午後の授業は、まるで頭に入らなかった。
「最小値と最大値について。教科書を開いて。二次関数ｙ＝ａ（ｘ−ｐ）２ーｑにおいて、ａ＞０のとき、ｘ＝ｐでとる最小値は何、最大値は何になるか。こんなものは公式だからな、そのまま授業で覚えて帰れ」
板書しながら、怒濤のようにしゃべっているはずの教師の声が、いずことも知れぬ国の呪文のように聞こえた。チョークが黒板を叩く音ばかりが、壊れた拡声器を通したようにハウリングを起こしている。
真後ろから石川が睨んでいる、と思うと、居てもたってもいられなかった。じっと座っているしかない一コマが地獄のように長く思える。だが、身体も、頭も、乾ききった油粘土のように動かない。
今すぐ逃げ帰りたかった。だがどこへ？ たとえ寮に帰っても、どうせすぐに居場所を突き止められる。逃げられるわけがない。
その日の放課後。
「来い」
「ど、どこへ……！」
「だまってついてこい」
ひよりは何の説明もなくいきなり石川に拉致され、真っ暗で狭苦しい教室の隅へと連れ込まれた。
「ひっ……！？」
「妙な声を出すな！」
引き戸を開けた部屋の向こうは真っ暗。窓も何もない。どうやら、用具室だったところを使っているらしい。古道具の嫌な臭いが漂っている。
あまりにも暗すぎてどこに何があるのかもまったく見えない。
ひよりは泣きそうな声を上げた。
「ま、まさか」
（へっへっへ）
（男のくせにかわいい顔してんじゃねえかよ）
（そっちのほうの趣味があるんじゃねえのか）
（や ら な い か）
ぎゃあああああ。
「ち、違いますよ勘違いしないでください僕は健全ですノーマルですウホッじゃないです、ひいい！」
「おいコラ待て。何いかがわしい勘違いしてんだよ」
石川は呆れた顔で言い放ち、後ろ手に部屋の灯りをつけた。
ぱち、と電気の通じる音がして部屋が明るくなる。
「いちいちビクビクしてんじゃねえ。別に取って食うわけじゃあるまいし。ちょっと誰もいないところで心霊現象についてしっぽりと話をしようってだけだ」
「だからそれがまた、ひいいい……！」
「良いから黙って座ってろ、あたまでっかち」
むさ苦しい男部屋というか汚床部屋というか。ごちゃごちゃと私物の散らかった部室の真ん中にある椅子にむりやり座らされ、真正面から取り調べ用の照明を眼に直接当てられる。
「……何なんですかここは」
「心霊写真部の部室だ」
「心霊写真ってこれのどこが」
「何だてめえ、その汚物を見るような目は。ぶっ殺すぞ」
「いや、でも」
思わず、目を疑う。
壁一面に、ずらりとピンナップ風の写真が貼られていた。重なり重なって分厚い鱗のようになっているそこに、主な被写体として映っているのは――
「石川君て」
ごくり、と唾を飲み込む。
もしかしたら、疑うべきは眼ではなく正気だったかも知れない。
「変態の人ですか？」
「変態言うな。心霊写真は俺のライフワークだ」
映っているのは、どれも。
獄文字乙女の姿だった。どの写真も。どの写真も。どの写真も、獄文字乙女が必ず写っている。明らかに異様な下からのあおりが入った写真。超望遠と思われる胸元のアップ。胸だけで獄文字乙女と分かるのは、曼珠沙華のタトゥーのせいだ。
「えっと、質問です」
「受け付けよう」
「これのどこが心霊写真なんでしょうか」
「むしろこれのどこがどこをどう見ても心霊写真に見えないのか教えやがれ」
「エログラビアもどきにしか見えないですが」
「貴様の目は節穴か」
石川は眼をぎょろりとひん剥いた。中途半端なライティングのせいで、隈取りした歌舞伎役者みたいな凄い形相になっている。
「これらの心霊写真からにじみ出てくる、悶々とした怨念を感じられないとでもいうのか」
「……むしろムラムラしたリビドーの執念しか感じないです」
「誰がうまいこと言えといった。ではなくて、戯言抜かすな。良いか、エロスとはすなわちタナトス。見ろ、この部分。微細で芸術的なふくらみのライトアップと反比例して闇の情念を醸し出さんばかりに揺れ動く幽玄の陰影。すなわちびいちくの影に見えるがちくびにあらず。偉大なる性霊の所在を如実に示す重且つ大にして確然たる真の機密と知れ」
石川はおっぱいの頂点に浮かんだ栄光の光と影を指さして平然と主張した。
「そこでてめえを男と見込んで頼みがある」
「嫌です」
光の速さでぴんと来る。スパイ用超小型カメラを手に迫ってくる石川一磨に対し、ひよりは全身全霊で断固たる拒絶を表明した。
「絶対できません」
「ほう、さすがにするどいな」
石川一磨は、悪代官よろしくニヤリとほくそ笑む。
「……やれ」
「無理です！」
「ふうん……素直に従わねえと死ぬまでパシリさせんぞコラ」
笑みに凄味が混じる。
「そんなことさせられるぐらいなら獄文字先生に捕まって拷問されるほうが百倍マシです」
「何だとてめえ」
石川は凶悪に顔をゆがめた。ぐいとひよりの胸ぐらを掴んでつるし上げる。
「おいコラ、まさかこの俺を差し置いてもう乙女ちゃんに拷問されやがったんじゃあるまいな」
「……されてませんけど」
「ああっ良かった！ ぴちぴちに生ゴムロープの食い込んだ恥ずかしい全身タイツを着せられて言葉責めされたいとかペディキュア塗った生足の親指を鼻の穴に突っ込んで欲しいとか、そんなささやかな願望だけは絶対に乙女ちゃんにバラすんじゃねえぞ。誰の夢でもねえ、この俺の夢なんだからな！ 俺は、自分自身の力で、俺の夢を叶える！ いいな、分かったな！？」
「生ゴムタイツ責め」
「うおっ！」
「ペディキュア生足」
「ぐぼあっ！」
「ちょっと、弱点ありすぎなんじゃ……？」
「ハアハア、貴様、なかなかやるな。分かった、そこまで言うなら今日から俺とてめえは友達だ。いや、むしろ新しく幼なじみになってやろう。いっそカズくんと呼ばせてやっても良い。親友の頼みは素直に聞くものだぜ、ひより？」
「いいです、変態の親友なんて要らないです」
「贅沢言うな」
「そこは変態性癖を否定するトコじゃないんですか」
「大丈夫だ！ 俺は、自分を信じてるから！」
「うわ、全力で自分肯定！？」
「馬鹿たれが。自分を信じるって案外、大切なことだぜ？」
一磨は奇妙におとなびたことを言って、ふ、と表情をゆるめる。ひよりは頑強に抗った。
「嫌ですってば。獄文字先生の隠し撮りなんかしたらそれこそ何をされるか。だいたいそんなの心霊写真とかもう全然関係なくないですか」
「強情な奴だな犯すぞコラ。しようがねえ。では、これならどうだ」
ちらり。
「何だと思う」
一磨はかすかに悪どい笑い方をして、おもむろにカバンへと手を入れた。
ものものしげな仕草で四辺を見回し、誰も――他に見ている者などいるはずもないのに、厳重に放送された謎の四角い物体を取り出す。
「これは……」
何やらマル秘資料めいた物体を前に、ひよりは眼を瞠った。思わず一磨の真意を探るべく顔を上げる。
一磨は眼くばせだけで慎重にうなずくと、ゆっくりと身を乗り出し、片膝をついた。
緊張の吐息をひとつ吐き、ひよりの目の前、何やら曰くありげな仕草でテーブルの縁にそれを置く。
一見、何の変哲もなさそうなプラスチックケース。ＤＶＤかゲームのソフトが入る大きさだ。
「まずは、中をあらためてもらおうか」
一磨は、緊迫に引きつった苦い笑いを隠そうともしない。
声に差し迫った調子が入り混じる。
「話はその後だ」
ひよりは固唾を呑んだ。
黒字に真紅の巨大フォント。
ちらり、と。
印刷されたタイトルが目に入る。
「……そんな危険物」
ひよりは血相を変え、じりじりと後ずさった。
中身が何かは分からないが、瞬時におおよその見当は付く。
「何でわざわざ僕に見せようとするんです」
「さあ、どうしてだろうな」
一磨は、にやりと笑うばかりだ。
「やめてください」
「断る」
一磨はケースを手に、じりじりと近づいてくる。
冷や汗が流れ落ちた。ごくり、と生唾を飲み込む。
「さては……共犯者にするつもりですね！」
一磨は片眉をぴくりと吊り上げた。薄ら笑いを浮かべる。
「ほう、察しがいいな」
「とんでもない！ いやです！」
ひよりは全力で突っぱねた。
「そんなもの、獄文字先生や姫乃ちゃんに見つかったらどうするおつもりです」
「バカ。静かにしろ。でかい声を出すな」
一磨は指を立てて口に押し当てた。
「まだ誰にも見せたことないものを見せてやろうってんだ、少しは協力しろ」
焦った口振りで強引に押しとどめられる。
「い、いや、そんなこと言ったって。できないものはできません。本気で何されるか」
ひよりは一磨の手を振り払い、身をひるがえした。足下にちらかったプリントを踏み散らし、脱兎のごとく部屋から逃げようと計る。
「あっ、待て！」
「失礼しましたーっ！」
ドアに飛びつく。冷や汗で手が滑った。
「あっ、開かない」
それでも必死に開けようとして、ノブを掴むものの、押しても引いてもらちがあかない。
「な、何で開かないんだよ」
声をうわずらせながら、がたがたと言わせていると。
背後から、音もなく影がさしかかった。
「ひっ！」
ぽん、と肩に手を置かれ、振り向かされた――かと思うと、力任せに突き飛ばされる。部室のドアに背中が押しつけられた。
「痛あっ……！」
衝撃音がこめかみをかすめた。一磨が、ドアに手を付き、因縁をつけるかのように、迫ってきた。
「いちいち逆らうんじゃねえよ……面倒くせえ奴だな……ああ？」
上から下から、舐めるようにのぞき込まれる。
「ひっ……」
ごくり、と喉が上下した。
カレーうどんを奢ってくれた嬉しさについホイホイとほだされて、もしかしたら一磨が不良かもしれない、ということをすっかり忘れていた。
……ま、まずい……！
完全に怒っている。どこをどう見ても戦闘態勢だ。カツアゲされる……
石川一磨の手は、顔の真横、耳をかすめる位置に押し当てられている。少しでもみじろぎすれば手に当たってしまう、と思うと。
磔にされたように動けない。
「俺の”秘密”を知られた以上、そう簡単に逃がすわけねえだろ」
カチッ
ひよりの背後から、部室のカギを掛けられる冷ややかな金属音が伝わった。
足が震える。絶望的な状況。まさか、閉じこめられた――
「秘密って、言われても」
ひよりは喉を嗄らして喘いだ。
「獄文字先生のストーカーでしょ……」
「確かに闇に忍ぶ者《ダークストーカー》……だがそれはさておき訂正しろ。獄文字”姉妹”だ」
「訂正ってそっち？ って、”姉妹”？ ま、まさか」
「いいところに気が付いたな」
「だめです！ 姫乃ちゃんだけはストーカーなんて……！」
「お？ まさかお前？」
「違います！ そんなんじゃなくて……違いますって！」
じろじろとおもしろ半分に眼をのぞき込まれ、ひよりは、かあっと女の子のように頬を赤くした。息を詰まらせながらも、ぶるぶると首を振る。
「犯罪ですよ、盗み撮りなんて、恥ずかしいと思わないんですか……」
「知りたいと思わないのか、あの姉妹の真実を」
薄暗がりのなか、一磨の凶悪な眼がぎらりと光った。喉元に、ひゅっ、と。
匕首のようなするどさで秘蔵ＤＶＤのケースが差しつけられる。
「たとえば、乙女ちゃんの爆裂美乳噴出水着心霊写真」
「うっ……」
喉に、ちくり、と。罪の痛みが押しつけられた。尖ったケースの角が、良心の痛みをそのままちくり、ちくりとえぐり出すかのようだった。
「獄文字姫乃の……スクール水着ver.心霊写真（※飛び散る青春のしずく付き）、とか、よ？」
「はううっ！」
ひよりは一瞬、脳内で沸騰しかけた壮大な妄想合成映像――
（きゃっ、ひより様ったらぁ……お水かけないでくださいませ、きゃあんっつめたいっ、やだ、何なさって……）
（あははかわいいよ姫乃ちゃんかわいいよ、ほらっ、ほらっ、かけちゃうぞ）
（ああん、もう、ひより様ったら、そんないじわるばっかりして……もう♪）
はじける水しぶき。
青空。プールサイドに笑い声が響く。
真っ白な肌をひりひりに焼かないように、きっと薄手のパーカなんかを着て、リボンのついた麦わらぼうしなんかをかぶって……
あっ……それって、すっごく……かわいい……かも……
ぽわわん……えへ……えへへへ……でへへへへへへ……（以下、妄想ワールドに幽体離脱中……）
「えへへへへ……姫乃ちゃん……♪」
「むふ……むふふふふ……乙女ちゅわん……♪」
鼻の下をでれーっと伸ばしたお馬鹿男子二人が、それぞれの脳内妄想に酔いしれ、ぐでんぐでんになっている。
完全に顔面お花畑。全身ノーガード体勢だ。
と、そこで。ひよりは、はっ、と我に返った。まだ脳裏に未練たらしく残るプールサイドの妄想を振り払う。
ひよりは思いっきり赤面したまま、声を張り上げた。
「だめです、そんなもの」
口では強がりを言いながら、眼はすっかりＤＶＤのケースに釘付けである。
「だからよ、もし俺の最終計画に協力してくれるなら」
同じく我に返ったらしい。一磨もまた、口元のよだれを袖で拭きながら、ぞっとする力のこもった声を低めた。
「この秘蔵お宝動画をまるまるコピーしてやろうって言ってんだよ」
「ひ、人を、そんな非合法な”餌”で釣ろうだなんて、僕は、そんなもの要らな……」
ごくり。喉が鳴る。
獄文字姉妹のなんたらかんたら……とか、やたら惹きつけられるタイトルが半ば見え、半ば隠れて――
「う、ううっ……悪の誘惑が」
必死に顔をそむけようとするものの、つい、じわじわと視線はお宝ＤＶＤへと吸い付けられてゆく。
「同志であるお前なら、分かってくれると思ったんだが、な？」
ほくそ笑んで問う一磨に、ひよりは顔をゆがめ、ぶるぶるかぶりを振った。
「見ませんってば！ 絶対に見ませんっ！」
「……なかなかの”業物”だぞ」
ひよりは半泣きの顔をのけぞらせた。
「見たくないって言ってるじゃないですか！ もし姫乃ちゃんにそんな動画見てるところを見られたら！」
「なるほど。そう言うことか。分かった」
一磨はがらりと声色を変えた。にべもなく言ってＤＶＤのケースを引っ込めようとする。
「では、この話はなかったことに」
「ああっ……！」
「本当は……見たいんだろ？」
「うっ」
ひよりはのたうった。
「うあああ……姫乃ちゃんの水着見たい！ でも見ちゃいけない……乙女先生は怖い！ でも怖いのも見たい……あああ！」
ぐるぐる、悶々とする頭を抱えて、悲痛にうめく。
「ええい、面倒くせえ。もういい。てめえには頼まない」
一磨はいらだたしげに吐き捨てると、ＤＶＤケースをぽい、とばかりに背後へと放り投げた。
「あーーっ！？」
遠ざかる希望に思わず情けない声をあげてしまう。
「と見せかけて実はまだここにあるのだった」
一磨は凶悪に笑った。マジシャンのような手つきでＤＶＤケースを扇形に広げる。
「ほうら見るが良い！ さらにボリューム倍増、秘蔵お宝ＤＶＤ・三部作だーッ！」
「ああっ何て迫力！」
完全に策にはまっている。ひよりは情けない鼻声を上げて、上目遣いに一磨を見返した。
「良いだろう、なかなか決心の付かないお客様のために、今回に限り、通常は一巻だけのところ特別に初回特典として二巻、三巻をおつけしてお届けだ。一巻は日常のふとした表情をとらえたＰＶメインだが、二巻はちょっぴりおちゃめなハプニング映像、そして三巻は何と冬の温泉スキー合宿（ムフフもあるよ？）編」
「温泉スキー合宿……ッ！」
「姫乃ちゃんと乙女ちゃんの、秘蔵湯けむり温泉シーンだぜ……どうだ？ 見たいか？ 見たいなら見たいと言えよ。黙ってたら見せてやらねえぜ……？」
>次のページ
<前のページ
もくじTOP