「じゃじゃーん！ 今年もぴったり、相も変わらず（胸の）サイズに一片の変動なーし！」
全身ぴったりなトナカイの羽付き着ぐるみに角のカチューシャ、真っ白なザ印マフラーにきらきら光る赤鼻とお揃いの真っ赤な首輪でびしぃっと決めた赤鼻のニコル（注※いちおうトナカイである）はほっそりした凹凸のない幼児体型をのびやかに跳ね上げ、くるくる回って可愛らしくポーズを決めた。ウィンクついでにしゃららんと首輪のベルが鳴る。
その背中にいきなりぴしぃっと長い鞭が飛んだ。
「痛ぁっ！」
赤鼻のニコルトナカイはふにゃあっと泣いて飛び上がった。
びくびくしながら振り返る。
「な、何するんですかチェシーさんっ」
「黙れ下っ端」
プレゼントでぱんぱんになった巨大な白い袋を軽々と担ぎ、だらしなくボタンをはだけたシャツの上にこれまただらしなく着崩した赤ダッフルコートを羽織ったチェシーが眼に飛び込む。
「遊んでないでさっさと荷物を積みやがれ。それに私のことは聖サリスヴァール様と呼べと言っただろうが」
「ううっ横暴すぎですトナカイ虐待ですこれのどこがヨウルの聖人さまなんだか」
「何？ 文句でもあるのか、ああ？」
剣呑な青い眼がぎらりと光る。赤鼻のニコルはふぇぇえんと泣きながらあわててプレゼントの袋をそりへと積み込み始めた。
「っていうか、そもそもトナカイはそりを引くのが仕事であって積んだり運んだりするのは聖人様のお仕事なんでは」
「その聖伯爵様がいないからこういうことになってるんだろうが！」
「ううっ、でもこれ、お、お、重そうですよ……？」
最後にひとつ残った巨大袋を見上げながらニコルは半泣きで訴えた。押しても引いてもびくともしない。
「文句言うな」
チェシーはにべもない。ニコルはとにもかくにも袋を肩にかけ、背負いあげようとしてみた。
「ふんむむむ！」
「お、いい子だ。もう少しだぞ。頑張れよ」
チェシーは綽然と態度を改めた。そりにもたれ、奇妙に優しい微笑を浮かべてひらひらと指先を泳がせる。
「は、はいっ頑張りますっ！」
褒められ励まされてすっかり嬉しくなったニコルはにっこり笑って再度袋をたぐり寄せ、渾身の力を込めて担ぎ上げた。
わずかに袋が宙に浮く。赤鼻のニコルは自分の身長より遙かにかさのある重荷を担いで辛うじて数歩をよたよたと進んだ。
「あ、あとちょっと……！」
「落としたら承知しないぞ」
さすがはチェシー、舌先三寸で乗せるだけ乗せた後は手のひらを返したかのようにすっかり冷たい秋の風である。
「……今年も相変わらず発達していませんな」
いきなり。
重々しい声が真横から聞こえた。
「ええっ！ な、なにが……」
突然の指摘に吃驚して思わずよろめく。足がもつれた。
「う、うわ、ちょわっ、あっ、ああ、ぎゃあああ……ぐげご！」
久々のどんがらがっしゃん。赤鼻のニコルはプレゼントの山にぐしゃ、とばかりに押しつぶされてひっくり返った。これまた毎度の如く動けない。
「お、重いです、苦しいです、助けてぇぇ……」
両手両足をばたばたさせて泣き声を上げる。
「ふむ」
超ゴージャスなサンタ服――眼にもあやな刺繍に金色の毛皮縁取り、ボタンも組紐もすべて金銀輝石で彩られた深紅のコートをまとい、いかにも伯爵様風なハデハデ立ち襟に金の飾緒、手には宝石をちりばめた黄金の懐中時計を持って塵一つないぴかぴかのブーツを履く、といった出で立ちのザフエルこと聖ホーラダインは、すげない眼差しをプレゼント袋の下でぺしゃんこになっているニコルへと投げやった。
しかるのちにふっと遠い目をして眼をそらす。
「背後から強引に押し倒されて動けないトナカイの図、といったところですか。ぞくぞくしますな」
ぼそりとつぶやく。ニコルはめそめそと反論した。
「ザフエルさん、激しく表現がおかしいです」
「苦しいのですか」
黒髪がそらぞらしくもさらりと揺れる。
「あ、あたりまえですって。何とかして下さい」
ニコルは赤鼻を涙に濡らして弱々しく突っ伏した。
「なるほど」
ザフエルはうなずいた。まるでやる気のない様子で懐中時計をちらっと見やる。
「面白いので放置」
「ひぇぇ！」
「ちっ」
チェシーは苦々しく舌打ちするとひょいと袋をつまみ上げた。ニコルは何とかよろよろと這い出した。ぐったりと頭を下げる。
「たっ助かった……ありがとうです、チェシーさん」
「黙れ下っ端。聖サリスヴァール様と呼べと言っただろう」
チェシーはつっけんどんに言い放つや巨大な袋を担いだままザフエルに向き直った。不興の声音たっぷりに吐き捨てる。
「少しぐらい下っ端に対する情けの心があってもしかるべきだと思うがね、恐れ多くも聖人を自称するのであればな」
ザフエルは冷淡な黒い眼をちらりとチェシーへ走らせた。
「か弱いトナカイに荷物を運ばせる外道聖人ごときにあれこれ言われる筋合いはありませんな」
「ほう？」
チェシーの表情が凄味のあるものへと変わった。
「むしろ、まったく仕事する気のない破戒聖人に御高説垂れる権利があるなどと考えるほうがおかしいと思うが？」
「おや何か問題でも」
「大ありだ！」
チェシーはそこでふと不気味に相好を崩した。眼の奥がゆらりと不穏な兆候を示して光り出す。
「……下らない戯言を上から目線でぶちかまされるのもそろそろ飽きてきた。ふっ、恰度良い。あんたの高尚っぷりには以前から腹を据えかねていたことだしな」
といきなりどこから取り出したものか、巨大な魔剣を抜き払い、片手で取り回しざまにぴたりと凄絶に押し構える。
「ひとつこいつで決着を付けるとしようじゃないか」
ぬめるほどに研ぎ澄まされた妖艶な刃がぎらりと凶悪に光った。
「そのなまくらがどうかいたしましたか」
冷ややかな侮蔑の眼差しがチェシーの手元へと漂い着く。
「ずいぶんと――焼きが回っている御様子ですが」
「ほう」
チェシーは凄絶に笑った。
「ならば試しに斬られてみるのも一興だろ」
みるみる、にらみ合う二人の間に激しくも凍り付く鋭利な気配が張りつめてゆく。
ザフエルはふっと黒髪を払った。
「やれるものならやってみなさい」
「ちょ、ちょっと、二人とも……」
あわててニコルが間に入ろうとしたときはもう遅かった。
チェシーはいきなりニヤリと笑うなり、剣を振りかぶった。
「まっぷたつにしてくれる！」
「ふっ、笑止」
「うああやめやめ止めーーーってぎゃーー！」
とっさに身を挺して合間に飛び込む。いや、ニコル的には飛び込んだつもりだったのだが突如巻き起こった凄まじい剣圧にあおり飛ばされ、あっけなくもはるか彼方へとごいんごいん跳ね転がっていく。
「あいたた！」
たんこぶだらけになりながら頭をかかえて叫ぶ。
「ちょ、二人ともややややめてくださ……！」
と、そのとき！
……ぷす。
「え」
ニコルは眼をぱちくりとさせた。
今の音は。
……ぽと。
「むむ」
チェシーが青ざめる。
あろうことか……せっかくのプレゼントを詰め込んだ袋が。
……ぽとぽと。
…………ぽとぽとぽとぽとぽとぽと！
見るも無惨にすっぱり切り裂かれ、可愛らしいプレゼントの山を無数にあふれかえらせていた、のであった。
「ここは、そうだな」
残された布きれを前に、さすがに状況の不本意さに気付いたか、チェシーは気まずい風情で唸った。
「一時休戦だ」
「だ、だから言ったじゃないですかーー！」
ニコルはあわててプレゼントを拾い集めながら言い返した。
「くそ、仕方有るまい」
同じく身を屈めたチェシーの背にザフエルの淡々とした声が覆い被さる。
「文句を言う間があったらさっさと拾うことですな」
「きっ貴様！」
チェシーがまたぶち切れた。ぎゃあぎゃあと怒鳴り出す。
「誰のせいでこんなことになったと思ってる！」
「貴方のせいかと」
「な、何いいい！」
「……怒っちゃダメです怒っちゃ」
「く、くそっ覚えてろーー！」
……とか何とか大騒ぎはしたものの無事時間内にすべてのプレゼントを集め終わり、ニコルはやれやれふう、とさわやかな汗を拭った。
そりはすっかり荷物でいっぱいになっている。
「そろそろ時間ですな」
ザフエルはゆらりと身を起こした。天球図と星を描いた懐中時計に視線を走らせ、得心したようにうなずく。
「出立の準備をお願いします」
「はいっ！」
ニコルは飛び上がってそりに駆け寄った。ヒイラギの葉と赤いリボン、金のベルの飾りがついたハーネスをぶらさげたチェシーが近づいてくる。
「お願いします！」
よいしょとばかりにハーネスを背負わせてもらい、肩から背へと掛け渡して首輪にしっかりとつないでもらう。赤鼻のニコルはどきどきしながら作業するチェシーの手元を見つめていた。先ほどとはまったく違う真剣な眼差しで荷重のかかる金具や繋ぎ目などを中心にしっかりとそりに繋がれているかどうかを調べている。
腕にはめたルーンが、そりに繋がれたとたん星の息吹を吹き返すかのようにきらきらと瞬き始める。
「うむ、異常なし」
すぐにチェシーは微笑みを取り戻した。肩や首輪に触れるたび、チェシーの指先からきらめく星くずがはじけてこぼれ散る。
「具合はどうだ」
「は、はい、大丈夫です。頑張ります！」
ニコルは赤鼻をぴかりと誇らしく光らせた。背筋をしゃんとまっすぐに伸ばし、有頂天になって敬礼する。
「いい子だな」
チェシーはいたわるように優しく笑った。ニコルの髪に手を差し入れ、耳の後を掻き、心地よい仕草でくしゃりと撫でる。
「むむ」
そのとき、プレゼントの一覧表を横目に見ていたザフエルがふと怪訝な声を上げた。
「数が合いませんな」
「ええっ！？」
天国から地獄。ニコルは眼をひんむいた。
「ど、どういうことですか？」
「……荷が一つ足りません」
「えええっ！？」
ザフエルは星時計を見やった。聖なる歌声がどこかから聞こえてくる。
「しかし、時間がない」
「判断しろ、ホーラダイン」
チェシーが馭者席に着き、手綱を取って後を振り向く。
あわ雪が降り始めた。白い色がふわり、と夜の底に溶けてゆく。
「出発です」
「えっ……で、でも」
「大丈夫です」
ザフエルは無表情に眼を閉じた。座席にもたれ、腕を組む。
「何とかなるでしょう」
「分かった」
チェシーが手綱を揺すった。そりの後方から赤や青、黄色に紫、さまざまに変化する星くずの火が噴出する。《天空のルーン》ティワズの力だ。そりがふわりと浮き上がる。
一面、きらめく夜の輝きがひろがった。
「出発！」
ベルが鳴る。晴れやかな祝祭の喜びと一抹の不安、相反する二つの気持ちに揺れながらも赤鼻のニコルトナカイはそりを引いて輝く星々の彼方へと舞い上がったのであった。
▼
めくるめく夜の歌声。そこかしこに明かりをつけたツリーが飾られ、心浮き立つ音楽が流れ、人々が白い息をついて家路へと急ぐ、その頭上をまばゆくきらめく星くずの軌跡が駆け抜けてゆく。
「うわあ、雪だ。ねえ、ママ、雪だよ」
夜空を見上げる子どもたちの表情がみるみるほころぶ。
「ええ、綺麗ね」
重なり合う笑い声が聞こえてくる。
……一方、そりの後ろではなぜかザフエルがぶつぶつと文句を言っていた。
「聖ローゼンクロイツの教えを守らぬものに福音を分け与えるというのは如何なものかと」
「まあまあ、そんな固いこと言わないで。世界中の子どもたちに幸せを、ですよ！」
しゃんしゃんと元気よくベルを鳴らしながらニコルは振り返って笑った。
「ねっ、チェシーさん」
「そういうことだな」
チェシーはプレゼント一覧表を見つつ、プレゼントを掴んではぽいぽいそりの外へと放り投げていた。むすりとした表情ながらザフエルが星時計を振り、プレゼントを子どもたちのもとへと転移させてゆく。
まるで雪のようにまっしろなかがやきを放って飛び散ってゆくいくつもの光。まぶしかったり、優しかったり、いたずらっぽかったり。さまざまなかたちの光がさまざまな色の喜びや慈しみになって、ありとあらゆる時間、場所へ向かってきらめき飛んでゆく。
ニコルはまるで天からこぼれおちてくる無数の流れ星のようなその風景を、頬を赤く上気させて見つめていた。
星の光砂が舞い散っている。
何度見てもしあわせな光景だった。うっとりとため息をつき、感嘆と讃美の声をあげる。
「さてと、これで終わりだな」
最後のプレゼントを放り出し、チェシーはどかりと馭者席に戻った。
どことなく乱暴につぶやく。
「あー、その、何だ、おい下っ端」
「はい、何でしょう」
ニコルは眼をぱちくりとさせた。きょとんとして振り返る。
チェシーはたちまち不機嫌になって口の端をひん曲げた。妙にいらいらとした様子で、手にした小さな赤と緑の袋を投げつけてくる。
「ついでに持っとけ。くれてやる」
「うわっとと」
ぽい、と粗雑に放り投げられた袋をあわてて受け取り、ニコルはしばし考えた。
「こ、これは、何？」
「うるさい。いちいち反応するな。黙って受け取れ」
チェシーはなぜかいきなり怒り出し、そっぽを向いてしまった。ニコルは半ば困惑しながら袋を揺すった。
がさごそと妙な音がする。
「な、何ですこれは」
「馬鹿、こんなところで開けるな！ それよりもホーラダイン、さっきの話だが」
さっそく開けようとするニコルを制し、チェシーはあわてた様子で首を振った。強引に話を別方向へとすり替える。
「分かっています」
ザフエルはうすく閉じていた眼を開けた。わずかに息をつく。
「どうやら送り先はこの時代ではないようですな」
星時計を掲げ、透かし見ながら慎重につぶやく。
「移動お願いします」
「はいっ」
赤鼻のニコルはとまどいつつも両手を胸の前に結び合わせた。眼を閉じ、ルーンの声に耳を澄ます。
小さな背中が見える。暗い部屋。たった一つの乏しい明かり。
ニコルはおもわず震えた。
「僕、行かなくちゃ」
切羽詰まった声がこぼれる。チェシーが眼を押し開いた。ザフエルは無反応のままだ。
光を帯びた翼が、ふわりと広がった。
円を描く波動が幾重にも波打ち、次第に力を増してゆく。光が舞い散る羽となって吹き流れる。
きらめきを残し、ニコルは跳んだ。
……現れたのは、猛吹雪の最中だった。
「ぎゃあああああ何だこりゃああ寒い寒い寒いーーーってはああっくひょん！」
七転八倒しながらぶるぶる震え上がる。ニコルはがちがちと歯を鳴らし真っ赤な赤鼻から盛大に鼻水を垂らしてくしゃみした。
何というとんでもない寒さであることか！ 寒いを通り越して遺体になってしまいそうだった。
「ふむ、これは、何ともはや。極寒ですな」
そりに乗ったザフエルはどうやら不思議な結界に守られ、自分一人だけぽかぽかのぬくぬくであるようだった。表情ひとつ変えず、泰然と周囲を見回している。
「これぐらいの寒さがどうした。弛んでるぞ、ニコル……」
チェシーはちゃっかり自分だけ毛皮のフードを被りながら言う。
「と言いたいところだが」
かちーん。
「時すでに遅かりし、か」
……哀れニコルは氷漬けの雪だるま状態になっていた。カチコチに凍り付いて動かない。
「どうせなら」
ザフエルがゆらりと《黒炎》のカードを指先に挟む。
「……全裸で氷漬けが良かったですな」
――ぜ、ぜ、ぜん……？
「は？」
チェシーは眉をひそめた。至極当然の疑問を呈する。
「……普通、トナカイの全裸など見ても何とも思わないと思うんだが？」
「失礼」
ザフエルがこめかみに手を当て、せつない吐息をもらした。
「脳裏に氷漬け状態のトナカイ閣下がぐるぐる回っていて、今は普通に会話できそうにもありません」
「いや、別に、いつも普通じゃないだろ」
「光栄ですな」
「通じてないな。さすがは猊下、相当のド変態でいらっしゃいますね！ とでも言えば良かったか」
「どうやら貴方も我が人形館のコレクションに加わりたいようですな……！」
「な、何ですかその会話はぁぁぁぁーー！１！！」
ぴぃぃぃ……！ とみるみる鼻の頭から耳の先まで真っ赤っ赤のしゅっぽんぽんに染め上げてゆきながらニコルは噴出する蒸気で氷を溶かし強引に脱出した。
「じょじょじょ冗談はいい加減にしてくださいせせせ聖人様ともあろうおおおお御方がふしだらなーー！！」
思い切り何処吹く風なザフエルに食って掛かる。
「そんなことより本題行って下さい本題っ！」
「このトナカイにしてこの聖人だな。どうしようもない。馬鹿の連鎖とはまさにこのことだ」
チェシーはげんなりした顔で周りを見回した。
「というかここは一体どこなんだ？」
「そうですぞ、凍っている場合ではありません」
「は、はい、すみません」
と。
吹雪の彼方に優美な城館が垣間見えた。ニコルははっとした。転移するまえに見た光景が脳裏によみがえる。
「こ、この城です。僕が見たのは」
ザフエルが無言のまま、つと眼をほそめる。
「……」
「近づいてみろ」
チェシーが手綱を揺すって促す。ニコルはうなずいた。
しゃらしゃらと優しい鈴の音を立てながらそっと近づいてゆく。
明るい光が見えた。
火の入った暖炉の中で、薪がぱちぱちとはぜている。
小さな女の子の笑い声。何かのおもちゃで遊んでいるらしい。その様子を、揺り椅子に腰掛け背を向けた黒髪の女性が見つめている。
おりこうね、ユーディット。
優しい笑い声に入り交じった凄絶な憎悪が霹靂の如く響き渡った。
可愛いユーディット。だいすきよ。はい、おかあさま。おまえは良い子だものね。はい、おかあさま。ほんとうに、きれいな瞳ね――
ニコルは絶句し、立ちすくんだ。トナカイ角付きの頭をぶるぶると振り、わずかに青ざめて、口ごもる。
「違う。……あのひとたちじゃない」
「そこで、何をしているのです」
ふいに。
幼い少年の声が聞こえた。
「う」
突然のことにニコルは顔をぴきん、と引きつらせた。ぎぎぎと軋む首をねじって声の降ってくる方向を探し、振り仰ぐ。
翼棟の上階からせり出したテラスの、巧緻な彫刻がほどこされた白い手すりから、黒髪の幼児がわずかに顔だけをのぞかせてこちら側を睥睨している。
雪が音を立てて吹き荒れた。幼児の髪にみるみる白く積もってゆく。
「侵入者か」
幼児は抑揚のない誰何を繰り返した。感情の欠けた黒い眼差しがつめたくくるめいている。
「返答なき場合は衛兵を呼びます」
「み、見つかっちゃいました……」
「どうするんだ。これは責任問題だぞ」
他人事のようにチェシーがやいのやいのと責め立てる。
「懲戒免職」
ザフエルがぼそりととんでもない言葉を差し挟む。
「そっそんなああ！」
ニコルは頭を抱えた。
「返答は如何に」
黒髪の幼児は執拗に繰り返す。
ニコルはしょんぼりとほぞを噛み、ふぇぇん、と情けない泣き声を上げながら顔を上げた。
「あ、あの、その、」
「はっきり言いなさい」
「す、すみませんっ」
年の端も行かない幼児を前にニコルはすっかり萎縮し、しどろもどろに口ごもった。
「だ、だからそのう我々はつまりいいいわゆる」
「却下。やり直し」
「ううっ……！」
「何だこのいけすかないガキは」
チェシーが唇をへの字に曲げ、横を向いて舌打ちした。
「可愛くもねえ。きっと将来はろくでなしになるぞ。おい、ニコル、いいからもうこんなの放っとけ。帰るぞ」
「えっ、で、でも」
ニコルはおろおろし、助けを求めてそりへと視線を向けた。しかし当のザフエルは我関せずといった様子で眼を閉じたまま動かない。仕方なくわたわたと両手を振り回して説明する。
「あ、あの、その、その、荷物を運ぶ途中にですね、な、何というかお荷物をひとつなくしてしまったらしくて、そ、それでたぶんこちらのお城宛だとおおおお思うんですけども、え、ええと、どなたにお届けしたものかとお、おも、思いまして」
黒髪の幼児はついと眼を細めた。白い息が凍る。
「荷物、と」
「そっそっそっそっそうです」
「そのような話は聞いていません」
そっけなく言い返される。
「うっ」
ニコルはあっけなく打ちのめされ、よろよろよろめいた。な、なぜだろう、すごい威圧感を感じる……！
「結構。用がないのならとっとと出て行きなさい」
幼児は大人びた仕草で黒髪の雪を払い落とし、冷淡に踵を返した。子供用の薄い法衣がひるがえる。
ニコルははっとした。思わず眼を瞠る。
腕のルーンがちりちりと赤く光り出した。
しん、とつめたく降る雪。
寒い、暗い、ぬくもりの欠けた、孤独の部屋。
「ま、待って」
ニコルはあわてて幼児を呼び止めた。おたおたしながらかじかむ不器用な手つきでハーネスを外し、そりから離れてテラスへと飛び移――
ったつもりが運悪く手すりにつま先が引っかかり、思いっきりずでーん！ と頭から雪の中へとすっ転ぶ。
「ふぎゃあっ」
「道化ならば不要です」
幼児はまるで気に掛ける様子もなかった。かたりとガラス張りの戸を開け、カーテンを引き詰めた真っ暗な部屋へ帰って行こうとする。
「あ、あの」
メガネを吹っ飛ばし、鼻の頭をすりむき、情けなさと冷たさと痛さとでなおいっそう赤鼻を真っ赤っ赤に腫れ上がらせながらニコルは必死に幼児を呼び止めた。
「少しだけお時間を！」
「勉学の邪魔」
ひどくかたくなな、肩越しの返答が帰ってくる。
ニコルはあわてて飛び起きた。わたわたとメガネを探してかけ直し、雪を蹴散らして幼児に駆け寄る。
「ああああのいやそのホントに不審者とかそういうのじゃありませんのでどどどどうかお心置きなく」
「どこから見ても不審物ですが」
冷淡な言いぐさにニコルは真っ赤になった。うわああんと泣いてテラスに突っ伏す。
「ひっひどいです物じゃないですトナカイです見て分からないんですかっ」
「そんなわけないでしょう」
幼児はあからさまに嫌そうなため息をついた。
「しつこいですな。で、その不審トナカイが何の用です」
「……哀れな奴だ。幼児にまで弄ばれるとは」
チェシーがこめかみに手を当てて痛々しい口調で呟く。
ニコルはまるい蹄型てぶくろで鼻を押さえながらしょんぼりと答えた。
「で、ですから、その、こ、今夜は」
「却下。言い直し」
「と、とにかくあの！」
ニコルは幼児の顔をまっすぐに見つめた。
「お話があります！ 僕らをお部屋に入れてください！」
「勝手にすればよろしいでしょう」
幼児はふん、と背を向けた。ニコルはあわてて頭を下げ、幼児を追いかけた。肩に積もった雪を払い落とし、かちかちと震えながら暗い部屋に上がり込む。
だが、テラスから部屋に入ったところでニコルは動揺して立ち止まった。
暗い、冷たい部屋。明かりはたった一本のろうそくだけ。
わずかに照らされた隅の机には分厚い神学書が広げたまま置き放たれ、周辺には何やらしたためたらしき紙がくしゃくしゃと散らかっている。人の気配は全くない。
下の居間からはさんざめく笑い声がしきりに聞こえていたというのに。
人を寄せ付けぬ、寂寞とした雰囲気に思わず唖然として声を呑む。
どこか古めかしい匂いばかりが漂っている。おそらく暗闇に沈んだ殆どの壁が書のたぐいで埋め尽くされた本棚になっているのだろう。
ルーンが見せた幻影の部屋は、まさしくここだった。
だが、なぜ――
幼児が苛立った様子で振り返る。
「で、話とは」
ニコルは両腕で自分の身体を抱きながらかたかたと震えた。中も外も殆ど変わらない寒さだ。周りを見回しながら小さな声で尋ねる。
「あ、あの、寒くないですか」
「別に」
黒い瞳が冷酷によどんだ。
「だからどうだというのです」
「だ、だって、今夜はせっかくの……ぶえーっくしょん！」
ニコルは人目をはばからぬ大きなくしゃみを一つ二つしたあと、部屋をもう一度しっかりと見回した。唐突に顔をぱあっと明るく輝かせ、奥の壁側に駆け寄る。
「あ、あるじゃないですか暖炉！ 薪だってちゃんと……もうどうして火を入れとかないんですか面倒くさがってちゃダメじゃないですか」
急いで薪を暖炉に放り込み、散らかっている紙を火口代わりにしてザフエルを眼で呼ぶ。
「お願いします」
ザフエルは動かなかった。表情を変えることもなく、緩慢な仕草で《黒炎》のカードだけを転移してふいと投げやる。
ニコルはふわふわと手元に落ちてきたカードをぱっと空中で掴むと、ひゅっとかろやかな音をたてて空気を斬り混ぜた。
ぼん、と暖炉の中で爆発音がする。
金色の火が薪に燃え移った。ぱちぱちと音があがり、火の粉が散って、見る間に部屋の中を明るく、暖かい色に染めあげてゆく。
「それともう一つ」
ニコルは得たりとばかりに幼児へ笑いかけ、腕にはめた《ナウシズ》をきらりとまばゆくきらめかせた。
ぱきん、と指を鳴らす。掌にいくつもの虹色の光が浮かんだ。
「それっ、飛んでけー！」
ニコルは両手一杯にすくった光を天井めがけていっせいに投げ上げた。
噴水のような光の粒がきらきらとまばゆく瞬きながらこぼれ、跳ね返り、部屋中にいたずらな光の洪水を引き起こしつつ駆け回り始める。
まるで回転木馬のようだった。思わず幼児が声を上げる。
その黒い瞳に、ふいにきらめきの色が映り込んだ。
「あ……」
呆然と口を開け、ぎごちなく腕を伸ばして、天井を回る虹色の走馬燈を捕まえようとする。幼児の手のひらに、ころんとピンク色の小さな星が降ってきた。しゅるる、と暖かい湯気をたてている。
いつの間にか、星はほんのり甘い香りのキャンディになっていた。おそるおそるといった様子で幼児がキャンディを口に入れる。
「いちごミルク味……」
その間にもニコルはばたばたと部屋中を駆け回っていた。あっちこっちのかごをひっくり返したり戸を勝手に開けたり閉めたりしてかっぱらってきたふかふかの部屋用ブーツやら膝掛けやら何やらを大量に抱えて駆け戻る。
「ええとですね、お勉強の時はちゃんといろいろ着て寒くないようにしないといけないです。頭寒足熱。それから明かりをちゃんとつけて、目が悪くならないようにして」
言いながら幼児をひょいっと抱き上げて傍の椅子にちょこなんと座らせ、その前に屈み込む。
幼児は裸足だった。ニコルは驚いて冷たいつま先を手でさすってやり、それから息を吹きかけて靴下を穿かせ、部屋用ブーツを履かせ、ひざかけをきっちりと回し掛けて、うんうんと満足しきった様子でうなずいた。
「最後はこれ。やっぱ冬は湯たんぽに限りますよねえ。ベッドに入れとくと朝までうひょ〜ほかほか〜〜！ でも最初は熱いから直接触っちゃダメですよ」
布にくるんだほかほかの湯たんぽを幼児の傍らにおく。
「これで大丈夫かな？ まだ寒いですか？」
幼児はキャンディ入りのほっぺたをぷくりとふくらませたまま答えた。
「別に」
むっつりと眼をそらす。
「そ、そうですか。じゃあ、ええとその」
ニコルは本題に入るべくもじもじと微笑んだ。指先をつんつん突き合わせ、かすかに頬を染めて、ぎごちなく尋ねる。
「な、何か今夜のことで忘れてることとかないですか？ た、例えば、欲しい物とか」
「おいこら」
チェシーがうんざりした横槍を入れた。
「トナカイが直接プレゼント意向を聞き出そうとするな。まったく、ユメもキボウもトキメキもないやつだな」
幼児はどうでもよさそうな嘆息をもらした。じろりとニコルの赤鼻を見やる。
「別に、何も」
「え」
ニコルはがくりと肩を落とした。
「そ、そう……？」
そのとき、ザフエルが背後でわざとらしい咳払いをした。
「一分前」
「えっ、あ、はい」
ニコルは焦って口元を押さえた。おろおろと眼を瞬かせる。
「ど、どうしよう」
「お気になさらず」
幼児はうつむいた。
「さっさと帰ればどうです」
「そ、そうもいかな……」
ニコルは動揺しきって頭を抱え込んだ。どどどどうしようどうしようとぶるぶる頭を振る。
と、突然。
「あーーそうだそうだこれっ！」
ニコルはふいにやって来た素晴らしい思いつきにこの上もない最上の笑顔を浮かべ、大喜びしながら、首に巻いていた純白のザ印マフラーをふわりと解いた。
「これはねえ、実はすんごいほかほかマフラーなんですよ！」
言いながらマフラーを幼児の首にかるく掛け、肩に手を回し、そのままゆっくりと抱き寄せるようにして、やわらかく巻きつける。
「暖かいし、軽いし、ちょっと変な家紋が入ってますけどそこは気にせず。勉強中に風邪引くといけないから、ね、ね？」
幼児は反応しなかった。
そのまま、ぎごちなくマフラーに口元を埋める。
「ど、どう、暖かい？」
ニコルは不安そうにたずねた。
幼児は、顔をそむけた。すがるように白地に金で丸ザと入ったマフラーの端をぎゅっと握りしめ、かたくなに目をつぶっている。
「……」
「時間です」
ザフエルがそっけなく言い放った。コートの裾をひるがえして窓の外へと消え去る。チェシーが顎をしゃくった。
「おい、ニコル。行くぞ」
「は、はい。じゃあね」
ニコルは心配を押し隠して黒髪の幼児を振り返った。
「風邪引かないようにね」
と、突然、幼児が手を伸ばした。マフラーに顔を埋めたままトナカイしっぽをぎゅっと掴む。
「ふにゅッ！？」
衝撃の感覚にニコルはぴき！ と石化硬直した。
「しっ……しっぽがあがあが……はにゃあああ！」
「待ちなさい」
幼児はしっぽを掴む小さな手をさらにたぐり寄せた。
「話は、最後まで聞くものです」
「な、な、な、なななナンデショウカ！」
震え上がりながら奇妙なにょろにょろダンスを踊るニコルを前に、幼児は口ごもった。マフラーへ顔をうずめる。
「……少しはましになったかと」
蚊の泣くような声で、ちいさく呟く。
「そっか、よかったあ！」
ニコルはこの上もなくきらきらと弾んだ声でうなずき、ぱっと振り返るや幼児の身体をむぎゅうう！ と力いっぱい抱きしめた。
「もう大丈夫だね！ じゃ、元気で、また逢おうね」
楽しげな鐘が鳴っている。窓の外がきらきらと明るく光っていた。ザフエルの影が窓に長々と映っている。
「ぐずぐずして朝になっても知りませんよ」
呼ばれてニコルは飛び上がった。
「は、はいっ、ただいま！」
大急ぎでばたばたと外へ走り出る。気の早いそりが《ティワズ》の力を帯びて浮き上がっていた。
「ああっ置いていかないでぇーー！」
「とっとと掴まれ、下っ端！」
チェシーが怒鳴った。
「置いていくぞ」
「こっ困ります！」
ニコルは短気なそりに引きずられながらじたばたと浮き上がった。
「ぎゃぁぁ助けてぇぇ……！」
きらり、と一際まばゆい光を放ち、そりは消え失せた。
元の世界に戻ってくる。
しゃんしゃんとかろやかなベルを鳴らして走りながらニコルトナカイはぐしゅっと鼻をこすった。
「へ、へっくしょん……やっぱりあのマフラーがないと夜は寒いです」
「無駄なことをしましたな」
珍しくザフエルが続きを引き取った。素っ気なく評する。
「まあ、いいでしょう」
「えへへ、そうでしょ」
赤鼻のニコルは心底嬉しそうに胸を張り、うんうんとうなずいた。
「あの子、どうなったかなあ……」
▼
さて。
現実世界のザフエルこと聖ティセニア公国軍第五師団参謀長、ザフエル・フォン・ホーラダイン中将はその日も相変わらず謎の書類を振りかざし、強引に迫っていた。
ノーラス城砦のあるじ兼第五師団司令官かつ最高軍職務たる公国元帥とルーンの聖騎士兼任であるところのニコル・ディス・アーテュラスの執務机すら平然と乗り越え、椅子の背に半ば圧しつけるようにしながら平然と言い放つ。
「では御裁可を、閣下」
「ううっひひどいです横暴です組織的陰謀あるいは上官に対する叛逆です……」
「何か問題でも」
「ごっ、ございません……うわああん助けてチェシーさぁん……」
呼べど叫べど助けは来ない。そしてニコルの執務机からはザフエルが持ってきたデザイン案――
白地に丸ザの凄まじい金刺繍が一面どどーんと施されたマフラー付き冬用軍衣の絵が約百枚ほど、風に吹かれてはらほろひれはれと大量に舞い落ちていた、のであった。
おしまい。
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