不思議なことに、学園前のバス停には誰もいなかった。そろそろ日も暮れようという時刻だ。学校帰りの生徒や、その辺をランニングしている野球部あたりがいそうなものだったが、なぜかぽかりと時間に穴が開いたようで、誰の姿も見ない。
今日は、いったい何だったのだろう。
考えても考えても訳が分からない。
バスの停留所まで歩くだけでやたらと気が落ち着かなく、ふわふわして、まるで地に足が着かない。
姫乃は無言だった。だが、相変わらず、しとやかな微笑みを浮かべ、半歩下がった位置にぴったりと付いてくる。
学園前の道路は広々としているが、行き交う車はまったくなかった。
陸橋を渡って、アクリルの屋根を作りつけたバス停に降りる。
どこかからカラスの鳴き声が聞こえた。
鬼辻坂学園前、と書かれた停留所の横に、もじもじと並んで立つ。何だか、居心地が悪かった。
「あ、あの」
「はい？」
「えっと」
ひよりは口ごもった。正直、途方に暮れた。
（今朝、獄文字先生がバラバラになってたと思うんだけど、あれ、どうなったの？）
と単刀直入に聞いたとする。だが果たしてそんなひどいことを女子の前で平然と口にして良いものか。
（ひより様ったら、何てひどいことを）
（サイテイですわっ）
（もう、大っ嫌いっ）
両手で顔を覆って号泣しながら、だーーっ！ と逃げてゆく姫乃の後ろ姿が容易に想像できた。グサグサと言葉が脳裏に刺さる。
サイテイ……
だいっきらい……
百トンのハンマー直撃よりもきつい。そんな一言を食らったらまさにどん底だ。がっくりと肩を落とす。
それにしても、と。
ひよりは頭を抱えた。
ふと冷静になって自らを省みると、あまりにも馬鹿馬鹿しくて、苦々しくて、正直いやになってくる。妖怪を呼び寄せる体質らしいことはもう分かっているし、あきらめてもいるけれど、ここまでリアルな幻覚を見た記憶はない。その上、自分で勝手に見た迫真の幻影があまりにも怖すぎて、途中で気まで失ってしまったらしいし。
「な、何でもないよ」
「はい、ひより様」
ごまかすひよりの態度を、姫乃は怪訝に思う様子もなかった。にっこりと上品に笑って受け流してくれている。あれこれとしつこく聞き返す素振りすら見せない。
生まれ持った気品、とでも言うのだろうか。完璧な立ち居振る舞いに、ひよりは一人気恥ずかしくなって顔を伏せる。
でも、と、そこであれこれ思い悩むのをやめにする。
そこをはき違えてはいけない。幻覚で良かったのだ。もしあんな恐ろしいことが”事実”だったら、と考えると、胃の腑がきりきりと絞り上げられたように苦しくなる。
ちぎれた足が跳ね転がった、鈍い音。
思い出しただけで、背筋のあたりがぞくりとつめたくなりそうだった。
「その、様って言うの、やめてくれないかな……」
かぶりを振り、気を取り直す。落ち着かないのは、たぶん姫乃の可憐すぎる話し方にも一理あるのだろう。
「僕なんて、様って柄じゃないし、だいたいおかしいよ、その……ただのクラスメイトなのにさ」
「ひより様はただのクラスメイトではありませんわ」
「いや、それもよく分からないんだけどさ。とにかく、様っていうのだけはやめて欲しいんだ」
「それはできませんわ。乙女ねえ様からも、決して粗相の無いようにせよと仰せつかっておりますもの」
ぷぉん、と気の抜けたようなクラクションが聞こえて、スクールバスが近づいてきた。
今朝、一瞬だけ衝突寸前に見たバスと同じデザインだ。行き先は「学園寮経由 鬼辻坂駅前」。
どきりとする。夢の中で見たにしては、ずいぶんはっきりと細部まで思い出せるような気がする。
ガスの抜ける音とともに、昇降口のドアが開いた。一番後ろの席が空いている。二人で、並んで座った。
「次は、喫茶ヒャクガタリ堂前。喫茶ヒャクガタリ堂前……」
バスは静かに走り始めた。
車窓の光景が流れてゆく。
シートに座ると、がくりと力が抜けた。我知らず、ため息が漏れた。
現実感がまるでない。土地勘のない、見たこともない路地裏に迷い込んでしまったときに似ている。
ここがどこで、自分が何をすべきなのかが、正直まったく分からない。
ただ、言われるがままにバスに乗り。
導かれるがままに、降りる。
経験も素質もないのにいきなり初舞台の俳優に抜擢され、主役級の演技をしろと要求されたようなものだ。他の皆は才能もあり、輝きのオーラを持っているのに、自分だけが話の筋も何も分からずに右往左往している。
「どうかなさいまして」
「ううん、何でもない」
不安を押し殺して、かぶりを振る。
姫乃には相談できない。幻覚を見るとか、幻聴が聴こえるとか、下手にそんなことを言ったら、電波な人だと思われ軽蔑されるのが関の山だ。
良くあることだ。いちいち言わずに黙って我慢していれば、誰にも分からない。
ひよりはためいきをついた。
「姫乃ちゃん、ひとつ、聞いていい？」
「はい」
相変わらず姫乃はたおやかに笑っている。
「何でございましょう」
西日が逆光になって、人形のような姫乃の美貌を謎めいた影で半分、秘め隠している。
キラキラと透き通るように赤い夕日。ひよりは、ふと、懐かしい過去を思った。
熔け落ちるかのような紅の光。
「今日、始業式だったんだよね」
「はい。ひより様はお倒れになってしまわれましたので同じクラスの私が僭越ながら代理として提出書類等、受け取らせていただきました。教科書と、それから学園からのお知らせが何通かございます。あとでご確認くださいませ」
「その……」
唇を湿す。言っていいかどうか分からないが、確かめずにはいられない。
「今朝のことだけど……あの……」
「百鬼夜行のことですの？」
「いや、その」
ひよりは声を呑み込んだ。自分から問いかけておきながら答えようもない。
ごくりと喉の奥が鳴る。
しばらく信号でアイドリングストップしていたバスが、エンジンを掛け発進した拍子に、がたん、と大きく揺れた。曲がるついでに加速してゆく。
「わ、……っと！」
かなり強い遠心力が加わる。ひよりは姫乃のほうへ身体が倒れかかるのを必死に踏ん張ってこらえた。
と、今度は逆方向への揺り戻しが来た。姫乃の肩が腕の中によろけかかる。
揺れる身体を支えようととっさに伸ばした手が、姫乃の指先に、触れた。
指先までほっそりとなめらかな手。
「ご、ごめん！」
よろけかかられたことより、手が触れてしまったことのほうがよほど不意打ちだった。顔が赤くなるのを見られないうちに、あたふたと手を引っ込める。
「今の揺れ、すごかったね」
「はい……びっくりしました」
姫乃は触れた手を恥ずかしげにさすり合わせ、顔を伏せている。
ひよりは焦って目をそらした。姫乃を見ているようで見ていないまま、泡を食った早口でまくし立てる。
「さ、さっきの話だけどさ、今朝のあれってさ、ホントたちの悪いいたずらだったよね。まったく困ったもんだよね、いったい誰があんなことしたんだろうね、ずいぶん手が込んでたみたいだけど」
「いたずら……ですか？」
姫乃は困惑の面持ちでじっとひよりを見つめるばかりだ。
車窓の向こうを、赤い屋根の喫茶店が通り過ぎた。誰も降りない。バスはそのまま停留所を行き過ぎる。
「えー、次は鬼辻坂学園寮前〜」
姫乃はふっと目線をはずし、ボタンを押した。柔らかな電子音が流れる。
「次ですわ」
「う、うん……」
会話がとぎれる。
停留所にバスが止まる。二人は無言でバスのステップを降りた。背後で折りたたみの自動ドアがしまる。バスは駅方向へと走り去った。
横断歩道で道路を渡って、横道に入り、学生寮へと歩いて戻る。
こういうときこそ、ぱっ、と何気ない軽口を叩けるといいのに。
いったん閉じてしまった口は貝のように重く、改まって女の子と話すなんて到底無理。めちゃくちゃ緊張してしまって、何から話せばいいのかもよく分からない。
こんなことならいっそ、はやくさよならを言って楽になりたいと――心にもなく足早に歩いてしまうぐらいに、どきどきが収まらない。
「あら、奈々歌さん」
寮の玄関先に、誰かを待っているらしい女子生徒が見えた。よほど手持ちぶさたなのか、コンクリートの地面を何度もエナメル靴のカカトで蹴っている。
「姫乃さま」
思わぬ鉢合わせに、女子生徒は目を瞠った。
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