ひよりは自分の部屋に駆け込んだ。カバンを勉強机に投げ出し、ベッドに倒れ込んで枕をかぶる。
また幻影を見たのかも知れない。気が昂ぶっているせいだろうか。だがそれより何より、姫乃に臆病者だと知られたことのほうがよほど恥ずかしかった。
何かにつけ、怖じ気づいて、びくびくして。
ふがいない自分が、嫌だった。
変わりたい。
なれるものならば、違う自分に、なりたかった。
……でも。
どうせ。
紅みたいにはなれない。
比べられ続けてきた過去。思い出してはいけない過去を、また、思い出す。ひよりは手で顔を覆った。二度と会えない弟のことを考えても仕方ない。両親の離婚で引き離されてからもう十年以上もたっているのだ。向こうは向こう。うじうじ、めそめそしてばかりだった同じ顔の兄弟のことなど忘れてしまっているだろう。それに、もし、今、再びどこかで出会ったとしても、きっともっとひどい劣等感に苛まれることになる。
夢の中の獄文字乙女が発した一言が、脳裏によみがえった。
逃げるな。拾え。
夢だと、わかっているのに。なぜか、その瞬間だけは、鮮明な記憶が残っていた。
刀を拾えば。行動を起こせば。
何かが変化する――変われた、だろうか？
いや、確実に変わったはずだった。現実の自分は情けないままでやっぱり変わってはいなかったけれども、あのとき、あの夢の中にいた自分は、追いつめられたあげく確かに刀を掴んでいた。
なのに、思い出せない。
刀を手にした瞬間、身体の中にいた何かが目覚め、うごめくのを感じた。しょせんは夢の中の出来事とはいえ、あまりにもリアル、グロテスクな感覚。そのうえ、正視しかねる何かをしでかしたような気がする。
あのとき、夢の中で。
自分は。
何を、した――？
数分間そうやってめそめそ考えていると、それでも少しは気が晴れた。身体を起こし、おそるおそるカーテンを開ける。
夕暮れの赤い光に染まった町の全景が見渡せた。もっと遠くには、きらめき蛇行する川の流れも見える。
電車の警笛が聞こえた。鉄橋を走り抜ける、独特の走行音が続く。
ひよりは自己嫌悪を振り払った。他の人より一日やそこら遅れたぐらいで、ぐずぐず言っていてはいけない。明日から普通に学校へ行けばいいだけのことだ。
と、そのとき、チャイムが鳴った。ひよりは鼻をこすり、咳払いして声を整えてから、一呼吸いれてインタホンを取った。受話器から姫乃の声が聞こえてくる。
「ひより様、お茶をご一緒にいかがですか？」
「えっ」
「どうぞ、私の部屋へいらしてくださいませ」
ひよりは焦って自分の姿を見下ろした。まだ着替えてもいないし、ベッドに転がっていたせいか、ズボンからワイシャツがだらしなくはみ出している。
「あ、ありがとう。ごめん、ちょっと……」
急いで身だしなみを整えようとしながら、鏡を探し、周りを見回す。
「ちょっと待って、じゃあ、着替えたらすぐにそっちに行き……」
「はい、分かりました。では、少々お待ちくださいませ」
お待ちくださいませ？
丁寧口調の姫乃にしては、言葉遣いがおかしい。
普通、こういうときは「お待ちしています」とかじゃなかろうか？
と。
インタホンの受話器を持ったひよりの目の前で。
隣の部屋というか、別室にして区切られるようにできている、とばかり思っていたアコーディオンの戸が、ぱたり、ぱたりと勝手に開いていった。
「……失礼いたします」
しっとりと若草色の着物を着た姫乃が三つ指をついて頭を下げていた。
「え……」
姫乃はすいと腰を浮かせ、膝をすすめてこちら側へと入り、正座したまま白い手を添えて戸を閉めた。
「お手伝いさせていただきます」
「は！？」
ひよりは受話器を握ったまま呆然と立ちつくした。
「部屋っ！ あれっ！ ６０２っ！？」
「実は、中で続きの間となっておりますの」
姫乃はうっすらと笑った。
「ご不便をおかけして申し訳ございません。でも、代わりに、ここにいる間は、身の回りのことはすべて私にお申しつけくださいませね」
「えええええええええええええええええーーー！！？」
あまりの驚きに、手からぽろり、と受話器がこぼれ落ちる。
形ばかりの間仕切りがあるとはいえ、いくらなんでも、これは……！
「こちらにお召し替えでよろしゅうございますね」
タンスから私服をそろえて出し、並べたあと、姫乃はひよりのブレザーを背後から脱がせ、ハンガーにかけた。ネクタイをゆるめ、白いシャツのボタンに指をかける。
「あっ、その、姫乃ちゃん、着替えは、い、い、いいです自分でやります」
緊張の余り敬語でしゃべってしまう。
「動かないで、ひより様」
姫乃は笑いながらも怒った眼でひよりを睨んだ。ぎゅ、とネクタイをいたずらに引っ張る。
「そんなに逃げられては、手が届きませんわ」
「は……はい……すびばせん……！」
するするとワイシャツを脱がされる。ようやくそれで終わり、と思った矢先。学生ズボンのベルトに手を掛けられる。
「あっ……いや、その……！」
「動かないとお約束くださいましたはず」
「い、いや、でも……！」
ひよりは顔を真っ赤にして身をのけぞらせた。
「い、いくら、獄文字先生の命令といっても、そ、そんなことまで、姫乃ちゃんにしてもらうわけには……！」
「いいえ」
姫乃はズボンのベルトに手を掛けながら、ひめやかに微笑んだ。
「今朝、申し上げましたでしょ？」
「えっ……」
「獄文字家の当主は、乙女ねえ様です、と。他に身寄りとてなく、獄文字の名を継ぐのも今となってはもう、ねえ様と私の二人だけになりました」
「……だ、だから？」
「ですから、”光月”を手になさる資格をお持ちのひより様にこそ、お願いしたき儀があるのです」
「……”光月”……？」
「よもやもう、お忘れになってしまわれたと？」
咎めるような黒い瞳が、揺れて、濡れて。すがるようにひよりを見上げている。
しっとりと匂い立つ和の装い。ひやりと白い襟元が目を射た。
「ひより様」
抜けるように白い首筋。
「う……」
ごくり、と息を呑む。声が出ない。
そそと寄り添う姫乃の白い指先が、ひよりの胸をひっかいて、せつなげな弧を描いた。
「獄文字家に……」
どきん、と。にわかに心臓が高鳴った。色めき立つ頭に血が上りつめてゆく。
気圧が変わって鼓膜が押されるような感覚が襲ってきた。甲高い耳鳴りがし始める。
訳がわからない。いったい、どうして。
何が。
どうなって。
こんなことに――
「どうか、今宵、一夜のお情けを」
熱く潤んだ瞳が、まっすぐにひよりを見上げている。
「ひいいい！」
ひよりは真っ赤になって前を押さえた。ぱんついっちょで転がり逃げる。
「ま、ま、待って姫乃ちゃん、話が見えない」
「見えなくても構いませぬ」
「構わなくないですっ！ は、話し合おう？ ぼくたち、知り合ったばかりです！」
「あら、そうでしたかしら」
姫乃は指先をくちびるにあてて、きょとんと小首をかしげた。
「うーんと、では」
可愛らしい仕草で指を一本立て、にっこり。
「今夜ならばいかがでしょう」
「同じです無理ですっっ」
「では、明日」
指が二本に増える。ちょっと待て、一本と二本に一体どんな差があるというのか。
「い、いえ、そういう問題ではっ……」
頑強に拒み続ける。
と、姫乃の表情がぽきりとくじけたように沈んだ。
「もしかしてひより様は、私のことがお嫌いなのですか」
うるんだまなざし。不安のよぎる眉をひそめ、くちびるをとがらせ、何とも悲しそうな眼でひよりを睨み付けている。
その複雑に入り組んだ表情につと胸を突かれ、ひよりは思わず身体をこわばらせた。
「いえ……そんなことは……ないですけれど……」
「じゃあ、約束ですわ」
姫乃はころりと笑み崩れてひよりにすがりついた。声をうわずらせ、頬をうっとりと甘く染めて、ぴと、と寄り添う。
「わっ！？」
「うれしい！ ああ、姫乃はほんとうにしあわせものですわ。ね、ひより様、絶対にお忘れにならないでくださいましね？ 約束ですよ？ ね、ね？ あ、そうだわ、ゆびきりしてくださいませ。明日、必ず姫乃と……お手合わせくださいますようにと」
弾むような声を上げて、頬をひよりの胸へ寄せる。姫乃はひよりの小指を取った。
「ゆびきり、げんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます♪」
小指同士をからめてつないだ手を振り動かし、ころころと笑う。どこから持ってきたのか、赤い毛糸をよりあわせたものを指輪の形にして、小指に嵌める。
「それは、ど、どういう意味で」
「うふふ、ナ・イ・ショ♪ でも、うれしい。ひより様とおそろい、ですわ」
いそいそと器用に毛糸を結んでいる。
その可憐な笑顔に、ひよりは絶句した。
これは、何……？
ま、まさか。
そんな。
いや。
あり得ない……
状況がまったく理解できない。ただただ、片手でぱんつの前を押さえ、片手で姫乃とゆびきりげんまんしつつ、呆然とするひよりなのであった。
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