戦火 11
砦の周辺は黒い雨に塗り込められていた。雨に打たれるのも厭わず、塔の狭間胸壁から身を乗り出し、遙か北方を見はるかす。時折激しい雷が空を青黒く染め上げる他は、まったく何も見えない。
丸一日聞き続けた噪音を思い出してニコルはわずかに震えた。馬の鼻息、踏み散らす泥の音、金属の軋む音、跳ね上がる輜重車の轢音、転がり落ちる資材。
濁流と化した川の音が聞こえる。
あの川の彼方にチェシーがいる。
この闇の此方にザフエルがいる。
ニコルはメガネの雨滴をぬぐった。拭いても拭いてもしぶく雨のせいですぐに前が見えなくなる。その心許なさが、ひどく怖かった。さして寒くもないのに、身体の震えが止まらない。
各地に放った斥候からの報告によれば、ブリスダルからツアゼルホーヘンへ至る街道の各所にゾディアック帝国の大軍があふれかえりつつあるとのことだった。防衛に出た国境警備の部隊も撤退を繰り返しているらしい。いくらザフエルと言えども、やすやすと打ち破れる……否、打ち破って良い相手ではない。
強大な敵戦力をあえてツアゼルホーヘンに集結させ、聖ワルデ・カラア防衛の要ノーラスにおける決戦を回避する――
ノーラスを出立し、強行軍で森を抜けて北へ向かうこと一日。途中夜営することもなくリーラ河沿岸に築かれた環状堡塁のひとつに到着したのは昨晩深更のことだった。行軍に疲れ果てた兵に温かい食事を出し、酒を振る舞い、明朝の作戦開始まで出来る限りの休養を取らせる一方、参謀士官らを集めて緊迫しきった軍議を行う。
まずは渡河地点を確保しなければならない。先行調査に赴いたレゾンド大尉の報告によると川のどの地点でも水量、流速が増しているとのことだった。無闇に架橋したとしても、今後の天候によっては橋桁が流木や土石の流下に耐えきれず破壊されるおそれがある。だが、最小限の兵や資材を渡すための橋だけはどうしても架けなければならない。
敵の動きは全く分からなかった。《先制のエフワズ》は絶えず何かに反応し続けてはいるもののその感応度合いは微弱であり、明確な敵意を捕捉できているわけではない。むしろ不穏なのは《封殺のナウシズ》が見せる反応のほうだった。
「アーテュラス」
冷静沈着な低い声が背後から発せられる。ニコルは振り向いた。
「あ、エッシェンバッハさん、どうもです」
エッシェンバッハは濡れないよう階段の途中で足を止めた。
「何を見ている」
腰に手を当て、尋ねる。
「えっと、対岸です。何か見えないかと思って。狼煙とか、火とか、何か」
エッシェンバッハは眉間に険しい皺を寄せた。
「何のためにわざわざ哨戒させていると思っている」
「は、はい……でも、やっぱり不安で」
「貴公は部下を信用しないたちらしいな」
エッシェンバッハの色眼鏡が不穏に光る。ニコルは眼を押し開いた。
「すみません」
「話がある」
エッシェンバッハは親指をしゃくり上げて屋根の下へ戻るようにと合図した。ニコルはあわてて胸壁から離れた。軒下に駆け込む。
びしょ濡れの外套を脱ぎ、水をふるう。
「すみません、そういうわけでは」
「俺は猊下とは違う」
厳しい声だった。
「正直、貴公を見ていると苛々させられることが多い」
「はい……すみません」
「元帥ならば元帥らしく、常に孤高であれ」
「は、はい」
「我らは貴公の正義にのみ従うのだからな。分かったか」
ニコルは唇を噛んだ。
「肝に銘じます」
エッシェンバッハは鉄鎖の音を鳴らして踵を返した。階段の扉に手を掛ける。
「ツアゼルホーヘンとの連絡も何かと滞りがちだ。不安に思うこともあるだろう」
重苦しい音を立てて押し開ける。先を行くエッシェンバッハの足下はほのかに濡れた極光の色をたたえていた。《庇護のアルギス》がルーンの声に呼応しているのか。
「いえ」
かろうじて取りつくろった応えを返す。
エッシェンバッハはそれには答えず、無言で塔の螺旋階段を降りていった。靴音の反響する真っ暗な城壁通路を抜け、城楼へと向かってゆく。
ニコルは人知れずためいきをついた。滴のぽたぽたと垂れる外套を二の腕に引っかけてエッシェンバッハの後を追いかける。
鎧戸を下ろした砦の窓から細い光が洩れ、ごつごつした胸壁の石壁に反射して光っていた。樋からあふれた雨が飛沫となってこぼれ落ちている。
ここまで来てしまった以上、逡巡はもはや許されなかった。
それは分かっている。なのに、後憂が後から後からこみ上げてならなかった。
ノーラスは盤石でなくてはならない。
たとえ仲間を見捨ててでも、ノーラス防衛線および聖ワルデ・カラアだけは絶対に死守しなければならない。
もし、護りきれなかったときは――
明確な答を出し切れず、何度も心の奥で自問自答を繰り返す。
自分の判断は本当に正しかったのだろうか。今回の作戦は騎士の本分から逸脱した行動と見なされるのではないか。感情にまかせて先走った行動をしているのではないか、誤った戦況判断を下してしまったのではないか。
こみ上げる不安を抑えきれず、すがるようにして《先制のエフワズ》を見つめる。鮮烈な血の色が目に焼き付いた。こんなとき、ザフエルがいて、一言でも助勢してくれれば、どんなにか……
ふと、エッシェンバッハが口を開いた。
「敵の位置は分かったか」
ニコルは気迷いを振り払った。
「いえ、残念ながらまだ」
「そうか」
「予兆はずっとあります。でも正確な位置や部隊数、敵の状況みたいなのは実際に攻撃を受ける直前にならないと」
「直前でも分かればそれでいい」
「でも、問題は《ナウシズ》の」
開け放たれた戸口の前に、銃剣付きのマスケット銃を手にした衛兵が直立不動で立っている。
元帥が揃って戻ってくるのを見た衛兵は銃筒を捧げ踵をそろえて最敬礼した。左襟に剣と盾を意匠した第三師団の徽章をつけている。
ようやく乾いた建物内に入る。ほっと肩の荷を下ろし、やれやれと歩き出そうとしてニコルはふいにぎくりとして振り返った。
「うわ」
瞬く間に青くなる。足下のカーペットがまるでおねしょでもしたかのようにぐっしょりと濡れている。
「やっやばっどどどどうしよっ汚しちゃった」
どうしようもなくニコルがじたばたしている間、エッシェンバッハは壁に引っかけてあった自分のランタンを取り上げた。明かりが乱高下し、二人分の影が引き延ばされては四方八方に激しく踊る。
「それがどうした」
「せっかくのお、お、お客様用カーペットがっ」
「話をそらすな」
ニコルは変な格好で動きを止め、やおら眼をぱちくりさせた。
「えっ……えーと……」
エッシェンバッハは冷徹にほそめた視線をニコルへと差し向けた。苛立たしげに咳払いをする。
「《ナウシズ》がどうかしたのかと聞いている」
「あ、ああ、そっちの話か」
ニコルははっと我に返った。冷や汗をかきつつ何とか威儀を正し直して表情を引き締め、眉をひそめて考え込む。
「ええと、なんて言えばいいのかよく分からないんですけど、ル・フェはああ見えてかなり上級の悪魔っていうか、ぬいぐるみになっちゃう前は僕が慣れてなかったせいもあってやたら《ナウシズ》の反応が凄かったんですけど」
他の者の声は聞こえなかった。
この時間ともなれば歩哨以外の誰もが明日の出撃に備え眠りに就いている。明かりが点いている部屋は将官以上に割り当てられているこの階の真下、参謀たちの詰める作戦室以外にはない。
ニコルは思わず声をひそめ、氷雪の色にきらめく《ナウシズ》を不安な面持ちで見つめた。
「でも今は、まだそこまで顕著じゃないっていう感じがします。弱い……弱いんだけど……何かいるみたいな」
「《封殺》の感覚は俺には分からん。だが」
エッシェンバッハは首を振り、立ち止まった。金象嵌の嵌め込まれた重々しい扉の取っ手に手をかける。
「敵前に渡河すれば分かることだ」
ニコルはエッシェンバッハを見上げた。弱々しく笑ってみせる。
「そうですね」
エッシェンバッハはドアを開けた。そのまま入ってゆこうとして、ふと立ち止まる。
「預かりものがあったのを忘れていた」
物憂げにポケットをまさぐっている。
「は？」
ニコルはきょとんとした。
「誰からです」
「見れば分かる」
エッシェンバッハはツアゼルホーヘンの紋章が入った純白の封書を指先に挟んで取り出し、投げやるようにしてニコルへ放り投げた。
「先ほど届いたそうだ。貴公への私信ゆえ開封できぬとレゾンド大尉が持ってきた」
重みのある放物線を描いて落ちる封書をニコルはあわてて両手を伸ばして捕まえた。
「こ、これは、あの、ど、ど、どなたから」
「知らん。ではまた明朝。遅れるな」
エッシェンバッハは取って付けたような挨拶を残して扉を開けた。投げやりな仕草で敬礼し、自室へと消えてゆく。
「お、おやすみなさい」
言ったときにはもう扉は閉じられていた。ニコルは唖然として閉ざされた扉を見上げ、それから封書に目を落とした。
差出人の名はない。
ぎごちなく裏返す。
いかにもザフエルの筆致らしい几帳面な表書きが見えた。なぜか、ふいにどきりとして手紙を握りしめる。
違和感。中に何か小さな、紙以外の手ざわりを感じる。
ニコルは眼をみはった。あわてて踵を返し、別に急ぐ必要もないのに廊下をどたばたと駆け抜け、逃げるようにして士官用の個室へと飛び込む。
大急ぎで後ろ手に扉を閉め、横のテーブルに備え付けのランプに火を灯す。部屋の中は静まりかえっていた。雨の音もわずかしか聞こえない。
ニコルはうろたえながらもとにかく意を決して開封した。
短くしたためられた報告書が入っている。
神殿騎士第一旅団主力をツアゼル街道各所既設陣地に配備、敵軍の攻撃を反撃阻止せんとするも戦意を損失し余儀なく撤退せり――
文面は先ほどの軍議で見たものとまったく同じだった。困惑して書面を再度見直す。紙の端に小さく、数文字が書き加えられているのが目に入った。
追伸、護身符送付のこと。
封筒の中から、鎖のついた小さな銀のアンクが転がり出てくる。
ニコルは目の前で光る薔薇十字を呆然と見つめた。こんなに小さいのに、まるで銀の糸で編み上げたかのような細かな天使と薔薇と剣の彫金、そして裏側には全ルーンの刻印を施してある。
これと同じものを、以前、一度だけ見たことがあった。
ザフエルの首にかかっていた――それと、まったく同じ色と形。
ニコルは薔薇十字を握りしめた。
指の間から鎖がこぼれて、きらりと白くきらめく。
我知らず、苦笑がもれた。
「だめだよ」
声が震えている。ランプの火が手元を柔らかく照らしてゆらゆらと揺れていた。眼の奥が熱い。泣きそうだった。
「もう、子どもじゃないんだからさ……そりゃあ……いつまでたっても頼りないし……情けないし……そんなのが一人前の顔してチェシーさんや殿下を助けに行こうだなんて……余計に心配かけることになるだけかもしれないけどさ……」
何度も眼を瞬かせ、ぐすっと鼻をこすり上げる。
「ツアゼル方面のほうがこっちよりずっと大変じゃないか。なのに、ザフエルさんったら……もう……」
ニコルはつと顔を上げた。掌の薔薇十字を取り上げ、手を首の後に回してとめつける。肌に触れる銀の冷たさはすぐに穏やかな温もりに変わった。
吐息をつく。
胸元に触れ、安堵がそこに宿っていることを確認してから、メガネを持ち上げて涙をぐいと拭う。
ニコルは、決意を込めた微笑を浮かべた。エッシェンバッハに言われたことがようやく腑に落ちる。
国を、ノーラスを護ることだけが役目じゃない。命を賭けて命を護り、己が信ずる道を貫いて正義を示す。それが、騎士の使命だ。
「さてと、ブーツでも磨いとくかなあ」
ニコルはふいにやってきた眠気につられて大あくびした。両手を上げて大きく伸びをする。
明日以降は死線に身を投じることになる。その時が来るまで、せめて休めるときにはたっぷりと休んでおくのがよさそうだった。
翌朝、降り止む気配もない豪雨がばらばらと荷にかけた幌を打ちつけている。夜が明けたかどうかも分からないほどに周辺は暗い。漆黒の雨具に身を包んだ工兵隊は全員が緊張しきった面持ちで整列し、出立の号令が下されるのを待ちうけていた。
ニコルは彼らの視線を痛いほど感じながら表層は肝の据わった様子を装って雨も避けずに進み出た。
主だった参謀士官が周囲に集まってくる。飛び抜けて背の高いエッシェンバッハの黒い影も見えた。
「最終確認です」
皆に聞こえるよう、手を振り、視線を集中させて冷静に続ける。
「レゾンド大尉は工兵隊指揮及び工務全般の統括」
「はっ」
「エッシェンバッハ元帥は部隊を二に分けて架設部隊の護衛と河上流凸部防衛。敵軍による架橋妨害を阻止してください。第一師団到着後は全軍渡河まで援護をお願いします」
「分かった」
「ビジロッテ中尉麾下看護部隊はレゾンド大尉に随行し、撤退してくる第一師団傷病兵受入れ準備及び後送全般よろしく」
「了解です」
「ディー主計官の兵站部隊到着は半日ほど遅れると聞いております」
レゾンド大尉が口を挟む。ニコルはうなずいた。
「半日程度なら支障ないでしょう」
「貴公の出撃はいつだ」
エッシェンバッハは軍帽のつばを指の先で押し上げた。するどい視線が帽子の影から突き刺さる。ニコルは平然と答えた。
「大将が最前線に出て土木工事しなくちゃならないほど人材が不足してるとは思いません」
エッシェンバッハは用心深く目をほそめてニコルを見やった。窺知の眼差しがやがて諒解のそれへと変わる。
「了解」
ニコルはうなずいた。
「その間のんびり対岸の警戒にでも当たっていますよ。で、仮設工事が済んだら半渡を狙われぬようできるだけ早く第一陣を中州づたいに渡河させ橋頭堡確保、捜索救援軍の展開。ゾディアック軍が河岸に到達するのを許すわけにはいきません。任務完了の暁には完全に橋を破壊し撤収することを忘れずに。以上概略ですが各自よろしくお願いします」
「了解」
レゾンド大尉は踵を鳴らして敬礼した。
この雨のなか、大軍を渡す仮橋を架けるのは困難を極める作業になると思われた。急流を越えて対岸に泳ぎ渡ることすら難しい。
せめてザフエルが傍にいてくれさえすれば。
出撃して以来、幾度となく望んでは叶わぬと押し込めてきた思いが再びこみあげる。だがそんなことは考えるだけ時間の無駄だった。ザフエルは遠いツアゼルの地で何倍もの敵兵力を相手に戦っている。来るわけがない。
ニコルは無意識に胸へ手をやった。軍衣の下の護符をぎゅっと握りしめる。
不安がないと言えば嘘になる。あのシャーリア公女が負傷するほどだ。おそらく師団全体にかなりの損害が出ているに違いない。大軍が潰走する敗残の光景を想像してニコルはわずかに震えた。間に合えばよいが――
唇を引き結ぶ。
大丈夫だ。公女にはヴァンスリヒト大尉がついている。
出撃していったあの日、誇らしくも鮮烈にはためいていた銃眼の軍旗を思い出す。記憶に残る輝かしさだった。あの、何度も死線をくぐりぬけてきた忠誠の旗に公女を護り抜けぬなどということがあろうはずもない。
絶対に無事で帰ってくる。シャーリア公女もヴァンスリヒト大尉も、そして。
《封殺のナウシズ》が凍り付く輝きを放って暗い行く手を指し示した。
その日のうちに渡河地点へ到達したレゾンド大尉率いる工兵隊によってリーラ河と支流それぞれの中州伝いに仮の橋が架けられた。上流を守っていたエッシェンバッハからの報告を受け、ニコル直卒の部隊もまた本格的に行動を開始する。
が、渡河の困難さは想像していた以上だった。砲を含め、大軍で一斉に渡るには強度が足りない。通常の流量であれば多少橋を失ってもすぐ修理できるが、これだけの部隊を一時に渡すのは危険すぎる。
しかし悠長に構えている暇はない。ゾディアック軍がまだ到達していないとはいえ、第一師団の行方は杳として知れずアンドレーエからの連絡すら途絶えたままだ。
もしこの中州を失えば渡河作戦全てが水泡と帰す。
エッシェンバッハは索敵のため架橋工事と併行して先発部隊を対岸へ渡すべきと提案し、ニコルもそれを了承した。夜を徹して部隊を中州へと移動させる作業が行われ、翌払暁一気に工事をすすめてゾディアック側の北岸へ至る仮橋を完成させる。
即座にニコル率いる野戦砲部隊とエッシェンバッハ率いる師団混成軍とがゾディアック側へと渡り、右翼と左翼二手に分かれて陣取った。索敵の分隊を放ち、中央に橋を守る橋頭堡を築き砲を置いて後方の連絡線を守る。
降り続いていた雨も今は小康状態を保っている。
昼頃には救援部隊の半数が北岸へと渡った。ニコルは橋頭堡の防衛をエッシェンバッハに任せ、少数の軽騎兵を率いて哨戒に出た。
《先制のエフワズ》も徐々にその反応を強めている。赤い光が時折激しくちらつくのを見てはもういてもたってもいられなかった。第一師団からの急報が届いてからすでに一週間近くが経ってしまっている。あの後即座に撤退を開始していたとしてもノーラスの森を越えてリーラ河沿岸へ到達するのにどれほどの日数が必要になるのか、見当も付かなかった。
道路整備の下見も兼ねて警戒しつつ付近を見て回る。
対岸とはいえ、ノーラス周辺と植層がさほど異なるわけではない。空を埋め尽くすブナやトネリコの野放図な枝振りが視界をふさぎ、まだつぼみにもなっていない木いちごの類が叢生している。
去年、夏の最中に三人で朝食を一緒に取った時のことを思い出してニコルは少し眼をしばたたかせた。さんざん口汚い悪態をつきまくっていたくせにチェシーときたら木いちごのジャムをやたらたっぷりとパンに塗って……
まるで遠い遠い昔話のようだった。
ニコルは森の下生えから眼をそらした。
苔生した岩が森を深緑に染め上げている。
道路の状況はどこもよくなかった。騎乗した馬が冠水したぬかるみに足を取られたり、中には支流からあふれた泥や堆積物に行く手を遮られている箇所もあった。これでは救援どころか騎兵での進軍もおぼつかぬだろう。
危険箇所を発見する都度、地図を広げ、書き込んでゆく。各哨戒部隊の情報を総合すれば、部隊を渡し終える夕刻までにはかなり詳細な地図を手に入れられるはずだった。
ばらばらとまた木々の葉を打つ雨が降り始める。
「アーテュラス司令」
第三師団から出向で派遣されている参謀副官が近づいてきた。馬を引いている。
「そろそろお戻りを」
「は、はい」
ニコルは臆しつつ振り返って森の奥を見やりつつうなずいた。
「でもこれじゃ前進できそうにないですね」
「軍道の整備を優先して急がせるようにいたします」
「あ、その際は僕になるべく声を掛けるようにしてください。《エフワズ》で警戒に当たりますので」
「了解。全参謀に周知いたします」
「よろしくお願いします」
ニコルは気を緩め、かすかにうなずきながら笑った。
「でも、よかったです」
「は、何か」
参謀副官が怪訝な表情を浮かべる。
「ああ、いえ」
ニコルは虚勢混じりの笑みを浮かべ、かぶりを振った。
「ホーラダイン中将がいない状況で僕みたいな青二才に第三師団との連携が上手く取れるか実は不安だったものですから。でも参謀部の皆が挙国一致の思いで接してくれるお陰で今は安心できます。本当に力強く思っています」
「有難いお言葉、光栄に存じます。司令」
促されて馬にまたがり、馬首を返そうとした、そのとき。
激しい雨。
敵が、迫っている。
ふいに《エフワズ》がぎらぎらと光り出した。ニコルは思わず手綱を取り落とし、腕を押さえた。眼の奥が焼けつくように痛み出す。
「て、敵だ」
怒濤にも似た断末魔の叫びが聞こえたような気がした。ニコルは悲鳴を上げそうになって声を呑んだ。
荷物を棄て、牛馬を棄て、狂気に追いたてられ逃げまどう第一師団の惨憺たる様子が脳裏に焼き付く。
続けざまに雷鳴が鳴り渡る。
森の奥に青黒く、どろりとうごめくものの姿が浮かび上がった。度重なる悲鳴。泣きさけぶ女の金切り声。高慢な笑い声が聞こえた。見たことのない男が杖を振りかざす。邪悪な紋章が闇に映し出された。
と、幻影は閃光を放って切り替わった。女郎蜘蛛めいた女の影が森を走り抜けてゆく。こちらは見たことがあった。間違いない。敵第八師団レディ・ブランウェンだ。
「殿下が」
絶句し、大きく息をあえがせる。
「アーテュラス司令、如何なさいました」
ニコルはルーンの幻惑に囚われた意識を必死に引きはがし、現実へと振り戻した。血の気の失せた眼差しで副官を見据える。おそらく初めて眼にしたであろう《エフワズ》の激しい反応に、副官の表情は硬くこわばっていた。
「エッシェンバッハさんに伝令」
声を出すだけで息が途切れる。ニコルはよろめく体を支え、かろうじて鞍にしがみついた。馬が前肢を踏みならす。
「第一師団の所在を察知しました。おそらくは敵第四師団に包囲され殲滅攻撃を受けているものと思われます。加えて敵第八師団の部隊も接近中。早急に兵を回してください。援護に向かいます。他の者はこの場に残って索敵を継続。エッシェンバッハ隊と合流後、ただちに北上を開始します。距離は――」
ニコルは苦悶に表情をゆがめた。指先をこめかみに押し当てる。遠すぎて距離感がまるで掴めない。
「見当も付きません。でも、かなり遠い。たぶんまだ僕らには気付いてない……砲兵はいない、来られない……」
再び雨音が強くなる。草いきれと泥の入り交じった湿った臭いが立ちこめた。濁流の瀑音が遠く聞こえてくる。
ニコルは顔を上げた。参謀を見つめ、素早く尋ねる。
「敵第四師団自体にはそれほどの直接戦力はなかったですよね。現指揮官は――後任は誰でしたか」
「イェレミアス、階級は上級大将」
参謀は我に返り、切羽詰まった様子でうなずいた。
「敵第四は魔召喚を主力とする歩兵部隊と騎兵の混成です。昨年のアンドレーエ元帥提出の調査報告書を見た限りでは交戦時に砲の運用があったとの資料はありません」
「了解。的確な情報です」
ニコルは遠い記憶をたぐり寄せながら表情を険しくした。
「ル・フェみたいな類の悪魔を召喚されたらいざ知らずだけど、チェシーさん以上に召喚できる人間がそうごろごろしてるとは思えない。召喚されたのが下級の魔物なら何百匹来ようと僕ひとりで充分撃退できます。勝算は充分にあると思います。以上、ここまでで何か質問および意見は」
「ありません、司令官」
「では行ってください」
「はっ」
副官はするどい声を上げて略式敬礼し、馬に鞭を入れた。たちどころにその姿が森の彼方へと消えてゆく。
「みんなにお願いがあります」
ニコルは残った騎兵の顔をぐいと見回した。
「できるだけ敵軍の正確な配置を把握できるようやってみますが、でもこの戦域にいるのが主力だけとは限らない。もし敵影を発見した場合は必ず連絡してください。敵は確実に魔召喚を使って来ます。少数だからといって油断してはいけません。必ず集団で行動するよう心掛けてください」
「はっ！」
いくつもの声が重なる。
「引き続き周辺の警戒を怠らぬよう」
ニコルは暗闇に塗り込められた森の彼方を睨み付けた。
雨に加えて風までが激しさを増して吹き荒れていた。森全体が揺れ動いているかのように思える。
馬の足下がまたたくまに立ち騒ぐ水たまりへと変わってゆく。
震え出しそうだった。だが恐怖や不安からくる喪失の震えではない。確信に満ちた決意がみなぎる。
ニコルは手綱から手を放し、鮮烈なルーンの輝きを振りかざして行く手を指し示した。
「願わくは皆にルーンの加護あれかし、です」
「師団長、恐れながら」
黒髭の下士官が進み出た。
「自分の隊が斥候に出ます。ご命令を」
ニコルはわずかに顔をこわばらせた。振り返る。
左腕にずきりと痛みが走る。
「頼みます。気をつけて行ってください」
危機を告げる警告の光を隠し余裕の表情でうなずく。
「了解」
下士官はただちに分隊を率い、森の奥へと駆けていった。
ニコルはその後ろ姿を見送った。
《先制のエフワズ》はなおいっそう赤くくるめき、激甚の感覚を伝えてくる。だが今やもうそれだけでは済まない。先ほどから氷を押し当てたかのようなするどい痛みが断続的に押し寄せ、左手首を痺れさせている。ニコルはくちびるを噛みしめた。召喚の兆候だ。
やがて急を聞いたエッシェンバッハが取りもなおさず動かせる少数の騎兵および戦闘工兵を率いて到着した。森を満たしていた雨音が、馬具の軋めきや跳ね上がる荷馬車の噪音、打ち合わされる鉄の反響にかき消される。
「ご苦労さまです」
ニコルはエッシェンバッハの黒い革コート姿を認めて駆け寄った。
「駄弁はいい。とっとと前に出て工兵の指揮を取れ」
即座に合流し、急進を開始する。先行する工兵が行く手を塞ぐ倒木を引き落とし、泥沼と化した穴を土のうで埋めて捷路を切り開いた。その間にもエッシェンバッハはさらに何隊もの斥候を放って敵状を探らせる。
ある程度森のまばらなところまで進んだのち、部隊はいったん停止した。後続の砲兵部隊を待ちつつ周辺の木を片っ端から切り倒し視界を確保、急造の防塞を築いて休憩する。
次々に斥候が戻ってきてはもどかしい報告を入れてゆく。だがまだ第一師団を目視で捉えることはできなかった。そうするうちに後続の大隊が到着し、ニコルはこの場で敵を待ち受けるかさらに奥へ進むかの決断を迫られた。
「敵との正確な距離関係を確認できるまで砲兵はこの場で待機したほうがいいでしょう」
ニコルは凍てつく光を放つ左手首の《ナウシズ》を押さえた。
「敵には遊撃部隊があります。動きの鈍い砲が大挙して森に入るのは自ら退路を塞ぐに等しいと考えます」
「分かった。次は俺が先行しよう」
エッシェンバッハは冷徹な眼差しをニコルの手元へと向けた。
「索敵を優先する」
「報告！」
と、そのとき泥まみれの斥候が肩を支えられ、半ば引きずられながら転がり込んできた。
「報告します」
霹靂の如きかすれ声が陣中を走り抜ける。
「敵軍の所在を確認。魔物の群れがこの陣へ向かって接近中」
「敵指揮官は確認したか。公女は」
冷静にエッシェンバッハが問い糾す。
「未確認です」
斥候が悲鳴じみた声を振り絞る。ニコルはエッシェンバッハと目を見交わすなり雷雨降りしきる天幕の外へと飛び出した。
腰のサーベルへ手をやり、ルーンの啓示を確かめ、最後にベルトのポーチに忍び込ませた《ラグナレク》のカード――死で死を贖う永遠の黄昏――の冷たい感触を確認する。
「僕も出ます。誰か馬をお願いします」
「司令官のくせに先走る奴があるか。引っ込んでいろ」
エッシェンバッハが傲然と歩み出てくる。
「馬を引け」
無用な音を出さぬよう、左腕に巻き付けた鉄の鎖をぐいと締め直しながら周囲を見回す。その冷静な指示に感化されたか、参謀副官たちもまた動じることなくきびきびと動き出した。すぐさま副官が黒の悍馬と葦毛の二頭を引いて戻ってくる。
「アーテュラス、援護しろ」
言い置きつつエッシェンバッハは従卒が駆け寄るようにして持ってきた銀色の小型盾を受け取り腰へ引っかけざま漆黒の悍馬へとまたがった。手綱を引き絞る。軍馬は前脚を踏み鳴らしてハミを取り、入れ込んだ様子で首を振った。
「第一擲弾中隊、第二騎銃中隊、俺と右翼に回れ。出るぞ」
「誰が後方支援ですか」
ニコルは逸り気味に笑ってエッシェンバッハを呼び止めた。
「魔が相手だというのに《ナウシズ》の守護が先頭に立たずしてどうするんです」
「貴公、少しは立場を弁えろと」
「御冗談でしょう。選抜歩兵は前へ散開して敵襲に備えろ。第一から第四小銃部隊は選抜歩兵へ続け。連隊砲は歩兵後方にて援護、観測班より合図があるまで評定射撃を待て！」
ニコルはひらりと馬に飛び乗った。手綱を取り、馬の首を撫でてやってからにやりと笑ってみせる。
「絶対の防御たる《アルギス》の庇護があるのになぜ引っ込んでいなければならないんです。観測班、前進観測。敵の位置を確認しろ」
「出過ぎた真似を」
エッシェンバッハは苦虫を噛みつぶしたような顔でつぶやいた。
「それを匹夫の勇と言うのだ」
「敵影観測！」
誰かの叫び声が聞こえた。
ニコルは胆の底がぞくりと震え出すのを感じた。
森が揺れ動いている。黒ずんだ臭気が漂いだしているようにさえ見えた。
木の陰に。
暗がりの狭間に。
ほのぐらく濡れた森の底に。
何かがいる。
ふいに、幻影が記憶と意識を蝕んだ。《エフワズ》の予兆が恐怖となって濡れ広がる。
流れくだる毒々しい血。漆黒のまだら模様に覆われた人ならぬものの身体。
黒ずんだ半透明の膜翼がゆらりと闇を指し示す、その向こう側から悪魔の嗤い声が痛ましくも凄艶に響き渡って。
「チェシーさん」
絶句し――同時に、愕然とする。
なぜその名を口走ったのか。なぜ、まつろわぬ魔性の幻影をチェシーだ、などと見紛ったのか。
「ならば公女を確保するまでは断じて退かぬと誓え」
エッシェンバッハが怒鳴り返した。ニコルはぎくりとして我に返った。
「アーテュラス、魔物どもを蹴散らせ！」
「了解っ！」
恐怖を振り払って応じる。
エッシェンバッハは騎銃隊を率いて右翼へと駆け出していく。ニコルは散開歩兵とともに前へ進んだ。
突如、森から何かがどろりとあふれ出るのが見えた。
「マスケット兵、撃て！」
銃声が響き渡った。奇声がつんざく。相手が怯む様子はない。
ニコルは声を振り絞った。
「砲術長、基準砲射撃用意！」
「了解」
双眼鏡を眼に当てた壮年の砲術長が怒鳴った。
「初弾観測二段、撃て！」
連続した爆音が轟いた。地面が揺れ、黒と白の砲煙が流れる。
「弾着確認！」
遙か彼方の地点で左右それぞれに泥と水しぶき、それと魔物のなれの果てが飛び散った。
「右、目盛り一つ低め！ 苗頭調整！ 次で夾叉狙え」
砲術長が怒鳴る。
「第二試射用意！ 撃て！」
ふたたび轟音が大地を揺るがした。
「基準弾命中！」
「全門開けッ」
ニコルは息を呑んだ。
「斉射開始！」
すべての砲が火を噴く。だが、止まらない。まるで後から後から押し出されてくるかのように、実体化した狂気が闇の海嘯と化してみるみるせめぎ寄ってくる。
「歩兵、前へ。敵を押し返せ」
砲では恐怖を知らぬ魔物相手に対処できないと見るや、ニコルは氷碧にかがやく《ナウシズ》を盾に前へと飛び出した。
「ルーンの加護を忘れるな！ 撃て！」
火線が魔なだれに襲いかかった。同時にニコルは掌を天へとかざし、封殺の光を解き放った。光に射抜かれた魔物の姿が瞬時に霧散し、蒸発して消え失せる。
そこへルーンの結界に守られたエッシェンバッハの重騎兵部隊が突入した。巨大な銀の十字剣が華麗な円陣を描いて空に浮かび上がる。
防御の力そのものを反撃の鉄槌に代える聖属性のカード《セイント・クロス》――
息を呑む鮮烈な護りのかがやきが宙に生まれた、次の瞬間。
聖なる盾が密集した魔の軍勢を薙ぎ払った。魔物が無様に隊形を崩し、ちりぢりに吹き飛ばされてゆく。
「師団長っ」
肩を押さえ、転がり込むようにして戻ってきた伝令がニコルの姿を認めて駆け寄ってきた。足下で泥が跳ねる。
「第一師団です！ 第一師団先行部隊の狼煙を確認しました！」
「殿下はご無事か」
誰かが叫ぶ。斥候は恐怖に顔をゆがめながら首を振った。
「いえ、森の中は魑魅魍魎が跋扈しており隊列を組んでの行軍はほぼ不可能と思われます。このままでは手遅れに……！」
「分かった。参謀、全軍に下達。この場にて展開、全砲列をもって敵軍勢の南下をせき止め後方退却線を確保。《カード》を所持する聖騎士は前へ。敵に火力はない。指揮なき魔物の愚連隊は敵に値せず、よって怖れる必要はない。みだりに近づく物あらば容赦なく焼き尽くせ。魔物ごときに情けをくれてやる必要はない」
ニコルは一瞬の逡巡をも垣間見せず、不敵な面構えで兵たちの恐怖までを高々と笑い飛ばした。降りしきる雨を払いのけて声を高める。
「それからエッシェンバッハ元帥に伝令。第一師団の所在を確認。《ナウシズ》で魔召喚を無効化します。その間に直卒騎兵中隊を率いて森へ突入、第一師団撤退の血路を切り開いてください。以上！」
「了解っ」
「出ます！」
ニコルはぐいと馬首を返し、聖騎士の一団とともに進路を北へと取った。《封殺》の光が道なき道を氷の篝火色に染め上げ、青白く照らし出す。
魔の気配が一瞬、かりそめの幻影、黄昏にゆらぐ蜃気楼のごとく退いてゆく。
《先制のエフワズ》がずきりと光った。
感じる。共振している。
今も、どこかで――
また嗤い声が聞こえた。
憎悪にねじれ、闇に熔け堕ちる、金泥の瞳。
視線が突き刺さる。
魔を打ち払う《ナウシズ》の光がふいにがくりと傾いだ。
ニコルは声を失った。息を呑む。
魔の放つ腐臭がどろりとなまなましく森を覆い尽くしている。呼吸すら厭わしかった。馬が惨憺たるいななきを上げて首を振る。
ふいにめきめきと森を押し破る叫喚の津波が押し寄せた。恐怖、狂気、震撼、激情がどよめきと化してなだれかかってくる。
泥を跳ね飛ばして駆け抜ける馬群の前方に突如、魔物がなだれ込むようにして現れた。奇声をあげて襲いかかってくる。誰かが悲鳴を上げた。馬が棹立ちになっていななく。
支え切れず跳ね飛ばされた仲間をかばって別の騎士が立ちふさがった。サーベルを引き抜きざまに襲い来る魔物を切り捨てる。びしゃりと汚濁の腐汁が飛び散った。悪臭が噴出する。たまらずに顔をそむけたその瞬間に魔物が折り重なってむしゃぶりついた。絶叫が天を衝く。
ニコルは腰背に吊ったサーベルを抜き払った。
「お前たちのあるじはイェレミアスじゃない」
《ナウシズ》の聖女マイヤの姿が脳裏に思い浮かんだ。憎悪に焼かれた悲惨な最期の姿ではなく、切に命を護りたいと祈った聖女の、その微笑みと哀しみの涙が腕にとめたルーンの清浄な輝きに重なる。
「契約は無効だ！ 異界へ帰れ！」
聖女の想いを宿した《封殺のナウシズ》が白く、輝く。
きらめきが魔を圧した。光に触れたとたん、魔は瞬時に砂と化して消えてゆく。
ニコルは荒々しく肩で息を弾ませながら森を睨み付けた。《先制のエフワズ》がやにわに光り出す。
何千という数の敗残兵。魔に追われ、潰走する姿にはもはや統制も理性も何もない。あるのは悲鳴と阿鼻叫喚と生への執着、狂乱だけ。足をもつらせた者から打ち棄てられ、あるいは闇から闇へと引きずり込まれてゆく。
その、泥と血と魔の汚物にまみれた生き地獄とも思える光景の中心に――
ついに、傷ついた公女を護る騎士の一団が見えた。
「アーテュラス」
馬群の接近する重低音がみるみる近づいてきた。かと思うとエッシェンバッハの苛立ちの声が頭上を突き抜けた。あっという間に遠ざかってゆく。
「勝手に先走るなと何度言われれば気が済むのだ、貴公は」
「殿下のお姿が見えました」
ニコルは構い付けもせずにその背へと怒鳴り返した。馬を逸らせ、エッシェンバッハの後を追いながらサーベルで前方を指し示す。
「間違いありません。この先です」
エッシェンバッハは振り返りもせずに吐き捨てた。
「まずは我が身を厭え、元帥の分際で」
「それを言うならエッシェンバッハさんだって元帥じゃないですか！」
「俺は別だ」
「アンドレーエさんだって！」
「あれも別だ」
「殿下だって！」
「あれは女に非ずだ」
「だったら僕だって……」
ニコルは思わず口を滑らせかけ、あわてて険しく笑った。
「じゃなくて！ チェシーさんもヴァンスリヒトさんもこの先にいて殿下を護って戦ってる。ここまで戦い抜いてきたみんなを騎士たる我々が助けないで見捨ててどうするんです！」
「喋っている暇があるなら魔物どもを何とかしろ」
「だからさっきからずっと」
ニコルは口をつぐみ、余裕のある仕草で《封殺のナウシズ》をかざした。きらめきの矢で魔を打ち祓う。
「やってるじゃないですか」
ニコルはわずかに息を掠れつかせた。かすかな不安が脳裏をよぎる。
確かに、ル・フェのような凶悪な悪魔がいる様子はない。だが、しかし。
「来たぞ」
どうやらニコルの変調に気付いたらしい。エッシェンバッハは酷薄な灰色の眼差しを闇へと走らせながら言った。
「切りがないようだな」
《先制のエフワズ》が寂寞たる砂漠の色に染まってゆく。ニコルは冷や汗が背筋をつめたく伝うのを隠しつつ、荒い息で笑った。
「そのようですね」
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