そよそよと白いカーテンが揺れている。
まぶしい。
窓際のベッドに寝かされている。見えるのは四角く切り取られた窓の外の光景。
盆栽みたいな植え込み。池に掛け渡された丹塗りの丸い眼鏡橋。一メートルほどしかない橋なのに擬宝珠飾りが付いている。こんもりと丸く刈り込まれた柘植の植栽の向こうに埋もれるようにして真赭の四阿、石灯籠などが見てとれる。
「……あれっ……？」
ふわり、とまたカーテンが揺れた。
明らかに午後の日差しと分かる黄色みを帯びた太陽の光が、斜めに傾いでベッドに落ちている。
外からは体育会系の声が聞こえてくる。金属の打撃音。応援の声。気合いを入れる声。リズムを取った威勢の良いかけあいの声。どうやらもう、放課後の時間帯らしい。
いったい、何が、どうなっているのだろう？
時間の経過を追うのに疲れて、ぼんやりと天井の蛍光灯をながめる。
ひよりは、眼を瞬かせた。
「あれ……ぼく……いつの間に寝ちゃったんだっけ……？」
誰もいないときにひとりごとを言うのは、ずっと染みついている孤独癖のゆえだ。
ぼんやりとしていた意識がようやく焦点を結んだ。
右側は窓。左側はよく診察室で見るような布製のパーティションで仕切られている。
はっと我に返る。ここは、たぶん、保健室だ。
記憶が舞い戻ってきた。
確か、始業式に間に合うようにと車で送ってくれる最中、獄文字乙女先生が、百鬼夜行とか何とか訳の分からないことを口走りながら車をＵターンさせた。その後、いったい、何が起こったのか――
不思議なことに、途中で記憶がぷつん、と途絶えている。
「あ、あの、すみません、誰か……」
不安に駆られ、心許ない声をあげる。
「やっと眼が覚めたか」
声に呼ばれ、パーティションのカーテンがさっと横に押しやられる。息を呑むひよりの目の前に、白衣を着た獄文字乙女が立っていた。
「うっ……？」
一瞬、脳が目に映る情報の処理を拒否する。
見えている。
何が、と尋ねられれば、白衣が、と答えるしかないのだが。
その胸元は、ほとんどへそちかくまで大きく開いていた。もちろん、下には何も――いや、きっと気のせいだ。邪な心の持ち主には見えない下着を着ているに違いない。生唾を呑み込むような素肌の色。大きく開いた胸元には、やはり曼珠沙華のタトゥーが扇情的に見え隠れしている。
「どこを見ている」
「い、いえ」
あたふたと目をそらし、耳まで赤くしながら、気づかれないよう、鼻を押さえる。
明らかに、今朝とは雰囲気が違う。
フェティシズム全開前ボタン全開の白衣は暴発寸前の爆乳ではち切れんばかり。梵字入りの黒い眼帯は、ふかふかしたぴんくのフェイクファー系ゴス眼帯に変わっている。
いや、ちょっと待て。
今朝？
ひよりは眼を泳がせた。
どうやら、夢と現実がごっちゃになっているせいで記憶が混乱しているらしい。
今朝、何が起こったか。
閃光のような光景が脳裏をよぎった。思わず記憶に蓋をする。
何も、見なかった。
胸の奥の深いところで、ぶよぶよとうごめいている”記憶”は、なかったことにする。
あれは、”夢”だ。あんな出来事が現実に起こるわけがない。夢に決まっている。
自分で自分に言い聞かせながら、気づかれないよう、ほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうだよな……よかった……」
とはいえ、なぜそんな”夢”を見てしまったのだろう。
ぴったりくる言い訳を、頭の中からいくつか引っ張り出して、より分けてみる。
始業式。遅刻。事故……どれもしっくりこない。が、たぶん、どうせまた貧血を起こして倒れでもしたのだろう。よくあることだ。
そうでなければ、目の前でバラバラにされた獄文字先生がこんなところにいるわけが――
ぎくりとする。つぶさに覚えているあの光景が、夢……？
「一年Ａ組、御桜ひより」
獄文字乙女は、くねるような所作でひよりの傍らに腰を下ろした。手を伸ばしてくる。
「はっ、はいっ？」
ぎくり。
「なっ、何ですか……」
反射的に身体をずらして起きあがりかけた。
「熱は」
真紅のネイルを施した手を、ひた、と吸い付かせるようにひよりの額へと押し当てる。
「ないようだ」
「うひゃっ」
「どうした。何を怯える」
「い、いえ、その、いきなりだったもので……」
「……他にしてほしいことがあるのか」
「えっ、その……」
かあ、と顔が赤くなった。
ただでさえ声が近くて、耳をくすぐられているようで、しゃべりかけられるたびに、むやみにどきどきするというのに、鼻先に曼珠沙華のタトゥーをちらちらさせられては、つい……目を奪われてしまう。
「いえ、その、もう、ぼく、大丈夫ですから、じゃ、そ、そろそろ帰ろうかな……」
「動くな。無理は禁物だ」
吸い寄せられそうな甘い香りが鼻腔をくすぐる。女の人のにおい……ふしぎな、和風の香水の匂いだ。
やわらかな手が、ぬくもりのこもった香りと一緒に頬に触れた。かすかに汗ばんで湿った前髪を、赤いネイルの爪がかきわける。
どきり、とする。心臓が跳ね上がった。
「先生……」
「学校のことは気にするな。校長には俺から説明しておいてやった」
仕草があまりにもあやうい。爪の先で、つ、つ、と耳たぶをいじられる。
「あ、うっ……先生……」
ひよりは、びくん、として身体をすくませた。獄文字乙女は、誘うように微笑む。
半ばのしかかるように、ひよりの腰あたりに手を置き、身を乗り出す。ほんの少し、みじろぎするだけで、目に胸の谷間の残像が白く焼き付いてしまいそうだった。
揺れる胸元を見せつけるようにして近づいてくる。
妖輝を帯びた瞳が、暗く燃えている。
「ひより」
唇が半開きに開いていた。つややかにぷっくりと濡れている。
「は、はいっ」
ますます、近づいてくる。
獄文字乙女の胸元からは、ぞくりとするフェロモンの香りが漂っていた。
「今朝のお前……すごかったぞ」
「は！？」
絶句する。
指が蛇のようにくねる。頬から首筋へ、うなじへと回って、するするとからみついた。斜に構えた妖艶な流し目が、ひよりを捉える。
熱い吐息が、ふっ、と首筋へ吹きかかる。
「……お前なら俺を満足させられそうだ」
真っ赤なルージュにつやめく唇が、ゆるゆるとつり上がる。口の端に、白くなまめかしく光る歯が見えた。
「夜の世界でも、な」
「い、いや、先生、何言ってんすか……意味わかんないです……あっ」
「とぼけても無駄だ。俺の身体にこれだけの火を付けておいて。まだ、一人寝の寂しさを紛らわせろと言うのか？」
とろけそうな熱い唇にささやかれる。耳朶を、かりっ、と噛まれる。
「わっ……！」
つい、びくっ、と身体がのけぞる。
「ぼく、別に、何もっ……あっ……」
そのとき。
「ひより様、そろそろバスの時間ですわ。一緒に帰りましょ」
こともなげに微笑む声が降ってくる。
「わあっ！」
しとやかに頭を下げる女子生徒の姿が眼に飛び込む。
ひよりは仰天してベッドから半分転げ落ちた。枕を抱きしめ、声をつんのめらせる。
「き、姫乃ちゃん……！？」
「ちっ。いいところだったのに」
獄文字乙女は、あからさまに舌打ちして顔をそむけた。大きく開いた胸元をかき合わせ、乱れた耳元のほつれ毛をなでつけて直す。
「どうかなさいまして？」
きょとん、と小首をかしげた拍子に、くせのないまっすぐの髪がさらりと揺れる。
そこには、清楚に微笑む獄文字姫乃の顔があった。
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