戦火 10
チェシーはついに足を止めた。
「くそっ」
止まぬ雨をかいくぐっての強行軍はまさに潰走と評するに相応しい有り様だった。
装備のすべてが凶悪につめたく重く濡れそぼり、罠のようにまとわりついて離れない。先頭を行くものにとってはまだぬかるみ程度ですんでいた道が、何百、何千もの軍靴、蹄、車輪に踏みにじられてゆくにつれ、やがて水たまりになり沼になり、しんがりが到達する頃には足首まで泥水に浸かりながら掻き分けて進むに似た状態になっている。道ではなく泥濘の浅瀬を押し渡ってゆくに等しい。
配下の騎兵もほとんどが下馬し、輜重車の牽引用に軍馬を徴用させて徒歩で行軍するほかなくなっていた。
敗退ではない、これは戦略的撤退であると何度繰り返したことだろうか。虚言にもほどがある。チェシーは泥にまみれた拳で頬をぬぐった。今、現在、傷病兵を含む第一師団の総数は二万程度だ。もはや既に出撃当初の半数にも満たなくなっているというのに、さらに櫛の歯が欠け落ちるかのように日に日に落伍してゆく。脱走すれば助かるというわけでもない。それでも、恐怖に駆られた兵たちはみるみるその数を減らしてゆく。
立ち止まったまま、しんがりの部隊が近づいてくるのを待ち受ける。
「何やってるんだ、大尉は」
苛立ちに紛らわせた絶望がますます膨れあがってくる。足を引きずった兵がのろのろと眼前を通り過ぎた。ヴァンスリヒト大尉の姿はどこにも見えない。追いついてくる様子もない。
チェシーは苦悩の唇を噛みしめた。
どう考えてもおかしい。ヴァンスリヒトの竜騎兵隊は近衛部隊も兼ねる精鋭ぞろいだ。足が遅くて行軍速度に追いつけないなどということはありえない。
戻れるものならば戻ってその安否を確認したかった。だが、疲労困憊して敗残の道をたどる兵をあからさまに見捨ててこの場を去ることはできない。かぶりを振り、悶々として舌打ちする。今はただ、ヴァンスリヒトから託された任務を果たす以外にない。
おそるべき矛盾を孕んだ闇。
自分が何を望んでいるのか、それすら分からなくなっているような気がした。自らの影に怯え、後ずさりながら背後の断崖絶壁へ向かって進んでゆくかのような、惑乱じみた感覚に襲われる。
アルトゥーリが砲撃で追いたて、レディ・ブランウェンが逃散する兵を狩る。その戦法に欠けているのは敵本隊に完全なる敗北の鉄槌を下す戦力だ。
かつての――
チェシーは鮮烈に舞い散る記憶の一片をたぐりよせた。よみがえる過去にかすかな嘲笑を洩らす。
ゾディアックの悪魔。
蒼ざめた馬に乗り、滅びを告げる魔を引きつれ、第四の死たる役目を帯びて暴虐の名を欲しいままにしていたのは誰有ろう、他ならぬ自分自身ではなかったか。
おそらくそれは今も変わらない。
雨にまぎれ、遠く暗くかすむ闇夜に青黒く、《悪魔の紋章》が浮かび上がっている。つかず離れず併走して飛ぶル・フェの姿だ。飛び跳ねる水音のような嗤い声が聞こえてくる。
チェシーは顔をそむけた。だがすぐに考え直し、周囲を見回す。荷駄を積んでいない馬はほとんどない。仕方なく愛馬を預けていた輜重兵を探し、呼び止める。
「すまない、馬を」
「どうぞ、准将」
輜重騎兵は疲れ果てたように笑うと、馬を荷車からはずした。鞍を置き直す。
「悪いね」
「いえ」
チェシーはすこし考え、代金としては不相応な金額を与えて元は自分のものであった馬にまたがった。苛立ちを噛み殺し、馬をしゃにむに急がせてはるか前方をゆくシャーリアの馬車を目指す。
ようやく追いつく。
「シャーリア」
チェシーは馬首を並べて歩ませながら迷彩擬装を施された馬車に向かって声を掛けた。シャーリアは返事しなかった。馬車の窓を開けようともしない。
負傷した身とはいえ指揮統帥の任務を放棄し馬車に引きこもってばかりで部下の誰とも口を利こうとしない――伝え聞く公女の態度に苛立ちを隠しもせず、低い声で繰り返す。
「窓を開けろ」
「いや」
弱々しい声が聞こえた。
「見られたくないの」
チェシーは眉をひそめた。
「何を言っている」
「……だって……嫌われるわ……ひどい……顔なんだもの……」
すすり泣くシャーリアの声はまるで怯えきった子どものようだった。
「そんなこと」
言っている場合か、と続けようとしてチェシーは辛うじて怒りを抑えた。この場で怒鳴りつけても仕方がない。
「もう、怪我のほうはいいのか」
「……痛むわ……痛むけれど……大したこと無い……ヴァンスリヒトが薬を置いていってくれたから」
ふいにシャーリアの声が途切れた。声が裏返る。
「ねえ、ヴァンスリヒトは……どこ……？」
チェシーは眉をひそめた。
「知らないのか」
「分かるわけがないわ」
馬車の中から激しく身をよじるような物音が聞こえた。
「ヴァンスリヒトは、シグリルで、この馬車に乗って待っているようにと言ったわ……あなたを迎えにいくからって……そうしたらあなたが来て……敵襲があって、すぐに出発したから、きっと同行しているとばかり思っていたのに……なのに他の誰に尋ねても分からない、知らない、というのよ。わたくしに分かるわけないじゃない……」
「ヴァンスリヒトは何も言っていなかったのか。シグリルで。俺には撤収の先導とお前の護衛を頼むとの伝言があったぞ」
「……嘘」
シャーリアは黙りこくった。馬車の軋み、石を噛みつつ強引に回される車輪の騒がしい音ばかりが雨を圧して響き渡る。
がたりと馬車が跳ねて、激しく揺れた。客車の中でよろけたらしいシャーリアの声がふいに涙を交えて高まった。
「今度こそ……本当に見捨てられたんだわ……」
窓を叩きつけるような音がした。チェシーは馬上で肩を震わせた。
「そうよ、そうだわ。そうに決まってる……わたくしみたいな嫌な女、今まで見捨てずに付き従っていてくれたほうが珍しいのに、なのに、わたくしったら……見限られても仕方ないような、あんな……よりにもよって、ヴァンスリヒトの目の前で、あんな、あんな馬鹿なことを……」
「口を慎め」
チェシーはわだかまる思いを振り払ってたしなめた。自らに言い聞かせるにも等しい口調で続ける。
「ヴァンスリヒトはそんな男じゃない。それは誰よりもおまえが一番良く知っていることのはずだろうが」
「わたくしが……一番良く……」
シャーリアは絶句した。声にならぬ声がくぐもって消える。
「もういい。気に病むな。そのうちにひょっこり追いついてくるだろう。案外どこかで雨宿りをしているのかもしれないしな」
心にもない慰めを口にし、チェシーは馬車から離れた。とたんに襲ってきた居たたまれぬ思いを噛み殺す。
シャーリアもヴァンスリヒトの行方を知らなかった。となれば可能性は一つか二つに絞られてくる。受け入れがたい事実か、あるいは。だがヴァンスリヒトは騎士だ。おそらく誰よりも清廉なる騎士たらんとした男だろう。その男が敵を前にしてむざむざと味方をあざむき主君を見捨てるだろうか。
ふいに魔の気配が乱れた。視界の片隅に見えていた青黒い光が激しく明滅し、森を突き抜けてかき消える。何かを見つけたのかもしれない。
チェシーは最悪の結末を拒絶するかのように眼に手を押し当てた。
顔に触れる暗い影が視野の大半を覆い尽くしている。
焦燥がこみ上げた。
もう、過去は過去として忘れる以外にどうしようもない、想うことも許されない、今となってはただ荒ぶる気持ちをもてあますだけの狂おしい、突き上げるような想いが、記憶の隅に残された硬い声とともによみがえった。
（その名は、禁忌だ）
ニコルが、《ナウシズ》の守護が、偽りの闇に身を堕としてまで護り抜こうとしている悲運の存在を、任務、忠誠、密命、騎士に有らざる冷酷非情な所業で見限ろうとしているのは――
「違う」
チェシーは見えない眼をこめかみごと鷲づかむようにして強く押さえた。
「私は」
（敵！）
突如。
真空の烈風と化してはるか上空から一直線に突っ込んできた漆黒の悪魔ル・フェが、雷鳴にも似た凄まじい叫声をあげて木の葉を撒き散らした。吸い上げられた泥と風と雨とが四方八方に飛び散る。枝が悲鳴を上げてしなり、めきめきと引きちぎられて、折れ飛んだ。
（敵だッ！ 前方に敵影ッ！ 奴ら、人間じゃ……！）
続くはずの声が咆吼にかき消される。
「サリスヴァール」
シャーリアの悲鳴がつんざく。逃げまどう兵に押され、馬車馬が甲高いいななきを上げて棹立ちになるのが見えた。雷撃が轟き渡った。火の手が上がる。どこかで誰かが絶叫した。一瞬にして恐慌状態が伝播する。
どこに、誰が、どれだけの数でいるのかも分からなかった。目に見えぬ何かが攻撃を仕掛けてきた、そう思いこんだ兵たちは先天的恐怖にかられ、むやみやたらに逃げまどい、互いに互いの背後へ隠れようとしながら隊列を離れて茂みの中へと転がり込んだ。叫喚がそこかしこから飛び散る。チェシーは怒鳴った。
「落ち着け、隊形を乱すな！ 小隊別に方陣！」
血の臭いが吹きしぶいた。誰の耳にも命令は届かない。迫り来るのは唸り声、噛み砕かれ、あるいはへし折られる音に満ちた、狂気の闇。
シャーリアを乗せた馬車は恐怖に動転し暴徒化した兵によって無惨にも押し倒されていた。馬を奪われ、横倒しにされている。
チェシーは駆け寄って馬車の戸を蹴破った。
「シャーリア」
乱暴に呼ばわりつつ半ば砕けた戸を渾身の力を込めて引きちぎり、投げすてる。だらりと垂れ下がったシャーリアの腕が見えた。強引に掴んで引きずり出す。同時に馬を奪おうと後からむしゃぶりついてきた狼藉者を振り向きざまに蹴り飛ばし、怒鳴りつけて、裂帛の視線で追い払う。
シャーリアは気を失っていた。
森全体を凄まじい雨音が押し包む。
ときおり閃く稲妻が地の底からおぞましい奇声を呼び起こす。反響する嗤い声が空を埋め尽くしていた。
「逃げろ、シャーリア」
チェシーはわずかに顔をゆがめた。巨大な剣をゆらりと昼なお暗い森の闇へと差しつける。
「憶えているだろう。この声を」
シャーリアは反応しない。チェシーはシャーリアの頬を躊躇いもせずに平手で打った。
「眼を覚ませ」
シャーリアは悲鳴を上げ、身をよじらせて眼を覚ました。
「サリスヴァール」
恐怖に眼が見開かれる。涙があふれた。
「ついに、このときが来た」
「な、なに……？」
「乗れ。そして、走れ」
チェシーはシャーリアの手首を掴んで引き寄せ、強引に馬の背へと押し上げた。
「どうしろというの」
チェシーは一歩、おもむろに下がって馬上のシャーリアを見上げた。冷ややかな、つくりものめいた、古めかしい笑みを口の端にかすめさせる。
「見れば分かるだろう。あれは、”魔”だ」
「魔物」
シャーリアは息を吸い込み、絶句した。身体が硬直する。
「い、嫌……嫌よ……サリスヴァール……」
「おそらく、率いているのはかつて俺の部下だった男」
チェシーは闇へと身をまぎらわせた。ゆっくりと後ずさってゆく。
「もう一人の《紋章》の使い手――第四師団のイェレミアスだ」
「第四……！」
「皆を連れて逃げろ。逃げるしかない」
シャーリアはがたがたと震える手で手綱を引き絞った。唇が蒼白に色あせている。
「無理よ、無理だわ、わたくしにはできない」
声に悲鳴が混じる。
「大丈夫だ」
チェシーはかすかに笑った。
「お前ならできる」
《天空のティワズ》が星くずの色を放って煌然と光り始める。
（サリスヴァール）
身に宿した《紋章》の光跡を不穏に燃え立たせ舞い降りてきた悪魔が、瀕死の状態でチェシーの肩にとりついた。
（側方にイェレミアスだ。どうする）
ここへ戻ってくるまでにも相当に激しい攻防があったのだろう、黒いぬいぐるみの生地はなまなましくも切り裂かれ、焼けこげ、半ばちぎれかけている。
「……相変わらず卑怯な野郎だ。だが、今はそれが天佑となった」
残酷な嘲笑がこぼれる。チェシーは魔剣を振り上げた。《ティワズ》の宿すおののくような魔性の光が刀身から放射状に巻き放たれ、闇を圧して響き渡る。
「聞け。騎士たらんとする者は公女を守れ！」
《ティワズ》の放つルーンの光を見た騎士たちが我先に逃げまどう歩兵を掻き分けてシャーリアの周辺に集まってきた。
「俺はこの場に残って悪魔どもを引き受ける」
チェシーは悲愴な表情の将校たちに向かって手短に言った。ル・フェが翼をふるわせる。青白い、血のしずくめいた、蛍光色の何かがぬいぐるみの身体からしたたり落ちていた。
「その間に逃げろ。もう、何も考えるな」
「サリスヴァール、あなた、まさか」
シャーリアが呻く。チェシーはゾディアックの女帝を思わせる冷たく青くきらめく目でシャーリアを見やった。
「真実が知りたければ、生きて、ノーラスへ帰れ。そして見届けろ。それが、ヴァンスリヒトとの約束だ」
左腕を振り払って南の森を指し示す。
「分かったら早く行け。振り向くな」
（うわっとと）
激しい動きに振り落とされまいとル・フェが必死にしがみつく。
「殿下」
騎士たちが徒党を組んで次々にシャーリアの馬を取り囲む。
「嫌よ」
シャーリアはじわじわと前方へ追いやられてゆくのに気づき、馬上から身をねじり伸ばしてチェシーの姿を探し求めながら声を裏返らせた。
「だめよサリスヴァール、貴方も一緒に」
「行け」
チェシーは容赦なく目の前にいた馬の尻を打ち叩いた。驚いた馬が棹立ちになっていななき、埒もなく走り出す。シャーリアの悲鳴だけが尾を引いて遠ざかった。
「御武運を、准将」
「ああ、死ぬなよ」
「では」
残るも死、先立つも死。それぞれの末路を追いかけながら馬上の騎士たちは敬礼を手向けに残しシャーリアの後を追った。兵たちもまた雪崩を打って潰走してゆく。
（あーあ）
悪魔が嘆息する。
（やっちゃった。いいのかねえ）
チェシーは悠然と悪魔を見下ろした。妖艶なあやかしの呪が、濡れた魔剣の鋼の肌をあでやかに底光らせる。
「召喚しろ」
（無理だね）
ル・フェはかすかに声を嗄らして嗤った。チェシーの肩が青い霊光に滲んでゆく。
（死ぬ）
「悪魔は死なないんじゃなかったのか」
（魂に宿れば、ね）
くくく、とル・フェは卑屈に体を揺らしている。
（前にも言ったろ？ 僕は魂を依り代にするって）
「なれば是非に及ばずだ」
チェシーは森に潜む魔性の気配に気付き、うっすらと酷薄に眼をほそめながら剣を構え直した。宿した《零式》の呪符が深紅の気炎を放つ。
蠱惑のかがやきが四方八方へとくねり放たれてゆく。強圧的な呪の波紋にうたれ、右往左往していた第一師団の兵が畏怖の面持ちで凍り付いた。
風が唸りを上げて逆巻き、光と闇と炎を渾然と渦巻かせて立ちのぼった。
《天空の稲妻、地の烈風、見えざる刃となりて奔れ、神速の奥義……！》
真っ白な蒸気が天空にまで吹き上がる。真一文字に突き抜けた凄まじい太刀風が地を剥ぎ取り、視界をさえぎる木々を木っ端微塵に粉砕して、泥濘に潜んでいた魔物もろともに森の一部を吹き飛ばした。
炸裂する悲鳴が瞬時に闇へと戻る。あっけなくもちりぢりに霧散してゆく魔を白煙の狭間からかいま見つつチェシーは猛々しく笑った。
「また私に宿ればいい」
（どうだか）
ル・フェは奇妙にかすれた声でつぶやき、尻尾をぴくりと動かした。頭ががくりと前にのめる。
（二度と戻れなくなっても知らないよ……）
「どこに戻れるというんだ、この私が、今さら」
乾いた笑いを洩らす。ぬいぐるみの悪魔は光を失いかけた黒いガラス玉の目を向けた。
チェシーは視線を無視し口の端を粗野に吊り上げた。左右にするどい警戒の視線を散らす。
「いまいましいことだ。雑魚ばかりとはいえこの数は少々」
ル・フェは答えない。ふいに、転がり落ちる。
「どうした」
チェシーはとっさに手を伸ばしてぬいぐるみの羽根を掴んだ。その身体からぼたぼたと青黒い光がこぼれおちている。
「ル・フェ」
（おかしいよねえ）
ぬいぐるみの肩が震える。痙攣のような、力なく縒れた笑いがとぎれとぎれに聞こえた。
（僕……悪魔なのにさあ……）
「おい」
（あんなに……《ナウシズ》を……あいつを……殺したかったのにさあ……！）
「何を言ってる」
チェシーは眉をけわしくひそめ、声を圧し殺した。反応の薄れたぬいぐるみを凝視する。
背後から耳障りな咆吼が飛びかかってきた。猿とも熊ともつかぬ毛むくじゃらの異形が毒の息を吐き散らしながら駆けずりよってくる。チェシーは髪の毛一筋も乱すことなく振り返って神速の太刀をふるい、数匹を輪切りにして斬り飛ばした。首が折れ、腐臭を放つ臓物めいた何かが飛び散る。息絶えた魔性はしゃぼん玉が割れるのに似た黒い微細な妖気の滴となって蒸散した。
「召喚してやる」
チェシーはぐいとぬいぐるみの身体を鷲づかんだ。
「《紋章》を寄越せ。ル・フェ、血の盟約だ」
（もう、いいよ）
ル・フェは消え入りそうな声で嗤った。
（無理だって……言ってんだろ……）
凄まじい羽音が聞こえた。足下から雲霞のような黒蠅がわき上がる。
「……！」
魔の瘴気が見せる幻覚だ。現実ではない。だが幻影だろうが現実だろうが感じる悪寒と恐怖と激痛は同じだった。
たちどころにからみつかれ、全身を覆い尽くされる。身体中を這い回るおぞましい感覚にチェシーはよろめいた。
顔と言わず、首筋と言わず、露出した部分に無数の毒虫が群がり、這い回り、耳に入り込み鼓膜を破って侵入してくる。
噛みちぎられた皮膚に毒酸の牙が食い込む。頭蓋をかじり取られるような轟音にも思える羽音が耳の奥にまで響き渡った。
ル・フェの声が遠ざかる。自分の叫びすら聞こえなかった。
「……無様だな、サリスヴァール」
ふいに、音が止んだ。
ねっとりと糸を引いてしたたり落ちるほどにつめたい憎悪を含んだ声が降ってくる。
「貴様などこの世に存在するもおこがましい……今すぐ穢らわしい豚の如く泥と自らの汚物にまみれ悲鳴と狂気の不協和音を奏でながら煉獄の最下層まで堕ち果てるがいい！」
チェシーは、泥に倒れ伏したまま動かない。剣が夜の光を失ってがらりと地面に投げ出される。
魔物の群れを前に動くに動けず、怯えながら固まっていた第一師団の兵が、敗北そのものの光景にありったけのわめき声をあげながら逃げ出した。もはや秩序も統率も何もない。ただ蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。
「逃がすな」
どよめく闇の奥から傲然と勝ち誇った声が響き渡った。
「掃討せよ」
鯨波のどよめきをあげてゾディアック兵が襲いかかる。
それは惨殺以外の何ものでもなかった。逃げまどうティセニア兵を追い回し、血で滑る剣で叩き殺し、物資を奪い、死の山をうずたかく築いてゆく。
ぐしゃり、と血の色の泥を踏んで。
漆黒のブーツがチェシーの傍へと歩み寄ってきた。雨除けの黒いマントが悽愴にひるがえる。
ル・フェも泥水に浸かったまま動かない。
「イェレミアス」
チェシーは正気を失ったうつろな声で呻いた。
「やめろ」
「命乞いか。面白いことを言うではないか、国賊風情が」
イェレミアスは薄い唇を恍惚のかたちにゆがめながら腰背に吊した豪奢な元帥杖を手にし、持ち手をひねって仕込みのサーベルを抜き払った。
憎悪と殺意をあらわにチェシーの首元へと差し付ける。
「そう簡単に死ねると思うな」
マントの襟元に付けられた金と宝石の房飾りが揺れる。イェレミアスはこらえきれぬ驕傲の嘲笑を放ち、泥に汚れたブーツでチェシーの顔を何度も何度も踏みにじった。
「魔に侵されて気がふれたか。それとも恐怖に身動きも取れぬか。哀れなものよ。所詮貴様もその程度の男に過ぎぬというわけだ。己が姿を泥に写して見るがいい！ 何と醜悪な、愚昧な、さもしい、非力な姿であることか！ そうだろう、サリスヴァール！ 薄汚い野盗上がりの貴様などこの私に踏みにじられる虫けら同然の存在に過ぎぬというのに、よくも、よくも、今まで！ 我が帝国を裏切り！ この私を！ 虚仮にしてくれたな！」
声を甲走らせるたびに蹴り上げ、強く、血が滲むほどに踏みにじる。
「シグリルで爆死した第一師団の参謀と同じく！ 貴様も！」
チェシーの腕が、びくりと動いた。
イェレミアスは靴底に感じる反撃の息吹に気付いた。無抵抗の顔を踏みにじるのを止め、わずかに頬を引きつらせて足を引き、元帥杖を振り上げる。
「今、何と言った」
泥にうもれ、血に汚れたチェシーの手がふいにイェレミアスの足首をぐいと掴んだ。イェレミアスは身を仰け反らせた。不様な悲鳴を上げる。
「ばっ、馬鹿な」
「イェレミアス」
チェシーは力任せにイェレミアスの足を薙ぎ払った。情けない体勢でイェレミアスがもんどりうつ。泥水が飛び散った。
「答えろよ」
動かぬ身体を引きずり上げながら、チェシーは激情にぎらつく眼差しをイェレミアスへ突き立てて怒鳴りつけた。
「何と言ったか聞いている！」
口の中に入り込んだ汚水を吐き捨て、袖で口元を荒々しくぬぐう。
「お、お、思い上がるな、国賊が！」
イェレミアスは蒼白になって舌をもつらせ、しりもちをついたまま後ずさった。
「貴様もいずれ同じ運命だ。帝国に叛逆する者が許されるなどあってなるものか」
「逃げるな、イェレミアス」
チェシーは激昂し剣を掴みざまに叩きつけようとした。イェレミアスは女のような悲鳴を上げ、恥も外聞もなく四つん這いで身をよじって逃げ出した。甲殻類を意匠にかたどった第四師団の元帥杖を取り落とす。泥が跳ね、チェシーの眼に飛びついた。チェシーは反射的に眼を瞑り拳でぬぐった。
「くそっ」
「馬鹿め、この私がいちいち国賊ごときの相手などするわけがなかろう！」
その隙に何とか危機を逃れたイェレミアスは、恐怖と憎悪に緑の眼を異様にぎらつかせた偏執の形相で怒鳴った。
「貴様の相手は――」
醜悪に声をうわずらせる。
「侮るな」
チェシーは冷ややかな恫喝を放った。
「同じ手を二度も食らうほど迂闊ではない」
イェレミアスは先ほどと同じ魔を召喚しようとした呪を中途で凍り付かせ、愕然とした表情で後ずさった。
チェシーはふとイェレミアスから目をそらした。立ち止まり、身をかがめる。
手を伸ばして、半ば泥にうずもれるル・フェを拾い上げる。
ぬいぐるみの身体から泥水が滝のようにしたたり落ちた。足下にぼんやりと青い光が広がる。腹に刻まれていたはずの《紋章》はほとんど消えかけていた。
「だ、だ、黙れ。もはや手遅れだ」
イェレミアスはチェシーの気が逸れたのを素早く見て取ったか、漆黒のマントを不格好にひるがえらせた。
「どんなに足掻こうが貴様の負けだ！ ここで第一、第五の双方が無惨に滅びてゆく様をとくと眺めているがいい！」
悪し様な捨て台詞で罵るだけ罵って消え去る。代わりに怒濤の濁流にも似た無数の魔物が群れをなしてチェシーへ襲いかかった。
「……盟約を結べ、ル・フェ」
眼前に迫る凶悪な魔物の群れ、牙を鳴らし、爪で虚空を引き裂き、敵味方関係なく食い荒らし、のたうち、悶え、絶叫しながらなだれかかってくる悪意そのものの姿に、チェシーは平然とした眼をやった。
「時間がない」
（……ノーラスに戻れなくなるぜ）
ル・フェは眼を開け、わずかに硝子の光をまたたかせた。
（いいのかい）
ためらいが風のように吹き流れる。チェシーは眼を閉じた。
「俺は祈る神を持たん」
ふたたび穏やかな表情を取り戻す。
「召喚するぞ。いいな」
かすかに笑ってぬいぐるみの身体を持ち直す。暗黒の鳴動が轟き渡った。
ガラスの砕け散るような絶叫が無数に乱れ、つんざく。何かがばらばらと地面に降りしきり、青黒い閃光を散らして転がった。雨が槍のように降りつのる。
チェシーは人ならざる絶叫とともに己が腕に再度宿した《悪魔の紋章》を解放した。闇に染まりきった森の木々がよじれ、のたうち、狂おしい叫喚の軋みを上げる。
放たれた嘲笑がぬいぐるみの骸を跡形もなく燃やし尽くしてゆく。
ふいに、静謐が訪れた。青い波紋が闇を彩る。
深い、泥のような吐息をつく。
チェシーは名状しがたい孤影を宿し、伏せていた顔を上げた。
刺青の痕にも似た、ゆらめく魔の紋様が目元から頬にかけて広がっている。ちりちりと馴染まぬ感触にチェシーは重くこわばった手を持ち上げた。
頬に触れようとして、わずかに表情を変える。
変質した手の先から、切れ切れになってぶら下がっているのは手袋と軍衣の袖、それぞれの残骸だった。
感傷が、見る間に削がれ、朽ち落ちてゆく。
今、眼にしている己の腕がもはや人間のそれではなくなっていると分かっても、チェシーはまるで驚かなかった。以前アルトゥシーでル・フェに体を乗っ取られたときよりもはるかに深く、無防備に、自らの魂を強欲な悪魔の食指にからめとらせてゆく。それはためらいとの決別だった。
よどんだ笑い声が重なる。過去と、現在の笑い声。
組み敷かれた無力な友の姿が記憶の奥底によみがえった。無惨に軍衣を破かれ、敗北の絶望と失意にうちひしがれた偽りの守護、ニコル・ディス・アーテュラスの姿。明らかにされることのなかった悪魔の記憶が、偽りの希望に隠された真実の涙をまざまざと曝け出してゆく。
だが、自らの喉から洩れた、かすれた嗤いがチェシーを現実へと引き戻した。
二度と光を感じることのないと思っていた眼が、開く。
魔性に支配された金の瞳が、欲望の歓喜にふるえ、きらめいた。
「クズどもが」
チェシーは氷碧の眼と暗黒の金眼それぞれで周辺を見渡した。目の前に今にも食らいつこうと牙を剥きだした魔物の群れが迫っている。腐臭。噛み合わされる凶悪な顎の音。禍々しい雷鳴が轟いた。一転して世界が狂乱絶叫の血しぶきに呑み込まれる。
チェシーの頭上へ魔の濁流がなだれ落ちた、と見えた瞬間。
すべてが飛び散った。腕が、あるいは別のものがねじ切られ砕け飛ぶ。圧倒的だった。
けたたましく嗤い続ける。これほどまでにやすやすと殺戮の歓喜に酔いしれることができるとは思いも寄らなかった。召喚された魔は狂気の波動に呼応する。殺せば殺すほど、殺戮に興じれば興じるほど、魔性はイェレミアスの行使する《紋章》の支配から引きはがされ、本能的破壊衝動に突き動かされて群がり寄ってくる。
――自らもまた、救いようのない奈落へ堕ちているのだと知りつつも。
甘美な絶命の気息をすすり、微笑みを絶やすことなく、チェシーは敵を屠り続けた。
剣に貫かれた魔がなまぬるい汚物まみれの肉塊と化した瞬間、青黒い光輪を放って無様に腐り落ち、蒸発する。チェシーはまた嗤った。もはや誰のため、何のためかすらも分からなかった。魂に同化したル・フェの餓えはまだ収まらない。おそらく、この飢餓感が失せることは永遠にないだろう。たとえ《封殺のナウシズ》の力をもってしても。
暴虐を解放する悦楽を知ってしまった魔の本性が、《ナウシズ》の存在を許さないと告げている。ぎらぎらと猛る欲望に濡れた魂ごと魔をえぐり抜かぬ限り、この餓えが収まることはない。
二度と戻れない。ル・フェの言葉を思い出してチェシーは笑った。どうでも良い。そんなことは、もう、どうでも良かった。
イェレミアスは自尊心と猜疑心、そして嫉妬の塊だ。だがその自尊心こそが最大の防波堤となっている。あの男は、かつての、そして今の自分のように、制御出来かねる魔を呼びだした後に自滅するといった割に合わぬ愚だけは決して犯さない。
呼びだす一匹一匹は雑魚極まりなくとも良い。ノーラス周辺を一面埋め尽くすに十分な数さえ確保できれば戦術的にはそれで足る。それがあの男のやり口だ。一介の人間が魔のうごめく毒の海を越えてゆくのは不可能。ましてやシャーリアや敗残の兵が魔の手から逃れるなど《ナウシズ》の助力なくして達成できようはずもない。目的は、そこだ。
難攻不落の砦、ノーラス。その主たるニコル・ディス・アーテュラスを堅牢な城砦から狂乱うずまく戦禍の中心へと引きずり出す――
どんなに悔やんでも、結果は同じだった。
どれほどの間、魂を喰らい続けたことか。
疲れすら感じなかった。異様な高揚が狂気を覚醒させ、魂を揺るがし続けている。もはや人のものではない左腕をひきずり、みだらに軍衣を脱ぎ捨て、黒と金の邪悪な呪に彩られた血まみれの身体を青白く晒して、チェシーは残忍な笑みのしたたる口元をぬぐった。嗤いが止まらない。気が付けば、周囲には何もなかった。累々と積み上がる死骸もなければ味方もいない。あるのは雨と、泥と、腐臭と、果てしない闇。
孤独だけが総毛立つ虚無感とともに打ち棄てられている。
ふいに、人の声が聞こえた。
無条件に殺しに向かおうとして、チェシーは身震いし、動きを止めた。わずかな理性が戻ってくる。相手は魔ではない。人間だ。
「誰だ、そこにいるのは」
聞いたことのある声だった。幾つもの足音が駆け寄ってくる。
「っていうか何だこの臭い、く、く、くせえ……ちょっと、う、うえおあごえ！」
「師団長大丈夫ですか」
「ま、魔物だ、間違いねえ……っておえええ！」
「吐いてる場合では」
「わ、わかってるよ……お、おい、そこのお前、こんなところで何……おえええ……ええっ！？」
仰天した声が裏返る。
「あんた、サリス……」
絶句した相手を嘲うかのように、チェシーは闇から半身を引きずり出した。すすり込む息が聞こえる。
可笑しかった。
「……だとしたら、どうする」
「何、やってんだ、こんなところで」
嫌悪の表情を眼に浮かべた相手が鼻と口を押さえて近づいてくる。
「久しいな、アンドレーエ」
チェシーは自堕落に笑った。汚物まみれの剣をゆらりと振って持ち上げる。
「会えて嬉しいよ」
「そ、その、腕は」
それ以上はさしものアンドレーエも声にならない。アンドレーエは自らの目を疑うかのように、呆然と立ち止まった。
丸めた帆布らしきものを背負った見慣れぬ男が険しい表情でアンドレーエをかばい、立ち塞がる。
「師団長、下がってください。ここは自分が」
「い、いや、違う、いいんだ、ユーゴ」
アンドレーエはぎごちなく首を振った。
「あいつはサリスヴァールだ。敵じゃ……」
「いいえ」
ユーゴと呼ばれた副官はするどい眼でチェシーを睨み据えた。
「魔です」
強硬に言い切る。
「おやおや」
チェシーは投げやりなためいきをつき、べっとりと汚濁に濡れた髪を掻き上げた。掌に雨のしずくが跳ねた。次第に身体の汚れが洗い流されてゆく。
「何ともはや、慧眼恐れ入るね」
「見れば分かる。あんたはあんただ」
アンドレーエは詰め寄った。
「そんなことよりここで何してる。第一師団はどうした。殿下は。行動を共にしているんじゃなかったのか」
「殿下……」
「シャーリア殿下だ」
「ああ」
チェシーは気もそぞろに考え込んだ。
「……あれは……いい女だった……」
「サリスヴァール！」
アンドレーエの表情が変わる。チェシーは鼻先でせせら笑った。
「まあ、そう気色ばむな。イェレミアスに奇襲されたんでね。先に逃がしたよ」
「イェレミアスだと」
ユーゴが血相を変える。
「第四師団までがこの戦域に」
「気をつけろ。イェレミアスは質より量で来るからな。奴が召喚し始めたら普通の人間には通れまい」
チェシーは力なく首をのけぞらせた。壊れた笑いを洩らす。
「《ナウシズ》の加護があれば別だが……いや、あれだけの数になったら……あいつでも無理だろうな……」
アンドレーエは総毛立つ面持ちをチェシーへと向けた。
「あんた、まさか」
「案ずるな。この辺の奴らは片づけた。俺もすぐ後を追う。それより」
生気の喪失しきった青い眼でアンドレーエを見やる。
「……シグリルは……どうなった」
アンドレーエはふいに声音を厳しくした。
「何故、そんなことを問う」
「……」
「何故問うのかと聞いてるんだ！」
チェシーはふとアンドレーエから眼をそらした。副官のユーゴが背負う泥まみれの布に目をとめる。
「旗か」
ひくくつぶやき、眼を閉じ、妖艶な仕草で木に身体をもたせかける。
「そうか。死んだか。哀れだな」
「准将」
ユーゴが激昂して詰め寄った。
「まさか、知っていて」
「いや……ああ、いや、そうだな、そうかもしれない」
チェシーはだらしないためいきをもらした。
「いっそ、私が死ねば良かったかな」
凋落の酷薄な笑みをこぼす。
「祖国を裏切り、かつての仲間と剣を交え、あまつさえ――」
「誰もそんなことは聞いてない！」
「悪いが俺も同じ意見だ」
アンドレーエは濡れた髪を振るった。憤るユーゴを押さえて一歩、前へと進み出る。
「どういうつもりだ、サリスヴァール」
押し殺された、悲痛な声だった。
「なぜ仲間を見捨てた」
「仲間だと」
チェシーは薄笑いを浮かべた。肩を震わせて嗤い出す。
「そんな感傷などとうの昔に捨て去った」
死人のようだった青い瞳に、冷酷な光が舞い戻った。
「……たかだか一戦役に敗北したぐらいで何が変わるというんだ。何人死のうが、誰が死のうが、《ナウシズ》ある限りイェレミアスにノーラスは陥とせん。ついでに言えば、こんな戦闘など毎年この国のどこかで繰り返されている小競り合いの一つに過ぎない。歴史の流れは変わらんさ。シャーリアと元帥どもさえ生き残れば、俺が死のうが、アンドレーエ、お前の後にいるその副官が死のうが、な」
アンドレーエはふいに顔を背け、歩き出した。
「行くぞ、ユーゴ」
ユーゴは眼を押し開いた。動揺のまなざしでアンドレーエとチェシーを交互に見比べる。
「しかし」
「構わねえ。放っとけ。行くぞ」
すれ違おうとするアンドレーエをチェシーは冷笑まじりに顧みた。アンドレーエはもう目を合わせようともしなかった。
「見損なったぞ、サリスヴァール」
すれ違う寸前、低く吐き捨てる。
チェシーは表情すら変えなかった。
「アーテュラスが聞いたら嘆くだろうな」
すぐにアンドレーエの姿は闇に溶け消えた。チェシーは眼を閉じ、再び木にもたれて、自嘲気味に笑った。
「裏切り者にふさわしい捨てぜりふだ」
なまぬるく笑い続ける。
雨が眼に当たった。頬の血が洗い流されてゆく。
「……それで、構わない」
雨はまだ止みそうになかった。
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