表情が、激変する。
ひよりは、はっ、と息を呑んだ。
姫乃の微笑みが、みるみる白く張りつめ、凍り付いてゆく。
「私、あきらめますわ。乙女ねえ様の悲しむお顔なんて、見たくありませんもの。きっと良かったのですわ、これで」
眼に焼き付く涙色の微笑み。
「私の大好きな乙女ねえさまは、もう……お隠れあそばして……しまいましたから」
ぽつん、と白く。
闇に、涙のしずくがはぜる。
水琴窟の音をはじかせて。
「姫乃ちゃん……」
ひよりが、刀を受け取ろうとしなかったから。
獄文字乙女は自ら人柱になった。
ひよりが、”力”を受け取らなかったから。
次の百鬼夜行には、姫乃も自ら身を捧げるという。
ひよりが、”運命”を拒絶したから。
また一人。
次の一人。
誰かが、消える。
喰らわれて。死ぬ。
それは、
あまりに理不尽。
あまりに唐突。
あまりにも不条理すぎる――命運の天秤。
「嘘だ！」
「嘘ではありませんわ」
「嘘だ」
ひよりは、吐き絞るような抗議の声をもらした。声がかすれ、裏返る。
「何でぼくなんだ。どうして僕なんだよ。誰か他の奴にしろよ。僕みたいな、ひよわな、何もできない奴じゃなくて、スポーツ万能で、頭がよくて、要領が良くって、カッコよくって、モテて、運動神経のある奴、運の良い奴、いっぱい、いっぱいいるじゃないか。僕よりもずっと強くて何でも器用にできそうな奴。才能のある奴！ 何でそいつらじゃないんだよ。何で……こんな時に限って僕が、矢面に立たなきゃならないんだ……！」
姫乃相手になりふり構わぬ抵抗を振りかざす。
どうしようもない、逃げられない。そう知りながらも、うめきたかった。逃げたかった。拒絶したかった。
「ひより様が、ひより様でいらっしゃるから、ですわ」
姫乃は淡々と答える。あまりにも自明の理。
愕然とする。
「勝手に決めつけないでくれよ。何を言われたって、できないものはできないに決まってる」
ひよりは、ぶるぶる震える手で錆びたなまくらを指さした。
「……包丁だってろくに握ったことないのに。身体が弱いせいで、授業の剣道だってぜんぜんまともにできなかった……素振りの仕方も知らない……」
ひよりは頭を押さえた。今にもまた、あの”声”がよみがえってくるような気がした。何度も聞かされてきた、あの”声”。
何あの子――気持ち悪い
また何かげえげえ吐いてる――
何で――こんな子のほうを引き取っちゃったのかしら
「イヤだ……イヤだ、できないよ……」
ひよりはうめいた。涙が止まらなかった。恐ろしさと、情けなさと、過去に囚われている自分のあまりの不甲斐なさに。
すすり上げる鼻声が、しゃっくりのように裏返った。
嗚咽が、もれる。
「無理のようですわね」
その様子をうかがい見て、姫乃は寂しげに笑った。
「では私も明日、人柱に立つことにいたしますわ」
「だめだよ……」
「……ねえ様のいないこの世になど、何の未練もございませんもの」
赤いピンヒールだけを残して獄文字乙女は消えた。そして、目の前の少女もまた、自ら消えると――
獄文字乙女を呑み込んだ球体は、みるみるちぢんでゆく。今にも消えてしまいそうだった。
「姫乃ちゃん……」
ひよりは悲鳴めいたわめき声を上げた。
自分が、情けない男なのは分かっている。
咳をすれば、悪障が妖怪の手となって、口からはみ出す。どろりと痰のようにこぼれる。
他人には見えないと分かっていても、いつ、見られるか。いつ、知られるか、とびくびくして、怯えて。
（ひよりは、おくびょーだな）
紅。
（まためそめそしてんのかよー）
まったく同じ顔をした、双子の弟。
（おれとおんなじだろー？ そんなもん、ちょっとまずいガムだとでもおもってくっちまえばいいじゃねーかよー）
そのくせ、ひよりとはまったく違う性格で。
（くえば、いがいと、ちからがつくせー？ オレみたいにさー）
夕日の向こうで、ちりんちりんと紅い鈴を鳴らしながら屈託なく笑っていた――
誰に伝えることもできなくて。
いつしか――考えるのをやめていた。
生きようとすることを、やめていた。誰にも必要とされない自分でいることに甘んじていた。
今も。
今、この、瞬間までも。
でも――！
自分でも訳が分からないまま、目の前に抛たれた刀に飛びつく。抜き方も分からないまま、鞘を押さえもせず、柄だけを掴んで持ち上げる。
「イヤだ、あ、あ、そんなの……」
ぎりぎりの絶叫を上げ、頭上に振りかざそうとする。
錆びたなまくらといえど相当な重さだった。歯を食いしばらないと耐えきれない。
見た目とはまったく違う、すさまじいまでに次元の違う重みが、刀を掴んだ手首にかかった。
骨が折れそうだった。
重心がぐらつく。ひよりは無様によろめいた。バランスを崩す。
「ぁっ……！」
取り落とすまいとあわてて両手で支えようとしたとき。
耳元に、重低音が響き渡った。視界の陰陽が反転した。この世のものならぬ異様な過重が、ぎり、ぎり、と加わる。
柄を握る手に灼熱の衝撃が伝った。
「っ……あ……」
何かが。
ぶるぶる震える手を、柄に添えさせた。
打ち逸る拍子木の音。
みるみる早くなる。
心臓の動悸に合わせ、猛り狂ったかのように暴れ、乱れ、騒ぎ立つ。血がうねる。闇が、乱れ咲く。
「あ、あ、何……っ」
身体の中にいた、何かが。
どくっ、と。
血を送り出す心臓の音を立てて。
身を、よじらせる。つめたく膨れあがる。身体の中に潜んでいたモノは、もう口を手で押さえたぐらいではとどめようもなかった。
「獄文字のメスどもが」
浴びせかけられるかのような血の奔流がおぞましい泥となってえぐり抜かれ、あふれ出し、堰を切って弾け返り、ぐつぐつ煮え滾る喜悦に変わってひよりを呑み込む。覆い尽くしてゆく。塗り替えてゆく。
「……眼ェ覚まさねーと思って、好き放題嬲りまくるのも大概にしろよ……ああん？ そんなにぶち込まれてーのかよ。この俺の……を、よう……？」
拍子木が鳴る。緞帳が開く。月下に散る花吹雪。血飛沫。闇飛沫。炎がゆれる。水光がこぼれる。悶え逆上せる白檀の香り。噎せ返る夜の熱が、ぞわり、総毛立つ風となって――
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