「この私が支配する暗黒魔洞にノコノコやってくるだなんて、全く、おーっほっほっほっほげっほげっげほがほ……！」
永遠の闇。身の竦むような冷気。
「く、くるしい！ だれか水、水っ」
吹き抜ける風は生臭く、澱んでいる。聞こえてくるのは、壁面を滴る水滴の音ばかり。
「げほっげほゲホゲホ……うぎゅぅ……」
そして再び、静寂が全てを包み込んだ。完。
「こらあっ勝手に殺さないでちっ！」
舌を噛んだのか？ なぜに七転八倒している？
「……！」
ふむ、それは失礼。だが、仮にもこの暗黒魔洞の主を名乗る者にしては、あまりにも残念な登場の仕方だと思って。
「ううううるしゃあいっ！ ファンタしゃんこそユーレイの分際でナマイキですっ！」
うむ、それを言われると困る。私が生きて（幽霊だから、本当はもう死んでいるのだが）いられるのは、今、こうやって目の前で咳き込みつつ怒鳴り散らしつつカミカミで舌噛んで涙ぐんでいる少女が放つ闇の恩恵に預かっているからだ。彼女は私の主。死霊使いだ。名前は、えーと……。
「暗黒の美少女、”ジア”様ですっ！ だいたい何ですかジェノしゃんはユーレイの分際で頭が高すぎるですっ！ もう少し這いつくばってもらわないと困るんですッ名状しがたき真実の恐怖に満ちた美少女魔女様の御前です控えおろうです！」
自分で美少女魔女、とか言われても困るのだが。それはともかくとしてこのチェリスという少女、確かに、一見かよわい小娘のように見えはするが、その実体は死の魔女だ。いたいけな外見に騙された勇者は数知れず。彼女の姿を一目見て、生きながらえた人間はいない……以上。うむ、これぐらい褒めておけば良し。
「チェリス様と言えと言っちぇいるでし！」
……また噛んでいるではないか。噛むぐらいならもっとゆっくり喋れ。
「うううっしゃあいですほっといてくだしゃいこのアホバカマヌケオンロリャ……」
悪口まで呂律回らずにカミカミとは世も末である。
さて――私は、先ほども言った通り、幽霊である。生きていたときの名前は、よく覚えていない。チェリスが言うには、かつて、この洞窟にある財宝を狙って侵入してきた泥棒だった、らしい。今では立派な闇の下僕として、”ジェノ”なる名を拝領している。残念ながらそこの、カミカミ女の下僕として、だが。
「ひいいエロい目で見られてますっ！」
……どうやら相当、自意識過剰なようだ。
「なんですかにそのデカイ態度は！ いーかげん改めてくだしゃいっ！ 他の配下の魔物の手前、わたしにも体裁ってものがありますッ！ ジェノしゃんなんか、その気になれば永遠の地獄の最下層へ超特急でぶち込めてやれるんでしゅからねッ！」
だからいつでも好きなようにしろと言っている。私の魂はすでにお前のものだ。
「……」
ほら。堕とすなら堕とせ。私はいつでも覚悟が出来ている。お前の命令に従う。
「う、うるしゃあああいっ！ ジェノしゃんみたいな口答えするユーレイ、本当に！」
チェリスは玉座から立ち上がり、めちゃくちゃに腕を振り回した。手にした魔法書と杖が闇にきらめきの残像を残して軌跡を描く。そのたびに私はあおられてのけぞりそうになりながら、嵐が過ぎ去るのをじっと待っていた。
やがて、チェリスはションボリした顔でためいきをつくと、椅子にぺたんと座り込んだ。
……体力のない魔女だ。まあ、仕方がないだろう。日光にも当たらず、ずっとこんな洞窟の奥まった場所で、魔物や邪霊どもをこき使いながら坐っているだけなのだから。
たまにはダイエットでもしろ。それと、栄養もあれこれ考えなければだめだ。一日にひとつはなにか果物を食べるといい。ここは暗いからよく見えないが、野菜を取らないと肌が老化するという話を聞いたことがあるぞ。もしかしたら目元に小じわが……
「ばかあっっ……！」
そうだ、ひとつ忘れていた。チェリスは、体力こそ皆無だが、無限の魔力を持つ、ということを。
まっしろな霜が壁を覆い尽くした、かと思うと耳障りな甲高い音を立てながら、透き通る厚い氷となって張り巡らされてゆく。
チェリスの吐く息が、白く、立ち上る。
まわりを見渡した。玉座を中心に、すべてのものが凍り付いている。まるで氷で出来た蜘蛛の巣のようだ。ちなみに私自身は霊だから、寒さは影響しない。こんなことをしてダメージを受けるのは、ダンジョンを構成する岩盤そのものだ。いったい、何を考えているのだ。氷が溶けたら、天井が割れてくずれてしまうぞ？
「分かってましゅ、このあんぽんたん！」
チェリスは泣きそうな声で怒鳴った。
「ジェノしゃんがひどいことばっかり言うからですっ！」
私のせいなのか？
「ジェノしゃんの……いじわる！」
理解できない。論理が破綻している。「死の歌い手」と称せられ、暗黒魔法の頂点を極めた邪霊使いがこんなことぐらいで錯乱しているようでは困る。上がこれでは、我々のような下っ端はいったいどうすればいいのだ？
「それどころじゃありません、侵入者です」
チェリスはカチンカチンに凍った玉座に座れず、所在なくうろうろとしながら言った。ほらみろ、言わないことではない。せっかくのふわふわクッションが台無しだ。
「クッションなんかどうでもいいです。待って……かなり強いみたい。何者でしょう？」
チェリスは耳を澄ますような仕草をした。
暗黒魔洞のすべての通路には、彼女の目であり、耳である使い魔が潜んでいる。通路には餓えたペットたちが放し飼いにされ、財宝という噂に引きずられたエサが迷い込むのを待っている。
私は霊体をすこし変質させ、生前の記憶にある戦士の姿を取った。
ふと、自分が何者だったのか、ということに注意が向く。私が今、ここにいるのは、生前に、チェリスと会っているからだ。この洞窟から出ることを許されないのは、この部屋で死んだからだ。闇の祝福を得て生きながらえているのは（くれぐれも申し添えて置くが、私は幽霊である）、チェリスが、手元に置いておこうとしてくれたからだろう。
私は本当に、チェリスの言うとおり、財宝を探しに潜り込んだだけの貧相な墓泥棒だったのだろうか。彼女と生活を共にするようになって、この暗黒魔洞を隅々まで歩いて感じたことは、ここが普通の人間には突破できない死の罠に満ちている、ということだった。
私は、侵入者の様子を探りに行きたい旨をチェリスに告げた。手にしたブレイドは巨大な青白い炎を滴らせている。
「分かりましたです。見てきてくだしゃい。そのかわり、解呪されそうになったら絶対逃げてきてくささいね！？」
魂を縛り付ける力が弛む。チェリスの眼は、相変わらず不安に揺れ動いている。私はチェリスを見つめた。どんなにワガママ放題でも口が悪くても構わない。私は、チェリスに仕える。それが私の望みだ。
「何……じーっと見てるです。早く行ってくだしゃいですっ！」
チェリスの顔が赤い。熱でもあるのか。仕方ない、冷やしてやる。オデコを出せ。
「とっとと行くです、バカジェノ！！」
……何故怒るんだ。全く分からない。
私は凍り付いた洞窟をゆっくりと昇っていった。かわいそうに、薄っぺらい皮膚しか持たない魔物たちは、寒さの余り壁に身を寄せ合って、悲しげな鼻声をあげ続けている。
私は通路が広くなった場所で立ち止まった。耳をすますと、チェリスのペットたちが、心をかき乱す悲鳴を上げて逃げまどう気配が伝わってくる。どうやら相手はかなり残虐な人間のようだ。
通路を駆け戻ってくる足音が聞こえた。口から牙を五十本ほど可愛らしくはみ出させ、顔中えくぼだらけにした愛らしい姿のヘルハウンドが、尻尾を巻いて駆け寄ってくるのが見えた。すでに体中傷だらけで、息も上がり切っており、全身血まみれになっている。
ヘルハウンドは、私に気付いてどうにか元気を取り戻した。鼻面をなでてやると、嬉しそうに尻尾を振る。前方に光が見えた。私は目を細めた。人間の足音と、叫びかわす声が聞こえてくる。
チェリスの命令を思い出す。解呪されそうになったら即、逃げ出すこと。
ふと、声が止んだ。気付かれたようだ。まあ、どちらにしろ、私は不意打ちをしてブキミに笑うような悪趣味かつ卑怯な幽霊ではない。
残念だが、今の私に人間の言葉は分からなかった。剣を抜き、人間どもを見下ろす。
先鋒は不格好な鎧に身を固めた戦士が二人。幸いなことに呪われた武器は持っていないようだ。どんなにふりまわしても、単なる鉄の刃では、霊体をかすめることすらできない。ということでこいつらは無視。
魔法使いらしき男は、貧相な水晶玉の杖を手にして、雷を呼び出そうとしているところだった。それにしても酷い衣装センスだ。時代遅れにもほどがある。
古めかしい魔法使いは恥ずかしげもなく炎の呪文を唱えはじめた。これまた何やら大時代的な、わけのわからない呪文だ。私はヘルハウンドに逃げるよう合図し、ゆらりと剣を斜に構えた。呪文の詠唱をじっと待ち受ける。
火の精霊が空間を歪めて現れた。きょろきょろと周囲を見回し、己を呼びだした魔法使いに苦笑いしている。精霊は指で空に火の象徴を描いた。炎が杖に宿る。
「炎霊、降臨せよ、爆裂召喚！」
拳ほどの大きさに膨れ上がったところで、魔法使いが何やら大声でこっぱずかしい術の名前を叫ぶ。ああ、何という見てはいけないものを目の前に突きつけられたかのような後ろめたさ。思わず顔を赤らめてしまうが、これも仕事だ。私は頭の中で一、二、三、（中略）、九、一〇と数え、剣を薙ぎ払った。こっ恥ずかしさもろとも炎を吹き飛ばす。洞窟は再び、薄暗い闇に戻った。
残るは僧侶一人だ。しかし僧侶だけは侮れない。どんな下っ端でも、神の言葉を真似ることができるからだ。僧侶は胸の前で手を結び合わせ、私を見上げていた。その目が驚いたように見開かれている。細い滝のような銀の髪。薄い紫を帯びた瞳……女だ。だがその表情が妙に切羽詰まっているような気がして、私は不思議な気持ちになった。
言葉は理解できないが、表情は見れば分かる。それは手負いの戦士が浮かべる、死を目前にした歪んだ顔とも違っていた。
なぜだか分からないが、この邪悪な神に仕える僧侶を殺す気にはなれなかった。私は闇に身を紛らわせた。逃げた、のかもしれなかった。自分がよく分からない。ヘルハウンドが、僧侶を食い殺してもいいかどうか尋ねた。私はかぶりをふり、僧侶と魔法使いを外へ追い出すように命じてから、チェリスの元へ戻っていった。
「何で殺しとかないですかっ！」
チェリスは腰に手を当て、私の顔を見るなり怒鳴りつけた。
なんだ、まだ怒っているのか？ ちゃんと追い払ってきたぞ？
「また戻ってきららどうするつもりでしゅっ！！」
どうするとかカミカミしながら言われても困る。
「ジェノしゃんのバカ！ あの僧侶は神に仕えてる者たちですよ？ 呪われた存在ですよッ？ 私の可愛いペットちゃんたちを、怖い顔してるっていうだけで殺すような奴等ですよ！ ジェノしゃんだって、たまたま今回は助かったけど神の言葉をぶつけられたら速攻で天国に行っちゃうんでしよ？ 永遠に祝福されてうふふふアハハハとか恐ろしい笑い声を上げる天使に追いかけ回されて苦しみ続けるですよ！」
凍り付いた玉座のクッションはいつの間にか新しいイチゴ模様のものに取り替えられていた。チェリスはお尻から飛び込むように玉座へと飛び乗った。苛立たしそうに膝をかかえ、うーうー唸っている。
「ううん、どうしたら……」
だが、そのとき。ヘルハウンドが、尻尾を巻いて耳を伏せ、頭を下げてすごすごと入ってきた。その後に、あの僧侶がいた。銀色の光が突きつけられる。
しまった、神の祝福――！
チェリスが何か怒鳴っているのが聞こえた。ヘルハウンドが飛び上がって逃げ出す。氷に包まれた玉座の間に、暗黒の帳が降りた。闇の中で、先ほどの僧侶の姿だけが、仄かに白く、輝いている。
「いきなり攻撃するなんて、魔女の風上にも置けなくてよ、お姉様」
チェリスの持つ魔法書が暗く、妖しい火に包まれている。僧侶は引きつった顔で何かを答えたが、やはり私には聞き取れない。艶めく微笑みが、僧侶を捕らえた。
「……お姉様は、神の名の下に、その男を滅ぼしてやることが幸せにつながることだと、そう仰有るのね？」
私は魂が吸い込まれていくのを感じた。我が主。美しき邪霊使い。その力は魔界に通じ、意に従う魔王は数知れず……そして、その力ゆえに、孤独と闘い続けてきた、たった一人の支配者。すべてをかけてでも守るべき、愛おしき、ちいさな存在。
私は魔光したたる剣を抜いた。僧侶の顔色が変わるのが分かった。何か同じ言葉を繰り返し、叫び続けている。だが、聞こえない。私は無言でチェリスの命令を待った。チェリスは好きにしてよい、という仕草をした。冷酷だがそれが主の命令ならば従うまでのこと。私は剣を振りかぶった。
銀の目。銀の髪。それを魂ごとまっぷたつに断ち切った、と思った瞬間。
銀色の血が飛び散ったように見えた。一瞬、まばゆく立ちこめる光に視界を失う。私は僧侶の姿を探した。消えた――！？
ぞっとする神の言葉《ロゴス》が聞こえた。死の呪文。邪なる復活の詠唱。私は膝をつき、よろめいた。剣を、取り落とす。
「神の名において、かりそめの身体に宿り、そして目覚めなさい……ジェノ！」
――俺は銀色の霞みとなった言葉《ロゴス》を頭から被って、悶え苦しみながら、全身に回った闇の毒を吐きだした。ぜいぜい言う喉を押さえ、苦痛にかすれる目で、目の前にいる女を睨み上げる。この女は、チェリス。この洞窟を支配する女悪魔。俺の魂をさんざんに弄びやがった女妖術使いだ……！
「てめえ、こんちくしょう、この俺様をよくも……」
俺は唾を吐き、こぶしで口を拭って、よろめきつつ立ち上がった。ついさっきまで、あんな女にホイホイ付き従っていたのかと思うと、気持ち悪くてヘドが出そうだ。
今度こそ、ぶち殺してやる。俺は、全てを思い出していた。
皆殺しのジェノ――それが、俺だ。金をふんだくっては、そこらじゅうに湧き出す魔物をぶち殺して歩くのが商売だった。あの時も、鼻水垂らした領主に泣いてせがまれ、二千枚の金貨を前金にかっぱらい、この暗黒魔洞へやってきた。
この僧侶に出くわしたのは、洞窟に入ってすぐの場所だった。腐った水たまりを相手にひんひん泣いていたところを、奴等の仲間と勘違いしてそのまま襲ってしまったのだ。
ひん剥いて事を済ませ、さぁて殺そうと思ったときになってやっと、相手が僧侶だと気付いた。暗かったせいもある。俺が聞く耳を持たなかった、という解釈もあり得るだろう。つまるところ俺は悪くなかったし、この女も悪くなかったはずだ。神様には洞窟に立ちこめる悪意のせいだということにしておけばいい。それはともかく殺生を禁じられているはずの尼がどうしてこんなところにいるのか、理由を聞いて俺は納得した。
チェリスの双子の姉。それがこの僧侶の素性だ。どういうわけがあって、神と悪魔、それぞれの手先に分かれたのかは知らない。俺には関係のない話だ。カネさえもらえれば、誰だって殺す。俺は僧侶をチェリスのいる最下層まで連れていってやると約束した。もちろんタダではない。禁断の果実ほど甘い、とはよく言ったものだ。最下層へ到達するまでに、俺たちは数え切れないほどの魔物を殺した。流れる血で足が滑るぐらい、洞窟を奴等の死体だらけにした。薄汚い血にまみれ、息苦しいほど生臭い空気を胸一杯に吸って、俺も僧侶も殺戮の情念に狂いつつ燃えに燃えた。
そして、最下層、この部屋で。俺は、チェリスの足下にくずおれた。
……情けない高笑いに続いて、げほげほと咳き込む声を聞きながら。
「ブッ殺してやる」
とりあえずかりそめの肉体で復活したものの、俺が幽霊の時使っていた剣はいつの間にかどこかへなくなっていた。まあいい、闇の剣などいらない。
怯えた顔のチェリスが、俺を見据えて後ずさった。俺は唾を吐いた。今度こそ、俺を殺し、いいように操っていた邪悪な魔法使いの息の根を止めてやる。
「ジェノしゃん……」
ふるえるような、かぼそい声がチェリスの唇から漏れる。
俺は、一歩、踏み出した。チェリス最大の術は、死の歌だ。歌さえ封じれば、勝機はある。そのためには、ヤツの頸を締めあげるしかない。
「そんなこわいこと……やめてくささいです……」
こんな時にまでカミカミな呻き声が、なぜか轟音のように聞こえた。俺は歯を食いしばった。また、妖術にかけられているのか。チェリスの声が、どんなに耳を塞いでも塞いでも忍び込んでくる…！
「殺すのよ、殺せって言ってるでしょ！」
憎悪に満ちた僧侶の声が響き渡る。
「今よ、今しかない！ この魔女を殺せるのは、今をおいて、そして、あなたをおいて他にはないわ。聖なる銀の教えがあなたを祝福する。だから早く、殺して！」
俺は吠えた。獣のように喚き叫びながら、チェリスの首に手を掛ける。チェリスの眼が苦悶に大きく揺れ動いて、俺の心臓のど真ん中を鷲掴んだ。チェリスの唇が急速に変色してゆく。その端から、赤い糸が滴り落ちる。俺は名状しがたい恐怖にかられ、さらに頸を絞めた。そうだ、チェリスを殺せ。奴は魔女だ。だから殺せ、殺せ――
俺は、絶叫を上げてチェリスの身体を突き飛ばした。チェリスの華奢な身体が凍りついた洞窟の岩盤に叩きつけられる。おぞましい音が反響した。棒のようだった。僧侶はひきつれたようなうめきを上げ、後ずさり、それからけたたましく笑った。
「やった、ついに、やったわ！ 魔女を殺した……これで階梯が上がるわ……！」
何が嬉しい！？
そう怒鳴ろうとした俺は、チェリスの身体から魂が立ち上がるのを見て息を呑んだ。僧侶は、未だに大はしゃぎし続けていて、チェリスの変化には気付く様子もない。
張りつめていた氷が、ゆっくりと溶け始めていた。チェリスの魔力が途絶えたせいだろう。水滴が、ぽつり、ぽつりと、降り初める雨のように頬を打つ。
「ごめんあそばせお姉様！ お宝は全部、このわたくしが頂いて差し上げますわ！」
僧侶は叫び、チェリスが長年かけて収集した宝物で山積みになった隣の間へ突進していった。重い石の扉を押したり引いたり、その辺にある棒でこじ開けようとしたり、それはそれはあさましい努力を払いつつ、どうにか扉をこじ開け、宝物庫へと駆け込んでゆく。
僧侶は櫃に手を突っ込んで、取れるだけの宝石を鷲掴み、引きずり出した。薄暗い洞窟が、陽炎の映し出す虹に揺らめき輝く。僧侶の手から、掴みきれなかった宝石、金銀の粒が、ざらざらとこぼれ落ちて床に跳ね転がった。
俺はへたり込んだまま、呆然と天井を見上げた。チェリスは魔女だ。悪魔の手先だ。人間の敵だ。なのに、なぜ、どうして、こんなにも……胸が苦しい……？
その間にも、洞窟全体を氷で閉ざしていたチェリスの魔法は、その効力を失い続けていた。溶けだした水が足下でうずまき、部屋の隅へ溜まっていく。
このままでは崩れる。俺は半分水につかったチェリスに駆け寄った。助け起こす。だが、チェリスの身体はもう、恐ろしいほどに冷たかった。
「チェリス……！」
どんなに叫んでも、後悔すら、チェリスの耳にはもう、届かない。
「チェリス、目を覚ませ、さましてくれ、チェリス……！」
氷によって押し広げられた微細な割れ目。打ち込まれたくさびのように、岩盤を押し広げていた氷が溶けだす。
次の瞬間、地中を縦横に掘り抜いた洞窟全体にかかる圧力が、いっせいに最下層の空間へむけて集中した。無数の亀裂を生じた天井が、砕け散る。
俺と僧侶は、全世界が買えるほどの宝を目の前にしながら、落ちてきた天井に巻き込まれ、そのまま――
「ジェノしゃん……目を覚ましてくささいです、ジェノしゃん」
見渡す限りの夜だった。ちりちりと鳴く虫の声が聞こえる。私は、目を開けた。心配そうにのぞき込んでくるチェリスの顔が一番に見える。
幽霊特有の鬼火がふわふわと頭上を泳いでいる。私はまた、自分が心穏やかな小心者の幽霊に戻れたと気付いて少しばかり安堵した。よかった、また死ねたようだ（？）
チェリスもまた、青白い炎をまとってぷかぷか浮かんでいる。
そこへ、どうにか這いだしてきたらしいあの僧侶が、うすぼんやりした幽霊の輝きを帯びて突っかかってきた。
「んもー、今度という今度はもう本当に許さないんだからねいったいぜんたいどういうつもりなのよいきなり洞窟ぶっ壊すなんてバッカじゃないの！」
怒濤のごとく罵詈雑言を吐き散らし出す。よほど頭に来ていたのだろう。喚き散らすたびに頭の大きさが倍・倍・倍加していく。すでに人間じゃない。顔のお化けだ。このまま巨大化していったらいったいどうなるのだろう。ちょっと想像したくない感じだ。
「うるさいです。あっち行って」
チェリスは指をぱきん、と鳴らした。
「きぃぃ何ですってぇ許さないわ許さないわ許すもんですかああああぶしっ！」
僧侶の顔がみるみる朱に染まり、さらに膨張したかと思うと。ぼん、と音を立てて破裂した。
「ぎゃわぁぁぁぁぁ……！」
ぺらぺらの薄皮みたいなものが穴の開いた風船のようにくるくると舞った、かと思うと、突如吹いてきた風に巻かれて、お約束のごとく遙かな夜空へと消え去っていった。もちろん、星となったのは言うまでもない。だがしかし結局どういうことなのか、さっぱりわからないのだった。
「……あれは私の双子の姉でいちおう聖女、ということになっているらしいのですけど」
チェリスはもじもじと居心地悪そうに手を揉み合わせ、腰を揺すった。
「皆がちやほやするものだから贅沢しすぎて悪魔に魂の借金がいっぱいあるらしいのです。で、何とかして踏み倒させようとわたしに魂の無心をしに来てるのです。ああ、身内の恥と思ってどうか見逃してやってくだしゃいです」
まあ、チェリスが言うなら赦してやらないでも……いや、ちょっと待て。じゃあ、何か？ 私はただ、あなた方の借金棒引き合戦に巻き込まれただけ？
「まあ、大雑把に言えばジェノしゃんの役どころは、”当て馬”なんですけど」
何ーーーーーー！！！？
「でも、いいじゃないですか？ 皆殺しだなんて恐ろしい通り名で、あたしの可愛いペットちゃんたちを神の名の下に魔物だからってバンバン殺しまくるような極悪人でいたかったですか？ そんなのいやでしょ」
確かに……生きている間は、あまり好ましい人間ではなかったかもしれない。
「そういう悪党もキライじゃないですけど……というか、ジェノしゃんみたいな生前悪党だった人間の魂って、けっこう高値で売れるんですよ？ 最近は気の弱い坊ちゃん育ちの悪魔が増えて来ちゃってですね……ジェノしゃんの『悪い心』を抜き取って売っぱらっちゃったのが、あのひと、どうもカチーンと来たみたいでしゅ……」
とっくに売られていたのか私の魂は！ というか誰にだ！？
「ま、いいじゃないでしゅか！」
私はチェリスを見つめた。たしかに、言われてみればそうかもしれない。チェリスはたぶん、生きていたときの私が心のどこかに隠していた望みを叶えてくれたのだ。血に濡れてきた手、罪を刻んできた身体、その全てを、記憶と共に永遠の彼方へと捨て去ってくれた。
……幽霊になって、彼女に仕えるという条件つきだったが。
だがそれもよく考えれば悪いことばかりではないような気がした。ぶうぶうワガママ言うばかりで、しもべのことなんかまるで考えもしない、自分勝手な主人かと思っていたが、案外そうでもないようだし……。
「誰がじじじじ自分勝手でしゅかっ！」
……だから噛むなと言っている。それとも何かまた、気に障ることでもしたか？
「なななんでもないでそっ！ 寒いだけです！」
霊体は寒さなど感じないはずだが……。私はもう一度、隣に浮かぶチェリスを見下ろした。まだぶつぶつ何か言っている。なぜそんなに顔を赤くしてまで文句ばかり言うのか、私にはさっぱり分からない。
「誰も赤くなんかしてないですーーーーっっ！！ ジェノしゃんのばかああっ……！」
チェリスは手で顔を覆い、うわあああんと泣きながら逃げてゆく。やれやれだ。私は深く考えるのをやめた。彼女を最も美しく輝かせるのは、闇だ。そして、幽霊もまた、夜の住人だ。それ以上、何を望むことがあるだろう。
彼女のそばにいられるのなら、幽霊も悪くはない。
おしまい。
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