「三、二、一……はい、目を覚まして」
目の前で、ぱん、と手を叩かれる。
ギールは、自分自身におびえつつ、ゆっくりと目を開いた。
頑丈な木の枷で閉じられた手。縄で繋がれた首と腰。犯した罪の重さに潰れそうになる。
デュゼナウの人格に隠れ、自分の所業ではないと責任転嫁し続けた、その逃げ道は、もうない。
目の前に伸びているのは、自分自身で償うべき贖罪の道だった。
ギールは、虚ろな眼差しでセレムを探した。
「セレムなら無事ですよ」
再び、宰相の声がした。ギールは、まるで幽霊を見るような眼で宰相を見上げた。
そんなはずはない。セレムは確かに自分がこの手で首を刎ねた。その、ぞっとする手応えでさえ、記憶と手の感触の双方に残っているのに。
「……どうして……」
ナーフィは肩をすくめて見せた。
「どうにもいたたまれなくてね」
なおさら呪わしく思えた。自分が生きている理由を聞いたわけではない。何もかもが受け入れ難かった。
思わず声が漏れた。
「頼む、殺してくれ」
真正面から、陰鬱な影が投げかけられる。
これも切り捨てたはずのハダシュが、青ざめた顔で見おろしていた。表情は複雑で、一様に読みとれるものではない。
ギールはうつむいた。なぜセレムとハダシュが無事なのか、なぜ自分は死ねなかったのか、その理由を探した。ひしめくような悔恨の念だけがこみ上げる。
突然、ハダシュが、ギールの胸ぐらを掴んでつるし上げた。視線に耐えられず眼を背ける。
「ふざけんな、てめえ。この期に及んで甘えてんじゃねえよ」
ハダシュは吐き捨てた。
「てめえが一番不幸だ、なんてつけ上がりやがって。その腐った根性のせいで、何人死んだと思ってんだ！ クレヴォーだって……」
ギールは顔をゆがめた。
「……すまない」
「へ？」
ハダシュは思わず怖気を震った。あのデュゼナウと同一人物とはとても思えない気弱な声だった。あまりの変貌ぶりに狼狽える。
「俺に謝ったって、今さらどうにもならねえんだよ」
「細かいことは後にしましょう」
ナーフィは、ギールを促し、立ち上がらせた。
「ここは本人からラトゥース殿へ、きちんと話をさせるのが筋というものです」
ハダシュは憤然と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「どうせあんたらお偉いさんが勝手に決めるんだろ、殺すか殺さないか。国家権力とやらを最上段に振りかざして、”超法規的措置”って奴だ。俺の時も耳にたこができるぐらい聞かされた」
奇妙な間が空いた。誰も返事をしない。
ハダシュは、素知らぬ顔で横を向く宰相を睨んだ。
「おい、おっさん。あんたに言ってんだが」
「これは失礼。気が付きませんで」
ナーフィは眉をひそめた。
「でも、どちらかと言えば司法取引と仰ってほしいものですね」
「どうせ同じ事だろ。つか、あんたらのことは正直どうでもいい。それよりクレヴォーだ」
今、ラトゥースはこの場を外している。重傷を負ったセレムの看病でつきっきりなのだ。
「あいつのことはあんたに任せる。同じ国の貴族同士なんだから、その誼《よしみ》で何とかしてやれ」
ハダシュは苛立った声で言った。
「俺は予定通りシャノアへ帰る」
「はあ」
「あーあ、まったく、エルシリアの連中に関わったらロクな目に遭わねえ。これからはせいぜい自由にやらせてもらうさ。あいつにもそう言っとけ」
ハダシュはふてくされた体を装って言った。どうせ一時の気迷いにすぎない。殺し屋ふぜいが身の程もわきまえずに貴族の女に懸想した、ただそれだけのことだ。
ハダシュは返事を待たず、きびすを返した。それに。
肝心なときに守ってやれなかった自分など、この先、ラトゥースの側にいても仕方がない。
ナーフィはハダシュの背中に声をかけた。
「ラトゥース殿を見捨ててゆかれるおつもりですか」
ハダシュは届いているはずの声を無視し、野次馬を一瞥で追い払って去っていった。ひねくれた後ろ姿が雑踏に紛れ、見えなくなる。
ナーフィは後を追うでもなく、軽く肩をすくめた。口端を吊り上げて、意味ありげに含み笑う。
「好きにすればいいでしょう。それこそ、”どうせ同じ事”です」
・◆・◆・
セレムもまた、意識を取り戻したばかりだった。
開け放たれた窓から、日差しが穏やかに射し込んでいる。
ゆったりと広がる青い空。形を変え、色あいを変えて流れる、遠く高い霞み雲。風に揺れる森のさざめきでさえ、懐かしく、優しく、ふかぶかと身をゆだねられる子守歌に聞こえた。まるで、すべてが終わった後であるかのような平和な風景。
だが、首筋に巻かれた包帯と全身を苛む痛みが、記憶にある恐ろしい出来事をまぎれもない現実だと教えている。
「セレム、気が付いた？」
窓際の枕元にラトゥースが腰掛けていた。日差しに透けた金髪がきらきらと明るく輝いている。
だが、その表情は壊れそうなほどあやうく見えた。
「まだ何もしゃべっちゃだめだよ。今は怪我を治すことだけ考えて」
ラトゥースは、唇に人差し指を添え、微笑みながら優しくささやいた。
軽いノックがあった。
「私です。入りますよ」
宰相の声が聞こえた。ドアが開く。背後にギールを伴った宰相が立っていた。
ラトゥースは表情をこわばらせた。
「セレムの具合はどうです」
ナーフィはギールを縛めた縄をたぐって一歩、部屋に入り、その場で立ち止まった。
「彼は、ギールです。もう、デュゼナウじゃありません」
しかし、ラトゥースはじりじりと剣に手をやって立ち上がった。
「この男が、バクラントの傭兵だったという事実には変わりないでしょう」
ギールは、両膝をつき、力無く首を垂れた。
「……許されるとは思っていない。犯した罪は償う。どんな罰も甘んじて受けよう」
「口先だけなら何とでも言える。それで義父上が戻ってくるんなら許しもしよう。でも」
ラトゥースは青ざめた唇を震わせた。
ギールはかぶりをふった。
「すまない……詫びようもない。あなたの気のすむようにしてくれ」
「どの口でそれを言うか、貴様！」
ラトゥースは、大きく喘いで剣を抜き払った。うつむくギールに駆け寄り、ぶるぶると揺れる切っ先を差しつける。刃に映り込んだ表情が引き歪んでいる。眩暈がしそうだった。
「義父上の仇だ」
ラトゥースは剣を逆手に持ち替え、震える手のまま、高く振り上げた。
殺してやりたい。この男さえ殺せば、すべてを終わらせることができる。
なのに、脳裏にハダシュの顔がよぎった。
酷薄な殺し屋だったかつてのハダシュが、声を上げて笑いさえする普通の人間の顔へと移り変わっていった様子が思い浮かぶ。
最初は、ただただ、正義感に揺り動かされてのことだった。闇へ転げ落ちていく人々の心を癒す、それこそが正義だと思っていた。
なのに、いつから、ハダシュの一つ一つの小さな仕草や表情こそが、他の誰とも代え難いものだと思うようになってしまったのだろう。
殺せば、すべてを終わらせることができる。
それまでの恨みつらみがすべて消える。
あんなに恨み、殺したいと願った男が、目の前にこうやって首を差し出している。この機会を逃すことはできない、はずだった。
だが、その後に残るのは……。
ラトゥースは、全ての思いを断ち切り、剣を突き下ろした。
「ラトゥースさま……！」
セレムが、血のかすれるような声で呻くのが聞こえた。
ギールに架せられた罪人の手枷が、一撃でまっぷたつに折れ飛び、砕け散った。飛散する木っ端が、ギールの頬を鋭くかすめた。薄い血がひとしずく、まるで涙の痕のようにつたい落ちる。
「許したわけじゃない。貴様は義父を殺した。許せるはずがないだろう！」
ラトゥースの悲鳴にも、ギールは動かないままだった。
「でも、恨んで、憎んで、辛い思いをして、セレムにまであんな思いをさせて！ セレムのほうがずっと……かもしれないのに……その貴様を自らの手で殺してやりたいって呪ってる自分が、本当に嫌いだ。これ以上、こんな気持ちを持っていたくない。だから、法の下に貴様を訴追し、裁判に掛ける。貴様を断罪する権利は今の僕にはない。すべては、これからの貴様次第だ」
しばらくの間、誰も、何も言えなかった。
ナーフィは、密かにため息をついた。
「ラトゥース殿、兄からことづかっている物があります」
宰相は背負ったリュックを下ろし、中から筒を取り出した。ぽん、と音を立てて蓋を開け、中に入れた書類を引っぱり出す。
「どうぞ」
ラトゥースは手渡された書類に目を通すなり、思わず、まじまじと宰相の顔を見上げた。
「何です、これ」
「シャノア総督の任命書です。そう書いてあるはずですが。ちゃんと兄上の署名入りで」
「それは見れば分かります。けど、そうじゃなくて、どうして」
「いや、えーと、そのう、実はですね、少々手違いがありまして」
ナーフィは白々しくうそぶいた。
「ハダシュ君に脱走されました」
「は？」
ラトゥースは柄にもなくあたふたとし、部屋にいる全員を見渡した。そういえば、いつも側にいたはずの姿が見えない。
「逃げた！？ ハダシュが！？」
ナーフィは、穏やかに笑いかけた。
「……しばらくの間、そうですね、二年ほど、エルシリアも貴族の義務も他の者にゆだねて、シャノアでなすべきこと、自分自身の正義をもう一度探してみてはいかがですか？ あの街には、あなたの優しさや強さを必要としている人たちが、今も大勢いると思います」
ラトゥースは絶句した。
「いえ、でも、しかし」
「貴女の従者も後でシャノアへ向かわせます。何かご不満でも」
「いいえ」
「では決定ですね」
宰相は満足そうにうなずいた。
「法が人を裁くために取る手段も、憎しみに駆られてふるう暴力も、もしかしたら、全く同じ結果を生むかも知れません。でも、法を適用する目的は、あくまでも人に、人の道を進ませるためなのだ、ということをお忘れなきよう。それはね、罪人だけではなく、心に傷を受けた側にも当てはまるのですよ。人の心にはいつでも、たとえ罪の彼岸に渡ってしまった後でも、『引き返すべき黄金の橋』をかけることができるのですから」
ラトゥースは、ぼんやりとかみしめるように、その言葉を聞いていた。
所在なく、セレムを振り返る。
セレムは痛みをこらえ、笑って見せた。ラトゥースは小さく頷いた。
「身に余るお言葉、痛み入ります」
ゆっくりと敬礼し、一息をつく。
ラトゥースは、いつもの笑顔に近い、輝きに満ちた眼を上げた。
「……シャノア総督の任、ラトゥース・ド・クレヴォー、謹んで拝命つかまつります」
「彼を捕まえたら、首に縄を結わえつけておくといいですよ。あの逃げ足は恐るべきです。今度こそもう、逃げられないように」
「全力で任務に邁進します」
ラトゥースはセレムの側に戻り、そっと抱きしめて、お別れのキスをした。
「またね、セレム。着いたら手紙書くよ」
「ラトゥースさま」
まだ、うまく声が出ない。喉元に熱い気持ちがこみ上げているせいかもしれなかった。
ラトゥースは手を振って微笑み、荷物をつかんで部屋を駆けだしていった。
「これで、少しでも元気を取り戻してくれるといいのですが」
ナーフィは目を伏せ、そのままの表情でギールを見下ろした。
「エルシリア侯のお許しも出たようですから、あなたをハージュに連行します」
「……それで国の連中に示しが付くのか」
ギールは、手に残った枷を剥ぎ取りながら、陰鬱に訊ねた。ナーフィは頭を掻いた。
「ええと、まあ、確かに、甘いと言われれば、そのとおりなんですけど。……これがエルシリアのお国柄なんでしょう。本気で殴り合ってから和解するというのが。単純で大ざっぱな人間ばっかりで、法律を書く側の人間としては本当に困ります」
ギールは唇をゆがめた。
「俺は……俺がしたことは……そんな簡単に……」
「ただし罪は罪。マイアトールの神官として一生、神に仕え、犯した罪を懺悔していただきますので悪しからず」
「へ？」
逆に、素っ頓狂な声を上げたのはセレムだった。
「神官？」
「何か不都合でも」
ナーフィは、面白がるような表情でセレムを見やった。
「一度死んだ人間に、それ以上負わせられる罰なんてありませんよ。……じゃなくて、人にとって、最も重く科せられる罰は犯した罪を悔やみ苦しむ、その心の痛みですから」
セレムは、膝の上に置いた指先をもじもじといじり合わせた。
「いや、あの、そういう理念はどーでもよくって」
「どうでもいいとはどういうことですか」
宰相は気分を害したようだった。
「それなら、なおさらです。ギールには、剣も俗世も捨ててマイアトールにひたすら赦しを請うよう命じます」
「あっ……で、で、でも、その、本当に元に戻ってるかどうか、ほら、分からないしですし、この際十年ぐらい牢屋に叩き込むぐらいのほうがスッキリと後腐れなく更正できるというか！」
セレムはうろたえた。一生を神に捧げる神官なんかになってしまったら、その……。
つるっつる頭で裏声を発しつつ賛美歌を歌うギールが脳裏をよぎる。
ナーフィは、動揺するセレムを横目で見やりつつ鼻で笑った。
「実は、ちょっとした催眠治療をしてみたんですけどね。過去を洗いざらい白状させて、人格乖離を引き起こす傷になっている部分を探して……多少、歪曲された記憶もあったようですけど」
セレムは、両手で口元を覆った。
「記憶の治療……？」
「ですから、引き続き経過観察の必要があります。ま、大丈夫だとは思いますけれどもね。ハージュに戻ったら、ティベルドさまにお引き合わせしましょう。神に仕える身として、新たに我が国へと迎え入れます」
ナーフィは、わざとらしく咳払いした。ギールに視線を向ける。
「けれども、これだけはお忘れなく。あなたを助けるのは、人道的な理由だけじゃありません。今のところは捕虜扱いです。バクラント軍部中枢の機密事項がロハで手にはいるなんて、そうそうあることじゃないですからね。まあ、そうでも言わないと、みんな納得しないし……国宝である竜の書も消えてしまったけれど……結局それでよかったんだ」
ナーフィは、最後にひとつ、心からの一言を吐露した。
「とにかく、これでやっと、肩の荷が全部下りましたよ」
「……ありがとう」
ギールは、ようやく、それだけを言った。
・◆・◆・
ハージュに戻り、ギールと別れて、二ヶ月が過ぎた。
湖畔の都は、しっとりと美しい白銀の雪に覆われていた。セレムは、雪深い森をかき分けてまで、ラ・フォーニアへ戻ろうという気にはなれず、どうにもはがゆい毎日を過ごしていた。
そこへ、シャノアからの船便で、心から待ちわびていたラトゥースの手紙が届いた。
それには、ハダシュを再び「捕らえた」と、自慢そうに書かれてあった。往生際の悪い元殺し屋が、ああだこうだと文句を言う様子を思い浮かべ、セレムは思わず笑みをこぼした。
セレムは返信として、王国騎士団への加入を認めてもらえそうだということ、祖父の具合もずいぶん良くなってきたこと、エルシリア侯の代理は宰相が務めてくれていることなどを、つれづれに書いて送った。
そして、ついに、待ちに待った日が訪れた。
大聖堂館主のティベルド師から、バーナムと一緒なら、ギールとの面会を許すという連絡が入ったのである。
セレムはバーナムの後にくっつき、喜び勇んで、大聖堂へと向かった。
薄暗い、静謐に満ちた拝礼堂の渡り廊下を、二人分の足音がひびく。どこかから、ハープシコードの長々とした和音が伝い聞こえてきた。
通された部屋で待っているうちに、セレムは、だんだんと頬が火照ってくるのを感じていた。
「何というゆるんだ顔だ、はしたない」
バーナムは、はばかりのない娘の姿に苦言を呈した。
「クレヴォーさまの大赦あってのことだということを忘れるんじゃない。お前自身、罪に問われても仕方なかったのだぞ。それを宰相閣下の格別の御温情で見逃して下さっておるというのに、分かっているのか本当に。だいたいセレム、お前は騎士としての自戒がなっておらん、王国騎士団の一員たるもの、我が身を強く律し……」
延々と続く説教を、静かなノックが遮った。
黄色のケープをまとったティベルド師が、杖をつき、ゆっくりしたすり足で入ってきた。
セレムは息を止め、ギールがあとについて現れるのを待ちうけた。
ティベルド師の後に、黒い法服を着た神官が控えていた。フードを被ったまま顔を伏せ、大きな背中を丸めて、遠慮がちに入ってくる。
ステンドグラスから差し込む七色の光が、壁をやわらかく染めあげている。神官は礼をつくし、バーナムとセレムの前にひざまずいた。セレムは、その視線をとらえようとして、身を乗り出した。
何だか、お尻のへんがむずむずする。違和感というのとは何か違う。それから、ふと気付いた。奇妙な既視感があるのだ。
セレムは我慢しきれず、その名を呼んだ。
ギールは顔を上げ、セレムと目が合うと、記憶にある皮肉そうな笑い方ではなく、いたってまじめな顔のまま首を垂れた。
どうにも収まりが悪い。セレムは何をどう話せばいいのか分からず、口ごもった。
「あの、その、」
聞きたいのは、いつになったらギールを還俗させてやれるのかと言うことだったのだが、そんなことを、おいそれと口にすることはできなかった。
一人うろたえていると、そのことを察したティベルド師がバーナムに言った。
「少し、彼のことで相談したいことがあるのだが」
バーナムは、心配そうにちらりとギールへ眼を走らせたが、老師の言うことでもあるし、うなずいてみせた。
「はい、では」
そのまま続きの部屋へ消えていく。
残されたセレムはどぎまぎして、ギールを見つめた。
「あ、あの、最近、どう？」
口から出たのは、結局つまらない言葉だった。ギールは、穏やかな口調で答えた。
「犯した罪の赦しを請う祈りの日々、というところかな」
セレムは嫌な顔をしてみせた。鼻持ちならなかったころのギールを思い出したのだ。
「何よそれ。まだ善人ぶってネコ被ってんの？」
ギールは、わずかに眉根を寄せてセレムを見た。
「そんなことはない。お前こそ、もう俺のことなんか相手にしないほうがいいんじゃないのか」
セレムは、意図を汲み取りきれずに首をひねった。
「どういうこと？」
ギールは、ためらいがちに続けた。
「お前には感謝してる。でも、お前やクレヴォー侯を苦しめた罪から目を背けることはできないんだ。確かに、こういう扱いにはしてもらってるが、でも今の俺も、デュゼナウと名乗っていたあの時の俺も同じ俺だ。お前が考えているような、まったくの別人になったわけじゃない。自分が……お前に何をしたのかも、すべて覚えてる。だから、もう、俺に構うな」
「構うなって……いや、そんな……ちょっと……えぇっ？」
あまりのことに固まってしまう。
ようやく、口をぱくぱくさせながら言い返そうとしたセレムを、ギールは手を挙げて遮った。
「このまま、一生をかけて懺悔していくつもりだ」
「はぁ？ 一生？！ な、何それ！」
セレムは、胸に手を当て、何度もせわしない深呼吸を繰り返した。だんだん事態が飲み込めてくる。何でまた、いきなり、そんなこと。
一息ついたセレムは、大きく息を吸い込み、何とかギールの決意を覆さんとして早鐘のような勢いでまくし立て始めた。
「それはダメ！ そんなのダメ、絶対！ ギールがその気でも、あたしが許さない！ それに、えっと、そういう気持ちがあるんだったら、それで十分罪滅ぼしになるって。あと何だっけ、ええと、チョーホーキテキソチとか、シホウトリヒキとか何とか、難しいこと言ってたの聞いたし、それに、あの元殺し屋だって今じゃラトゥースさまとラブラブしてるみたいだし、そもそもこの国はそっち方面ゆるゆるのがばがばだしっ！ よし許す！ はい懺悔おっけー！ みたいな感じで全然支障ナシ！ だから一生だなんて、そんな殺生な……ね？」
だが、返ってきた答えは強情だった。
「あの二人と俺とは違う」
セレムは頭を抱えた。
「ええええ？ うそーん！ マジで！？ 何で！？ そんなのヤダ！」
「すまない、セレム」
謝られたって、今更引っ込みがつくはずもない。
「……どうしても？」
「どうしても。何があってもだ」
ギールは、だだをこね始めたセレムの言葉をはねつけた。
「ダメなの？ 本当に？」
セレムは、ぶうう、とふくれっ面をしながら、雨に濡れた子犬ばりのうるんだ眼差しを向けた。
「だめだ」
ギールはわずかに動揺した様子で目をそらす。
「だぁぁぁぁぁぁ、もぉ、嘘でしょこんなの、信じられない！ ちょっと、話が違うじゃん、せっかく頑張ったのに！」
セレムは頭を抱え、地団駄を踏んだ。
せっかく元のギールに戻せたっていうのに、これじゃ何のために苦労して……。
名案がひらめいた。
そうだ、あの時みたいに、大人っぽい格好すればいい！ ドレス着てヒール履けば、ちょっとは考えなおしてくれるはずだ！ 切っちゃった髪も、またそのうち伸びてくるだろうし、それでもだめなら、お化粧して口紅塗ってうっふん♪てな感じでセクシーに誘惑して悩殺するのだ！
セレムは、拳を握りしめて決意した。
何が何でも、ギールを取り戻してみせる。
それは、セレムが新たにかかえこんだ、このうえもなく平和な大問題だった。
〈おしまい〉