「ねえ、ちょっと、ハルカ」
授業が終わり、がやがやとクラスメートたちが教室から出て行く。その流れに乗って帰ろうとしていたあたしを追いかけるようにして、マオが声を掛けてきた。
「悪いけど屋上までツラ貸してっ！」
廊下に出たとたん、その言い草だ。帰り際にくらうせりふにしてはあんまりにも唐突だったのであたしは思わず手に持っていたペンケースを落っことしてしまう。
「何そのツラ貸せヤキ入れてやるみたいなヤンキードラマにお約束の言い方」
「いいからいいからっ」
マオはすっごく悪戯な、悪い子の笑い方をしてあたしの背を押しやった。唐突に押されたせいで、あたしは半分仰け反ったふうによろめく。
「やぁんっ！」
こっそり短くしたプリーツのスカートがふわりとひるがえる。おもわずあげてしまったあたしの甲高い声に気づいたのか、男子生徒が何人か振り返って、からかうように笑った。
「そうそうその声！」
何が可笑しかったのか、マオは眼をみはって手を打ち合わせ、はしゃいでいる。
「さすがは映研部長、やっぱ見る目あるよねえ」
「もう、やめてよ」
声。また、”声”だ。
あたしの気持ちなんかまるで無視。マオは笑ってあたしを引っ張るばっかり。廊下を抜け、明るくて広い階段を四階まで上がると、その先は許可無く立入を禁止します、みたいな貼り紙がしてある屋上のドアだった。
「はい到着！」
マオは銀色した屋上のドアをぱっと押し開けた。
「だから何ってば！」
ぴかっとまぶしい。青空が目の前に広がっている。かなり高めな目線で横一直線に青空を切り取る白いフェンス。コンクリートの白い床。自然豊かな、広大な敷地を取り囲む緑の山々。風が明るい。そして、なぜか屋上の一番向こうにガラスのガーデンハウスみたいなのまである。
「お、来た来た。ようこそ、我が映画研究部へ」
「って、ここ屋上ですけど」
背の高い、びっくりするぐらい、変な――ハートマーク型のメガネを掛けた男子が、妙に格好をつけ右斜め４５度に手を差し伸べた姿勢で言った。
「待っていたよ、雪村くん」
「帰らせていただきます」
くるりと背を向ける。
「待て」
「待ちません」
「ああんっお願い帰らないでぇっハルカちゃぁあん」
そこでハートメガネはころりと態度を変えてすがりついた。
「お願いがあるんですっ」
「だったらその変態メガネのコスプレやめてよね、佐伯」
「いいんだ、雪村くん。これは次回作『哀愁ラブゾンビ〜腐ったみかんも愛して〜』のためのキャラ形成に必要な変身アイテムだからして」
「は？」
「そして！」
変態メガネは、びしぃっとメガネをむしり取り、そのメガネであたしを差しながら高らかに宣言した。
「雪村くん、君こそ主演女優に選ばれし勇者だ」
「さて全員揃ったところで次回作の台本を渡そう」
コンクリートの床もまぶしい屋上で、あたしとマオは、フェンス際のちょっと影になったあたりに腰を下ろしていた。変態メガネ男こと、佐伯は、さっそくお手製のコピー台本を配り始める。……こんな変態コスプレ男が幼馴染みだなんてあんまり認めたくないけれど、眼鏡を取った佐伯は、ちょっと、というか、相当人目を引くタイプらしい。でもまあ、あたしの前では、なぜかほとんど、というか絶対に眼鏡を取らないけれど……
本性を知らない下級生にはものすごい人気らしいのである。バレンタインデーには他学年の女子発限定でチョコレートの海に溺れ、同学年の男子には嫉妬と同情の入り交じった憐憫の眼で見られる、ちょっと変わった特撮馬鹿……である。
「まずは主人公ジロー。これは主演男優にして監督、台本、カメラとすべてをこなす万能キャラである僕、佐伯が演じる。ジローは最初さえない高校生なんだが、とある組織の美人幹部にスカウトされ上半身がゾンビ美少女で下半身が段ボールロボという冗談キツイ改造人間となる。その名もラブターミネーちゃん。ここが雪村くん、君の出番だ」
「帰らせて頂きます」
「いいぜカモオン！ 世界中が赦さなくてもこの俺とお天道様が許してやる」
毎度のことなので佐伯の口走る意味不明な決めぜりふもどきのボケにいちいち突っ込んでやる暇人はいない。もちろん佐伯もこれしきの挫折にくじけるような馬鹿でもないので、まったく問題はない。
「そして結城真生。君の役は主人公を重火器面でサポートする美少女花魁、いわゆる現代忍者ゲイシャスパイだ」
「部長！」
マオが嬉しそうに挙手した。
「ゲイシャスパイって時点で激しく地雷臭がします！」
「良いのだ。自主特撮映画の道は果て無きイバラと鉄条網と地雷原の男坂だ！ 映画門に王道なし。以上、異論ある者は全員挙手ー！」
「異議なし！ 異議無し！ 意義なーし！」
マオが一人で十人分ぐらいの大合唱をする。
「……諸君の同意と共感に感謝する」
佐伯は見えない賛同者の観衆に手を振り、聞こえない歓呼の声に応じて、ついには空気と握手し始めた。あり得ない……あたしは頭を抱えた。もはやＢ級を飛び越えてもうどうしようもない末期のトンデモっぷりだ。その設定のどこをどう持ち上げれば異議なしと連呼できるのか。それを思えば、佐伯自身、もしかしたら凄腕のオルグかも知れない……いっそ悪の幹部をやらせたら右に出る者はいないような……
「雪村くん、今回の映画は君の演技力に全てが掛かっているんだ。分かるね？」
居住まいを正した佐伯は、ふっと前髪を息で吹き飛ばしながら髪を払った。きらきらと特殊効果らしきラメを吹きかけたおがぐずが散る。
「分かりたくありません。変態にも程があります」
「現実から目をそらすな」
「特撮ヲタの妄想を現実と思い込むほどまだ人生に失敗してないです」
「ああっ痛い、心がちくちく痛いよ」
佐伯は胸を押さえてうずくまった。
「さすがは僕の見込んだ最終兵器だ。そのアニメ声で冷たく罵られると、腰が砕けてもろもろのものが抜けてしまいそうだよ」
「佐伯！」
「はうぅん、いいっ！ たまらないぞ雪村くん。もっと酷く罵倒してくれ給え、そのアニメ声で」
佐伯はぶるぶる身体を震わせてうめいた。
「いい、いいぞその声！ これぞまさに人生最高のアンビリーバボー！ 今こそ分かる、恋する乙女の気持ちが……！ 恋せよ俺！ 俺の究極妄想が有頂天！」
「もう一度言います」
あたしは氷のごとく断言した。”声”。また、”声”だ。あたしが、どんなに、自分の声が嫌いか知りもしないで。
「お断りします」
「了解だッ！ ならば今すぐ恋に落ちる！」
佐伯が台本をかなぐり捨てて怒鳴った。
「許されざる禁断の恋！ 俺は今、映画史に残すべき永遠のテーマを見つけたっ！」
捨てた台本を上靴で踏みにじる。
「こんなカス台本などいらん！ 俺が撮りたかったのはムードたっぷり恋愛映画だったのだ！ タイトルも『恋のラブゾンビ』に急遽変更っ！」
「それ全然変わってないから」
「祝杯を挙げよう、今このとき、歴史的恋のクランクインを祝して！」
佐伯は一人であっちこっち移動しつつポーズを取り、目に見えない恋人を熱くかき抱く真似をし、くるくるつま先立ちして回転している。
その、傍目には哀れとしか言いようのない姿を横目に、あたしは額に手を押し当てた。どうせ何を言っても聞いてはくれないのだろう。
確かに佐伯の語る特撮映画への熱意だけは他の誰よりも強い。それは認めざるを得ない。筋立てがどんなにトンチキでも、発言がどんなに筋金入りのおバカでも、だ。
アニメみたいな自分の声が嫌いな、あたし。
ひたすらに特撮が好きで、だからあたしのアニメ声”も”好き、という、佐伯。
この落差は何なんだろう。あたしは、好きなことをひたすらに極めようとする佐伯を――すこし、ずるい、と思った。
それから数日後。放課後の教室を借り、あたしたちは台本の読み合わせに集合していた。開け放した窓から、夕日には少し早い、黄色みを帯びた日差しが斜めに差し込んでいた。グラウンドからは運動部のかけ声が聞こえてくる。
とりあえず机を端っこに寄せ、椅子を丸く並べて、その場面に出てくる出演者だけがみんなの前に出て、簡単な演技をしながら台詞を合わせてゆく。
「あいしてるわー、キングゾンビー、だからー、もー、こんなことはやめてちょーだいー」
「カット！」
佐伯がメガホンを放り投げて怒鳴る。
「そうじゃないって何度言えば分かるんだラブターミネーちゃん！」
「誰がラブターミネーちゃんですか」
「もっと本気顔で、そう、こんなふうに！」
思わず演技指導に熱が入ったのか、佐伯は力いっぱい後ろから思いっきりあたしに抱きついた。
「きゃーーーーーーーーっ！」
「そう！ その声だッ！！ これぐらい力いっぱい抱けばアニメ声も出る！」
「馬鹿！」
あたしは佐伯の頭めがけてメガホンを全力で振り抜く。
「あいたた、何だ、今の衝撃は」
メガホンの痛打でようやく佐伯は人間としての理性を取り戻したらしかった。うつろな眼であたしを見る。
「ところで雪村くん、僕はいま何をしていたんだろう？」
「……佐伯の、馬鹿」
自分でも何を言っているのか分からなかった。あたしは、みるみる赤く、熱くなってゆく両頬を手で押さえた。ほっぺたが濡れている。熱い。
「いい加減にして」
そう言って、あたしは教室から逃げ出した。
廊下を一気に駆け抜ける。階段を降りようとして、北側の窓越しに、やたらだだっ広いグラウンドを見はるかす。野球部やサッカー部、テニス部が練習しているのが見えた。ちょこまかと動く体操服姿はまるでまめつぶみたいだった。渡り廊下を突っ切り、そのまま階段を駆け下りる。
「雪村！」
後ろから佐伯の怒鳴る大声が聞こえた。
「待ってくれってば」
あたしは返事もしなかった。泣いている顔を見られたくなくて、一気に階段を数段跳びに飛び降りる。
「待てよ」
声が追いかけてくる。
「謝るから、雪村、謝るからさ……！」
「ばか！ ついてこないで。ヘンタイが移る！」
手すりを持ったまま踊り場をぐるりと回転し、駆け抜けようとした、そのとき。
あれっ、と思った。
手が。
手すりから、離れて――
天井が見えた、と思ったら。目の前が階段に変わっている。上が下になって、反対に下が上になって――
「雪村！」
気が付いたとき、あたしは、佐伯の腕の中にいた。
「雪村、何やってんだ、お前！」
佐伯の顔はまるで泣いてるみたいだった。
「階段から落ちるところだったんだぞ！」
「……え？」
あたしは、ぼんやりと佐伯の顔を見上げた。トレードマークのハート眼鏡がどこかへ飛んでいってしまっている。
「痛っ……」
佐伯が、わずかに顔をゆがめ、身じろぎした。
その瞬間、あたしは全部を理解した。あたしも、佐伯も、階段の途中にいる。
佐伯はいたたた、とか言いながら立ち上がって、階段の踊り場へとあたしを引きずり上げてくれた。
「雪村こそ大丈夫だったか？」
「あたしは、ぜんぜん」
言いかけて、あたしは、突然、ほっぺたを何かがぽろぽろ、伝っていくのを感じた。急に何もかもが怖くなって、足が、がくがくとし始めた。立ち上がれない。
あたし、階段から、落ちるところだったんだ――馬鹿みたいに、つむじを曲げて飛び出したから。よく前も見ずに。
もし、佐伯が、助けてくれなかったら。
「さ、さえき」
声がふるえる。
「……ごめん」
「大丈夫。どこにも怪我なんかしてないと思うよ。二、三段転がり落ちただけで」
佐伯は心配そうに言ってくれたけど、でも、あたしは、自分がしてしまったことの重大さに、やっと気付いた。馬鹿なのはあたしだ。一番馬鹿なのは。
「佐伯……」
馬鹿。馬鹿。馬鹿だ、何て馬鹿なんだろう、あたし……！
「ごめん、雪村」
佐伯はぽつんとつぶやいた。
「馬鹿だな……僕。特撮のこと考えてるとマジで全然、回りが見えなくなるんだ。自分だけの世界に入っちゃって。ほんと、どうしようもない馬鹿だと思うけど」
うなだれて、肩を落とす。
「自分じゃ治せないんだ。ごめん……でも、あの、メガネ掛けてると……そのときだけ……雪村の前でも、馬鹿してても恥ずかしくなくて、平気で……いられたから、こわくてはずせなかったんだ」
あたしは、呆然と佐伯を見上げていた。
「でも、やめる。雪村が嫌なら、全部……やめるよ」
「佐伯」
心ここにあらず、とは、まさに今のあたしみたいな状態を言うんだろう。佐伯に抱きしめられてたのは、もしかしたら一秒とか、二秒とか、そんな間だけかもしれないのに、なのに……なのに、一瞬……どきっとした……？
「ごめん、雪村」
佐伯は唐突に、真っ赤な顔をしてあたしから離れようとした。
「何でもないよ。俺、どうかしてた」
「佐伯」
あたしは、逃げていこうとする佐伯の手を掴んだ。どきまぎする。すごく、ドキドキして、胸が痛いぐらいだった。
「あのね、佐伯」
どうしよう、ホントに、ドキドキして、もう、自分が何をしてるのか、ぜんぜん分かんない。もしかして、あたし……何か言おうとしてるんだろうか……？
「……佐伯……あの、あたし……メガネかけてる佐伯が……す……」
「雪村」
佐伯の、びっくりしたような声が降ってくる。驚いたような、笑ってるような、ちょっと、泣いてるような、困った顔をして。
うっ……
あたし、もしかして……ものすごく……恥ずかしいこと言っちゃったんじゃ……
どうしよう……
あ、あれっ……うそ……ホントに、ど、どうしよう……
「雪村……？」
ぎくり、とする。
しまった……気付かれた……！？
あたしはあっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろと、挙動不審に目を泳がせながら顔を引きつらせた。
「何……？」
佐伯の眼が、ふいに、キラーン☆、と光った。
「もしかして雪村って……メガネフェチ……？」
な……何でそうなるの！
思わず逃げ出そうとしたあたしの手を、後ろから、佐伯がぐっと掴んだ。一気に引き戻され、強引なぐらい抱きしめられる。
「わっ……！」
「すごい！ 雪村が、まさか、僕の魂の同志だったなんて！ ああ、やっと逢えた！ こんなところで、まさか本当に運命の女の子に出逢えるなんて！ そんなにお揃いのメガネかけたいならもう一個通販で買うよ！ 絶対買う！」
「い、いえ、その、遠慮しまっ」
「まずはメガネをかけて！」
……ぎゃーーーーーその眼鏡だけはいやーーーーーーー
佐伯はあたしの抵抗を難なく押さえ込んで、いきなりハート眼鏡を強引に掛けさせた。そのまま、もう、二度と戻れないオタク道へと連れ込まれる。
「大丈夫だ！ とても似合ってる！ ステキだ雪村くん！」
「ぅぅん……やっぱ無理……っ……」
「僕は運命と出逢った！ まさにこれぞメガネボーイミーツメガネガール！ やっと逢えたんだ！ 本当に運命って存在するんだな！？ さあ、ともに登ろう、あの眼鏡坂を！！」
「変なこと喚かないでよ恥ずかし……いやーーーーー！」
ぁあ……たった……たった三分で……
あたしのどきどきは……終わりを告げ……そして。
次の日から、あたしは――
ハート眼鏡二号と呼ばれるようになってしまった、のだった。
おしまい。
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