「悪いな。重大問題発生。登校は中止だ」
「えっ」
聞き返す間もなくいきなりの急ブレーキ。
「わあっ、何、何っ……！？」
「こちら獄文字、当局に許可なく路上を占拠している百鬼夜行の一団を発見。ただちに追跡を開始する」
軽自動車に取り付けられた無線のハンドマイクを手放すと、びよん、とゴムのように伸びていたカールコードごと元の場所に戻った。
「せ、先生……話が違います……」
「話だと？ 別にお前と話をした覚えはないぞ」
軽自動車の後部座席に押し込まれたこの少年。
一見、女の子と見まごう華奢な体つき。加えていかにもおどおどと気弱なまなざし。
その名を御桜ひより、十五歳。
訳あって転校してきたばかりの高校一年。
慣れぬ土地での一人暮らしで、現在、初登校中――
のはず、だった。
転校したばかりでは勝手も道もよく分からぬだろう、とわざわざ親切に学園の教師が迎えに来てくれたのはいい。やや強引な態度に不安を覚えつつも、いちおう素直に登校するつもりでいた。少なくとも十分前までは。
なのに、なぜか今は。
「ちっ……遅刻するから高校まで乗せてってやるっておっしゃったのは先生のほうですよ……ぼ、僕はいいって言ったのに……何で、無理矢理……こんな……うぇっぷ！」
お守りのついた通学用カバンを抱きしめ、ジェットコースターを逆走するがごとき死の恐怖を味わっている最中である。
「追跡中はおう吐禁止」
「そう、じゃなくて……獄文字先生、ぼくもうこれ以上無理でっ……限界……おえぇえ……！」
気持ち悪さで、眼までがぐるぐると回り出す。
ハンドルを握りしめているのは、女だ。
獄、と書かれた深紅の紋を染め抜いた黒の眼帯。身につけているのはアバンギャルドすぎる着物とミリタリーのハイブリッドなスーツ。
セクシーな鎖骨からは曼珠沙華のタトゥー。
ボタンをはずし、ばいーんと大きく開けたシャツの胸元には、はちきれそうなほど危険なボタンの罠がひそんでいる。
ミニすぎるタイトスカートからは真っ白な太もも。これまた、ちらっ、とかいうレベルを遙かに凌駕して眼に焼き付く。
「もうこれ以上無理です、できません、どうか勘弁して……そんなに揺らしたら、中から、あっ、あっ……先生、ぼく、もう……出そうっ……うぇっぷ……！！」
また、吐き気がこみあげてくる。車酔いをしているのか、それとも別の悪寒に酔っているのか、自分でも分からない。
ひよりは、今にも中身をぶちまけかねない口を必死に押さえた。
そうでもしないと、口から耳から、いろいろな気持ちの悪いものが――身体内に巣くった悪霊だの、病気の元になる腐れ神だの、キツネの霊だの、どこぞの誰かが丑三つ時参りに使ったらしき呪詛返しの滓だのが――ぬらぬら、うごうごと、束になってはみ出しかかっているのが、見えてしまう。
「突っ込む前から出すんじゃない、この早漏」
ギアチェンジのシフトノブをローに叩き込み、全力でブレーキ。
「そんなこと言われても出ちゃうものは出ちゃ……うえええ……助けて……！」
軽自動車のテールがものすごい勢いで流れていった。甲高いブレーキ音もさることながら、目の前の風景が気持ち悪いぐらいにぐにゃりとスライドしてゆく。すさまじい横Ｇである。
「ああ、もうだめ……！」
今にも、気を失ってしまいそうだ……いや、いっそ、今すぐ失神したほうが身のためかも知れない。そう言う予感は――大概的中するものだ。内容がネガティブであればあるほど、なおさらに。
「乙女ねえさま、ひより様がおかわいそうですわ。そろそろ無謀運転はやめてくださいませんか」
今にも吐きそうな顔のひよりを支えながらも、どこか他人事めいた微笑みを浮かべる少女が口を差し挟んだ。ひよりの学生ズボンと同じ柄のプリーツスカートをはき、卍に鬼、と刻み込まれた校章をつけている。
少女は、ひよりに身体を寄せた。いかにも心配そうなまなざしで、話しかけてくる。
「ひよりさま、大丈夫ですか？ どうぞ、お気を確かに」
言いながら優しく背中をさすってくれる。
「うえっぷ！」
とはいえ。
「うっ……出る……！」
なにやら口の端から白い煙をもんもんと滲み出させているひよりは、それ以上ヤバイ白いものをはみ出させまいと必死に口を押さえるので精一杯。
残念ながら反応する余裕などカケラもあろうはずもない。
「ごめん、姫乃《きの》ちゃん……うぐうっ、気持ち悪いんだ……もうすこし離れて……」
「ははは、笑えるな。ひよりはお前のその媚びた裏声が大層気持ち悪いらしい」
「そういう意味ではございませんわ」
少女は運転席の女を見やり、淡々と意見を申し述べる。
「乙女ねえ様の運転があまりにもおそろしすぎるからですわ。今の信号だって完全に赤だったのに思い切り無視していらっしゃいました」
「ほう？ それは聞き捨てならないな。見たのか」
「見ました」
「あ、あ、だめ、せんせ……もう、ぼくっ……うぐっ、う、もう、出っ……出ちゃいそうです……！」
「超法規的措置だ。すべての信号は我が道に於いて青になる」
「た、たすけ……」
「詭弁を弄しても事実は覆りませぬ、乙女ねえ様」
「なるほど。では認めよう。仮に信号が赤だったとしても俺は信号無視などしていない」
ふっ、と。
秋波に似たぞくぞくする流し目をくれて、運転手の女はうすく笑う。ハンドルを握る白魚のような手には真紅のネイル。
「獄文字の女は交互に口裏を合わせて顔色を変えるような軽佻浮薄な信号どもになど、決して迎合せぬ」
「何と言おうと交通ルールは交通ルールです。また違反切符を切られますわ。そろそろ一発免停も近い頃合いですわね」
「うぐうっ……姫乃ちゃん、交通ルールも大事だけど今は……あっ、あっ、うぇえ……！」
ひよりはまた口を押さえた。運転席の女は、冷ややかな隻眼でバックミラー越しにひよりを睨みつける。
「漏らすな童貞」
「……！！」
ひよりは涙目で口を押さえ、じたばたした。結局、吐きそうなのは自分一人であって、運転者も同乗者の少女も実のところ、そよとも動じていないようだ。
そもそもなぜこんな扱いを受けなければならないのだろう。自分が、何をしたというのか。
後悔、という二文字が非常ランプを点滅させながら脳内をぐるぐると巡っている。
転校初日だというのにいきなり寮から引きずり出され車に乗せられ学校に行くのかと思いきや反対方向へと暴走し始める、などと。まさに不測の事態だ。
と、いきなり、耳をつんざくようなクラクションが響き渡った。
『鬼辻坂学園行き』と行き先案内に表示されたバスが眼前に迫っている。
「うわああああああぶつかる！」
けたたましいクラクションが叩き鳴らされた。どう見ても対向車線上にはみ出しているこちらが悪い。
バスのフロントガラスが、驚いた顔の運転手が、走馬燈のように視界の半分以上を覆い尽くしてゆく。
ああ、何て事だろう。
僕の人生ってやっぱりこんな感じで終わっちゃうんだ……
ひよりは泣きたくなった。
きっと、今の自分の頭の中を文字で描き出してみたら、豆粒みたいにぎっしりと、厭厭厭鬱厭厭鬱厭厭厭鬱厭厭……と並んでいるに違いない。
さよなら、僕。さよなら、薄幸な人生。やっぱりこんなふうに終わるんだ。
うっ、とまた、喉の奥からどろっとした気持ち悪い感触がこみ上げる。
ひよりは口を押さえた。死ぬ間際まで、妖怪や悪霊や気持ち悪い霊障の泥滓みたいなものが口からはみ出してるなんて。
ホントに嫌な人生だ。もう、いっそ、こんな人生なんて、あっけなく、ぷちんって終わってしまったほうがせいせいするのかもしれない。
だが、そこでひよりは悲鳴を上げた。
ぶつかる……！
次の瞬間。軽自動車のハンドルは、獄文字乙女のセクシーな手のひらで限界までにしごき上げられて回転した。アクセルが床までベタ踏みされる。
アスファルトを溶かすブレーキ音。タイヤが甲走った悲鳴を上げる。
車の後部が急激にスライドした。
横滑りの慣性に耐えきれず、重心の高い軽自動車は見事にものの見事に横転する。
一回、二回、三回目に跳ね上がったところでマフラーからぼふんっと黒煙が上がった。
そのまま着地したかと思うと、再度タイヤを鳴らして急発進。
後部座席はもう右往左往どころか上に下にのくんずほぐれつっぷりであった。
「あんっ、やだ、ひより様ったら……いやですわ、恥ずかしい」
分かっているのかいないのか。少女は、半分めくれあがった制服のスカートを押さえ、恥ずかしげに身体をもじもじとくねらせている。
「このままじゃ動けませんわ。どうか、下におろしてくださいまし……」
「ご、ごめ……うっぷ！」
それが運悪くひよりの顔の上でなおいっそう腰を劣情的にゆすることになっていることにも気づいていない、らしい。
だが、目の前がたとえお尻だろうがぱんつだろうが、もう一声たりとも余分な声を上げるわけには行かない。
口を開けたが最後、喉の奥にあるアレが、もう、今にも噴き出さんばかりにこみ上げて……！
「下ろされたくなかったら中に出すな」
キッとブレーキの音を立て、軽自動車は道の端に止まった。
前方の空間に、漆黒と純白の巴紋様に分かたれた球体が浮かんでいる。
異質。
金属、でもなく。
幻影、でもない。
言葉にすればそれ以外に表現のしようがない。現実にそこに浮かんでいるはずなのに、直下にあるはずの影はない。
表面は微細な金色にゆらめく煙状の渦紋様でびっしりと覆われていた。よく見れば、女の指のようにも見える。
うごめくなまめかしい手を思わせる紋様が、一瞬たりとも動きを止めず、手招きするかのようにゆらゆらうごめいて、音もなく――
「待たせたな、ひより」
邪悪な微笑みがバックミラーから投げかけられた。つややかなルージュの唇が、官能的につり上がってゆく。
「全部、出して良いぞ」
気配が、ふっとつめたさを増した。周辺の空気が変わっている。
とん、ちん、しゃん、
からん、ころん、
鐘太鼓の音が浮かれ騒いで聞こえた。
近づいてくる。引きずる下駄の音。
なにやらがやがやと笑い騒ぐ声。けたたましくわめき散らす甲高い嘲笑。乱れ近づく物の怪の気配。
ひよりは、身体の奥が震え出すのを感じた。
この感じ。
障る――
吐き気が、ぐるり、と身体の中でよじれかえる。胃から食道まで、裏返って口からはみ出しそうな、そんな押さえようのない気持ち悪さがこみあげた。
「気持ち、悪い……！」
「だろうな」
真紅のネイルを塗った獄文字乙女の手が、助手席に放り出されていた長物を掴んだ。
刀装具の音が、かちり、と。棘のように耳へ突き刺さる。
「乙女ねえさま、私は」
「ひよりのサポートに回れ。光月にひよりが呑み込まれる前に片づける」
獄文字乙女は抑えた声でよどみなく指示を下す。聞いている姫乃の顔もまた、平静だった。
目の前に見えている超常現象を、あたかも当然、といった表情をしている。
「待ってください、何なんですか、あれ……」
ひよりは、逃げられもせぬ車の後部座席から、じりじりと後ずさろうとした。
背中が、ドアに当たる。
当たり前の感覚であるはずなのに、びく、と、身体がすくんだ。
「ひっ……！」
「なるほど、”それ”を、他の者に見られたことは今まで一度もなかったのか。だから、そんなに安心していられるのだな」
バックミラー越しに、獄文字乙女はひよりをじっと見つめていた。
”見通されている”？
ぎょっとして、反射的にひよりは口を押さえた。
「今さら隠しても無駄だ」
くくく、と、悪魔のような喜色を交えた声で獄文字乙女は笑い出した。
「それだけため込んだ悪障を吐いたら、周りの人間に何が起きるか分からんぞ。疫病か？ 原因不明の祟りか？ 訳の分からない祈祷師にクソミソに言われるぞ？ バケモノ吐きとかゲロ男とかえんがちょとかな」
「乙女ねえさま、それはあまりにもひどうございますわ」
「自分で気づいていないなら、今、この場で言ってやろう。御桜ひより。お前の身体は」
助手席のシートに手を掛け、獄文字乙女はふっと振り返った。
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