「えっ」
レゾンド大尉からの急な報告を受け、まるで牛乳瓶の底みたいなぐりぐりメガネのその奥に隠されたきらきらと丸い薔薇の瞳を、まさか、思いも寄らぬ、そんなことなどあるはずがない、といった心外の表情そのままに大きく見開いて、聖ティセニア北方面軍第五師団の長にして難攻不落のノーラス城砦駐留部隊司令官ニコル・ディス・アーテュラスは絶句した。
「も、もう一回お願いします。僕の聞き間違いかもしれませんので」
「失礼いたしました、師団長閣下」
参謀部所属大尉、すなわち第五師団におけるザフエル・フォン・ホーラダインの副官をつとめるレゾンド大尉は冷や汗をぬぐって続けた。こちらもまた、自分が今口にしていることの真偽すら信じられないと言った面持ちである。
「参謀長におかれましては本日、熱発により軍務遂行に支障有りとして半休を願い出たいとのことであります」
「熱？」
おうむのように呆然と繰り返す。
「ザフエルさんがお熱ですって」
「さように伺っております」
「え、そんなにひどいの？ 大丈夫？」
ニコルはもうそわそわと気持ちが落ち着かなくなって足踏みしながらレゾンド大尉に尋ねた。
「は、はい、その、ご本人は大丈夫だと仰有っておいでなのですが」
「ということは」
ニコルはきっと眉を吊り上げた。
「ぜんぜん大丈夫じゃないってことですね。うわ、大変だ」
「いえ」
レゾンド大尉は困窮の表情を浮かべた。
「そのようには決して申し上げるなと」
言ってしまってから、しまった、といかにも苦虫を噛みつぶしたような顔をする。ニコルは飛び上がった。
「僕、ちょっとお見舞いに行ってきます。後のことはよろしく！」
言うなりニコルは青い顔で執務室を飛び出していった。
「おい、そこのちびっこいの！」
病棟に向かうため雪の積もった練兵場を横切ろうとしていたニコルはいきなり苛立たしい声に呼び止められた。
「えっ」
きょとんとしてニコルは立ち止まった。
「僕？」
「邪魔だ！」
怒鳴り声が響き渡る。
はっと気が付いたときにはもう遅い。ニコルの目の前に雪を掻き分け掻き分け雪中隊列転換の訓練を行っていた歩兵中隊が突然現れ襲いかかってきた。
「うわあああっ！」
「ハッ、ニッ、サン、シー、ハッ、ニー、サンッ、シーッ！」
「うわっわっ、わっ、わーー！」
と、そのままわけも分からず行軍に巻き込まれ、引きずられて一緒に走り出してしまう。
「なっなっ、何っ、ええっ？」
「隊列を乱すな！ とにかく前へ進め！」
怒鳴っていたのはチェシー・エルドレイ・サリスヴァールだった。白銀に輝く巨大なだんびらを振り回している。
「おい、そこの雪だるま！」
チェシーはいきなり雪に足を取られ転げそうになったニコルへと剣を突きつけた。
「次転んだら地獄の三日間飯抜きだ！ 分かったか！」
「アイ・サー！」
兵士達が叫び返す。
「分かったら死ぬ気で進め！」
「アイ・アイ・サー！」
「ひ、ひええっ」
「声が小さい！」
「ハッ、ニッ、サン、シー、ハッ、ニー、サンッ、シーッ！」
振りかざす銀の刃に闇を含んだ光がぎらりと伝い走る。
チェシーはさんざんに怒鳴り散らしてからようやく魔剣をざくりと雪に突き立て、白い吐息とともに振り返った。
「ようし午前の訓練は終了！ 全員整列！」
ニコルはようやく解放されると思ってよろよろよろめいた。
「た、助かった……」
「解散！」
「うおおおおーーー飯飯メシメシーーー！」
「うええええ！？」
兵士達の群れが一気に食堂めがけて暴走を始める。ニコルは再びその濁流に巻き込まれ、虚しく引きずられていったのであった……。
▼
「まったく、どこの野良猫が迷い込んできたのかと思えば閣下かい」
よれよれになって倒れ込んだニコルをつまみ上げたのは髪をひとまとめにしてバンダナでくくり、腰に巨大おたまを二本差しにしたヒルデ糧食担当長だった。
「す、すみませんヒルデさん……」
ニコルはめそめそ泣きながら首を振った。
「こっちに来るはずじゃなかったんですけど」
「そうかい？ ま、いいじゃないか。昼飯でも食っていきなよ」
「えっいいんですか？」
ニコルは眼をぱちくりとさせてからぴょんと飛び上がって元気を取り戻した。くんくんと鼻を鳴らし、背後から漂ってくる旨味ある料理の香りを胸一杯に吸い込む。
「うわあおいしそう！ な、な、何ですか今日のお昼は」
「今日は塩漬けスネ肉のカケラの煮込みに酸っぱキャベツの付け合わせ、それにカリカリパンさ。豪勢だろ」
「ああああ！」
ニコルはあまりの感動によだれをダラダラ垂らしそうになってヒルデ軍曹にすがりついた。
「ヒルデさん、お願いだから士官食堂も担当して下さいようっ、僕、ヒルデさんのお昼をずうっと食べたい！」
「ふん、残念だったね」
ヒルデ軍曹はにやりと剛毅に笑った。
「あたしの料理は訓練で腹をぺこぺこに空かせて飛び込んでくるごっつい坊やたちにこれ以上は食えねえッ！ ってぐらいもりもり喰わせてやるためのものさ。お貴族様の口には合わせられないよ、特に参謀どのみたいな食通様のお口にはね」
「ううっ羨ましい……って」
そこでニコルははっと我に返った。
「そ、そうだ。ご飯食べてる場合じゃなかった。あ、あの、そのザフエルさんのことなんですけど」
「どうかしたのかい」
ニコルは両手をわたわたさせながら事の経緯を説明した。
「まじかい、それ」
ヒルデ軍曹は太い腕を組んだ。
「信じらんないね。まさかあの参謀殿が風邪をひくたあ、世も末じゃないかい」
「だからなおのこと心配なんですよ」
ニコルはおろおろして上の空になりながら訴えた。
「それでお見舞いに行こうとしてたんです」
「そうかい」
ヒルデ軍曹は分厚いくちびるをにんまりと曲げて厨房を振り返った。
「そういうことならさ、あたしも協力するよ。ちょうどぴったりな野菜がある。今日の晩にでもみんなに無理やり呑ませようと思ってさっき仕込み始めたところさ。閣下にも一株分けてあげるよ」
「そうなんですか！？ うわ、良かった。助かります！」
微妙に引っかかる表現があったことには気付かず、ニコルは大喜びで手を打ち合わせた。
「良かったら直接閣下からの付け届けってことで参謀殿に届けるけど」
「あ、いえ」
ニコルは少し頬をあからめ、気恥ずかしげにかぶりを振った。
「僕、自分で作りたいんです。作り方覚えておけばいつかまた役に立てるだろうし」
「そうかい。じゃ、レシピと材料の下ごしらえしたやつをアンシュベルに預けておくよ」
「ありがとう、ヒルデさん」
「どうってことないよ。お互い様さ。と言いたいけど、ちょっとね」
「え、もしかして時間がかかるとか？」
「そうだねえ、軽く一時間以上は煮込むかな。いや、どっちにしろ下ごしらえはしておいてあげるからいいんだけどさ。実はゾロ博士に頼まれて昼までに持って行かなきゃなんないブツがあったんだけど、思い切り一つ入れ忘れがあってねえ。そいつをどうしようかって思ってたとこなんだよ」
「あらら」
ニコルは思わず身を乗り出していた。
「じゃ、僕が代わりにお届けしてきます」
「そうかい。それは助かるよ。だったらちょっと待ってておくれ。今取ってくる」
ヒルデ軍曹はしばし厨房の奥に消えていたかと思うと何やらゴロゴロしたものが大量に入っているらしき大きな麻袋をぶらさげて戻ってきた。
「これ、何ですか？」
「マグマトカゲの目玉さ」
「！」
「練術の研究に使うらしいよ」
「い、いや、別に、はははは……」
ヒルデ軍曹は苦笑してからごっつい表情を優しくゆるませてニコルを見下ろした。
「ゾロ博士なら熱さましの作り方も知ってるはずさ。ついでにもらってくるといい」
「そうですか、助かります！」
ニコルはマグマトカゲの目玉入り大袋をうんとこしょとかつぎ上げ、ぺこりと頭を下げた。
「じゃあこれお預かりしますね」
「あいよ。こっちのことはいいから早く参謀殿のところに行っておやり」
ヒルデ軍曹は柔和に眼をほそめた。
「は、はい」
「ぜひともスープを大量に参謀殿に飲ませてあげるんだよ！ はははは！」
なぜか爆笑しているヒルデ軍曹の豪快な笑い声を背にニコルはマグマトカゲの目玉を担ぎ、大急ぎで厨房を後にした。
とにかく早く用事を済ませ、ザフエルの様子を見に行きたかった。
▼
「……これは師団長閣下……ようこそ……」
「ぞ、ゾロ博士」
ゾロ博士専用の象牙の塔――というかあまりにも毎度毎度練術講義において合成失敗する者が続出したためついに城砦内の別棟に隔離されてしまった――研究室前にようやくたどり着いたニコルは、出迎えたゾロ博士のあまりの変貌ぶりに真っ青になってマグマトカゲの目玉袋をぼとりと取り落とした。
「どうなさったのです、そのお姿は」
「あいや」
ぼろぼろに溶けたマントをかろうじて頭に引っかけたゾロ博士は、しゃがれた声でぎごちなく笑った。
「何でもありませんですじゃ……まあ、そのう、多少……ちょっとした問題が……頻出……とでも申しましょうかの」
「うっ」
ぴったりと閉じているはずのゾロ博士の背後の戸がなぜか、がたがた、がたがたと不気味に鳴動している。
「と、ところでその、後ろでガタガタ言ってるのは何です？」
「い、いや、わしは無関係じゃ。これは、あの、悪魔がの、つまり」
「まさか」
ニコルはひくっと顔をひきつらせた。
まさか。いや、まさかとは安易に言い切れない数々の実績をこのゾロ博士は両手に余るほど持っているのだ。
「ちなみに、あの」
「何ですじゃ」
「ええと、その、熱冷ましはどうやって……作ればいいのでしょうか？」
「それなら、その」
ゾロ博士は青い顔で足下に転がるマグマトカゲの目玉を見やった。もしかしたらニコルを直視できずうつむいただけかもしれない。
「魔法水とマグマトカゲの目玉を練術で……いや、違ったかの……魔法水と地底湖の氷じゃったかの……？」
「とっとにかく」
ニコルはなぜかしら背筋に冷たいものを感じながらじりじりと後ずさった。
「もしよろしければその、熱冷ましを作って頂きたいのですが」
「いや」
ゾロ博士は情けない顔をした。
研究室の戸がなおいっそうがたがたと痙攣している。
「今は、少々、込み入った研究中でしての……いわゆる、無理……なのですじゃ」
「って博士、ももももももしかしてまた！」
「マァありていに申せばそういうことにもなりますかのう……」
「ありていも何も何トオイメでつぶやいてるんですかっ」
ニコルは逃げ出しかけた。
「っていうかそんなことしてる場合じゃないのにっ！」
「いや、大丈夫ですじゃ」
なぜか奇妙なほど自信たっぷりな断定口調でゾロ博士は胸を張る。
「大丈夫って何が！」
ニコルはますますがたがたぶるぶると振動し、ひどくたわんで、今にも粉砕されそうな戸を恐怖の眼で見やった。
「……練術としては失敗かもじゃが……ある意味、悪魔召喚としては成功と言え……」
次の瞬間。
ニコルは本能的に逃げ出した。
その背後で戸がばきんと壊れ、吹っ飛ぶ。
途端、でろろろろろろ……と。
不気味にねばつきながらもぷるぷる愛らしく痙攣しまくる不気味な物体――要は可憐につぶらなもじょもじょ目玉のびっしり生えた半透明スライムの濁流がみるみるどばあっとあふれかえり、膨れあがり、半ば晴れやかですらある諦観の笑顔を浮かべ失神しているゾロ博士を当然の如く巻き込んでぷりんぷりんのすっぽんぽんにしてゆきながらどんぶらこ、と研究塔の長い螺旋階段を流れ下っていった、のであった……。
▼
「ううっ……！」
這々のていで自室にたどりつき、届いていたレシピを元に、とにかく急ぎに急いでヒルデ軍曹の『体によい野菜スープ』を作りながらニコルは半ば泣き出しそうになっていた。
たかがお見舞いに行くだけのことなのに、なぜこんなになるまで無為に時を過ごしていたのだろう。
そもそもがあのザフエルである。よほどのことがなければ休暇を求めるなどあろうはずもない。なればこそ早く見舞いに行かねばならぬと急いているのにあれやこれやと手間取る要領の悪さがとみに腹立たしく、情けなく、何て手際が悪いんだと自分を責めれば責めるほどなおいっそう心配がつのってきて。
そして、永劫とも思える煮込み時間が過ぎ――
ようやくできあがったスープを持ってニコルは息せき切って走っていた。
両手に捧げ持ったばけついっぱいのスープがずしりと重い。
どっぷんどっぷん言わせながら何とかザフエルの病室の前へとたどり着き、肩で息をしながらおずおずと声を掛ける。
「ザフエルさん？」
返事はない。
眠っているのか。
ニコルは気後れして考え込んだ。
せっかく眠っている病人を無理に起こすのはためらわれる。
普通ならいったん引き下がってまた後ほど改めて見舞いに訪れれば良いのだろうが、そうなればそうなったでこのばけつスープをどうすればいいのか分からない。これだけでも置いてゆくべきか、いやそれとも持って帰るべきか、冷えたら美味しくないだろうけれどもいきなり妙な置き土産をするのもどうかと……などとあれこれ思いわずらい、またまた情けなくなって結局がっくりと肩を落とし、すごすごと尻尾を巻いて逃げ帰ろうとしかけたとき。
「誰かいるのですか」
部屋の中からザフエルの声がした。
「あ」
ニコルはどきりとして立ち止まった。あわててとぼけたつもりが訳の分からないことを口走る。
「いえ、別に、誰もいませんけど」
「閣下」
思いも寄らず、内側から扉がこともなげに開けられる。
そこにいたのはほぼ軍装を整え終わった、いつも通りのザフエルだった。
「……え？」
ニコルはぽかんとしてザフエルを見上げた。
もう、元気になってる……？
ザフエルはそっけない眼でちらりとニコルを見やった。
「何か御用でも」
「い、いえ」
ニコルはとたんに真っ赤になりあわてて口ごもった。
いつの間にそんな元気に――と言おうと思ったとたん、はっとレゾンド大尉の台詞を思い出す。
――半休を願い出る、と。
「な、な、何でもないです、あの！」
ニコルはばけつを持ったままぎごちない笑顔を必死に浮かべ、後ずさった。
「ザフエルさんが、その、お熱だと聞いたのでだだだ大丈夫かなあって思っててそっそれでたまたまあの何ていうかホント偶然なんですけどちょうどここの真ん前を通りかかったもので、えっと、いやホント元気そうで良かったですホッとしましたああよかったじゃあ僕はこれでっ」
「お待ちなさい」
逃げだそうとしたニコルにザフエルが穏やかな声を掛ける。
「そのばけつは何です」
「うわっいやそのここここれはですねその単なるあの、へ、へ、変な液体です！」
ニコルはぶるぶるかぶりを振ってばけつを背中に隠そうとした。
「気にしないでください全然その、か、関係ありませんので、あの」
「妙な臭いがしますな」
「にっ臭いなんて全然しませんよ？ はははやだなあこっこれはですねえ、え、ええと、何だろう？」
しどろもどろに口ごもるニコルと、何やら不気味などろっとした緑の液体滴るばけつをそれぞれに一瞥し。
ザフエルは怜悧な眼をほそめた。
「我が領地近辺の庶民の間では風邪防止にとそのような野菜のスープを食す習慣があると聞いたことがあります――よってヒルデ糧食担当長ならば当然その煮込みのことを知っていてもおかしくないかと」
「え、そ、そ、そ、そうなんですか奇遇だなあっ……で、こ、こ、これは何なんでしょう？」
端整な口元がわずかな忌避をにじませてへの字に曲げられる。
「……青汁かと」
「へ、へ、へえ、そうなんだあ、いやあ勉強になりますねえやっぱりザフエルさんって物知りですよね何でも御存知で凄いなあさすがだなあっということでじゃあ僕はそろそろ」
「逃げなくても結構です」
しらじらしいお追従を並べ立てつつ後ずさるニコルへ、ザフエルはぴしゃりとするどい声をむけた。
無感動にばけつ青汁を見つめる。
「それを、私に飲めと」
「い、いや、その、あの」
ニコルは真っ赤になって口ごもった。
「ま、まさか！ 見なかったことにして下さい、その、もっと普通に作れたら良かったんですけど何だか分量を大量に間違っちゃったみたいでまあ何というかとどのつまりが手違いというか計算違いというかですね、いやはやよく考えたら全部持ってくる必要も理由もないじゃないかってまったくあはははは僕ったら何考えてたんだろうだいたいそんなことを言うならもっと早く持ってこいって話ですよねえほんと意味ないことばっかりしちゃって、あの、要するに……全然……」
ザフエルの視線に耐えきれずニコルはばけつを抱えてしゅんと小さくなった。
「……間に合いませんでした……あ、でも」
そこであわてて顔を上げる。
「良くなられて本当に良かった」
ニコルはすぱっと気持ちを切り替え、ぶるぶる頭を振ってからザフエルににっこりと微笑みかけた。
「僕、その、まさかザフエルさんが風邪引くなんて思いも寄らなかったから、あの」
頬をあからめ、口ごもる。
「本当に……その……」
「いえ」
ザフエルは目を伏せた。
「無用なご心配をお掛けいたしました」
「ううん」
ニコルはあわてて首を振った。
「風邪用の健康スープなんて飲まずに済んでかえって良かったというものですよ。ザフエルさんが元気になってくれたほうがずっと、ずうっとうれしいですもんね。うんうん、そういうことですのでこれはもうそのまま持って帰ってアンシュと二人で乾杯でもすることにしてみます。さてと、今度こそ失礼しま……」
「いえ、せっかくのお気持ちですから」
ザフエルは静かにかぶりを振った。
すっと手を伸ばし、ニコルをひきとめる。
ニコルは驚いて目を見開いた。
「え……？」
「一杯いただきます」
ザフエルはもう一度かぶりを振ると、落ち着いた仕草で小さなワイングラスを取って戻ってきた。
青汁を注ぎ入れる。
「ざ、ザフエルさん」
ニコルは思わず胸を突かれた。
なにやらどろどろした繊維の残った緑の液体が、宝石のようにきらめくグラスのなかにこんもりと盛り上がっている。
青汁入りグラス越しにニコルを見つめる、ザフエルの黒い瞳。
ニコルもまた、おずおずとザフエルを見上げる。見つめ合う眼と眼、期待と不安入り交じる、ときめきにも似た胸の高鳴り――
「では、頂戴いたします」
沈黙を破ってザフエルはグラスを上げた。
おもむろに口へと運び、くいとあおる。
そして。
なぜか。
ばたりと倒れた。
「うわあああんザフエルさんっどどどどうしちゃったんですかっ！ ザフエルさんっ！？」
真っ青になって駆け寄り号泣するニコルの呼びかけもむなしく、その後ザフエルは原因不明の腹痛により二日間寝込んだという。
（いったん終わり）
だが案ずることはない。腹痛に苦しんだ二日間、ニコルを完全に独占し献身的かつ手厚い看護をこころゆくまで堪能したであろうことは――
（ほら、ザフエルさん、ちゃんと食べないとだめですよ、あーんして）
（……）
（ザフエルさん、ぱじゃまのお着替え持ってきましたから）
（……）
（あ、あの、ザフエルさん、お背中拭きますので……ぬ、脱いで……あの、僕、う、後ろ向いてますから……き、気持ちいいですか……？ よかった……）
（……）
――改めて記すまでもないだろう。
おしまい。
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