凛と凍てつく寒さが肌に突き刺さるかのような、それはそれは清冽な静けさに満ちた、美しい夜だった。
――その声が、城砦じゅうに響き渡るまでは。
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「まさか、本気でおっしゃっておられるのですか」
革張りの椅子にゆったりと深く身をもたせかけ、彼にしては珍しく投げ出した足を組んだ楽姿勢で濃紺色に装丁された本を読んでいたザフエル・フォン・ホーラダインは、ぱちぱちと薪がはぜる暖炉の火を横目に見ながら物問いたげな視線をあげた。
脇に置いたテーブルには熱いミルク紅茶。カシアの強い香りがただよっている。
「だ、だめですか」
「当然です」
「で、でもね、ザフエルさん、みんなきっと喜んでくれると思うんです」
ノーラス城砦駐留、聖ティセニア北方面軍第五師団師団長ことニコル・ディス・アーテュラスは、そんな一刀両断の拒絶ごときではまるであきらめもしなかった。
それどころか両手を結び合わせ、ぐりぐりメガネの奥に揺れる薔薇色の眼をまんまるに押し開いて、すがるような訴えかけるような哀願のまなざしでザフエルを見つめている。
「駄目」
ザフエルは冷然と繰り返し、それでもうこの話は終わりとばかりに再び眼を本に落とした。
「でもパーティ開いたりお菓子食べたりあれこれ飾り付けしたりするのは別にヨウルに限るわけじゃないですし」
「却下」
神経質な指先でひとつひとつの文字を追いながら、最後まで聞くまでもなく決めつける。
「ですから要は明日がヨウルだと思うからだめなんであってこれをつまりそのいわゆるお誕生日パーティみたいなものだと思えばいいんですよ。たとえばほら、ザフエルさんって確か明日がお誕」
「それとこれとは話が別」
「同じです！ やっぱりそういうのってみんなでお祝いすべきだと思うんです。贈り物の交換とか真っ暗な中で色とりどりのろうそく灯したりとか氷をくり抜いてランタン作ったりとかお願い事を書いて短冊吊したりとか枕の下におめでたい絵を描いて良い夢見たりとか、あとケーキ食べたりとか歌ったりとか！ ああ、そういうの考えただけで何だかわくわくしてきません？ してくるでしょ？ するはずです！」
「しません」
「でも僕は今ものすごくわくわくしてるんです！！」
ニコルは希望に胸をいっぱいにふくらませ、全力で断言した。
「だから、ヨウルのパーティを開く許可をください！」
ザフエルはふたたびむっつりと眼を上げた。苛立たしげに本をばたりと閉じる。僅かな風に髪がゆらりとなびいた。
暖炉の火がちらちらと揺れている。
「よろしいですか閣下」
「はい」
垂れかかる髪を払いのけ、冷ややかに続ける。
「そもそもヨウルなどという祝祭は敵国ゾディアック土俗の祭りであって我ら聖ローゼンクロイツの教えをいただく者にとっては異端の神をあがめるが如き儀礼の存在自体、許し難い蛮行に等しいのですぞ」
「だ……だめなんですか？」
「当たり前です」
「え」
ザフエルがぴしゃりと言うと、ニコルはみるみるしょんぼりと表情を変え、肩を落としながらつぶやいた。
「……せっかく、その、パーティのときザフエルさんに”ぷれぜんと”したいものがあって、ずっとがんばって準備してきたのに」
ぴくり。
ザフエルの右耳が当社比五倍ぐらいに巨大化する。
「……駄目というなら仕方ないです……」
ニコルは意気消沈してきびすを返した。とぼとぼと足をひきずって歩き出す。
「仕方ないから代わりにチェシーさんにでも貰ってもらお……」
ぴくぴくぴく！
今や両耳あわせて大変なことになってしまっているザフエルである――が。
そこは鉄面皮の上位互換たる鉄仮面の異名を取る男である。
ごほん、とひとつ咳払いし、しゅるると耳を小さく引っ込めると表情筋ひとつ動かさずぼそりとニコルを呼び止める。
「閣下、ちょっと」
「いいんです、もう」
ニコルはかすかに振り返り、会釈するようにして弱々しく笑った。
「ムリ言ってすみません。僕はこれで……おくつろぎのところおじゃましてすみませんでした」
「ですからお待ちなさいと申し上げております」
「……」
ニコルはぽつねんと立ち止まった。狼狽えたような、困ったような笑顔を口元に貼りつかせたまま、ザフエルをじっと見返す。
「何でしょう？」
ザフエルはもう一度、咳払いした。
「つまり、ですな」
「はい？」
「つまり」
珍しく、何か、言いよどんで。
そのくせ顔だけは淡々と何ごともないかのように無表情を保ったまま、ザフエルは続けた。
「許可します」
「え」
「二度は申しませんぞ」
「え……」
ニコルはほんのすこし戸惑ったようすで眼をぱちくりとさせてから――
「ほ、ほ、ホントですか！ うわあやったあ！」
顔を満面の笑みでくしゃくしゃのぴかぴかにしながらニコルはいきなり飛び上がって声を裏返らせ、その場で二、三度跳ね上がったかと思うとザフエルに飛びついた。
「ああああありがとうですザフエルさんっっ！」
さすがに真正面からは無理だったらしく背後から腕を回して首にかじりつき、むぎゅううううとくっついて子犬のように鼻先で頬ずりする。
勢いのあまり、テーブル上のカシアミルクのカップが今にもこぼれそうな音をたてて跳ねた。
ニコルの声だけがうきうきと響き渡る。
「さっそく準備に取りかからなくちゃ！ あとで呼びに来ますからザフエルさんも絶対参加して下さいねアンシュベルと一緒にケーキやらお菓子やらいっぱい作ったんでその飾り付けとかいろいろそれじゃあまた後でっ！」
抱きつくだけ抱きついて言いたい放題、そのまま羽が生えたようにつばめ返しですっ飛んでゆこうとするのを。
「――閣下」
ザフエルはつと、手を伸ばして引き止めた。
「はいっ？」
もうすでに心はケーキとお菓子の甘い誘惑に没入しているらしい。ニコルは元気よくその場ですたたたと足踏みしながら振り返った。
「何でしょうっ？」
ほんとうに今夜はなぜか――思いもよらぬ特別な日であるかのようだった。
「……」
ザフエルはニコルの手をもう一度、ゆるやかに、確かめるようにして握り。
「――いえ」
一瞬、その深い闇色の瞳でニコルの薔薇色に染まった嬉しそうな表情を見つめて。
「どうせ戴くなら」
言いながら赤と緑のうつくしいリボンをどこからともなく取り出し、ぽかんとするニコルの手首をくるくると手際よく後ろ手に縛り上げ、くいと抱き寄せて、その耳元で――ぼそりと。
「閣下ご自身を戴いてしまいたいですな」
本気でささやいた。
……。
ザフエルは素知らぬ顔で続けた。
「もちろん無理にとは申しませんが」
「な……なななな……っ」
みるみる――鼻の先から頭のてっぺんまで真っ赤っ赤のユデトナカイみたいになりながらニコルはザフエルの魔手から逃れようと口をぱくぱくさせ悲鳴を上げて身をよじり、勢いでバランスを崩し足を滑らせどんがらがっしゃん、それでも懲りずにまな板の上の金魚のごとくびたんびたんと床の上をはね回っては、ぎゃああ！ ふんぎゃああ！ と泣きわめいた。
「……ザフエルさんの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿あああああああっっ！」
どうにかこうにか跳ね起きて、号泣とリボンの切れっ端をそれぞれきらきらに飾り付けられた流れ星めかして引きずりつつ、ずだだだと逃げ去ってゆく。
その足音も泣き言も遠ざかり、ようやく静けさが戻ってきた、と見て。
「さて」
これでしばらくはぎゃあぎゃあとまとわりつかれず静かに本が読める、とばかりにザフエルは己が所業に十分満足した様子で暖炉の火を見つめ、再び椅子に腰を下ろして読みかけの本を開いた。
カシアミルクを口に運び、そのぬるさに顔をしかめ、それでも黙ってページを繰る。
が、さほど読みすすめもせぬうちにザフエルは気のないためいきをついて本を閉じた。
何か思い出したかのようにデスクを振り返る。
本を置き、立ち上がって引き出しに手をかけ、引き開けて。
そこでふと一連の行動の無意味さに眉をひそめ、考え込む。引き出しの奥底には、以前くだらないやり取りをして以来ずっとしまい込んだまま――
今となってはもう、何のためにこれを取っておいたのか、どう処理すればよいものかまったく判断も見当も付かず、そもそも渡すべきなのか渡すべきでないのか、渡すことに意味があるのかどうかすら分からなくなってしまった、何の飾りも素っ気もない真新しい万年筆がある。
だが、ザフエルは自らが提げる同じ型の傷入り万年筆をながめ、明らかに少々うろたえて、急いで引き出しを閉めた。わずかにくちびるをゆがめる。
勘違いをしてはいけない。
異郷の祝祭ヨウルを祝うなど聖ローゼンの教えを体現する身にあっては決して許されない。たとえどれほど請われようと、そんな席に出られるはずがなかった。
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そして、夜はしんしんと更けてゆく。
外は舞い散る雪。怜月の投げかける青白い光を映し、まるで星が降りしきってでもいるかのような冬の森の風景を静かに見渡しながら。
ザフエルはむっつりと首を振っていた。
目の前に鎮座しているそれ――上機嫌のニコルが少し恥ずかしそうにしつつも無理やり押しつけていった”ぷれぜんと”なるもの――
『ザほエル』と編み込まれた、はら巻きだか帽子だかマフラーだか手袋だか毛糸のぱんつだか、もう何が何だかまったくもってさっぱり分からない謎の物体を前にして。
――こ、こんな代物につられて異教の祝祭を許可してしまうとは……。
だが、たぶん、本当はこれひとつではないのだ。もっと嬉しいもの、もっと微笑ましいものを、とっくの昔にニコルから貰っている。
それでもザフエルは己が修練の足りなさにいつまでも、いつまでもそのもじゃ毛塊を睨み付けていた、のであった。
おしまい。
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