次の日、緊張しきったひよりの初登校は、無事にクリアされた。朝学活の時間に簡単な自己紹介をさせられたのち、後ろから二番目というきわめて中庸的な位置の席につくよう指示される。
その後は、もう何事もなかったかのように授業開始。
やや拍子抜けするものの、転校生など特に珍しい存在でも何でもないのだ、と思い直す。いくらなんでも自意識過剰だ。他にもまだ休んでいるクラスメイトはいる。
影の薄い転校生が一人加わったからと言って、クラスの雰囲気が劇的に変わることなどあるはずもないではないか。
むしろ自分のことなど誰にも気づかれない方がいい。ああ、そういえばそんな人クラスにいたっけ、ぐらいがちょうど良い。
教師の声が頭上をすり抜けてゆく。ひよりは、誰とも目が合わないよう用心しながら眼を上げた。同じクラスにいるはずの姫乃を探す。
いた。
ひよりとはだいぶ離れた前列の席についていて、背筋を伸ばしている。
まっすぐに教師を見つめ、長い黒髪をうなじでひとつに結び、優等生めいた眼鏡を掛けた姿には昨夜の――じっとりと熱っぽい、湿り気を帯びた面影はかけらもない。
目立つでもなく。消え入るでもなく。
さりとて孤立することなくクラスに溶け込んでいて、ごく自然に、普通に振る舞っていた。休み時間ともなれば前後の列の女子たちと談笑し、教科書をそろえたりしている。
やがて、午前の授業が終わり、昼休みになった。皆が思い思いの場所に陣取ってお弁当を広げ始める。姫乃は、と思って見ると、他の女子と連れ立ち、教室を出て行くところだった。
ひよりはとまどった。
弁当は持ってきていない。だが、探せば購買部か学生食堂はあるはず、と、自分で自分に言い聞かせながら立ち上がる。
人の声が吹き降りの雨のように聞こえてくる。
「だよねー？」
「ね、あれ見た？」
「あー見た見たー！」
「行く？」
「そう言えば最近あの子見ないよね」
「どうせまた引きこもってんじゃん？ んなことより駅前にさー、めっちゃイケメンがいてさー……ラブ運占ってくれんだってー！？」
「えーマジぃ？」
突然、粘着質な視線を感じた。
誰かが、何かを見ている。喉の奥にいがらっぽい感覚がこみ上げた。
無意識に視線を探す。女子の一人と眼があった。
「あ……」
どこかで見たことのある顔だ。
昨日の――
奈々歌、と呼ばれていた子だ。ずっと姫乃を熱心に眼で追っていたことに気づかれたのかと思って、ひよりはぎくっとした。だが、奈々歌の視線はひよりにとどまることなくゆっくりと後ろ側へとそれてゆく。
がたりと、後ろの席の誰かが椅子を動かした。奈々歌の眼もまた、誰かの視線の行方を追いかけている。
その仕草からすると、ひよりを見ていたのではないのだろう。そもそも、ひよりの存在すら、眼に入っていないらしい。完全に違うところを見ている。
ひよりは自己憐憫の照れ笑いを浮かべ、あわててうつむいた。
いろいろと意識しすぎ。考えすぎ。
誰も昨日今日初めて会った他人のことなんか気に掛けやしない。
ふと、クラスの声が遠くなった。
教室が灰色に変わる。
時間が止まったように見えた。色もなく、濃淡もない灰色の世界。
体感温度が、す、っと下がったように感じられた。半透明の何かが、横滑るようにして通り抜けてゆく。
見たことのある影の色。
よどんだ色。
曇った色。
この色、このつめたさ、このいたたまれなさ。
どこかで、確かに――
灰色の影が、音もなく姫乃に近づく。
ひよりは眼を押し開いた。姫乃だけが、異彩の色を放っている。
桜の花の散る間際にも似た、あわいの色。
ほしい
影は姫乃にぬめるような手先を伸ばした。
手も足もないのっぺりとした形で、ぬらり、ぬらりと海藻のように揺れ動いている。
かえせ
半透明の灰色が姫乃の肩を通り抜ける。
ちりん
鈴の音が聞こえた。胸の奥底に忍び入るような、かぼそい音。
影が触れた瞬間、その部分の色が、羊膜がはがれ落ちるように、ずるり、と破れた。
姫乃の色が、奪われる。
奪われてゆく。
もっと
ほしい
……まさか気づいていないのか？
血相を変え、椅子を蹴って立ち上がりかけた、そのとき。
「何それカワイイ。どこで売ってんの？」
「でね、でね、あいつ、……とか言ってんのー」
「ウッゼ、なにそのオトコ！ バッカじゃねーの……」
唐突に色と騒音とが戻ってきた。怪異は消え、元の現実に取り巻かれる。
灰色の影はもう、どこにもいない。
代わりに拒絶の壁がいくつもそそり立った。
「本日の予定は」
「生徒会のみなさま方と会食の約束がございます。どうぞ、こちらへ」
姫乃の姿は、他の女子生徒たちに取り巻かれ、遮られた。
「あ……」
遠ざかる姿に絶句する。もしかしたら、今の現象は他の生徒には見えていないのかもしれなかった。おそらく、姫乃自身にも。
そのとき。
「おい、新入り。メシどーすんだ。弁当持って来てんのか」
真後ろからいきなり椅子の背中を足で蹴られ、ひよりはよろめいた。焦って振り返る。
「え……」
ずいぶんと態度のでかい、いや、図体のデカイ、いや、体格の良い少年がふんぞり返ってひよりを睨んでいた。
「え、その……」
同級生なのだから同い年のはずなのだが。
こ、怖い。
本能的にヤバイ、と感じる。
顔立ちは確かに悪くはない。だが違う意味で極悪に見えた。
目つきの鋭さが尋常ではない。姿勢は悪いし、態度も悪いし、制服の袖はまくっているし裏地は赤だし、そのうえネクタイはだらしなくゆるめられている。一番上のボタンは半分ちぎれたまま。名札に彫り込まれた名前は、石川。
嫌な予感がこみ上げた。まさか……。
（オイコラ新入り！ 焼きそばパン買ってこい！）
（はいただいまっ！）
（オイコラ新入り！ タバコ買ってこい！）
（すみませっ……っ！）
（オイコラ新入り！ 何だてめえビールはどうした！）
（ご、ごめんなさい、お金が足りなくて……ひいっ！）
（ああん？ カネがねえだあ？ 新入りが口答えすんじゃねえよ！ おらケツ出せケツ！）
どこからどう見ても、ドラマでよく見るような、世を拗ねたような眼をして斜に構えた不良、そのものである。
ああ……何という不運であることか。
裸にされて椅子に縛りつけられ、目隠しされ、あまつさえ女王様悪魔みたいなボンテージ仮装をした少年にビシビシとむち打たれロウソク垂らされてあんあんと泣きわめかされる自分の姿を瞬時に想像し、ひよりはいろんな意味での絶望に苛まれた。まさかいきなり目をつけられてしまうとは。
「も、持ってないです……」
しゅんとしてうなだれる。とたん、ギロリと威嚇の目つきで睨み付けられた。
「ひっ！？」
「じゃ、付いてこい」
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