眼帯をつけていないほうの眼が、妖艶に微笑んでいる。
「穢ればかりをため込むようにできてる。人間の悪意。病。憎悪。闇。嫉妬。嘲笑。軽蔑。差別。ずっと……まみれて、ためこんで。そうやって引きこもって生きてきたんだろう」
ククク。
ククッ。
ネズミが鳴くような物音が、ひよりの頭蓋の中に響き渡った。
何かが、意識を齧っている。
「俺は、お前みたいな奴を見ると嬉しくなるんだよ。ああ、可哀想に。何も知らないで引きこもってる、って。大丈夫だよ、哀れな人間。いつ足を踏み外すか。いつ堕ちるか。それは、罠だ。奴らは、外道の淵の仄暗い底から、お前を見上げている。深淵を見下ろすお前自身の顔を、いつ、壊れるか、いつ、身を投げ捨てるかとぞくぞくしながら見上げているんだ。鏡だと思ってみているそれが、奴らにとっては”現世”への渡ら瀬の橋となる。お前自身が今まで引き寄せてきた鬱憤はそのまま腐れた膿になって消えることなくすべてお前の腹に溜まっている。それが、どんなに”美味そうな腐臭を放っている”か、その”臭い”がどれほど奴らを呼び寄せることになるのか、お前は自覚したことがあるのか」
獄文字乙女は、朱塗りの刀を手に提げていた。
ピンヒールの足で車のドアを勢いよく蹴り開けたかと思うと、するりと身体をくねらせて運転席から降りる。
「行きましょ、ひより様」
姫乃にまで誘われる。
ひよりはかぶりを振った。
「姫乃ちゃん……ぼ、ぼくは……！」
言葉の津波が押し寄せてくる。
ひとつひとつの音が、毒を塗ったダイヤモンドみたいにするどく尖って。
ひよりの黒く萎み、凝り固まった心に、一本、また、一本と突き刺さる。
その耐え難い痛みに、ひよりは眼を固くつむった。耳を塞ぐ。
「聞きたくない」
怖い。
それ以上、聞いてしまったら。
本当に、呑み込まれてしまう。
「お前の命だ。深淵に呑まれるも、深淵を呑むも、好きにするがいい。俺が見守っていてやる。お前の道がどこへ向かっているかを」
どこへ、向かう――？
半ば強引に連れてこられたようなものだった。
いったいいつから閉じこもっていたか分からない。だがある日、「ごめんくださいませ、はい、わたくし県の教育委員会のほうから派遣されて参りましたスクールカウンセラーで帝大人間科学研究院関連の仕事をさせて頂いております獄文字と申します」と名乗るいかがわしいひっつめ頭に黒スーツ黒めがねな獄文字乙女が家にやってきて、とある県の新教育方針により出席日数の足りない中退者でも通える総合進学コースが新設される学園があるので編入試験を受けてみないかと母親に勧めてきた。曰く、大学までの一貫教育。専属スクールカウンセリング付き。実績臨床中につき特待奨学金制度が利用できます。全寮制。置いていった学園案内のパンフレットを見るまでもなく母親はさっさと入学を決めた。むろんひより本人の意見がそこに介在するはずもない。考えることも放棄して久しい。落伍者は家族にあらず。余計な物は誰だって背負いたくないだろう。うざすぎる甘えとか。生理的な嫌悪感とか。連れ子なんて最たるものじゃなかろうか。捨てるべきものはさっさと捨てる。臭い物には蓋。何でお前はいつもそうなの。あの子はぜんぜんそんなことなかったのに。
おそらく、今頃はせいせいしているに違いない。新しい家族で水入らずというやつだ。というわけで過去も荷物もすべてトランクに詰め込まれてあっさり送り出された。体のいい”厄払い”というわけだ。性格が良くて頭が良くて誰にでも好かれていた弟のほうならどんな親戚でも喜んで引き取ってくれただろうけれど具合を悪くする度に目に見えない妖怪を吐くような兄は双子といえど論外。なのに、着いて早々――
「出ろ」
ドアを開けられ、強引に引きずり出される。
ひよりは悲鳴と一緒に後部座席から転がり落ちた。球体の前に突き飛ばされる。
「……っ！」
獄文字乙女が手にしているものをおそるおそる、見る。
それは、刀だった。
反り姿も美しき二尺五寸一分の長刀。朱塗りというにはあまりにもくすんだ柿渋色(かきしぶいろ)の拵(こしら)えである。時代劇や写真でしか見たことのない、ホンモノの日本刀。
「先生……だから、こういうのって持ってたら明らかに銃刀法違反ですって……警察に見つかったら……よ、よくニュースとかでやってるじゃないですか……刃渡り十五センチのナイフを所持とか、その……」
言葉が頭の上を滑ってゆく。そんなことを言いたいのではない。
背筋の奥が、ばりばりにこわばっていた。
手が、痙攣したように震えている。
なのに。
足だけが、打ち付けられたように動かない。
目の前の球体は、今や、ひよりの背丈の倍ほどにも膨れあがっている。中から聞こえてくる馬鹿騒ぎはもう耳を聾せんばかりだ。
「ずいぶん余裕だな。自分のことだというのに」
うすら笑いが振り向けられる。獄文字乙女は刀を無造作に投げやった。重い金属の音がアスファルトに跳ね返る。
ひよりは、まるで自分自身へ叩きつけられたかのような音にびくりと肩をちぢこめた。
「逃げるな。拾え。貴様の刀だ」
獄文字乙女はぴしゃりと言った。視線は球体へと向けられたまま微動だにしない。
「だ、だから、何でぼくがこんなこと……し、しなくちゃならないんですか……！」
声が、無様にふるえて。
動けない。
目の前に投げつけられた刀に、自ら触れることもできない。
初めて見る刀であるにも関わらず。
ひよりは、知っていた。
刀に触れれば、あの”声”が聞こえる。
血を。
浴びろ。
「わけが……分かりません！」
身体がぶるぶるとおこりのように震え出す。ひよりはアスファルトの地面に這いつくばった。
かぶりを振り、少しでも刀の声から離れようとして後ずさる。
「ぼくには関係ないです……知らないことばかり、いきなり言われて、無理矢理連れてこられて。訳も分からないうちに強引に学校まで転校させられて。そんなこと、どうして、ぼくがしなくちゃいけないんですか……もう、ぼくのことなんて、ほっといてください。関わりたくないんです……い、いくら、刀なんか見せられて、何とかしろって言われたって……できるわけが……！」
「そうか」
獄文字乙女はさほど残念がった様子もなく肩をすくめた。にっこりと無邪気に笑いかける。
「ならば致し方あるまい。姫乃。手出し無用に頼む」
「はい、乙女ねえ様」
姫乃は両手を前にそろえ、しずしずと頭を垂れた。
「行ってらっしゃいませ」
「では」
乙女先生は両手を広げた。真っ白いタイトミニからのぞく内股をちらりと見せつけ、足を上げて。
「死んでくる」
巴紋様の球体を、ピンヒールでぶちん、と蹴り破った。次の瞬間。
どろりと――墨汁のような闇があふれかえった。
毛の生えた足、爪の生えた猛禽めく蹴爪、うごめく汚物を垂れ流すあやかしの巨大な手が、はぜて爆発したかのように広がりながら現れ、獄文字乙女の身体を鷲掴みにした。
「先生っ……！」
獄文字乙女はあらがいもしなかった。恐ろしい笑い声とともに球体へと引きずり込まれる。
ごぼっ、と泡の音を一つ残して、その身体が消えた。
固い音がした。赤いピンヒールが片方もげて、地面に跳ねる。
消えた――
信じがたい光景に、ひよりは悲鳴を呑んだ。呻き声だけが、喉から押し出される。
「獄文字先生が」
「ふふ、ご心配には及びませんわ。あれは人柱ですもの」
姫乃は楚々として笑う。
「百鬼夜行は、人間を一匹喰らえば鎮まりますの」
姫乃はふと口をつぐんだ。揺らぐ気配を感知したらしい。球体を振り返る。
今まで何もなかった空間に、物体が現れた。
足が一本。
ぼたり、と。
なまめく血の糸を引きながら地面に落ちた。
血まみれの足。
根本から引きちぎられた足。
赤いピンヒールを履いた――足。
「う、わっ……ああっ……！」
堪えきれず、ひよりはのけぞった。後ろ手に手を付いたまま、無様にしりもちをつく。
「あらまあ」
可愛い眉をひそめて姫乃が手を口に当てる。
「乙女ねえ様ったら、ずいぶんとはしたないお姿をされて」
「う、あ……！」
ひよりは、恐怖に眼を押し開いた。わなわなとくちびるが震える。
背中から、嫌な汗がどっと噴き出した。
声にならない。
目の前の情景がどうしても理解できない。
それは、何だ？
何に見える？
答えは分かっている。分かっているのに、認められない。
ちぎれた、血まみれの、女の、足が、一本。
先ほどまで獄文字乙女が履いていたピンヒールをつっかけている足が。
がたがたと全身が震え出した。もう、直視することもこともできない。
血の臭いがした。堪えきれない腐肉の臭い。目の前の球体からは、まだ骨や肉をかみ砕き、しゃぶる、恐ろしい咀嚼音が聞こえている。
あまりの理不尽さ非常識さに、ひよりはいっそ泣き笑いそうになった。訳が分からない。
こんなことが現実に起こるわけがない。
獄文字先生が、足だけを残して、いなくなってしまった、だなんて。
「いや、だよ……こんなの、嫌だ……！」
どうして自分から喰われに行かなければならない？ どうして？ そんなことをなぜわざわざ見せつける？ 死ぬ姿を見せて何をさせたかった？ どうして？ 何もできないのが分かっていて、なぜ？ どうしてそんなことを要求する？ 何をさせたい？ 分からないのに、なぜ？ なぜだ？ なぜ――
答えは分かっている。
変化から、逃げたから。
「……ひゃ、っきやこうって……なんだよ……」
自分の弱さに耐えきれず、ひよりはうめいた。
何が怖いのかも分からなかった。死ぬのが怖いわけでもなく、理解不能な球体が怖いわけでもない。獄文字乙女の言動が異常なことも受け入れてしまえばどうということもない。
恐怖とは自衛本能の一種だ。怖ければ逃げる。逃げれば助かる。
でも、今感じているのは、そういう自衛的な恐怖ではない。
本能的に、逃げ出したい、と思った。
逃げたい。何もかも、なかったことにして。縮こまって。自分自身ごと消えてしまいたい。
「ぼくに、こんなもの見せて……どうしたいんだよ……笑いたいのか……馬鹿にしたいのか……死ねって言いたいのか！ 何もできない、役にも立たない、臆病で、役立たずで、怖がってばかりで、生きてても意味がないって分かってて……だったら、ぼくに死ねばいいって言えばいいだけだろ……」
痛ましいほどに無様な言い訳しか出てこない。それが、一番、醜い姿だと思えた。
目の前に投げ捨てられた刀が落ちている。汚れて、錆びて、黒くなったなまくら。先ほど、獄文字乙女の手にあったときはまるで違う刀に見えた。生きた刀に。
なのに今は――死んでいる。
「いいえ」
星のように光る眼が、まっすぐにひよりを見つめていた。
「ひより様は、死にませんわ」
感情をどこかへ置き忘れてきた声。
すっ、と背筋の温度が下がってゆく。
「私たちは、人の道に外れた”外道”を狩るが御役目。代々獄文字家がつとめた”百鬼夜行改”の頭目である乙女ねえ様が死ねば、もうひより様が、ねえ様の手先として無理矢理戦わされることはありませんでしょう？ それに私たちは姉妹二人きり。跡継ぎもありませんしね。あとはひっそりと家門ごと絶えるだけのことですわ」
姫乃はそこでぽむ、と手を打ち合わせた。表情をふわりと明るくさせる。
「ああ、分かりました。そうすればひより様も今まで通りの暮らしにお戻りになれる、ということですのね？ なるほど、そうでしたわ。では、どうか、そのようになさってくださいませ」
何を、言っているのか。
どうして、笑っていられるのか。
ひよりは、呆然とうめいた。
「姫乃ちゃん……」
球体から、にょろりと長い舌がのたうち出た。地面に転がっている足に巻き付き、からめ取るようにして、再び球体へと引きずり込んでゆく。
骨の砕ける音が聞こえた。ぺっ、と種を吐くようにピンヒールだけが放り出される。
乾いた声だけが、頭上を通り過ぎてゆく。
「私も次の百鬼夜行で人柱に立ちますわ。私の次はまた誰か適当な被害者を見つくろって差し出されませ。百鬼夜行が現れるたびに、一人。また、一人。誰でもお好きな人を適当に選んで構いませんのよ？ 嫌な学校の先生とか。文句を言う親とか。駅で見た不愉快な酔っぱらいとかでもぜんぜん構いませんわ。ひより様のおいのちを肩代わりしてくれるひとなら誰でも。ひより様さえご無事ならば、それで構いませんものね？ ひより様がおっしゃりたいのは、そういうことでしょう？」
真っ赤なピンヒールだけが。
「そんな……」
ひよりの目の前に転がってくる。
獄文字乙女の姿は、もう、ここになく。
足を呑み込んだ球体も、すこしずつ縮んで消えてゆこうとしている。
とん、ちん、しゃん。
からり。からり。
けんらけら、笑って。
からっぽな音が遠ざかる。
「ひより様は、悪障を呑み込む力をお持ちです」
姫乃は無垢に笑った。消えてゆく球体を見つめ、ちょこんと小首をかしげる。
「今まで、誰も、扱うことのできなかった力。それゆえに忌み嫌われた力。その刀の――”外道”の鬼でありながら外道を喰らう、外の外の存在であった”光月”をも呑み込む力。ねえ様も私も、どれほどその”力”を持つ者の出現を待ち望んでいたことか」
可愛らしい仕草で、かぶりを振る。
「でも、もう、どうでもいいことですわ」
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