戦火 ５
「来たわよ」
薄暗がりに濃密な花の香りが吹き溜まってゆく。
「シャーリアが」
ゾディアック軍第十磨羯宮師団はシグリル村から約半日の距離、まばらな林道によって視界の妨げられた小丘周辺に広く展開していた。
戦線への到着が遅れているわけではない。魔召喚による殲滅攻撃で放棄された各街から放たれた伝書鳩によって戦況は開戦時から今の今まで手に取るように伝わっている。現地徴発のため街道沿いに性急な進軍を余儀なくされている第一師団が目と鼻の先に囮としてぶら下げられたシグリル兵站基地に向かうであろうことはもちろん予測済みであった。
それゆえにサリスヴァール率いるティセニア騎兵が目前の街道を行きすぎてゆくのをあえて見過ごし、後方から追い打つこともせず、兵を伏せ、シャーリア公女率いるティセニア軍本隊がその射程圏内へ刻一刻と近づいてくるのを今や遅しとばかりに待ち受けていたのである。
ざわめき、静寂、緊迫と過度の余裕。相反する感覚が風吹き止まぬ漆黒の山林を支配している。
「隠れてないで返事なさいな、アルトゥーリ」
どこからか金属を打ち延ばすトンカチの音が聞こえてくる。
レディ・ブランウェンは皮肉に笑って腰に手を当て、肩をそびやかせた。
身体にぴたりと添う、いささか露出気味な黒の衣装を身につけ、かろうじて軍衣のように見えなくもない形ばかりの短い上着を羽織っている。左腕につけた蜘蛛の形の腕輪は妖しい紫の微光を孕む《逆襲のエイフワズ》をくわえ込んでいた。
「誰が隠れてるって」
不機嫌そうに唸る声がした。
発射の反動による後退を復座させるため何十本もの太い鉄鎖を密林の蔦のように引きずったターレン型重砲が漆黒の砲身を光らせている。その巨大な駐退機の下に仰向けの姿勢で潜り込んでいた青年が、無愛想極まりない表情を隠そうともせず這いだしてきた。ゴーグル付き帽子に白いマフラー、分厚い革手袋をはめて腰には工具袋を鈴なりにぶら下げている。
アルトゥーリはひねくれた暗いまなざしを美しき毒使いへと向けた。
「何か用でもあんの」
顔や手袋についた煤汚れのことなどまるで頓着せず、軍衣の裾についた土を払っている。
「鋼鉄の大砲ばっかり撫でまわしていないでたまには可愛い子を相手にしてみたらどう」
背後に控えた黒衣の娘たちにちらりと目をやって、レディ・ブランウェンはうすく笑う。
アルトゥーリは鼻に皺を寄せた。
「俺、怖い女は嫌いなんだよね」
「嫌な男。まあいいわ。誰か地図を持ってきて」
レディ・ブランウェンはぱきんと指を鳴らす。黒衣の娘が一人、ひそやかに忍び寄って地図を手渡した。
甘い香りが風に乗って流れてゆく。いざないの香りに吸い寄せられたか、どこからともなくむさ苦しい中年の砲兵たちがぞろぞろと現れ、うっとりした眼差しで黒衣の乙女を見つめ、ぽかんと口を開けて、何を惚けたかトンカチやら方眼紙の束やら分度器やら、しまいには運んでいた砲弾から爆薬の筒束まで木箱ごとがらがらと取り落とすのが見えた。
「あらあら」
「味方の兵まで骨抜きにすんなよ……」
げんなりとこめかみを押さえてアルトゥーリは唸る。
「いいから引っ込んでろ。取り憑かれてもしらねえぞ」
しっしっと兵を追い払う。
いかにも名残り惜しそうな顔の兵士たちや砲術将校たちが砲架の向こう側へと下がっていくのを見送りながらレディ・ブランウェンは微笑んだ。
「第一白羊宮師団がヘルムラッド東に到達。でもあれだけの軍勢ですもの、ブリスダルを越えるだけでも手間取るに違いないわ」
「期待できそうにないね」
「そんなことないわよ。イェレミアスのほうがまだ使えると思えるだけでも素晴らしい存在価値じゃない」
レディ・ブランウェンは腕を組み、科を作った妖艶な流し目をくれた。
「ついでに良くない報せもあげておくわ。ティセニア第三師団エッシェンバッハがノーラス入り。反対にホーラダインかアーテュラスのどちらかがツアゼルホーヘンへ向かったとの情報もあるけどこちらは誤報や虚報が錯綜していて本当のところはまだはっきりしてない。でもエッシェンバッハのことを考えるとあながち偽情報とも言いきれない、というところね。そして相変わらずアンドレーエの所在は不明のまま。彼だけはまったく動きが読めないから気をつけないといけないけれど、シャーリアが何も考えずのこのこやって来たことからつまりこの戦域に存在していない、開戦には間に合わない、と判断してよさそうね」
「今さら有難くもないけど」
アルトゥーリは目の前で白く揺れるレディ・ブランウェンの豊満な胸の谷間にもまったく動じることなくけだるい仕草で頭を掻いた。
「で、イェレミアスは」
「総司令官どのなら予定通りノーラス方面に向かったわ。さんざん文句言いながらね」
「あーあ」
アルトゥーリはいかにもうんざりした唸り声をあげる。
「性格悪い奴ばっかり」
「あら、実直な男の子がひとりいるじゃない」
レディ・ブランウェンは飄々とそらとぼけて片目をつぶった。
「今夜一緒に勝利のワインでもいかが？」
「俺まだ死にたくない」
「……本気で殺すわよ」
レディ・ブランウェンは冷ややかに肩の髪を払った。
「ま、いいわ。あなたのほうはどうなの」
「シグリルの守備隊には適当に抗戦してから砲を捨てて後退するよう言ってある。こっちは第一師団が通り過ぎたら後方の輜重車隊に集中砲火、敵がシグリルに逃げ込んだところで仕掛けておいた爆薬に点火」
長い会話に倦き、アルトゥーリはぶっきらぼうに言い捨てた。
「それでいいだろ」
「問題ないと思うわ」
レディ・ブランウェンは踵を返した。ひらりと手を振る。
「じゃ頑張ってねアルトゥーリ。女王陛下もきっと貴方の活躍に期待してくださってるはずよ」
「ちょっと」
アルトゥーリはその後ろ姿に声をかけた。
「なあに？」
「あのさ」
考え込みつつ、ぼそぼそとたずねる。
「サリスヴァールは本気で来るかな」
陰鬱な吐息を漏らして続ける。
「俺、あんまりあいつとは戦いたくないんだよね」
「さあ、どうかしら。来るかもしれないし来ないかもしれない。状況次第ね。前に逢ったときは結構本気で……だったみたいだけれど」
レディ・ブランウェンは薄く笑って肩をすくめてみせた。
「少なくとも誰よりもあざとくて打算的な男だってことだけは間違いないと思うわ」
翌、早朝。
シャーリア麾下の第一師団は夜の明けぬうちに夜営を畳み、行軍縦隊を取ってシグリルを目指していた。ヴァンスリヒト率いる重騎兵大隊が整然と右翼を守り、中央にシャーリアの歩兵本隊、直後に第一輜重を連ねて進んでゆく。
足取りは重かった。休息こそ足りていたが物資は行き渡らず、兵も馬も長引く行軍を厭い始めている。
散開して先を行く軽騎兵が索敵に走り回っているのが見える。
ヴァンスリヒトは苦渋の思いを心中に押し込め、どこかやつれた、沈み込んだ面持ちで馬を打たせていた。
シグリル進軍の旨をサリスヴァールに宛てて伝えた後、その日のうちに悪魔が送り返してきた通信文の内容は見るに堪えない罵詈雑言の羅列だった。
いっそ現物をシャーリアへ見せればよかったのにと思わぬでもなかった。そうすればシャーリアも少しは眼が覚めたかもしれない。
だがシャーリアの悲嘆を見るのも不条理な誹りを受けるのも本意ではなく、もはや参謀副官ですらない自分が意見できる立場ではないとの無力感もあった。この複雑な感慨がもしかしたらサリスヴァールとシャーリアのただならぬ関係への疑惑――否、誰よりも正しく自らを律すべき聖騎士でありながら騎士にあるまじき度を超した疚しい嫉視だなどと――認めることもまたできるものではなかった。
懊悩ばかりが無闇な堂々巡りを繰り返している。
今のふがいない自分がどれほど正常な判断力を欠いているか、またこの行軍がどれほど無思慮であり危険を孕んだものであるかも分かっていた。いや、分かっていたからこそ、シャーリアのくだす命令通りに動くことだけが軍人の本懐だと思い込むほかなかったのかもしれない。
ただ、茫然として馬をすすめてゆく。
ヴァンスリヒトは重苦しい痛みに苛まれるこめかみを押さえた。シグリルが近づくにつれ、さらにいたたまれなさが増してくる。
突如――
轟音が空をどよもして降り注いできた。隊列が乱れ、悲鳴が飛び散る。
何事かと顔を跳ね上げたヴァンスリヒトの眼に映ったのは、まぎれもない火だった。
隊列の遙か後方で土煙が巻き起こる。
「敵襲ッ！」
ようやく事態を悟った誰かの叫び声が聞こえた。それすら炸裂する砲弾の雨にかき消されてゆく。
とっさに馬の手綱をひき、馬首を返して駆け戻る。
空が震える。
しらじらと青い払暁の空を真っ赤な流星が走り抜けた。弧を描き、無数に降り注いでくる。
街道が地面ごとえぐれて吹っ飛び、砲弾の破片が四方八方へ残酷な切っ先となって飛散した。折れそうなほど身を仰け反らせた馬が断末魔のいななきをほとばしらせ、どうっと横倒しに倒れ込んでゆく。なぎ倒された貨車の柄が無惨にへし折れた。積み上げた木箱が転がり落ちる。
轟音で耳がつぶれそうだった。
硝煙の臭いが吹き流れた。砲弾が炸裂するたび土煙が吹きつけ、鋭利な破片とともに降りしきって全身を傷つけてゆく。
輸卒たちが荷馬車を捨て転がるように隊列を離れてゆくのが見えた。馬のいななき、絶叫、怒号が飛び交う。
「隊列を乱すな」
ヴァンスリヒトはかすれ声で怒鳴った。
「とにかく身を隠せ」
にわかに風が唸りをたてた。煙が流れ去る。街道を長々と埋める縦列の最後方からばらばらと淡い色のドレスを着た女官たちがまろびつつ走り出てゆくのが見えた。
その姿が噴き上がった凄まじい火の手によって遮られる。荷車に積んだ火薬にでも引火したのか。
地面が揺れ、苦い爆風が吹き上がった。
火の雨が降ってくる。
周辺の警戒を怠ったつけだ。
ヴァンスリヒトは首を振って我を取り戻すと馬に鞭を入れた。凄惨な光景をおどり越えて駆け戻り、後方の隊列に向かって大声をあげ、手を上げて誘導をかけてゆく。
次々に参謀部配下の騎兵が集まってきた。
「参謀！ 敵陣への重騎兵による反撃許可を」
「無謀な真似は止せ」
ヴァンスリヒトは北の空を振り仰ぎながら吐き捨てた。
「輜重部隊の離脱が先決だ」
「ですが！」
「援護なしの突撃は禁止事項にあたることを忘れたか。とにかくサリスヴァール准将へ連絡。できるだけ早期にシグリルを確保し防御陣地の構築に入るよう伝えてこい」
「はっ」
「行け。頼むぞ」
ヴァンスリヒトは痛恨の思いを噛み殺し、手を振り払った。
北のなだらかな丘の中腹から火を含んだ砲煙が何本、いや、何十本以上も吹き流れているのが見える。
山が燃えあがっているかのようだった。
これだけの砲列を敷き、かつ精確に狙い澄まして撃ち込んでくるとなると敵の正体はゾディアック第十磨羯宮師団本隊以外には考えられない。サリスヴァールが敵本隊の位置を掴めなかったのも無理はない。前もって布陣し、巧妙に掩蔽して先遣隊をやり過ごしたのち、後方の第一師団本隊が動き出したのにあわせて攻撃を開始したのだろう。
「参謀閣下に報告ッ」
白い軍衣を血と煤と土色に染めた若い輜重騎兵がヴァンスリヒトの姿を認め、馬を急がせ駆け寄ってきた。馬上で敬礼する。
「後方第二輜重縦列、第一小隊から第四小隊分隊に至るまでは被害軽微にして運行に支障なし、よって中隊長判断にて街道から離れ遮蔽物づたいに進行しております。承諾願います！」
背に負った騎兵銃が光っている。
「了解、よく守ってくれた。感謝する。引き続き護衛と輜重車の引率を頼む」
「はっ」
輜重騎兵は轟音に負けじと声を張り上げ再度敬礼した。馬首を返し、立ちこめる煙の中へと果敢に駆け戻ってゆく。
はるかな前方に自軍の軍旗が見えた。
炸裂する砲弾の雨をものともせず、白と赤、薔薇のかがやきを誇らしげに掲げ、高々とはためいている。
ヴァンスリヒトは奇妙な安堵に取り憑かれ笑った。
「急げ。油断するな。すぐに第二波が来るぞ」
その場にとどまり、辛うじて被害をまぬかれた輜重車部隊が速度を上げて離脱してゆくのを大声で鼓舞し、激励する。
「ヴァンスリヒト大尉」
前方の本隊から青ざめた顔の参謀士官が走り寄ってきた。
「姫殿下はもうお通りになられましたでしょうか」
「殿下ならば第一歩兵大隊の行軍指揮を執っておられるはずだが」
「いえ」
参謀士官は今にも倒れそうな顔色をしていた。
「その御用車内に殿下の姿がお見えにならず」
「馬鹿を言え」
ヴァンスリヒトは笑い捨てようとした。
「見間違いだろう」
「側仕えが申すには」
参謀士官は絶句した。
「明日にもシグリルへ到達するゆえ、その、身だしなみを整えたいと、今朝方より他の女官どもの馬車へ……」
砲声が轟いた。敵の野戦砲が一斉に火を噴く。
次の瞬間、耳を聾せんばかりの爆裂音が突き刺さった。礫土が吹き散らばる。あまりの近さに歴戦の軍馬ですら首を激しく振り上げていなないた。
散乱する砲弾の金属破片が頬をかすめ、馬を射抜き、参謀士官の背に突き刺さった。今の今まで会話を交わしていた相手が丸太のように馬上からくずれ落ちる。ヴァンスリヒトもまた破片を浴びて棹立つ馬の背からもんどり打って転落した。危うく馬体の下敷きになりかけたところをとっさに横へ転がって逃れる。
「くそっ」
空を蹴ってもがく瀕死の馬から士官を引き離す。士官は動かない。何の反応もなかった。
「大丈夫か」
手が絶望的にぬるりと滑る。
敵陣にたなびく無数の煙。
ふいに士官が息を吹き返した。凄惨なうめきが血しぶきとともに絞り出される。みるみる深紅の血だまりが広がった。
その姿がなぜかシャーリアの傷ついた想像上の姿とだぶって映る。
ヴァンスリヒトは歩けない士官の重みによろめいた。
「救護車を呼べ。早く！ 早くしろ！」
悲痛な響きすら砲声にかき消される。ようやく到着した救護車はすでに負傷者でいっぱいになっていた。だが無理やりにでも乗せてゆくほかに怪我人を退避させる方法はない。
「すまぬ。耐えてくれ。すぐに治療させる」
ヴァンスリヒトは断腸の思いで救護車を離れた。近くにいた騎兵から馬を半ば奪うようにして借り受け、街道を逆向きに駆け戻る。
砲撃に追われ、逃げまどう女官達が道を中途にして落伍していった場所を中心に、シャーリアの名を必死に呼ばわる。
煤けた女物の靴が転がっていた。菓子の国から来たかのような可愛らしい飾りのついた馬車が無惨に引き倒され街道脇に打ち棄てられている。
割れた手鏡、髪どめ、燃え落ちたレースのハンカチ、中身のこぼれるにまかせたアクセサリーの箱。残骸ばかりが点々と散らばる一方、どこへ逃げ去ったものか女官たちの姿はまったく見あたらない。
突然、倒れた馬車の向こう側からかすかな声が聞こえた。
「聞こえないの……ここにいると言ってるじゃない……ヴァンスリヒト！」
「殿下！」
馬を捨て、転がるように馳せ参じる。
シャーリアの姿を認めたとたん、ヴァンスリヒトは凍り付いた。
血の色が目に飛び込む。
「殿下、お怪我を」
「この馬鹿。今まで何をやっていたの」
逃げようとして馬の蹄にかけられでもしたのか。血染めの足を押さえ、苦痛と涙に顔をゆがめながらシャーリアは悲鳴混じりの罵声を叩きつけた。
「どうせお前もわたくしを見捨てる気だったのでしょ」
「滅相も……」
「馬鹿！ 来るなら来るでもっと早く来ればいいじゃない。どんなに怖かったか……！ いいこと、ティセニアへ戻ったら絶対に軍法会議にかけてやるから！」
「申し訳ございません」
ヴァンスリヒトはシャーリアの前にひざまづいた。
「責めを受ける覚悟はできております。殿下、どうかお手を」
「……馬鹿！」
シャーリアは泣きながら怒鳴った。
「歩けるわけないでしょ、こんな状態で」
「誰か他の者は」
「そんなの」
シャーリアはふいに傷ついた目を伏せ、吐き捨てるように言った。
「全員、わたくしを見捨てて逃げたに決まってるじゃない」
ヴァンスリヒトは息を呑み、蒼白な面持ちでシャーリアを見つめた。
一瞬、耐えがたく唇を噛みしめてから意を決して腕を伸ばす。
「失礼の段、ひらにご容赦を、殿下」
シャーリアの身体を抱き上げ、渾身の力を込めて鞍上へと押し上げる。
「い、痛いじゃない！ 怪我しているのよ、そっとなさいな！」
「申し訳ございません……」
敗戦の痛ましい予兆が脳裏をよぎる。ヴァンスリヒトは馬を引き、砲撃を避けながら進み始めた。
「さてと、これで良し」
漆黒の水に半ば腰まで浸かりつつ、水辺の野草をざぶりと踏み分けてアンドレーエは身を退いた。飛沫のかかった鼻をこすり上げてにやりと笑う。
「音を立てないでください、師団長」
月の光を反射してでもいるのか、闇の裡に青白い苛立ちをまといつかせた眼鏡が光っている。
「何だとお前こそいちいち突っ込んでくるんじゃねえよ声が響くだろ」
黄燐発煙弾を積み込んだ粗末な筏がぎしぎしと流木めいた軋みをあげ続けている。配下の猟兵も全員が水に浸かって工作活動の仕上げに取りかかっていた。きっちりと蓋をしめた油壺を結びつける者、爆薬の箱の防水を確かめる者、もやいの綱を確かめる者。
「万が一失敗すると危険です。火を付ける役は小官が」
「つまり何か」
アンドレーエはむっとして噛みついた。
「お前はこの期に及んで俺がヘマをするとでも」
「全員、配置につけ」
声を押し殺し、立てた親指で向かうべき地点をしゃくり示しながらユーゴは小隊全員に合図を送った。アンドレーエの反論など端から無視である。
「波を立てるな。筏を引き出せ」
筏一床につき二名ずつ配置に付く。
思い切り拗ねかけたのを大人の対応でぐっと堪え、アンドレーエはそれぞれの筏が互いにぶつかり合わないよう細心の注意を払いながら川の中央へと曳かせていった。川中筋の堰で待機するユーゴへ合図を送る。
綱で頑丈に固定してあるとはいえたかだか木を組みあわせた簡易の堰である。流れに翻弄されるなか、片手一本で身体をささえ、ユーゴは顔を緊張にこわばらせつつ縄を切る寸前の筏に手を伸ばして導火線へと着火した。
油を染み込ませた導火線が火の粉を散らして燃えあがる。
筏は早瀬の飛沫を上げて下流へと向かって飛び出し、やがて激しく燃えさかりながらブリスダル街内へと突入した。水門代わりの橋脚に激突し、燃え崩れながらも引っかかって流れをせき止める。そこへ次々に後続の筏が衝突した。
蒸気の混じった爆煙が何本も立ちのぼる。
突如街内からわき起こった火の手に驚いたか、ゾディアック軍の動きがやにわに騒然となった。夜目にもはっきりと白く、建物をうずめ膨れあがってゆく煙幕が見える。
上流の中州にまで聞こえてくる動転の声にアンドレーエは子供じみた歓声を上げた。水しぶきをたてて諸手を挙げる。
「おう、いいぞ。あたふたしてやがる」
「全床流し終えました、師団長」
髪までびしょぬれになったユーゴが冷静に報告する。
「とりあえず橋一本は壊したな。運が良ければもう一本ぐらいおまけで吹っ飛ばせるんだが……うわ、やべえ、気付かれた。見ろ」
対岸にちらほら見えていた松明の火が見る間に数倍、数十倍と数を増してゆらめき集まってくる。アンドレーエはぎくりと引きつれた笑いを浮かべた。
「こりゃ逃げたほうが良さそうだ」
「一撃離脱と言って下さい」
「いちいち訂正しなくてもいい」
アンドレーエは腕を振り回し、ばしゃばしゃと水を弾き飛ばしながら配下の猟兵たちへ笑って合図した。
「全小隊へ通達。第一師団と合流する。各自、敵を避けてヘルムラッドから西へ向かえ。それとヴァンスリヒトに伝令を頼む。ブリスダルは敵勢力十万に占拠され通行不能。南方面へ撤退されたし、以上だ。散れ」
ふいに押し寄せた生暖かい感覚にアンドレーエはユーゴとともにブリスダルの街を振り返った。
見つめる横顔に、冷静な眼鏡の表面に、赤く、まがまがしく。
夜空を染める爆破の閃光が映り込む。
次の瞬間、遠雷の地響きにも似た轟音が鳴り渡った。
石組みの橋脚が炎に包まれて崩れ落ちる。蒸気が噴き上がった。
「任務完了。敵拠点の爆破に成功しました」
珍しくユーゴが口の端を吊り上げ、満足そうな笑みの色に染めるのが見えた。
「撤退しましょう」
「馬鹿野郎。誰がそんなことしてやるものか」
アンドレーエは川から上がった。びしょぬれになった迷彩服を脱ぎ、絞り、手っ取り早く頭をふるってしずくをはじき飛ばす。
「師団長」
ユーゴは顔色をわずかに変えた。
「どういうことです」
「逃げるんだよ！」
アンドレーエは意地悪く笑って中州の茂みへと飛び込んだ。
そのころチェシー率いる騎兵部隊はようやく敵防御線を切り崩すことに成功していた。持てるすべての砲弾を叩き込み、硝煙晴れやらぬうちに火力の薄くなった一点を狙って一気に攻勢をかける。
しかし鬨の声をあげなだれ込んだ騎兵部隊を迎えたのはまさにもぬけの殻と化した敵陣であった。
車軸を折られ、火蓋を抜かれ、歯車を欠いて俯仰機能を失った野戦砲があちこちに抛たれている。
「くそっ」
チェシーは憤りの表情もあらわに駆っていた悍馬の手綱を引き絞った。
「逃げやがったな」
漆黒の軍馬は突進の勢いをすくわれ、鼻息を荒くして土を掻いた。今にも噛みつかんばかりの勢いで前肢を猛々しく踏みならす。
「どうします。准将。追撃しますか。今ならまだ」
配下の騎兵が駆け寄ってくる。
チェシーは一瞬、油断ならざる鋭光を隻眼にみなぎらせて周囲を見渡した。
「いや」
剣を納める冷静な鋼の音とともにかぶりを振る。
「いったん準備を整えてからだ。本隊が来るからな。まずはヴァンスリヒトにシグリル制圧の報を入れろ。次に各中隊、第二騎兵は防御陣地の再構築。敵軍属が残っていれば武装解除しろ。第三騎兵はシグリルへ物資の徴発に向かえ。徴発にあたっては主計少尉を同行させ軍票を発行し、携行口糧を中心に村外へ搬出。その際、住民の扱いはくれぐれも注意し、丁重な対応を心掛けて他に範を示すべく軍紀を徹底させろ。その後は第二騎兵中隊と合流し連絡あるまで当陣地にて待機。いいな」
「はっ」
荒ぶる馬をなかば強引にすすめ、見晴らしの良い丘の上からシグリル周辺一帯をぐいと見はるかす。
小鳥のさえずりひとつ、聞こえなかった。
「この機にあえてシグリルを捨ててくるか……」
「申し上げますッ」
汗だくの伝令が駆け込んできた。
逼迫した様子で声を張り上げる。
「本日早朝、師団本隊第一輜重部隊が山中に潜伏していた敵砲兵師団と接触、約半数に被害、貨車の脱落も多数とのことです」
陣内の雰囲気が騒然と乱れる。チェシーは馬から降りた。部下に手綱を預け、剣を地に突き鳴らして、青くつめたく灯る目で伝令を見やる。
「救援要請ということか」
「いえ」
伝令は首を振った。
「准将にはシグリルの早急な確保をお願いしたいとのことです」
「防御一辺倒か」
チェシーは周到なまなざしをシグリルの方角へとやった。
「だが今さらアルトゥーリ相手に立てこもったところで何の役にもたたん。ひたすらに撃ちすくめられて立ち往生するだけだ。下手をすれば全面撤退が必要になるかもしれないぞ」
「分かりました」
「……アルトゥーリの野郎」
性急に走り去ってゆく伝令の後ろ姿を、チェシーはかすかな侮蔑を含んだ表情で見送った。
「意外にやってくれるじゃないか」
ふいに猛々しく振り返ってにやりと笑う。
「第一騎兵！」
「はっ」
控えていた竜騎兵の士官が駆け寄ってくる。
「ありったけの擲弾をかき集めろ」
砲弾は後備の在庫に至るまで使い尽くしている。もしシグリルで十分な武器弾薬を補充できなければ今後深刻な物資の欠乏を生じる可能性があった。
だがチェシーは阻喪感を吹き飛ばす勇み立った大声を響き渡らせた。
「敵は第十だけとは限らんぞ。機動性のないアルトゥーリ師団が単独で動くことは滅多にない。斥候を放ってブリスダルまでの街道周辺を確認させろ。準備完了次第、シャーリア本隊の救援に戻る」
「了解！」
▼
シグリルにたどり着きさえすれば。
シグリル兵站基地に到達できさえすれば。
誰もがひたすらそう信じていた。
多数の傷痍兵を搬送するには窮余の策として武器弾薬砲架車を捨て、代わりに動けぬ者を乗せてゆくしかなかった。幸い医薬品や衛生用品などは無事だったものの多くの兵はろくな手当てすら受けられずおざなりな消毒と血止めをされるにとどまり、結果、全ての状況がますます悪化してゆくであろうことは火を見るより明らかだった。
たった半日の行程すら地獄への道筋のように感じられるなか、ヴァンスリヒトもまた虚しい執念だけをシグリルの名に抱き、進んでいた。
華やかなおしろいの香りをまとい、蝶よ花よと公女への追従に腐心していた女官たちはたった一度の攻撃を受けただけで主を見捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っている。
孤独と自責、激痛に苦しむシャーリアを乗せた馬車を守りながら、ヴァンスリヒトは表情をさらに険しく、厳しく、後悔にゆがませていた。
早々にシグリルへ到着し、防御陣を敷いて今度こそ敵を迎え撃つ態勢を整えなければならない。急速前進したおかげでどうにか敵砲の射程範囲内から逃れられはしたものの、次に距離を詰められ砲撃されてしまえば、ただでさえ皆無に等しい士気を今度こそ完全に失い、全軍総崩れとなり果ててしまうだろうと思われた。
戦力を温存するなら後退を進言するしかない。
ヴァンスリヒトは唇を血が滲み出るほどに噛みしめた。
だが、シャーリアは自らの負傷が敗退への序章であることなど決して認めはしないだろう。
この遠征が成功裡に終わったと軍部に認めさせるまでは。
例えどれほどの犠牲を払うことになろうとも敵兵站基地シグリルの占領状態を維持しようとするはずだった。湯水の如く予備兵力を投じ、不毛に過ぎる泥沼の消耗戦に引きずり込みながら――
「前方に騎影！ 味方です」
哨戒の兵が叫びながら駆け戻ってくる。
「ティセニアの旗を掲げています」
「友軍か。准将かもしれんな」
ヴァンスリヒトは疲れた顔をわずかにほころばせた。
「応援に駆けつけてくれたか。ありがたい」
舞い上がる後塵がかすかに黄色く見える。それはすぐに騎兵中隊らしき黒い影に変わった。くすんだ青旗がたなびいている。
「いや、待て」
ヴァンスリヒトは眼を凝らした。騎兵中隊は速度も落とさず一直線に突っ込んでくる。
誰何を行うため数騎が前方へと向かって駆け出してゆく。
ヴァンスリヒトはふと不穏な違和感を覚えた。
「違う……」
旗色が違う。ティセニア軍旗は白地に青、加えて聖ローゼンクロイツの薔薇十字旗を必ず掲げるが決まりである。だがあの騎兵隊は。
と、思った瞬間。
謎の騎兵中隊は突如無造作に旗を投げ捨てた。
燃えしたたる銀の火矢が伝い走る。
誰何に出た騎兵が跳ね飛ばされた。のけぞり、もんどり打って転げ落ちる。宙に青白く銀の矢が爆発した。
「《カード》か！」
煮えたぎる銀の火が飛び散る。ヴァンスリヒトは我を忘れて前へ飛び出した。
あの技ならば何度も見たことがある。ゾディアック帝国軍第八天蠍宮師団、暗殺部隊”死の娘たち”首魁にしておぞましき毒使いの女将校ブランウェンが持つ《炎蒼旋》――
腕を振り下ろし、怒鳴る。
「敵による擬装だ！ 迎え撃て！ マスケット兵、前へ。射撃用意……！」
偽りの青い旗、偽りの白い軍服が地に投げ捨てられる。
現れたのは黒と赤の軍衣、口元を闇の布で覆った妖艶な女毒師だった。
紅を掃いたまなじりが笑みに染まり、喜悦にきらめいている。
ばらばらと虚しく迎撃の銃声がこだまする。
土煙にまぎれつつ急迫する騎兵の先頭、黒衣の女の手からきらりと白く光る小瓶が抛たれた。宙に弧を描き、地面に落ち、希薄なガラスの音をたてて砕け散る。
途端、毒々しい鱗粉まじりの煙が噴出した。どす黒い紫と黄色の煤煙が馬の蹄に蹴立てられ風に巻き上げられて吹き寄せる。
煙を吸い込んだ兵が二、三度咳き込んだかと思うと、そのまま顔を土気色に変え、倒れた。折り重なって動かなくなる。
「毒粉だ。吸うな。騎兵は全員、風上へ回り込んで……」
ヴァンスリヒトは声を枯らして怒鳴った。銃に弾を込め、口元が汚れるのもかまわず火薬袋を噛みちぎって火皿に振り入れ構える。
「馬を狙え。第一列、撃て」
もはや釣瓶打ちとはゆかなかった。恐怖に駆られただけの無謀な発砲が散発する。
「第二……！」
ヴァンスリヒトは風に乗って運ばれてきた毒煙を吸い込み、激しく咳き込んだ。
眼と喉の粘膜に灼熱の痛みが貼り付く。
死を誘う毒煙の尾を長く引き、風上を斜に横切るようにしながら、毒使いの女たちが馬で駆け回っている。もうもうと焚かれ続ける煙の罠が次第に狭まり、近づいてくるというのに、もはや眼を開けていることもできず、敵の気配を捉えることすらできない。
煙の彼方から、害意したたる女の哄笑が響き渡った。
ついに隊列が乱れた。
勇壮に鳴り渡っていた軍楽の行進曲がぶつりと途絶え、不協和音と悲鳴のけたたましい噪音に変わる。
息をつまらせた馬が痙攣して肢を折り、前のめりに倒れ込んだ。不意を突かれ、ヴァンスリヒトもまた宙に投げ出される。
したたかに身体を打ち付ける。立ち上がれなかった。目も見えず、息もできない。
咳き込み、もがき、ただ土を掻きむしって殴りつける。シャーリアの名が脳裏にひらめいた。
「殿下……！」
ヴァンスリヒトは毒に侵された身体を無理やり地面から引きはがした。膝をつき、手を突いて、喉の奥まで裏返りそうな咳を繰り返しながら、敵にせめてもの一撃を食らわせんがためにさ迷う。
咳き入るたびに血を吐き、唾を吐いた。それでも汚れた口元を袖で乱暴にぬぐい、銃を杖代わりにして進んでゆく。
煙にまかれ、何度も意識を失ったあと、突如おそるべき至近距離から女の声が聞こえた。
「そろそろね」
濡れた笑い声がひびく。
「この局面だとイェレミアスの手を借りるまでもな……」
ヴァンスリヒトは反射的に身を伏せた。放たれた嘲弄の声を探し求める。
流れる煙の狭間に女の姿が見えた。ヴァンスリヒトは横転し、銃口を振り上げた。
「ゾディアックの悪魔め！」
叫びざまに引き金を引く。轟音が耳につんざいた。反動で銃が吹っ飛ぶ。
女の悲鳴が聞こえ、馬のいななきが弧を描いて地面にもんどり打った。ヴァンスリヒトもまた肩の砕ける激痛に気を失う。
ふいに。
風が頬を撫でていった。
「……あわれな最期ね」
泥靴で顔を踏みにじられる。ヴァンスリヒトは呻いて意識を取り戻した。
「その蛮勇に免じて名の一つでも聞いてあげられたらいいのだけれど」
声にあまったるい毒の喜悦が入り交じってゆく。
「悪いわね。負け犬には興味ないの」
笑い声が幾重にも反響した。
「さよなら」
ナイフが残忍にきらめく。残像が目に焼き付いた。毒がしたたり落ちてくる。
そのとき。
真空の稲妻が戦場を切り裂いた。
風が、音が、時さえもが止まって。
沸き立つ毒沼となって地を埋め尽くしていた煙が、さながら神話の海のごとく右と左、真っ二つに断ち割られている。
合間から青い空が見えた。倒れ伏す将兵の姿が見える。
やがて、凍り付いて微動だにしていなかった煙の壁が、少しずつ砂のように崩れ始めた。流れくだり、毒色の火花を放って、軋めき、震え、鳴動した――と見えた瞬間。
すべてを吸い上げる突風が毒を蒸発させ、ちりぢりに霧散させて、彼方へと吹き飛ばしていった。
「消火完了」
飄々とした声が澄み切った空に響く。
「何とか手遅れにはならずに済んだようだな」
黒衣の毒使いはナイフを振り上げたままの姿勢で愕然と首をねじ曲げた。
「《零式》……」
「よう、ブラン」
チェシー・エルドレイ・サリスヴァールのにこやかな声が降りかかる。
「久しいな。森での襲撃以来か」
「……サリスヴァール……」
毒使いは烈火のまなざしをつと秘め隠した。婉然とした余裕の態度を取り戻し、いざないの腰つきで手を添える。
「そろそろ来る頃だと思ってたわ」
「毒に奇襲に追い打ち処刑。念の入ったことだ」
チェシーはほのぐらい微光の残滓を刀身からたなびかせ続ける魔剣を肩に担ぎ上げた。皮肉に付け加える。
「ずいぶんとお懐かしい真似をしてくれるじゃないか」
半身を斜めに引き、凍える微笑を放つ。
「如何な俺でも聖職者の国ティセニアに在籍していてはなかなか出来る芸当じゃないな」
レディ・ブランウェンは舌打ちしてナイフを投げすてた。駆け寄ってきた女騎兵の差し伸べた手を掴み、ひらりと馬に飛びうつって、そのまま捨てぜりふもなく消え失せる。
チェシーはわずかに肩をそびやかせたあと、表情を変えてヴァンスリヒトの傍らに屈み込んだ。
「無事か、大尉」
「ああ」
ヴァンスリヒトは苦々しくうなずいた。
「貴公には助けられてばかりのような気がする」
「そんなことはない。起きられるか」
チェシーが眼をうすくほそめて尋ねる。ヴァンスリヒトは痛みを振り払って手を突き、身を起こした。
「大丈夫だ」
レディ・ブランウェンに踏みにじられた頬の泥をぬぐう。
敗北に次ぐ敗北の屈辱などもはやどうでもよかった。あきらめに満ちた口調でひくくつぶやく。
「それよりも殿下が心配だ。悪いがご様子を伺って……」
チェシーは奇妙に突き放した様子で笑った。
「自分の眼で見て来たほうがいい」
惨状に気づき、すぐに威儀を正し表情をあらためる。
「俺は他の兵の様子を見てくる。とにかくシグリルはすぐ近くだし食料も十日分は手に入れられると思う。まずは兵を休ませ、態勢を立て直すが先決だ。退くにしても耐えるにしても、な」
言い置いて歩き出したチェシーの背に、ヴァンスリヒトは声をかけた。
「准将」
「何だ」
「もし、准将が指揮をとる……執れると……仮定するならば」
「シャーリアがいるだろう」
「殿下は」
ヴァンスリヒトは声を詰まらせた。
言葉を探しあぐね、黙り込む。
「負傷された。酷いお怪我だ」
ようやく状況を告げる。
「そうか」
チェシーはわずかに痛ましげなまなざしをヴァンスリヒトへと向けた。表情を険しくして東南の空を振り仰ぐ。
「今の攻撃はおそらく時間稼ぎの足止めにすぎん。アルトゥーリが前進してくる前にこの戦域から全速で離脱した方が良い。シャーリアを連れて。それも出来るだけ速やかにだ」
ヴァンスリヒトは力なく答えた。
「准将から……殿下にそう進言していただけると有難いのだが」
「第一師団の参謀は大尉、あんただ」
チェシーはひょいと肩をすくめた。
「俺は援兵に過ぎん」
うなだれていたヴァンスリヒトはふいに息を吸い込んだ。決意を込め、深呼吸し、力強くうなずいて唇を引きむすぶ。
「わかった。そうしよう。感謝する」
「報告いたします」
チェシーの放った斥候騎兵が息せき切って駆け戻ってくるのが見えた。
「ヘルムラッド以東、ブリスダル街道が敵によって封鎖され通行不能になっているとのことです」
「アルトゥーリのことなら」
チェシーが遮りかけたのを斥候は首を振って押し止めた。
「いえ、まったく別の敵増援勢力かと思われます！」
「まさか。あり得ない」
どこか他人事のような、仮面じみた取りつくろいの無表情で答える。
「とにかく」
ヴァンスリヒトは手を振り払った。
「今は負傷者の救出を優先したい。報告は順次聞く。准将、すまないが隊列のしんがりを頼みたい。引き受けてもらえるだろうか」
「もちろんだ」
チェシーは躍如として応じる。
「では、頼む」
言いながらヴァンスリヒトは考え込んだ。
「せめてアンドレーエ元帥の第二師団と共闘できていればもう少し状況が変わっていただろうが……いや、敗軍の将に兵を語る資格はないか……」
「いずれ合流できるさ」
軽やかにチェシーがいなす。
「戦の臭いを嗅ぎ取ることにかけてはやたら鼻の利く男だ」
「そうだな……私とは違う」
ヴァンスリヒトの自嘲気味な物言いにチェシーはふとにやりと笑った。
ひとつためいきをつき、遠いまなざしで空を振り仰ぐ。
「暇になったらあんたも一度ノーラスに駐留してホーラダイン中将閣下の陰険にして華麗なる日常を目の当たりにしてくるといい。あれは、凄いぞ」
ヴァンスリヒトは驚きに眼を見開いた。
「猊下が……何と？」
チェシーは大仰な嘆かわしさを演じてみせながら首を振る。
「いや、何でもない。まさかあの鉄仮面の猊下様が実は単なる×ｘ××だとか○○○○だとかそのようなことは口が裂けても言いふらしたいところなのだが……」
肩をすくめ、笑う。
「要するに、他人の評価など気にするなということだ」
さらりと言ってのけるや、風のように立ち去った。
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