「ねえ、リッちゃんさん、ソラってなんですか？」
（……リッちゃんさんとか呼ぶなーッ！）
怒髪天を衝くとはまさしくこの有り様を指して言うのであろう。全身の柔毛を凶悪な威嚇に逆立て――否、みるみる愛らしくもふわふわもふもふ極まりない、金色のマリモ状態へと膨れあがらせてゆきながら、魔界の大公子リッツェンドルフェン・フォン・バーグレン・デュレッシェン・ベルゲ・ウンター・ラ・ダルドゥス略してリッちゃんはキイキイと甲高い声で食って掛かった。
（余をどなたと心得る。恐れ多くも魔界の大公子リッ）
「ちゃんさんですよね？」
怪気炎をあっさり振り払って答えたのは、背にちいさな白い翼を持つ少女だった。
暗黒の魔界にそぐわぬ仄かな霊光を帯びた姿。
薄い水色に白のレース飾りの付いた膝丈のワンピースを着、ちっちゃな白のバッグをたすきがけにしている。右の足首には赤いリボンのアンクレット。左の足首には鉄枷と鎖。加えてちょこなんと白のボンネット帽をかぶり、風で飛ばされたりしないよう、喉のところでちょうちょに結んでいる。
それが、とんがった黒い岩の上にちょこんと腰掛け、鎖の付いた足をぷらぷらさせている。
少女はレースの手袋をはめた指先で口元を隠し、ころころと笑った。
「リッちゃんさんって、どうして怒るとまんまるになるのですか？ 不思議です。悪魔さんなのに」
ほとんど背丈と同じぐらいある、長い長い金髪の三つ編みが帽子の下からこぼれ、少女が笑うたびにくるり、くるん、とまるで毛先のリボンが踊ってでもいるかのように跳ねる。
（ううううるさい黙れ下郎！ 罪人の分際で主たる余に向かってカワイイとは何事だ……）
「えへ、そうでした。ごめんなさい、リッちゃんさん」
少女はまるで悪びれもせずに屈託なく笑う。そのままふわっ、と。
まるで重力を感じさせないかろやかさで岩から浮き上がり、背中の羽をぱたつかせながら、金の毛玉こと魔界の大公子リッツェンドルフェンにしがみついてゆく。
（な、何をするかっ！）
「ふみゅうぅ……ふわふわです！」
ふわふわむくむくな毛皮に顔を埋めて、声を華やがせる。
「怒ったリッちゃんさんもステキです、ルーといっしょにごろんごろんして下さい、ごろんごろんです……！」
舌っ足らずな甘えん坊の声で少女はせがむ。
（なっ何を言うか無礼者……口の利き方に気をつけろ……）
もふもふな金色の尻尾と尖った長い耳と、が驚きのあまりぴきんと硬直する。少女は大喜びで毛玉に頭を突っ込んだ。
「だっておっきなふうせんみたいなんですもの」
あまりの柔らかさにくんくん鼻を寄せ、頬ずりまでしながらうっとりとキスをする。
（……ッ！）
ぼん、と浅黒い煙が上がって。
「馴れ馴れしくするな、小娘が」
低い、凄味のある声が闇にひびいた。冷気が逆巻き耳元へと流れ込んでくる。
「あ……」
少女は声をすすり込んだ。口に手を押し当てる。
巨大な漆黒の剣を思わせる膜翼が傲然とうち広げられる。妖艶になびく闇緑色の髪。青黒い肌。青銀にきらめく竜鱗の痕跡が頬にうっすらと浮かび上がる。
爬虫類じみた金の眼がぎらりと光った。
「……みだりに触れるな。余は、悪魔だ」
棘鋲を打った漆黒の外套の裾をひるがえらせ、魔界の大公子リッチェンドルフェンは少女を恫喝した。鉄の鎖が邪険に鳴り渡る。どこからどう見ても残忍かつ邪悪なる魔性そのものの形姿――
だがしかし。
「それで、リッちゃんさん、さきほどの話なのですけれどもね」
少女は相手の姿が金の毛玉から悪魔のそれへと変わろうが変わるまいが全く気に留めていなかった。嬉々として遙かに背高になった相手の足下にまとわりつく。
「ソラってなんですか？ ねえ、ソラって何なのですか？」
「……少しは恐怖を知れ、幼き天使よ」
まるで怖れる様子のない少女にぺたぺたと思いきり懐かれ、魔界の大公子はうんざりしきった仕草でこめかみを押さえた。
「なぜ、怖れぬ」
「恐怖ぐらい、”ちゃんと”知っておりますわ」
少女はぷうとほっぺたをふくらませた。
「おそろしい思いをすることでしょう？ それぐらい私だって存じ上げておりますわ。でもルーは恐怖なんかこわくありませんの。だからソラのこと教えてくださいましな？」
「知らずとも良い」
魔界の大公子はすっと眼を細めた。酷薄にさえぎる。
「お前には関係ない」
「なぜですの？」
「……」
「どうしてですの？」
「……」
「ねえ、リッちゃんさんってば！」
「……この地に空など存在せぬ」
かつて争いがあったとき
全てを滅ぼそうとした神に逆らった天使がいた
神に逆らった天使は力を奪われ
記憶を奪われ
滅びの地へと堕とされた
その日からソラの門はかたく閉ざされ
二度と、開かれることはない
「ふうん」
少女は分かったような分かってないような顔でうなずく。
「あれは、では、ソラではありませんの？」
悪魔と並んでぼんやりと上を見上げる。
ぶよぶよの肉を詰め込んだような気味の悪い雲がたれ込めていた。ときおり閃く青や赤の閃光が生々しくもおぞましいものを思わせ、なおいっそう凄惨な様相を照らし出している。
「違う」
「では、ソラとはどこにあるものですの？ ソラって遠いのですか？ ルーには行けないとこですの？」
矢継ぎ早の質問に悪魔はため息をつく。どうやらあきらめなければならないのは彼の方であるらしかった。
「お前の故郷だ」
端的に言う。
「こきょう……？」
「……かつて、お前が」
悪魔はかすかに逡巡した。口ごもる。
「いた世界だ」
「えっ、そうなのですか？」
思いも寄らぬ答えであったのか、少女はぱっと顔を輝かせた。
「まあ、すばらしいわ！ つまり、ルーのおうち、ということですのね？」
「違う」
「えー！？」
少女はぷぅと頬をふくらませた。すねたようにくちびるを尖らせる。
「丸くないリッちゃんさんの仰有ってるコトは、ルーには、ぜんぜん分かりませんわ。ううん、ふにゅう、いいですわ、リッちゃんさんのけち。いじわる。他の誰かにお尋ねすることにいたしますわ」
「食われるぞ」
「うっ……ルーはそんなに美味しくないですの……」
ちいさな羽が震えている。
はらりと淡く、白く、無垢の光を含んだ羽毛が舞い散った。地面に触れた途端、うたかたの輝きを放ってふいと溶け消える。
悪魔は名状し難い薄暗い眼差しを少女へとくれた。
「帰りたいか。空へ」
「えっ」
少女はすこし困惑した面持ちで何度も眼をぱちぱちさせた。それからおずおずと手を口元へ持ってゆく。
「うーん……うーんと、ルーは」
「戻りたいのだろう」
悪魔は底冷えのする声でつぶやいた。
「戻りたいと言え」
「どうしてですの？」
少女はきょとんとした。心外そうに眼を大きくみはる。
「ルーは別に……」
「お前には空が必要だ」
悪魔は、いとけない仕草の少女をどこか苦々しい思いで見つめた。
遠い記憶が甦る。今はもう喪って久しい、古い、懐かしい、息苦しくさえある青い記憶。
狂おしさと、愛おしさと。自らの思いを伏して殺さなければ到底抑えきれないであろう感情の黒い奔流がふいに心の奥底からあふれ、さらけ出された。
「空さえあれば澱んだ空気に病むこともこんな地の底を這いずり回る必要もなくなる。光さえあれば。だから、もし、お前が望むならば――俺が、空を、取り戻してやる」
少女は微笑みと困惑の入り交じった表情で悪魔を見上げた。
「リッちゃんさん？」
「何だ」
「ルーは、ですね」
おずおずと指の先を突き合わせながら言葉を探している。
「ルーは……」
「はっきり言え」
少女は気後れしたように目線を落とした。
「やっぱり……ソラ、いりません」
「何故だ」
悪魔は声を険しくした。少女の心を傷つけるかもしれない言葉を投げつける。
「天使の分際で闇に染まる気か」
「闇……」
少女はびくりと身体を震わせ、怯えた色をかすめさせて悪魔を見上げた。
「ルーは……ルーですわ」
「お前の居場所はここではない」
残酷に遮る。
「空へ帰れ」
「イヤです」
少女はぷいとそっぽを向いた。
「ここがルーのおうちですの。ルーのソラはあのソラですの」
「光すら存在しないというのに」
「え」
少女は困ったような顔で言った。
「お日様ならありますわ……」
悪魔は総毛立つ微笑みを浮かべた。冷ややかに吐き捨てる。
「たわけるのも大概にしろ、愚昧なる天使よ」
「分かっていないのは丸くないリッちゃんさんのほうですわ」
少女は依怙地に言い張った。
「オトナぶってるくせに何にもご存じないのね。ふうせんもお日様もおんなじですのよ？ どっちも、まるくて、ぷかぷかしていらっしゃいます」
「お前が何も覚えていないだけだ」
悪魔は少女のかぼそい、幼い喉へと手をやった。罪深い光を帯びた爪が少女の白い首にぎらりと添う。
「思い出せばお前は俺を憎む」
だが少女は何も気付かなかった。あろうことか悪魔の手の触れるに任せ、それどころかくすぐったそうに身をよじってじたばた足をばたつかせさえしている。
「あん、いやですわ、リッちゃんさん、こちょこちょしちゃだめですわ……ああん、くすぐったい……！」
少しでも力の加減を間違えてしまえば。
今も天使をつけ狙う他の悪魔どもと同じ陰惨な欲望に囚われてしまえば。
まさにひとたまりもなくその命を奪ってしまうことだろう。赤子の手をひねるが如く、天への冒涜、嫉視、いわれなき嗜虐を目論むその象徴的行為として力を失った使いの魂を無惨に踏みにじり尊厳を奪い尽くし、愚かな虚勢の雄叫びをもって享楽の血祭りに酔いしれてしまうだろう――己もまた魔性の存在であるがゆえに。
「……記憶を、”正義”を取り戻せばきっと、お前は」
「ちがいますわ、そうではありません」
自らの喉へ突きつけられた殺意とは裏腹に、少女は悪魔の手の中で無心にころころと笑い転げていた。
「ルーは全部好きですもの。暗いソラも暗いヤミもときどきは怖いけどたまには優しいこの世界のみんなもそれからたぶん明るいソラもまぶしいヒカリもルーの知らないほかの天使のみんなも。全部好きですわ。みんな、同じぐらい好きですわ。でも、リッちゃんさんだけは」
少女は息をはずませながら頬を朱に染めた。照れくさそうにはにかみ、ちいさな声で言う。
「ちょっとちがいます」
夢から振り落とされたかのようだった。
「そうだな」
悪魔は感情を殺ぎ落とした。喉に添わせた手で冷酷に少女を押しのける。
「その通りだ。悪魔と天使が相容れることはない」
少女はきょとんとした。
「あいいれるって何ですの？」
「理解することもなければ和解することも出来はしないと言うことだ」
「りかいって何ですの？ わかいって何ですの？」
「……」
「もう。丸くないリッちゃんさんのいうことは、やっぱり全然分かりませんわ」
少女はむっとした様子でぶつぶつ文句を言った。が、ふいに顔を上げてにっこりと笑う。
「でも、これだけはルーにも分かりますわ」
悪魔の眼をひたと見上げ、ぎゅっと手をつかんでくる。
「リッちゃんさんは、ルーの……特別ですの」
「な、なにっ」
やわらかく握られた手を振り払うこともできなかった。
「とく、とくべつとはどういうことだ……」
「特別は特別にきまっていますわ」
実は何も分かっていないかもしれない小さな天使と手をつないで。
冷涼たる闇の荒野に立ちつくし、光と闇が共にあることを拒否し続ける鬱屈の空を、越えきれぬ壁を、呆然と見上げている。
「オトナのくせにへんですの」
何もかもがひどく間抜けな光景に思えた。
記憶の彼方にある蒼穹の天使
どこまでも青い空
長い、長い、黄金色の髪
光かがやく純白の翼
「お、お前、相変わらず言葉の意味が全く分かっていないようだな……」
「ルーはちゃんと分かっておりますわ。お利口さんですもの」
少女はえっへんと胸を張る。
「ふうせんはお日様とおんなじですわ」
「は？」
悪魔は愕然とした。まじまじと少女を見下ろす。
「お前、何を言って……」
「お日様はソラにぷかぷか！」
「……」
「ふうせんもソラにぷかぷかですわ」
「……」
「つまりお日様とふうせんはおんなじってことですわ。だからルーのソラもここでいいのです」
「何を言い出すかと思えば」
悪魔は冷笑しようとした。
「闇を空と強弁するとはな。悪魔を――光と」
「ソラが黒くちゃいけないって誰がきめたのですか？」
少女は精一杯むすっと怖い顔をしてみせた。
「ソラが気持ちよくなくちゃいけないって誰が決めたのですか？」
悪魔は声を失った。
すべてがまぶしく 白く 遙かに遠く
だが
その笑顔が
向けられた微笑みこそが何よりもまぶしかった
「ルーは、そんなの気にしませんわ。ちょっとぐらい臭くっても、べちょべちょでもでろでろでもぶよんぶよんでも……いいのです。ルーは、リッちゃんさんと、一緒に見るあのソラがだいすきですわ」
少女は懐かしい、まぶしい微笑みの面影をたたえて言った。
「だから、リッちゃんさん」
甘くねだるような、鼻にかかった愛らしい声でささやく。
「もう一回……おねがい！」
ぽん、と金色の煙が上がって。
（よ、良いな、今回だけだぞ！）
むくむくの尻尾を振り立てたまんまるいリスのようなタヌキのようなネコのような金色の毛玉がキィキィ声を荒げて怒鳴った。
（余の懇ろなる温情に感謝するがよい！）
「やったあ！ うれしい、ごろんごろんー！」
少女はさっそく歓声を上げて飛びついた。
金色の毛玉こと魔界の大公子は完全に圧倒されてあっちにゴロゴロ、こっちにゴロゴロと転がり回った。少女はと言えば大喜びで羽をうちはばたかせながら金色の毛玉を追いかけ回している。
（余の存在意義はころころの故か……？）
「ううん、リッちゃんさんだから、だいすきなのです！」
（う、うむむ。良いのかそれで余は良いのか？）
「うんっ！ リッちゃんさん、ルーは、リッちゃんさんが、だいすきです……！」
どうやらさんざん遊びまわって疲れたらしい。
小さな天使は、つめたい暗闇の裡にあってただ一箇所、日だまりのように輝く金色の毛玉にうずもれ、暗い空を見上げていた。
「リッちゃんさんって暖かいです」
（う、うむ。有難く思うがよい）
「ホントお日様みたいですわ……」
（違うと言っておろうが！）
「ううん、違いませんわ」
少女はうとうととかぶりを振る。
「……ほんもののお日様も、リッちゃんさんみたいにきっと暖かいんでしょうね……？」
（お、愚か者めが。本末転倒だ！）
「え……？ ほんまつてんとうって……何ですの？ ねえ、何ですの……？」
確かなぬくもりにゆったりと身を預け、いつの間にか少女はすやすやと寝息を立て始めている。
困惑の尻尾がゆらゆらと揺れて。
やがて、静かに少女の身体を包み込んだ。
【終わり】
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