、貴女も、私の子に運命を肩代わりさせればいい。私を憎めと伝えれば良い。貴女さえ取り戻せるなら、誰に憎まれようが呪われようが構いはしない」
「だめだよ、ザフエルさん。それじゃ駄目なんだ。それじゃ何も変えられない」
残酷な鉄のつめたさが手首に赤く食い込んだ。
白い吐息が荒々しく立ちのぼってゆく。
「僕は、自分が自分であったことを後悔したくない」
ザフエルが息を呑む。
「閣下」
薔薇のからみつく祭壇に、何かが光っている。天球図を描き出す器械から暗黒の光が漏れ、屈折しつつ四方に反射して、床に巨大な魔法陣を映し出していた。一点を中心にゆるやかに変化しながら回転し続ける光の輪。
墓標の如く祭壇に突き刺さった巨大な薔薇十字が、見えない光にその真の姿を透かされ、映し出されてゆく。
（けだかき薔薇に いだかれし みどりごは）
（こころやすく ねむり給う こころやすく）
濡れたように光る、闇の紫光。くろがねに精緻な金の象嵌を施したローゼンクロイツの紋章に添えられたいつわりの慈句は、だが魔法陣の黒光が横切った瞬間に、残酷な真の聖句へと書き換わるのだった。
薔薇文様に彩られた死の誓い。通常の光のもとでは決して見ることができない闇の啓示がまざまざと浮かび上がる。
（その命のすべてを 永遠の願いに代えて）
（守護たる騎士にこそ 捧げまつらん）
死の薔薇が凄惨に咲き乱れる生贄の祭壇を見やって。
ニコルは顔を伏せた。
「昔のことは分からないけど、でも、きっと、こんなふうにしてルーンも聖女も騎士も、戦争の道具にされてきたんだと思う。そうでもしないと、こんな思いをさせてまでルーンの血筋を伝えるはずがないんだ。どこかで絶やすか、騎士と聖女を引き離してしまえば――でも、ローゼンクランツはそうしなかった。あなたが苦しむと知っていながら僕をあなたに与えた。今度こそ間違いなく、虚無《ウィルド》のルーンを手に入れるために。もしあなたが僕を逃がせば、きっと、神殿はあなたを見せしめに殺す。大切な仲間や、第五師団のみんなや、アンドレーエさんやエッシェンバッハさんまで、きっと殺すよ。真実を知った聖女たちが神殿から逃げ出せぬように。真実を知った他の騎士が、聖女たちを神殿から助け出せなくなるように」
泣き笑うように続ける。
「でも、それでいいんだ。ホントに楽しかったから。ザフエルさんや、チェシーさんや、みんなと一緒にいられたときがいちばん楽しかった。信じられないぐらい、幸せだったから」
ザフエルは呻いた。くずおれるようにして膝をつく。
ニコルはザフエルの前に両膝をつき、片手を伸ばして、その頭を胸にかき抱いた。そっと抱き起こす。
「僕を、祭壇に連れて行って」
「いやです」
ザフエルは抗った。
「貴女ではない他の誰かが苦しめば済むことだ」
「そんなこと、僕が納得するとでも思ってる……？」
「……私が苦しむのは、平気なのですか」
ニコルは、ゆっくりとザフエルの髪に手を滑らせた。黒髪を指で梳き、声もなく肩にこぼす。
「ううん……ごめんなさい。でも、もう」
「貴女が、貴女でさえなければ良かったのだ」
突如、嗚咽にも似た声がザフエルのくちびるからほとばしり出た。
「私さえ、貴女に固執しなければ。そうすれば、心動かされることもなかったのに」
声が、哀れなほどに震え出す。
「サリスヴァールに……無様にも……嫉妬して……耐えきれなかった。こんなことをすれば貴女を永遠に失うと分かっていながら、心を踏みにじり、自由を奪い、血の復活こそが神の正義であるかのように自らの心を偽って、貴女を取り戻そうとした。貴女が、欲しかった。失いたくなかった。ひとつになりたかった……母のみならず……貴女にまで見捨てられるのが……怖かった……！」
「……ごめん」
ニコルは、そっとくちびるをザフエルの頬に寄せた。
「……そうだね……でも、もう、大丈夫」
ためらいながら、もう一度。
「これからは、僕が……あなたを護る」
こみあげる思いそのままに、何度もくちびるを押し当てる。
「ルーンの運命に従って、虚無《ウィルド》になる……マイヤが僕を護ってくれてたように」
鎖が、かぼそく鳴る。
静謐が、しずかな帳を下ろした。
「あなたとひとつになるって……誓う……」
音が消え。
ためいきと。
くちづけと。
死をいざなうせつない呻きが闇を満たす。
「僕を、殺して」
月の砂浜に満ちる潮のように、どこまでも静かに揺れて。
罪に、罪を、重ねて。
「この命のすべてを永遠のねがいに代えて、守護たる御身にこそ……捧げ……我が騎士、ザフエル・フォン……」
許されぬ咎を、全てを無に帰す結末を、堪えきれぬ悔恨を、悲鳴にも似た裏切りを、禁忌ゆえの罪を、満ち足りた刑を、絶望という名の甘美な慰めを――口にしようとする。
どこかで、何かが、ふいに揺れ動いた。
底ごもる爆発の音が走る。続けざまに空気が振動した。連続する小さな爆発の直後、壁ごと吹き飛ばしたかのような大音響が響き渡る。
ニコルは眼を押し開いた。
「な、何……？」
「曲者か」
ニコルを抱くザフエルの手に凄まじい力がこもった。ぐいと天井を振り仰ぐ。明らかに爆発地点が移動している。どこかがまた吹っ飛び、壁面が剥がれ落ちた。巨大な亀裂が走りぬける。剥き出しになった壁の向こうの空間から土煙が吹き出した。聖女像を刻んだ柱が音を立てて押し潰され、砕け、石屑の瓦礫を散らす。
ザフエルはニコルをかばうようにして後退った。その足元が、嘲笑じみた鳴動とともに突き上げられる。
星図を描き出す天井の古代機械が法外な音を立てて傾いだ。めきめきと金属が引きゆがめられてゆく。火花が軋り飛んだ。漆黒の音波が途絶え、致命的な音がつんざく。
一瞬、苛烈な光が頭上から射し込んだ。
真っ白な閃光に視界が奪われる。轟音が耳に吹き込んだ。爆風はない。ザフエルが何かを叫んだ。耳元で怒鳴られているはずだが何も聞こえない。
何も見えなかった。土煙の臭いが濁流のように流れ込んでくる。旋風が渦を巻いた。瓦礫が降り注ぐ。
ニコルはとっさに腕で眼をかばった。この轟音。この閃光。
耳元を黒い突風がすり抜けた。剣のきらめきが舞う。殺気が伝い走る。まさか、敵が――
ザフエルが瞬時に反応し、身を投げて身体をよじらせる。だが腕に鎖に繋がれたままのニコルを抱いていては自在に戦えるはずもなかった。かろうじて最低限の範囲にハガラズの結界のみを張り巡らせ、一方的な攻撃を防ぐ。
金属音が床に跳ね返る。火花めいた甲走る残響が散った。このままではザフエルが一方的に不利になる。ニコルはあえぎ、ザフエルの手を振りほどこうとした。
手が、離れる。
鎖が断ち切られた。
絡みつく薔薇の運命が、一斉に引きちぎられた。深紅の鎖がばらばらに砕け散り、散乱する。純潔の花びらが踊る炎のように舞い上げられ、流れ去った。
その鎖の残骸を踏みにじって。
誰かがニコルの手を掴んだ。
思わず息を呑む。
「来い」
不意を打つ、雷鳴にも似た響きが飛び込んでくる。
「こっちへ来い、ニコル」
ぐいと引かれ、ニコルはよろめいた。悲鳴を上げかける。
ザフエルの声ではない。光と煙にまぎれ、あれほど近くにいたはずのザフエルの気配が遠ざかってゆく。
目の前を黒い影が横切った。風を切る羽ばたきの音が聞こえる。
足音がいくつも乱れ響き、近づいた。
突然、声が聞こえた。
「師団長っ！」
「こら、アンシュ、馬鹿、静かにしてろって何度言えば！」
「ああん、でもでもですっ！ 師団長、師団長、どこいるですかあーーーっ！」
懐かしすぎる、声。
祭壇に投げ込まれた閃光弾が激烈な白い光を放出させながら燃えちぢんでゆこうとしているのが見えた。直接人体には被害を与えないものの、光と轟音で視界と判断力を同時に奪い去る閃光弾だ。その環境下へ平然と突入し、動き回れる人物の心当たりなど、静寂のイーサを持つ守護騎士以外にない。
ニコルは悲痛にかぶりを振った。
そんなこと、あるはずがない。
決壊した憎悪の記憶が凄惨に溢れかえる。
虚無の城と化したゾディアックの帝都ベルゼアスで、自分が何をしたのか。忘れられるはずもない――ニコルは悲鳴を上げた。必死にもがき、記憶の檻から逃れ出ようとする。そこにいた懐かしい仲間を、友達を、街ごと壊そうとした、叩きつぶそうとした、引き裂こうとした、殺そうとし――
「ニコル」
確かな力がニコルを引き寄せた。揺すぶられながらも強く抱きしめられる。
「思い出すな。思い出さなくていい」
ただ、強く。
真っ直ぐな声が。
「私を信じろ」
闇を引きちぎった。
まだ眼に光の残像が焼けついている。
土臭い煙が立ちこめている。ニコルは呆然と立ちつくしていた。膝ががくがくとふるえ、支えられていなければ今にも倒れそうだった。
死神さながらに裂けた黒いコートの裾が、ばたばたと旋風にひるがえっている。
それは、まるで。
いつぞやの夜のようだった。泣きそうになってつまづいたところをかるがると抱き上げられ、手を引かれ自由の空の元へ連れ出されて――
それでもニコルは頑なに拒もうとして悲鳴を上げた。漆黒と瑠璃色に黒く光る敵国の軍装。聖域内に決して存在してはならない、異端の侵入者。
うなじで結んだ金色の髪がひどくほつれて煤け、ぼさぼさになっている。この期に及んでまだ素性を隠しているつもりなのか。片眼だけをくりぬいた黒い布を斜めに結び、余りを長々と風になびかせている。
だが、見慣れた青い隻眼のきらめきと片頬だけ笑みにゆがんだ口元だけは隠しようもなかった。恐ろしいほど背が高くて、恐ろしいほど懐かしくて。あの日と同じ、皮肉な気安さに満ちた、自信満々の笑顔。
「よう、ニコル……と言いたいところだが」
口の端が片方だけ、なおいっそう皮肉に吊り上がる。
「この場合は挨拶より先にまず何か着てもらった方がよさそうだな」
「チェシー……さ……」
ニコルは愕然としつつ、はっと我に返ってチェシーの腕を突き放そうとした。
「い、いやっ、離してください」
「遠慮することはない」
チェシーは半ば強引にニコルの頭からゾディアックの軍コートを覆い被せた。
「いくら私でもさすがに気が引けてちょっかい出すのを我慢してやろうというのだからな。少しは感謝しろ」
「……ば、ば、馬鹿あ……っ！」
「そんなことよりも、だ」
チェシーはふいに表情をかき消した。おもむろに闇の彼方を見据える。
眼の奥に宿されたするどいきらめきが、静謐のなか孤独に佇む姿へと突き刺さった。
「この仕打ち、少々約束と違うんじゃないか、首座司教どの」
衝撃でちぎれた導きの光が、黒く染められた天球の失楽園からこぼれ、不安定に吊された状態のまま中空を回転している。灯りが揺れるたび、頭上で影が回転し、陰鬱な闇の渦を描き出しながら長々と床にのたうった。浮かび上がっては消え、巡り、経巡り、ゆらめき墜ちてゆく、背徳の――
ときおり、激しい音を立てて飛び散る閃光が青白く眼を射る。
「そのような約束をした憶えはありませんな」
ザフエルは眼をほそめた。よどみない挑発を含んだ音調が、切り取った声の響きを偽らせている。背後から、正面から、光が差す。暗い光、底ごもる聖なる響き、虚構のきらめき、真実の闇。
チェシーはひくい吐息をついた。手に提げた見慣れぬ巨大な剣が、裂き斬る鋼の予兆を滑り鳴らす。
「そいつを護るのが――守護騎士のさだめではなかったのか」
巨大な拵えの太刀をやすやすと水平にかざして。ぴたりとザフエルを指し示す。頬に深く残った、影ともまだらともつかぬ痕跡が、過去の罪をまざまざと黒く浮かび上がらせていた。
「裏切り者の貴方に、口を挟まれるいわれはない」
「裏切ったのはどっちだ」
チェシーは、太刀を持った手でおもむろにニコルを払いのけた。背後へと押しやる。
「下がっていろ、ニコル」
「チェシーさん」
半ば引きずるようにしてまとった黒いゾディアックの軍コートにつまづき、ニコルはよろめいた。長期にわたる地下の監禁に足が萎えて、まっすぐに立つこともできない。
「待って……そうじゃない……」
「君さえ」
チェシーは目元の仮面布をかなぐり捨てた。怒りにも似た火を宿した眼が、一瞬、ニコルを射すくめる。
「無事でいてくれるなら、もう、二度と――逢えなくてもいいと――そう思ってさえいた」
「師団長」
闇の向こう側から、聞き慣れた涙声が転がり出てきた。ニコルは眼を押し開いた。
「アンシュ……」
「師団長」
悲鳴混じりの、声。
遙か極北の地ベルゼアスからツアゼルホーヘンまでは、馬車の旅でも一ヶ月以上かかる道程だ。それほどの行程を、どれほどの苦難、どれほどの絶望を押し切って駆け戻ってきたのか。記憶にある、いつもおしゃまな仕草でにこにこと明るく笑う、女の子らしい清楚なメイド服姿とはまるで違う――汚れ、くたびれてすり切れたエプロンに、ほつれ、穴の開いた長靴下。いくつもの爆発をかいくぐって駆け抜けてきた証しに、その頬を黒く煤で汚したアンシュベルが、よろよろと、引き寄せられるかのように、駆け寄ってこようとする。
「師団長……」
「アンシュベル」
チェシーがするどく怒鳴った。
「ニコルを頼む」
「は、はいっ」
アンシュベルは涙を振り切り、笑うと、転がるようにニコルに向かって駆け寄ってきた。
「師団長、逃げるです！」
手を引かれる。
ニコルは絶句し、首を振った。引き裂かれた花嫁衣装の裾が白くひるがえる。
「だ、だめ、歩けない」
「あきらめちゃだめです！」
「無理よ……」
「何が無理ですかっ！ 無理なんかじゃないですっ！」
アンシュベルは、みるみる眼に涙をためて両手を握りしめ、ぶるぶると頭を振った。
「そんなこと言うなんて、あたしたちの師団長らしくないですっ！！」
ニコルは、愕然とアンシュベルを見下ろした。
「アンシュ」
「第五師団じゃ師団長の命令は絶対なんですっ！ 絶対って言ったら絶対なんです！ 絶対、戻ってくるって、ノーラスに、あたしたちのところに帰ってきてくれるって……あのとき約束してくれたじゃないですか……！」
「呑気にくっちゃべってる場合か」
闇から唐突に手が伸びた。ぐいと腕を取られる。アンドレーエの声だけが耳元で怒鳴った。
「馬鹿、ずらかるぞ！ 来い、アーテュラス。アンシュ、支えてやれ」
「はいです、ダーリン♪」
「ぶっ」
あまりの衝撃にルーンまでもが効力を失ったらしい。静寂のイーサを身につけたアンドレーエが、頭からずざざーっと床に転倒してそのまま遙か遠くへと滑ってゆくのが見えた。
「こ、こんなときに、アンシュ、お前って奴はー！」
相変わらずくしゃくしゃの頭をしたアンドレーエが、半分怒り、半分泣きそうな顔で怒鳴りつける。
「そろそろ、茶番は終わりにしていただきましょうか」
ザフエルの影が、ふいに長く伸びた。
それまでのやりとりを何一つ聞いていなかったような、乾ききった声だった。
胸の傷もあらわにはだけていた法衣の前を、潔癖な指使いでひとつひとつ几帳面に留め直し、身なりを完璧に整え直したあと。大理石を彫りだしたかのような冷たい無表情で振り返る。
「この私が、みすみす、聖女が奪われるのを指をくわえて見ているとでも」
「そうしていてくれて構わない」
チェシーは嘲弄めいた笑みを口の端にかすめ浮かせた。
「女を奪うときは力ずくでと相場が決まっている。こっそり盗るのは性に合わない。名誉挽回の機会ぐらいはくれてやるさ」
「相変わらず自分勝手な」
「自由奔放と言ってくれ」
「男として最低ですな」
「……何度目だろうな、その台詞を言われるのは」
「ですが、正直、羨ましくもあった」
ザフエルは右を見、左を見て、数歩離れた場所に身を屈めた。手を伸ばし、床に転がっていた杖を拾い上げる。巨大な闇がこぼれ落ちた。
「何をしに戻ってきた、サリスヴァール」
「この状況でわざわざ説明してやる必要がどこにある」
チェシーは呑気に笑った。指を鳴らす。どこかから笑い声が聞こえた。頭上から次々に戸が開け放たれてゆく音が響き渡る。突風が吹き過ぎた。闇に閉ざされているはずの地下の空間に、一陣の風。
ザフエルの声が冷ややかにさえぎる。
「その運命をもたらしたのは貴様だ、サリスヴァール。貴様さえノーラスに来なければ」
「人の運命に影響を及ぼせると自負するほど私は傲慢ではないよ」
「シスター・ニコラは、もはや聖女ではない」
暗闇がザフエルの表情をゆらぎ消してゆく。
「我が手により」
禁断の血に汚れた手を、見下ろす。
「神への贄となった。その、女とは、もう――実の兄でも妹でもない。名実ともに、私の」
「……ザフエルさん……！」
ニコルは押し殺した呻きを上げた。顔を伏せ、悲鳴の洩れる口を押さえる。
細くたなびいていた闇の波動がふいにかき乱された。チェシーはかろうじて表情を隠す。
「……冗談にしては聞き捨てならないな」
チェシーは剣の柄に手をかけた。かすかに佩用の鎖が鳴る。
白刃が劫火のごとく燃え、走った。踏み込みざまにザフエルの喉元へ刃の切っ先を突きつける。
闇が真っ二つに割れ、冷気があふれ出す。
「なぜ、それを今、この場で口にする必要がある」
「チェシーさん」
ニコルはアンシュベルの手を振り払ってよろめき、前へとつんのめった。
「違う……」
立っていられず、そのまま膝から崩れ落ちる。
「来るな。下がっていろと言ったはずだ」
チェシーが押し殺した声で唸る。
「だから、そうじゃないって言ってるでしょう……」
ニコルは長くほつれた髪を乱してかぶりを振った。
「これは、僕が、望んだことなんだ……全部！」
「師団長」
アンシュベルが絶句する。
「僕が、望んだ」
ニコルは泣き、笑い、かぶりを振った。目の前が、また、赤く、黒く、壊れた色に捻れかえってゆく。心臓を握り潰されたかのようだった。
「たくさんの人が死んだ。僕が、殺したんだ……なのに、どうしたらいいのかも分からないんだ――だから、その罪をつぐなうために、その罰を受けるために、何もかも、終わらせるために」
虚無の鎖が、血の滴るような音を立ててこぼれ落ちた。心ががんじがらめに絞り上げられてゆく。
「……殺して……くださいって」
くろがねの薔薇が、微細なひびわれとなって床一面に伝い走ってゆく。
「僕が、ザフエルさんに、頼んだんだ」
涙が闇に吸い上げられ、きらめきとなって散らばる。
「僕が、僕でなくなれば。それで全部が終わるんだ。マイヤが封殺《ナウシズ》のルーンとなって虚無の影響からずっと護ってくれていたように。名も無き聖女たちが、ルーンの狂気を愛するひとを護る力に変えたいと、ただそれだけを死の間際に願ったように、僕も――そうすれば虚無を安全に制御できるようになる。誰も苦しませずに済むんだ。ウィルドの守護騎士に従って、身も、心も、すべてをゆだねて、それを永遠の運命として受け入れさえすれば……！」
「何言ってるです師団長」
アンシュベルがしがみついた。
「こっ、こんなの引っぺがしちゃうですっ！」
指先に絡みつく虚無の鎖を必死に引きはがそうとする。だがアンシュベルは悲鳴を上げて手を押さえ、弾かれたようによろめいた。苦い煙が手を覆い、立ちのぼる。
「アンシュ」
とっさにアンドレーエがアンシュベルを抱きとめ、引きずり戻す。
「大丈夫か」
「い、痛くなんかっ……！」
その手にくろぐろと闇の薔薇が絡みつき、凍傷めいた痣となって焼き付いている。
黒い煙がほそく渦巻く薔薇の冷気となって、伝い落ちた。
「ルーンとは」
ゆるやかに眼をほそめ、ザフエルは歩き出した。ただニコルだけを見つめて、一歩、また、一歩と距離を縮めてゆく。踏みしめるその足元で、細い蔓薔薇の砕けゆく影絵が踊った。鈍色の欠片が光る。
「この世に遣わされた神の福音。光の中の光にして、闇の中の闇。決して、失われては、逃してはならぬもの」
足を踏み出すたび、鉄の薔薇がうごめき、伸び、くねって。狂い咲くいざないとなって、ザフエルを引き戻そうとする。
「……ザフエルさん」
「最初から、こうすれば良かったのです」
ニコルの前に膝をつき、軍人らしい完璧な所作で、うやうやしく手を押しいただく。
「貴女を失うまい、貴女を奪われるまい、と。それだけを望んで、遠ざかってゆく貴女を恨んだ。薔薇の血を、運命を、ただ、妬んで」
唇を、ニコルのふるえる指先に押し当てる。
「例え死に等しい絶望が待ち受けていようとも。永遠の苦悶が我が身を苛もうとも――それが、神の定め給いし運命であるならば」
ザフエルは、手を放し立ち上がった。
「その、罪を」
ニコルを見つめる。
「その、罰を」
感情を垣間見せることも、想いを表すことさえ忌避していた、深淵の瞳が。
「その、狂気を」
ふいに、揺れ動いた。
どこからともなく聖なる旋律が聞こえてくる。
心狂わせる誘いの響きが、高く、低く、さながら戦場に打ち棄てられた埋み火のように、死の旗のように、すべてを焼き尽くす殲滅の劫火のように。幾重にも重なり、互いを呑み込み、やがて耳を聾するほどの凄まじい不協和音となって響き渡ってゆく。
「私に、と」
華奢な天使の杖を振り、ぐいと先端の握りをねじって差込をはずす。かちり、と理性の外れる音が聞こえた。
杖に仕込まれた銀のレイピアを潔癖な所作で抜き払いながら、ザフエルはかすかに口の端をゆるめた。
「……お命じくだされば良かったのです」
ザフエルは何気なくアンシュベルを振り返った。無表情にながめる。
「虚無である御自分を怖れ――それのために御身を厭い、死を望むというのなら」
左手をアンシュベルへと差し伸べ、突きつける。
「代わりに、私がすべての罪を犯す」
その掌に暗黒の光が満ちあふれ膨れあがった。黒光りする金属的な炎を上げて燃えあがる。
影が空気を圧する。ザフエルの表情が闇に沈んだ。
「……え？」
驚きと困惑に見開かれたアンシュベルの眼に、深淵の炎がくろぐろと映り込んでゆく。
反転する世界を切り取ったかのような白い影が、今にもちぎれ飛びそうなほど細く長く闇めがけて引き延ばされていた。その中でザフエルの声だけが異様な平静を伴って響く。
「貴女が奪うはずだった命を」
「逃げろ、アンシュベル」
チェシーがふいに怒鳴った。
「早く」
「貴女が受けるはずだった罰を。貴女が堕ちるはずだった狂気を。この国を。教えを。護るべき民を」
それは、さながら一夜にして崩れ落ちる栄華のようでもあり、終わりの始まりを告げる死の角笛そのもののようでもあった。
「代わりに、すべて、この私が滅ぼす。奪う。何もかも焼き尽くす。貴女ではなく、虚無の代わりに」
刹那、巨大な炎の柱がアンシュベルの存在していた空間を一瞬にして呑み込み、舐め尽くした。紫電の伝い走る闇の火柱が天井に突き立ち、貫いて、めらめらと炎の舌を吹きこぼれ溢れさせながら、地下の回廊をすべて爆風と暗黒の圧力で粉々に吹き飛ばしてゆく。
「アンシュ！」
ニコルは悲鳴を上げた。闇の火とともに天井が燃え炙られ、砕け散る。偽りの星が無数の光を宿す瓦礫となって降り注いだ。ガラスの溶け砕けるような轟音がつんざく。苦い煙が充満する。ニコルは思わず駆け出そうとした。
「アンシュ……！」
目の前がふいに半透明の黒ずんだ防御結界に遮られる。ニコルはつんのめった。だが完全には止まりきれず、思い切り頭をぶつけてよろめく。外の音がくぐもって聞こえた。炎が流星のように四方八方へと流れ落ちてゆく。
前方だけではない。後方も、頭上も、足元でさえ、半ば闇、半ば光に満ちた六芒星の結界によって完全に外界と断絶されている。
ニコルはハガラズの結界を拳で殴りつけた。
「出して。結界を解いて！ 嫌だ、こんなの嫌だ……ザフエルさん！」
「師団長……！」
かぼそい声が遠ざかる。アンドレーエが何かめちゃくちゃに怒鳴っていた。闇を見据えるザフエルが冷酷に気配を追尾し、再度、手をかざす。
続けざまに炎の柱が噴き上がった。
「てめえおいホーラダインぶっ殺すぞ何いきなりトチ狂ってやがる……！」
アンシュベルを小脇に抱えたアンドレーエが、右に左に噴き上がる劫火を回避しながら聖域を突っ切ってゆく。爆風にあおられたアンシュベルの悲鳴が宙に舞った。
「ホーラダイン、いい加減に眼を覚ませ」
チェシーが剣を唸らせた。最上段に叩き込む。
ザフエルは鉄の表情を動かそうともせずに仕込み杖をかざした。結界で強化された杖が何もない中空で剣の一撃を受け止める。烈火の火花が軋り飛んだ。チェシーの浮かべた驚愕の表情があかあかと照らし出される。
次の瞬間、暗黒の炎がチェシーの全身を吹き飛ばした。渦巻く炎煙がもんどり打つチェシーの身体が描いた軌跡を伝ってねじれ、追いすがる。
「くっ……！」
チェシーは体勢を立て直しながら身をよじって着地し、そのまま地面を蹴って跳ね、降りかかる炎の濁流をかわした。どこかしら芝居事めいた仕草で拳を振り上げ、無駄な力の入った抗議を怒鳴り散らす。
「おい貴様卑怯だぞカードもルーンもカネにあかせて使い放題とは」
「そちらこそ使いたければ使えばいいでしょう」
「ちっ」
チェシーは頭に降りかかった火の粉を必死に払い落としていた。せわしなく身繕いしながら吐き捨てる。
「あんたが俺の大事な魔剣を根元からあっけなくひねり潰してくれたおかげで、こっちは攻撃用のカードが一枚も無いんだよ！」
「それを聞いて安心しました」
ザフエルの表情には微塵の変化もない。
「……心置きなく貴方たちを抹殺できます」
「サリスヴァール。悪い、先に行くぞ」
アンドレーエの怒鳴り声がした。
「ああ」
チェシーは顔を半分だけ振り返らせた。肩越しににやりと笑って手を振り、追いやる。
「とっとと頼む」
「嫌ですあたしも戦うですうう……」
「だから足手まといだっつってんだろお前はっ！ 何度言えば分かるんだッ！ 吶喊するからついて来るなっつったのに黙って勝手に付いてくるからこんな面倒くさいことに！ ってジタバタするな！」
「はううぅどこに手を突っ込んでるですかぁぁ……ああん恥ずかしいですぅ……！」
「う、うるさい黙ってろッ！ まったく何しに来たんだこの馬鹿娘はっ！」
「えぐっ……馬鹿って言うほうが馬鹿なんですよぅ……」
「お前が一番馬鹿だッ！」
「ほぇぇ面目ないですっ……うわ煙がげほげほ……」
「逃がしません」
ザフエルが手をかざす。炎と煙の彼方でアンドレーエが不敵に笑った。
「おっと、じゃあな。後は任せた」
言い置くや、二人分の気配が痕跡もろとも瞬時に消え失せる。煙に巻かれた旋風が吹きすぎる。
ザフエルは闇雲に炎を天井へとばらまいた。瓦礫のなだれ落ちる音が連なり、視界を遮る。
今や出入り口は完全に塞がれていた。天井を突き抜けた炎が通路へと燃え広がってゆく。黒い煤煙が噴き上がる暗雲のようにうねり、こぼれ落ちていた。ぞっとする轟音が地面を震わせる。壁が次々に剥がれ落ちた。
床が、ぐらりと傾ぐ。
外気と隔絶された結界に閉じこめられたニコルもまたひどく揺すぶられ、つんのめった。あわてて手を突っ張らせ、身体を支える。
「ザフエルさん……おねがい……！」
ザフエルは佇立したまま振り返りもしない。
底ごもる地鳴りが空気を揺すぶる。信じがたい崩落の轟音を響かせながら、黒曜石の床、石造りの聖女像、柱、壁面、すべてにおいて致命的な亀裂がいくつも深々と走ってゆくのが見えた。
崩れ――崩れずに済むはずがなかった。どれほど強固な地盤の上に築かれていようと、これだけの衝撃が一度に加われば地盤そのものが重みに耐えきれず陥没する。
「止めてよ」
ニコルはくずおれながら結界を叩き続けた。声を嗄らし、叫ぶ。無力な涙が、ぽたり、ぽたり、続けてこぼれ落ちた。
「二人ともそんなことしてる場合じゃないでしょ……逃げてよ……おねがいだからもう止めて、早く逃げてよ、チェシーさん！」
「さてと」
チェシーはなぜかその間、何の手出しもせず冷静に息を整えながら状況を見守っていた。ニコルを閉じこめている結界を破ろうとするでもなく、崩壊から逃げようとするでもなく。
ただ、悠然と腕を組み、素知らぬていでぬかりなく笑って。
「……チェシーさん！」
ニコルは声を詰まらせた。呆然とザフエルを振り返る。
ザフエルもまた、何一つ、変わった様子はない。
「こんなものでどうだ」
「御苦労」
まるで、いつも通りノーラスの指揮室で行われる定例報告のようだった。崩れ落ちる漆黒の瓦礫を平然とかわし避けながら、いかにもうんざりした顔で問うチェシーに対し、ザフエルがさも当然といった尊大な態度で受け答える。
「了解」
チェシーは苦笑いしつつ肩の力をすとんと落とした。剣を持ち上げ、握り替える。白刃にぎらりと殺気が伝い走った。
「これで決闘の邪魔をする奴はいなくなった、というわけだな」
「くだらぬ戯れ言を」
「私は本気だ」
何気ない笑いを含んだ声が耳元をすり抜けた、と見えた瞬間――
チェシーの姿が闇にかき消えた。風を切る凄まじい唸りが空を裂く。蹴った足元の床が砕け散った。黒光りする粉塵が舞い、渦を巻いて吸い上げられる。
白光きらめく刃が残像の尾を引いて乱舞する。さながら金色の獅子が躍りかかって来たかのようだった。大上段から闇が断ち割られる。
甲高い剣戟の響きが耳をつんざいた。
「懲りもせずに単調な打ち込みですな」
逆手に握られた華奢なザフエルの仕込み杖が、かるがるとチェシーの剣を外へ受け流しつつ銀の火花を流麗にまき散らした。一方の手から目にも止まらぬレイピアのさばきが喉の一点を狙って突き込まれる。法衣が漆黒の風となって巻き上がった。帯が紅の色に舞う。
チェシーは剣を手元で左右に引き払い、流れるように体勢を変えて鋭利な尖端を弾き飛ばした。身をかわし、後ろに飛びすさって間合いを取る。
「二刀の使い手とは聞いてなかったぞ」
「神殿騎士ならば当然。錫杖のひとつやふたつ使えずしてどうします」
「なるほど、覚えておこう」
「馬鹿の一つ覚えにならなければいいのですが」
杖を振るザフエルの手から続けざまに黒い炎の連弾が放たれる。次々立ちのぼる火柱が、黒く燃えさかる炎の影となって視界を遮った。とっさに走り逃れたチェシーは右に左に床を蹴って炎の串刺しをかわしたが、ついには爆風に煽られ足をすくわれて吹っ飛んだ。壁に激突する。亀裂が走った。呻きが轟音に呑み込まれる。陥没した壁面から瓦礫がこぼれ落ちた。
「やめて。ザフエルさん、もう止めて。止めて下さい……」
ハガラズの結界越しにニコルはうめいた。両手の拳に血が滲むほど殴り続ける。
「僕なんかでいいんなら全て捨てる。死ねと言うなら死ぬ。貴方のものになれというならなる。貴方に従う」
俗世と隔絶する壁にすがりつき、敵わずにくずおれる。
「だから、もう、そんなことしないで。もう……何も、願わない。何も、望まない。全部、忘れる……全部、捨てる！ 貴方のことだけを考えるから……だから！」
火柱に貫かれた天井が大音響をたてて砕けた。結界ごと埋め尽くさんばかりの凄まじい瓦礫と土砂が落盤となって崩れ落ちてくる。
ニコルは声を呑み、悲鳴を上げて突っ伏した。ガラスの砕け散るような凄まじい反響が耳をつんざく。だが結界はびくともしていなかった。傷一つない黒い水晶のきらめきが、現実と、偽りの優しさによろわれた虚構の世界との疎通を阻み続けている。
「だから、何だ」
ふいにチェシーがつぶやいた。
青い、強い、どこまでも一直線に突き進んでゆくかのような瞳が、ニコルを射しつらぬく。
「君のいない世界に、何の意味がある」
チェシーは剣を床に突き立て、瓦礫に半ば埋もれた身体を引きずり起こした。唾を吐き、よろめく身体を支えながら腰を低く落として剣を構える。
「君の魂と引き替えに別の何かを手に入れて。それで、その男が満足するとでも思ってるのか」
チェシーはザフエルを見やった。双方の視線が、炎の如き激情、闇の如き平静となって真っ向からぶつかり合う。
チェシーは頬をゆがめ、血にまみれた口元をぐいと粗野にぬぐって、吐き捨てた。
「私が欲しいのは」
握り込む鋼の音とともに、炎照り映える赤い刃が弧を描いて旋回した。剣が打ち振られた猛禽の翼を思わせる唸りを上げる。
「君の、真意だ」
ぴたり、と。切っ先でハガラズの結界に閉じこめられたニコルを指し示して、身構える。ザフエルはかぶりを振った。
「何度、挑んでこようが結果は同じです」
「問答無用」
チェシーは笑いを削ぎ落とした。ザフエルの眼から餓えたような命の光が失せてゆく。
「ならば、望み通りに」
杖が、正視しきれぬまばゆい光を放ち始める。
「全能なる神と――真実と正義の名において悔い改めぬ者に神の怒りを」
絢爛たるきらめきが音となり、舞い散る聖呪へと変わった。ねじれ舞う金色の矢が四方へと撃ち放たれる。白く染め上がる暁の如く、あまねく天を覆い尽くす虹の如く、地を穿ち空を破り風を引きちぎる、光、光、光――
「……だめだ、ザフエルさん……」
ニコルはちぎれる声で叫ぼうとした。
「そんなことしたら、地上の聖堂まで全部壊れ……！」
ハガラズの結界が、ふいに、たわんだ。
鋼鉄の障壁が、痙攣したかのようにふるえ、軋み、二重にゆがんで。次の瞬間、圧し潰されたかのように粉々に砕け散った。漆黒の水晶が吹き飛び、地面に突き刺さって転がりながら黒く燃え果ててゆく。
ニコルは光の突風に吹き飛ばされた。轟音と爆風が全身を叩きつける。半ば気を失いながらも、ニコルはもんどり打つ衝撃に逆に意識を引き戻された。跳ね起きようとする。だが、動けない。
チェシーが怒鳴っていた。握り込んだ一太刀をただザフエルに浴びせんと一直線にザフエルへと突っ込んでゆく。
「……何度斬りかかって来ても同じです」
ザフエルがつぶやいた。腕にはめたハガラズが闇色に明滅する。轟音と炎と煙の立ちこめる空間に、黒光りする破の波動が突っ走った。底ごもる震動が突き上げる。
「攻撃一辺倒の貴方の剣では、私は倒せない」
チェシーの顔が波動の圧力に歪む。
「っ……！」
その手に掴んだ剣が、致命的な不協和音をつんざかせ、見る間に風化していった。ひび割れてゆく。
「剣が」
ニコルは息を呑んだ。ハガラズのルーンが持つ”破壊”が発動している。敵の持つ全ての害意を――その手にする武器を、カードを、根源から破壊し尽くす力。
振りかざした剣が一瞬にして侵蝕されてゆく。刃がこぼれた。錆にも似た黒ずみが表面を覆い尽くす。突風に削られ、鋼の砂となって見る間に萎縮した剣は、ついには根元から粉々に砕け散った。
散乱する金属音が残響となって四方に跳ね返り、呑み込まれる。
「だから言ったはずです。あのとき」
ふいにザフエルの声が途切れた。
眼が押し開かれる。
「誰が、攻撃一辺倒だ」
チェシーは立ち止まらなかった。凄まじくも荒々しい笑いを放ち、唯一の武器であったはずの折れた剣をザフエルめがけて叩きつける。その眼前をかすめ、床に跳ね返って宙高く舞った柄は、最後に一瞬、赤く光って無下に四散した。
「馬鹿の一つ覚えで悪かったな」
抉り抜くような巨大な拳が、絶句するザフエルを真正面から射程に捉える。
「男なら自分の拳で勝負すると……決まってんだろうが！」
「……ザフエルさ……！」
ニコルは耐えきれず目をそむけた。ザフエルは、避けない。立ちつくしたままだった。
渾身の力を込めたチェシーの拳がザフエルを殴り飛ばした。頬骨が砕けるかのような鈍い音が響く。ザフエルは弓のように身体を反り返らせ、もんどり打った。床へと叩きつけられる。
ザフエルの手から杖が離れた。
儚い音を立てて、こぼれおちる。土砂がその上になだれ落ちた。倒れるザフエルの身体が落盤の向こう側へと呑み込まれてゆく。
次の瞬間――聖呪《ヘヴンズ・ゲート》が発動した。
「来い」
目の前にチェシーの手が差し伸べられていた。腕を引っ掴まれる。ニコルは引きずられながらも悲鳴を上げて抗った。
「ザフエルさんが」
偽りの静寂が、虚構に満ちた安寧の闇が、音を立てて崩れてゆく。
乱反射する無数の光が、死の聖域をなぎ払った。
雷鳴にも似た轟音が天井の天球図を打ち砕いた。鋼の薔薇十字が、凄まじい火花を散らしながら飴細工のように歪み、ひしゃげ、床を砕きながら倒れ込んでゆく。壊れた青白い光がつんざいた。
「ザフエルさ……！」
「いいから来い！」
チェシーは力ずくでニコルを引き寄せ腕に抱き込んだ。
聖女像が縦一文字に割れ、砕け、足元から崩れ落ちてゆく。剥がれ落ちる真実がきらめく魚鱗のように舞い散った。
崩壊の寸前、光に照らし出され露わにされたその顔は、闇の中で見えた恍惚の表情ではなく、迫害への恐怖と理不尽な運命に泣き、叫び、呻吟する苦悶の形相そのものだった。
「い、嫌、離して……！」
もがくニコルの目の前に、巨大な岩が落下してきた。床に激突し、砕けて散乱する。土煙と瓦礫が滝のように降りかかった。
チェシーがとっさに自身の身体を盾にニコルを庇う。ばらばらと床に跳ね返る固い音が響き渡った。
「チェシーさん、離してください」
ニコルは涙ながらにかぶりを振った。
「僕のことなんかどうでもいいんです……！」
チェシーは一瞬、険しい表情で振り返った。燃える闇、渦巻く煙、降りしきる瓦礫の彼方をぐいと凝視する。
「話は後だ。今は」
「嫌だ、離して、ザフエルさんが……！」
抱かれ、もがきながら、後方の闇に向かって必死に虚空を掴む。その声が崩落の轟音に吹き飛ばされた。爆風が襲いかかる。
（こっちだ、サリスヴァール）
羽ばたきの音が聞こえた。前方に、青黒くねじれ飛ぶ導の光が細く伝い走る。
チェシーはニコルの頭をしっかりと庇い抱いたまま、螺旋の軌跡を描く光めがけて走った。
行く手を阻む落盤が続けざまに襲いかかってくる。足元は砕け割れ、前方の視界は土煙と炎、轟音に呑まれて、ほとんど何も見えなかった。涙が絶叫となってこぼれ落ちる。
「お願い、チェシーさん、こんなことしないで。ザフエルさんを助けて」
チェシーは聞かない。青い光を追い、煙を突っ切って走る。猛煙渦巻く前方に、黒く風の吹き抜ける洞穴のような上がり口が見えた。
チェシーは怯むことなく煙の充満した階段へと飛び込んだ。光を追い、一足飛びに駆け上がってゆく。悲鳴と足音が交錯し、反響した。上へ、ただひたすら上へと続く、地表へ出られるかどうかすら分からぬほど絶望的に連なる階段。
地下の聖域が真っ白な光の海に呑み込まれてゆく。
突然、足場が崩れた。
階段全体が軋めきをあげ、激しく揺れ動いたかと思うと、壁面ごと一気に割れ落ちた。踏み抜いた階段ごと宙に放り出される。頭上から剥落した巨石が降り注いだ。
ニコルは悲鳴を上げた。
落ちる――
次の瞬間、背骨が折れそうなほどの凄まじい衝撃が来た。振り子のように全身が揺すぶられる。ニコルは震えながら、おずおずと眼を開けた。かすむ目で四方を見渡す。
「大丈夫か」
チェシーの引きつった声が頭上から聞こえた。
「動くな。動くと涙目になるぞ」
足元が、無い。ニコルは息を呑んだ。チェシーは腕一本で、かろうじて残った階段の縁にぶら下がっている。
身体が震え出した。
「どうして」
ニコルは歯を食いしばって呻いた。
「こんなことまでして」
「君の信頼に応えたかっただけだ」
苦痛に顔をゆがめながらチェシーが笑う。ニコルは眼を押し開いた。
「……な、何のこと……」
「悪いが説明は後だ」
チェシーは荒々しく息を乱しながら、腕一本だけの力でニコルを押し上げた。残る力を振り絞り、自らもまた踊り場へとよじ登る。
「ふう、何とか助かったな。あともう少しだ」
チェシーは穏やかに笑って手を差し出した。
「よし、行くぞ。手を貸してやる」
「チェシーさん」
ニコルは後退った。身体がすくんでいた。無意識にかぶりを振る。涙が落ちた。止まらなかった。
「だめ……行けない……」
だが、次の瞬間。
目の前に巨大な火柱が噴出した。金色に発光する煙をまといつけた黒い炎の渦が壁へと突き刺さった。再び足元が激しく鳴動し、跳ね上がるように揺れた。火の片が散る花の滝のように赤く降り落ちる。
「くそ、何しやがる、あの野郎」
チェシーは血相を変えてニコルの手を掴んだ。
「約束が違……！」
両腕にニコルを抱き、炎の上昇気流に背を押されるようにして、残る階段を一気に駆け上ってゆく。
闇の彼方に光が見えた。青白い月の光がしらじらと差し込んでいる。まるでその部分だけ世界を希望の色に染めて切り取ったかのようだった。
出口に近づく。反響する足音が、変わった。灰色の世界が広がる。
チェシーは行く手を遮る最後の障壁、薔薇の文様を浮き彫りにしたアーチ型の鉄門扉を蹴り飛ばした。外に転がり出る。
そこは、薄ら寒い月空の下だった。
山から吹くつめたい風が、さあっと吹き寄せてくる。風の音。木々の揺れるざわめき。夜鳥の鳴くかぼそい声。命の息吹を含んだ風が、涙に濡れたニコルの頬を吹き撫でていった。
再び足元が揺れた。静謐な夜に轟音が轟き渡る。
「来い！」
チェシーは何もない夜空へ怒鳴りつけた。手を伸ばす。
漆黒にはばたく何かが唐突に現れた。空を切る弾丸のように夜を裂いて飛び込んで来る。
チェシーはその足を引っ掴んだ。
羽ばたきの唸りが高まる。まるで竜巻に吸い上げられたかのようだった。鋭い燕返しの弧を描いて、二人は月夜へとかっさらわれる。
「きゃあああ……っ！」
急上昇する突風の渦に巻き込まれる。息が詰まった。
「なっ、なっ、何……！」
加速度的に地上が遠ざかってゆく。
だが、空へと連れ去られたことに恐怖を感じるいとまはなかった。
眼前に、そびえ立つツアゼル大聖堂の、するどくとがった白い鐘楼の突端が迫ってくる。視界がみるみる荘厳な外壁の彫刻に埋め尽くされた。
（うわああああああ死ぬ死ぬ死ぬ！）
耳元を悲鳴じみた風が流れていった。渦を巻いて吹き込む。
「馬鹿、前を見ろ、ル……」
悲鳴が入り乱れる。
次の瞬間、必死の思いで身体を縮めたニコルとチェシー、それと謎の黒い飛翔体は鐘楼の頂上のわずかな鐘と梁構造との隙間を悲鳴とともにすり抜けた。
（うわああ死ぬ死ぬうわああ死んでなかった……でもぎゃああああ落ちる……）
何とか無事通り抜けた、と安堵できたのも束の間。左右の平衡感覚を失ったのか、黒い疾風の物体はぐるぐると捻れ舞いはじめた。
（今度は落ちる落ちる落ちる落ちる……！）
「落ちるな馬鹿！」
凄まじい急降下に振り回されながらチェシーが必死の形相で怒鳴りつける。
（無理……わああああ！）
地上で何かがふいに黒く光った。
かと見えた、次の瞬間、放物線を描く炎の弾道が高射角で打ち上げられた。きりもみ急降下する飛翔体の至近距離で狙い澄ましたかのように誘爆する。
（当たったったったぎゃああああ……）
続けざまに爆発する。そのたびに右に左にと揺すぶられ、波間の木の葉のように翻弄される。
身体が宙に浮く。勢い余って振り飛ばされたのだ、と気付いたときにはもう背後に地面が迫っていた。ニコルは声もない。
「危な……！」
頭上から手を差し出すチェシーの姿が飛び込んできた。必死に伸ばした指の先が触れ、しっかりと結び合わされ――
地面に衝突する。ニコルはチェシーに抱かれたまま積み上げた干し草の束の上で大きく跳ね返り、そのままごろごろと派手にでんぐり返って転がり落ちた。何かの屋根を破って墜落する。
真っ白な何かが目の前で一斉に飛び立った。
凄まじい羽音、猛然と舞い散る羽根。ぎゃあぎゃあと飛び交う鳴き声が、夜空へと羽ばたき逃げ散ってゆく無数の白鳩となって解き放たれる。
半ば絶句しながら、チェシーは網を張った戸を力任せに蹴り破って外へとまろび出た。
危急の半鐘がけたたましくも勇壮に打ち鳴らされている。傍らに目をやると、眼下に扇状に広がるツアゼルホーヘンの街並みが見えた。闇にきらきらと寄り集ういくつもの暖かな光の群れ。
「チェシーさん」
ニコルは、喘ぎながら地面に座り込んだ。
「どうして、こんなことを」
追っ手は今のところ無い。だがすぐに異変をかぎつけた神殿騎士が調べにやってくるだろう。再び捕らわれてしまえば今度こそ極刑を免れ得まい。
チェシーはそのことを知ってか知らずか、何食わぬ顔で身体中についた鳩の羽毛を払い落としていた。
「ひどいものだ。いきなり鳩小屋に放り込むとは。びっくり箱よりたちが悪いな」
他人事のように冗談めかして笑う。
「怪我はないか」
ニコルは、きっとチェシーを睨み付けた。こみ上げる怒りで手が震え、声が震え、膝が震えた。
「こんなめちゃくちゃなことして」
チェシーが着せてくれたゾディアック軍コートの長すぎる袖を、くしゃくしゃになるまで握りつぶす。
「……もしまたウィルドが暴走するようなことになったら……どう責任を取るつもりです……」
「責任なら取る」
青い瞳が見つめている。心の奥が、熱い痛みを伴って跳ね上がった。
「ふ、ふざけないで下さい……勝手なことばっかり……」
闇雲な抗いの言葉だけが口から突いて出る。
「ふざけたつもりはない」
「そんなこと」
そのとき初めて、自分の姿に気が付く。
コートの下は、男に抱かれた直後の――なかば透き通った下着が見え隠れする姿のままだった。呆然と、無惨に引き裂かれた花嫁衣装の切れ端に見入る。
こぼれ落ちる血の色。
ゆらめく月の影。
鈍くうずく痛みの記憶が身体の奥に甦った。
ふいにチェシーの視線が恐ろしくなって、ニコルは両腕で自分の身体を抱き込んだ。
「……できるわけが……ないんだ……」
「まあ、聞け」
チェシーはなぜかニコルに近づいてこようとはしなかった。ニコルが望めばいつでも逃げられるようにか、たちまちには手の届かない位置に立ち、そのうえ、わざと視線をそらして突っ立っている。
「実は昨日、忍び込む窓を間違えてしまってね」
チェシーは何とはなしに夜景を見やりながら話し始めた。
「情熱的な愛の告白とともに花嫁を強奪してゆくつもりだったんだが間違って花婿気取りの男の居室に侵入してしまってだな。あやうくそっちをかっさらってしまうところだった。いやはや、本気でそんなへまをしたらサリスヴァール家末代までの恥」
「……」
「よって相談の上、今夜再決行、ということに相成った」
「嘘だ」
ニコルは手元の地面を拳で叩きつけた。
「嘘じゃない」
「じゃあ、どうしてザフエルさんを」
「あの男がそんなに簡単にくたばるはずがなかろう」
チェシーは苦笑いした。
「地下聖域が崩壊してからも、さんざん黒炎のカードで執念深く追撃してくれたじゃないか。気が付かなかったのか。あれは殺しても死ぬようなタマじゃない。奴ならすぐにここを嗅ぎつける。おそらくは、排他思想に凝り固まった横柄な神殿騎士どもをうじゃうじゃと引き連れてね。脱走した君を捕らえ魔女狩りの生贄に祭り上げるために」
ニコルは声を呑んだ。ふるえる拳を握りしめる。
「だ、だからって」
「奴は生きてる。それだけは私が保証しよう」
ふと、チェシーは声音の量を落とした。
「前に君は言ったな。なぜ、信じてくれと言わないのかと」
低い声が心を揺さぶる。
「今ならいくらでも言えるんだがな」
「……嘘つき！」
唐突に震え声がこみ上げた。土に爪を立て、掻き傷を付けるようにして握りしめる。
何もかもが許せなかった。いつもチェシーはこうだ。素知らぬ顔で優しくして、嘘ばかり並べ立てて、心の奥底にまで土足で踏み込んできて。そのくせどうしようもなく気持ちをかき乱してゆく。思いを断ちきることもできないぐらい、そこにいるだけでいろいろなことを思い出させ、過去の笑顔を忘れようと思えば思うほど、苦しくて、つらくて、胸がつぶれそうになる。
耐えきれなかった。今さら信じることなどできるはずがない。
涙が頬をつたい、こぼれ落ちる。
そうじゃない。行き違う心が相反する思いに悲鳴を上げる。信じたい。信じたかった。ずっとそう願ってきたのに、なのに、どうしても信じられない。信じるのが、怖い――
チェシーの気配が近づく。静かな暗い影が、風に揺れている。
「ずっと、君の力になれればいいと」
「遅い。今さら何を言っても、もう遅いんだ。あなたが、あんな事さえしなければ」
逆恨みだと分かっていた。
だが、心が。
今にも、張り裂けそうに揺れ動いて。
「恨むなら恨んでくれて構わない」
チェシーはニコルを見下ろした。闇に沈んだその表情は、陰になっていて定かには見えない。
「だが、君が望むと望まぬとに関わらず、私は君をローゼンクロイツの支配下から引き離す。奪ってゆく。何度でも奪ってみせる。たとえ悪魔の力を借りてでも、誰の支配も受けぬ彼方の地へ君を連れて行く」
「だ、誰があなたなんかと」
ニコルは心にもなくかぶりを振った。声が惨めにも悲痛に裏返る。
「どうしてもか」
「もう、遅いんだ」
ニコルは握り取った手元の土くれをチェシーめがけて投げつけた。チェシーは避けもしなかった。胸に当たった土がぼろぼろと足元に撒き散らされる。
「僕は、ウィルドの運命に従う。ザフエルさんからハガラズの福音を奪った罪を、ウィルドたる僕の命で贖う。真の守護騎士たる誉れを、永遠の従属を、あのひとに捧げる……そうすれば償える。終われるんだ。もう、二度と、母さまと同じ罪を誰かに負わせたくない……！」
「君の心を踏みにじって」
するどい声で遮られる。
「君という存在を否定して、それであの男が満たされるとでも思ってるのか」
「じゃあ、他にどうしろって」
ニコルは頑なにかぶりを振ろうとした。座り込んだまま、駄々をこねる子どものようにいやいやと冷たい髪を乱してうめく。
チェシーはゆっくりと身を屈め、傍らに膝をついた。濡れたニコルの頬を手で挟んで、上向かせる。
ニコルは弱々しく抗った。チェシーのまなざしが近い。
「い、いや……なにするの……」
手を振り払おうとして抗えず、そのまま、喘ぐ。
「君が望むのは――絶望のルーンか」
未来を見透かしたかのような寒々とした声に、ニコルは思わずぞくりと震えた。虚無の見せる暗黒の幻影が脳裏をよぎる。
「絶望なんかじゃ……」
かろうじて反駁のうめきをもらす。チェシーはふと視線をそらした。ベルトにつけた雑嚢袋の中を手だけで探り、何かを取り出す。
「見せたいものがある」
掴みだしたのは、なめらかな天鵞絨で幾重にも包まれた塊だった。チェシーはニコルの目の前でゆっくりと包み布をほどいてゆく。
ニコルは息を呑んだ。布の隙間から薄氷色の光が帯状に細く走り出る。
「それは」
ゆらめく光があふれ出た。チェシーの掌に、薄青い明滅を放つルーンが収まっている。
「……どうして」
あり得ない光が目の前にあった。失ったはずの光が。悲しみの在処をその穏やかな光で照らし、導き、ゆるし、癒やす光が。マイヤの願い、マイヤの魂そのものの輝きが、ナウシズの中に戻っている――
「きっと、誰よりも君を護りたいと願っていたのだろうな」
チェシーの声に呼応するかのように、ナウシズがきらりとつややかに光った。
「この思いを君は消そうとしている」
光が、翳る。チェシーはナウシズを強く握りしめた。力を入れる。
ニコルは身体をこわばらせた。
「やめて」
チェシーはますますナウシズを握りつぶそうとする力を強めた。
「シスター・マイヤは君を護るために火刑で死んだと言ったな。想いを残し、君を残し、それでも死を選ぶほか無かった。さぞや無念だったことだろう、その思いを、命より死を望まれる聖女の定めから解き放たれ自由の身になることだけを願っていた女の思いを振りすて、ローゼンクロイツの支配下で心を失うことが君の望みか。死をもって虚無のルーンと成し、心を破壊する道具となって、永遠に虚無の闇に身を浸し、誰を護るためでもなく戦争と殺戮を繰り返すことが、君の望みなのか」
「ち……違う……」
チェシーはナウシズを掴む手をふいに頭上高く振り上げた。地面に叩きつけようとする。
「やめて。壊さないで」
ニコルは手を伸ばした。必死に止めようとチェシーに取りすがる。
「おねがい」
青い炎のようなチェシーの瞳が、強い決意を秘めてニコルを見下ろしていた。押し殺した声が聞こえた。
「繰り返すぞ。もし、これが君の願いなら、私は今すぐこの場を去る」
どこか遠くで、騒然と神殿騎士たちが叫び交わしていた。さながら伝説の九頭蛇がのたうつかのように、甲高い轟音の尾を引く花火が次々と打ちあげられてゆく。そこかしこで火花散る花火が炸裂していた。
こうも派手に大騒動を起こしておきながら平然と逃げ回り続けているのはどうせ毎度の如くアンドレーエの仕業に違いなかった。できるだけ神殿騎士たちの注意を引きつけておいてから姿を隠す算段なのだろう。
まるで盛大な火祭りのようだった。また陽動の花火が上がる。赤く青く、冗談めかして弾ける閃光弾が夜空をいろどった。
「違う」
涙でにじむ花火を見上げながら、ニコルは力なくかぶりを振る。
「違う……！」
「だったら戦え」
チェシーは思いの全てを込めたまなざしで、ニコルを見つめた。
「抗え。声を上げろ。運命だなどと言って簡単にあきらめるな。今は私など信じなくても良い。敵のままだと思ってくれていて構わない。その代わり、自分を信じて戦い続けろ。君の中の虚無と戦え。君が望む未来のために」
チェシーの手がぐいと肩を掴む。その力強さにニコルは惹かれ、よろめいた。
「ローゼンクロイツの定めた運命とやらに従い、ただ己の苦しみのみを募らせながら抗いもせず、すべてを呪う永遠の闇に呑み込まれるか。自らの良心にのみ従い、横暴な運命にあらがい、己が人生を、光を、自らの手で選び取って生きるか。君が、決めるんだ」
声を呑む。ニコルはぎごちなくチェシーを見上げようとしてできず、また目を伏せ、ためらった。
「そんなの、無理です……できない……」
ぎゅ、と逡巡の手を握り込む。
「君ならできる」
チェシーの断固とした声が降る。ニコルは身をすくませた。目を背けるかのようにかぶりを振る。
「できるわけないんだ……聖ローゼンクロイツの教えに逆らって、みんなに迷惑かけて、虚無におびえて、苦しんで、ザフエルさんまで裏切って……そんなことして……許されるわけが……」
チェシーはゆっくりとニコルの手を取り、掌を開かせた。
「受け取れ」
ナウシズの輝きをそっと握らせ、ニコルの手ごと、ぐっと包み込む。
ナウシズは懐かしい明滅を放ってすぐにニコルの手になじんだ。母性にも似た、慈しみの感触が伝わってくる。
「あ……」
ニコルは、ふるえる手の中でかすかにゆらめくナウシズを見つめた。
「じゃあ、どうして、あんな、寝返るような真似をしたんです。最初から敵と分かっていれば、あ、あなたなんか……好きになったりしなかったのに……」
「敵だったんだ」
チェシーは低くつぶやいた。
「本当に敵だった。でも、今は違う」
「馬鹿！ 嘘つき！ 裏切り者……！」
「ああ、全部認める。私は馬鹿だ」
「分からない。チェシーさんの言ってることが、僕にはぜんぜん分からない。本当のチェシーさんはどっちなんですか」
ニコルはチェシーの手を振り払った。
「僕にはあなたを信じろと言い、なのに自分は敵だったと言う。今さらそんなこと言われたってどうしようもないのに、どうしたらいいかも分からないのに、何で……！」
「分かってる。君の言うとおりだ。謝る」
チェシーは、自らの心の中の真実を追い求めるかのようにいったん言葉を切った。
「私はふたつの過ちを犯した。一つはゾディアックの皇子として密命を帯び君に近づきながらレイディに、君に心を奪われたこと。あと一つは……その君を苦しめたことだ。だが、確かなことが一つだけある」
ほんの一瞬、遠い目で過去を振り返る。チェシーは顔を上げた。
「たとえ国を捨ててでも君を護ると決めた気持ちには微塵の嘘もない。もし、本当の自分などというものがあるとしたら、それは君と共にありたいと願う、今の、この私自身だ」
きらめくまなざしが、食い入るようにニコルを見つめていた。どこまでも透き通る、あの青い瞳で。
……心臓が、止まりそうだった。
「チェシーさん」
声が、かすれる。
「何だ」
「あ、あの」
「うん？」
頑なに閉じこもろうとしていた心の壁が、雪解け水のようにあたたかく溶かされてゆく。代わりに別の何かがゆるやかに心を満たしていった。言葉では上手く言い表せないものが、胸いっぱいにこみ上げ、広がってゆく。
滲む涙をこらえ、ニコルはもう一度、手の中のナウシズをぎゅっと握りしめた。唇を噛みしめる。ナウシズが穏やかに反応した。きらりと瞬く。
「ぼ、僕……」
ニコルは口ごもった。喉が熱い。
「自分が……自分でなくなるのが、怖くて……耐えきれなかった……」
言葉がしゃくり上げる涙混じりの呻きに混じって、たどたどしくつっかえる。チェシーはニコルを身体ごと胸に引き寄せた。静かに頭を傾けさせる。
「分かってる」
低い声がそっと耳朶に触れる。
ニコルはチェシーの胸に顔を埋めた。心の奥底を吐き絞るようにして呻く。
「虚無になんか……もう、二度と支配されたくない……！」
涙がこぼれ落ちた。また声が詰まる。
「その言葉が聞きたかった」
チェシーはそっとニコルの髪に触れた。何度も、愛おしむように優しく手を滑らせる。
「安心しろ。もう、大丈夫だ」
涙に濡れた髪をそっとかきあげ、頬に指を添わせて、伏せた顔を上げさせる。
「我々がいる」
「え……？」
ニコルはチェシーの優しすぎる指使いに思わずうろたえた。驚くほど近くにチェシーの笑顔が迫っている。
「わ……我々って誰」
目元、濡れた頬、おとがい、唇と優しく触れられるたびに心臓が痛いぐらい跳ね上がった。
「我々は我々だ。決まってるだろう」
吐息が耳元に触れる。チェシーの金髪がくすぐるように降りかかって、揺れた。
「君を虚無から護る守護騎士その一とその二だ」
ニコルはどきりとして眼を瞠った。
「で、でも……ザフエルさんは」
「なに、ガタガタ言うようなら今度は君が奴の横っ面を張りとばして目を覚まさせてやればいい。何なら今からもう一発粛正がてら殴りに行ってやっても良いぞ。奴ならもう分かってるはずだ。ホーラダインも私も、自らの良心と信念にのみ忠誠を誓う騎士、ともに自分の信ずる道のために戦うことこそを是とする、同じ志を持つ騎士だということを忘れるな」
チェシーはかすかに笑うと、ニコルの手を取った。
「そういうことだ。分かってくれたか」
ゆっくりと手を引いて、立ち上がらせる。
ニコルは息をついた。思わず苦笑いが洩れる。
「みんな、意地悪すぎます……」
泣き笑い、後退りながらチェシーを睨み付けようとして、うまく歩けずにつまづき、よろめく。すかさずチェシーが腕を差し入れてニコルを抱きとめた。
が、チェシーはなぜか微妙に顔をこわばらせた。
「え？」
「いや」
ぎごちなく眼をそらす。
「な、何なんですか……？」
「……と言いたいが、いくらその何だ、君がレイディじゃなくて君本人だと思おうとしても、その格好はさすがにどきどきしてかなわん……本当に、男じゃなかったんだな、と」
「だっ、だったらわざわざ見ないで下さいよ！ って、うわっ」
ニコルもまた視線を下へと移し、その途端、眼に飛び込んできた肌色に仰天して、何とか胸元をかき合わせようと必死になってあわてふためいた。
「ああっ何これ、襟がカパカパじゃないですか、うわわわ、ぼ、ボタンどこ……！」
「今ごろ気付いたのか。気にするな。どうせチラ見したところで大したものが見えるわけでなし」
「ばかあっ！」
ニコルはあまりの恥ずかしさに顔全体を真っ赤っ赤な鉄板みたいに染めながらチェシーを突き飛ばした。べしべしとそこらじゅうを引っぱたいて回る。
「この期に及んでそんなこと言うなんて、この人でなし！」
「すまない。嘘を言った。正直に言おう、本当はもっと見たい……」
「そっちのほうがよっぽどひどいじゃないですかっ！ いい加減にして下さいよ今どんな状況か分かってるんですか……」
あまりのわざとらしさにあきれ果て、笑いながらもニコルはぽろぽろと泣き出した。
「もう、絶対こんなのあり得ない……えっち！ おたんこなす！ 二枚舌！ チェシーさんなんて、もう、大っっっ嫌い……！」
チェシーはどこ吹く風だった。悪魔めいた口振りでほくそ笑んでいる
「全部本気なんだが。信じてもらえないとは全く嘆かわしい限りだよ、レディ・サリスヴァール」
「は、はあっ……！？ だ、誰がレディ……！」
「静かに。気付かれるぞ」
チェシーはふいに険しい顔を作り、指を立ててニコルの唇を塞いだ。半ば覆い被さるようにして身を隠す振りをする。ニコルは、チェシーの腕の中でまた動けなくなって、じたばたともがいた。
「気付かれるって、だ、誰もいないじゃないですか」
「誰かに見られたいのか？」
「い、いや、それは……そうじゃないですけど……！」
「だったら抵抗は止すんだ」
「あ、えっ……ま、待って、あ、あ、あの、いや……そ、それどころじゃ……！」
「ふん、聞こえないね。いいか、覚えておけよ。私は自分に都合の悪そうなことはこれっぽちも聞かない主義だ。その上ワガママで亭主関白で自分の女にはからきし頭の上がらない男と来た」
言ってから、チェシーはまた、ニヤリと笑った。
「覚悟しておけよ」
相変わらずやたら意地悪な、皮肉めいた微笑み。
ニコルは、チェシーの腕の中から、その悪戯っぽい表情を見上げた。
懐かしい笑顔だった。懐かしすぎて、泣き出しそうだった。
ずっと、思っていた。いつかこんな日が本当に来たらいいのに、と。死と絶望と罪の記憶を心の奥底にひた隠して、笑って。かりそめの名を名乗り、皆を欺き、本当の自分を忘れようとしてきた。自らの裡に潜む、触れてはならぬ領域に抗うことすら、怖くてできなかった。いつか心から笑える日が来たらと――願いながら、たったそれだけのことが叶わなかった。
”外の世界”を知らなかった囚われの聖女、母レイリカが罪を新たな命に負わせ生み出すことでしか手に入れられなかった、死という名の自由。マイヤの死と引き替えることによってでしか保つことのできなかった、生という名の、絶望。穢れた血統。罪深い血の結晶、ウィルド。
闇を通して見る現実は、偽り。すべては見果てぬ夢、かりそめの平穏でしかない、と思い込んでいた。
恋すること、夢見ることすら、ゆるされぬ禁忌だと思い込んでいた。
本当は、生きていては、いけなかったのではないかと――思い込んでいた。
でも、今は。
一瞬、チェシーの胸に頭をもたせかけ、詰めていた息を安堵まじりにほうっとつく。白い吐息がふくらんだ。
ニコルは長い間失って久しかった雨上がりの虹のような笑顔をようやく浮かべ、チェシーを見上げた。
「チェシーさん」
ぐすっとしゃくり上げて、流れた涙のあとを恥ずかしげに袖でごしごしとこする。そうしてから笑って、また泣きそうになって。
あわてておずおずと切り出す。
「そ、そういうことならひとつだけお願いがあります」
チェシーは眉をぴくりと吊り上げた。笑みが深まる。
「ちょうど良かった。私もひとつ君に頼みたいことがあったんだ」
ニコルはきょとんとし、眼をぱちくりさせた。
「……頼み事って？」
「君が先に言え」
「え、いや、その、いいです」
さすがにすこし恥ずかしくなって、もじもじと口ごもる。
「チェシーさんからどうぞ」
チェシーはやや興醒めした顔をして首を振る。
「君が言い出したことだぞ。君から言え」
「そんな、僕は後でいいです」
「遠慮するなよ」
「遠慮なんかしてませんって。チェシーさんに先に言ってくださいって言ってるだけじゃないですか」
「何だと」
チェシーはむすりと遮った。
「頼み事があるなら言えと言ってるだけだ。何で言わない。いいから正直に言えよ。気になるだろ、さっさと言わないと」
「何ですその言い方」
売り言葉に買い言葉。だんだんむかっ腹が立ってくる。
「だから僕のことは後でいいって言ってるじゃないですか。せっかく順番を譲ってあげてるのに、そっちこそ何で意地張って言わないんですか」
「意地っ張りはどっちだ。泣き虫のくせに」
「何ですって」
完全にかちんと来る。
「だれがいつ泣き虫になりましたか！」
ニコルは頬を膨らませ、つんけんとチェシーを睨みつけた。
「チェシーさんこそ自分のこと棚に上げまくってワガママ言いたい放題じゃないですか！」
「ああ、分かったよ」
チェシーはついにがらりと態度を変えた。顎をそらし、傲岸極まりない態度でニコルを見下ろしながら、因縁を付けるかのように凄んでくる。
「先に言えばいいんだろう。君がそこまで言うなら先に言ってやる。いいのか。ホントに言うぞ」
「えっ」
「……君が言ったんだからな？」
「へ……？」
チェシーの指先が、ニコルの顎にかるく触れた。
「ぁっ……」
「今さら、後にしてくれとか言うんじゃないぞ」
「え、ええっ……！？」
チェシーは、ゆっくりと身をかがめた。
「いいか、動くな」
「……あっ、たっ……ちょっ……と待って……！」
「聞いてない」
両手で頬を包まれ、上向かされて。
気が付いたときには、チェシーの腕の中だった。
「あっ、あれっ？」
優しすぎる手が頬を包んだ。指先が髪に差し入れられ、首筋までそろそろと撫で下ろされる。心地良い感触が背筋に走った。
「……あっ……」
「レイディ」
「あ、わ、わわわ……！」
情けないぐらいあっけなく、甘い吐息の罠に落ちて引き寄せられる。チェシーの声が耳元に忍び込んだ。
「私の頼みは、抵抗するなよ、ってことだ」
「うっ……！」
意地悪な唇が耳朶をまさぐる。身体が震えた。視界がチェシーで覆い尽くされてゆく。
「ぁっ……嘘……そんなの……聞いてないです……」
くつくつとからかうような笑い声が聞こえた。
「ま、待って……や、やっぱり後で、……うぅっ……」
「駄目だ」
そんなときだけやたらきっぱりとチェシーは拒絶する。
「君が自分でそう言ったんだからな」
「でも今はそんな場合じゃ……ぁっ……！」
まとわりつく髪が胸元をくすぐった。意地悪な唇が喉元に触れては離れ、かすめてはまた、涙の跡をついばむように目元に降る。
「ぁ、やあっ……」
「それから、もう一回好きって言え。あれは、ちょっとかなり嬉しかったぞ」
「ぇっ……」
ニコルは、息を乱しながらもぎょっとして身体をこわばらせた。
「そんなこと言ってないですよ……？」
「いや、言った」
「言ってな……！」
「言ったと言ったら言ったんだ」
チェシーは駄々をこねるかのように言い切る。
「でももう一回、ちゃんと君の口から聞きたいから言ってくれって言ってるだけだ。ほら、言え。言えと言ったら言え」
「は、はあっ……！？」
凶悪なまでの微笑みが、ぐいと近づく。
「言わないと、もっととんでもないことを、今、ここで強要してしまうぞ……良いのか？」
「ぁ、あっ……ちょ……そんな……うううう！！」
意地悪すぎる指先に唇や耳朶をちろちろともてあそばれ、ついにニコルは堪えきれなくなって眼をつむり、真っ赤な顔でぶるぶると震え出した。身体のどこにも力が入らないのに、頬だけが馬鹿みたいに火照って、声も出なくなって、その上、頭の中の熱と息ばっかりが情けなくも上がってゆく。
「だから、こんな時にそんなこと突然言われても……ちょ、ちょ、ちょっと……！」
「好きだと言ってくれないなら、もう君を連れて行かない」
「はあっ！？」
ニコルは、吸い込んだ息を、ひくっ、と呑み込んで、止めた。
「いきなり子どもっぽいこと言わないで下さいよ……」
「私はワガママなんだ。さあ、言え」
チェシーは堂々と開き直って言った。にやにやと迫ってくる。
「……言えっていわれたら何か絶対言いたくないんですけど」
「……言いたくないなんて言われたら何か絶対に言わせたくなるんだが」
チェシーは如才なく笑った。ふいにその表情が変わって、いきなり覆い被さって唇を重ねようとしてくる。
「ぅっ……！」
今にも、触れようとした、瞬間。
チェシーはひどく意地悪な笑いを浮かべて、寸前でキスをやめた。
「う！」
眼も開けられない。開けてしまえば目の前にチェシーが見えてしまうのは分かっているわけで――というか眼なんか開けなくてもチェシーの存在がまざまざと重く強くのしかかっていて、今にも、その、いや、少しでも声を出して喋ろうものなら、ふ、ふ、触れ――
「言わないなら、キスしない」
「うむむむううううう……んっ……！」
頭の中が、まるで火に掛けすぎたケトルみたいに、ぴいいいいいいい……！ ととんでもない噴出音を立てて跳ね上がっていた。みるみる顎の先から耳の端まで、顔全体が真っ赤っ赤に染め上がってゆく。
「こっ、この期に及んでそこまで言いますか……！」
「言うさ。悪魔と呼んでくれ。こんな優しい悪魔は他にいないぞ」
「チェシーさ……あ、あの……」
声が、途中で、ふさがれる。
愛おしくも強く抱かれ、どれほど求めてもまだ求め足りぬとでも言うかのように、深く、時に激しく、時に甘やかに、何度も何度も、それはまるで夢のようにいつまでも繰り返されて、ずっと――
ニコルは、呆然と眼を瞬かせた。
「ま……まだ、好きって言ってない……」
「すまん、我慢できなかった」
チェシーは肩をすくめ、しれっと笑った。相好を崩して、片目をつぶる。
「ずっと、こうやって君に触れたいと思っていた。君の、本当の笑顔が見たかった。心から、君を愛してると言いたかった。それが、私の願いだ」
おだやかなチェシーの言葉が、驚くほど素直に心へと染み入ってくる。
ニコルはあやされる赤子のように、そっと眼を瞑った。微笑みとためいきがこぼれる。
チェシーの腕がまた、ゆるやかにニコルを抱いた。
「君が望めば――虚無《ウイルド》は、その名の通り存在しないルーンになる。もし君がまたウィルドの力に苦しむ時が来たら、その時は、私がその痛みを取り除いてやる。私に出来ないときはホーラダインの首の根を引っ掴んででも連れてきて何とかさせる。何度でも君の心が戻ってくるまで話しかけてやる。君が、かつて私の魂をあの馬鹿悪魔の支配から取り返してくれたようにだ。君ならできる。君を信じてる。だから、君も、自分を信じろ」
「……うん」
心の奥底がふいに強く揺り動かされる。ナウシズの光に照らされ、染め上げられ、何もかもが透き通ってゆくかのようだった。
チェシーを信じ、自分を信じ――そのまっすぐな思いのままに、生きてゆくことができたら。
「いや、ウイルドだけじゃない。すべてのルーンを、聖女を、守護騎士とやらを、戦いに囚われた悪夢から覚まさせてやるというのはどうだ。とりあえずルーンの守護騎士とやらを戦争に引っ張り出させないように。そうだな、とりあえず守護騎士連中の説得からやってみようじゃないか。奴らが軍属を拒否したらティセニアが滅ぶかもしれんが……いや、それはまずいな。ついでにブランウェンも説得しておくか。アルトゥーリはルーン使いじゃないが……うむ、これは考えるより行動したほうが早い。どうだ、私と一緒に来るか」
ニコルはチェシーを見上げる。チェシーの表情はあらたに見いだした目標への道筋を遙かに思い描くかのように、あかるく輝いていた。
「チェシーさん」
まぶしい笑顔が降り注いでいる。
「君の意見を聞こう。どうだ、私のこの素晴らしい世界改造計画は」
さすがにこの大言壮語を真に受けるにはすこし青臭すぎるし、気恥ずかしい。だが、チェシーが実現可能だと信じているのならきっと成し遂げられるだろう。
「そんな無謀な話、実現できると本気で考えてるんですか……？」
「そうか？」
チェシーはわざと聞き返しながら、たわいなく笑って答えない。
ニコルはこの上もない微笑みを浮かべた。何にせよ、チェシーの考えそうなことだ。できない、と思うなら思えばいい。
でも、そうは思わないから。
それがチェシーの本心だと、信じられるから。
「ありがと、チェシーさん」
そこで互いに眼を合わせ、微笑みを交わし、それぞれの仕草が逐一同じであることがやたらおかしくなって、くすっと笑い合う。
「僕も、貴方を信じます」
チェシーはふいに荒々しくうなずき、笑った。
「ありがとう、勇ましい私のレイディ」
また身をかがめてニコルの頬に唇を寄せ、愛おしくキスしようとする。ニコルはそれをさえぎって、よろめく足をぴんと伸ばし、精一杯爪先を伸ばして、チェシーの頬に自ら手を伸ばそうとした。
「届かない。もう、チェシーさんは、背が高すぎるんですよ」
「君が小さすぎるんだ」
「これでも背が高い方ですって！」
「仕方ないな、どうぞ、お手を」
ニコルはかぶりを振った。萎えきってまともに立つことすらできなかった足に、力が戻っている。
「僕はもう、囚われの聖女じゃない。一人で歩けます」
チェシーに支えられながら、ふらつく足を、再び前進するための第一歩をゆっくりと踏み出してみる。
冷たく濡れた草に、大地に、素足が触れる。
地面から、つめたさが。
触れる草から、命の息吹が伝わった。ニコルは眼を閉じた。虚無の罠に囚われていた自分自身の檻が、さあっと吹き抜ける夜風のように同心円状の波紋を描いて消失してゆく。
踏みしめる足元から、薔薇のちいさな葉が芽吹きいずる。若草の緑が萌え、風になびいて、夜に命の喜びの点描色を差した。
それはもう、墓標にまとわりつく枯れ果てた死の薔薇ではなく、野に咲くちいさな薔薇、薫り高い緑、力いっぱい明日に向かって芽吹き、伸びゆこうとするあらたな思いの生まれ変わりだった。
大きすぎるぶかぶかの軍服から、ほっそりと若竹のような素足が伸びる。
「良かった、歩けるじゃないか」
チェシーは隻眼を細めて笑った。
「私を信じると言ってくれたその心に、今こそ、我が剣と我が全霊をかけて忠誠を誓おう。私も君も、運命に背を向けて逃げる逃亡者じゃない。自由への亡命者《エグザイル》だ。戦に身を投じた我が身のあやまちを正し、君を支え、護り、共に戦うために、今こそ喜んで軍を棄てよう」
「チェシーさん……」
「君が、敵でいてくれて、良かった」
ニコルは、こくりとうなずいた。
「……はい」
「たとえ敵であっても、時が来ればいつかは互いに手を差し伸べ、共に歩み出すことができると……愛することもできると分かって、本当に良かった」
「……はい」
「さてと」
チェシーはそこでニヤリとまた笑って首を振り、肩をほぐしながら四方を見渡した。いつの間にか花火が大分遠くへと移動している。無数の松明がそこかしこを走っているのが垣間見えた。
「さすがに陽動だと気付かれたらしい。こっちも急ぐとするか」
「え、アンドレーエさんたち、大丈夫でしょうか」
「あいつらが捕まるのはティセニアが滅ぶ時ぐらいだぞ、ホーラダインが笑うのと同じぐらいあり得ない」
「……何か調子に乗って好き放題言ってる気が」
「好き放題でも事実は事実だ。あいつが笑ってる顔を見たことがあるのか」
「え、ええっそんな、ザフエルさんでしょ、あるに決まっ……」
てる、と続けようとして、ニコルはついうっかり衝撃的な事実に思い当たり、黙り込んだ。
「どうしましょう……ありませんでした」
「ほうら見ろ」
チェシーはやたら勝ち誇ったように肩をそびやかせる。
「そろそろ逃げるぞ。どうせホーラダインも簡単には見逃してくれないだろうしな。せいぜいおちょくって遊んでやるとしよう。これから忙しくなるぞ。楽しみだなあ、おい！」
ニコルは少しいたたまれない心向きになって口ごもった。
「ザフエルさん……怒ったりしてないかな」
チェシーは苦々しく首を振る。
「いや、むしろそういう大義名分ができたら、大喜びで君の尻を追いかけ回し始めると思うぞ」
「え……そ、それはちょっとさすがに怖いです」
「ううむ」
チェシーは腕を組んで難しい表情をした。
「そうだな、よくよく考えれば物騒な話だ、奴に追われて無事に済むとは思えん」
「そうですね……」
ニコルはしょんぼりと肩を落とす。
「どうしよう。次逢ったら謝らなくちゃ……」
「謝るも何も、いわゆる結婚式の前夜に花嫁を強奪されるようなものだからな。私だったら衝撃が大きすぎてしばらく立ち直れない」
ニコルは手を揉みあわせ、目を見開いておろおろと立ちつくした。
「う、うわっそれは極悪非道としか。……ど、どうしよう、チェシーさんについていくの止めようかな」
「何をいまさら」
ニコルがためらっていると、今度はチェシーがあからさまに不機嫌な顔をして文句を言い始めた。
「もしかして君、私を見捨てる気か。くそっ、そんなことは絶対に許さん。よかろう、何があっても絶対に君を強奪してやる。よし、来い！」
「……大人げない事を」
「言い得て妙だ。ま、とにかく行こう。アンドレーエとも合流せねばならん。神殿の奴らに気付かれたら面倒だ」
「うん……ありがとう、チェシーさん。本当に」
「行こう」
チェシーの手が差し伸べられる。ニコルは、ためらわずにその手を取った。
一瞬、ナウシズのルーンが月に抱かれ、さらさらと流れる星砂のきらめきを放つ。チェシーがぐっと手を握り返した。
青く透き通る瞳が、ニコルの薔薇の瞳を映し、揺れて、力づけるように細められる。
いつだったか、こんなこともあったような気がする。
自分ではない、偽りのニコラとして出会った日。
真夏の夜の夢のような、あの、夜。
あのときも、こんなふうにしてチェシーは外の世界へと連れ出してくれた――
思い出しただけでまた嬉しくなって、ニコルは笑いながらちょっとしゃくり上げた。
「ごめんなさい。ちょっと、待ってて」
どうしようもなく、ぐすぐすこみ上げてくる気持ちをしゃくり上げながら、何とかしようともじもじとポケットを探って何かを探す。
「また泣いてるのか。本当に泣き虫だな」
「だ……だって、あんまり……チェシーさんが優しいこと言うから……」
「もう、泣くのは止せ。泣くことないだろ」
「う、うん」
チェシーは苦笑混じりに屈み込んだ。甘いキスで涙を拭く。
「馬鹿だな、君は」
また腰砕けに抱かれそうになって、ニコルは声を詰まらせた。
「やっ……は、恥ずかしいから……」
優しいキスの雨を何とかして避けようと、真っ赤にした顔でおろおろとあわてふためく。
「だ、だからそういう……どきどきするような事しないで……」
「ほう、鈍い君もやっと私にときめいてくれるようになったのか」
「そ、そんなことあるわけないでしょっ……！」
チェシーは唇を真一文字に引き結んで、じろりとニコルを見下ろした。
「あっ……あっ、そうじゃなくて」
ニコルは目を瞑り、顔をくしゃくしゃにしてぶるぶると頭を振った。
「ちっ、違います、本気で言ったわけじゃ！」
そうと聞いてチェシーは酷く悪辣な表情でニヤリと笑った。
「口ではそう言ってても身体は正直だな……ちょっと、嗜虐心がそそられたぞ」
「うわああああ！」
夜の動物園。
ふいにそんな言葉が脳裏をかすめる。昼はおとなしい顔をしていた野獣が、夜闇に紛れて牙を剥く。
ニコルは頭を抱えたくなった。
「チェシーさんの、馬鹿あっ……！」
「いやいや、本気で可愛い、と思ってるんだぞ。これでも」
「絶対嘘だ……あうううう！」
と、その時、背後の城から一斉に鬨の声が上がった。
「侵入者だ！ 聖女が奪われたぞ！ 追え！」
「追え！」
「まだ遠くには逃げていないはずだ！」
騒然と怒鳴り声が湧き上がる。あちこち探し回っているらしい神殿騎士たちの立てる物音が夜をせわしなく駆け回った。松明の火が四方八方へと散ってゆく。
さくり、と。背後から地面を踏む音が聞こえた。
灯りもなく。気配すら、感じさせずに。
「閣下」
ザフエルの穏やかな声が、闇から発せられる。相変わらず何の抑揚もなく、裡に秘めた感情すら窺わせない、四角四面ないつも通りの――
ニコルは凄い勢いで振り返った。
「ザフエルさん！」
だがどれほど探してもザフエルの姿は見当たらない。声だけがひそやかに反響し、伝わってくる。
「どっ、どこにいるんですか、ザフエルさん！」
「……第五師団も、アーテュラス家も。残される者のことはどうかご心配なく。貴女以外のすべては、わが身命に代えて御護り申し上げます。心置きなく何処なりとも逃げて行かれませ」
「ザフエルさん」
ニコルは思わず声を無くし、立ちつくした。ぎゅっと眼を閉じ、思わずあふれる涙の導くがままに走り出す。
闇の向こうに、驚いた顔のザフエルが潜み立っていた。
「閣下」
「ザフエルさん！」
見つけ出すなり、子犬のように駆け寄ってザフエルに飛びつく。
「ザフエルさん良かったザフエルさんザあああって、うわ！」
思い切りけつまずき、つんのめって転びそうになる。ザフエルは風一つ起こさずに移動してしっかりとニコルを支えた。
「なぜ毎回転ぶと分かっていて走るのです」
「あ、ありがとごめんなさいザフエルさん、ううっ、僕、あの、あのね、ザフエルさんにですね、ホント、ご、ごめいわくかけ、うっ、うっ、うううう……！」
ニコルはザフエルの首にかじりついた。ろくに話も出来ないまま、胸に顔を埋めて子供のようにうわんうわん泣く。ザフエルはかぶりを振った。
「いえ、責められるべきはむしろ私の方です」
「うううん、ザフエルさん……僕、ホントに、僕……ザフエルさんに……！」
「閣下」
ザフエルはそっとニコルの肩に手を置いて、引き離した。
「良いから落ち着いて私の話をお聞きなさい」
「う、う、はい……何なりと……」
「この次会うときは、もう、今までの私ではありません」
「……え……？」
ザフエルの表情は変わらない。
「聖ローゼンクロイツの高等異端審問武官として、国を売った背教者シスター・ニコラと悪魔の紋章の使い手サリスヴァールを断罪し処刑し、聖ローゼンの威光をあまねくすべてに取り戻さねばなりません」
「……は、はい」
漆黒の瞳が、ゆるやかに光った。
「どうか、お覚悟を」
「……う、うん……分かってる……ごめんなさい……！」
「ですが」
口元がふと、柔和なかたちにゆるむ。
「どうか、この誓いだけはお忘れなきよう」
ザフエルはおもむろにニコルの前で膝を折り、ぬかずいた。ふわりと法衣の裾がたなびく。
「我が命、我が剣、我が思いのすべてを、ただ御身にこそ祈り捧げたてまつる。我が主にして妹、シスター・ニコラ――貴女に、永遠の忠誠を」
貴族的な所作で手を取り、ゆっくりと口づける。ニコルは優雅なその仕草に眼を閉じ、頷いて、それから気恥ずかしげに笑った。
「はい、永遠に。約束です」
「も、もういいだろう、返せ」
チェシーが焦って駆け寄ってきた。ザフエルの手から思い切りニコルを引ったくるようにして連れ戻す。
「あっ」
「せっかく連れ戻しに来たのに、あんたにそれ以上騎士の忠誠を誓われたら、またぞろ面倒なことになる」
「え、面倒な事って？」
「騎士の誓言を邪魔する輩は馬に蹴られて死んでしまうがいいでしょう」
ザフエルはゆらりと薄暗く立ち上がった。じろりとチェシーを見やる。
「そういうことなら、分かりました。そこの図体ばかりでかい北方の色魔神」
「何だとこの変態聖職者モドキ」
二人の間でばちばちと身も蓋もない火花が散る。また、どうしようもなく険悪な雰囲気が立ちこめ始めた。
ザフエルは腕を組み、チェシーを見やった。
「保護監督責任者兼、閣下の実の兄、として言っておきますが。閣下はまだ私のものですからな」
淡々と言う。
「は！？」
「は？！」
ニコルは眼をすぽぽーん！ とすっ飛ばして身体を硬直させた。
「な、な、何を今さら、あんた」
あまりにも衝撃的すぎる宣告に、チェシーがぐらぐらとよろめく。
「あんた、まだ諦めてないのか……！」
ザフエルは顎をそらした。あからさまに見下げ果てたふうの挑発目線で、チェシーを見やる。
「誰がそのようなことを言いました。聖職者の端くれとして、一族の者と異教徒との交際だけは絶対に認めないと言ったまでのこと」
「はあっ！？」
「良いですか、閣下。何と言われようが不純異性交遊は禁止。護衛かお供の下っ端としてならまあそのでかぶつの同行を許可しますが、それ以外は全て禁止。ましてや婚姻など言語道断」
「はああ！？」
素っ頓狂な呻きを上げるチェシーを、じろっ、と睨んで。
ザフエルは冷ややかに一刀両断した。
「良いですな、閣下。ご返答は」
「は、はい」
「ちょ、ちょっと待てホーラダイン、あんた、なんだその諦めの悪さは……未練にも程があるぞ……それにニコル、君もだ。なぜ毎度のごとく素直に丸め込まれる！」
「あ、そう言えばそうでした」
「撤回しろ！」
「で、でも」
「隠れてイケナイことをしようとしても無駄ですぞ」
ザフエルは無表情に淡々と続けた。
「異端審問武官として、夜ごと地の果てまでも追い回し、つけ回し、いついかなる時であろうともみっちりぴっちりと監視させて頂きますからな。もし、あんなことやそんなことと言った、いかがわしい行為に及ぶようなことあらば即」
ザフエルはふいに暗黒のオーラをむらむらと噴出させながら押し黙った。
表情が暗黒に塗り込められた。妄想渦巻く闇のなか、双眸が底知れぬ深紅の憤怒に光る。
「何という許し難い蛮行であることか」
何やら脳内の妄想劇場にて検閲発禁処分が行われたらしい。ずごごごごごご、と凄まじい鳴動が地面を揺るがせた。
「……その罪、万死に値する……！」
「くっ、冗談じゃない」
チェシーは舌打ちして身をひるがえした。ニコルの首根っこを引っ掴みざま、いきなり何を思ったか遙か下にまで切り立った崖の方向へと走り出す。
「あれは本気だ。こんなのに付き合ってられるか。逃げるぞニコル」
「え、えっ、うわああ何！」
ニコルは風に吹っ飛ばされてゆく洗濯物のように引ッ立てられながら、じたばたとあわてふためいた。
「どっどっどこに向かってるんです！ うわあそっちは崖！！ 崖！ 死んじゃう……いやああああああ！」
「来い、ル・フェ！」
チェシーは夜空に向かって陽気に怒鳴った。口に指をくわえ、甲高く吹き鳴らす。呼子の音が高くするどく響き渡った。
背後から凄まじい羽音が近づいてくる。
かと思った瞬間。漆黒の鷹が猛然と羽ばたきながら目にも止まらぬ速度で真横を飛び過ごした。瞬時に反転し、視界を覆うほどの巨大な影となって舞い降りて来る。
ニコルは引きずられながらも眼を瞠った。鷹の足首に巻かれた伝書筒。第二師団の刻印が打ち込まれたそれは、一目見れば分かるティセニア軍仕様のものだった。間違いない。各地の戦場を股に掛け縦横無尽に飛び回っていたアンドレーエの鷹だ。羽の色は若干変わっているようだが、なぜ、あの鷹がこんなところに。
（飛べ、サリスヴァール）
懐かしい声が響き渡る。ニコルが自分の置かれた状況を察知する間もなく、チェシーは遙かな明日に向かって断崖絶壁から身を躍らせた。
――ニコルを頭から引きずったまま。
「うわあああああああああ……」
号泣の尾を引いて、ニコルはチェシーとともに、めくるめく闇へと落ちてゆく。
遙か眼下に、ツアゼルホーヘンの街の夜景が広がっている。まぶしい、あたたかな光がいくつも寄り添い合っていた。
「帰ろう、ニコル」
チェシーが笑う。
凄まじいはばたきを巻き起こして漆黒の鷹が飛来する。悪魔の爪がチェシーの伸ばした腕を掴んだ。落下の衝撃を打ち消しつつ、一気に上昇する。
（もう元気になったかい、ナウシズの守護騎士どの？）
ル・フェの声がいたずらに響く。
「ル・フェ！」
ニコルは声をはなやがせた。巨大な悪魔の翼を持った鷹は、風を切り、夜霧を突き抜け、月下の澄み切った空のもと、大きな弧を描いてゆうゆうと滑空していた。
「やっぱり君だったんだね。ありがと、来てくれて！」
（いや、実は一回ホーラダインにやられて死んじゃったんだけどね）
悪魔はけらけらと嗤った。
（そう言えば僕って、よくよく考えたら千の魂を持ってる凄い悪魔だった、ってことを思い出してね、恥ずかしながら残り九九九個の魂を持つ悪魔となって舞い戻って来たわけさ。で、宿主探そうと思ってチョロチョロしてたら、ちょうどこの鷹がアンドレーエを探して戻ってきてね。捕まえようと思ったら逆にいきなり喰われちゃって九九八に目減り……）
「お前が野ねずみなんかに取り憑いてたからだ。そんなもの、どうぞ餌にして下さいと言わんばかりだろうが。へたすりゃアンドレーエ本人に食われるところだったんだぞ」
チェシーが冗談半分ながらも真顔で言う。ニコルはげんなりと笑った。
「暗黒の魔ネズミか……まあ、暗黒の魔ぬいぐるみよりはましだけどさ」
（まあいいさ。終わりよければ全て良し、ってやつだ）
ル・フェは力強く羽ばたき、ぐんぐんと上昇してゆく。ニコルは遠ざかってゆく大地を振り返った。
山懐に抱かれるツアゼルホーヘンの大聖堂が見えた。白い、美しい伽藍が星の光に照らされ、青白くきらきらとまたたいている。
各所に刻まれた天使像が手にする蓄光石の淡いゆらめきが、まるで氷の彫像のようなとりどりの輝きを夜に放っていた。虹色の光が白い壁面に流れ、アーチに反射して、さざ波のような影を映し出している。さながら極光をたたえる噴水泉のほとりにいるかのようだった。
「チェシーさん」
ニコルはあまりにも美しい夜景に心奪われながら、夢心地で尋ねた。
「帰るって、どこへ」
「ノーラスだ」
チェシーはかろやかに答えた。ニコルは驚いて眼をまんまるに押し開いた。
「……ノーラス……」
魔物に埋め尽くされ、炎に包まれ、無惨に崩れ果ててゆくノーラスの最期の姿がよみがえった。
「どうやって……？」
「ひとつひとつ、取り戻してゆくんだよ」
チェシーはかるがるとニコルを投げ上げ、一瞬宙に浮かせて腕に抱きとめ直した。
「わ、わっ！」
「手始めにノーラスを建て直す。忙しくなるぞ。まずはあのうじゃうじゃ湧きまくった魔物を君と私で綺麗に片づけて、あのあたりに住んでいた連中を呼び戻してやるんだ。それから城砦の修復。仕事さえあればみんな戻ってくる。資金は、そうだな、ゾディアックとの通商でブリスダルまで行かずともいいように、まず橋を架けて街道を切り開こう。名付けて悪魔街道だ。で、森にだけこっそり魔物を残してだな、あとは多少の通行税を取って悪魔どもに護衛させれば、あの近さだ。商人どもはいくらでも往来するようになる。バシード商会の連中なんか資材受注の仕事さえあれば大喜びで寄ってくるぞ。ちなみに私は制圧後のノーラスをゾディアック皇帝の名において封受した正統なる悪徳城主だからな。税金がっぽりで大儲け……」
「駄目です。そんな悪いことしちゃ」
ニコルはチェシーのほっぺたを思いっきりぐううううっとつねった。
「封殺しますよ」
「冗談だ」
ニコルに顔を引っ張られながらチェシーは笑った。
「再建には時間が掛かるだろうがね。必ず元通りのノーラスにして君に返すよ」
「……」
ノーラスに帰る。本当に帰れるのだ、そう思うとニコルは声もなかった。涙滴が粒になってあふれ、夜風に吹き散らされて飛んでゆく。
「そんなこと、本当に……」
「できると言っただろ。ほら、もう、泣くな」
「泣いてませんったら！」
上空を見上げているザフエルの姿が目に入った。いつの間にかもう、豆粒のように遠くなっている。
ニコルはあわてて涙を拭った。聞こえるかどうかも構わず精一杯声をあげ、手を振って別れを告げる。
「ザフエルさーーーん！」
あまりに遠すぎてもうザフエルの声は聞こえない。だが、その冷厳とした所作は遠目にもはっきりと見分けられた。居住まいを正し、手を挙げていつまでも手向けの敬礼を解かず、見送っている。
それがまるで手を振っているかのように見えて、ニコルは大きく手を振りかえした。
「今度またノーラスまで遊びに来て下さいね！ 絶対ですよーーー！」
「って、おいこら止めろ。いきなり行き先をバラす奴があるか」
あわててチェシーがニコルを揺すぶる。ニコルは、あ、と言って口を押さえた。
「あ、そうだ、しまった。言っちゃった。どうしましょう」
「どうするもこうするも、事の最中にいきなりあいつがやって来たらどうするんだ。君との二人っきりのえろい……ではなくて甘い新婚生活を夢みていたのに、どうしてくれる！」
「え、いや、でも結婚は駄目ってザフエルさんが」
「だから奴の妄言を鵜呑みにするなと何度言えば」
「でもですね」
風に吹かれ、髪がたなびく。ニコルは乱れ飛ぶ髪を押さえながら声を張り上げた。
「考えても見て下さいよ、チェシーさん、それはそれでいいとして、でも、もしそういうことになったら、ザフエルさんのことを『お義兄さん』って呼ばなきゃいけなくなっちゃうんですよ？ 顔を見るたび、絶対強制的に呼ばせられますよ？ 我慢できます？」
「断る」
「無理でしょ」
「いや、断じてお断りだ」
「だから無理ですって」
「もういい。分かった。覚悟を決めたぞ」
チェシーはやけっぱちで首を振った。
「こうなったら絶対に逃げ切ってやる。じゃないと安心して君にキスもできない。やっと二人きりになれた、と思った瞬間にあの男のむっつり面が横からにゅうっと出て来たらもう二度と立ち直れない」
ニコルは声を放って明るく笑った。
「あはは、それあるある！ 絶対あるかもです」
「こ、こら笑うな、揺れる」
と、そこでチェシーはふと我に返ったような声音に戻ってニコルを見つめ、訊ねた。
「……ところで聞くのを忘れてたが、さっきの君の頼み事は、いったい何だったんだ？」
「願い事……？」
ニコルは、チェシーを見上げた。
耳元で風が唸っている。見上げた彼方に、叢雲の夜に抱かれた月が見えた。夜空がどこまでも続いている。
眼下は遙かな森、頭上は満天の星。青白く濡れる月光を背に受けて、北へ、北へ。悪魔はノーラスへと続く夜空を一直線につらぬき飛んでゆく。
ニコルはなぜか、遠いイル・ハイラームに残されたマイヤの廃屋を思い出していた。
打ち棄てられた壁に残された呪いの詩《ゲッシュ》が心に響く。無数の白い帯に封印され、風が吹くたび、不浄の鈴が鳴り渡っていた、あの、懐かしくも恐ろしい望郷と背徳の家。
（いつわりのひかりは、しんじつのやみ）
（いつわりのやみは、しんじつのひかり）
（いつか、かならず、）
あのときはそこで、見果てぬ夢で終わっていた。
でも、これからは違う。きっと、ずっと、続いてゆくのだ。見果てぬ夢ではなく、手に掴んだ確かな未来が。終わらぬ夜ではなく、やがて来る朝が。ねじれた嘘ではなく、まぎれもない真実の日々が。
「僕の願いはですね」
真っ直ぐに見つめ、心からチェシーに向かって微笑みかける。
「……もう、叶いました！」
「そうか」
一瞬、驚きの表情を浮かべて。
「そうか」
もう一度、同じ事を言ってチェシーは破顔した。
笑いあって、ともにうなずきかわして。
それは――ふたたび始まる、めくるめく冒険。
聖ティセニア公国とゾディアック帝国。敵対し、憎み合ってきた二つの国に、今ようやく新しい時代の波が押し寄せてこようとしていた。
たとえ前途に幾多の苦難が待ち受けていようとも。
信じていれば、いつか、必ず――
夢は、叶う。
【完】
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